野党である国民民主党が、与党である自民党、公明党との政策協議を進め、同党の目標である基礎控除引き上げに向けて努力しているところである。
その様子は、メディア報道で出ない日はないほど、毎日報道されているわけだが、中には
国民民主党は与党なのか、野党なのか?
と、こんな批判を加える御仁もいるようで……。
マア、実に日本的な文化の古層に残る《大義名分》という奴だと思うのだが、このような超越的な観点にわが身をおいた批判は、目にする人、批判の的にされた人等々、多いのではないだろうか?
そうでなくとも、日本人は《そもそも論》が大好きだ。「そもそも論」のどこが便利であるかといえば、
時間をかけて現実を詳細に自分の目で調べることなく、自分一個の思想に基づいて、すぐさま是非を論じることができる
つまり、当人にとっては最も簡単で、かつ相手は最も反論しづらい(と感じさせる)ディベート戦術 ― ディベートが日本ではいま一つ普及しないのもここに根因があると思っているほどなのだが ― それが大義名分論だと小生は思っている。
西洋風にいえば"Armchair Detective"ならぬ、"Armchair Criticism" と言えそうで、今様で言うと「コタツ評論」、「コタツ記事」という言葉になるが、要するに、日本(だけではなく中国、韓国を含めた儒教文化圏)では非常に愛されるのが「大義名分論」である。実際、欧米の新聞報道を読んでいて、
これは西洋の大義名分論だナア
と感じることはない ― バイデン政権辺りは民主主義の大義を語るのが好きであったが、ケース・バイ・ケースで使い分けているのは明瞭であり、本気で聞いている国はほとんどないだろう。
患者に問診したり、診察したりすることなく、
病気は気の病だと言いましてナ、人間には自然な治癒力がありますから、心配はいりません
と。これで終始する医者が完全な藪医者であるのは誰もが分かるはずで、これと同じく、政治や経済について、大義名分論を展開して終わる御仁は、問題解決には「無用の人」と言うべきであろう。
大義を語るときは、語ることが善であることの根拠を語らなければならないが、ほとんどの場合、それが善である論理は示しえず、そう思うから思うのだと、その程度のことに終わるものである。
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与党は本来求めている与党の政策を実行できず、野党もまた内部で対立しているが故にどの野党も自党の政策を実行できない。
つまり、与党である自民・公明党も野党の各政党も政策実行力をもたない
これは悪いことなのか?
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