2024年12月18日水曜日

断想: 冤罪を防ぐ第一歩が何であるかは明らかだと思うが

カミさんと簡単な朝食を ― ヨーグルトとバナナ、珈琲だけの簡単なメニューだが ― 摂りながら、いつものワイドショーを視ていると、

冤罪はなぜなくせないのか?

こんな話題があった。

ワイドショーにしては真っ当な話題だ。が、専門家の意見はいかにも専門家然としていて、これでは世論になんの影響力ももたないだろうナア……と感じました。具体的内容は、いま書いているこの瞬間においても、もう『何だったかな?』と、『忘れてしまいました』と、そんな内容であった(と思われる)。


思うに、冤罪を恒常的にゼロに抑えるのは困難だと考えるが、出来る限り冤罪の被害者をなくすには、一つの原則を徹底するのが第一歩であろうと思っている。但し、実に簡単なことではあるが、国民の意識改革が求められるので、徹底するのは難しいかもしれない。

それは

△△が〇〇の容疑で逮捕されました。動機、犯行など詳細は取り調べが進むにつれて明らかになる。そんな状況です。

という報道が現在は多いのだが、これを

△△が〇〇の容疑で逮捕されました。これが不当逮捕でないという詳細な説明が捜査並びに司法当局には求められます。

文章で書くと極めて簡単だが、報道方針を上のように180度逆転するだけで、冤罪防止には極めて効果的であろうと確信する。

当然、検察に対しても

〇〇の容疑で逮捕され送検されていた△△が本日起訴されました。これが不当な起訴ではないという根拠が切に求められています。

こうした報道方針が厳守されるだけで《冤罪を生む不当な裁判》を防ぐ第一歩になることだろう。

要するに、

人を逮捕したり、起訴したりする以上は、その具体的根拠を明示する義務は当局の側にあり、容疑者自らがシロであることを証明する義務はない。

あらゆる場面において、いわゆる《推定無罪》の原則を、最初の報道段階から徹底して意識するだけで済む。これだけで情況は大いに改善されるはずだ。

もちろん第一歩であって、必要な二歩目、三歩目はある。が、これはまた別の機会に。

 

コントロール不能なSNSはともかく、マスメディア企業が申し合わせれば、上のように方針転換するのは簡単に実行できる(はずだ)。

しかし、日本人の、というより日本という国の歴史を通して染みついた強固な《お上意識》と《お国第一》というか、強固な《帰属意識》をかなぐり捨てて、ハナから

警察・検察当局のやることを疑いの眼差しでみる

日本人たる個人ゞの自尊心にかけて(?)、常にこんな感覚をもつというのは、果たして日本人に出来るのかどうか、定かでない。

が、ともかく

冤罪を防ぐ第一歩が何であるかは明らかだ

とは思っている。


大体、(必要もない)戦争が起きる根本的原因は、国民が政府を信じることである。政府が弱体で、信頼されていない国は、戦争をするのも困難である。無能か有能かは問わず、警戒されていれば、サイズも権限も大きくは出来ない。自動的に小さい政府のメリットが得られる ― もちろん(具体的な予想を示すべきであるが)一方的に「侵略」された場合に、有効に反撃することもまた困難になるが。

【加筆修正:20524-12-19】




2024年12月16日月曜日

ホンノ一言: クルーグマン、最後の寄稿に関して

日本の新聞には見切りをつけて、ここ近年はThe New York TimesのWEB版を購読していたのだが、NYTに定期的に寄稿するコラムニストをしていたPaul Krugmanが、どうやらコラムニストを辞めるようだ。

最後の寄稿はこんな書き出しだ:

This is my final column for The New York Times, where I began publishing my opinions in January 2000. I’m retiring from The Times, not the world, so I’ll still be expressing my views in other places. But this does seem like a good occasion to reflect on what has changed over these past 25 years.

Source: The New York Times

Date:  Dec. 9, 2024

Author: Paul Krugman

URL: https://www.nytimes.com/2024/12/09/opinion/elites-euro-social-media.html


経済問題の理論的解明と提案には余人にはない鋭さを感じる一方、その価値観や政治的理念には辟易したり抵抗感を覚えることが多かった。そんな複雑な読後感が多かったが、そもそもKrugmanの書くコラムがなければ、NYTを購読することはなかった。

それが今後はなくなるわけだから、はりあいがないわけで、関心がなくなった。早速ながら購読を停止した。

購読料金はNYTの毎月約400円から2000円少々に上がるが、それでも日本経済新聞の4000円余りよりは余程イイ、そう思って英誌The Economistを2年まとめてサブスクライブしたところだ。

Krugmanの寄稿の最後はこんな感じだ:

We may never recover the kind of faith in our leaders — belief that people in power generally tell the truth and know what they’re doing — that we used to have. Nor should we. But if we stand up to the kakistocracy — rule by the worst — that’s emerging as we speak, we may eventually find our way back to a better world.
Google翻訳ではこんな邦文になる:
かつて私たちが持っていたような指導者への信頼、つまり権力を持つ人々は一般的に真実を語り、何をしているかわかっているという信念を、私たちは二度と取り戻せないかもしれない。また、そうすべきでもない。しかし、今まさに出現しつつあるカキストクラシー、つまり最悪の人々による支配に立ち向かえば、私たちは最終的により良い世界への道を見つけるかもしれない。

単なる言葉の表現だが、機械翻訳はやはり淡白になる。 

かつて私たちがもっていた『権力にある人は、嘘でなく真実を語るはずで、何を自分がしようとしているか分かっているはずだ』という、「指導者がもつべき信頼感」というものを、再び感じることは、もう決してないかもしれない。
これでもいい訳ではないが、せめてこの位の感情をこめれば訣別の辞としては相応しい。

ただ次の"Nor should we"(=「またそうすべきでもない」)の箇所は、もう一つ言いたいことが伝わらない。多分、
指導者を信じられる時代は終わったのだ
「信じてはいけない」。こう言いたいのだろう。
何故なら最悪の人物による統治がこれから始まるからだ
まあ、この位、国民から選ばれた次期大統領を真っ向から否定し、明確に自己の政治的立場を述べれば、どんな読者であっても「偽善」を感じることはない。何しろAmazonのベゾフ氏、Metaのザッカーバーグ氏、OpenAIのアルトマン氏などBigTechの大物たちが巨額の寄付を行い、トランプ氏の軍門に下っている。いまこうして批判すれば何らかの不利益が予想されこそすれ、クルーグマン氏の得になることはほとんどなく、これが偽善である理屈はない。従来と同じ政治的主張をただ貫いているだけである。ただ、今回は最終稿となった点が違う。

多分、ジャーナリズムの(真面目な)読者が(本当に)求めているのは率直な意見だ。

真っ当なジャーナリズムが、真剣に相手にするべき顧客ターゲットは真っ当な読者であるべきなのだろう ― ここでもまた小生は能力分布という言葉を連想するが。

ジャーナリズムによらず、学問を含めた知的活動に少しでも関係する人にとって率直であることは不可欠な資質である。礼儀も不必要だし、マナーも要らない。優しさも有害無益だ。自分の言葉でただ「誠」を語ればよい。全ての知的活動において小生はこの一言に尽きると思うのだ、な。


亡くなった父が好きだった言葉は
己、信じて直ければ、敵百万人ありとても、我ゆかん
という言葉だった。
それには雑念、邪念を消して、純粋でなければならない
と。これが口癖だった。

しかし、息子であった小生の目からは
だから、困難な新規事業をやり遂げる責任感に押しつぶされて負けたのじゃないか。家族がどれだけ苦労したか分からない。
こんな風に思われるばかりで、父の好きだった上の言葉は最も嫌いな言葉だった。

意外にも最近になって、父が言いたかったこと、というか父の世代が信じていた理念の正当性を見直したくなる自分がいる。

上に引用したKrugmanの最後の寄稿は、法廷を去るソクラテスの姿を描いたプラトン作『ソクラテスの弁明』の最後の情景を、何だか思い出させるものがある。

2024年12月13日金曜日

断想: 凡夫だなあ私は、と感じる朝

清水寺、というか今年の漢字を公募した結果は、(5度目であったか?)「金」となった由。さすがに「黄金の国ジパング」だ。

個人的には「騒」としたいところなのだ、な。「騒がしい」、「お家騒動」、「騒乱」等々の《騒》である。

政治と民主主義、物価と生活、エンタメ、スポーツ・・・。思い出すだけでも《安》とは真逆の年であった。

選挙でこれだけ騒いだ年は稀である。

大谷選手からオリンピック・パラリンピック、大相撲からバスケット。イヤイヤ、スポーツ界がこれほど騒がしかった年も稀である。

海外では、ロシア=ウクライナ戦争にいまだ終わりが見えず、ハマスのテロとイスラエルの過剰報復(?)が悲惨な情況を招いている。

正月の能登大地震で明け、韓国の尹大統領による戒厳令宣言とそれが不発に終わった後の大統領弾劾訴追騒動で年が暮れる・・・

加えて、カミさんが初夏には胃カメラの帰りに買い物をして気を失いかけた。盛夏から晩秋にかけて、かなり厄介な眼病に罹り、通院に付き添うなどしてバタバタとした。年の初めには、郷里である愛媛・松山で暮らしていた次叔父が他界した。

いやはや、何だか世間も、身の回りも騒然とした一年でありました・・・・

来年は安定の「安」を象徴する一年になってほしい。心より祈願する。

基礎年金の「第3号被保険者」制度の廃止については、今回見直しでは検討しないと決まったそうだ。

概ね、経済学者は妥当な結論、と。法学部や法律畑の諸先生方は不公平は是正するべし、と。

同じ公平でも、 実質的公平と法律上の公平とで、理解の仕方が違う。小生は、経済学の視点から社会をみる習慣がついているので、滑り台を上から滑っても、下から昇っても、危険の度合いはほぼ同じであり、子供がそれぞれ同じように楽しければヨイではないかと、機能本位で考えてしまう。そんなとき、滑り台は上から滑る遊具として設計されている以上、下から昇るのは危険であり、それを放置するのは安全管理義務に違反していると、そんな法律家の発想が論じられると、「自由を抑えつけておいて法は守られているとタカをくくる。そんな風だから、みんな楽しくなくなり、不幸になるのだ」と、どうしても「法匪」呼ばわりをして苛々としてしまう。

ま、例え話である。

これがまさに煩悩。「貪・瞋・癡(トン・ジン・チ)」の「三毒」の中の「瞋」が、苛々とする心なのであるが、毎朝6時に起きて読経する習慣になったといっても、人間は中々悔い改められない生き物だと、つくづく己の凡夫ぶりに気がつく。


2024年12月10日火曜日

ホンノ一言: 主婦年金廃止を提案する前に、基礎研究はしっかりやっているのだろうか?

 基礎年金の「第3号被保険者」という制度は、確かに「専業主婦優遇政策」だと思う。うちのカミさんも、この政策によって心強い気持ちを持てているのだと思う。


そもそも明治に始まった軍人恩給など、国の「恩給制度」では、奉職した本人にのみ恩給が支給されたわけであり、妻は対象外であった ― 但し、受給者本人が亡くなった後は、未亡人等に「普通扶助料」(だったかな?)が支給されたはずである(が、詳しくは承知していない)。

戦後、恩給から年金保険制度に衣替えしてからも事情は変わらなかったが、仮に夫婦が離婚すると妻は無年金になってしまう。その非条理を改善するために、専業主婦であっても基礎年金受給権や離婚時の年金分割などの措置が為されてきた。大雑把だが、そう理解している。


ところが、専業主婦世帯の減少にともない、主婦年金廃止の提言が経団連からされているようだ。多分、

専業主婦優遇政策を今後もずっと続ける必要はないヨネ

と、まあ、こんな了解が日本社会の中で形成されつつあるのだろう。

ただ、思うのだが、このような意見の基礎部分に

専業主婦は生産活動に寄与していないし、GDPへの貢献もゼロだヨネ

こんな認識があるとすれば、それは明らかな間違いである。この点については、前にも投稿したことがあるので、再述しておきたい。

考え方は、持ち家の「帰属家賃」の扱い方に近い。即ち、「家賃」というカネの流れが発生していないにも拘わらず、持家の持ち主が自ら所有する持家に家賃を支払っていると擬制してGDPを推計するのは何故か、という問題だ。

なぜこんな現実と異なる計算法を採っているかといえば、仮にいま2軒の持家があるとする。ある時、何かの事情があって、2軒の家の持ち主が家を交換して互いに転居するとする。そして、他人の家を借りる以上は、賃貸料を払う必要があるので家賃が設定されるとする。そうすると、転居の後は家賃というカネの流れが発生する。家の持ち主には家賃収入が発生するし、その家賃は相手方への家賃支払いにそのまま充当されるわけだ。これらの家賃は、当然ながら、GDPにも計上される。双方の世帯が自分の家に住んでいる時は家賃がゼロで、互いに転居した後は家賃が発生してGDPが増える・・・実質的な変化はないのに、GDPが増えるという推計はマクロ的にはおかしいだろう、というのが「帰属家賃」を評価・計上する理由である。

主婦の家事労働も同じである。

いま、隣り合った2軒の専業主婦世帯がある。仮に、それぞれの主婦が互いに隣の家の家事労働を担当するとしよう。他人の家の家事労働をするからには、家政婦(?)サービス料金を受けとる。つまり、ここでカネの流れが発生する。それぞれの世帯は、隣の家の家事を担うサービス料金を受け取るので収入が増えるが、それはそのまま自宅の家事をしてくれた隣の主婦への支払いとして消えて行く。実質的には何も変わらないが、カネの流れが増えた分だけ、GDPは増えるわけである。

これはおかしいでしょう、という問題はちょうど「帰属家賃」の計上と同じなのである。

故に、本来は「主婦の家事労働」を帰属評価した《拡大GDP》を参考数値として公表するというのが、ロジカルな対応である。

・・・とまあ、こんな投稿を前にもしたことがあるわけだ。


このような、いわゆる「自家生産」、「自家消費」の扱いはマクロ統計の肝でもあり、面白い所でもあるわけで、ほかにも例えば農家が生産する農産物の半分が農家で自家消費されるときも同じだ。自家消費(=自家生産)される農産物の価値を、きちんと実質GDPに計上しておかなければ、農産物生産量と原材料投入量との整合性もとれなくなり、マクロ的生産力を測る指標としても役に立たなくなるわけである。

この30年程の間、進行してきたのは

男性労働者が不足してきたので、女性の(主として非正規)労働市場への参入で、生産現場を回してきた

一言でいえば、このような経済政策を選んできた(というのが個人的見方である)。当然の理屈として、男女賃金格差が残っている状態の下では、それまでのコア労働力であった男性の賃金には抑制がかかり、共稼ぎ世帯の割合が上がる。

この流れは、法制面でもモラル面でも、また世論によっても後押しされた。1972年の「勤労婦人福祉法」以降、1985年の「男女雇用機会均等法(通称)」を経て、2007年の同法改正に至るまで、法改正が繰り返された。女性の社会進出と性差別解消は、文字通りの「善」であり、「進歩」の象徴であったわけだ。

マア、上部構造としてはこういう流れであるのだが、下部構造はあくまでも企業の営業現場の要請であったと小生は観ている。

もし家事労働を担ってきた女性が、他世帯の家事労働を担当するだけであれば、家事労働はマクロ的には不変であるため「実質拡大GDP」は変化しない ― 家事労働を帰属評価しない通常の実質GDPは増える。

この30年に進行してきたのは、主婦の家事労働の減少と市場における労働の増加である。確かにゼロであったカネの流れが発生するから、労働市場に参入した女性がGDP成長に寄与してきた、とは言える。しかし、それは通常の実質GDPである。家事労働にあてる時間は削減されてきたので、帰属評価される主婦サービスは減少してきた。故に、社会の付加価値全体がどう増減したかは「実質拡大GDP」を推計するまでは分からない、という理屈になる。


それでも、多分、以前なら6時間かかった家事労働が、色々な耐久消費財の普及によって、今では3時間しかかからない。毎日余った3時間を家庭外労働に活用して、エクスプリシットな賃金収入を得ている。そう観ることが出来るかもしれない。こんな実態があれば、主婦が家庭外の仕事に従事することで、マクロの付加価値は増えるので、家庭外で有給の仕事をするかしないかで、社会保障上の処遇に違いをつけるのは理に適っていると言う人もいるだろう。

他方、もしも主婦の労働は効率化されておらず、単に家庭外労働が増えた分だけ家事労働時間が削減されたのだとすれば、(誰かがしわ寄せを蒙っているはずの)家庭の犠牲があって、企業の営業現場が助かっている。そんな状態かもしれない。もしそうなら、家庭内で働こうが、家庭外の労働市場で働こうが、マクロの付加価値合計には中立的なのだから、どちらの働き方を選ぶかで「公的年金」という社会保障上の処遇に差を生じさせてはならない。こんなロジックもあるかもしれない。

更に、考えてみると、基礎年金は文字通り「基礎的レベルの老後保障」であるから、送った人生とは関わりなく、(育児への貢献だけは別として?)無条件に同額の年金を全ての人に支給するべきだという理念をもつ人もいるかもしれない。そもそも「公的年金」というのは、社会全体への永年の貢献に対するリターンである。保険料支払いがあってこそ保険金(=年金)給付があるという保険会計に忠実でありたいなら、公的年金は民間ビジネスに衣替えするべきだ。公的△△を詠うなら、国の理念を基礎とするのが筋というものだろう。確かに、こんな言い分もあるかもしれない。


小生は、主婦労働の生産性向上が、労働市場への女性参入を支えてきたのだと思っているが、この両面を総合評価して、日本全体としてはどの程度まで付加価値が増えているのかを知りたい時がある。

それには、総務省統計局の『社会生活基本調査』等に基づいて、家事労働を帰属評価した《拡大GDP》を時系列として推計する必要があるのだが、残念ながらこうした問題意識は今のところ皆無であり、平成25年の内閣府による試算を最後に研究が途絶えているというのは、

労働力人口が先細りの中、現場が人繰りでバタバタしながら、基礎的な研究意欲そのものが萎えて来てますヨネ

何だかそんな「貧すれば鈍す」というか、退廃的な気分が、日本社会に蔓延しているのではないだろうかと、暗い気分になることがある。


そして、いま主婦年金の廃止が議論されようとしているのだが、専業主婦が担っている家庭内労働を評価する位の準備作業はしてもよいのではないだろうか? 確かに、経済的な価値の生産をしているのは事実なのだから。

【加筆修正:2024-12-13】





2024年12月8日日曜日

断想: 良寛の感覚と現代日本のハラスメントの感覚は衝突する?

何回か前の投稿で良寛禅師を話題にしたことがあるが、良寛と言えば漢詩人、歌人としても人をひきつけるものがある。特に下の作品は胸をうつ:

• この宮の 森の木(こ)したに 子供等と 遊ぶ夕日は 暮れずともよし

• いにしへを 思へば夢か うつつかも 夜はしぐれの 雨を聞きつつ

• 世の中に まじらぬとには あらねども ひとり遊びぞ 我はまされる

それだけではなく、書簡類にも中々の名句があって、中でも

災難に逢う時節には災難に逢うがよく候

死ぬる時節には死ぬがよく候

は、比較的よく知られているかもしれない。

現代風にいえば

災害で被災する時は被災するのがよい

死ぬときが来れば死ぬがよろしかろう

こういう趣旨になるから、戦後より前の伝統的日本でならまだしも、同じことを現代日本で口にしたり、文章に書いたりすれば、いくら親しくとも、その人は一発でレッドカード、「酷い人」として認定されるのは確実だろう。そのくらい、戦後日本では

何より大切なのは人の命。とにかく死なない、死なせない。 

これが最優先の目標である。これを大前提に、防災は完璧に、人には寄り添うように、誰も死なないように。

まあ、そんな感覚で(表向きは)社会は動いている、というか指示されている(?) 。それを『死ぬる時節には死ぬがよく候』だから、世間の反応は容易に想像がつくというものだ。

しかし、良寛という人は、このような手紙を地震で子を亡くした友人に出している。そして、この言葉が名句となって、今は色紙になって販売もされている ― 例えばここ

この「名句」について述べた記事がネットにはある。

良寛さんのこの言葉、災難や死は人の力ではどうすることもできないだけでなく、どんな事があってもそれをスタートとして頑張っていけよという、戒めもあるのではないでしょうか。

良寛という人は、ただ、子供好きで優しいだけの人物ではなかった。人が生きるというのは何故かという問題に、自分なりの考えに到達していたので、自分にも、他人にも、嘘で包むことなく、誠実な心で友人に手紙を出して思いを伝えられたのだろう(と憶測している)。自らが友人と同じ境遇にあれば、同じ言葉を読みたかった、という意味では上の手紙は至誠に裏打ちされている。

嘘をつかない。友人に対して偽善の言動をするのは最も不誠実である。とすれば、自分にも、他人にも、同じ境遇に対して、同じ言葉をかけるのが「善」というものだろう。

会者定離

必得往生

会えば必ず別れ離れる

必ず往生を得む

ま、こういうことだと思う ― 戦後日本のマナー感覚とは距離があるような気がするが。

良寛という人、知性や感性とはまた違う(後から生まれた人を引き合いに出すのもおかしいが)鈴木大拙のいう「霊性」が豊かであったのだろう。

【加筆修正:2024-12-09】




2024年12月5日木曜日

断想: これは乱暴すぎる読書指導かも? 『善の研究』と『歎異抄』

小生はPayPayユーザーで、Softbankユーザーでもあるので、どうしてもYahoo!ショッピングを利用することも多く、自然と"Yahoo! JAPAN"は頻繁に訪れるサイトになる。

となると、「Yahoo! JAPANニュース」がニュース情報源の一つにもなるのだが、実はYahooニュースでは、既存のマスメディア企業(=オールドメディア)が発信するニュースが大半を占めている。個別に検索をかければ、マイナーな発信を見出すことが出来るが、それは面倒な手間である。

そこで「Googleニュース」に移って転載元をみると、やはり「Yahoo!ニュース」が多い。だから同じニュースをみる。Googleでは、日経やReuterなど発信元を「お気に入り」で指定できるので、Yahooよりはマシだ。が、みるニュースが既存のオールドメディア主体であることに変わりはない。"Rakuten Infoseek News"や"Smart News"など他のニュースサイトも似たような状況だ。

最近の選挙結果から刺激されたのだろう、《ネット vs オールドメディア》という対立図式が、まだなお世間の話題になっているが、こんな対立図式はありません。

インターネットの主なニュースサイトは、その大半がオールドメディアの転載で占められている

この事実に触れる解説を見聞することは(オールドメディアでは)ほとんどない。

だから、個人を含めたあらゆる発信者から情報を集めるには、YoutubeやSNSというチャネルしかない ― もちろんチャネルは複数あるのだが。実はそこでも新聞社やTV局などオールドメディアは情報発信している。ただ、非常に多数の情報発信者の中に、埋没しているだけなのである。

メディア企業の発信する情報と、他の様々な企業、団体、個人ゝが発信する情報とが、文字通りに平等に比較され、取捨選択されて、受け取られているのであるが、この拡大された情報空間自体が悪いものだとはとうてい思われない。

この拡大された情報空間が、社会的進歩でなければ、「社会的進歩」とは何を指しているとお考えか?……、逆に聞きたい、というのが小生のごく最近の疑問の一つであります。

進歩に一時的混乱はつきものである。新しい技術は上手に活用するしか道はない。


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それはともかく、本日の標題。

最近になって(恥ずかしながら)西田幾多郎の『善の研究』を初めて読んでいるのだが、なぜもっと早く読まなかったかと後悔している。

要するに、日本の哲学者を軽く見ていたのだろうナア、と反省している。


思うに、高校生(中学生にも?)の必読図書によくプラトンの『ソクラテスの弁明』が指定されているが、『善の研究』と『ソクラテスの弁明』を併読すれば、(併読できる)高校生には他には得られない充実感が感じ取れるだろう。更に、唯円の『歎異抄』を読むと深い人間理解につながると感じる。少なくともドストエフスキーの長編小説『カラマーゾフの兄弟』を読むために長い時間をかけるよりは、日本人にはおススメではないか。そう思う次第。

こんな読書プランを誰かが示唆してくれていれば、また違った人生を歩んだことだろうナアと、恨みたい気持ちすらあるのだ、な。

よく夏目漱石の『こころ』が読書リストにあるが、『こころ』だけを読んでも漱石の頭の中が伝わるわけではない。あの作品の中で何を言いたいのか、洞察できる高校生はまずいないと、(自分自身のその当時の感想を思い出すにつけても)個人的には感じている。

★ ★ ★

西田幾多郎が『善の研究』の中で言っていることは

世界は、いかにしてこうであるかという実在の真理(=真実在)を理解することと、なぜこのような目的をもって、このような行為をするべきなのかという善の本質は、二つとも自己自身という同じ存在の意識現象にあることで、文字通り表裏一体の関係にある。故に、自己の本性に沿って、自己の完成という理想に向けて、意志的な努力をする行為は、善そのものであると同時に、それは世界の真理へと向かう努力と同じでもある。それだけではなく、そのような行為は美しいのだ。

(今のところ)こんな概括をもって理解しているところだ。たとえば、中核を占める第3篇『善』の中で、こんな風に述べている。

至誠の善なるのは、これより生ずる結果のために善なるのでない、それ自身において善なるのである。・・・

真の善行というのは客観を主観に従えるのでもなく、また主観が客観に従うのでもない。主客相没し物我相忘れ天地唯一実在の活動あるのみなるに至って、甫めて善行の極致に達するのである。・・・

これに関して、章末の解説ではこんなことが書かれている:

 「各自の客観的世界は各自の人格の反影」であり、「各自の真の自己は各自の前に現われたる独立自全なる実在の体系そのもの」である、と西田はいっている。それだから、各自の真摯な要求は客観的世界の理想とつねに一致したものでなければならない。そして、この点から見て、善なる行為は必ず愛であるといえる。

分かりやすく言い換えると、どんな人もその人の意識において自分という存在があるわけだ。その人にとっての理想の世界がある。理想を思うとき、現実との矛盾を感じ、人は心の中に内面的欲求を感じる。その欲求を満たすことが幸福につながると思う。その幸福を求めて、人は意志をもち、行動するのだというのが、西田幾多郎の行為論だ。つまり「理想」に向かって、自分を偽ることなく、誠実に行動するのが「善」である、と。その理想は、その人が共同体意識を持っている以上、世界にとっても理想なのだ、故に善である。こういうロジックだ(と理解した)。

世界を理想に近づけることが行動の動機であるとすれば、それは自己愛というより、他者愛であって、善は愛に通じるというわけだ。なので、例えば英国流の「功利主義」のように、たとえ利己主義による行為であっても、結果が社会の幸福につながるなら、それは「善」なのだという、利己主義肯定論にはネガティブである。そもそも動機が、没理想的な私利私欲の追求であるなら、結果としてそれが他者を喜ばすことになるとしても、それは他者の幸福ではなく、利益をもたらしたわけで、その利益がどのような目的に使われるか分からないだろう、だから動機が悪であれば、(一見)望ましい結果が得られたとしても、それは善ではない。

功利主義的価値観の否定である、な。

これまでの投稿でも書いたが、小生は功利主義にかなり共感を覚えていた。しかし、う~~~む、中々、説得的であるナアと。そう感じた。 

要するに、現代風の言葉で言い直すと

正しい世界観をもとうと知識を重ねながら、自分にとっての理想は何かと考え、その理想に向かって、自分の個性を花開かせようと、固い意志をもって誠実に努力を続ける。そんな生き方は世の中全体にとっても絶対に「善い」と言えるのじゃないかナア。それに、そんな人は「善い人」であるだけじゃなく、そういう生き方こそ「美しい」。そう思わない?

ま、こんな言い方になるかもしれない。

善という「価値」と、真理という「知識」とを、表裏一体的に理解しているところは、かなりプラトンの道徳観に近い。実際、プラトンは

悪を為すものは、大事なことが分かっていない。要するに、知識が足らないのだ。

こんな人間観と重なる部分は確かにあるようだ。


ただ、思うのだが、善の本質は「理想的な自己に向けての意志的な努力」であるとするなら、ほとんどの人間はハナから出来ない相談でしょう、ということだ。西田が言う「自己の完成に向けての努力」とはいかなる努力なのか、自己の本性とは何なのか、それすら分からないのが《煩悩具足の凡夫》である。

凡夫は善を為せないのか?だとすれば悪人である。そんな悪人も「他力」という超越的観点から救済が約束されている、というのが浄土系仏教の人間観である。即ち、親鸞の悪人正機説がその典型だが、一般に浄土系信仰では

いかなる悪人も含めて、すべての凡夫は、称名念仏によって救済が約束されている。そのままで良いのだ。阿弥陀仏国では、現世の善人も悪人も平等である。

こんな世界観をもつ。

なので、意識の高い系(?)高校生なら、西田幾多郎『善の研究』と唯円『歎異抄』を併せて読了すると、その後何年かの激しい葛藤のすえ、深い人間観、社会観に達することが出来るのは確実である ― 少々、過激で乱暴な「読書指導」ではありますが。

【加筆修正:2024-12-06】

2024年12月1日日曜日

断想: 日本の上層部の心理には「民意に対する警戒感」がある?

多分、というより「ほぼ確実」なところ、兵庫県知事選も名古屋市長選も、更には今夏の東京都知事選で石丸氏が予想を覆して躍進した事も、《民意の現れ》であって、選挙運動で何らかの大きな不正行為があって、投票結果が歪められたのだとは、どうしても思われないのだ、な。

大体、大きな不正行為があれば、有権者も怪しいと感じるし、不正な接触に関与した関係者、有権者は自らの不正を知っているわけだ。それがバレずにいるというのも変だろう。メディアの批判を待たずとも、投票後に直ちに告発、内部通報があるだろうと思われる。

だから、SNSやその他インターネット媒体を駆使して支持者を掘り起こした候補者が当選したり、善戦したりした結果を、このところ既存のマスメディアがずっと非難がましく報道しているのは、要するに

不都合な結果を認めたくない

と。こんな利己的動機の表出ではないか、と。今はそう感じている。


この

民意に疑いを抱く

こんなとても口外できない潜在心理が、実は日本国の上層部には共有されているのではないか?そんな疑念、というか憶測を小生はもっているのだ ― スポーツ新聞記事に目立つ閲覧収入狙いの「コタツ記事」は取りあえず無視するとして。

たとえば、今秋の米大統領選挙でトランプ大統領が圧勝したという事実に、日本の大手マスメディアは今なお批判的である。

トランプ次期大統領が、閣僚予定者を人選しているが、これに対しても例えばテレビのワイドショーでは厳しい批判が相次いでいるのだが、アメリカ国民は(どちらかと言えば)人選を支持しているようだ。例えば、ジェトロ(JETRO)ではこう書いている:

米国のドナルド・トランプ次期大統領は次々と新政権の人事を発表している。最近の世論調査では、大方の要職人事への支持が反対を上回っていることがわかった。

・・・

また、トランプ次期政権に期待することとして、「インフレ・価格上昇を収束させる」が68%と最も支持率が高く、「米国経済の再活性化」(43%)、「米国の価値観の復活」(42%)、「世界中で強く、安全で、恐れられる米国の再構築」(41%)が続いた。

Source:JETRO

URL: https://www.jetro.go.jp/biznews/2024/11/20e93b8803a91368.html

物議をかもしていると「伝えられている」国務長官、国防長官、ロバート・ケネディ・ジュニア氏の保健福祉長官への指名人事も、上の引用元をみると、確かに支持と不支持が拮抗しているが、少なくとも米国民が忌避している人事ではないという事実がある。

なお、JETRO記事の文中にある「エコノミスト」は、日本の毎日新聞社が発行している『週刊エコノミスト』ではなく、英誌"The Economist"のようだ。念のため。

これらのいわゆる「トランプ人事」は、日本国内の主流派メディアはケチョン、ケチョンに叩いているのであるが、ではなぜアメリカ国民の過半数は認めているのだろう?

やはり

トランプ大統領再任も、トランプ人事も、アメリカ国民の民意である

そう理解するしか理解のしようがなく、そればかりではなく、そう理解しなければならないし、そう理解するべきである。こんな風に、小生は勝手に思っている。

つまり

アメリカの民主主義とはこういう社会的意思決定を指す

この原点に戻るのだと思う。

実は、太平洋戦争末期に、というかそもそも太平洋戦争開戦時においても、日本が(絶対に)認めようとしなかった社会のありようは、《民意》で物事が決まるという、アメリカ的民主主義であった。これは当時の日本側の指導層の発言から歴然としている。

日本の指導層が敗戦を決定づけるポツダム宣言を受け入れた第一の理由は

国体護持への見通しがたったからである

その「国体」というのは、

天皇があって、日本があるのであって、逆ではない

という日本の根本原理のことで、正に大和朝廷が発足して以来、権力としては浮沈を繰り返しながら、1945年の敗戦まで(少なくとも)1300年を超える歴史を経てきたと言っても可である。

ちなみに、上の「天皇があって云々」の語句は、つまりは「天皇と天皇が任命する大臣、更に大臣が任命する官僚、以下任命権に基づいて広がる統治機構全体」という意味となる。故に理屈としては

天皇を原点とする統治機構があり、日本という国があるのであって、逆ではない

こう言い換えても理は通る。いわゆる(大分意識は薄まっては来たが)日本の《官尊民卑》の感覚は、日本という国の成立と一体化され、継承されてきた固有の文化でもある……、その時代、時代の社会の実質はともかく、日本の伝統はこうだったと、何だか賛同する自分がいることを自覚する。

この認識に立つことで可能となることに目を向けるのも重要だ。

百済、高句麗滅亡の後、当時としては巨大とも言える1万人以上(数万人に達する可能性も?)の数の移民が朝鮮半島から「渡来人」として日本列島に流入しても、官僚・技術者として多人数の渡来人が朝廷で優遇されるとしても、「皇統」が守られる限り、日本は日本であるというアイデンティティが揺らぐ事態はなかったわけである。

その他の具体的議論もあるが、概略的に考えると、明治維新の後、統治権は天皇にあると規定しなければならなかったのは、権力闘争というより、むしろ、こう考えなければ「日本」という国自体が、蜃気楼のような「空中楼閣」となる。天皇が統治する限り、どれほど西洋化を進めても、日本は日本である、と。そんな理解があったのではないかナと、小生は勝手に想像しているのだ。

だから、太平洋戦争敗戦後に、GHQが日本の国家改造を断行しようと考えたとき、戦前の明治憲法を戦後の憲法に書き換える、すなわち上の順序を逆にして

日本があって、天皇がある

と。つまり、民意主導の国家に作り換えようとしたわけである。これが戦後日本の民主主義の出発点である ― この認識が、歴史的事実に即して、真相なのかどうか、疑問なしとしないが、要するにアメリカ的民主主義のイデオロギーに基づいて、憲法を書き換えたわけである。

しかし、これを受け入れた日本の側の意識と押しつけた(?)アメリカの側の意識には大きな意識のズレがあった。

所詮、憲法と言っても、単なる文章に過ぎない。しかも日本語で書かれているから、アメリカ人にはまず感覚が伝わらない。特に、

民意が他の全てに優先する

という民主主義の原理を、当時の日本の上層部がそのまま受け入れたとは小生にはとうてい想像できないのだ、な。「神聖なる皇位」に代わる「神聖なる民意」という観念に対して、本能的な拒絶感が胸中に内在していたことは歴然としている。


例えば、その現れの一つとして、日本の法令の大半が、官僚組織の内部で検討され、政権(≒保守政党)との調整を経てから、内閣から国会に法案が上程され、(保守政党主導で)可決され施行される。戦後日本のこんな立法システムを挙げてもよいかもしれない。確かに民意が反映される方式ではあるが、では民意に基づいて法が制定され、運用されているかと言えば、現時点でも違和感をもつ日本人は多いだろう。

日本の統治機構は、今でも、肝心要のところで民主主義精神の血肉化に失敗している、というのが小生の社会観である。

弱い政府権力が、必ずしも民主主義的であるとは限らず、政府の強い権限が必ずしも独裁的であるとは言えない。ロジカルに考えると、民主主義的な政府は、本来なら、強力な実行力をもつ強い政府になるはずなのである。



日本国憲法は、憲法改正へのハードルが極めて高い「硬性憲法」であるのだが、その理由の一つは、

「民意」によって天皇制(≒国のかたち)が改廃される事態を出来る限り避けるためである

小生は勝手にそう理解している ― 武力不行使の徹底もあるのだとは思うが。

こう考えると、古代から続く天皇制を現に続けている日本が、成文憲法で天皇を規定するという現在の基本法制自体に、天皇制との相性の悪さがある。

むしろ国の形を成文憲法として条文で定める方法を敢えてとらず、国の「伝統」として王制を維持するというイギリス人の知恵(というか狡知)に学ぶところは大きい ― 成文化すると成文によって王制が廃止される可能性がある、それは王制と言えないであろう 。

―  ―  ―  それでも、貴族以外の平民との通婚が当然のように繰り返されるとすれば、5世代(=約100年余)もたてば、「王族」といっても

王の家系の血は $$ 0.5^{5} = 0.03125 $$ だから、体内に3パーセント少々しか流れていないという計算になる。王の直系だから王位継承資格者ではあるが、実質はもはや平民との「雑種」、いやほとんど「平民」と言うべきだろう。王位の世襲は血筋の尊貴さに本質がある。そうなれば、法の前の平等という観点からも、その時の王位継承資格者は誰も国王としては認め難いという雰囲気になるのは、確実に予想できる推移である。

この理屈は日本の皇室にも当てはまる。

やはり民主主義の理念と天皇制・王制との相性は極めて悪い。それだけは言えそうだ。


それはともかく、

多分、戦後日本の発足当時の上のような心理は、政治家、官僚、大手メディア上層部にも共有されていたに違いなく、最近において何となく伝わってくるのが

民意の爆発的表出に対する警戒感と怖れ 

である。「驚き」ではなく「怖れ」が混じっている所に日米の違いがあると感じたりする。

SNSなどのネット世論が大手マスメディアを超える影響力を示し、予想もしない選挙結果になったとき、三権(立法・行政・司法)に席を占める人たち(=及び直接・間接に依存する上級国民?)の胸をよぎった思いは、おそらく、明治末期の「日比谷焼き討ち事件」や護憲運動の熱狂の前に退陣を余儀なくされた第三次桂太郎内閣(=大正政変)をみた時の指導層の怖れに、通じるところがあったに違いない。

最近の衝撃に過剰反応して、「SNS条例」や「集会条例」、令和版・治安維持法などの「検討」が始まらないことを祈るばかりだ。


予想せざる民意に戸惑う上層階層(≒政治的・経済的・知的エリート層)の心理の根底にあるのは、必ずしも「民意はコントロールできない」という焦りだけではない。特に日本においては、遠く遡る

終戦直後にあった左翼革命(=天皇制廃止)への恐怖と民意に対する警戒感

この感覚が、時代を越えて継承されているかもしれず、わきおこる民意への不安が色々な場面でいま表面化しているのではないか? だとすれば、この不安は、そもそも敗戦当初から警戒心として実は初めからあった。というより、そもそも明治維新の(民意に反する)国造り以来、ずっと日本のエリート層が持ち続けてきた潜在心理であった……

そういうことではないかナアと観ております。

【加筆修正:2024-12-02、12-04】