2022年10月29日土曜日

メモ: 日本経済の最大の問題を解決する・・・いま絶好のチャンスが来たのにネエ

 野球で1死満塁といえば絶好のチャンスだ。しかし、それでも確実に得点できるとは限らない。スクイズが失敗すれば、最悪の場合、ゲッツーで無得点。打ってもショートゴロ併殺でゲッツーかもしれない。安全なのは四球押し出し狙いが最も安全だが消極的に過ぎる。ここはリスクを覚悟して、強攻かスクイズか、指示を出すのが監督の役割である。野球は点をとって勝敗を競うゲームなのだ。点を取りに行くのを怖がってどうする・・・という理屈は最初からある。

いま日本が置かれている現状で日本国民の意見が分かれているわけではない。

  1. 海外では上がっている賃金が、日本では20年間ずっと上がらない ― 韓国にも抜かれてしまった。上げるべきだという点で国民の意見は一致している。
  2. 海外では金利を上げてインフレを抑えようとしているが、日本ではゼロ金利をずっと続け、金利を上げられないでいる。それが急激な円安を招いている。物価上昇の原因にもなっている。日銀は金利を上げるべきだ。この点でも、国民の意見は概ね一致しているかに見える。

賃金が上がらない。金利が上がらない。この二つが日本で大きな問題であるのは、ほぼすべての日本人で共有されている問題意識だと言ってもよい。

いま世界はインフレに悩んでいる。海外は例外なくインフレを止めようとしている。日本の国会でも『なぜ金利を上げないのか』、『お辞めになったらどうか』などと日銀総裁が責められている。TVのワイドショーなどでは『上がらない賃金、どうすれば上がるでしょうか?』などと連日のように話題になっている。

日銀が決断すれば金利は上げられる。実質金利は日本経済全体から決まってくるが、名目金利の引き上げなら日銀には可能だ。

それから賃金だが、これも名目賃金である。実質賃金ではない。実質賃金は一人一人がどれだけ効率的に仕事をしているかに依存しているので政府がコントロールするのは難しい。しかし、名目賃金なら上げられる。いま多くの企業では初任給が最低賃金スレスレになっている。だから最低賃金を上げればよいのだ。それにどう対応するかは民間企業側の創意工夫に任せるべき事柄だ。政府が命令したり、指導したり、配慮したりするべき筋合いではない。政府は政策実行の結果をみて、次の政策を考えるべきだ。

マクロ経済政策において、政府・日銀に出来ることは幾つかある。昨日「総合経済対策」で29兆円の財政出動(財政投融資分を含む)が決定されたが、確かに「財政」は政府に出来ることである。

しかし、賃金が上がらない、金利が上がらないという最優先の経済問題にどの程度効果的かといえば、所詮は電気料金、生活支援など小手先の対処策だと批判されても仕方がない。

行政府の長である総理大臣は、高校野球で言えば、監督に当たる。いま、金利を上げるように日銀と協議をする。最低賃金を今後引き上げていく方針を発表してそれにコミットする。これに反対する国民の声はまず(?)出ては来ないだろう。

インフレと円安を心配する国民の声が社会に満ちている今は、《賃金引上げ》、《金利引き上げ》を強行する《絶好のチャンス》ではないか。

最優先の課題をまず解決する。それに伴って派生する次の問題は、次のステージで解決する。

これがアメリカ生まれの品質管理(QE)の鉄則《重点志向の原則》の考え方である。

全ての問題を同時解決できる《名案》があったり、神速のスピードで全ての問題を瞬時に解決できる《天才》がいれば、それらに頼ればよい。しかし、名案も天才もないのである。

絶好のチャンスに打つべき手を打たないとすれば、

賃金引上げも、金利引き上げも、ヤル気がないってことですネ

と思わずにはいられない。

為すべき政策を既に20年余りも先送りしてきた。今回のイギリスが直面したような危機に現実に直面して初めて決断するという選択肢もあるが、英語を武器に世界のどこにでも移住して働ける英国人とは異なり、狭い国土で生活している大部分の日本人には国家的危機に陥ったときの惨めさがより痛切に感じられる。打つ手があるうちに手は打つべきだ、というのは何もプーチン・ロシア大統領のような脅しではない。真っ当なエコノミスト、経済学者がそう力説しないのは、世間の嫌われ者にはなりたくないという単純な理由からだろう。

日本に残された時間は長くはない。今回の世界的インフレは千載一遇のチャンスだ ― ひょっとすると、最後のチャンスかもしれない。

こう考えるのが本筋だろう。

ただ、実際に賃金、金利を引き上げれば、そのコスト増に堪えられない脆弱な企業は非効率な所から順番に倒産していくはずだ。

倒産した企業にいた従業員が人出不足の分野に移動していく。失業手当と職業斡旋システムを分厚く準備しておくことが大事だ。

このような《産業効率化》を日本は(追い詰められてか、政争の果てにか)何度かやったことがある。最初は大隈重信蔵相による放漫財政を否定して思い切ったインフレ抑制へと舵を切った「松方財政」。これは憲法草案をめぐる伊藤・岩倉と大隈との政争もあったし、西南戦争後の混乱に対応するという大義名分もあった。2回目は先日の投稿でも引用したが、浜口雄幸内閣による「金解禁」だ。そして3回目が昭和20年代のGHQ主導下で断行した「ドッジライン」である。その直後の朝鮮戦争による特需に生産面で対応できた背景としてドッジラインの中で進んだ産業再編を見逃すべきではない。

数は少ないが、これらの「荒療治」によって、日本の国内産業は苦難に満ちた再生を遂げることができたという前例は、現時点の日本人にとっての教訓でもあり、慰めでもあるのではないだろうか。要は

所得を増やしたいなら、何をすればいいか、自らが食える道を探していく

他にどういう言い方があるだろうか?同じ目的を達成するためのソフト・ランディング戦略が存在して、実行可能ならとっくに実行しているはずだと思うが、いかに?

さて、足元の話しになるが、コロナ禍で表面化した大きな問題は、日本の倒産件数が異常に減少しているという事実だ。大量のゾンビ企業が、大量の潜在的失業者を抱えて、一方では観光、運輸などの分野では厳しい人出不足に悩んでいる。同じ事実は広く認められる。

資源のミス・アロケーションとこれを調整できない日本経済システムの(ガチガチともいえる程の)硬直性は、コロナ禍が始まって以来、露わになっている。望まれる方策はもう明らかである。経済専門家の意見も(ホンネ部分では)一致しているはずだ。要するに「日本病」だ。最近も関連する投稿をしたが、同じ内容を繰り返すまでもない。

日本は社会主義ではないので企業、家計に細かい指示を出す計画経済は採っていない。政府は(法律で認められた)政策変数を操作するだけで、後は市場規律に期待する。自由経済体制である以上は、このやり方にシンパシーをもって、経済的成果を出していく。これが戦後日本の建て前である。ある意味、(どの国もそうだが)政府の政策が効果を発揮するためには、その国が前提としている<精神的基盤>、というか<気風>とも<エートス>とも言えるが、そうしたものに国民の多くがシンパシーを感じて、というか多数の人が社会を肯定して、自信をもって行動していくことが最大のキーになると思うのだ、な。そんな条件の下で政府の政策が有効に機能する。

反対に、国民心理が法制的枠組みの前提になっている価値観にシンパシーを感ぜず、疑問ばかりを感じてしまうと、政府が法の枠組みの下でいくら政策を実行しても、それが善い政策とは国民が感じない。不満をもつばかりになる。これでは政策の効果が出て来ないばかりか、不祥事やトラブルも続出してしまう。

英国のサッチャー元首相が「サッチャー改革」を開始する前後に言ったという

... they are casting their problems on society and who is society? There is no such thing! There are individual men and women and there are families  ... (出所はここ

これは結構好きで、本ブログでも何度も引用しているのだが、「自由主義」や「民主主義」を徹底的に突き詰めていくと、個人よりも先に社会という存在を前提しようとする精神的態度はどうも相応しくない。こう考えざるを得ないと思っている。 だから、主権をもっている国民と政府との関係は、

オーナーである国民と事務局である政府

つまり、ゴルフクラブの正会員と事務局の関係に近いものであるべきだというのが小生の立場である。ということは、何かコースが荒れて困っているとして、『事務局が何とかしてヨ」という姿勢はありえない。コース整備費の不足を補填する臨時会費のとりまとめを事務局が担当する。そんな仕事が政府の役割である。

そもそも政府は必要最小限の小さいサイズでいい。大体、弱くて小さい政府は巨額の国債など発行できない。強い政府だからこそ国債の大量発行が出来るのだ。日本もそうである。毎日ナンダ、カンダと悪口を言ってはいるが、それは好きだから言っているのであって、日本人は(心の底では)日本政府を信用している、身近の仲間、市民、同業者よりは政府を信用している・・・としか見えないのだ、な。だから巨額の借金をしてもそれを許している。しかし、強い政府を求める国民心理はなるべく早く治した方がいい。小生は本当にそう思っています。

マ、そういうことであります。


春夏の甲子園大会で、ベンチ入り可能な選手数を18名ではなく、30名に増やせば(やはり)喜ぶ選手は多いはずだ。しかし、実際に試合の中で起用されるのは30名全員ではない(はずだ)。ベンチに入るとしても実質的には外れている部員は多いだろう。そこで、もしも文科省が『学校教育の部活動ではなるべく多くの生徒にチャンスを与えるべきである』と、そんなコメントを出せば、現場の監督は実力に関係なく30名の中から順に打席やマウンドに送る部員を選ばなければならなくなる。確かに<公平>といえば公平、<良い教育>といえば良い教育だが、<日本の野球>を考えたときに失うものは大きいだろう。全ての目的を同時達成できる方法というのは、求めても得られないものである。

同じ論理構造は、色々な問題に当てはまる。

※ 初稿後加筆:2022‐10‐30、31


0 件のコメント: