『とにかく新聞を読め』という台詞は小生が若い時分に年長世代から何度となく強く奨められたことである。今でもテレ東のWBSのCMでは、商談を終えた後のビジネスマンを演じる俳優・長谷川某が『日経を読んでいたから助かったあ』などと話しているから、昔とナ~ンモ変わってないネエと、笑いたくもなる。
言う側はそう信じて言っていたのだろうが、言われる側は「自分がやってきて良かったと思うから、だから、お前もやれ!」と言っているとしか聞こえず、かつまた新聞社のマーケティングがここにあり、という感じもして、あまりいい気がせず、へそ曲がりの小生は馬耳東風で聞き流していたものだ・・・が、しかし、最近になって考え直すようになった。
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知識を身につけるには《耳学問》が最も効率的である。
特に、数理的なことは本を読むのがしんどいし、新しくて、しかも基礎的な概念を理解するのには時間がかかる。時には何年もかかったりする。一言で言えば、文字情報で新しい知識を習得するのは、非常に難しい。分かっている人から先ず話を聴くのが最も良い入門法だ。
但し、話を聴いてから、次に良いテキストを最低限1冊は始めから最後まで読み通す。必ず文字情報で読む。これが不可欠である。
話しを聴くだけでは実力にならない。耳学問が有効なのは入門段階、あとは何か壁にぶつかったタイミングだろうか。この辺の事情は知識、学問、芸術、スポーツ、すべて同じだと思う。
話しは単なる情報なのである。たかが情報、されど情報ではあるが、情報は知識と同じではない。耳で聴いた話を考えて、できれば早めに文字情報で補って、頭を使い理解し定着させて、知識として身につけることが出来るかどうかが決定的に大事だ。身につけて初めて問題解決にも使えるし、意見も言える、提案もできる。
この《知識形成のルーティン》がスキップされているのじゃあないか、新聞の衰退が関係しているのじゃあないか、というのが本日投稿のポイント。後は付け足しかもしれない。
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近年、新聞の発行部数が急減する一方で、YoutubeやPodcastなど配信メディアが情報源として急成長している。その理由は
その方が楽である。時間が節約できる。
この一点が理由のほぼ全体を占める(はずだ)。要するに
私、忙しいんですケド・・・
こんな社会背景が本質的であるわけだ。情報収集にばかり時間をかけられないという社会事情がある(はずだ)。
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祖父母や両親の世代は、確かにラジオはあったし、戦後にはテレビも放送を開始したのだが、やはり<新聞世代>であった。新聞と音声メディアとの違いは熟知していたし、音声メディアがラジオで何かを解説しても頭にはよく入らなかったに違いなく、自ずから限界があった。
亡くなった父は「朝日新聞」と「日本経済新聞」を購読していて、毎日、記事全体を精読していたものである ― ということは、毎日通勤する生活の中で、新聞を精読する時間を持てていたわけでもある。
祖父母の宅を訪れると、テーブルの上には「朝日新聞」と「愛媛新聞」が置かれていた。
少し以前の家庭ではありふれた風景である(はずだ)。
拙宅も今は新聞購読はバカバカしいので止めてしまったが、愚息が大きくなるまでは「日本経済新聞」と「北海道新聞」、それに加えて「朝日新聞」か「読売新聞」が入ることもあったが、複数の新聞が毎朝届けられていた。
両親の世代とは違って、小生はすべての新聞の全紙面を丁寧に読むようなことはなかった。
とはいうものの、新聞を読むという行為は、話を聴くという行為に比べると、遥かに主体的であって、例えば小生が尊敬する大先輩は<3行広告>や<求人広告>、<尋ね人>欄を丁寧にチェックするのが大好きだった。そこには時代時代の経済活動や世相が映し出されているというのだ。
世間の井戸端会議で盛り上がっている大事件について「あらまし」を知っておくにも、目の前にある複数の新聞の書きぶりを読んでおくのは、自分の認識を形作るうえで非常に効果的であるし、大事な事でもある。新聞社によって同じ問題を報じるにも予想以上に大きな違いがあったものだ。何をトップ記事にするかにも、編集側の観点が反映されるが、その違いは紙面の違いから誰でも簡単に見てとれるのが「新聞」という媒体だ。
Youtubeであれば、多くの人が同じ問題について、関係者の思惑や価値判断に影響されることなく、(おそらく)自由に話しているので、何人かの専門家(?マークがつくのではあるが)の話しを再生して聴けば、かなり有益であると思う。そして、これに要する時間は複数の新聞を読むのに比べると、ずっと短くてすむ。
新聞は、文字になるので、アカラサマな虚言は書けない。それでも書き手の主観は入る。しかし、その主観の違いは、複数紙を読み比べることで、誰でも簡単に読みとれるのである。その昔、産経は右翼、朝日は左翼と、誰でも簡単に見てとれた違いを、いま各TV局の各報道番組から、簡単に聴きとれるだろうか?最近もワイドショーのコメンテーターの虚言やMCの暴言をめぐって、電波に乗った発言で世間で騒ぎになることがあったが、発言の間違いと書かれた文章の間違いでは、明瞭性が違う。責任もまったく違う。この違いが情報としての確度、価値へどうつながっていくかは結構大きな問題だと思う。
人は、読むときには頭を使って読むものだが、話を聴くときは相手の話をそのまま聴くものだ ― 相手が一方的に話すのを考えながら聴くという動作は難しいものだ。
新しい知識を身につけるには、先ず分かっている人から話を聴くのが最も簡単だと、上に述べたが、それは一方的に聴くのではなく、疑問や不審な箇所を質問しながら、対話するのだ。
聴くという動作と、対話するという動作では、頭をつかう度合いが違う
極めて残念ながら、今の電波メディアで放送している情報番組では、ほぼシナリオ通りなのだろう、最初から予定された(かに見える)会話があるだけである。そこには対話性がなく、一方的で、従って「井戸端会議」ですらないわけだ。
これなら最初から虚構だと知れているドラマの方に客観性がある。外観と中味が乖離していないからだ。実にひどいパラドックスではないか。
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ミステリーの古典『シャーロック・ホームズ』を読むと、19世紀から20世紀初頭のロンドンという舞台で、新聞が果たしていた役割がよく伝わってくる。依頼される事件の捜査の前に、新聞各紙ではどんな情報が公表されているかを全新聞を(隅から隅まで)チェックして把握しておく。それから現場に足を運ぶ。こんな情景が繰り返し出てくる。
戦後日本の新聞全盛期において、大手新聞の発行部数は概ね600万~800万部といったオーダーであったろう。朝・毎・読・産経・日経を合計すると3千万部というところか。更に各地方紙がそれぞれの地方で読まれていたので、その頃はほぼ全ての日本人が、毎日、(何種類かの)新聞なる情報源に接していただろうという推測になる。
文字情報を読むというのは「頭を使う」動作の第1歩である。
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Youtubeなどの動画情報の拡大と文字情報の減少は、「読む」から「聴く」へのシフトになる。
これがご時世といえばご時世だが、そもそも書くよりは話すほうが遥かに簡単だ。中身のある事をしっかりと書こうとすれば、書くことをしっかり理解しておかないと文章にならない。それでも話しは適当に出来るものである。書かれた原稿なしの<語り>は低コストで出来る。誰でも知っていることだ。だから、人の話しを聴いて情報を集めるのは、話すほうも低コスト、聴く方も低コスト、時間的にも低コスト。ノリが軽くてすみ楽チンである。何だか現代という時代を象徴しているところがある。
例えば大学でどんな学科科目を履修するにしても、講義だけを耳で聴いて、その学科科目の内容を理解し、知識として身につけて、自ら使うレベルにまで定着させるのは、(多分)不可能だ。解説を耳で聴くだけでは、情報が耳に入っただけで、知識は形成されていない。知識になっていないから、認識も形成されていない。認識がないから考察できない。だから、(間違いであれ、正論であれ)自分の意見が形成されることもない。
つまり情報がその人の実力として定着していない。この辺の事は誰でも分かる側面だと思う。学問に限らず、芸術でも、スポーツでも同じことだろう。
何であれ出来ないことの理由は知識が身についていない所にある
というのは古代ギリシア哲学以来の基本命題だ。情報と知識を混同するのは、高校以降の教育が機能していない証拠である。
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(全盛期には広く読まれていた)新聞は、ともかくも「読ませる」媒体だった。頭を使うという動作を読者に強いた。この一点だけは、メディアとして改めて評価するべきだと思うようになった。
新聞が流行らなくなって、<効率的>な情報アクセスが<評価>されるようになる中、むしろ、個々人のマイクロなレベルで、社会的問題の認識レベルが劣化し、意見が幼稚化するとすれば、因果関係としてはこれもまた当たり前じゃあないか、と。そう思うようになったのだ、な。
そんな社会プロセスがいま進行しつつある。そう思っているのだ。
エッ、学校があるじゃないかって?
学校ですか。マ、先生たちは国が決める「学習指導要領」にそって賢明にやってくれているんでしょうけど、どうなんでしょうネエ・・・
ナニナニ、ビジネススクールがある?リスキリングが大事だ?
小生もビジネススクールでデータ解析の授業を担当していたが、半期2単位の授業量で効果ありますか?90分×15回で22.5時間。午前3時間、午後3時間の速習コースに置き換えると、22.5時間÷6時間になり「3日間&ワークショップ」と同じ分量だ。3日ちょっとで1分野1科目。新人研修と同程度かも。むしろ既に持っているスキルの錆をとる、だからつまり《リスキリング》なのだと思って聞いている。
「時代の流れ」というのは、学校でどうする、親のしつけでどうする、という問題を超えていると考えるのだが、いかに?
これでは、ニュービジネスと言っても、イノベーションと言っても、限られた少数の人材にしか期待できないナア・・・と。「生産性向上」が求められると指摘しても、それが出来る人的資源は育ってきていない。育てるシステムが整っていない。インフラの未整備を自覚できるほんの一部の人たちだけが、《知価社会》に適応し、豊かになれる理屈か。不平等が進むわけだ。何だか怖くもなる今日この頃でございます。
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