ロシア=ウクライナ戦争の勃発後、西側諸国の結束(?)に煽られたか、最近はよく標題にある語句を見かける。
語句だけをみると、いかにも戦後日本の文化を象徴する現代的なキーワードだと感じたりするが、この中の「自由」と「平等」は仏典にも登場する古い日本語である。だから、日本人にも馴染みのある言葉である、というより「あった」と言うべきか。
「平等」の方だが、毎朝読経をする習慣になった小生は、文字通りの「毎朝」、見ている単語である。使っている「日常勤行式」の「総回向文」は
願以此功徳(がんにしくどく)
平等施一切(びょうどうせいいっさい)
同発菩提心(どうほつぼだいしん)
往生安楽国(おうじょうあんらっこく)
となっていて、第二句に平等という語が使われている。
この総回向文は法然上人が重んじた中国の善導大師(612–682)の『観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)』の末尾「十四行偈」に収録されているそうだから、おそらく鎌倉時代の日本人信徒ですら、《平等》という言葉と観念は馴染のものであったと推測される。
次に「自由」だが、こちらも仏典には数多く登場するようで、特に日蓮宗では馴染みの語句であるということだ ― たとえば、こんなサイトもある。
このように「自由」や「平等」は何も西洋から教えられなくとも、古来、日本人には馴染みの観念であり、それが現代日本にも当たり前の感覚として継承されていると思ってイイ。これが小生の日本社会観である ― 但し、欧米文化で前提される自由や平等と日本人が継承してきた自由や平等とで、両者は同じなのか違いがあるのかという比較文化論上の問題はある。学生への課題にはちょうど良いかもしれない。
これに反して、「民主主義」という言葉と観念は、日本文化とはよほど縁が遠い。というより、日本に民主主義的体制が誕生したのは、長い歴史の中で現行憲法が施行された1947年5月が初めてで、以来2025年6月までまだ78年間しか経っていない。無論、誕生の理由は「敗戦と占領」で、押し付けか強制か、言語表現はともかくとして、伝統的な非民主的日本は戦後に民主化されたというのが、現時点で標準的な歴史観になっている。
だからというべきか、自由・平等・民主主義という言葉をみると、何だか蕎麦屋に入って、天ぷらと熱燗のあと、盛り蕎麦とクラム・チャウダーを注文するような鈍感さ、というか筋悪なセンスを感じるのだが、これは小生だけの感覚なのか?
0 件のコメント:
コメントを投稿