毎週日曜になるとサンモニを視る習慣がずっと続いている。具体的な点では、流石に感覚の古さに辟易して異論を感じる時が増えているのだが、全体としては(まだなお)大いに気に入っている。
今日は姜尚中氏がコメンテーターとして登場していた。
氏を視ていると、小生がずっと若い時分、昭和もまだ50年代から60年にかけての頃には数多く残っていた《進歩派知識人》を思い出してしまうのだ。現代日本人の間からはとっくに死滅(?)したと思われるその種の人達の佇まいが、韓国系の学者の発言や風貌には濃厚に残っているのを目にするのは、どこか淋しく、寂寥感が胸に迫るのを感じる。
漠然とした言い方だが、同僚などをみていて感じるのだが、韓国人は「変わらない」ところがある。というより、「変わるまい」という気骨が日本人よりは強い芯として通っている。悪く言えば「頑固」で「気難しい」のであるが、フワフワとしたところがない。日本人は、反対に(韓国人に比べると)「変われる」ところが長所かもしれない。変われるというのは、原理・原則がないからなのであるが、利益にならない原理などは空理空論だと割り切れるところが長所と言えば長所である。
韓国を相手にすると「ゴールポストが動く」などとボヤく向きがあるが、それは政府を相手にしているからで、政権交代に伴って政策が左右に激しく振れるのは韓国だけではない。むしろ、変われる日本人が変わろうとしても変われない政権を(意に反して?)保ち続けている方が異様だと小生は思っている。
それはともかく、姜氏が話していた中に
トランプが出てきたのがアメリカの問題なのではなく、アメリカに問題があるからトランプが出てきたのです。
という主旨の指摘があったが、感覚をロジックで包んで語るありようは、その昔の「進歩派知識人」の語り口そのままである。
よくアメリカ社会を分断する問題点として「妊娠中絶」を認めるか、認めないかがとりあげられる。日本人は条件反射的に
妊娠中絶は基本的人権の一つだ
こんな風な結論を条件反射的に出すのだがキリスト教では中絶を容認できる余地はない。普通の人が先祖伝来の宗教感情から完全に卒業するのは難しい。これは「変われない」ところの一例だ。つまり「妊娠中絶」は権利の問題と言うより宗教対立が本質だ。だからこそ「議論」が社会の安定のためには必要だ。「価値観を共有できるか出来ないか」の問題にしてはならない。
日本の「進歩派知識人」が退潮して、エゴを包むことなく露骨に出し始めたのは、やはり石原慎太郎が政界に進出して様々の意見を口にするようになってから以降のことだろうと思う。論敵と論争するのではなく、相手を罵倒したり、ヤジったり、黙らせる手口を敢えてとることで、議論のルールを変えていったところがある。
石原都知事が
尖閣諸島を東京都で買い取る
と正に行動をしかけようとしたタイミングで時の野田内閣は国有化を断行したのである。確かに、日本政府は稚拙な対応をしたものだと今になれば悔やむ人も多いのだろうが、
石原氏のような人物が日本で喝采を得たのが問題なのではなく、日本社会に問題があったから石原氏のような人物が力を持てたのです。
こう言えば、姜氏と同じく、その昔の《進歩派知識人》の語り口に近くなるだろう。
結論には価値観が関係するので姜氏の主張に賛成することは多くはないが、論争するとすれば多分面白い論争が出来そうだという人物類型が、ずっと以前の日本には確かに数多くいたような気がする。
ものいえば くちびる寒し 秋の風
最近の世相が良いと感じる日本人は少ないのではないか。世相を形成するのは、政治家もそうだが、マスコミも関係している。政治とメディアの関係性に問題が生じているという認識は(日本については)正しい(はずだ)。力量が劣化しているというのは簡単だが、これまた
政治とメディアに問題があるから日本社会に問題が生じているのではなく、日本社会に問題があるから、政治とメディアの関係性にも問題が出てきている。
社会現象は、社会のメカニズムとして理解するのが、科学的思考である。そのメカニズムを語れる人は(多分)いま日本の中にはいないのだろうネエ・・・
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