先日、遠藤周作の『短編名作選』から引用をしたが、本来の遠藤的世界は往時の狐狸庵先生とは異なって、とても重苦しい所がある。たとえば同じ『短編名作選』の中の「イヤな奴」の一節に次の下りがある:
ズボンをそっとまくし上げるとさっき布で縛った膝の傷は熱を帯びて腫れはじめていた。 (こんな傷があるからと言って断ろうかしらん)と江木は考えた。しかし一方彼は大園や信者の学生たちから利己主義者だといわれるのもイヤだったのである。(行くとしても出来るだけ患者に近づかんこった) そう心の中で呟いた時、流石に江木は自分がうす穢い人間だと思わざるをえなかった。病院まで見舞いにいき、そこの患者を嫌悪感から避けようとする──そんな行為がどんなに卑劣なものかは江木も重々知っていたが、彼にはまず伝染をおそれる気持や肉体的な恐怖の方がどうしても先にたつのである。
この
利己主義者だといわれるのもイヤだった
という箇所。
小生も幼児の頃、厳しかった亡父から何かと言えば
そんな利己主義なことをしたらいかん!
と叱られたことを記憶している。小生には、その「利己主義」がいけないというのが、どうしても腹に落ちなかったので、父は何を言おうとしているのかモヤモヤと感じたものである。
ただ現在では、愚息を含めて「利己主義」であることを非難する気持ちは小生にはない。というより、確かに小生は、父が言った通り、徹底して利己主義に沿って人生を送って来たと思うのだ。そのことを隠すつもりはないし、別の言葉で言いつくろう気持ちもない。もう一度、同じ状況に立てば、同じ選択をするだろうと思っている。と同時に、両親を含めて、また妹弟を含めて、自分勝手な行為で悲しくて辛い気持ちにさせてしまったことを詫びたい気持ちが今はある。
ただ弁明をここに書くとすれば、
彼我の立場を逆にして、小生がそんな仕打ちを受けていたとすれば、やはり小生は「仕方がない」と今は考えていただろう。
これも確かな事である。小生を取り巻く人たちも、親戚を含めて、かなりの利己主義者であった。時に孤独を感じ、無情を感じたものだが、それを恨みに思ったことはない。お互い様なのだ。
利己主義を非難する人は、必然的に利他主義者なのであろう。
しかし、小生は人間理解が浅い所があるためか、真の利他主義者と偽善者を区別することが苦手である。
「偽善」とは、他人を憐れむという利他的パフォーマンスを短期的なコストと認識し、長期的には自己の名声を形成することで利益を最大化しようという行為である。「社会的貢献」や「SDGs」がもてはやされる現代世界において、その期待収益率は時に無視できない程に高い。共同利益とか公益とか、一応の理屈はあるが、結局は自己利益の追求には変わらないわけで、利己主義に基づく「結託」に当たる。
だから、特にキリスト教関係団体が力を入れる慈善事業や協力への呼びかけには、何だか胡散臭い感情を抑えることが出来ない。
善い行いをしたから天国へ行ける、悪い行為をしたから地獄に落ちるという「神の審判」を求める価値観は、多分、キリストを処刑しようとピラト総督に要求した当時のユダヤ人もまた信じていた価値観と同じであるに違いない。
「信仰」と言いつつ、実際には極めて現世的な論理であると思う。超俗的でない。
芥川龍之介の『蜘蛛の糸』は、仏教的な舞台設定だが、実はキリスト教的な感覚に近く、他力を信じる浄土信仰とは真逆の理屈である。そう思うのだ、な。
日本人が求める「仏の慈悲」とは、善悪を問わず自分に正直に生きて、その結果をも自ら負う覚悟をもつ人に向けられるものであって、自分を偽って生きる人はその偽計の結果をも自らが人間の責任として負うべきである。そう思っているのだが、いかに?
ちなみに現代経済学では、全員が利己主義的であると前提している。
【加筆修正:2024-09ー21】
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