英国の数学者にして哲学者であったバートランド・ラッセル( Bertrand Russell)は、本ブログでも何度か話題にしているが、少し前の時代(今でもそうかもしれないが)の英語の入試問題では、再頻出の文筆家であった。いま読んでも「知性」を象徴するような人であったことは明らかだが、先日、古い本をとりだしていたところ、湯川秀樹の『本の中の世界』があった。もうずっと前に読んだ記憶があって、湯川博士といえば「荘子」を連想する程度の記憶しか残っていなかったのだが、やはりというべきか、『ラッセル放談録』がとりあげられていた。
但し、Amazonで<ラッセル放談録>を検索しても、かかっては来ず、これは"Bertrand Russell Speaks His Mind"という本にその場限りの和名を付したものであったことを筆者が断っている。いま読むなら、「バートランド・ラッセルのポータルサイト」の湯川秀樹コーナーが便利である。
その中にこんな下りがある。インタビューアーとの対話形式になっている:
ワイヤット「ラッセル卿、哲学とは何でしょうか」
ラッセル「そうですね、それはひじょうに異論の多い問題です。あなたに同じ答えを与える哲学者は2人といないだろう、と私は思います。私自身の見解は「哲学とは、正確な知識がまだ得られない事柄についての、思弁から成るものである、」というのです。それは私だけの答えであって、他の誰の答えでもないでしょう。」
ワイヤット「哲学と 科学との違いはなんですか。」
ラッセル「そうですね、大ざっぱにいって、科学とは私たちが知っているところのものであり、哲学とは私たちが知らないところのものである、といってよいでしょう。それは簡単な定義であり、また、そういう理由によって、知識が進むにつれて、いろいろな問題がつぎつぎと哲学から科学へ移されてゆきます。」
ワイヤット「それなら、何事かが確立されたり、発見されたりすると、それはもはや哲学ではなくなり、科学になるのですか。」
ラッセル「そうです。そして、哲学というレッテルがはられてきた、いろいろの種類の問題に対して、今日はもはや、そういうレッテルははられなくなっています。」
ワイヤット「哲学にはどういう効用がありますか。」
ラッセル「哲学には、実際、2つの効用があると私は思います。1つはまだ科学知識にまでなり得ない事柄についての、生き生きとした思弁をつづけることです。結局のところ、科学知識は人類が興味をもち、また、持つべき事柄のごく小さな部分しかカバーしていません。とにかく現在のところ、科学はそれについて、ほとんど知っていないが、しかし、ひじょうに興味のあることが、ひじょうにたくさんあります。そして、私は、人々の想像力が、現在知り得ることだけに限定されるのを望みません。世界についての想像的見解を、仮説的領域にまで拡大させるのが、哲学の効用の一つだと私は思います。しかし、これと同じくらい重要な、もう一つの効用があると思います。それは、私たちが知っていると思っていて、実は知らない事柄があるということを示すという効用です。一方では、哲学とは将来、私たちが知ることになるかもしれない事柄について、私たちに考えつづけさせることであり、他方では、知識らしく見えるもののどんなに多くが、本当は知識ではないということを私たちに気づかせることです。」
ラッセルの言う哲学と科学の境界
大ざっぱにいって、科学とは私たちが知っているところのものであり、哲学とは私たちが知らないところのものである、といってよいでしょう。それは簡単な定義であり、また、そういう理由によって、知識が進むにつれて、いろいろな問題がつぎつぎと哲学から科学へ移されてゆきます。
この箇所だが、同じラッセルが著した『西洋哲学史』の冒頭の説明
本書でわたしのいう哲学とは、神学と科学との中間に立つあるものである。
この表現とは少しニュアンスが違うような気がする。ただ、神学と哲学を分けるものは、哲学が科学と同じように、人間の理性に訴えるところである、と。ここは上の湯川秀樹の記述と重なっている。ラッセルは、あくまでも「理性の人」であったことが分かる。
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宗教について、最近、感心したのは遠藤周作の短編『夫婦の一日』だ。この中の下り:
「俺の体が心配だったからと言って、そんな占師の言う迷信などを信じるのか」 「だって、次々と悪いことが続くでしょう。だからAさんがよくあたる占師のところで見てもらおうって……」 「曲りなりにも俺たちは基督教信者だろ。恥ずかしくないかね。そんな男にだまされて」
・・・
妻も、今日、同じような顔をしながら占師の家で自分の順番を待っていたのだな、と思った。その顔は我々の持つ最も愚かな面と最も低級な意識のあらわれのような気がした。そして妻がその愚かな、低級な部分をむき出しにしたと考えると、言いようのない疲労感が胸に拡がった。
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妻は私と結婚したあと、カナダ人の神父さんから洗礼を受けた。もっともそれは、私への義理と妻としての義務感から行ったものだったかもしれない。
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「あなたみたいにカトリック以外の宗教を無視する育ちかたはしていないんです。実家の父も母も観音さまの信者だったから、私も観音さまを今でも拝む気持は捨てられません。方たがえだって迷信だ、迷信だと思えないんです」
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何かを信じるというのは、人間社会にとって大切である ― いまは「天皇」ではなく、「民主主義」が最も大事だと(ほぼ全ての?)日本人は信じている(はずだ)。
ただ、何かを信じるということは、それを信じている人の信念に背くことは原理的に否定する、そんな態度につながる。そういう生き方が愛する人に対して時にむごく振る舞う理由ともなる。大切なものを信じるのはいいが、結局、不幸をもたらすだけになっていないか。そういうことが書かれてある。
日本の社会はその辺をうまく処理してきたので、宗教戦争や聖戦、民族浄化などと言う愚行とは(ほぼ?)無縁であった。誇るべき歴史であると、この点は司馬遼太郎も何度も指摘している。
いい加減であるのも、時には英知の反映だということだろう。
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