2025年6月4日水曜日

断想: 数の世界の不思議さ

時系列データをダウンロードしてはガチャガチャと解析するのを趣味の一環として来たが、最近は若い頃に読んだ、というより当時は「難読」であったり、「完読」できなかったりした基礎的なテキストを読み返すほうが面白くなってきた。以前は分からなかった箇所が分かるというのは気持ちのよいものだ。

仕事の何かに使えるかと思いつつ読むと、それは自然と「勉強」になる。ちょうど「この人はいつか使える」と思いつつ知人と付き合うのが(単なる?)「交際」と呼ばれるのと相似形である。

知的興味だけから知識を整理するのは、勉強とも交際とも無縁で、ただ好きでやる完全に自発的なもので、こんなときは非常な自由を実感する・・・と云っても、これはやってみるまでは分からなかった心理だ。

勉強にしろ交際にしろ、何かの狙いがあって、目的合理的な行動を強いられるのが浮世というものだが、逆に言うと、合理性への強迫から解放されるとき、人は心から満足を感じるものかもしれない。そう思うようになっている。してみると、《合理性》とはこの世で生きるために理性に服従するというギリギリの戦略が要請するものであって、本来は理性の奴隷になどなりたくない、合理的になど生きたくはないという、そんなホンネが人の心には隠れている。こういうことかもしれない。


それはともかく・・・


で、つくづく不思議に感じるようになった点もある。下らないといえば下らないのだが、

実数は、加減乗除の計算をしても実数空間で閉じているが、虚数空間は閉じていない。虚数同士を足したり引いたりしても虚数のままだが、虚数同士を掛けると(あるいは割ってもいいが)、結果は虚数になったり、実数になったりする。しかし、複素空間に拡大すると、どんな計算をしても複素数で閉じている。

古代ギリシア人なら有理数は有理数で閉じていたと、有理数の世界の単純明快さを力説することだろう。何しろ「モノ」は何でも「数えられるはず」の存在だったからだ。

人類が虚数を発見したのは、早くも二次方程式の根を求める時にも、虚数が顔をのぞかせるからだ。


ま、当たり前のことなのだが、虚数空間は閉じていないという点に面白さを感じる。

とにかく、宇宙や量子の世界は、複素空間として記述される。しかし、観察可能なこの世界で検証できる仮説は、すべて実数解になっていなければならない。虚数部分が混じると検証不能である。

それでいて虚数はあくまでも"Imaginary Number"であって嘘の数ではない。

この辺が面白い。


そういえば、文字通りの無限大($\infty$)はこの世界では観察できない。無限小の数値も観察できない。

数字のゼロを発見したのは古代インド人である。無限小はゼロとは違うが、いかなる値よりも小さい数である。しかし、ゼロではない。

この辺も面白い議論だとつくづくと感じる。

【加筆修正:2025-06-05】

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