島崎藤村の『破戒』といえば、今でも中学、高校の必読図書に挙げられているのだろうか?小生は相当のへそ曲がりだものだから、推薦図書に挙げられている内は読もうともしなかった。実際に手に取って読もうとしたのは随分遅くなってからだが、その時も主人公・丑松の性格がどうにも好きになれず、そのまま打っちゃっておいたものだ。
ところがこの夏に映画『破戒」がまた新たに公開されて、今の日本でこの作品が受け入れられるような感性、というか作中を貫いている問題意識が共感されるのだろうかと、そんな疑問があったから今度は真面目に読んでみたのだ、な。
それで感じたのは、確かに学校教師を舞台にした青春小説ともいえるこの作品は、今でも推薦図書になるだろうだなあ、と。つくづくそう感心した次第。島崎藤村が日露戦争後の明治39年(1906年)に自費出版した旧い小説ではあるが、一言で言えば、今でも通じる《現代性》をもっている。そう感じたわけだ。
感想文をここで書いておくのは面倒だが、
日本の「政治家」と言うのは、ホント、変わらないネエ・・・
そう感じた部分を引用しておこう。文中、当時の古い表現を今の日本語で使われている漢字、名詞、仮名使いに変えている個所が幾つかある。それはご勘弁ということで。
ああ、非常な財産があって、道楽に政治でもやってみようかという人は格別、私のように政治熱に浮かされて、青年時代からその方へ飛び込んでしまったものは、今となってみると最早どうすることもできません。第一、今日の政治家で「政論」に衣食する者が幾人ありましょう。実際、私の内幕はお話にならない。まあ、こんなことを申し上げたら、ウソのようだと思し召すかもしれませんが、正直なお話しが、代議士にでもして頂くよりほかに、さしあたり私の食う道はないのです。ハハハハ、何と申したって、事実は事実だから情けない。
選挙に立候補中の「政治屋」である高柳利三郎が丑松に都合の悪い事実を話してくれるなと頼みに来た時の台詞である。
文中「政論に衣食する」というのは、「自分の政治的主張を人々に語ることで生きている」という主旨であって、そんな代議士はほとんどいないということを言っている。
まったくネエ・・・、明治時代の「日本の民主主義」と令和になった「現代日本の民主主義」とを比べてみて、どこがどれほど進歩したのだろうかと、慄然として失望する日本人はかなり多いのじゃあないかと思ったりする。
「事実は事実だから情けない」と登場人物に言わせているが、都合の悪い事実でも赤裸々に書いているという点で、この『破戒』は「自然主義文学」の代表例に挙げられてもいるわけだ ― ここの文学的傾向の違いも明治と令和を比べた時の作家の気質、作家の社会観という面の大きな違いの一つだろう。
確かに生産技術はこの100年間で飛躍的に進歩したし、家、親族、家族、親子など風化、崩壊した社会慣行は多々あれど、日本の政治家の気質や感覚のコアの部分は、実は何も変化してこなかったのかもしれない。その意味もこめて
確かに『破戒』は現代日本にも通じる作品だ。
《差別》の具体的内容は変化してきたが、コアの部分は変わっていない。そんな感想を持った。
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