2025年6月1日日曜日

断想: 「ハラスメント基本法」はやはり不可欠なのではないか?

販売を目的とする商業メディアに比べて、 ネットは発言・表現が自由だ。それもあってか、

令和の日本は少しおかしい

という投稿が目立つようになっている。


具体的には、生産現場、営業現場で普通に行われるコミュニケーション、つまり普通の意思疎通すら、場合によっては

ハラスメントだ

という抗議の的になりうるという《アブナイ》社会状況を指しているわけで、

これでは正常なソーシャル・メカニズムが機能しない

そんな危機感が表面化しつつあるような感覚だ。


勘違いや誤解は日常茶飯事であるのが、確認や質問をすっ飛ばして

舌足らずとか言い間違いとか、そんなのは許せぬ

「言葉」に対して極端に不寛容な社会に現代日本がなりつつあるというのは、小生も感じている  ―  マナーや礼儀に対して厳しいわけでは決してないところが情けない。

いずれ近いうちに「揺り戻し」の局面に移るのは間違いない。

ずっと以前の投稿だが、《ハラスメント基本法》が必須かつ不可欠だと書いて投稿したことがあるのだが、ますますそう感じる今日この頃であります。最近では、こんな投稿もしているから、ますますその感を強くしているということだ。


小生が幼少期の頃は(と、思い出話をすること自体が、最近はモラハラ認定されると極論を言う人がいるので、もはや日本社会は劇場化、コメディ化、お祭り化していると観ているのだが)、喧嘩が弱い少年は小さくなり、喧嘩が強い男子が大きな顔をして、学級内をしきる……、年齢を問わず人間集団の中に入れば、これが、自然界とも合致する当然の摂理だと(子供ながらも)感覚していた。まあ、こんなことは端的に「常識」でもありました。

それが現代日本では、というより「先進国?」全体でそうなっているのか、

喧嘩の強い子が実力を発揮すれば、単なる暴行、暴力、イジメとして社会的に排除されてしまう

どうもこんな風な世相になって来た。


なるほど、こんな生活感覚で暮らしていれば、日本が経済成長を続けるためには不可欠な《競争原理》に背を向けたくもなるだろう、と。そう感じます。

競争とは、一口に言えば《自然選択》であって、《人為的措置》よりは《自然》を信頼するということだ。

人生に置き直して言うと、《努力と運によって成功が約束される》と。そう認めるところから、全てが始まる。そんな感覚のことで、誰しもそんな風に考えて、生きるのが少し以前までの社会であった。

よく言われる

運も実力の内。

今でも使われているのだろうか?もし案に相違して失敗して落ちぶれても

天運、我に味方せず

嘆きつつも、そうつぶやいて肩をすくめ、『いま不覚をとったのもワシの業の拙さよ』と平静に己が運命を受け入れる。そんなサッパリとした、淡白な人生観を、誰しも「理想」としては認識していたように記憶している。ま、最近になって多くの人が口にする「サムライ」とは、こんな心意気を指すはずだ。

そりゃあ、そうです。自分の人生は自分のものであり、日本社会に従属する家畜だなどという自己認識など、持つはずがない。そんな人生は真っ平御免ってものでしょう。

ある人が形容しているが

弱者が弱者であることを武器にできる社会がやってきた

本当にそんな社会意識が蔓延しつつあるのだろうか?なにか非現実的だと思うが・・・


もちろん純(?)客観的に考えれば、グローバルな国家間競争において、弱い国家は淘汰される、真に強い国家が生き残るのがロジカルである。多分、現実はこうなのだろう。

しかし、残酷なグローバル競争の中で、その国ごとに支配的になるのは、数的にマイナーな強者の声ではなく、相対的に多数を占める弱者の人たちの声であろう・・・声の大きさだけを考えれば確かにそうだと考えるのが、合理的な見方かもしれない。

弱者は弱者の人権を主張する権利は当然のこととしてある。しかし、これが「武器」になりうるというのは、・・・よく分かりませぬ。


おそらく

表現の自由及び幸福追求の自由、それに対するに一人一人の人権の尊重と

この二つが矛盾する社会的状況が増えているのだろう。

強者と弱者がフェアに競争すれば、ほぼ確実に強者が勝ち、支配的な地位に立つ。強者が社会を支配し、弱者は支配される。

正にニーチェなら喝采しそうな見立てである。つまり、ある意味では理想である。そんな思想も確かにあるわけだ。そして、実はこれがリアルな世界史であるし、日本国内の歴史でもあった。そんな哲学をする人も確かにいるはずだ。

ところが、(ごく最近になって)こうではダメだと。間違っている。これを事実として認めてはいけないと。"Be"ではなく"Should"が大事なのだと。そう考える思想が説得力をもってきた。少なくとも音量があがって来た感覚はある。

自然ではなく、人為的修正を選ぶ  ―  極めて社会主義シンパの感性である。


こんな世相が、「階層分化と定着化」という、これがひょっとすると「社会的収束点」であるのかもしれないが、そこに向かっている間の一過性の歴史的一コマに現れる乱気流に似た「ノイズ」なのか、それとも反対に社会主義的な平等原理志向と現実との乖離に不満を高める多数者による不安定化への動きなのか、一体どちらに解釈して社会を観察すればよいのか、分からなくなることが多い。

が、歴史的なベクトルの見通しは別として、社会的に許容できない《ハラスメント》の概念は、明確に定義し、線引きしたうえで「保護してあげるべき名誉や人権の範囲」と「尊重するべき思想・表現の自由」、「幸福追求の自由」とのバランスを法的規定として確立しておかなければ、今後の日本社会はより不安定になり、混乱するような予感がするわけだ。

白河の 清きに魚も 住みかねて 

     もとの濁りの 田沼恋しき

寛政の改革を主導した松平定信のモラリスト的態度を揶揄った狂歌に激怒した幕閣のようであっては社会が停滞する。結局、定信は失脚し、最終的には文化文政時代の(今度は本当に?)退廃した社会がやってきた。

そんなものだ。「揺り戻し」は必ず(それも激しく)起こる。生きやすい世を普通の人は望むのだ。

ものいえば くちびる寒し

では、楽しくない。だから、マグマは貯めるべきではない。


よく思うのだが、人権の主張と自由の主張とが正面から衝突すれば、必ず強者の自由が最終的には通る。これが小生の歴史観だ。が、実はいま世界的に強者必勝への動きが加速しつつあるのかもしれない  ―  振り返ると、1980年頃の「新自由主義」の復活からずっとそうであったような気もするが。

アメリカのトランプ政権による「ちゃぶ台返し」は、(やっている事の意味は逆だが)その兆しかもしれないと観ているところです。もしそうなら、しばらくは続くだろうし、日本はアメリカ社会を追いかける傾向があるので、日本社会の雰囲気も突然これまでとは逆方向に走り出すかもしれない。

非常に不透明感がある社会だ。

ともかく、

弱者の集団が強者を抑えこむのではなく、強者の自由を認めたうえで、強者が獲得した果実をそのまま独占させるのではなく、弱者へのいたわりを実現するような社会こそ、あってほしい社会だと思うがいかに?

というまとめで、とりあえず。 

【加筆修正:2025-0-02】





0 件のコメント: