Amazon Unlimitedで提供している本は本当に多様で「こんな本まで!」と吃驚するようなものまである。
いま橋本勝彦・梶山力・柚木重三・福田徳三ほかの論文集とでもいえる『「資本主義」を探究した人々―ヴェブレン、ゾンバルト、マルクス』を読み終わった所なのだが、意外なことに非常に面白かった ― ただし福田徳三が登場する位だから非常に古い本である。
そもそもヴェブレン、ゾンバルト、マルクスという組み合わせが、いま現代の時点に立つと、非常に知的関心を刺激される。
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ヴェブレンは、「奇人」、「変人」と「天才」をこき混ぜたような経済学者で、小生が若い時分には東大の宇沢弘文先生が非常に高く評価していたというので、小生も興味をもったことがあった。ところが、岩波文庫の『有閑階級の理論』を紐解いてみると、とても読み続けるに値しないと感じられたので、そのまま放擲してしまった — 当時の小生は計量経済学が専攻分野であったから、「食えたものではない」と感じたのも、「若気の至り」とばかりは言えまい。
ところが、今になって「ヴェブレンの経済学、侮るべからず」と思うようになったから、やっぱり社会認識の器の大きさがここにも表れていると感じている。
上の本の中には、「ここを押さえておくべきだったか」と唸るような下りもあり、つくづく本を読むというのは難しいものだと痛感する。一本の短い論文でさえも、それを何回も読み直さないと、理解しきれないと思うことが多い ― というか、その方が多い。小生の頭脳レベルがその程度だという事だ。
本は、勉強をするのに欠かせない素材だが、それをどう読むかというのは、一本の日本刀をどう使うかという剣術の極意が極めて高度であるのと同じ意味合いで、本を上手に読んで自分の生きた知識にするのは、(凡人には)そうそう簡単に出来るものではない。
たとえば
さらに、正統派経済学の根底に暗に据えられていると考えられる快楽主義については、ヴェブレンはかなり明確かつ直截にこれを批判しています。すなわち、このような心理学は、習慣や慣例のようなものの力を無視して、人間の行為を完全な合理的行為として扱っているだけである、と言うのです。
次いで彼は、現実の人間が能動的・推進的であるという事実にもかかわらず、快楽主義心理学は、人間を外界からの刺激に機械的に反応するだけの受動的動物と見なしていると言います。すでに近代の心理学や人類学において、快楽説は、人間活動の説明理論として権威ある地位を失っているにもかかわらず、経済学においては未だにその地位を保持しているのです。
このような快楽主義心理学を基礎とする理論は、単なる均衡状態の説明以上のものではなく、従って経済学の進歩は阻害される、とされます。
実験経済学が浸透しつつあるいま、上で述べている点は、そのまま事実にはならないと思われる。
ただ、「同調の圧力」や「忖度」という言葉が幅をきかせている現代日本社会において、一人一人の個々人が自ら合理的選択を行いながら、余暇と労働の選択を行ったり、就職や転職をしたり、結婚を決めたり、家族生活をしたりしていると観るのは、やはり非現実的、とまでは言えないにしても、十分正確ではないであろう。
ヴェブレンによれば、近代科学には進化論的な観点が絶対に不可欠となります。現象の分類学的な分析や説明は前ダーウィン的な段階のものであり、これはダーウィン以後の、すなわち真の科学の要求を満足させるものではありません。近代科学は、事物をその原因、結果において説明しなければならず、その因果的関係は始まりも終わりもない無限の連鎖なのです。従来の経済学は単なる均衡分析のみに終始し、継続的変化・発展を取り扱わないので、単なる静態的理論に止まり、動態的研究とはならないと言うのです。
正直なところ、この下りはヴェブレンというより、何だかシュンペーターを連想させるような叙述だ。
ただ、進化というプロセスをどう説明するかという問題と、技術革新がどう発生して、それを活用した民間企業が競争しながらどう成長して、マクロ経済が動いていくかという問題とは、ごく近しい関係にあるのは間違いない。
政府による経済安定化政策とか、福祉国家の理念とか、人間が思いつく理想やイデオロギーを超越して、人間社会の経済生活が進化のロジックに服するというのは、科学的真理であるには違いない。
とすれば、経済的進化を確かなものとする社会の環境がポイントになる。制度学派への志向はここから生まれる。
これらの習慣や慣例は、その意味において制度的と言えます。しかもこれらは多くの場合、成文法となり、とりわけ本能的目的の達成や保護のために必要とされる場合は、ほとんど成文法となります。その場合は、外的条件が変化して後、初めてその改変が要求されるのです。従って、ある一定時における人間行動のパターンに、最も大きな影響を及ぼすのは、法律、あるいは一般的、社会的な様々の慣習であり、すなわち制度であるということになります。
(中略)
従って経済生活を説明する根拠としては、人間の必要や希望のようなものより、制度の性質の研究の方が適当だということになります。
確かにヴェブレンの経済学は「制度の進化論」だと、ずっと以前に話していた記憶はある。この点はその通りだ、と思う。政治的には、いわゆる"Progressive"というポジションになる理屈だ。
ただ、
こういう社会観、つまり「人間行動のパターンは、法や慣習、制度によって決まる」という見方は、やはりダイナミズムを欠いた認識だろうと思う。この点では、小生は(何度も投稿しているように)マルクス流の唯物史観に賛成する立場にいるわけで、社会の法律や制度、慣習は、その時の人々の暮らし方とそれを支える生産組織にとって、最も都合の良いように変更されたり、改正されたり、骨抜きにされたりするものだ、と。制度を支える価値観やイデオロギーもまた移り行く季節に応じて衣替えをするように着替えるものである、と。これが小生の社会観である。
つまり
進化とは、人間が意図して進めるものではなく、自然のプロセスとして意図することなく、むしろ科学技術や生産活動の変容に強制される形で、進化せざるをえないのだ。故に、進化せざるを得ない人間社会の中で、残すべき伝統をいかにして残すのか。政治に出来ることは、進化の容認と賢明な、というか多くの人が納得できる保守である。
こんなポジションに小生はシンパシーを感ずる。
いずれにしても、
ヴェブレンによれば、機械的方法や機械的活動と日常的に接触することによって、現代人の思想は唯物論的となり、その論理は大筋において機械論的なものとなっています。
このような社会観は極めてヴェブレン的である。そして
このような産業組織における各部分の連接は価格によって行なわれています。ヴェブレンによれば価格の問題は事業家の関心事であって、技術家の関与するものではありません。従って産業組織が正確に働くために絶対に必要な諸部門の均衡は事業家に依存しているのです。
現代経済学者の主流とヴェブレンとが相いれないとすれば、市場価格に信用を置くかどうかである。市場価格というより「市場価格の変動」という方が適切かもしれない。
例えば、今年の夏の終わりになって米価が上昇して、小売店の店頭からコメがなくなったとき、「政府の備蓄米を放出して、供給を増やし、米価を下げなければならない」と主張する政治家が日本では多く現れた。政府がコメという主要商品の価格をコントロールせよという要求だ。これより前に、日本政府は既に電気料金の上昇をなだらかにしようと介入しているし、ガソリン価格も政府がコントロールしている。
ヴェブレンも価格メカニズムに信を置いていない点は、日本政府の市場不信と共通する所がある。
とはいえ、「進化のプロセス」を重視するヴェブレンと、「頑迷固陋な保守」を基調とする自民党政治とは、向いている方向が反対で天と地の違いがある。
【2024-09-04】
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