2022年11月27日日曜日

読後感想: 小林秀雄~民主主義~目の前の生活について

いま日本にいる《知識人》の間でどんな問題意識に関心が集まっていて、人気のあるテーマになっているかと言えば、ヤッパリ「民主主義」と「経済政策」の二つだろうと思っている ― 実際に「知識人」と自覚して、同時に「知識人」と国民から認知されているような人がいるかどうかが分からないところだが。

小生も「民主主義」というテーマは書くのが大好きだ。その昔、職場で大きなショックを受けてから、何度も投稿してきたように、ずっと持ち続けてきた問題意識である。

いま読んでいる本の序盤のところにこんな下りがある(段落など多少変えた箇所がある):

日本に生まれたという事は、僕等の運命だ。誰だって運命に関する智慧は持っている。… 自分一身上の問題では無力なような社会道徳が意味がない様に、自国民の団結を顧みない様な国際正義は無意味である。

僕は、国家や民族を盲信するのではないが、歴史的必然病患者には間違ってもなりたくはないのだ。日本主義が神秘主義だとか非合理主義だとかいう議論は、暇人が永遠に繰り返していればいいだろう。いろんな主義を食い過ぎて腹を壊し、すっかり無気力になってしまったのでは未だ足らず、戦争が始まっても歴史の合理的解釈論で揚げ足の取りっこをする楽しみが捨てられず、時来れば喜んで銃をとるという言葉さえ、反動家と見られやしないかと恐れて、はっきり発音出来ないようなインテリゲンチャから、僕はもう何物も期待することは出来ないのである。

実は、この下りは小林秀雄の『戦争について』(中公文庫)の1節であるのだが、元の原稿は日中戦争が始まった昭和12年に書かれ、当時の雑誌『改造』に発表されている。読みながら三島由紀夫を連想してしまいました。それほど言おうとしている(内容ではなく)調子が(この部分だけを読むと)重なって見えるし、そもそも文章の流れが似ていると感じたのだ。親子ほどの年齢差がある二人だが、「同時代性」というのは、ヤッパリあるのだろうか?

そのあと

歴史的弁証法がどうの、現実の合理性がどうのと口ばかりが達者になって、たった今の生活にどう処するかについては全く無力である。

 こんな内容になると、三島由紀夫を通り越して、石原慎太郎の風貌を思い出したりしてしまう ―  村上春樹や東野圭吾を連想することはない。

どうやら兵役の義務が定められた社会で育ったらしく、作家といえども社会的関心は現代作家と比べるべくもなかった、と。そう言えるのかもしれない。

しかし、小林の言う

たった今の生活にどう処するか

という問題こそ、正に昭和初年から10年代にかけての時代に、日本の陸軍がその頃の支配階層であった(はずの)政党政治家よりも痛切に感じていた「政治的課題」であったはずで、確かに「今の生活」が世界の中で最重要な問題だとみなす立場もあるわけだ。

これこそ《民主主義》だと言えばその通りかもしれない。

が、これだけで終わりになると、「危険な民主主義」という結果が待っていそうだ。社会を不安定にして、多くの人たちの幸福を奪う民主主義には価値がない ― 実際、「幸福」以外の政治的大義はありうるのか?あると言う人からは、それは何かと聞いてみたいものだ。

一口に民主主義と言っても、アメリカの民主主義、イギリスの民主主義、インドの民主主義、中国の民主主義(?)―共産主義は民主主義の1類型だと見なされる―そして、日本の民主主義と、決して一色ではなく様々で、まさに国は色々、ヒトは色々といったところだ。

愚息と話すとき、小生は日本の民主主義を支えている3本の柱を話すときがある。その三つは

アメリカ、皇室、自民党

の三つで、この3要素が相互依存的に政治的支配力として働いているのが、即ち「日本の民主主義」だと思っている。つまり、それぞれが他の二つを必要としており、どの一つを欠いても、「戦後日本」の民主社会は危機を迎える。本質はこうだろうと観ているのだ、な。

アメリカは皇室(=天皇制)を日本のソリダリティ(≒社会的統一性)を支えるものとして必要としている。これはかつてイランのパーレビ王朝を支えたのと同じロジックである。日本の皇室は(露骨に言えば)アメリカ(及びイギリス)を必要としている。同時に、出来れば保守政党(≒自民党)を必要としている。アメリカ、皇室から必要とされていることこそ自民党と言う政党が存続しつづける存在理由(=レゾンデテール)になっている。

日本の民主主義を議論したり、批判することは自由だが、実際にこの基盤を変革しようとする勢力が登場すれば、誰でもなくアメリカ政府がその動きを潰そうと行動する。

であるが故に、戦後日本という「体制」は、部分的には朽ち果てつつあるように見えて、現実的には強固なのである。

強固、即ち「シッカリしている」。そう理解して、あとは個人、個人が自分の可能性を実現しようと、何を心配することもなく、努力を続ければよい。そう割り切れる幸福な時代をいま日本人は生きているというのが、小生の歴史観、というか個人的立場なのだが、残念ながら多くの人と共有できているわけではない。

それにしても、世間ではいま

民主主義国=先進国

非民主主義国=後進国

こんな風に、まるで国教と邪教、というより善と悪とでもあるかのように、こんな2分類がまかり通っているが、ただ一言「阿呆の象徴」だと思っているわけだ。大体、善と悪の判別など、50年もたてば世間の大勢が変わっているのが現実の歴史だ。

上に述べたように、民主主義といっても国は色々である。

民主主義という先進性、非民主主義という後進性

言いたいことはこうであるのだろう。そして先進性が後進性より勝っていれば、その国は民主主義国である、と。そんな思考法なのである。

しかし、歴史を振り返れば、古代から中世、中世から近世、そして現代と、民主性と絶対権威性の度合いは一つの方向に変わるわけではなく、行ったり来たり、上がったり下がったりしながら、国ごとに異なりながら、進展してきたのが現実だ。だから、過去は非民主的で、現代は民主的であると一概にいう事は出来ない。そこには進化などはなく、単なる変化があるのみだ。

先進的~後進的という尺度を適用可能な対象は、例えば科学技術水準である。確かに、《知識の蓄積》は単調増大的である。なので、知識の成果である《生産性》の高低には先進的~後進的という言葉を使用しても可という理屈はある。しかし、〇〇主義の先進性いかんについて論じても、異なった価値観から異なった結論が複数出てくるだけで意味はまったくない。

本当は、順序を逆転して

先進性とは民主主義のことをいう。後進性とは非民主主義のことをいう。

いわば「特定の政治体制」を採用しているグループが自陣営を善しとするための政治的主張として聞くべき発言だと思って聞いている。


こんな風に考えているものだから

日本は確かに民主主義的であるが、一体、これのどこが先進的であるのか?知っている人がいれば教えてほしい。

正直なところ、そう感じているのだ。



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