いま角川ソフィア文庫所収の『認識と超越(唯識)』(服部正明・上山春平)を読んでいるところだが、こんな一節があった:
同様の思想傾向を原始仏教にもたどることができる。『長部経典』十一には、この世のものはすべて「識」が「あることによって存在すると述べられている。……ことばで規定することができない「識」こそがすべてのものを存在せしめているのであり、「識」が滅することによってすべてのものは滅する、というのである。実在するのは個々人の心の中にある「識」だけであり、「自我」も「世界」も心の中に映った映像に過ぎないというのは唯識論ならではの世界観である。
この箇所にKindleで手書きのメモを付けておいた:
たとえ人類が地球上から滅んでも、素数は素数であり続ける。自然数は可算無限であり、実数はそれより大きい不可算の無限である。真理が真理であることに変わりはない。何故なら証明された真理は知識として実在しているからだ。こんな宇宙観とは矛盾しているのかどうなのか、いまは判然としない。こう書いておいた。
唯識論はなかなか難しい。この前には加藤朝胤監修『唯識 これだけは知りたい』(船山徹・石垣明貴杞)を読んだが、特に唯識論独特の「八識説」と「三性論」との関連は分かりづらい。ものの存在のあり方、というか私たちの側の知識のあり方というべきか、例の偏計所執性、依他起性、円成実性は、概念を理解すること自体が、難しい。いわゆる「誤認」は「偏計所執」であり、「おかしい、あるいは」というのが「依他起」、真理そのものが「円成実」だと理解した(つもり)が、欄外にこんなメモを書いている:
人を見ても、自動車をみても、素粒子の集合であると理解するのは円成実なのか?いやあ、禅問答のほうが多くの人には面白味があるかもしれない。小生は、前にも投稿したことがあるが、素粒子が構成しているいわば抽象概念である「人」、「自動車」という観念こそが実在していると考える立場にいる。人を人たらしめている化学・生理学的反応プロセスを生み出した「自然知」、というか「究極的知性」が実在していると考えるわけだ。場所?そうネエ、実在する場所は「どこかに」か、「叡智界」か、それとも「イデア界」か、日本語でどう呼ぶかに関心はない ― まあ、それを仏教では無常であり、空であると断じるのだが。
文脈的には、円成実という(否定できない)真理は、既に依他起の中に反映されているという意味では、どこかプラトンのイデアにも似ている。これはともかく、(この世界で、実験機器を含めて)感覚的に観察可能なエビデンスに基づいて検証される自然科学は、上のランクでいえば、依他起性をもった知識なのだろうと解した次第。
ということは、浄土系仏教が前提する浄土世界の実在だが、これが依他起ではなく、直ちに円成実であるという論拠があれば、その実在は信じるに値するという議論になる。ふ~~む、ロジックとしてはそんな理屈になりますか……、以上、覚え書きまで。
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