先週末、久しぶりに船橋にある両親の墓にカミさんと一緒に墓参りし、そのついでに津田沼で暮らしている若夫婦とちゃんこ鍋を囲んだ。
両国界隈には詳しくないので一目で分かる『霧島』にしたのだが、3年前に昼食をとった時に比べると、今回は大味に流れ、別の店にした方がシッポリとしてよかったかと、やや悔いもある。
いずれにしても下の愚息と話すのも久しぶりだ。この春先から秋までタップリと働かされたようで疲れがたまっている様子でもあった:
小生:仕事は気に入っているのかい?
愚息:まあネ・・・
小生:前にさ、ヒトの人生を左右するかもしれない仕事を、楽しんでやるなんて、そんな姿勢はダメだろと言ったのは覚えているか?
愚息:うん、覚えてるよ。
小生:だけどネ、自分が生まれながらに持っている素質とか、適性とか、才能と仕事の内容がピッタリと合ってると、何と言われようと仕事が楽しいという思いが自然にわいて来るもんだ。これ正に「天職」って奴だな。そんな仕事は他にはないかもしれないよ。大事にするんだな・・・
小生は小役人から出発したが、役所在勤時代を通して、仕事が楽しいと思ったことは一度もなかった。やりがい、達成感、等々、色々とプラスの思いを持つことはできたが、出勤する平日よりは休める週末の方が遥かに楽しかったものだ。役人仕事は小生には向いてなかった証拠である。
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亡くなった父は一生を現場のエンジニアとして生きたが、自らの職業人生に満足していたのだろうか、と 思う時がある。
父はあるニュービジネス起ち上げの現場責任者となって事業提携先に出向して、3、4年間は苦闘したのだろうか、もう何年も前に投稿したように、体調を崩して心身を病み、挙句の果てに癌を患って人生を終えることになった。だから、父はビジネス戦士の最前線で討ち死にしたのだと思ってきた。
ただ、最近になってから、父はそのこと自体を悔いるような心情ではなかったかもしれないと思うようになった。
前にも引用したことがあるが、
人生、意気に感ず
功名、誰かまた論ぜん
父は、この初唐の政治家・魏徴の詩「述懐」の最後の一句が大好きだった。また、父の座右の銘は
己信じて直ければ、敵百万人ありとても我ゆかん
という「日蓮」の名句だった。
そういえば、日本史の方向を変えた暴走劇「満州事変」を主導した参謀・石原莞爾は熱心な日蓮宗信徒であったそうだ。大正から昭和初期のある時期、日蓮宗の思想が日本国内で影響力を広めていたのだろう。
ただ、確かに父は「日蓮の・・・」と話していた記憶があるが、どうやら上の句は吉田松陰が発した言葉として広まったらしくもあり、更にその原典を問うと松陰による孟子解題とも言える『講孟箚記』がベースとする孟子であるわけだ。
孟子から日蓮にどうつながっていたかはもう分からない。
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どちらにしても、父の、というより父の世代は《行動主義》を信じていた。父が好きだった『人生、意気に感ず』も言葉を変えれば
理屈はどうでもいい!
という意味で、議論よりも行動を賛美する言葉だ。そこには道理とか、理屈が入る余地はない。まさに《志》あるのみ。そもそも幕末に活動したのは「志士」であって、「演説家」ではなかったわけだ。
だからという訳ではないが、父は家庭を顧みない所が濃厚にあった。父の世代の多くの人はそんな価値観をもっていたように思う。第一、そんな父の考え方を肯定している母がそこにはいたのだから、男性が横暴で、女性が抑圧下にあった、という情況でもなかったのだ。
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小生は父に比べると、行動ではなく、理に走った人生を歩いて来たように思う。
遺された母や、母も亡くなってから家族だけで過ごしてきた小生の家族や、「守りたいモノ」を意識すると、行動主義ではなく、理性主義をとってしまうのではないだろうか。不合理なことは避けながら、健康には留意しながら、無理は避けながら、安全に無難に仕事と家庭との両立を求めてきた。これが小生の人生の主動機であった。こう総括できる。
頻繁に引用しているように、最も合理的に生きようとすれば、命を大事に、死を怖れ、危ないことからは身を避ける、そんな人生を選ぶものである。
人生、意気に感ず
とは真逆の生き方である。
そして、いま下の愚息に向かいあう時、自分が歩いたような人生をそのまま単純反復はしてほしくない、そんな気持ちを感じている自分がいる。
前にも投稿したように
要するに、死ぬか生きるかになれば、ほとんどの人は生きたいと願う以上、生き延びる方策のほうが正しく、死に急ぐほうは間違いだということになる。だから生き延びたほうが正しかったという理論がつくられ、事後的に死んだ方は間違っていたということになってしまうのだ。それは仕方がないことだが、真の意味でいずれが正しいかということは別にある。
こう考えると、担当した仕事が結果的にうまく行かず、それが一つの原因になって寿命を縮めたからと言って、父は必ずしもそのことで後悔していたわけではない。遺された母も、だから父を恨んでいた、というわけでもない。そう思うようになった。むしろ、「理に適ったこと」ばかりをしようとする小生に言いようのない不満を感じていた。こちらが真相であったのかもしれない。
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