毎月23日は母の祥月命日のため今朝も若住職がやってきて読経して帰った。終わって玄関まで見送りながら「今日は一枚起請文がなかったですネ」と聞くと、カミさんが「毎月メニュー(?)を変えているんですか?」とあいの手を入れる。すると「そうなんですヨ。ですけど、お盆で読むのはいつもと全く違うので、実はまだ覚えていないんです」と応える。「そりゃあ、お盆は一年に一回しかやって来ませんからネエ」と小生も納得の返事をする。
いまの住職がまだ若住職であった時に北海道に移住したばかりの小生は月参りを頼んだ。もう30年以上も前だ。が、30年経っても、大体はこんな感じで23日の朝は過ぎる。始めた当時は仏教に関心をもつというより、まだ亡くなってから記憶が鮮やかだった両親のために何かをしたかった、そんな動機だった。仏教の教義に関心を深めてきたのは極々最近になってからである。
唯物論では、つまり科学主義ではと言うのとほとんど同じだが、結局、この世界は理解できないし、説明もできない。そう気がついてから以後のことになる。それからド素人の勉強をしているが、学問や理論は人類の知恵の結晶であることをつくづくと感じる。
生活を便利にした多くの製品があるというより、そんな生産を可能にした科学技術。つまりは《知識》こそが、実在の本質である。その知識は「人類の知識」と言ってもいいわけだが、あえて「知識それ自体」が実在しているという意味で書いた。人類はその知識を発明したのではなく、発見したのだ、と。こう観るのが、いまの小生の立場である。
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経済学的に考えれば
- 国内要因で進行する物価上昇は財政緊縮や金利引き上げを行い総需要を抑える。
- 国外要因で進行する輸入インフレは、輸入物価の上昇は国内に転嫁する ― 転嫁しなければ購買力が国外に流出し名目GDPそのものが減少する。但し、国内転嫁がホームメイド・インフレにつながらないように過剰な賃金コスト上昇、便乗値上げの横行には目をひからせる。
これが理論に適った経済政策で、経済専門家が政策を決定していれば、上のような基本方針が確認されていたと想像する。
ところが……
- 物価が上がった分、減税をするのが当たり前。支給金を配るのが当たり前。
- 原油価格が上がったら、省エネに努力するのではなく、ガソリン税を減税して、ガソリンを買いやすくするのが当たり前。
こんな幼稚な愚論が、結構マジメに語られているのだから、日本全体のレベル低下には甚だしいものがある。世代ごとに進化しているのではなく、退化しているのが(少数例を除く大多数の意味で、さらに移民を除く?)日本人の現実だと観ざるを得ない。
大体、
物価が上がったから減税せよという理屈なら、物価が下がるデフレなら増税してもよい、と。マア、確かに生活に余裕はありますワナ・・・と。
デフレで増税して財政再建すれば総需要が落ちてデフレはますます酷くなりますゼ・・・。ヤレ、ヤレというところです。
1973年以降、更に1979年以降と二度に渡って世界は《石油危機》に襲われたが、特に第二次石油危機にどう対応するかで、日本は第一次での失敗に懲りてか、まさに優等生的な経済政策を展開した。石油高は受け入れる一方で、愚かなホームメイドインフレを抑え込み、これによって1980年代の"Japan As Number One"という評価へつながっていったのは、今となっては「日本政治」の伝説的な成功といえる。
思えば、「政治家はダメだが日本には官僚組織がある」。こんな観方が世間で吹聴されたのも、石油危機対応の後のことである。その信頼がバブル崩壊と大蔵・日銀スキャンダルの中で崩壊したのは、もう30年近く前になる。
ま、それはともかく
現時点の日本に、石油危機対応時のような冷静かつ理論に適った経済政策を採用する知的理解力などは、もうないであろう。
官僚組織も政治家も、そして有権者も、問題を知的に理解しようという気力も正直さもなくしてしまった。
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「歴史人口学者」、「家族人類学者」という肩書になっているが、フランスのエマニュエル・トッドが『文芸春秋』の最近号に寄稿していて、それがマアマア評判になっている。小生も読んでみたが、次の一文には全面的に賛成する。
「選挙に当選する」 ― それはもはや茶番でしかないが、しかし実際の劇のように特殊能力と労力を要求する ― という新しい仕事に忙殺されている(民主主義社会の)政治家たちには、国際関係への対応能力を身につける時間などない。こうして彼らは必要とされる基本知識をまったく持たずに国際政治の舞台に出ることになる。(略)そんな状態で彼らは本物の敵に直面するのだ。そんな彼らは敵に何の印象も残さない。(選挙から解放されている)敵たちには、逆に世界について考える十分な時間があったのである。
フムフムと思わず、引き込まれる。なお、引用文中、括弧の中は小生が追加した語句である。
プーチンや習近平に比べると、ジョー・バイデンやエマニュエル・マクロンの能力が明らかに劣っていることを西洋は目の当たりにし、劣っている理由も理解し始めたのである。
当選することに汲々としている西側政治家の知的劣化は著しいものがあります。
正に、正論中の正論。しかし……、そんな政治家を選ぶ現在の民主主義陣営の有権者たちは、こういう評論など読む気もないだろうし、読んで理解することもないでありましょう。
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「王朝国家」と「民主主義国家」の二つのうち、いずれか一方が無条件に優越しているという理論的な証明はない(と理解している)。近世から近代にかけて欧米が経験した政体に関する事実を根拠にして、特に第一次大戦、第二次大戦後は、「民主主義」が理想的政体であると、西側陣営によって事後的にか実証的にかどちらでも同じことだが、とにかく主張されてきた、と観る立場に(いまは)いる。
思うに、王朝が宮廷の華美によって次第に退廃し、財政が破綻するのと同様に、民主主義国家も自らの過大な要求から財政肥大化を免れることはできず、結局は破綻する。
宮廷の華美と放漫な財政が「悪」であると評価するのは容易である。が、民主主義国家の過大な財政は、国民の要望に応えるものであるが故に形式的には「善」である。形式的に善である事が、論理的には「間違い」であると証明し、かつその証明を有権者に理解させるのは、どれほどの天才的政治家にとっても民主主義社会では至難の課題であろう。
主権が王にあれ、有権者にあれ、
主権者は必然的に我欲をたかめて堕落する。権力は必然的に主権者の欲望の下に腐敗する。
この格言は民主主義国にも当てはまるのである。与党と野党が入れ替わる政権交代では解決できない。
王朝国家を打倒すれば、それは「革命」という美名(?)で記憶される。反対に、民主主義国家を打倒すれば、それは「クーデター」という汚名で記憶されるだろう。しかし、日本人には、どちらも「世直し」であって、実質は同じと思う人が多いように感じる。
【加筆修正:2026-06-27、07-18】
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