2022年10月15日土曜日

断想: 究極の選択というのはこれか?

夢をみた。何かあることで一人の人と論争していた。若い人であったかもしれないが、小生よりかなり年上の高齢者であったかもしれない。夢の登場人物はそもそも年齢不詳である。

小生: その価値観はあなた一人のものでしょう。

相手: これは守るという価値観を一つ決めなければ社会の体を為さんだろう。守るべき大事なものは守るんだよ!

小生: 相手の価値観はまた違うんだから仕方がないでしょう。戦争を止めることが大事ではないんですか?

相手: 妥協を目指す姿勢を敗北主義というのを知らないかい?

小生: 止めないともっとたくさんの人が死にますぜ。

相手: 崇高な目的の犠牲者だなあ・・・

小生: じゃあ、あなた、その大事な価値観のために率先して死んだらいかがです?率先垂範って言葉もあるじゃないですか。

ここで目が覚めた。

覚めてからもストーリーを覚えている夢は珍しい。

だけどなあ・・・と更に思った。

相手が『要するに、お前が最も大事に思っているのは人の命だというわけだな?』と駄目を詰めるように迫られたら、きっと返答に窮したろう。

人の命を最も大事にするなら、敵軍が上陸した時点で、いやいや、相手が日本に向けてミサイルを発射しようという姿勢を明らかにした時点で、直ちに降伏を宣言し、無血占領を容認して、犠牲者をゼロにするのが最も理に適うからだ。

しかし、そんな国民を世界の誰も尊敬はしないだろう。ただただ命を惜しむ人間ほど信用してはならない人はいない。信じては駄目だ。当たり前である。基本的人権などという美辞麗句は世界の現実の中では言葉だけの慰めであるに違いない―実際、現時点のリアリティはそれを伝えている。

死にたくない家畜と人も根っこは同じだと、そう割り切って軽蔑の眼差しの中で生きながらえるか、名誉を守るために命を賭けるかというのは、 古典古代の時代から何も変わっていない究極の選択肢である。


19世紀の幕末の日本人が「独立」を志した道と、21世紀の現代日本人が選ぶ道は、ひょっとすると違う道になるのかもしれない。

人間が人間であることの核心は

いやしくも「価値」と言うならそれは命を超えて大事である。そう認識できる点に人間が人間たる根源がある。

(何だかんだ議論するとしても)これが論理的な帰結になるだろう。ただひたすら「自分の命が何より一番大事です」と全員が考えるなら、人間は他の動物と同じになる。

だからこそ「究極の選択」というものに時に直面するわけだ。


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