2024年9月7日土曜日

断想:民主主義も「かのように」の思想に基づくのか?

さるTVドラマの主人公ではないが、常々不思議に感じていることがある。

それは、新聞でもTVでも

「日本としては」とか、「日本の」とか、《日本》という言葉を主語にして何かを述べることが、何故これほど多いのだろう?

こういう疑問である。

それほどメディア企業というのは、「常住坐臥」、この日本国の事を意識し、大切に思い、その現状と行く末を心から心配しているのだろうか?

日本のために出来ることは何でもしようと社で合意しているのだろうか?

そんなことはないのは明らかだろう。

実際、新聞社は常に自社の購読数維持で頭が一杯である(ように見える)。民間TV局は(NHKも?)視聴率を上げるのに必死である(ように見える)。つまりは、「日本」を叫びつつ、実際にやっていることは自社利益の追求であり、《公》ではなく《私》として活動している。

メディアだけではない。「日本」の事を語りたがる人は多い。ネットには愛国的なコメントが(全てではないが)あふれている。そんな人は日本のために出来ることは何でもしようと決めているのだろうか?

不思議というか、不審というか、そんな気持ちがずっと前からあるわけである。

そもそも「日本」の行く末を心にかけながら暮らす日本人は多いのだろうか?もしそうなら、日本国が少子化でこれほど悩む状況にならないはずではないか。

小生が司馬遼太郎の作品を読むことが、最近になってまた増えている理由は、氏が自分の社会観や歴史観、人生観などを、色々な作品の中で手を変え品を変えながら、繰り返し述べているからである。

たった一度キリ、自分の意見を文章に書いたからと言って、その人の考え方が伝わるものではない。何度も言い換えながら、書き換えながら、主旨としては同じことを書き留めるから、その人はホンネの自分自身を伝える事が出来る。ま、一口に言えば、司馬はジャーナリストなのだろう。

案外、それをした文筆家は少ないのだ。まして氏は、第二次大戦末期に陸軍将校として従軍した戦争体験があるので、作品に一定のリアリティがある。そこが小生には好ましいのだ。

『この国のかたち』は小説でも紀行文でもなく完全なエッセーである。その第1巻の15章に以下のような下りがある。要所をコピペしながらメモしておこう。

中国人はとくに個人がいい。

「ほんとうは、ボクは日本人より中国人のほうが好きなんだ」と、こっそり私の家内の耳もとでささやいた老アメリカ人がいる。かれは若いころ日本語を学び、その後四十年以上、ジャーナリストとして日本と関係をもってきた。かれの理由は単純明快だった。「中国人はリラックスしているからね。──」私は横できいていて、ひさしぶりで大笑いした。

たしかに日本人はつねに緊張している。ときに暗鬱でさえある。理由は、いつもさまざまの公意識を背負っているため、と断定していい。

(中略)

「日本人はいつも臨戦態勢でいる」

(中略)

若衆という武力もふくめた集落の結束体のことを、日本の中世では「惣」とよんだ。・・・この惣こそ日本人の「公」(共同体)の原形といってよく、いまなお意識の底に沈んでいる。

小生が若い時分、日本人の「集団主義」がよく言われていた。集団では強いが、個人になると弱いという点も、多少の卑下、というか自省を込めて云々されていた記憶がある。

今でもそうなのだろうか?

そういえば、最近の若い世代は集団主義であると聞くことはない。ただ、パリ五輪の体操や卓球でも、「団体」のほうが「個人」より遥かにやりがいがあり、勝った時の嬉しさも大きい、ということは多くの選手が語っていた。

テレビドラマでも「仲間」という普通名詞が相変わらずキラーワードとして使われたりしている。

どうも時代は変われど、世代ギャップが露わになっているにも拘らず、日本人の集団主義、つまりは団体志向、チームプレー重視の国民性には、あまり変化は起きていないのではないか?

そんな風にも感じる。であれば、日本人にとって「日本」は(昔のように尊ぶべき?)「公」なのか?

中国の儒教文化について司馬はこうも書いている。

儒教は地域を公としない。孝の思想を中心に、血族を神聖化する。

司馬はこんな認識も述べている ― この指摘が完全に正確かどうかはさておく。が、この指摘に納得する自分がいる。ここから、どの国に移住しても、同族が協力する華僑たちのたくましさに思いが至るのも自然な連想であろう。移住した先の土地で血族が助け合いながら、そこに根をおろし、定着し、幸福を追求していく。時には「圧力団体」として活動する。臆面もなく《私》の主張をする。その方が幸せだろうと小生は思うし、たくましいとも思う。第一、こういう生き方からは生命力の自然な発露を感じてしまう。

「公」を意識すれば、その人は自然と「臨戦態勢」をとり、好戦的になる。これはロジカルな認識だと思う。旧い表現を使えば「大義名分」というヤツだ。

「私」より「公」の方が格上だというドグマがここにある。

日本のメディア企業が、やっている事とは裏腹に、何かと言えば「日本」を語るのも、「公」の感覚のなせる言動なのだろう。が、「偽善」と言えば確かに「偽善」である。


しかし、よく考えてみると、民主主義社会というのは、普段は自分の事しか考えない利己主義者であるにもかかわらず、選挙が近づくと俄かに「公」を意識し、「日本」を語る、そんな一般普通の人たちが権力の源である理屈なのだから、これ自体が「一億総偽善社会」だと言えないこともない。

それでもなお民主主義を"Vox Populi, Vox Dei"(=人々の声は神の声)と仮想するのは、正に森鴎外のいう『かのように』の思想が基盤にあるわけで、

これは神聖な結論である、かのように考えておくことにしましょう

ここに民主主義が機能する本質がある。そう思われるのだ、な。

こう考える方が実に気が楽になるではないか。


だとすれば、

普段は、「公」を意識することなく、ひたすら「私」を主張し、自己利益を追求する。自分もそうだし、みんなそうする。だから、勝手なことをする他人を目にしても、非難したり、誹謗する理由はない ― もちろん法の整備と運用は必要だ。紛争は解決しなければいけない。これは三権が行う。ここが国内と国際とが違う所だ。

三権がない以上、「世界」はいまだ「公」とは言えない。が、これはまた別の話題だ。

いずれにせよ、「公」のことは公的機関の仕事だ。しかし、自分は「私人」だ。

あっしニャア、関わりはござんせん。

ただネ、選挙には行きますゼ。 

そんな社会の方が、案外、みな幸せになれるのかもしれない。


これって、選挙には行きたがらない、それでいて「公」を尊ぶ。そんな生き方とは真逆かもしれません。

しかしネ、体裁などに構わず、自分に正直に生きる方が気が楽ですヨ、と。これが「真理」(の一つ)だと思うのだが、いかに?

【加筆修正:2024-09-08、09-09】


0 件のコメント: