2025年6月20日金曜日

断想: デカルトの二元的宇宙観と唯識論

仏教の基礎にある唯識論哲学といえば、現在では奈良の興福寺の法相宗が本山という事になるのだろうが、それでも浄土系宗派で重んじる観想念仏は心の中に阿弥陀仏国や阿弥陀仏を観ることを重要視している。親鸞の浄土思想ではそれほどでもない(ようだ)が、実際、浄土三部経の一つである『観無量寿経』では、正に第一観の「日想観」から第十六観の「下輩生想観」まで、念想、念仏に心を集中する時間を持つべき事を強調している。

唯識論といえば、眼耳鼻舌身の五感に「意」を加えた六識、及び第七の末那識まなしき、第八の阿頼耶識あらやしきの八識論として知られている。そして、「意識」に対する「無意識」を構成する末那識と阿頼耶識のうち阿頼耶識の方は、身体的死によらず、今生から次生に相続されると考えられている点で、輪廻転生思想が仏教にもとり入れられる教義上の土台にもなっているわけだ。

実際、国も時代も遠く隔たった法然の『一紙小消息』の原文中にも

受けがたき人身を受けて、遇いがたき本願に遇ひて、

起しがたき道心をおこして、離れがたき輪廻の里を離れて、

生まれがたき浄土に往生せん事は、悦びの中の悦びなり。

という下りが含まれている。

「輪廻の里を離れて」というフレーズは、次は極楽という名の阿弥陀仏国に往って、苦に満ちた娑婆世界とはオサラバしたいという願いを表している。何もしなければ、「永遠」にこの世界で何かの生物に、できれば人間がマシなのだろうが、転生しながら、ずっとこの宇宙(=娑婆世界)で過ごしていく。そんな宇宙観がここには反映されている。

唯識論では、阿頼耶識を除く第一識から第七識までは、身体的死と共に消滅する。

デカルトは『我思う故に我あり』と書いたが、《思惟する我》は意識している「我」に決まっている。であるから、西洋哲学の「我」とは、唯識論における第六識「意」に対応する理屈だ。その「意」は、身体的死と共に消滅する、と。仏教にあってはそう考える。デカルトのように「精神と物質」の二元的構成はとっていない。

というか唯識論は、唯物論がすべてを素粒子の運動に還元して宇宙や人間を理解しようとする姿勢とは真逆で、全てを心の中の変化、出来事として理解しようとする一元論である。その心も、転変とするから、一切が無常という理屈になる。


言い換えると、デカルト的な合理主義哲学では精神と物質の二元的宇宙観をとったが、仏教はそもそもが「無我」の思想であり、「我」という存在は身体的死とともに消失すると考える。そもそも《自我》への執着は、阿頼耶識と意識の間にある末那識の働きである煩悩だと、そんな組み立てになっている。

阿頼耶識の流れが生命を貫いて相続される。相続されながら、一つの生ごとに変容され、善悪に染まり、一つの結果として客体化され、次の生へと継承される。阿頼耶識自体が変化の相にあるので、結局、永遠不変の実在は、仏教思想では一つもない。言い換えると《空・無我・無相》という仏教共通の哲理はこの辺にある、と。

永遠不変の真理は《イデア界》に実在し、それは《思惟》によってとらえることが出来る。そんなプラトン思想との知的格闘から発展してきた西洋哲学とは、そもそもの基本が違う。

今のところ、そんな受け取り方をしています。


ただ、《空》とは言っても、一切何も無いというわけではない。

生命という現象は確かにある。生命体をとりまく環境、つまり世界は確かにある。阿頼耶識という(エネルギーの?)流れは確かにあって、生命を貫いて流れている。

こうは考えているわけだ。

全てを否定すれば否定され切った後に残る何かがなければならない。否定しようとしていた対象があった場が空っぽになったまま最後に残る。それすらも否定しようとすれば、否定した後はどうなるのかという問いが残る。空そのものを空じるという論理がどうしても残る。

デカルトは知的な精神世界から物質を追放して物質機械論を構成した。唯識論は、阿頼耶識を除く全てを無常のものとし、阿頼耶識もまた不変の実在ではないとしながら、阿頼耶識の流れはある、と。

唯識とは云うもののどこか二元論的薫りがする。

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