2026年1月29日木曜日

断想: 中国の刑事司法は怖い ≒ 日本の刑事司法は怖いという一面

再審法改正に向けて作業が続けられているが中々収束しない様子だ。そもそも「改正」の名に値する刑訴法改正になりうるのか、検察側の抵抗もあって予断を許さないとも伝えられている。


思うのだが、欧米先進国(?)と肩を並べて民主主義国に恥じない司法であるというには、四つの選択肢しかないと小生は思っている。順にあげよう。

  1. ドイツ風の起訴法定主義
  2. フランス的な予審制
  3. イギリス的な法曹一元と私人訴追制
  4. アメリカ流の検事公選制

思うのだが、いったん犯罪容疑者になった場合、身の潔白を晴らすには《裁判》によって無罪判決を勝ち取るのが最良かつ最終的である。


古代ギリシアでは市民が訴追し、市民が弁護し、市民が判決を下した。いわば「みんなで弁論をして、みんなで判決する」という民主的司法が制度として実現されていたわけで、このあたり、文明の出発時点でそもそも東洋と西洋は気風が大いに異なっていた。

日本国内のマスコミは、何かというと警察による「逮捕」を有罪の証明とみなし、検事による「不起訴」を無罪の証明のように語る。が、これほど大きな間違いは反社会的であるとすら思っていて、人権侵害の最たる報道姿勢である。

検察の不起訴は、実質的には無罪と等しいのだが、裁判によらずして無罪とするのは筋が違う。無罪が確定したわけではないので、いつまでも同じ容疑で世間からバッシングされる温床になる。日本の法務省にはお飾りのように人権擁護局があるので、こうした酷い状況が発生しないようコミットする義務があると思うがいかに。


検察による不起訴は無罪の証明ではない。そもそも検察庁は司法ではない。行政官庁の下にある行政庁である。なので、検察官は行政官として刑事事件の捜査で警察を指揮し、公訴事務を担当し、(原則として)すべての事案について司法の法廷の場で決着させる。これがドイツ流の起訴法定主義で実にドイツ的な首尾一貫さを感じる。

フランスでは予審判事が置かれていて強力な捜査権限をもっている。起訴された刑事犯を予審判事が中立的な立場で吟味し、裁判の厳密性を保証しようとするフランス的なやり方だ。ドイツも予審制はあるので「大陸法系」とまとめてもよいのだが、フランスは起訴法定ではなく起訴便宜主義をとっているので分けた。

小生が最も共感を感じるのはイギリスの司法である。ネットにはこう書いてある:

イギリスの法曹一元制は、熟練した法廷弁護士(バリスタ)が裁判官に任命される制度であり、14世紀からの伝統を持つ。事務弁護士(ソリシタ)と法廷弁護士の二層制(職務分担)を基礎とし、10〜15年以上の経験を持つ者が上級裁判所裁判官に選ばれる。これにより実務経験に基づく多様性と専門性が確保されている。 

またイギリスの検察官は事務職である:

イギリス(特にイングランドおよびウェールズ)の検察官は、主にCPS(刑事訴追局:Crown Prosecution Service)に所属し、警察が捜査した事件の公判を担う。日本の検察官と異なり、原則として捜査権を持たず、起訴後の訴追打ち切り権限や起訴状作成を行う。実務上、法廷弁護士(バリスタ)が訴追代理を務める。 

職業裁判官、職業検察官を任用せず、法曹資格のある専門家が判事役、検事役、弁護士役を務めるのは、フレキシブルでアングロサクソン的な行き方だ。

最後のアメリカ風の検事公選制は、大半の刑事事件を担当する地方検事のことで、連邦検事は任用制で公務員である。選挙によるのでアメリカの検事は、広い裁量権を与えられていて、必然的に起訴便宜主義をとっている。


検察官がキャリア公務員(=官僚)であるかどうかと、起訴を法定とするか裁量とするかは、ハッキリとした相関はないようだ。


検察官が警察の捜査に対して一般的指示権をもつのは、大陸法の系統で法を構成している国に多いのだが、ドイツでは起訴法定主義をとっていて、起訴・不起訴に検事の裁量は混じらない。フランスは検察から独立した予審判事が検察・警察と独立して捜査・証拠収集を行い、公判へ送るかどうかを判断する。司法は行政から独立している。


今回の刑事訴訟法改正で、日本の刑事司法が恥ずかしくないものになる可能性はほとんどない。

数年前にカルロス・ゴーン日産社長が微罪(?)で拘束され、その後レバノンに逃亡するという事件が起こったが、同氏は『日本には民主的な司法が存在しない』と話していたという。何もゴーン氏の味方をするつもりはないが、

日本には民主的な司法がない

と怖れた心理は、中国で拘束された日本人が

中国には民主的な司法がない

と恐怖する心理とどことなく大同小異に見えて仕方がない。

何事によらず落ち目で、本卦還りの三つ子のような感がする日本国であるが、せめて司法の民主化だけは粛々と進めなければなるまい。そうでなければ、優秀な外国人が働く場所としては怖くて、怖くて、検討対象にはとうてい入れてもらえないであろう。


今日のようなトピックはあまりとり上げたことがない。本日は頭出しということにしよう。何回か話題にするかもしれない。


2026年1月26日月曜日

ホンの一言: 「オールドメディア」というより「ゾンビメディア」だネエと感じること

つねづね不思議に感じているのは、これほど「専門家のご意見」を好む(オールド)メディアで、生身の専門家には意見を問うが、急速に発展中のAIを利用する場面はまったく目にしないことだ。

いま「大手政党?」のほぼ全てが「食料品に対する消費税ゼロ」を公約にかかげている現状に経済専門家はほゞほゞ例外なく反対を表明している。だけではなく、日本の財政破綻の懸念から国債相場と円の対ドルレートが暴落している。


ちなみに「長期金利急騰」と表現して「国債相場暴落」の語句を避けているのは、幼稚なイメージ操作であって、政権に対する忖度だろうと小生は観ている・・・マ、これは細かい話だ。


先週末になって、日米政府の協調介入がまとまったか詳細は不明だが、急速な円安修正が進んだが、今日の月曜になると円高進行が国内景気に冷水を浴びせるのではないかという心配から日本の株価が暴落した。

何だか、あちらを立てるとこちらが立たずで、「高市路線」は最初から方向違いであることを示唆しているのは明白なのだが、当のご本人が国民の審判を求めるなどと堂々と語っているので、状況は何も変わっていない。


大体、日本国民が思う方向で日本社会が変われるなら、バブル崩壊も失われた30年もなかったはずである。停滞の理由は、合理的な政策を一部国民の強硬な反対から進められなかった点にある。

この辺を淡々と事実のままに報道すればいいのに、取材力が落ちたか、そんな話題には故意に触れないつもりなのか分からないが、「オールドメディア」が触れない重要な話題は最近になって特に増えていると感じる。


消費税ゼロについても突っ込みが不足している。こんな時、これまでの行動パターンならすぐに国際比較をするはずである。

消費税≒欧州型付加価値税(VAT)である。そこでChatGPTに

欧州諸国の多くは食料品に対する付加価値税率を低くしていませんか?

と聞いてみた。その回答をポイントだけだが以下に示す。

多くの欧州(特にEU加盟国)では、「食料品に対する軽減税率」を導入しており、標準VATより低い税率で課税している国が多い。

そもそもEUでは付加価値税率は最低でも(=標準税率)15%以上と決められている。その中で食料品に対する税率はフランスでは5.5%、ドイツでは半分の7%である。EU域外になったイギリスでは食料品はゼロ税率。

イギリスではトラス政権の大盤振る舞いとポンド崩壊が記憶に新しいが、それでも食料品に対するVAT税率は(基本的に)ゼロとしている。それでもって経済は、マアマア、安定している。

こんな事実は、ギャラを払って経済専門家にご意見を求めなくとも、安い課金で一発でPCが教えてくれる。

食料品に対する消費税率ゼロは(小生はゼロ税率は反対だが)決して突飛な政策ではなく、むしろ望ましい政策である。・・・コメをはじめとする輸入食料品に対する関税率を(一定期間だけ?)下げることも検討するべきであるが。どうすれば可能かだって?初めてのことならいざ知らず、実際やっている「欧米先進国」があるのだから、お手本はあるだろうにネエ・・・分からんか!と言いたいところだ。


なぜ真っ当な議論をメディアは進めようとしないのか?

いま問われているのは

大砲を増やすか、バターを増やすか

選ばなければならないのは、伝説的な経済学テキストであるPaul Samuelsonの"Economics"で有名になった経済学の最重要課題であるこの問題なのである。

要するに、軍事拡大を進めれば生活支援まではカネがない。生活支援を手厚くすれば軍事費にはカネがない。両方は不可能だ。この選択なのである。

政治家には選択の権利がないから選挙で問うのである。

この基本認識を語っている「経済専門家」は一人もいない。直面している《選択のフレーム》に落とし込む作業くらいはしてあげれば良いのではないか?ChatGPTなら政治家の発言記録を情報にして直ぐにやってくれますゼ。出演している「経済専門家?」、おそらく大方は「無免許運転」なのであろうと推察している。


ドラマもダメ。スポーツ中継もNetflixなどの配信にとられる、映画も復活気味。報道もこんな惨状。残るのはお笑い芸人が集まるワイドショーだけとあっては、もう《オールドメディア》という呼称さえ非現実的だ。《ゾンビメディア》の方が似つかわしく思う。


2026年1月22日木曜日

断想: 何かを信じたいとき問題は「三択」になる

 「高市解散」は極めて世評が悪いが、それでも一部の(熱狂的右翼の?)支持層を基礎に今でも高い支持率を誇っている様だ。

国債増発まで選択肢に入れて、積極的な財政出動、軍事拡大路線を進み、中国と戦おうという高市首相ご本人の統治スタイルが若者たちには受けているのだろうと観ている。

しかしながら、それによって金融市場、特に国債市場では先行き財政破綻懸念から国債相場暴落、長期金利急騰が続いている。

今日あたりは日銀の国債買い入れ増額方針が効いたのだろうか、相場暴落は一休みしているが、もしもこれが総理‐財務省による要請なり、プレッシャによるものであったなら、インフレ下の国債買い入れ増加イコール貨幣供給増加であるから、必然的に物価を上げる方向に作用する。

純経済学的に考えれば、「高市路線」は詰んでいるのであり、

ここは一歩後退。守りを固め、時機を待ってから反撃するべきです。

と。総理に諫言するべきタイミングなのだろうが、そうすれば「ぶれた」と批判され、そのまま失脚するのが怖いのだろうと勝手に憶測している。

ただ、どれほど一歩後退しようが、高市総理という政治家は《国家主義者》である事実は永遠に変わるまい。

思うのだが、人は何かを信じて生きるものである。成人するまでは親、もしくは身近な保護者を信じるものである。

やがて人は独立して、自分で考えて自分の人生を歩み始める。そうなってからも、親のいうとおりという御仁もいるが、大方は何かを信じて生きているものだ。

それは友情であったり、家族であったり、人間関係であったりする。他の人間によって自分は生かされていると思えば、《社会》を信じる。社会に恩返しをしたいという心境になるものだ。逆に、社会に居場所を得られないと感覚すれば、社会に敵意をもち、時に暴発する。社会は一定の確率で、この種の不適応者を生むもので、そんな人物に対して社会は責任を感じるべきだと考えている。

社会を信じる人は、社会を支える現実の力として《国家》を求めるのも必然的な結果である。国家主義者が10人いれば10人とも社会的価値の重要性を説きたがるものだ。

日本国の尊厳を主張する保守的若者は、内面においては日本社会を守りたい、そこに生きている家族や友人、知人たちを守りたい。こんな心情があるのだろうが、この辺の国民心理(?)は、太平洋戦争に大敗した以降も日本人の心情としては、何も揺らいではいないはずである。

これとは正反対の極にいるのは《科学》を信じるというリベラル的思考である。最もラディカルであるのは、マルクス的な科学的社会主義であって、一切の人間存在は物理学的な素粒子に還元される。人間は、要するに高分子炭素化合物なのであるから、精神的な概念や価値は単なる主観的錯誤、幻想であって、実在するものではない。社会にも実体はなく、国家にも実体はない。実在するのは、生きている生物、その中の人類という種であるから、重要なのは「食うこと」、「住むこと」、「寝ること」である。そのための「生産活動」である。こんな思考になるので、国家のためにという議論は意味がなくなる。

小生は、経済学とデータ解析で食ってきたので、唯物史観的な世界観にはずっと親近感をもっていた。が、数年前から疑問を感じ始め、いまでは完全に転向した次第は本ブログにも投稿してきた。

とはいえ、この≪科学主義≫というか「合理的リベラル思想」というべきか、こうした立場の良いところは、極めて普遍的である点である。

もしも日本政府が完全リベラルな世界観をもって統治をおこなうならば、あらゆる非科学的な偏見や先入観を排して、民族、国籍、日本人、性別、出自などを問わず、人はみな平等とみなして、全員が「食って」、「寝て」、「暮らす」ことを最高の統治目標とするはずだ。

これがいまの日本人にとって悪いはずがない。

とはいうものの、

人はパンのみにて生くるにあらず

である。『新約聖書』の中のイエスの言葉として有名だが、実は『旧約聖書』でも

それは主である神が、あなたに、人はパンだけでなく主である神の口から出る全ての言葉によって生きているということを知らせるためであった

こんな一文がある(Wikipedia)。

人間は、食べるもので自分の身体を養うが、物質的身体は「魂」や「知性」の入れ物であって、人間存在の本質は身体ではなく、精神である。

「精神」すなわち「言葉」である。個々の人間存在は、身体ではなく、言葉を使って、考えることによって実在する真理を認識している。

どうしてもそうとしか考えられない段階がやってくる。

「国家」でも「科学」でもないが、信じるに足る対象。それが「哲学」であったり「論理学」であったり、「数学」であったりするわけだが、理性を超えたところに「宗教」がある、というのがロジックである。

社会で生きていく上で、となると第3の選択肢は「哲学」ないし「信仰」という言葉になる。

物質的身体を動かしている非物質的な実在を漢字では「精神」と書いたり「魂」とか「霊」とか「法身」と書いて理解しているが、その理解はちょうど数学者が「無限集合の濃度」や複素関数の微分可能性を理解したり、はたまたヘーゲル的な「世界精神」を理解するのと、ほゞほゞ同じ種類の知的行為である。

そんな意味合いで、観察可能な科学的真理を認めつつも、観察不能で非物質的な実在も、理解可能な範囲、議論可能な対象として信じるのが第三の立場になる。

但し、宗教や信仰は観察可能なデータで(原理的に)検証されえないため、学理としても信仰対象としても宗教対立を招きやすいのが欠点である。

とはいえ、知的行為が人類共通の行為であるという意味で、この立場も普遍的であって、特に共通の信仰の下では日本人と外国人の差別はもちろん、男女差別、人種差別等々、一切の差別を否定するところが2番目の「科学主義」、「唯物主義」と共通している   ―  キリスト教やイスラム教の女性観は十分な知識をもっていない。法の前の平等という多分に作為的な平等観ではなく、もっと原理的に「神の前に」あるいは「仏の前で」、「阿弥陀如来の前で」人間はすべて平等であるとみなされる。

思うのだが、この第三の立場の利点は、精神的価値と知的活動を肯定し、文化を積極的に支援することが統治上の原理になることだ。

平等施一切 同発菩提心

という句は、小生が毎朝読経している総回向文にある。「平等」という言葉は(物理ではなく)仏理に由来しているのを意外に思う人も多いかもしれない。

イノベーションは、人間の精神的活動が人間を支えるものと認識し、学問的自由を保障するところから生まれる。

だから21世紀の統治原理としては、この第三の立場しかあり得ないというのが、小生の勝手な個人的見解だ。

宗教と政治の関係性については、相当以前に一度投稿したことがある。そこで

民主政治を支える一人一人の有権者の心に宗教感情があれば、政治と宗教を完全分離するのは、そもそも不可能なことである。

こんなことを書いた。そもそも広い意味での「宗教感情」が日本人に広くもたれているのは、正月の初詣で、お盆の精霊流しなどの行事をみれば明白である   ―   日本固有の神道における平等観は勉強したことがない。

そんな意味では例えばリベラル派経済学者として著名なKrugmanが次のように発信しているのは、見解の自由、意見の自由、表現の自由を保障する在り方として羨ましく思っている。

I had never heard the term “sundowning” before it happened to my own father, yet it’s a fairly common syndrome. In his last few months my father remained lucid and rational — remained himself — during daylight hours. Once the sun went down he deteriorated, becoming confused, paranoid and aggressive.

It’s terrible to watch sundowning in someone you love. But that’s a personal tragedy – not a national or global one. It’s an entirely different matter when the president of the United States is sundowning — a president surrounded by malign sycophants who tell him whatever he wants to hear and indulge his every whim, no matter how destructive.

 

「サンダウニング」という言葉は、父が実際に経験するまで聞いたことがありませんでしたが、実はかなり一般的な症候群です。父は最期の数ヶ月、日中は正気で理性的な、つまり本来の自分らしさを保っていました。しかし、日が沈むと容態は悪化し、混乱し、偏執的になり、攻撃的になりました。

愛する人がサンダウニングに陥るのを見るのは辛いものです。しかし、これは個人的な悲劇であり、国家や世界規模の悲劇ではありません。アメリカ合衆国大統領がサンダウニングに陥るとなると、全く別の話です。大統領の周りには、どんなに破壊的なことであろうと、聞きたいことを何でも言い、どんな気まぐれでも甘やかす、悪意のある追従者たちがいます。 

Source: substack.com

URL: https://paulkrugman.substack.com/p/its-sundowning-in-america

Date: Jan 20, 2026

Author: Paul Krugman 

自国の現職・大統領を「病気」だと言っているに等しく、こんな発信が自由にできるなど、日本国の現状と比べて、その寛大さは比較を絶している。


少し前までは、日本社会は自由で大らかで、品がなくハラスメントは横行していたかもしれないが、面白く生きられる社会であった(と記憶している)。

あらゆる人が、あらゆる人に「寄り添う」とき、「国家主義」は単なる「もたれあいの社会」を作るだけである。できあがる社会は動きのとれない、非寛容な管理社会だ。もたれあい・・・かつて「酷電」と呼ばれた朝の通勤電車は文字通りの「もたれあい空間」であった。立ったまま寝ても周囲の人にもたれて倒れずにすんだ。しかし、そんな残酷な空間からは誰しも逃れたいと一人残らず思っていたのである。社会を「酷電」にして支えあうなどは知恵と創造力の欠如を象徴している。まさに「貧すれば鈍す」だ。国家主義が堕落するとこうなる。

人が人に具体的な何かを期待し、求め始め、それが自己愛と結びつくことで、人は限りなく堕落すると確信している。人が人を救えると考えるのは科学主義者であろうが、科学主義の世界に精神の自由が尊重される空間はないはずだ。


現代日本社会の若者世代に高市的統治スタイルが善いとされているのなら、今後、日本が歩んでいく道は、かなりな程度「国家主義的」で「管理国家的」な色あいを強めることになるのだろう。

弱者を救済するのは「国家」の責任であると思えば思うほど国家は権力を堂々と行使する。

やはり日本は、「国家総動員」という社会体制を一度は選択した国民なのだナアと思う。そして同じ入り口から入れば同じ出口から出て瓦解するであろう・・・そんな事態は本当に一度だけ、"Das gibt's nur einmal"であってほしいものだ。

今回の投稿は覚書だ。ちょっと舌足らずだったかな?ま、もっと書き込むのは別の機会に。

2026年1月19日月曜日

断想: 大正と令和、明治と昭和。反発と憧憬が同居する関係性か?

カミさんと愚息の話になってこんな会話をした:

小生: それにしても最近の若い世代って、繊細であるのと同時に鈍感、傷つきやすいのに人を傷つけていることには鈍感。何だか分かりにくいところがあるよナ。うちの〇〇もそんなところが濃厚にあるだろ?

カミさん: △△さんとこの娘さん夫婦もそんな風みたいだよ。大人になっていないのかなあ・・・

小生: 幼稚だって世間では言うけどネ。若い人たち、よく「昭和」は古いってボロカスに言うじゃない。だけど同時に「昭和レトロ」なんて、昭和時代の当たり前の日常に結構魅かれるらしいんだよね。ずっと前にさ、ゼミ生の◆◆君がいたろ?彼なんて、将来は自分の窯で陶芸をやりたいなんて言うんだ。作務衣を来てね。マ、なんとなく形から入るところがあったけど、そんなに古い和風がいいと思うのかねと不思議に思ったよ。

カミさん: 惹きつけられながら、ご本人にあうと反発するって、若い人は昔からそうだったよ。

小生: 平成もそんなところがあったけど、昭和への反発は令和になってから高まるばかりだなあ。昭和に反発するなら昭和文化も排斥するのが道理なんだが・・・そういえば、大正時代の風潮は『明治はもういい』というもンだったんだ。明治の家父長的な家庭を否定して、食事の食べ方まで変わっていったのが大正時代なんだよね。「大正デモクラシー」って偉大な明治への反発から始まったものだって俺は思っているよ。だからだね、大正の民主主義はヒ弱くて、昭和の保守化が来ると呆気なく消えてしまったのは、偉大な明治への反発心が支えていただけってところがある。

カミさん: 食べ方まで変わったの?

小生: お祖父さんから聞いたんだけど、明治の世帯主、戸主って呼んだはずだけど、食事は時代劇に出て来る「箱膳」でさ、それも一家の家長が奥さんから給仕されながらまず先に食べるのが普通だったそうだよ。

カミさん: 私が小さかった頃はもう丸形のお膳だったけどね。

小生: だんだんそれが広まったのが大正時代から昭和。一家団欒なんて言葉は明治にはなかったのさ。家族がそろって食べるときも黙々と箸を動かしていたそうだ。別々の膳を前においてね。

カミさん: 昭和時代の暮らしなんて今の若い人は想像できないかもね。

小生: 俺が小さい頃はサ、結構「停電」があってネ。おふくろが「今日は夕方まで停電なのよ」って言ってたものサ。だけど、ちっとも焦ってなかったよ。その頃は、冷蔵庫は氷式。暖房は木炭の火鉢。風呂を沸かすのは薪。料理は都市ガスじゃなくてプロパンガスを使うことが多かったけど、焼き魚は七輪でこれまた木炭。電気は夜の照明だけさ。テレビ、ラジオは電気だったけどね。別に必須ってわけじゃない。今は、何もかも、自動車まで「電気を使おう」だからネエ。社会が脆くなるはずよ。

カミさん:北海道のブラックアウトには吃驚したものネ。 

小生: 一事が万事さ。便利さの裏には潜在的な不便が隠れているンだな。江戸時代の暮らしが時代劇で分かっているなら、昭和時代だって頭では分かるさ。だけど、生々しい感覚としては全然分からんだろうね。ま、一口に言うと

親、子を知らず

子、親を知らず

って、ドラマの「琅琊榜(ろうやぼう)」にあったよね。育ってきた生活のスタイルが違うんだから、感覚もまったく別、感じ方も別、親と子であっても、分かりあえる部分は何パーセントしかないと思うよ。言葉ではコミュニケーションできてるけどね。


何だか淋しい話をしたものだ。

しかし、いま会話を思い出しても、令和の優しさはいずれ難題を乗り越える国家主義の時代がやってくると「ひ弱な令和」と揶揄されて、否定されてしまうのではないかと心配になる。ちょうど明治への反発から生まれた大正文化の理想が《あだ花》であったように。


そうそう、では「平成」という時代は?

平成は昭和が最後に残したバブルのつけを苦闘の末に解決した時代だ。苦闘の30年の間に、すっかり背が丸まって下を向く癖がついてしまった。その意味で、平成は文字の定義通りの《ポスト昭和時代》であったと勝手に総括している。

2026年1月16日金曜日

ホンの一言: いわゆる「7条解散」だが高市解散はさすがに明らかな違憲になるのでは?

国政選挙で選ばれた衆議院議員の身分を奪う「解散」を行うには相当厳しい条件が課せられている。原則は憲法第69条で次の通り定められている:

内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。

自治体の首長が議会で不信任された場合と主旨は似ており、要するに不信任案が可決された場合には、議会の解散を以て民意を問うことができるという規定だ。

これが憲法上の趣旨であることは自明であろう。


ところが、第7条には「天皇の国事行為」として

天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。

という規定があり、その3項には

衆議院を解散すること。

という一文が含まれている。

国会で内閣不信任案が可決されたわけでもないのに総理大臣が衆議院を解散できているのは、内閣の助言によって天皇が衆議院を解散しているのであって、故に解散の正当性はこの第7条の規定にあるというのが、議論としては通ってきている。

しかし、本当に《7条解散》は合憲なのかというのは、常に問題として議論が続いている。

天皇の解散詔書があれば総理大臣はいつでも自由に解散できるのか?総理大臣には解散権を与えられているのか?

素直に読めば、総理大臣が何の外的条件もなく「解散権」を自らの権限として有しているのではなく、天皇が国事行為として解散を行う、それには内閣の助言がいるのであるから、天皇に「解散権」があることになる。

こういう理屈になるのではないか?本当に天皇に「解散権」があるのだろうか?憲法の条文はこういう主旨なのか?


思うのだが、法学者から憲法上の疑問が提起されるような「際どい政治」をするべきではない、というのが小生の感覚だ。

憲法上の本則ともいえる《69条解散》は、実は戦後政治史において頻繁に起きているわけではない。記憶に残っているのは昭和55年の大平内閣による「ハプニング解散」、それから平成5年の宮沢内閣による「嘘つき解散」の2件である。解散のほとんどは7条解散であるから、もしも7条解散が違憲であると判断されれば、これまでの解散はほとんどが違憲であったという理屈になり、戦後日本の国内政治は違憲の上に成り立っていたという帰結になる。とてもじゃないが、7条解散は違憲であるという結論は、今さら(革命でもない限り)公式には出せるものではない。


それでも小生は

7条解散は憲法違反である

そう思っている。専門外で細かいロジックは書かない。理由はただ一つ

7条解散は、(自民党の)自己都合による天皇の国事行為権の乱用で、従って「天皇の政治利用」に当たる。

普通に考えればこうなるのではないかと思っている。今回の高市解散、国会の予算審議日程をカン無視するにも程合いってものがある。そう感じますがネエ・・・

それに小生が暮らしている北海道の2月。投票当日が猛吹雪であったらどうする?別に国会が暗礁に乗り上げたわけでもないのに、実に配慮のない政治手法でついて行けるものではない。

今回だけは《中道改革連合》に走るか……フランスの「共和国連合」を連想するナア(今は「国民連合」?)。「連合」というのは、その昔の「連合軍」が潜在意識にあるのでしょうネエ(違うかな?)

もうこれを限りに自民党とは「お見限り」とするか?長かったが縁の切れ目かもしれない。本当は中道右派にシンパシーを感じていて、立民のリベラル左派の思想とは波長が合わないのだが、右翼よりはよい。


2026年1月15日木曜日

ホンの一言: 日米の良識派、いまだ健在なりということか?

通常国会冒頭でにわかな衆議院解散という方向になった。隊列を組む前のバラバラ状態のまま大将自ら突撃の号令をかけたような塩梅にみえる。敵にも味方にも不満が鬱積しているそうだ。多分、後ろから火が迫ってきていて、首相自身が「清水の舞台から飛び降りる覚悟」で決めたのだろうと勝手に想像している。

ちまたにはこんな見解もある:

 私は、昨年の高市発言以来、中国政府関係者から話を聞いてきたが、いずれも、レアアースの輸出規制はやりたくないと話していた。影響が甚大で、日本との関係を修復不能なまでに悪化させる恐れがあるからだという。

 しかし、結果的に、中国はこの可能性がある切り札を出してきた。それは、中国が高市首相とのディールを諦めたということではないのか。日本側が本気で謝罪して撤回しなければ、どこまでもいく。そんな決意が見えてくる。

 こうなってしまった以上、もはや、高市首相が日中関係を改善するというストーリーはなくなったと言って良いだろう。

… …

仮に1月23日招集の通常国会冒頭の解散がなくても、2026年度予算成立後、通常国会閉会前後、そして、秋の自民党役員人事と内閣改造などを機に、高市首相が衆議院の解散総選挙を断行する可能性は高いと見られる。その時こそ、国民はここで述べたとおり、日本が強権暴力主義の米国への従属から逃れ、再び平和と繁栄の道に戻るために正しい選択をしなければならない。

Source:YAHOO!JAPANニュース

Original:AERA DIGITAL

Date: 2026-01-13

Author:古賀茂明

筆者は経産省出身のリベラル派として周知の人物である。上の見解もいわゆる《中道リベラル》の典型的な考え方とみる。

これとは別。アメリカの話だが、リベラル派経済学者として著名なKrugmanがsubstack.com上でこんな発信をしている。タイトルは"One Year of Trumponomics"になっている。この一年間のトランプ政治を経済の面から論評したもので、一国を代表する政治家に対してこういう評価を自由に発信できることは、日本の経済学者もうらやましい限りだろうと推測している。

四方八方からトランプ政策を吟味しているが、どれもデータの裏付けを示しながら議論している。ただここでは、結論だけを引用しておこう:

To conclude, Trumponomics 2025 is a story of how Trump worsened the economy that he inherited from Biden through big promises and policy choices that failed to understand how the economy actually works. The uncertainty created by Trump’s constantly changing tariff policy during 2025 appears likely to continue, as he delivers a stream of unworkable, half-baked ideas. While the stock market may be doing well, the rest of America isn’t. And it may very well get worse before it gets better.

URL:  https://paulkrugman.substack.com/p/one-year-of-trumponomics 

下線を引いた部分だけを和訳すると

株式市場は好調かもしれないが、それだけだ。他はそうではない。そして、状況は良くなる前に悪化する可能性が十分にある。

奇妙なほどにトランプ政治と(1年に満たないが)日本の高市政治は似ている   ―  米株は足元で何だか冴えないが、東京市場は金利先高観の逆風をついて絶好調と、まこと奇っ怪な状況ではあるが。

ただ違うのは、今回、高市首相は(ほとんど?)誰とも相談せず任期の半分も経過していないのに衆議院解散を断行しようとしている点だ   ―   アメリカの大統領は議会を解散する権限は与えられていない。

アメリカのKrugman、日本の古賀茂明。学界と官界と。背景は違うものの、リベラル派と呼ぶより《良識派》と呼びたい階層は予想以上に広がるかもしれない。実際、アメリカではトランプ政治を支持する人々は(当たり前だと思うが)急速に減少しつつある。

先日も投稿したが日本外交の「敗北の方程式」が作動するときが近づいているかもしれない。

現内閣がとっている対皇室スタンスだけには共感するが、あとは上の良識派の観方に賛成したい自分がいる。


 


2026年1月12日月曜日

ホンの一言: ダメダメ世論の典型か?

 ネットは日本の世論が形成される主たる場になってきているのだが、例えばこんな記事もある:

高市首相の「台湾有事」発言を受け、中国による不可視の制裁「限日令」が牙をむき始めた。かつて韓国に産業構造の変化を迫った「限韓令」の悪夢が日本にも迫っているのだ。


【写真】今年1月で国内のすべてのパンダが中国に返還される


一方、この圧力を中国依存から抜け出す好機ととらえる声もある。迫りくる「限日令」――生き残りをかけて日本が選ぶべき道とは?

対中関係を悪化させた高市発言の結果を与えられた状態と前提して、「では、日本はどうすれば生き残れるのだろうか?」を議論しようとしている。

典型的なダメダメ世論だネエ

と思いました。


太平洋戦争開戦の前、対中関係の悪化が対米関係の悪化を招き、戦争の予感が世に広がり始めた。そんな中、対米関係が悪化したのは仕方がない、これを前提にして、日本が生き残る道を考えようではないかと思考を進めたのが、当時の日本政府、特に陸海軍であった。《理論音痴・戦略音痴》、その結果である《行き当たりばったり》は、古来、日本人の悪癖の最たるものだと思う。戦略音痴の根本的原因は《目的音痴》、つまり自分が目指している目的の無自覚性にある。

自然に淡々と生きることを善しとする日本人にとって、〇〇を目指して生きる生き方は縁遠いのである。

目的の無自覚性は、日常生活から仕事の進め方など、色々な側面で顔を出す。

独・伊と枢軸国を形成した果ての対米戦争は実に愚かであった。「誤りは二度と繰り返しません」という誓いがまだ色褪せないのに、また同じことを日本社会は繰り返している。

状況を与えられたものとせず、状況を改善することを目的とするべきだ

小生はいつでもこう考えるようにしてきた。

高市首相一人が引責辞任するのが即効性という点では一番でありましょう   ―   対皇室スタンスだけは共感を感じているので残念ではありますが。


《ダメダメ世論》は、その作用をみると、反社会的であるとすら思うのだが、一部の世論をシステマティックに排除するやり方は、これまた民主主義の自殺的行為になる。

《情報リテラシー》が現代社会では不可欠だと言われるが、いまほど日本人の平均的な情報リテラシーのレベルが問われている時代はないかもしれない。

2026年1月10日土曜日

断想: 「現場重視」の迷妄から覚めたいまは……

夢をみた。小生はよく夢をみる。夢を見ている途中で目覚めることが多いので、夢で話していたことをよく覚えてもいる   ―   何分か時間がたつと、鮮明に覚えていたはずの夢の内容を、不思議なことにまったく思い出せなくなるので、メモに書いておくことも夢投稿が増える理由かもしれない。

こんなことをカミさんと話していた:

小生: 裁判官っていう職業は仕事が楽しくてやるもンじゃあないよね?

カミさん: だけど仕事は楽しんでやらないと長続きしないのじゃないの?

小生: それはそうだ。だけど僕の祖父が判事だったンだけど、ずいぶん齢をとってから『法廷で 死刑を宣し 勲〇等』っていう俳句というか川柳を詠んだらしくてネ、祖母から聞いたことがあるンだな。

カミさん: お祖父さん、民事が多かったンじゃないの?

小生: 刑事裁判も偶にはやったンだろうね。いかに犯罪者とはいえ、懲役とか、まして死刑を判決で言い渡すなんて、そんな仕事が楽しいわけないよ。

下の愚息が、10年以上も前になるが、法律専門家の道を歩き始めたので、これと同じ話を既に投稿したような気もするのだが、ちょっと出てこない。こんな時は、やはりブログよりは紙媒体のノートの方が便利である。キーワードが特定できる時は検索機能が効率的だが、極度にあいまいな時は、かえって不便なのである。Googleでも《あいまい検索》ができるといいのだが、Geminiがこれほど進化した現時点でも、このブログであいまい検索は出来ない。

それはともかく、楽しんでやるべきではない職業は、世間には多い。

判事がそうであったと同じ理由で、検事も楽しんでやるべき仕事ではあるまい。なるほど法律を犯している悪人を裁判にかけて求刑をする仕事は、公益にもかない、やりがいはあるのだろうが、人を処罰する行為を一生の仕事にしたくはない、というのが小生の主観である。マ、個人的な主観に過ぎないので、一般化はできないだろうが。

もちろん楽しくなくとも、充実感や達成感や、何らかのプラスの感情は仕事に付随しているとは思う。


よく考えると「軍人(≒自衛官?)」という職業もそうかもしれない。

戦前期・日本のエリートであった陸海軍の軍人は、例えば陸軍省や参謀本部でデスクワークを行う人物の方が、最前線で部隊を指揮する現場の将校よりは、はるかに《格上》であったということだ。

日本の「庶民」は「現場重視」や「たたきあげ」が大好きで、国防という重要な職務においても、デスクワークを担当する参謀が現地司令部の行動を指示するその上下関係に嫌悪の感情をもっていたと、これまた聞いた事がある。

現場が「表舞台」、参謀は「裏方」。現場のことは現場に任せて、弾の飛んでこない後ろからあれこれと指図するな、というわけだ。マア、その感情は今でもとても分かる。

似たような話は、製造業の民間企業にもあって、工場の現場より本社の経営企画室やらが肩で風を切って歩くような会社はダメだと、エンジニアであった父からよくそういう話は聞いていたような記憶がある。

それで小生もずっと、物事は現場が大事。デスクワークを得意とする高級参謀が威張るような組織は腐っている、と。そんな風に社会をみていた時代、というより年齢上の期間があった。

しかし、いま現在はまったく正反対の思いを持っている。

話は陸軍に戻るが、最前線で兵を指揮する仕事というのは、いかに敵兵とはいえ(もしそうなれば)戦場で人を殺すことを仕事にするということだ。それが国益を守ることである。しかしどう考えても、現場で人を殺す仕事が、戦術・戦略を考える頭脳労働より高等(?)であるはずがない。

有能な戦略家は、戦わずして勝つ道筋に組織全体を導いていくにはどんな選択をすればよいかを常に考えるものだ。戦術家も有能であれば、味方の犠牲が少なく、短期のうちに勝敗を決するやり方を考案する。血みどろの戦いが展開されるのは、戦略や戦術を考えるセクションが無能であるためだ。だからといって、現場で戦っている人間こそ戦略家や戦術家を超える高い価値を有しているとは思われない。そんな風に観るようになった。

一部の現場を犠牲にして、多くの現場を救い、全体的な安定に導くのが中枢機能のミッションである。

ある事業所にその事業所の改革はできず、裁判所の裁量で裁判所の改革はできず、国会議員の裁量で行うべき国会の改革はできない。

これがロジックではないか?


ずっと以前、『現場の経済学』などとタイトルをつけて何回かのシリーズを書いたことがある。小役人をしていると、まさに「現場」こそ組織の核心だと思っていたのだろう。

慙愧に堪えない迷妄であった。

経済的混乱を救うのは「現場」ではない。学理に通じた有能な人物が「中枢」に配置されて、置かれている状況に応じて効果的な経済戦略を見出すとき、社会全体も救われるのだと、いまは理解している。


インドのカースト制は強固な身分制である。西洋にも東洋にも永らく身分という社会慣習が世を支配していた。現在では、すべての人、故にすべての職業も平等だと信じられているが、これは近代民主主義のイデオロギーがもたらした社会意識上の大変革である。

しかしながら、やはり職業や仕事には《職業上の貴賤》がある(のではないか?)。職業と言っては語弊がある。同じ組織、同じ社会でも、生業というか、日々の仕事というか、何をやって報酬をもらっているかという点で、行動には貴賤がある(のではないか?)。

なので、超長期のあいだ続いた伝統社会の貴賤思想には、近代市民革命でも払拭できないような、人間社会を見通す深い叡智が隠されていた、と。いまではそんな風に思えるときがある。

少なくとも言えることは

その仕事の貴賤は、いわゆる「市場価格」の高低とは、まったく別の問題である。

プラトンも職業上の貴賤を『国家』の中で論じていたが、何だか最近はずっと持ち続けていた固定観念が、溶解していくような気持になることがある。 

【加筆修正:2026-01-12】

2026年1月6日火曜日

断想: 「改革、改革!」の前に目的を確認するのが第一歩でしょう

 「改革」とか「総決算」という言葉は日本人の大好きな言葉だ。1982年から始まった中曽根内閣のスローガンは「戦後政治の総決算」であったし、20世紀が終わる間際に橋本内閣が目指したのは(残念ながら達成できたのはごく一部であったが)行政・財政・金融・経済・社会保障・教育にわたる「六大改革」であった。中央官庁が再編成されたのもその一環だ。その後も小泉内閣の「郵政改革」があり、安部内閣のアベノミクスと経済再生へと改革志向は続く。アベノミクスも「異次元」を売りにしていたので、それまでの政策の「ちゃぶ台返し」と言っていい。

とにかく、日本人は服を着替えるように「心機一転」するのが大好きである。

外国は、たとえば大統領選や国王の世代交代で自然な「変革」が事実として進行するのだが、日本はそうでないというのが、本質的原因なのか?

なぜ同じことを何度も繰り返すのだろうと常々不可思議に感じているのだ、な。大体、変えること自体が善いという理屈はない。大正デモクラシーの潮流を変えて国家総動員に変えた結末は誰もが知っている。真珠湾を攻撃して対米開戦の火ぶたを切った時になぜ多くの日本人は喝采の声をあげたのだろう。スカッとしたということか?前途を悲観する人は内外事情に通じる極々少数の人たちだけであったと聞いている。

なぜ「改革」やら「心機一転」をこれほど好むのだろう。ChatGPTにニュアンスが近い表現を聞いてみると

I decided to start afresh after the failure.

He promised to turn over a new leaf this year.

I went for a walk to clear my mind.

色々と複数の言い回しがある。最初の"start afresh"は失敗のあとのリセットに近く、これが「心機一転」のニュアンスに近いかもしれない。二番目はひょっとすると坂本龍馬の『夜が明けるゼヨ~~~』の乗りか…。最後の"clear my mind"は何かに執着している心を一回解きほぐすといったニュアンスだ。ちょっとこれは日本人の好きな「改革」とは違うかもしれない。

最も不可思議なのは、変えること自体を主張するときに、現行方式のそもそもの目的は何であったのかという、当初の目的の再確認を誰も言い出さない点である。

だってそうでしょう。

初心忘るべからず

という。一度目指した目的を中途で放棄することは最終的失敗への道である。そんな根気のない国民は何をやっても所詮は失敗します。

何かをやり始めたのは《目的》があったからだ。その目的を確認せずして、うまく行っていない/うまく行っている、そんな評価が出来る理屈はないのである。


その目的は今でも有効で、これまで通りの目的を今後も追及していくのか?うまく行っていないのであれば、その原因は何か?改革にはこんな議論が自然に出て来るはずだ。これが日本では出てこない。いわゆる「暗黙知」を前提するにも程合いってものがあるでしょう。

目的の確認があって初めて社会科学的分析に入れる。・・・当たり前のことを更に書いても仕方がないが、いわゆる《PDCA》。Plan‐Do‐Check‐ActionのPDCAだが、実のところ"A"をAnalysis-Actionの二つにしたいとずっと思ってきた。が、それはともかく、最初はプラン"P"から始まっている。がしかし、プランには目的があったはずだ。目的は"Goal"でも"Object"でもよい。だから私的にはObject-Plan‐Do‐Check‐Analysis-ActionのOPDCAAだと話してきた。チェック(C)と分析(A)の前と後に二つの行動フェーズ、つまりDoとActionがある。この二番目のアクションが日本人の好きな「改革」に当たっていると小生は思っている。

つまり日本人の好きな「改革」とは「軌道修正」のニュアンスに近いのかもしれない。

しかし、チェック(C)と分析(A)が目的の再設定につながることも理屈としてはあるし、それこそが大事だと小生は思っている。

端的にいうと、改革は目的の再設定を必ず伴うというべきだ。目的は変えないということの再確認でもよい。

ところが目的の議論が一切ない。日本人なら日本国の《国是》くらいはわかっているという大前提があるのだろうか?そんな姿勢で日本国の国際化などは不可能でしょう。

目的の確認なき"PDCA"はあり得ないのだ。

目的確認なき改革はプランなき行動につながる。

よい例がエネルギー計画だ。《再エネ重視》もいつの間にかなし崩しになってきた。そもそも原発から再エネへと方向転換をしたのも原発事故があったからである。小生は何も再エネ主義者ではないが、福一原発事故の後遺症がいまだ残っているのに再エネ見直しをするのは『初心にこだわるべからず。何事も臨機応変!』を見事に実践しているわけだ。一事が万事ですナア、と思っている。


改革、改革とみな連呼している。

鎌倉時代、室町時代の「徳政令」は「徳政」ではなく、要するにただの「借金棒引き」でありました。徳政とは真逆の失政である。分析なき改革、目的の再設定なき改革は、ロジックなき統治で必ず失敗するということである。

だから幼稚に見えて仕方がありませぬ。

2026年1月4日日曜日

ホンの一言: トランプ政権の決行を認めるのが理屈でしょう

 元日投稿は、浮世離れした話題から入り、ドロドロした現世の世相の感想を追加してまとめた。本日はその続稿ということで。

ネットをみていると、早速

高市早苗首相は、米国によるベネズエラへの軍事攻撃を受け、トランプ大統領の決断を支持するかどうか難しい対応を迫られる。国際法違反の疑いもある一方で、非難すれば同盟関係がきしむ恐れがあるためだ。立場表明にあたり、G7各国の対応を見極める方針だ。

Source: Yahoo! JAPAN ニュース

Original:  KYODO

Date:  1/3(土) 19:34配信

アメリカがベネズエラ大統領を連行・拘束したというのだから、世界はビックリ仰天というところだ。

こんな事が許されるのか??

そりゃあ、そうです。これが許されるなら中国の台湾統一は理の当然として容認されるべきであるし、ロシアのウクライナ攻撃も反ロシアを露わにする隣国を制裁するための決起であるから認められて当然という結論になる。最近4年間の西側陣営の国際外交はすべて誤りであったと認めなければならない、という結論になる。


現実として20世紀の理想はほゞほゞ破綻した。理想は本来は普遍的なものであるはずだが、いま現実世界に普遍的な理想などはない、というか、なくなった。

親ロシアに立位置を(小幅?)修正して、まずはロシア=ウクライナ間に平和をもたらそうとするトランプ的解決には小生も共感を覚える。というより、賛成だ。この考え方からベネズエラ制裁に行動を起こしたとみるのは極めて自然である。


昨年末にノーベル平和賞を受賞したベネズエラの政治家・マリア=コリーナ=マチャド=パリスカは、米政府の決起を歓迎しているよし。実際

2025年、ノーベル平和賞を受賞したベネズエラの野党指導者、マリア・コリナ・マチャド氏は、アメリカ・トランプ政権による軍事攻撃で、マドゥロ大統領夫妻が拘束されたことを受けて初めて声明を発表し、「ベネズエラは自由になる!」と喜びをあらわにしました。

こんな風なネット記事がある。

平和賞を授けたノルウェーもマチャド氏に同調して米政権の決行を歓迎するのが筋であろう。


平和が毀損されるそもそもの原因は、地理的に、あるいは経済的に、極めてローカルなものであることがほとんどである。

紛争が拡大して戦争になったり、大戦になったりするのは、当事国が行動を起こすことなく、ただ仲間を増やす、つまり軍事同盟を結ぶからである。この理屈は古代ギリシア、古代中国の昔から変わっていない。

ローカルな紛争はローカルな範囲に限定して、決してグローバルな規模に拡大させるべきではない。前にも投稿したことがあったが、21世紀の平和維持の原則は、理想ではなく極めて現実的なものでなければなるまい。

なので

高市政権は早々にトランプ政権の行動を認めるべきだ

というのが、小生の(現時点の)世界観であります。

2026年1月1日木曜日

元日一想:人間の身体は化学的にはありふれた素材で………

人間の身体の60%程は水分、つまり$\text{H}_2\text{O}$だから元素ベースでは酸素と水素に還元される。更にいうと、人体の95%超はいわゆる"CHONS"、即ち炭素(C)、水素(H)、酸素(O)、窒素(N)、硫黄(S)から構成され、残りの4%余はカルシウム、マグネシウム、リン、鉄などのミネラルであるから、人体は地上に豊富にある、とてもありふれた元素から出来ている。もう少しマクロ化して化合物ベースで議論をすれば、人体にとって重要な部分はタンパク質でできており、そのタンパク質はベンゼン環を中心としたアミノ酸から構成される。「亀の甲」と呼ばれるベンゼン環は炭素原子に水素が結合した極めて単純な化合物である。その組み合わせで各種のアミノ酸に分かれる。必要なアミノ酸の生成と結合に必要な設計図が遺伝情報であり、DNAという形で保存されている。専門が違うので記憶が大分うすくなったが、こうした概要は、今では高校でも教えられている生物学の常識になっている。

※ あとで確認したが、ベンゼン環を含まないアミノ酸の方がずっと多かった。忘れたことに気づかなんだ。が、構成する元素は上に書いたとおりだ。

ずっと昔、最初にこのことを授業で聴いたときは「へぇ~~~っ」と感じたことだけ覚えている。もしその時、

先生、質問ですが、要するに炭素と水素が中心になって、それに酸素とか、窒素、硫黄が特別なパターンで結合すると、人体が出来上がって、その物質が言葉をしゃべったり、考えたり、数学や物理を勉強したりするようになる。そういうことなんですね?

小生は昔から極めて偏屈で、人を困らせる人間であったから、

答えに詰まる質問をするんじゃない!
こう一喝されたと想像する。と同時に
ただな、生物学の大前提にあるのは生物は生物からのみ生まれる。無生物から生物が自然発生することはない。このことは念頭に置いた方がいいな。
このくらいの示唆は語ってくれたのじゃあないかとも思う。まったく学校というのは、受け身ではなく、何でも質問する方が良いのだと、つくづくと後悔する次第だ。

科学的な説明というのは、どうしても物質的現象を因果関係という観点から説明するので、唯物論になってしまう。小生がそんな唯物論から転向したことは何度も投稿してきた。高分子化合物である人間の大脳は、人類に与えられた《考える器官》である。動いたり、動かしたりする器官である手足と同様、大脳を使うにも上手下手の個人差がある。生まれつき器用な人がいるように、生まれつき頭の回転が速い人もいる。しかし、元素が組み合わせのしようによっては物質がおのれの欲するように意志をもったり、行きたいところに自由に動いたり、はたまた理想を語ったりすると考えるのは、あまりにも荒唐無稽で、神話と同程度に信じがたい物語である。

単に刺激と反応の因果関係を検証するだけなら化学反応プロセスを追求すればすむはずだ。しかし、自由意志や理想に導かれる目的合理性は、刺激と反応に似た化学モデルにはおさまるまい。この点は既に何度も触れたことだ。

大脳は思考のために欠かせない器官だ。しかし、考えるための器官である大脳を活用している主体が実在するはずだ。それが人間を考える生物たらしめている本質である。人はそれを(漢語に限っても)「精神」とか「心」、「魂」、「霊魂」、「識」などと呼んできた。

というより、今では《生命と非生命》、《物質と非物質》を超えてしまって、すべては《エネルギー》であると認識するのが、現代物理学がイメージしている宇宙の風景であるようだ。だからこれまでの投稿のように、物と精神、物質と非物質という語り方はもう古いのだ。では、「エネルギー」とは、結局のところ、何なのか?・・・そりゃ分かりっこない。ただ《働いている》のだと思う。エネルギーが実空間において実在する在り方を問うのが、これからの物理学の問題なのだろうと勝手に想像しているところだ。

話はまったく変わる。

元日に上のようなことについて考えるなど、どこか滑稽味があると自覚しているのだが、日中関係の悪化もどこか滑稽味があって、当事者が真面目になれば真面目になるほど、可笑しみが醸し出されてくる。

本質的に歴史劇というより、コメディである。

しっかり自分の地を守ったと思ったら、どこもかしこも断点だらけでサア、一瞬の見落としをつかれて、あとはアタリ、アタリの連発。地はボロボロ。ひどい目にあったヨ・・・

と。どこかの碁会所で普通に耳にするおしゃべりを連想してしまうのだ、な。

ザル碁の典型だネエ・・・日本の(中国も?)外交と同じか・・・

こんなところかもしれません。中国に言わせれば 

クドクドとまだ台湾に口を出すか。そっちがその気なら、こちらも琉球までさかのぼって、沖縄の領有権に口を出してやろうじゃないか。

こんなところかもしれません。台湾が中国の領土でないと言うなら、沖縄だって怪しいもンだ、というわけだ。

ま、いい加減に手を打ったらと思う人が多いはずなのだが、祭りと同じで声の大きいグループに乗せられてしまうのが、人間集団の常だ。大多数の日本人は、一部の声の大きな人たちの巻き添えになる定め(?)なのである。

では声の大きな人たちは、声の大きさ以外に何かの才能をもっているのか?

古代ギリシアと異なり現代の民主主義では、(原則、未成年を除く)全ての人が参政権をもっており、そこには何の参加規制もなく、能力審査もない。

民主主義社会を支えているのは、実は無責任な凡人集団であることを思い出すと、とても怖い気がするのは小生だけだろうか?

【加筆修正:2026-01-02】