前稿ではこんな風に書いた:
唯識論では、阿頼耶識を除く第一識から第七識までは、身体的死と共に消滅する。
このようなロジックを組み立てる狙いは明らかで、つまり「自我」に執着するのは「煩悩」。煩悩はその人の身体的死と共に消滅する。浄土に往くにせよ、輪廻にとどまり次の生、即ち「次生」に再生するにせよ、相続される「精神」(と呼ぶべきか?)は、心の中から煩悩を除いた部分。つまり阿頼耶識だけである。
こう考えないと、そもそも煩悩塗れのままでは浄土往生は(浄土系宗派では救われるとしているが)オリジナルの仏理では難しいはずだ。自然な思考はこうなるはずである ― 厳密に言えば、末那識は身体的死と共に消失するが、消失後に阿頼耶識に回収されるということだが、細かな知識は勉強していないので、そこまでは知らない。
実際に、阿頼耶識のすぐ近くで働く末那識は、
そうした阿頼耶識のスガタを不変で実体的な、それこそ自己の中核たる「実我」と誤認する心の深部のはたらき。それが末那識の恒審思料の内容です。もとより、そのように誤認された阿頼耶識は、第七末那識にとって愛着の対象です。いま読んでいる多川俊映『唯識とはなにか』では、こう解説されており、その「恒審思料」の内容は
我癡(=自分の本来の姿を知らない)、末那識の働きである四煩悩についてこう述べられている ― 但し、括弧の中の注釈は筆者のものである。
我見(=自分を実体視してしまう)、
我慢(=自負のあまり他者を侮る)、
我愛(=実体化された自己を愛して執着する)
こうした煩悩を滅却しようと努力する姿勢が仏道においては(凡夫であっても)期待されているわけで、だからこそ毎日の勤行で
煩悩無辺誓願断と、「四弘誓」の中でこう唱えているわけだ。
とすると、煩悩に塗れたままの自分でよい、そのままで「解脱」が適うのだと考える
煩悩即涅槃という思想は、現時点においては、小生の理解を超える。
マア、身体的死の時点で心の汚れた部分は、すべて消滅するのである、と。こう考えるなら、宗教的教義としては理屈は通るのかな、と。いまはこう理解しています。
ただ、生前の数々の愚行、悪行は、阿頼耶識が保持する種子となって次生に相続されるはずだがナア……、とも思われます。いいのかな……?
いずれにせよ、そうすると、
身体的死と共に消滅する自我と自我に発する煩悩は、物質的自己から発する意識であったのか?
食欲、性欲などは、人体の物理化学的特性が意識に反映する感覚であるのと同様に、自我一般の意識、たとえば妬みや愛憎、偏愛、略奪欲なども人体の物質的作用の表われとして理解するべき形而下的現象であるのか?こんな疑問もわいて来るのだが、これはまた別の機会に。
本日は前稿で言い足りなかった点の補足まで。
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