先日、J‐アラートが(事後的に)誤報を出し、後で修正したというのが、メディアでは結構な素材になると意識されているらしく、予想外に盛り上がっているように見える。
「警報がなったからといって、私たちには何が出来るのでしょうか?」とか、「日本人には危機感がないと思います」とか、マアとにかく、色々な人たちが色々と思いつくことを発言している。
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ただ、少しだけでも考えてみたらいいと思う。北朝鮮かもしれないが、あるいはその他の敵国から日本に向けて本当に弾頭付きのミサイル(弾頭を搭載していればもはやロケットではなくミサイルだ)が発射されたと仮定する。
当然、J‐アラートが出るだろう。
迎撃に成功すれば日本領土内には着弾しない。失敗すれば、どこかに着弾して犠牲が出る可能性が高い。
一つ言えることがある。
迎撃成功にせよ、失敗にせよ、ミサイルがこの1発のみであるなら、ほぼ確実にこの事態は何らかのアクシデントであると小生は思う。故に、不慮の、かつ不幸なアクシデントについて、発射国との間でどんな外交を進めるのかが問題になる。防衛省ではなく外務省の仕事になるはずだが、何かシミュレーションはしているのだろうか。これが問われるべき問題だ。そんな時、J‐アラートは機能したのかどうかという問題が、何をさておいても最重要な問題になるだろうか?
次に、アクシデントではなく、文字通りの戦争行為として日本にミサイルを発射したのだとしよう。その場合は、ミサイルは1発だけではないはずだ。数多くのミサイルが複数の国内都市を目標として発射されるはずだ。数10発のミサイルが短く考えても1週間ないし2週間の間は高い頻度で発射され続けるはずだ。平和な状況で設計した「J‐アラート」が本当の戦争状態の中で機能するのだろうか?本当にこんな戦争事態になれば、役に立たないと思うのだが、どうだろう?こんなケースで話すべき事は、日本は反撃するのか?どう反撃するのか?日本の交戦権についてどう認識するのか?現行憲法を停止するのか?こんな問いかけになるに違いない。
要するに、メディアが面白がって(?)話している「J‐アラート」という話題は、何だか極めて恥ずかしいレベルに感じてしまうのだ、な。
呑気も度を超せば不真面目になる。国防上の事柄を公共の電波を使って不真面目に語るべきではないだろう。
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そもそもこの半年余りの間、戦争状態の中の一般住民のありようは、ウクライナ報道を通してほぼ全ての日本人に向けて、《視覚化》されて来ている。戦争の現実を丸ごとではないにしろ、平和な日本人に堪えられる範囲内で、映像は何度も放送されているし、ネットで動画を見ることもできる。ミサイルが着弾した大きな穴も、建築物に命中した際の破壊の度合い、壊された外観も見た人は多いはずだ。
そうした中でも、ロシア軍のミサイル攻撃が毎日続いている中で、ウクライナの首都・キエフや大都市・ハリコフの住民は、買い物に出かけたり、近隣を自転車で走行したりしている。外国人特派員によるインタビューに応えていると、近くにミサイルが轟音と共に着弾して、首をすくめたりしている。もちろん恐怖はあるのだろうが、生きていくには食事も必要だ。そんな「戦時の市民生活」の風景が淡々と流されていたのを多くの人はまだ覚えているはずだ。他国との戦争が始まってミサイル攻撃を受ければ受ければで、あれが日常となるのである。そんな日常化した毎日の中で役に立つJ‐アラートこそ(あるとしたら)あるべき「警戒警報」というものだろう。
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確かに不幸である。しかし、ヒトは環境に順応する。ウクライナの人が順応したように、万が一、日本国内で戦争状態が現実になったとしても、日本人は順応するだろう。
ほろび行く 国の日永や 藤の花
戦いに 国おとろえて 牡丹かな
終戦後の昭和21年5月、永井荷風が詠じた俳句である。平和を守ることが鉄則である。しかし、戦時には戦時に日本人は順応する。敗戦の中でも人は俳句を作るのだ。J‐アラートのあるべき姿がどれほど大事な問題か。正直なところ、
今はあんまり関心ねえなあ
こんなところだ。敗戦直後の日本には強烈な敗北感、喪失感が蔓延していたであろう。しかし、小生の両親は20代前半をそんな「戦犯国」で過ごしながら、その当時のことを思い出したくもない過去の時代として記憶していた様子でもなかった。思い出話しを聴いた限りでは、役にも立たない「空襲警報」に振り回され続けた毎日がこれで終わったという安堵感のほうが、より強く心に残ったのかもしれない。
上の荷風の句は、詩的心象の表現というより、
それでも人生は続いた
こんな当たり前である事実をそのまま写生したものとして読む方がよい。
そんな、こんなで(地震速報と類似の政府サービスの意図なのだろうが)「J‐アラート」を話題にしても、「お疲れさん」という程度のことで、どうもサッパリ入っていけない自分がいたりするわけだ。
北朝鮮がミサイルを発射しようが何だろうが、
日本は平和である
平和を大前提とする。故に、飛んで来たミサイルは平和な日本への闖入者である、こう認識する。戦争手段であるミサイル攻撃にどう対応すればよいのかではなく、アラートをどう流せばよいかを考える。こんな問いに頭を使う。アラートの次のことは考えない。実に呑気で、矛盾に満ちているではないか。これまた《平和ボケ》の典型だと思う。
結局のところ、<戦争状態=交戦状態>を前提することが理屈として出来ないところが現行憲法の本質的欠陥であると思うのだが、この問題はもう国会で解決済みなのだろうか?どう解決しているのだろう?日本は他国と交戦できる、自衛戦争なら普通に戦争が出来るという解釈で決着しているのだろうか?そうは思っていない日本人は多いと思うのだが。
J‐アラートを話すなら、こちらの問題の方が遥かに大事だと思うのだが、いかに?
【加筆】2022‐11‐10
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