2022年11月23日水曜日

断想: スポーツと政治の関係は変わるのか?変わった方がイイのか?

サッカーW杯が始まり今日はいよいよ日本対ドイツ戦がある。これから暫くはW杯一色になるだろう。

それはともかく、今回のカタール大会では《人権問題》がクローズアップされていて、「旧・西側陣営」は始まる前から敵対的であるし、一方でイラン代表選手が国歌斉唱に応じず国内政治への抗議の意を表現するなど、色々と紛糾しそうな動きが見られている。こうした動きに対して、主催者であるFIFAは選手による政治的行動を禁止するという旧来の伝統を守ろうとしているようだ。

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スポーツと政治は切り離すべきなのだろうか?それとも、スポーツと政治は関係づけられるべきなのだろうか?

小生は(これまでの投稿から窺えるように)全ての《ベキ論》に耳を傾ける程の関心を持たないことにしている。そもそも価値観は各自が自由に独立して持っていればよいものと思うわけで、故に他者の価値観には関心がないのだ。世間には民主主義者もいれば、君主制が善いと考える御仁もいる。ごくごく自然なことではないか。とはいえ、この《ベキ論》の行方によっては魅力あるスポーツ大会が円滑に開催できるのかどうかさえもが左右されてしまう。そう思えば、やはり無関心ではいられなく、ごく最近の「政治主導」の論調をみると、ここでもまた政治主導なのかと、つくづくと世相の行く末が心配されるわけである。多くの人が楽しみにしているスポーツ大会が何だか得体のしれない「ベキ論」で楽しめなくなるとなれば、それは世界の損失であろう。そんな世の中にはなってほしくない。

日本のTV番組では(例によって)

社会を改善したいという願いは人であれば誰でも持てるわけですから、大会の場で代表選手たちがそんな思いを表現しようと思えば、それを禁止するのはあってはならないと思います。

まあ、具体的な言葉は違うが、こんな趣旨の発言をするコメンテーターが多い。

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確かに、「民主主義」や「基本的人権」を尊しとなし、「戦後日本体制」が「最良な社会」であるとの大前提を置いてから発言するなら、専制的指導者による政治体制に抗議する行動を支持するというロジックになるのは分かる。

しかし、小生はへそ曲がりなもので、果たしてどうなんだろうネエ・・・とも思う。これはロジックになっているのか?


例えば、日本の代表選手が海外記者に対して

日本の皇室ほど下らない存在はありませんヨ!それと、日本の国会議員、アイツら何だろ?金の亡者、権力亡者。もう消えていなくなってしまえばいいと思います。早く民主的な大統領制に移行してほしい・・・

例えば、こんな風な主旨の発言を(普段使っている外国語で)するとして、この発言が日本でも報道されたとする。それでも「政治的にどんな信条を持つかは自由であるし、それをスポーツ大会の場で表現しても、それはそれで当然持つべき権利ではないですか」と、日本社会は反応するだろうか?

要するに、足元でカタール大会に寄せられている声は

人権を尊重する我々の価値観は正しい。だから、我々の声を封じる姿勢は間違いだ。私たちの言うことを聞け!

と主張しているわけで、つまりは

私たちが正しい!

言いたいことはこの一点である。しかし、イスラム教にはイスラム教の教義があり、信仰を原理とすれば、容認できない思想もあるわけで、そうした立場から何か発言するとすれば

私たちが正しい!

こんな主張になるのは当たり前で、こんな簡単な理屈は小学生でも分かるだろう。

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だから、スポーツ大会と政治は関連しあっていて当然ですと主張するなら、

大会の場で選手たちが互いの政治的価値観や宗教的価値観をぶつけあっても、それは互いの権利です。

こんな結論にならざるを得ない。

主張をぶつけあうのは自由だが、科学とは異なり、決着がつくはずもなく、結論が出る可能性などないのである。

自分の価値観は主張してもよいが、対立する価値観を敵方が主張すれば、そんな主張は不適切であると言うのは、それこそ韓国でいう《ネロナンブル》

私がすればロマンス、他人がすれば不倫

清々しいほどの《ダブル・スタンダード》になる。

本当にこんな論争をしながら、ゲームが続行できるのだろうか?スポーツ大会ではなく、国際会議など論争を展開するのに適当な場が他にあるのではないか?

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そもそも価値観とは共有できないものである。全人類が一つの宗教に統一される日は(おそらく)来ることはないし、一つの価値観で統合される日も来ることはないだろう。

古代ギリシアで4年ごとに開催され続けた「古代オリンピック」では、現に戦争中である敵対国同士であっても大会期間中は休戦し、代表選手を送りあったものであるという。この一点だけは価値観を共有しあったわけである。根底にあったのは、同一民族から発祥したという「神話」、「伝説」、というか「記憶」であったに違いない ― マア、何年振りかの「法事」に集まる「親族」の感覚に似ているかもしれない。

この古代ギリシアのひそみに倣うと、スポーツ大会と政治を切り離す姿勢は、例えば《全人類はそもそも一つ》といった根底的理念の共有がなければ、貫徹すること自体が難しいだろう。

難しいが、それでも小生は《一つの世界》を信じて、祭りに人が集まるようにして、政治とスポーツを分離できていた時代を《古き良き時代》であったと信じる立場をとる。

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実際には、いま生きている現代世界で人類を統一する程の高邁な理念はない。思い起こす程の「記憶」も薄れてきた。人類の祖先は元々同じという感覚が共有されてはいない。今後も世界は決して一つにならないだろう。だからこそ、戦争も起これば、テロもある。そんな中、「民主的に選ばれた政治家」や「指導力のある政治家」がいつの間にか権威を高め、何にでも口を出してもよいと思い込むようになっている …。「政治」にそんな役割は元々許されてはいなかったはずなのに …。

どう贔屓目にみても、欲とカネに塗れた政治家の説教よりは、伝統的な信仰がよほど深く人の心を動かす、という人が残っていても決しておかしくはないだろう。

人間社会の発展に、政治家を自称する人物達による《政治》という行為がどれほど多くの遺産を残してきたかと問えば、多分、よく見積もってプラスマイナス・ゼロである。世界を発展させた政治的決断もあったろうが、忌まわしいほどの政治的失敗も犯してきた。いま私たちがおくっている豊かな社会は、優れた政治家がいたお陰で実現できたわけではない。現在の豊かな世界は《知識の増大》によって得られたものだ。そこに政治家なる人々は参画していない。これだけは明確に正しいと言える認識だ、と。そう考えているわけだ。政治家や政治的主張など、所詮はその程度のレベルだと言えば、どんな人たちが怒るのだろう?

なので

そもそも自ら信ずる「政治的価値」を主張するなど幼稚であるし、政治主導などというのは、政治家だけが(自らの都合から) 主張している、とんでもない妄言だ。

この点だけは、自信をもって確信しているのだ、な。

故に、スポーツ大会の運営に政治を持ち込むべきではないし、政治家は政治的発言を一切するべきではない。出場する選手たちも同様にするべきだ。この《分離原則》は対立している両側に公平に適用されるべきである。そう思っている。




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