2024年12月31日火曜日

覚え書き: 愚息としなかった話のメモ書き

一昨日は、いま札幌に勤務している下の愚息夫婦がやってきて、タラバ、ズワイを混ぜたカニ鍋を思う存分というほど大食して帰った。若いっていうのは、多分こういうのが至福のときであることを言うのだろうと思いながら見ていた。人間が人生で求めるものは、案外、シンプルそのものであるのかもしれない。

若夫婦とは色々なことを当然話したのだが、来る前はこんなことを話そうかなと想像することもあった。このまま忘れてしまうのも勿体ないので覚書にしておこう:

小生: 人が空を飛べるのは、飛行機が飛ばせているのであって、人が人を飛ばしているわけではないよね?

愚息: パイロットが飛ばせているのも事実だよ。

小生: パイロットは飛行機という機械の一部になって、決められたとおりに動作しているから飛行機が飛ぶんだよ。飛行機が能力通りに飛ぶためには、パイロットの自由意志は余計だ。自由に勝手に操作すれば、飛行機は飛ばないだろ?あくまで飛ぶのは飛行機であることは目に見るとおりだよ。

愚息: 確かにね。飛ぶのは飛行機だというのは間違いないよ。

小生: そう。人間が飛ばすわけではなく、飛ぶのは飛行機だ。そして、飛行機がなぜ飛ぶかと言えば、科学的知識があるからだ。知識の蓄積が飛行機を生んだわけだよね。科学知識は人間ではなく、自然の中に最初から法則としてあるものだ。それを人間は使っているに過ぎんわけだ。

愚息: それはそうだね。

小生: 飛行機を法に置き換えて考えるとどうなる?

愚息: 置き換えるって?

小生: 人が社会生活を安心して送れるのは「法」があってこそだ。法も知識が高度化するにつれて進化するものだ。その法もそれだけでは動かないよね。裁判官や検察官、弁護士という法律専門家が、法の一部になって、定められたとおりに行為するから、法が法として機能するわけだ。飛行機とパイロットの関係は、法と法律専門家の関係と、ちょうど同じだろ?

愚息: 確かに。

小生: 人は、自分たちの社会生活を守るために、法を尊重する。みんなに「安心」を提供できるインフラ、それが「法」だからね。だから尊重して守ろうとする。けど、それは法を動かす人を尊敬するのとは違う。尊敬する対象は法そのものであって、法を動かす人が自由意志にまかせて動かすべきではない。飛行機と同じで、こんな理屈になるよな?法を運用する人は、法が求めるとおりに、自分達の仕事に専念しなければいけない、とね。

愚息: 理屈はそうなるけどネエ・・・自由がないというのはどうなのかなあ?

小生; そもそも人は人を尊敬はしないものさ。人はすべて平等というのが素直な気持ちだよ。学問の師を尊敬するのは、師が伝える知識を尊敬しているからで、その気持ちを人である師に表しているわけだ。師が自分自身の動機に従って、自由に弟子を指導するとすれば、師に対する尊敬の気持ちも失せるだろう。

愚息: 意外とそんな先生、多いからね。

小生: おれにもそんな身勝手なところはあったからね。

愚息: そうなんだ・・・ 

愚息: すべて人は、煩悩から脱することができない凡夫なのさ。それでも師が伝える言葉が、学問に沿った真理であると思えばこそ、弟子は師を尊敬する。

愚息: 先生を尊敬するというより、伝えられる知識を尊敬するってこと? 

小生: 師は自分の意志で自由に語ることはできん。学問に従って語らなければ弟子の知識にはならない。あらゆる知識分野でこんなロジックがあてはまると思わないかい?

愚息: 教える側にも自由はないってことかな?

小生: 自由というより恣意というべきだな。自由という言葉の意味は結構難しいンだが、理に沿って、自らが自らを律して、こう語るべきだと語っている限り、実は何者にも強制されず、その点では完全に自由なんだ、な。欲望に任せて、思いのままに語っているときこそ、個人的な欲に支配されていて、欲の奴隷になっているとも言える。

愚息: う~ん、難しいなあ・・・ 

小生: 人は人よりも高みにあるものを尊敬するものサ。人である自分と同じ人である他人をそれ自体として尊敬する意志は本来はない。だからナ、学校時代にはよく「尊敬する人は誰ですか」って聞く先生がいるンだけど、この質問は本当は意味がないんだよ。「あなたが心から求める知識は何ですか?」、「あなたが身につけたい技は何ですか?」、「あなたが求めるものを伝えた人は誰ですか?」とね。技も芸も知識の特別な形だと考えれば、人がそもそも心から憧れて尊敬しているのは、人ではなく知識だと言うべきだな。

話しの主旨は

知は力なり

という単純な一点に過ぎない。

ソクラテスの「無知の知」とこれがどう両立するか?

プラトンに聞け、と言うしかない。

そのプラトンの真似事のようなこんな対話は、残念ながら行われなかった。『國稀』や愚息が持参した『九平次』を味わいながら、上のような理屈っぽい話をするのは、所詮無理というものであった。 


2024年12月27日金曜日

ホンノ一言: 国会議員が憲法の趣旨に反する発言をすることは十分ありうると思うが・・・

いまブレーク中の国民民主党代表(但し現在は役職停止中とのこと)玉木さんが、朝のモーニングショーで自党の政治活動について「悪質な印象操作」をされたため、「放送法4条(= 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること)の趣旨にも反すると思います」とネットで発信したよし。

そうしたところ、(一部では?)評価の高い元・衆議院議員で現・弁護士でもある菅野さんが

「何より玉木さんには、放送法4条を持ち出してメディア批判する政治家であってほしくないのよね。憲法感覚よろしくです」と記した

……こんな記事がネットには記されている(@_@)。


いやはや、典型的な「コタツ記事」であります。ここで「ネット」というのは、旧ツイッターで、現Xのことであります。

個人的に思うのだが、

国会議員は現行憲法をないがしろにする発言をしてはいけないのだろうか?

現行憲法を改変しようという意見をもってはいけないのだろうか?そんな意見をパブリックな場で述べてはいけないのだろうか?

数々の疑問が胸の中に湧いて参ります。

もし「こんな思想はまかりならぬ」とすれば、国会は憲法改正の発議も出来ない、と。そんな理屈になるのではないか?

もし国会が憲法改正を発議しないなら、国民投票も行われず、日本国民は憲法改正をする権利を行使することが、手続き上、実質的にはできないという理屈になるのではないか?

それは違うでしょう、と。そう考える立場に小生はいる。

国会議員は、現行憲法の規定に反する意見を持つことも出来るし、憲法改正を志すこともできるし、国民に自らの意見を訴えることもできる。

実際に、現行憲法に問題ありと考える人が国民の中で非常に増えれば、同じ考え方をする人物が国会議員に多数当選する確率も高まる。とすれば、現行憲法の問題を指摘する議員も急増し、憲法改正の必要性を公言する議員の数も激増する。そんな情況になる事も将来において十分ありうる。そう予想しておくべきだろう。

どうしても小生にはそう思えますがネエ・・・


もちろん選挙で選ばれたわけではない裁判官や検察官が公職にありながら、現行憲法をないがしろにする発言をするとすれば、それは当然、公務員としてあるまじき行為である。これは当たり前のことでありましょう。

民間とはいえ、法廷に立ちうる弁護士の立場から、憲法の趣旨に反する言動をすることが許されるかどうか? そこまでは畑違いのため詳細は知らない。 が、司法試験という国家試験に合格して職業資格を得る以上、現行の日本国憲法をないがしろにするような言動は慎むべきだとは感じる。

一方、誰であっても日本人なら主権をもつ日本国民の一人なのだから、誰しも憲法をどう考えて、どう発言するかは基本的に自由だ。

憲法は日本人の思想信条を統一するためにあるのじゃあない。

ホント、面倒くさいネエ・・・


ともかく、「言論の府」に席を置く国会議員に、特別職とはいえ公務員だから一般公務員と同じ理屈を当てはめられる・・・とは言えない。そう思いますがネエ。違った考え方をする人が多いのかな?

【加筆修正:2024-12-28、12-29】

 


2024年12月25日水曜日

断想: 車の電子キーが電池切れのあと、プリンターの突然死が来るかア……

 日記にこんな文章を書いたので今後の検索の便を考えここに転載しておきたい。公開には不向きな固有名詞の箇所は修正した:

昨日、年賀状を印刷していると、インク吸収パッドの容量限界に達したというメッセージとともに、10年程使ってきたプリンター「Epson EP-906」が突然動作しなくなった。突然死だ。ここ近年は、紙の年賀状を出す先は親戚に限っているが、カミさんの方の親戚がまだ印刷し終わっていない。吃驚し困惑もする。幸い、裏のデザインは最近の絵を入れて印刷済みであるので、カミさんはいま手で宛名書きをしている。

急遽、Amazonにエプソンの”EP-886AW”を発注する。到着は年末から年初にかけてということだ。

一昨日には、最寄りの寺の若住職が月参りに来た後、市場に行き、いわき市勿来町に住む弟宛てサーモン、銀鱈、ホタテ、イクラを発送したのだが、それが終わって郵便局に立ち寄って年賀状を買って帰ろうと思いながら、停めた車まで歩いて戻り、乗車しようとしたところ、何とキーが効かずドアが開かない。非常用のカギでドアは開くが、エンジンスタートできる鍵穴はない。緊急時の手順に沿って、キーのエンブレムをスタートボタンにタッチして、ボタンを押しても、エンジンがかからない!これには唖然とした。予定外の頓死だ。スマートキーの電池が(完全に!)切れて1個の「物体」に戻ったのだと推測し、そこからカミさんと二人で徒歩圏内にある生協方向へ歩き、途中にあるドラッグストアで電池を、生協の中にある百均でマイナス・ドライバーを買って、店内で電池の交換を行う。途中山道を通るがトラブルが町中で良かった。不幸中の幸いだ。

大丈夫かと思いつつ、また歩いて車まで戻ると、今度は障害なくドアが開き、エンジンもかかったので一安心する。雪道を往復小一時間の散歩となった。それにしても何の前兆もなく、突然電池が切れて、そのまま車が死んでしまうのはどうなのか?旅行中ならどうするのか?自問自答してしまいました。

昨日のプリンター停止は、車のキー電池切れと似たようなトラブルだ。本当に電子機器が関連すると、突然動作がストップして、人を慌てさせることが多い。とはいうものの、プリンターとインク吸収パッドは、問題が発生した部分と全体との大きさにバランスがとれている感覚がある一方、ガス欠でもなく、パンクでもなく、あの小さな電子キー1個の小さな、小さな電池一つが切れることが原因で、大きな自動車1台が丸ごと動かなくなるというのは、どこか非合理というか、バランス感がないというか、機械の製造スタンスとしてどうなの?……と。そう言えば、トヨタのRAV4もヴィッツと同じ仕様だった。以前乗っていたレガシーで使っていたキーレスキー、あれは便利で、よく出来ていて好かったネエ、と思い出しました。あの位でいいのに・・・この感覚、古いのだろうか?

ちなみに小生が、ずっと以前、愛用していた一眼レフ(の一つ)はCanon New F-1だったが、あのカメラは(低速シャッター速度では?)電池で動作はするが、基本は機械式のメカニカル・シャッターだったので電池切れの心配がなかった。ここ一番で不慮の頓死がなく、安心感を感じたものだ。内燃機関でディーゼル・エンジンがガソリン・エンジンより信頼性があるのは、故障が少なく、頑健であるからだ。とにかく、マア

電池一個 切れて動かぬ 車かな

     ガソリン、タイヤ トラブルはなく

こんな感想です。

今年一年にあった身の回りの諸々の変事、世間の事件を列挙すると、マア近来稀なほどに騒然とした一年であった。保有する金融資産は、株価上昇と円安で随分上がり、その点では嬉しい年ではあったのだが、辰年の「昇り龍」を思わせるゴロ、ゴロと雷鳴が轟くような「変事出来の一年」はもう閉口だ・・・( iᴗi )。

来年は、「騒」のあとの「安」を象徴するような年であってほしいものだ(;_;)


2024年12月20日金曜日

ホンノ一言: 103万円の壁より、もっと大きな絵を描く政治が求められているのかもしれない

空前の人出不足の時代だ。

移民政策について何らかの抜本的改革を講じない限り、男性労働力、女性労働力とも、労働参加率は歴史的高みに達しており、これ以上の労働供給は困難であると観ている。視聴率の高い人気ワイドショーでは、『働ける人はずっと働く、いや働かなければいけない、そんな時代なンだと思います・・・』などと、まるで昔の「国家総動員」のような暴論を展開しては、愚かさを自ら証明しているのが、今という時代なのだろう。


そんな情況であるにも関わらず、たとえば北九州市小倉区で起きた中学生殺傷事件の容疑者として逮捕されたのは、無職の40代男性である由。

いま40代であるとすれば、2000年当時は20代であったので、いわゆる「氷河期世代」の一人である。「巡り合わせ」とはいえ、1990年のバブル崩壊から1997~8年の金融パニックを切っ掛けに、日本では就業機会が激減し「就職氷河時代」へと入った。運よく入社はしても事業が停滞する中で、スキルを高める経験にも恵まれず、相当数の若者は、非正規労働市場で何とか生活だけはしてきたのが、これまでの歩みだ。「これも人生だ」と言えば簡単だが、当人たちは釈然としないだろう。

こうした不運な世代は、近代日本史においても時に生まれる。

明治末年に生まれた世代は、昭和初年の頃に成年を迎えたが、丁度その頃は昭和2年の「金融恐慌」、昭和5年の「昭和恐慌」と、とてもじゃないが就職できない。その頃の青年は、『大学は出たけれど』と嘆きの渕に沈んだ世代である ― ただ、昭和初年に20代ということは、太平洋戦争敗戦時には40代になっていたから、上の世代が戦争責任で一斉に追放された後、今度は戦後復興を(運よく)主導する立場にたてた。これまた運命による「埋め合わせ」とも言える想いであったろう。

人生とは不可解。何がどうなるか、分からないものでござる。

結局はここに行きつくのかもしれない。

メディア企業は、犯罪を好んで報道するが、逮捕された犯人の多くは無職である。

凶悪犯、知能犯を含め「犯罪」という行為は、社会の中で競争が激化し、しくじった人が浮かび上がるのが難しい時代において、増加するものだ。これは経験則であると言える。

社会が混乱した昭和20年代に凶悪事件が多かったことは、<昭和20年代 凶悪事件>とGoogle検索すれば簡単に分かる。戦前の大規模殺人事件として有名な「津山三十人殺し事件」が起きたのは、昭和13年(1938年)だ。軍律違反が明白であった「満州事変」が昭和6年、犬養首相が暗殺されたのが昭和7年、陸軍省の永田鉄山軍務局長が本省内執務室で惨殺されたのが昭和10年、クーデター未遂となった2.26事件は昭和11年。そんな時代背景の中で起きたのが津山三十人殺しであった。

時代背景と生活困窮とが重なるとき、往々にして、犯罪は主観的に肯定されてしまうことが多い。

国民の生活保障に国が(ある程度まで)責任をもつのが近代国家である ― その背景には国民が国家を防衛する国防軍の存在が大きいが。雇用保険、医療保険、年金保険などの社会政策と生活保護政策は、素のままの資本主義を修正するための理念の現れである。が、これにはコストがかかる。資本主義は小さい政府を志向するが、社会政策を組み込んだ資本主義は大きい政府を受け入れるのがロジックだ。

大規模な生活保障を推進するのは、そもそも社会主義的な国家運営だが、これには政府が租税及び税外収入を確保する必要がある。基幹産業を国営化するのは、税率を容認可能なレベルにとどめながら、国家の収入を確保するためである。

社会主義でなくとも十分な税収があれば、生活保障はできる。

例えば、日本で消費税率を3パーセント引き上げれば、現行と同じ定額の国民年金を100パーセント税負担として、支給できる。国民年金保険料支払いは廃止できる ― 支払い済みの人には支払い分還付に相当するだけの付加年金が必要になろうが ― ……という、そんな議論があることは、多くの人はもう知りつつある。にもかかわらず、意思決定ができず、政治家もまた問題解決から逃げている。

これを含めて「日本病」という人が多いが、名前を付けたからといって、何もしない人間であることに変わりはない。

国が解決できないならば、実は《特効薬》がある。ただ、極端に乱暴な方法である。

・・・

生活に困窮した人々を富裕層が「家事手伝い」として私的に雇った場合、現行税制では頼む側の支払いはあくまでも頼む側の所得処分とみなし課税対象に含め、もらう側にも贈与とみなして上限を超えれば贈与税がかかる。それを今後は、金を支払う富裕層は支払額を収入から控除でき、受け取る困窮者の側も非課税にする。

つまり私人が困窮者を私的に助ける場合、助ける方と助けられる方との間でやりとりされるカネは丸ごとなかったことになる。国には税を納めない、というわけだ。

自治体は応益課税であるからサービスの対価は支払う。但し、支払うのは生活支援を受けている側ではなく、支援をしている富裕層である。そして地方税支払いもまた損金として扱われる。

確かに、これは極めてラディカルな制度改革と言える(はずだ)。

もしこんな制度改革が実行されると、国の税収の中で、消費税は影響を受けないだろうが、所得税は大減収、高額役員報酬に対する高率の所得税を人並みの税率に抑えられる方法があるわけだから、企業の内部留保に留める必要もない。企業利益は会計上ゼロとされるだろうから法人税収もほぼゼロになるだろう。

その一方で、国家が富裕な私人に生活困窮者の支援を丸投げ(?)するのであるから、財政負担は大いに軽減される。大体、年金支給が開始される65歳まで定年後の再雇用を企業に義務付けているのは、国が為すべき生活保障(の一部)を丸投げしていると言われても仕方がない。

さて、上に述べたように、富裕層が私費で生活困窮者を救済する仕組みが制度的に容認されてしまうなら、これは民間による国家の代行であり、《国家の崩塊》ではないかと危惧する人がいるかもしれない。が、心配ご無用だ。前例がある。そうなっても日本が崩壊するわけではない。政府が弱体化するだけの話しである。

そもそも日本は奈良時代より前は公地公民制。土地も人民も国家の所有で、土地は国から分与されるもの、かつ国民皆兵であった。しかし、この律令体制は短期間のうちに形骸化した。

自ら開発した農地を都に居住する貴族に寄進して名義だけを譲るのが「寄進荘園」であった。大貴族に与えられた「不輸不入」の特権によって貴族は納税を免除される。一方、地元の開拓農民は、貴族の被官、つまり扶養者に似た存在であるから自らは国の徴税対象にはならない。税よりは安い年貢を貴族に納めれば事足りる。

国は減収になる。が、貴族は荘園からの年貢で豊かな生活ができる。国からもらう俸給が低くとも公務は担当できる。国の財政(の一部)が貴族の家計収支の内部に奪われ、組み込まれてしまったわけだ。もちろん地元の開拓農民は名義だけ寄進して所有権が担保されるので喜ぶ。泣くのは国だけだ。さすがに地方の治安は、国が担当するには税収不足であり、召集可能な兵数も足りない。だから、田舎は田舎にまかせる。国は官有地から税を徴収できるだけ徴収して都に運ぶ。あとは地方は地方でやる・・・かくして武士と呼ばれる階層が東国で成長した。地方、田舎は自存自衛でやれというわけだ。

これが、奈良時代から戦国時代が到来するまで、崩れそうで崩れなかった日本の慣習的土地制度「荘園制」である。田舎に「荘園」を有する貴族・寺社が、何の官職もなくとも生活だけはできたのは、いずれかの地に荘園を認められていたからだ。荘園に居住する「平民」は、日本国民というより、その荘園の「領主」に従う従僕として振る舞ったわけである。

政府は空洞化し、弱体化したが、日本という国のアイデンティティは崩壊しなかった。同じ理屈は今でも有効だと思う — 100年を単位とする超長期の変容プロセスではあるが。

日本が日本であることと、統治システムがどうであるかは、全く別の事柄なのである。数日前の投稿でも書いたが、「天皇制」の意義があるとすれば、多分、このレベルにおいてであるというのが小生の日本観だ。

いままた政府にカネはなく、国債の信用にも危険信号がともるかもしれないご時世だ。とはいえ、日本は対外的には債権国である。国にはカネはないが、カネを持っている人は多いのが日本である。

それでいて、生活困窮者がいて、政府が十分に救済するには財源が要る。ところが、増税がままならない。ヨーロッパは付加価値税率をテキパキと引き上げているが、日本では同じことに四苦八苦している。

だとすれば、

私人が困窮している人を私的に救済する。国はこれを受け入れる。

こうするのが効率的だ。というより財源がないので国の出来ることには限界がある。

私人であっても行うことは公的業務である。国に代わって実行しているだけだ(とみなす)。故に、その経費は損金算入を認め、収入段階では非課税とするのが理屈である。そして、私人が行った生活支援事業を通して所得を得る人々から、政府がピンハネする筋合いはない。これまた非課税とする。

富裕層から支援金を給付された人は、年間幾日か、例えばベビーシッター、洗濯・調理・買い物・清掃・付き添い・介護などの家事労働を「労役」という形で提供すれば済む。封建時代のように「家来」にならずともよい — ここが人権の確立した近代国家たる所以である。もっとも「家来」というのは子孫代々の(雇い主の後継者がいる限りの)「永代終身雇用」のような契約でもあるから、こちらを望む人も日本には多いかもしれない。特に地方ではそうだろう。マ、子供から職業選択の自由、移動の自由を制限するので、現行憲法下では人権侵害となるが、こちらが良いなら憲法を変えれば済む。

それで、上のような《民活による生活保障》となるわけである。

・・・ま、これまた一場のお話しであります。


玉木さんの103万円の壁も、前原さんの教育無償化もいいが、今は《大きな絵》を描く政治が求められる時代に入ってきているのかもしれない。

【加筆修正:2024-12-22、12-23、12-24】

2024年12月18日水曜日

断想: 冤罪を防ぐ第一歩が何であるかは明らかだと思うが

カミさんと簡単な朝食を ― ヨーグルトとバナナ、珈琲だけの簡単なメニューだが ― 摂りながら、いつものワイドショーを視ていると、

冤罪はなぜなくせないのか?

こんな話題があった。

ワイドショーにしては真っ当な話題だ。が、専門家の意見はいかにも専門家然としていて、これでは世論になんの影響力ももたないだろうナア……と感じました。具体的内容は、いま書いているこの瞬間においても、もう『何だったかな?』と、『忘れてしまいました』と、そんな内容であった(と思われる)。


思うに、冤罪を恒常的にゼロに抑えるのは困難だと考えるが、出来る限り冤罪の被害者をなくすには、一つの原則を徹底するのが第一歩であろうと思っている。但し、実に簡単なことではあるが、国民の意識改革が求められるので、徹底するのは難しいかもしれない。

それは

△△が〇〇の容疑で逮捕されました。動機、犯行など詳細は取り調べが進むにつれて明らかになる。そんな状況です。

という報道が現在は多いのだが、これを

△△が〇〇の容疑で逮捕されました。これが不当逮捕でないという詳細な説明が捜査並びに司法当局には求められます。

文章で書くと極めて簡単だが、報道方針を上のように180度逆転するだけで、冤罪防止には極めて効果的であろうと確信する。

当然、検察に対しても

〇〇の容疑で逮捕され送検されていた△△が本日起訴されました。これが不当な起訴ではないという根拠が切に求められています。

こうした報道方針が厳守されるだけで《冤罪を生む不当な裁判》を防ぐ第一歩になることだろう。

要するに、

人を逮捕したり、起訴したりする以上は、その具体的根拠を明示する義務は当局の側にあり、容疑者自らがシロであることを証明する義務はない。

あらゆる場面において、いわゆる《推定無罪》の原則を、最初の報道段階から徹底して意識するだけで済む。これだけで情況は大いに改善されるはずだ。

もちろん第一歩であって、必要な二歩目、三歩目はある。が、これはまた別の機会に。

 

コントロール不能なSNSはともかく、マスメディア企業が申し合わせれば、上のように方針転換するのは簡単に実行できる(はずだ)。

しかし、日本人の、というより日本という国の歴史を通して染みついた強固な《お上意識》と《お国第一》というか、強固な《帰属意識》をかなぐり捨てて、ハナから

警察・検察当局のやることを疑いの眼差しでみる

日本人たる個人ゞの自尊心にかけて(?)、常にこんな感覚をもつというのは、果たして日本人に出来るのかどうか、定かでない。

が、ともかく

冤罪を防ぐ第一歩が何であるかは明らかだ

とは思っている。


大体、(必要もない)戦争が起きる根本的原因は、国民が政府を信じることである。政府が弱体で、信頼されていない国は、戦争をするのも困難である。無能か有能かは問わず、警戒されていれば、サイズも権限も大きくは出来ない。自動的に小さい政府のメリットが得られる ― もちろん(こういう仮定を置く具体的根拠を示すことが大事だが)一方的に「侵略」された場合に、有効に反撃することもまた困難になるが。

【加筆修正:2024-12-19】




2024年12月16日月曜日

ホンノ一言: クルーグマン、最後の寄稿に関して

日本の新聞には見切りをつけて、ここ近年はThe New York TimesのWEB版を購読していたのだが、NYTに定期的に寄稿するコラムニストをしていたPaul Krugmanが、どうやらコラムニストを辞めるようだ。

最後の寄稿はこんな書き出しだ:

This is my final column for The New York Times, where I began publishing my opinions in January 2000. I’m retiring from The Times, not the world, so I’ll still be expressing my views in other places. But this does seem like a good occasion to reflect on what has changed over these past 25 years.

Source: The New York Times

Date:  Dec. 9, 2024

Author: Paul Krugman

URL: https://www.nytimes.com/2024/12/09/opinion/elites-euro-social-media.html


経済問題の理論的解明と提案には余人にはない鋭さを感じる一方、その価値観や政治的理念には辟易したり抵抗感を覚えることが多かった。そんな複雑な読後感が多かったが、そもそもKrugmanの書くコラムがなければ、NYTを購読することはなかった。

それが今後はなくなるわけだから、はりあいがないわけで、関心がなくなった。早速ながら購読を停止した。

購読料金はNYTの毎月約400円から2000円少々に上がるが、それでも日本経済新聞の4000円余りよりは余程イイ、そう思って英誌The Economistを2年まとめてサブスクライブしたところだ。

Krugmanの寄稿の最後はこんな感じだ:

We may never recover the kind of faith in our leaders — belief that people in power generally tell the truth and know what they’re doing — that we used to have. Nor should we. But if we stand up to the kakistocracy — rule by the worst — that’s emerging as we speak, we may eventually find our way back to a better world.
Google翻訳ではこんな邦文になる:
かつて私たちが持っていたような指導者への信頼、つまり権力を持つ人々は一般的に真実を語り、何をしているかわかっているという信念を、私たちは二度と取り戻せないかもしれない。また、そうすべきでもない。しかし、今まさに出現しつつあるカキストクラシー、つまり最悪の人々による支配に立ち向かえば、私たちは最終的により良い世界への道を見つけるかもしれない。

単なる言葉の表現だが、機械翻訳はやはり淡白になる。 

かつて私たちがもっていた『権力にある人は、嘘でなく真実を語るはずで、何を自分がしようとしているか分かっているはずだ』という、「指導者がもつべき信頼感」というものを、再び感じることは、もう決してないかもしれない。
これでもいい訳ではないが、せめてこの位の感情をこめれば訣別の辞としては相応しい。

ただ次の"Nor should we"(=「またそうすべきでもない」)の箇所は、もう一つ言いたいことが伝わらない。多分、
指導者を信じられる時代は終わったのだ
「信じてはいけない」。こう言いたいのだろう。
何故なら最悪の人物による統治がこれから始まるからだ
まあ、この位、国民から選ばれた次期大統領を真っ向から否定し、明確に自己の政治的立場を述べれば、どんな読者であっても「偽善」を感じることはない。何しろAmazonのベゾフ氏、Metaのザッカーバーグ氏、OpenAIのアルトマン氏などBigTechの大物たちが巨額の寄付を行い、トランプ氏の軍門に下っている。いまこうして批判すれば何らかの不利益が予想されこそすれ、クルーグマン氏の得になることはほとんどなく、これが偽善である理屈はない。従来と同じ政治的主張をただ貫いているだけである。ただ、今回は最終稿となった点が違う。

多分、ジャーナリズムの(真面目な)読者が(本当に)求めているのは率直な意見だ。

真っ当なジャーナリズムが、真剣に相手にするべき顧客ターゲットは真っ当な読者であるべきなのだろう ― ここでもまた小生は能力分布という言葉を連想するが。

ジャーナリズムによらず、学問を含めた知的活動に少しでも関係する人にとって率直であることは不可欠な資質である。礼儀も不必要だし、マナーも要らない。優しさも有害無益だ。自分の言葉でただ「誠」を語ればよい。全ての知的活動において小生はこの一言に尽きると思うのだ、な。


亡くなった父が好きだった言葉は
己、信じて直ければ、敵百万人ありとても、我ゆかん
という言葉だった — 多分、上の句の原点は孟子
自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖も、吾往かん。 
自反而縮 雖千萬人 吾往矣 -- 公孫丑章句 上

であったに違いない。 これを言う時、父は必ず次のように続けた:

それには雑念、邪念を消して、純粋でなければならない
と。「純粋」という言葉が大好きであった事は前にも投稿した記憶があるが、とにかくこれが口癖だった。

しかし、息子であった小生の目からは
だから、困難な新規事業をやり遂げる責任感に押しつぶされて負けたのじゃないか。家族がどれだけ苦労したか分からない。
こんな風に思われるばかりで、父の好きだった上の言葉は最も嫌いな言葉だった。

意外にも最近になって、父が言いたかったこと、というか父の世代が信じていた理念の正当性を見直したくなる自分がいる。

上に引用したKrugmanの最後の寄稿は、法廷を去るソクラテスの姿を描いたプラトン作『ソクラテスの弁明』の最後の情景を、何だか思い出させるものがある。

【加筆修正:2024-12-25】

2024年12月13日金曜日

断想: 凡夫だなあ私は、と感じる朝

清水寺、というか今年の漢字を公募した結果は、(5度目であったか?)「金」となった由。さすがに「黄金の国ジパング」だ。

個人的には「騒」としたいところなのだ、な。「騒がしい」、「お家騒動」、「騒乱」等々の《騒》である。

政治と民主主義、物価と生活、エンタメ、スポーツ・・・。思い出すだけでも《安》とは真逆の年であった。

選挙でこれだけ騒いだ年は稀である。

大谷選手からオリンピック・パラリンピック、大相撲からバスケット。イヤイヤ、スポーツ界がこれほど騒がしかった年も稀である。

海外では、ロシア=ウクライナ戦争にいまだ終わりが見えず、ハマスのテロとイスラエルの過剰報復(?)が悲惨な情況を招いている。

正月の能登大地震で明け、韓国の尹大統領による戒厳令宣言とそれが不発に終わった後の大統領弾劾訴追騒動で年が暮れる・・・

加えて、カミさんが初夏には胃カメラの帰りに買い物をして気を失いかけた。盛夏から晩秋にかけて、かなり厄介な眼病に罹り、通院に付き添うなどしてバタバタとした。年の初めには、郷里である愛媛・松山で暮らしていた次叔父が他界した。

いやはや、何だか世間も、身の回りも騒然とした一年でありました・・・・

来年は安定の「安」を象徴する一年になってほしい。心より祈願する。

基礎年金の「第3号被保険者」制度の廃止については、今回見直しでは検討しないと決まったそうだ。

概ね、経済学者は妥当な結論、と。法学部や法律畑の諸先生方は不公平は是正するべし、と。

同じ公平でも、 実質的公平と法律上の公平とで、理解の仕方が違う。小生は、経済学の視点から社会をみる習慣がついているので、滑り台を上から滑っても、下から昇っても、危険の度合いはほぼ同じであり、子供がそれぞれ同じように楽しければヨイではないかと、機能本位で考えてしまう。そんなとき、滑り台は上から滑る遊具として設計されている以上、下から昇るのは危険であり、それを放置するのは安全管理義務に違反していると、そんな法律家の発想が論じられると、「自由を抑えつけておいて法は守られているとタカをくくる。そんな風だから、みんな楽しくなくなり、不幸になるのだ」と、どうしても「法匪」呼ばわりをして苛々としてしまう。

ま、例え話である。

これがまさに煩悩。「貪・瞋・癡(トン・ジン・チ)」の「三毒」の中の「瞋」が、苛々とする心なのであるが、毎朝6時に起きて読経する習慣になったといっても、人間は中々悔い改められない生き物だと、つくづく己の凡夫ぶりに気がつく。


2024年12月10日火曜日

ホンノ一言: 主婦年金廃止を提案する前に、基礎研究はしっかりやっているのだろうか?

 基礎年金の「第3号被保険者」という制度は、確かに「専業主婦優遇政策」だと思う。うちのカミさんも、この政策によって心強い気持ちを持てているのだと思う。


そもそも明治に始まった軍人恩給など、国の「恩給制度」では、奉職した本人にのみ恩給が支給されたわけであり、妻は対象外であった ― 但し、受給者本人が亡くなった後は、未亡人等に「普通扶助料」(だったかな?)が支給されたはずである(が、詳しくは承知していない)。

戦後、恩給から年金保険制度に衣替えしてからも事情は変わらなかったが、仮に夫婦が離婚すると妻は無年金になってしまう。その非条理を改善するために、専業主婦であっても基礎年金受給権や離婚時の年金分割などの措置が為されてきた。大雑把だが、そう理解している。


ところが、専業主婦世帯の減少にともない、主婦年金廃止の提言が経団連からされているようだ。多分、

専業主婦優遇政策を今後もずっと続ける必要はないヨネ

と、まあ、こんな了解が日本社会の中で形成されつつあるのだろう。

ただ、思うのだが、このような意見の基礎部分に

専業主婦は生産活動に寄与していないし、GDPへの貢献もゼロだヨネ

こんな認識があるとすれば、それは明らかな間違いである。この点については、前にも投稿したことがあるので、再述しておきたい。

考え方は、持ち家の「帰属家賃」の扱い方に近い。即ち、「家賃」というカネの流れが発生していないにも拘わらず、持家の持ち主が自ら所有する持家に家賃を支払っていると擬制してGDPを推計するのは何故か、という問題だ。

なぜこんな現実と異なる計算法を採っているかといえば、仮にいま2軒の持家があるとする。ある時、何かの事情があって、2軒の家の持ち主が家を交換して互いに転居するとする。そして、他人の家を借りる以上は、賃貸料を払う必要があるので家賃が設定されるとする。そうすると、転居の後は家賃というカネの流れが発生する。家の持ち主には家賃収入が発生するし、その家賃は相手方への家賃支払いにそのまま充当されるわけだ。これらの家賃は、当然ながら、GDPにも計上される。双方の世帯が自分の家に住んでいる時は家賃がゼロで、互いに転居した後は家賃が発生してGDPが増える・・・実質的な変化はないのに、GDPが増えるという推計はマクロ的にはおかしいだろう、というのが「帰属家賃」を評価・計上する理由である。

主婦の家事労働も同じである。

いま、隣り合った2軒の専業主婦世帯がある。仮に、それぞれの主婦が互いに隣の家の家事労働を担当するとしよう。他人の家の家事労働をするからには、家政婦(?)サービス料金を受けとる。つまり、ここでカネの流れが発生する。それぞれの世帯は、隣の家の家事を担うサービス料金を受け取るので収入が増えるが、それはそのまま自宅の家事をしてくれた隣の主婦への支払いとして消えて行く。実質的には何も変わらないが、カネの流れが増えた分だけ、GDPは増えるわけである。

これはおかしいでしょう、という問題はちょうど「帰属家賃」の計上と同じなのである。

故に、本来は「主婦の家事労働」を帰属評価した《拡大GDP》を参考数値として公表するというのが、ロジカルな対応である。

・・・とまあ、こんな投稿を前にもしたことがあるわけだ。


このような、いわゆる「自家生産」、「自家消費」の扱いはマクロ統計の肝でもあり、面白い所でもあるわけで、ほかにも例えば農家が生産する農産物の半分が農家で自家消費されるときも同じだ。自家消費(=自家生産)される農産物の価値を、きちんと実質GDPに計上しておかなければ、農産物生産量と原材料投入量との整合性もとれなくなり、マクロ的生産力を測る指標としても役に立たなくなるわけである。

この30年程の間、進行してきたのは

男性労働者が不足してきたので、女性の(主として非正規)労働市場への参入で、生産現場を回してきた

一言でいえば、このような経済政策を選んできた(というのが個人的見方である)。当然の理屈として、男女賃金格差が残っている状態の下では、それまでのコア労働力であった男性の賃金には抑制がかかり、共稼ぎ世帯の割合が上がる。

この流れは、法制面でもモラル面でも、また世論によっても後押しされた。1972年の「勤労婦人福祉法」以降、1985年の「男女雇用機会均等法(通称)」を経て、2007年の同法改正に至るまで、法改正が繰り返された。女性の社会進出と性差別解消は、文字通りの「善」であり、「進歩」の象徴であったわけだ。

マア、上部構造としてはこういう流れであるのだが、下部構造はあくまでも企業の営業現場の要請であったと小生は観ている。

もし家事労働を担ってきた女性が、他世帯の家事労働を担当するだけであれば、家事労働はマクロ的には不変であるため「実質拡大GDP」は変化しない ― 家事労働を帰属評価しない通常の実質GDPは増える。

この30年に進行してきたのは、主婦の家事労働の減少と市場における労働の増加である。確かにゼロであったカネの流れが発生するから、労働市場に参入した女性がGDP成長に寄与してきた、とは言える。しかし、それは通常の実質GDPである。家事労働にあてる時間は削減されてきたので、帰属評価される主婦サービスは減少してきた。故に、社会の付加価値全体がどう増減したかは「実質拡大GDP」を推計するまでは分からない、という理屈になる。


それでも、多分、以前なら6時間かかった家事労働が、色々な耐久消費財の普及によって、今では3時間しかかからない。毎日余った3時間を家庭外労働に活用して、エクスプリシットな賃金収入を得ている。そう観ることが出来るかもしれない。こんな実態があれば、主婦が家庭外の仕事に従事することで、マクロの付加価値は増えるので、家庭外で有給の仕事をするかしないかで、社会保障上の処遇に違いをつけるのは理に適っていると言う人もいるだろう。

他方、もしも主婦の労働は効率化されておらず、単に家庭外労働が増えた分だけ家事労働時間が削減されたのだとすれば、(誰かがしわ寄せを蒙っているはずの)家庭の犠牲があって、企業の営業現場が助かっている。そんな状態かもしれない。もしそうなら、家庭内で働こうが、家庭外の労働市場で働こうが、マクロの付加価値合計には中立的なのだから、どちらの働き方を選ぶかで「公的年金」という社会保障上の処遇に差を生じさせてはならない。こんなロジックもあるかもしれない。

更に、考えてみると、基礎年金は文字通り「基礎的レベルの老後保障」であるから、送った人生とは関わりなく、(育児への貢献だけは別として?)無条件に同額の年金を全ての人に支給するべきだという理念をもつ人もいるかもしれない。そもそも「公的年金」というのは、社会全体への永年の貢献に対するリターンである。保険料支払いがあってこそ保険金(=年金)給付があるという保険会計に忠実でありたいなら、公的年金は民間ビジネスに衣替えするべきだ。公的△△を詠うなら、国の理念を基礎とするのが筋というものだろう。確かに、こんな言い分もあるかもしれない。


小生は、主婦労働の生産性向上が、労働市場への女性参入を支えてきたのだと思っているが、この両面を総合評価して、日本全体としてはどの程度まで付加価値が増えているのかを知りたい時がある。

それには、総務省統計局の『社会生活基本調査』等に基づいて、家事労働を帰属評価した《拡大GDP》を時系列として推計する必要があるのだが、残念ながらこうした問題意識は今のところ皆無であり、平成25年の内閣府による試算を最後に研究が途絶えているというのは、

労働力人口が先細りの中、現場が人繰りでバタバタしながら、基礎的な研究意欲そのものが萎えて来てますヨネ

何だかそんな「貧すれば鈍す」というか、退廃的な気分が、日本社会に蔓延しているのではないだろうかと、暗い気分になることがある。


そして、いま主婦年金の廃止が議論されようとしているのだが、専業主婦が担っている家庭内労働を評価する位の準備作業はしてもよいのではないだろうか? 確かに、経済的な価値の生産をしているのは事実なのだから。

【加筆修正:2024-12-13】





2024年12月8日日曜日

断想: 良寛の感覚と現代日本のハラスメントの感覚は衝突する?

何回か前の投稿で良寛禅師を話題にしたことがあるが、良寛と言えば漢詩人、歌人としても人をひきつけるものがある。特に下の作品は胸をうつ:

• この宮の 森の木(こ)したに 子供等と 遊ぶ夕日は 暮れずともよし

• いにしへを 思へば夢か うつつかも 夜はしぐれの 雨を聞きつつ

• 世の中に まじらぬとには あらねども ひとり遊びぞ 我はまされる

それだけではなく、書簡類にも中々の名句があって、中でも

災難に逢う時節には災難に逢うがよく候

死ぬる時節には死ぬがよく候

は、比較的よく知られているかもしれない。

現代風にいえば

災害で被災する時は被災するのがよい

死ぬときが来れば死ぬがよろしかろう

こういう趣旨になるから、戦後より前の伝統的日本でならまだしも、同じことを現代日本で口にしたり、文章に書いたりすれば、いくら親しくとも、その人は一発でレッドカード、「酷い人」として認定されるのは確実だろう。そのくらい、戦後日本では

何より大切なのは人の命。とにかく死なない、死なせない。 

これが最優先の目標である。これを大前提に、防災は完璧に、人には寄り添うように、誰も死なないように。

まあ、そんな感覚で(表向きは)社会は動いている、というか指示されている(?) 。それを『死ぬる時節には死ぬがよく候』だから、世間の反応は容易に想像がつくというものだ。

しかし、良寛という人は、このような手紙を地震で子を亡くした友人に出している。そして、この言葉が名句となって、今は色紙になって販売もされている ― 例えばここ

この「名句」について述べた記事がネットにはある。

良寛さんのこの言葉、災難や死は人の力ではどうすることもできないだけでなく、どんな事があってもそれをスタートとして頑張っていけよという、戒めもあるのではないでしょうか。

良寛という人は、ただ、子供好きで優しいだけの人物ではなかった。人が生きるというのは何故かという問題に、自分なりの考えに到達していたので、自分にも、他人にも、嘘で包むことなく、誠実な心で友人に手紙を出して思いを伝えられたのだろう(と憶測している)。自らが友人と同じ境遇にあれば、同じ言葉を読みたかった、という意味では上の手紙は至誠に裏打ちされている。

嘘をつかない。友人に対して偽善の言動をするのは最も不誠実である。とすれば、自分にも、他人にも、同じ境遇に対して、同じ言葉をかけるのが「善」というものだろう。

会者定離

必得往生

会えば必ず別れ離れる

必ず往生を得む

ま、こういうことだと思う ― 戦後日本のマナー感覚とは距離があるような気がするが。

良寛という人、知性や感性とはまた違う(後から生まれた人を引き合いに出すのもおかしいが)鈴木大拙のいう「霊性」が豊かであったのだろう。

【加筆修正:2024-12-09】




2024年12月5日木曜日

断想: これは乱暴すぎる読書指導かも? 『善の研究』と『歎異抄』

小生はPayPayユーザーで、Softbankユーザーでもあるので、どうしてもYahoo!ショッピングを利用することも多く、自然と"Yahoo! JAPAN"は頻繁に訪れるサイトになる。

となると、「Yahoo! JAPANニュース」がニュース情報源の一つにもなるのだが、実はYahooニュースでは、既存のマスメディア企業(=オールドメディア)が発信するニュースが大半を占めている。個別に検索をかければ、マイナーな発信を見出すことが出来るが、それは面倒な手間である。

そこで「Googleニュース」に移って転載元をみると、やはり「Yahoo!ニュース」が多い。だから同じニュースをみる。Googleでは、日経やReuterなど発信元を「お気に入り」で指定できるので、Yahooよりはマシだ。が、みるニュースが既存のオールドメディア主体であることに変わりはない。"Rakuten Infoseek News"や"Smart News"など他のニュースサイトも似たような状況だ。

最近の選挙結果から刺激されたのだろう、《ネット vs オールドメディア》という対立図式が、まだなお世間の話題になっているが、こんな対立図式はありません。

インターネットの主なニュースサイトは、その大半がオールドメディアの転載で占められている

この事実に触れる解説を見聞することは(オールドメディアでは)ほとんどない。

だから、個人を含めたあらゆる発信者から情報を集めるには、YoutubeやSNSというチャネルしかない ― もちろんチャネルは複数あるのだが。実はそこでも新聞社やTV局などオールドメディアは情報発信している。ただ、非常に多数の情報発信者の中に、埋没しているだけなのである。

メディア企業の発信する情報と、他の様々な企業、団体、個人ゝが発信する情報とが、文字通りに平等に比較され、取捨選択されて、受け取られているのであるが、この拡大された情報空間自体が悪いものだとはとうてい思われない。

この拡大された情報空間が、社会的進歩でなければ、「社会的進歩」とは何を指しているとお考えか?……、逆に聞きたい、というのが小生のごく最近の疑問の一つであります。

進歩に一時的混乱はつきものである。新しい技術は上手に活用するしか道はない。


★ ★ ★


それはともかく、本日の標題。

最近になって(恥ずかしながら)西田幾多郎の『善の研究』を初めて読んでいるのだが、なぜもっと早く読まなかったかと後悔している。

要するに、日本の哲学者を軽く見ていたのだろうナア、と反省している。


思うに、高校生(中学生にも?)の必読図書によくプラトンの『ソクラテスの弁明』が指定されているが、『善の研究』と『ソクラテスの弁明』を併読すれば、(併読できる)高校生には他には得られない充実感が感じ取れるだろう。更に、唯円の『歎異抄』を読むと深い人間理解につながると感じる。少なくともドストエフスキーの長編小説『カラマーゾフの兄弟』を読むために長い時間をかけるよりは、日本人にはおススメではないか。そう思う次第。

こんな読書プランを誰かが示唆してくれていれば、また違った人生を歩んだことだろうナアと、恨みたい気持ちすらあるのだ、な。

よく夏目漱石の『こころ』が読書リストにあるが、『こころ』だけを読んでも漱石の頭の中が伝わるわけではない。あの作品の中で何を言いたいのか、洞察できる高校生はまずいないと、(自分自身のその当時の感想を思い出すにつけても)個人的には感じている。

★ ★ ★

西田幾多郎が『善の研究』の中で言っていることは

世界は、いかにしてこうであるかという実在の真理(=真実在)を理解することと、なぜこのような目的をもって、このような行為をするべきなのかという善の本質は、二つとも自己自身という同じ存在の意識現象にあることで、文字通り表裏一体の関係にある。故に、自己の本性に沿って、自己の完成という理想に向けて、意志的な努力をする行為は、善そのものであると同時に、それは世界の真理へと向かう努力と同じでもある。それだけではなく、そのような行為は美しいのだ。

(今のところ)こんな概括をもって理解しているところだ。たとえば、中核を占める第3篇『善』の中で、こんな風に述べている。

至誠の善なるのは、これより生ずる結果のために善なるのでない、それ自身において善なるのである。・・・

真の善行というのは客観を主観に従えるのでもなく、また主観が客観に従うのでもない。主客相没し物我相忘れ天地唯一実在の活動あるのみなるに至って、甫めて善行の極致に達するのである。・・・

これに関して、章末の解説ではこんなことが書かれている:

 「各自の客観的世界は各自の人格の反影」であり、「各自の真の自己は各自の前に現われたる独立自全なる実在の体系そのもの」である、と西田はいっている。それだから、各自の真摯な要求は客観的世界の理想とつねに一致したものでなければならない。そして、この点から見て、善なる行為は必ず愛であるといえる。

分かりやすく言い換えると、どんな人もその人の意識において自分という存在があるわけだ。その人にとっての理想の世界がある。理想を思うとき、現実との矛盾を感じ、人は心の中に内面的欲求を感じる。その欲求を満たすことが幸福につながると思う。その幸福を求めて、人は意志をもち、行動するのだというのが、西田幾多郎の行為論だ。つまり「理想」に向かって、自分を偽ることなく、誠実に行動するのが「善」である、と。その理想は、その人が共同体意識を持っている以上、世界にとっても理想なのだ、故に善である。こういうロジックだ(と理解した)。

世界を理想に近づけることが行動の動機であるとすれば、それは自己愛というより、他者愛であって、善は愛に通じるというわけだ。なので、例えば英国流の「功利主義」のように、たとえ利己主義による行為であっても、結果が社会の幸福につながるなら、それは「善」なのだという、利己主義肯定論にはネガティブである。そもそも動機が、没理想的な私利私欲の追求であるなら、結果としてそれが他者を喜ばすことになるとしても、それは他者の幸福ではなく、利益をもたらしたわけで、その利益がどのような目的に使われるか分からないだろう、だから動機が悪であれば、(一見)望ましい結果が得られたとしても、それは善ではない。

功利主義的価値観の否定である、な。

これまでの投稿でも書いたが、小生は功利主義にかなり共感を覚えていた。しかし、う~~~む、中々、説得的であるナアと。そう感じた。 

要するに、現代風の言葉で言い直すと

正しい世界観をもとうと知識を重ねながら、自分にとっての理想は何かと考え、その理想に向かって、自分の個性を花開かせようと、固い意志をもって誠実に努力を続ける。そんな生き方は世の中全体にとっても絶対に「善い」と言えるのじゃないかナア。それに、そんな人は「善い人」であるだけじゃなく、そういう生き方こそ「美しい」。そう思わない?

ま、こんな言い方になるかもしれない。

善という「価値」と、真理という「知識」とを、表裏一体的に理解しているところは、かなりプラトンの道徳観に近い。実際、プラトンは

悪を為すものは、大事なことが分かっていない。要するに、知識が足らないのだ。

こんな人間観と重なる部分は確かにあるようだ。


ただ、思うのだが、善の本質は「理想的な自己に向けての意志的な努力」であるとするなら、ほとんどの人間はハナから出来ない相談でしょう、ということだ。西田が言う「自己の完成に向けての努力」とはいかなる努力なのか、自己の本性とは何なのか、それすら分からないのが《煩悩具足の凡夫》である。

凡夫は善を為せないのか?だとすれば悪人である。そんな悪人も「他力」という超越的観点から救済が約束されている、というのが浄土系仏教の人間観である。即ち、親鸞の悪人正機説がその典型だが、一般に浄土系信仰では

いかなる悪人も含めて、すべての凡夫は、称名念仏によって救済が約束されている。そのままで良いのだ。阿弥陀仏国では、現世の善人も悪人も平等である。

こんな世界観をもつ。

なので、意識の高い系(?)高校生なら、西田幾多郎『善の研究』と唯円『歎異抄』を併せて読了すると、その後何年かの激しい葛藤のすえ、深い人間観、社会観に達することが出来るのは確実である ― 少々、過激で乱暴な「読書指導」ではありますが。

【加筆修正:2024-12-06】

2024年12月1日日曜日

断想: 日本の上層部の心理には「民意に対する警戒感」がある?

多分、というより「ほぼ確実」なところ、兵庫県知事選も名古屋市長選も、更には今夏の東京都知事選で石丸氏が予想を覆して躍進した事も、《民意の現れ》であって、選挙運動で何らかの大きな不正行為があって、投票結果が歪められたのだとは、どうしても思われないのだ、な。

大体、大きな不正行為があれば、有権者も怪しいと感じるし、不正な接触に関与した関係者、有権者は自らの不正を知っているわけだ。それがバレずにいるというのも変だろう。メディアの批判を待たずとも、投票後に直ちに告発、内部通報があるだろうと思われる。

だから、SNSやその他インターネット媒体を駆使して支持者を掘り起こした候補者が当選したり、善戦したりした結果を、このところ既存のマスメディアがずっと非難がましく報道しているのは、要するに

不都合な結果を認めたくない

と。こんな利己的動機の表出ではないか、と。今はそう感じている。


この

民意に疑いを抱く

こんなとても口外できない潜在心理が、実は日本国の上層部には共有されているのではないか?そんな疑念、というか憶測を小生はもっているのだ ― スポーツ新聞記事に目立つ閲覧収入狙いの「コタツ記事」は取りあえず無視するとして。

たとえば、今秋の米大統領選挙でトランプ大統領が圧勝したという事実に、日本の大手マスメディアは今なお批判的である。

トランプ次期大統領が、閣僚予定者を人選しているが、これに対しても例えばテレビのワイドショーでは厳しい批判が相次いでいるのだが、アメリカ国民は(どちらかと言えば)人選を支持しているようだ。例えば、ジェトロ(JETRO)ではこう書いている:

米国のドナルド・トランプ次期大統領は次々と新政権の人事を発表している。最近の世論調査では、大方の要職人事への支持が反対を上回っていることがわかった。

・・・

また、トランプ次期政権に期待することとして、「インフレ・価格上昇を収束させる」が68%と最も支持率が高く、「米国経済の再活性化」(43%)、「米国の価値観の復活」(42%)、「世界中で強く、安全で、恐れられる米国の再構築」(41%)が続いた。

Source:JETRO

URL: https://www.jetro.go.jp/biznews/2024/11/20e93b8803a91368.html

物議をかもしていると「伝えられている」国務長官、国防長官、ロバート・ケネディ・ジュニア氏の保健福祉長官への指名人事も、上の引用元をみると、確かに支持と不支持が拮抗しているが、少なくとも米国民が忌避している人事ではないという事実がある。

なお、JETRO記事の文中にある「エコノミスト」は、日本の毎日新聞社が発行している『週刊エコノミスト』ではなく、英誌"The Economist"のようだ。念のため。

これらのいわゆる「トランプ人事」は、日本国内の主流派メディアはケチョン、ケチョンに叩いているのであるが、ではなぜアメリカ国民の過半数は認めているのだろう?

やはり

トランプ大統領再任も、トランプ人事も、アメリカ国民の民意である

そう理解するしか理解のしようがなく、そればかりではなく、そう理解しなければならないし、そう理解するべきである。こんな風に、小生は勝手に思っている。

つまり

アメリカの民主主義とはこういう社会的意思決定を指す

この原点に戻るのだと思う。

実は、太平洋戦争末期に、というかそもそも太平洋戦争開戦時においても、日本が(絶対に)認めようとしなかった社会のありようは、《民意》で物事が決まるという、アメリカ的民主主義であった。これは当時の日本側の指導層の発言から歴然としている。

日本の指導層が敗戦を決定づけるポツダム宣言を受け入れた第一の理由は

国体護持への見通しがたったからである

その「国体」というのは、

天皇があって、日本があるのであって、逆ではない

という日本の根本原理のことで、正に大和朝廷が発足して以来、権力としては浮沈を繰り返しながら、1945年の敗戦まで(少なくとも)1300年を超える歴史を経てきたと言っても可である。

ちなみに、上の「天皇があって云々」の語句は、つまりは「天皇と天皇が任命する大臣、更に大臣が任命する官僚、以下任命権に基づいて広がる統治機構全体」という意味となる。故に理屈としては

天皇を原点とする統治機構があり、日本という国があるのであって、逆ではない

こう言い換えても理は通る。いわゆる(大分意識は薄まっては来たが)日本の《官尊民卑》の感覚は、日本という国の成立と一体化され、継承されてきた固有の文化でもある……、その時代、時代の社会の実質はともかく、日本の伝統はこうだったと、何だか賛同する自分がいることを自覚する。

この認識に立つことで可能となることに目を向けるのも重要だ。

百済、高句麗滅亡の後、当時としては巨大とも言える1万人以上(数万人に達する可能性も?)の数の移民が朝鮮半島から「渡来人」として日本列島に流入しても、官僚・技術者として多人数の渡来人が朝廷で優遇されるとしても、「皇統」が守られる限り、日本は日本であるというアイデンティティが揺らぐ事態はなかったわけである。

その他の具体的議論もあるが、概略的に考えると、明治維新の後、統治権は天皇にあると規定しなければならなかったのは、権力闘争というより、むしろ、こう考えなければ「日本」という国自体が、蜃気楼のような「空中楼閣」となる。天皇が統治する限り、どれほど西洋化を進めても、日本は日本である、と。そんな理解があったのではないかナと、小生は勝手に想像しているのだ。

だから、太平洋戦争敗戦後に、GHQが日本の国家改造を断行しようと考えたとき、戦前の明治憲法を戦後の憲法に書き換える、すなわち上の順序を逆にして

日本があって、天皇がある

と。つまり、民意主導の国家に作り換えようとしたわけである。これが戦後日本の民主主義の出発点である ― この認識が、歴史的事実に即して、真相なのかどうか、疑問なしとしないが、要するにアメリカ的民主主義のイデオロギーに基づいて、憲法を書き換えたわけである。

しかし、これを受け入れた日本の側の意識と押しつけた(?)アメリカの側の意識には大きな意識のズレがあった。

所詮、憲法と言っても、単なる文章に過ぎない。しかも日本語で書かれているから、アメリカ人にはまず感覚が伝わらない。特に、

民意が他の全てに優先する

という民主主義の原理を、当時の日本の上層部がそのまま受け入れたとは小生にはとうてい想像できないのだ、な。「神聖なる皇位」に代わる「神聖なる民意」という観念に対して、本能的な拒絶感が胸中に内在していたことは歴然としている。


例えば、その現れの一つとして、日本の法令の大半が、官僚組織の内部で検討され、政権(≒保守政党)との調整を経てから、内閣から国会に法案が上程され、(保守政党主導で)可決され施行される。戦後日本のこんな立法システムを挙げてもよいかもしれない。確かに民意が反映される方式ではあるが、では民意に基づいて法が制定され、運用されているかと言えば、現時点でも違和感をもつ日本人は多いだろう。

日本の統治機構は、今でも、肝心要のところで民主主義精神の血肉化に失敗している、というのが小生の社会観である。

弱い政府権力が、必ずしも民主主義的であるとは限らず、政府の強い権限が必ずしも独裁的であるとは言えない。ロジカルに考えると、民主主義的な政府は、本来なら、強力な実行力をもつ強い政府になるはずなのである。



日本国憲法は、憲法改正へのハードルが極めて高い「硬性憲法」であるのだが、その理由の一つは、

「民意」によって天皇制(≒国のかたち)が改廃される事態を出来る限り避けるためである

小生は勝手にそう理解している ― 武力不行使の徹底もあるのだとは思うが。

こう考えると、古代から続く天皇制を現に続けている日本が、成文憲法で天皇を規定するという現在の基本法制自体に、天皇制との相性の悪さがある。

むしろ国の形を成文憲法として条文で定める方法を敢えてとらず、国の「伝統」として王制を維持するというイギリス人の知恵(というか狡知)に学ぶところは大きい ― 成文化すると成文によって王制が廃止される可能性がある、それは王制と言えないであろう 。

―  ―  ―  それでも、貴族以外の平民との通婚が当然のように繰り返されるとすれば、5世代(=約100年余)もたてば、「王族」といっても

王の家系の血は $$ 0.5^{5} = 0.03125 $$ だから、体内に3パーセント少々しか流れていないという計算になる。王の直系だから王位継承資格者ではあるが、実質はもはや平民との「雑種」、いやほとんど「平民」と言うべきだろう。王位の世襲は血筋の尊貴さに本質がある。そうなれば、法の前の平等という観点からも、その時の王位継承資格者は誰も国王としては認め難いという雰囲気になるのは、確実に予想できる推移である。

この理屈は日本の皇室にも当てはまる。

やはり民主主義の理念と天皇制・王制との相性は極めて悪い。それだけは言えそうだ。


それはともかく、

多分、戦後日本の発足当時の上のような心理は、政治家、官僚、大手メディア上層部にも共有されていたに違いなく、最近において何となく伝わってくるのが

民意の爆発的表出に対する警戒感と怖れ 

である。「驚き」ではなく「怖れ」が混じっている所に日米の違いがあると感じたりする。

SNSなどのネット世論が大手マスメディアを超える影響力を示し、予想もしない選挙結果になったとき、三権(立法・行政・司法)に席を占める人たち(=及び直接・間接に依存する上級国民?)の胸をよぎった思いは、おそらく、明治末期の「日比谷焼き討ち事件」や護憲運動の熱狂の前に退陣を余儀なくされた第三次桂太郎内閣(=大正政変)をみた時の指導層の怖れに、通じるところがあったに違いない。

最近の衝撃に過剰反応して、「SNS条例」や「集会条例」、令和版・治安維持法などの「検討」が始まらないことを祈るばかりだ。


予想せざる民意に戸惑う上層階層(≒政治的・経済的・知的エリート層)の心理の根底にあるのは、必ずしも「民意はコントロールできない」という焦りだけではない。特に日本においては、遠く遡る

終戦直後にあった左翼革命(=天皇制廃止)への恐怖と民意に対する警戒感

この感覚が、時代を越えて継承されているかもしれず、わきおこる民意への不安が色々な場面でいま表面化しているのではないか? だとすれば、この不安は、そもそも敗戦当初から警戒心として実は初めからあった。というより、そもそも明治維新の(民意に反する)国造り以来、ずっと日本のエリート層が持ち続けてきた潜在心理であった……

そういうことではないかナアと観ております。

【加筆修正:2024-12-02、12-04】