2026年2月15日日曜日

ホンの一言: 「トランプ劇場」こそ今一番面白いのでは・・・リアルで怖いですが

 「エプスタイン・スキャンダル」は、日本では「対岸の火事」とみているのか、ほとんど報道されることはない。が、エプスタイン文書をめぐって世界の著名人、というか多くの「セレブ達」が疑惑の対象になって名誉を失ったり、現実に失脚している、そしてまだまだ尾を引きそうな現状をみれば、日本ローカルなモリカケ・スキャンダルとはスケールが違う。いままた足元ではスターマー首相率いる英国・労働党政権が崩壊の瀬戸際に立たされている。そうかと思うと、アメリカ議会では司法長官が逆切れした様子が報道されて、例のKrugmann博士は絶好の話題とばかりに論じている。

この件、日本でも報道はされている:

 【ワシントン共同】米下院司法委員会で11日、少女らの性的人身売買罪で起訴され自殺した富豪エプスタイン氏に関する開示文書を巡り、議員らとボンディ司法長官が激しい応酬を繰り広げた。議員らは、有力者の名前を黒塗りにする一方で被害者の情報をさらしたと批判。ボンディ氏は、議員らが文書公開をトランプ大統領の攻撃材料に利用しているとして「偽善者」と罵倒した。

Source:News.jp

Original:共同

Date:2026-02-12

エプスタイン文書の公開をめぐっては今後もずっと尾を引きそうで国際政治の時限爆弾となる状況は変わらないだろう。

Krugmanはこんな風に書いている。

Attorney General Pam Bondi’s meltdown on Wednesday while being questioned the House Judiciary Committee was exceptional, even by this administration’s rock-bottom standards. Has any high-level official ever before shrieked at a member of Congress, “You don’t tell me anything, you washed-up, loser lawyer”?

Yet what truly amazed me was her demand that Democrats stop talking about Jeffrey Epstein because the Dow was above 50,000. This plumbed new depths of moral bankruptcy, effectively saying: “How dare you complain about child rape when the stock market is up?”

Source:substack.com

URL: https://paulkrugman.substack.com/p/the-maga-bubble-is-imploding

Date: 2026-02-13

"Attorney General"は日本では「検事総長」と訳されることが多いが「司法長官」のことである。その人物が議会の答弁の最中に「キレて」、クルーグマン博士は

これまで、国会議員に向かって「何も言わないで!この落ちこぼれの弁護士が!!」と叫んだ連邦政府の高官がいただろうか?

と呆れているのだから、書いた側もスカッとしたに違いない。マ、少なくとも日本の法務大臣がこんな態度を国会で示せば、即日罷免となるのは間違いないところだ。

更に、クルーグマン博士は書く:

しかし、私が本当に驚いたのは、「株価のダウ平均だって50000ドルを超えたのよ。もう民主党はジェフリー・エプスタインについて話すのをやめてちょうだい!」と彼女が要求したことだ。トランプ政権を支える政治家のモラルは新たな底に向かって落下中だ。実際、「株価も上がっているというのに、まだ児童レイプが何とかかんとか、もう止めて!」と言っているようなものではないか。

いやあ、面白いです。

《トランプ劇場》は日本ローカルの《小泉劇場》を遥かに上回るスペクタクルになっている。

ずっと以前に投稿したが、アメリカ大統領のThe Worst Oneは第一次世界大戦後に就任したハーディング大統領と評価はほぼ決まっていたようなのだが、政権ともどもトランプ大統領が記録を更新することは間違いなさそうである。

そういえば高市総理も

「裏金議員」なんて呼び方、もう止めてちょうだい

と、そんなお願いをメディアにしているそうだが、真偽はどうなのだろう?NHK辺りは「不記載」議員などと呼び方を変えているように思うのだが・・・

 

 

2026年2月13日金曜日

断想: トップと部下の「世界共通の規範」というのは?

日本海海戦の作戦立案は先任参謀である秋山真之によるものだったという話しは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』を待つまでもなく、松山で生まれた小生は幼少時から何度も聞かされていた。実際、海水浴場のある松山市・梅津寺には秋山兄弟の銅像がある。

とはいえ、

この見事な作戦は〇〇参謀の立案であった

こんな風に立案者が有名になるのは、例外的でなければならず、作戦を採用するのも、実行するのも、トップである司令官の責任であるはずだ。

だから、勝てば作戦を採用した司令官の功績であって、負ければ作戦を採用した司令官の責任である。こう考えるのが組織の論理であるはずだ。

日本海海戦で勝った司令官は東郷平八郎で勝利をもたらした提督として参謀・秋山を遥かに超える評価を得ている。これが本当の姿で、むしろ参謀・秋山の天才ぶりが『坂の上の雲』の中で叙述されていることも、実は参謀としては望ましい姿ではないと思う。参謀とは世間に知られてはならない黒子であるべきで、だからこそ参謀は思い切った立案をすることができる。

参謀やスタッフには結果責任はない

これが小生の理解である。


ところが昭和時代になると、勝てば参謀本部の作戦課長の功績、負ければ現地の司令官の責任という風潮になったようだ。本来は勝っても、負けてもトップの責任だ。参謀以下の部下に対してはトップが感謝の気持ちをもてば十分であって、部下の名前まで歴史に残るのは、おかしな話しだというのが小生の感覚だ。


これから高市政権が進める経済政策、外交政策も、うまく行っても、まずく行っても、その功績や責任は高市総理と担当大臣にある。

有力な参謀であるスタッフやアドバイザー、秘書官や側近官僚を探し出しては「隠れた権力者」などとおだて上げるのは、日本のマスコミの悪い癖である。

「現代の柳沢吉保」、「官邸のラスプーチン」などと持ち上げては叩き落すのがメディアの習慣になれば、失敗したスタッフをスケープゴートにして結果責任から逃げるのもトップの習慣となる。そうして

逃げるトップのために身命をかける部下など一人もいませんよ

こんな状態が論理的な帰結としてもたらされる。愚かだ。これが世界共通の行動規範だと思う。

2026年2月11日水曜日

ホンの一言: 衆院選の結果の「あと解釈」があふれているようで

 衆院選の自民圧勝を受けて、ネットなど巷では

自民圧勝、中道大敗の理由には三つあり

といった風の解説記事があふれている。

全て《あと解釈》(=hindsight)である。


何しろ「結果」が「事実」としてもう可視化されている。

〇〇が原因となって△△の結果がもたらされるであろう

といえば事前の予想である。これは勇気のいる知的努力である。リスクも負担している。

これに対し、「あと解釈」というのは、判明済みの結果から逆に考えて

 〇〇が原因となって△△の結果がもたらされた

というものだ。


可視化された結果から逆に原因を考えるという点では統計分析の《ベイズモデル》に似ている様だが、偽物である。

ベイズ分析とは、確認済みの結果をもたらしうる全ての原因を列挙してから、

△△という結果がもたらされた原因は〇〇であった可能性が高い

という議論をする。この可能性を「事後確率」という。つまり事後確率を計算するには、それぞれの原因から確認済の結果がもたらされる「事前確率」が分かっていなければならない。事前の予想ができる人のみベイズ的な事後分析が出来るのである。


なので、事前には黙っていたのに、結果が分かった事後になってから、原因はこうだったという記事は一切信用しないことにしている。

2026年2月9日月曜日

ホンの一言: 高市さん圧勝は「北京の北風戦略」の失敗とも言えるかも

衆院選も直前予想のとおり、というかそれ以上の《自民圧勝》となり、今日あたりは何だか大相撲の千秋楽が終わったあとのような感覚だ。

「事前予想のとおり」というのは「ああ、やっぱりネ」という勝敗なので、意外感というか、サプライズはなかったのだが。

色々な方面からコメントが寄せられている由。トランプ大統領、メローニ伊首相、李大統領は早々に祝いのメッセージをアップしたらしい。

石破前首相も何やらコメントしたようだ。これに対して、ネットでは

 始まったばかりだから期待値に決まってるだろ。まだ実績あるわけないだろ

こんなものまであったので、思わず笑ってしまいました。

総理大臣をこれからやる人、実績なくともイイの?

その辺の大学が教員を公募するときにも業績、論文抜き刷りは必須だ。専門誌なら何でもよいわけではなく、査読付きという条件も付加される。

職務を担うのに十分な能力があることを、自己宣伝ではなく、実績で証明するのは、公職に就くものの義務である。


ただ、高市首相が総理たるにふさわしい資質をお持ちであることは十分に示された。それは決断力である。

トップに専門的な知識、技術はそれほど必要でないと思う。その代わりに、一流の人材を見出し、抜擢し、活かす人物眼もまた決断力と同じ程度に不可欠だ。

この辺り、大学の学長に求められる資質にも通じるし、企業、官庁など、あらゆる組織に通じる条件ではないか。

高市首相の周りには、今後、一流・二流・三流以下、ごみ芥のような人物まで近づいては売り込むことだろう。

実績がなければ、期待値は(実は)計算できず、リスクだけが大きい。実績は期待値を計算可能にするとともに、リスクを減じる。安定感が出るのだ。

何の実績もない新人を主役に抜擢するのが冒険である理屈は誰でもわかる。実際、無名の新人が主役をつとめる冒険作は往々にして失敗する。

一国の総理大臣に実績がないことを、国民は(本当は)不安に感じなければならないはずだ。


小生思うのだが、

今回の高市総理大勝をもたらした最大の要因は北京政府がとった「北風戦略」である。

就任早々のちょっとした失言を「もっけの幸い」とばかりに、高市政権打倒をもくろんだのだろう、北京政府が居丈高になって対日経済制裁を打ってきたのは、逆に日本人、特に若年層の怒りに火をつけるもので、日本人有権者に

がんばれ高市! 負けるな高市!

という感情を高める結果になった。首相が断固として発言を撤回しない姿勢も奏功した。確かにこれは首相の資質を証明する何よりの「実績」だ。昨年の総裁選で小泉進次郎氏が当選し首相であったと仮定して、同じような姿勢をとれたかどうか、いささか不安が残るのは小生だけではないかもしれない。


もちろん、だからと言って、対中外交悪化のリスクは(北京政府が戦略を変更しない限り)これから顕在化する可能性が高いわけで、現実に日本人がそのマイナスを感じ始めたとき、それでも高市政権を支持し続けるかどうかは別の話し。ほゞほゞすべての現代日本人は、自己利益を動機として意思決定しているはずで、損だと見切ったときは高市批判に転じるはずである。外交リスクと併せて、経済リスクも依然として残っている客観状況に変わりはないのである。

政治家に《精神主義》は禁物で、激を飛ばすのはせいぜい3回で賞味期限は切れる。


北京政府は、いかにも器が違うという鷹揚な態度を示し、

素人のようなことを日本の首相が言うのは困る

まあ、揶揄する程度に抑えておけば、おそらく解散の大義もなく、政治勘の悪さ、失言癖ばかりが悪目立ちするという展開になった可能性がある。

「北風戦略」より「太陽戦略」を北京政府は採るべきであった。そう思う次第。

囲碁でもそうだが、相手の無理な打ち込みは正面から受けて立たず、やんわりと包囲、対応する方が相手の無理筋がだんだんと明らかになるものである。

2026年2月7日土曜日

断想:「良妻賢母」が再び語られる・・・「復古調の令和時代」になる?

国政選挙の前は色々な論点が集中的に世間で取り上げられるので、ブログ投稿も自然に増えてしまう。明日で集中投稿週間もひとまず終わりそうだ。

本日は、昨日の続稿ということで。

こんな下りを昨日は書いた:

こうみると、いま世界の民主主義国では極右の女性政治家が急速に支持を集めつつある、というのが潮流であるようで、この根底にはやはり1990年代以降のグローバル化、リベラル思想の支配を否定する保守反動が勢いを増してきた。こう達観するべきなのだろう。

・・・

どちらにしても「LGBT」など少数者への過剰な配慮、「男女性差の過剰な否定」、「選択的夫婦別姓の過剰な主張」、「外国人の一部参政権容認など過剰な人権擁護」等々、リベラル思想を象徴するようなポリティカル・アジェンダは、当分の間は休眠を余儀なくされそうな気配になってきた。

本当に高市自民党が圧勝するのか、いまだに100パーセント信用する気にはならないのだが、これほどまで事前調査の結果がそろっている以上、そうなのだろうと予想してしまう。もし反対の結果が出れば、それこそ『ビックリ仰天、開いた口がふさがらぬ』ということでござんしょう。

まあ、多分、高市自民党は圧勝するのだと、そんな気分に小生もなっている。

となると、日本でも《保守反動》の政治が色濃く出て来るはずで、前稿では代表的な例をあげたわけだ。

実は、もっとディープな方向転換が日本で(突然、まっしぐらに)進み始めるのではないか・・・とも想像(?)しているので覚書きとして書いておきたい。

但し、ひょっとすると、高市自民党は小幅の勝利、というか「辛勝」にとどまるかもしれない。そうなれば、これから書く想像は空振りである。

それは《専業主婦再評価》の議論から始まり、最後には《良妻賢母の勧め》に至る、ある意味で《復古的家庭像》の盛り上がりである。

振り返れば、戦後日本の高度成長を支えた「人口ボーナス」が消え去り、それとは反対の「人口オーナス」が見通される1980年頃から《男女雇用均等化》への歩みは始まっていた。実際、「男女雇用均等法」が施行されたのは1986年4月である。

小生が経済学を勉強していた頃は、女性労働力は「核労働力」ではなく「縁辺労働力」として位置づけられ、従って主たる問題は「男女賃金格差」の分析であった。それが想定を超える少子化の進行で男性労働力の減少が予想されることから、女性労働力への期待が高まってきた。人手不足になれば臨時的に働くのではなく、常時、労働資源として女性には働いてほしい、そんな風に企業経営者の目が向いてきたわけである。

つまり、「男女雇用均等化」への動きは、男性労働力人口の減少に危機感を強めた経済界が、女性の労働市場参入を促した結果だろうと推測している。外国出身の移民に頼らない労働力確保の方策として、家庭にいた日本人女性に財界が着目し、政府も後押しをした。これが現実に進んだ経済プロセスであり、それを駆動したロジックは男性賃金の上昇に歯止めをかけたい企業経営の論理で、決して《男女間の不平等是正》に価値を置くリベラル思想などではなかったと小生は理解している。

ご都合主義はいつでも高邁な理念を装束としてまとわされるものなのである。

ところが専業主婦モデルが崩壊し半分以上の世帯が共稼ぎ世帯になるに伴って、予想以上に少子化が進んだ。経済界も政府も男女合計の労働者数が減少していくことに危機感を覚えた。人手不足の深刻化は、AI、自動化など資本集約度の上昇で(本来は)対応できる問題で、賃金上昇圧力は生産性の上昇で解決するべきだ。しかし、自動化のための投資資金の捻出に苦しむ企業が多い。安価な外国人労働力に目を向けているのは、企業経営の論理に従えば当然である。

共稼ぎ世帯の増加と少子化の急速な進行の間に因果関係があるかどうかは、なかなか検証が難しいが、何の関連もないとは断言できないと小生も思ってはいる。

少子化の解決(?)に向けては、例えば年金支給モデルの改変などで対応できるのではないかと、素朴な方式を投稿したこともあった。が、人手不足と少子化を同時に解決するには道は一つである。

現場は外国人にお願いするので、日本人女性は家庭を守って、子を産み、育てる仕事に従事して下さい・・・

と、

実際、専業主婦モデルの時代には、男性世帯主に家族の皆さんを扶養できるだけの報酬を支払っていました。今は男女協業の中でそれが出来なくなりましたが、元の賃金モデルに戻していくことにします。女性の方は、もう外で働く必要はありません・・・ありがとうございました。家庭にお戻り頂いても結構でございます。本当に有難うございました。日本国として感謝いたします。

と、いずれ政府の中枢で検討される経済社会モデルの中で、上のような「基本方針の大転換」が浮上してくるのではないか?

実に《ご都合主義》である。が、ご都合主義ではなく高邁な理想に基づいて日本国を統治した政府など、これまでの歴史を通してあっただろうか?

何だか、笑い話のようだが、ありえぬ事ではないと想像(というより空想?)している。

ここまでくると、保守反動の時代を超えて、「復古の潮流」と呼ぶべきであろう。ただ外国人の急増が進む中での21世紀型の「復古日本」であるのが違う。


・・・もちろん少子化現象をもたらしている要因は、共稼ぎ世帯の増加に限ったことではない。ひょっとすると、夫婦二人とも仕事で多忙であるという事と子を育てないという意思決定の間には何の関連もないのかもしれない。忙しくても子をもつ親は多い。経済的に豊かで時間に余裕のある専業主婦でも子は一人か、つくらないという家庭も多い。一概には言えない。しかし、今よりはずっと貧しく、大半の女性が専業主婦として家事労働に勤しんでいた時代、一人っ子は少なく、3人兄弟は普通であったのだ。少子化は現代の《都市化》と《多消費社会》の下で進んできた。「福祉国家」の理念が浸透し法制化されたことも少子化には関係しているだろう。真の要因を求めるとすれば、「共稼ぎ」の増加ではなくこちらの方向だろうというのは、これまでの投稿でも書いている。以上、つけたしまで   ―  実証作業は面倒だからもうやらないが。

年金など福祉国家の根幹に対する信頼性が低下しているいま、少子化が進んでいるのは、(仮説としては)論理矛盾で、反証でもあるが、本日はこの辺でやめておこう。

【加筆修正:2026-02-09】



2026年2月6日金曜日

ホンの一言: リベラルから保守反動への世界的潮流?

今週末の衆院選ではどうやら高市首相率いる自民党が圧勝しそうな塩梅だ。中道改革連合が発足した当初は期待をもたせられたが、やはり「お疲れ気味」の老人が二人で語りかけるスタイルでは有権者をひきつけない。

いま巷では高市首相圧勝のあとは自民党単独政権の《爆走》が始まるであろうと予想する向きが増えている。

積極的財政政策推進と円安・インフレ加速、それに高金利到来。対中関係の一層の悪化と対日経済制裁の拡大。皇室典範の改正で男系天皇制死守。憲法改正で自衛隊明記、更には「国防軍への改称」か?まさか徴兵制再開への道を開くなどもありうるか?

公約には含まれなかったが、医療・年金など公的保険のスリム化、労働市場の流動化促進と金銭解雇解禁。農業経営の合理化、等々。ここまでやってくれれば日本経済には勢いが戻るだろう。急に精力がつきすぎて頓死するかもしれないが。

ま、滞っていた日本社会が俄かに走り始めることだけは高い確率で予想できる。とにかく《決断力》のある首相であることが実証されたわけだ。

やはり過激派なのであるナア、と思う。決して全て反対だと思っているわけではない。先日にも投稿したが、経済・外交政策だけは目を覆いたくなるのだ。

振り返ると、イタリアの右翼過激派のメローニ首相、ドイツ政界で勢力を急拡大中のAFD(Alternative für Deutschland:ドイツのための選択肢)を率いる極右政治家アリス・ワイデル博士は二人とも女性である。更に、フランスの「国民戦線」だったか「国民連合」だったかの代表をしているマリーヌ・ルペンもパリ大学卒の弁護士ながら過激派ぶりは筋金が通っているようだ。但し、ルペン女史に関しては、これを脅威とするマクロン大統領の指示かどうか不明だが、検察が公金横領事件容疑で検挙し、一審が有罪となったので2027年の大統領選挙への出馬は禁じられたよし。裁判は控訴審が進行中である。

こうみると、いま世界の民主主義国では極右の女性政治家が急速に支持を集めつつある、というのが潮流であるようで、この根底にはやはり1990年代以降のグローバル化、リベラル思想の支配を否定する保守反動が勢いを増してきた。こう達観するべきなのだろう。

とすれば、今後、イギリスでも再びサッチャー的な女性政治家が出現する可能性はあるし、ドイツもAFD政権がいよいよ現実化するかもしれない。

日本の高市政権(が多分実現するだろうが)、これも世界の中で理解した方がよいのかもしれない。

どちらにしても「LGBT」など少数者への過剰な配慮、「男女性差の過剰な否定」、「選択的夫婦別姓の過剰な主張」、「外国人の一部参政権容認など過剰な人権擁護」等々、リベラル思想を象徴するようなポリティカル・アジェンダは、当分の間は休眠を余儀なくされそうな気配になってきた。

2026年2月5日木曜日

断想: 政治家など、なぜなりたいと思うのでしょう?

国政(とは限らないが)選挙が近づくと、いつも不思議に感じることがある。それは

議員ってそんなになりたいものなンですか?

実に素朴である。

ずっと以前にこんな投稿をしたことがある。さわりの部分を引用しておこう:

どんな人が「政治家」などという割の合わない仕事につこうとするのだろう?

(中略)

マンション管理組合の理事長をするくらいですら、管理費の使途が適正であったかどうか、常住座臥疑惑の眼差しでみられるというものだ。針のむしろに自発的に座ろうと言う人はなぜそうしようと思ったのだろう。

上の投稿でも書いているが、アメリカはずいぶん事情が違う。

オバマ氏:「8年間のホワイトハウスでの生活を終え、妻と私は皆さんと同じ民間人に戻ります」 大統領を退任したオバマ氏の民間人としての気になる今後についてですが、実は年金生活に入ります。CNNによりますと、1年間の年金額は20万7800ドル、約2400万円になる見通しで、これまでの大統領としての報酬は年間約4600万円ということで、その半分ほどが今後一生涯、支給されていくということです。さらには、シークレットサービスによる身辺警護や事務所の経費、旅費などは「手当」として税金から賄われることになっています。実は、アメリカの大統領というのは、現役時代ではなくて「辞めてから稼ぐ」と言われていて、・・・

なにしろアメリカ合衆国の大統領だ。ヒラの国会議員とはわけが違う。実際、アメリカの上院議員であっても、退職後の待遇はそれほど良いとはいえない   ―  AIに聞けばすぐに教えてくれる。 確かに経済的な待遇、つまり「儲かる」のであれば、どんな人でも(一度は?)なりたがるはずだ。

今回は前回の逆風選挙で落選した元・安部派議員が大量に立候補しているらしい。

議員に戻りたくって仕方ないんだろうネエ・・・

そう思います。ということは、落選してから国会議員より面白くて、やりがいのある仕事は一つもなかったんだナア、ということが分かります。「議員」なんて、そんなに面白い仕事ではないはずなンだが・・・

大体、一介の国会議員など給料は確かに省庁の事務次官より厚遇されているが、商社や銀行の取締役の方がずっと高給のはずである。それに経営能力を買われれば、80歳まではどこかの企業の経営陣に入れるだろう。民間の有識者として言いたいことを言う機会も与えられよう。「議員」より「事業」のほうが中身はずっと濃いと思うがナア・・・

だから、よけいに不思議なのだ。

国会議員なんて、なぜなりたいのか?

まして総理大臣になりたい人はどんな感性、思想をおもちなのか?総理大臣とて超高給ではない。せいぜい年収4千万円程である。例えば三井物産や三菱商事に入って、50歳前後に上級管理職になれば年収は4千万円程度にはなるそうだ。もちろん誰もが「上級管理職」になれるわけではない。しかし、総合商社の「上級管理職」と日本の総理大臣と、どちらがなるのが難しいですか?「上級管理職」ではなく経営陣、つまり「取締役」になれれば、年収は2億円から3億円に増える。社長や会長になれば、5億円のオーダーになる。総理大臣の年収など、グローバル企業の「社員」程度の額なのだ。外国の企業で昇進すればもっと巨額の報酬になるだろう。

そればかりではない。個人的に知っているわけではないが、「解散」くらいなら天皇の名を借りることで出来るだろうが、その他の政策は周りの先輩、後輩たちから賛同してもらわなければ何一つできないのだ。

気を使うことおびただしい。あの安倍晋三首相、田中角栄首相ですら、願いがすべてかなったわけではなかった。

人それぞれ、人は色々

ではあるが、いつも不思議に思う。一体、それほどまで

日本国が好きで、好きで、好きで、好きで、好きで、すべてを犠牲にしてもイイ

そんな人が現実にいるのが不思議でたまらない。もし本当にいるなら文字通り「国の宝」である   ―  「宝」は往々にして床の間に黙って鎮座してもらった方がイイのでありますが。

 

 

 

2026年2月3日火曜日

断想: 善意にあふれながら、思考が停止している様な意見もあるようで

国政選挙があると世間が騒がしくなるので投稿の話題が増える。特に今回は、解散そのものの違憲疑惑も憲法学者からそれなりに指摘されているようで、問題意識を刺激される。2月の投稿は前半に集中、後半はお休みになりそうだ。

こんなネット記事をみかけた:

 給付と負担の公平性の観点から、高齢者医療の財源の一部を高齢者自身に負担してもらう発想だが、現役世代の「高齢者が優遇されている」(既得権益層である)という反感やねたみに拍車を掛けるもので、「今の利益を守ろうとする既得権者」対「未来を担う子ども・若者」という対立構造を暗に呼び込んでいるところがある。いわばシルバー民主主義との闘争である。

 そもそも日本の65歳以上の高齢者の相対的貧困率は約20%(5人に1人)に達しており、OECD諸国の中でも高い水準にある。特に女性単身世帯の貧困率は4割とかなり深刻な状況になっている。このように「反既得権益型」のポピュリズムの困難は、対立構造そのものが推進力となる面があることから、いたずらに分断をあおる可能性がある。国民同士のパイの奪い合いを推し進めかねないのだ。

Source:YAHOO!JAPANニュース

Original:東洋経済ONLINE

Date:2/3(火) 6:16配信

URL:https://news.yahoo.co.jp/articles/7d16a38773e1cdca5d92e0615966d63419a85db0?page=3

消費税よりは社会保険料の引き下げがより重要だと主張する政党もあるが賛成だ。そして、社会保険料引き下げが高齢者の医療費自己負担率引き上げにつながるであろうというのもロジカルで賛成だ。医療費が家計を圧迫して、特に低所得者の暮らしが苦しくなるのであれば、保険の高額療養費制度を拡充することで対応する方がロジックが明快だ。

この話題については最近も投稿したことがある。

要するに

年齢によらず医療保険の取り扱いは一律とするほうが透明である。

こういうことだと思うのだ、ナ。

齢をとると多病になる。多病になって最後には治らず寿命を終えるのが人生というものだ。寿命の長短は不平等だが、この不平等は人の努力でどうかなるものではない。しかし、人の努力で平等にできるものがあれば、すべての人は不平等より平等を好むはずだ。

高額療養費制度の利用者は高齢者が多く、若年者は少ないはずだ。それでも保険制度の下で形式的平等を実現しておく方が小生の感性にはあう。

今は若くて保険料負担に苦しむが高齢になれば自己負担率が低くなり便益を享受できるので『人生全体を通して平等は実現されている』というのが、既存制度を守る側の理屈だろうが、国の制度は実に「有為転変」、将来は財政が破綻して政府の公約など消失しているかもしれない。国家の破産は1997年の《アジア危機》、2009年の《ギリシア危機》をみた日本人は(潜在意識であっても)よく分かっている。日本が(再び)破産する可能性は日本人はもう肌で感じているのである。何より国の制度に入るかどうかで《選択の自由》がない。多くの日本人は国が決めることを強制されるという非条理への怒りを感じている・・・とも思えるのだ、ナ。

実質的平等は・・・などと言わず、まずは形式的平等をすべての時点において実現しておくべきである。

こんな風に思います。

ただ、上の引用した部分には「変な個所」もある。

日本の65歳以上の高齢者の相対的貧困率は約20%(5人に1人)に達しており、OECD諸国の中でも高い水準にある。特に女性単身世帯の貧困率は4割とかなり深刻な状況になっている。

この部分である。

実はカミさんが定期的にランチしている友人の一人は、数年前に夫君を亡くし、いまは非課税・女性単身者世帯なのである。定義によれば日本社会の中の《相対的貧困者》に該当する。

しかし、その友人のご両親は町の中心部で事業を展開して、いまもご健在であるので、両親の介護をしながら豊かな生活を送っている。

それに、これはよく指摘されることだが、女性単身者の日常生活は(持ち家か賃貸かにもよるが)せいぜい年収150万円(毎月12万5千円)もあれば十分のはずで、月々この程度の収入ならば3000万円の金融資産を毎年5%で回せば入るのである。3000万円なら現役中の貯蓄に退職金を加えればそれほど達成困難な金額ではない。更に、65歳を超えれば基礎年金も入るのだ。

要するに、

「相対的貧困」という尺度は現実の貧困をとらえる基準としては弱すぎる。

こういうことである。

少なくとも

所得ではなく(その人の)消費金額について中央値の1/2未満を相対的貧困とする

など、着目点の改善を望む次第だ。消費には持ち家帰属サービスも加算するべきだ。当該年だけではなく複数年にわたる継続性にも目を向けるべきであろう。

単身女性単身者には貧困世帯が多いので、医療費の自己負担率を引き上げるのは困難であるという指摘は、数学の定期試験で問題をみるなり

この問題、解くのが難しいから、解くのはやめヨっかな

こんな思考の停止、努力の放棄にかなり近い発想ではないかと感じている。

上に引用した記事がそうだというのではないが、ネット記事やコメントを読んでいると、「正気か?」、「勉強したことがあるン?」と思わず口に出そうな異常かつ無知な書き込みが多い、というより異常増殖している感覚がある。以前はこれ程ではなかったと思う(自信はないが)。

最近になって囲碁の「みんなの碁」や「囲碁シル」の愛用者になって技術革新の恩恵を実感しているのだが、囲碁にせよ、将棋にせよ、ネット対局では各人の棋力を知っておくのが必須だ。そのため、どのアプリでも《レーティング(Rate/Rating)対局》がシステム化されていて、勝敗の実績によって昇段・降段される。相手の力量が明示されていなければ対局を受ければいいのかどうかも判断できない  ―  過小に申告して楽しむ実力者も横行しているが、それは予定された状態ではなく、是正しうるノイズである。

で、思うのはネット記事やコメントを投稿する人にもレーティングを適用してほしいのだ、ナ。個人データとして何か有用な情報を登録してもよいし、オンラインで多数者から付与される「信頼ポイント」であっても可(かもしれない)。何も全員に義務付ける必要はない。"No Rating"という格付けがあってもよいのは当然だ。入試センターの共通試験で15科目平均97点をとれるAIなら、その人の既往投稿やコメントの内容を5段階評価する作業など簡単にできるだろう。

形は何でもイイが、書いている人がどのレベルの人か、それが分かればコメントに対するコメントも書きやすいし、コメントを書かれた側にとっても有益な情報になると思うがいかに。

2026年2月2日月曜日

ホンの一言: 帯に短し、たすきに長し。理想の政治家などいませんヨ

 TVでも、(一部の例外を除き)新聞でも、はたまたネットを見ても、《高市政策》は日本を破滅に導くという見方であふれている。そうかと思うと、閣僚経験もあり元・東大教授でもある某氏は、仮にこのまま《高市解散》が成功に終わるとすれば『この民にして、この総理大臣あり』と、マア、有権者を突き放すような投稿をしている。

小生は、これまで複数の関連投稿をしてきたが、対皇室スタンスだけは《高市理念》を共有している自分がいる。しかし、《高市経済》と《高市外交》は世間の識者が言うとおりだと思っている。更に《高市軍拡》が現実のものになるとすれば「狂気の沙汰」だと思われる一方、

徴兵制は憲法の禁ずる苦役には該当せず

という首相発言がいつあってもおかしくないと想像しているし、小生も同意見だ   ―  米・最高裁判例でもこれ自体は肯定されている。また原発の積極的活用を強調しても理解できるし、核武装への道を探ろうという見解を(どこか外国で)述べたとしても、それも一つの選択肢であると思うのが、小生の立ち位置だ。

右翼は嫌いだ。とはいえ、一部の政治哲学には共感する。否定しているのは経済政策である、というより経済音痴ぶりに唖然としている。昭和前期を連想させるような国家主義的言動には嫌悪を感じる。そんな要約になるのだろう。


一方、中道連合の親中外交には賛成である。現代中国には見るべき文化はないとしても、歴史的に多くの文化を創造してきた漢民族には尊敬の気持ちをもっている。漢文も漢詩も陶芸も好きであるし、最近は書道の美もよく分かるようになった。現時点の経済的相互依存関係をみても日中対立には何のメリットもない。

現に共同利益を受けておきながら、何のメリットもないのに空疎な敵愾心を煽り関係を壊すような言動は、ただ阿呆にのみ出来ることである。

現代中国に見るべき創造や文化が何一つ(?)ないのは、ひとえに共産党が信奉するマルクス的唯物史観がもたらす弊害であると観ている。

その他のリベラル派の政策には賛成できない。高市経済は日本経済を破綻させるだろう。が、規制や再エネ支援を偏愛し自由経済を忌避するリベラル派の経済政策も日本をずっと停滞させ続けるであろう。

何もかも兼ね備えた理想的政治家など30年に1人でも出現すれば御の字である。

結局、こういう事かもしれない。


それにしても不思議なのは、(一部を例外に)多くのマスコミ、ネット記事でこれほど評価されない高市首相が、なぜか週末の選挙では大勝しそうだという(今の)予想である。

評価されず、けなされてばかりの政治家が、なぜ選挙で勝ちそうなのか?

七不思議であります。

2026年2月1日日曜日

断想: 政治の浄化には「司法改革」が特効薬だろう

あと1週間で投票日を迎える今回の衆議院選挙は、予算審議もしないまま解散してから異常なほどの短期決戦であり、加えて真冬かつ受験シーズンの投票日でもあることから、もう「見たことがない」という様相を呈している。結果予想も人や機関によってマチマチ、バラバラで、誰も分からないということだけが分かる。

今になって高市首相のマイナス材料を相次いで週刊文春が報道している。世評では「高市首相の逃げ切り濃厚」という見方が強いようだが、仮に選挙に勝っても、あとが泥沼だろう。それでもやりたいっていうのは、よっぽど政治が好きなんだネエ、と感嘆します。

それはともかく、高市さんや萩生田さんも常連だったという旧統一教会とのつきあい。政治献金やら裏金やら、世間の関心は薄れてきたという報道なのだが、「裏金問題にはもう関心がない。それより消費税を減税してくれ」と。もしそんな有権者が大半を占めているようなら、戦後日本の民主主義も終末期に入ったという言うべきでありましょう。

但し、政治とカネ問題を解決する特効薬はある。それは厳格な経理、規制をかけるのではない。規制には必ず抜け道があるもので実効性には期待できないのだ。

それよりは《刑事司法》を民主化するだけで贈収賄、汚職はもちろん冤罪もまた大幅に改善される。小生はそう予想する。

日本の統治システムの弱点は、戦前・戦後を通して、《司法の弱さ》にあり

これが小生の(特に戦後の)日本社会観だ。

日本の法体系は英米法ではなく大陸法の系統で刑事事件捜査とその後の法廷事務は検察官が主導するというやり方だ。それでも、ドイツやフランスの成熟した司法に比べると日本の後進性は明白である。

試みに、何かと日本がお手本にしてきたドイツの刑事捜査、刑事司法をChatGPTに聞いてみたので要点の部分を抜粋しておこう(全体はここ):

ドイツ手続の特徴を一言でまとめると

  1. 検察主導
  2. 裁判官による捜査段階からの強い人権統制
  3. 公判中心主義・口頭主義
  4. 有罪前提ではなく「客観的真実発見」重視

ドイツは前稿でも触れたが《起訴法定主義》で検察官の裁量は混じらない。原則として、すべての刑事事案が起訴され裁判になる。

ドイツの起訴法定主義とは、

検察は、犯罪の嫌疑が十分に認められる場合、原則として起訴しなければならない

という原則です。

明文根拠:ドイツ刑事訴訟法(StPO)§152(2)

補強規定:StPO §170(1)


この原則は、

「起訴してもしなくても検察の裁量」

という制度(=起訴便宜主義)を原則として否定します。

日本の刑事事件の有罪率が99.9%であることは世界でも有名だ。これは警察が検察に送検する事案のうち実際に起訴されるのは3割から4割であるためだ。強烈な事前スクリーニングを裁判とは別に検察官の独自裁量でかけているわけだ。

本当は、無罪が見込まれる場合でも検察は容疑者を公判にかけて「無罪判決」を得させるべきなのである。それが容疑者の人権を守ることにもつながる。

そうしない一つの理由は、無罪判決が担当検察官の敗北として評価されるからであろう。

予審制の下では内閣と議会から独立する予審判事が本審(=公判)を開くかどうかを判断する。ドイツもフランスも予審制である。日本にも昔は予審があったが、戦後になって司法省が解体され裁判所が独立したのを機に廃止され、それからは検察官が実質的には予審判事の役割を(司法府ではないにもかかわらず)代行している   ―  見ようによっては、裁判官人事の権限を失うのとバーターで、予審制を廃止し裁判所の捜査機能をなくしたと観られないこともない。検察官は「準司法」と称しているが「法相指揮権」があるように内閣の統制下にある。

 

日本では検察庁が不起訴の詳細な理由を公表することはない。不起訴は「無罪」と実質的には同じ結果となるが、裁判による「無罪判決」とは全く異なる。かつ取り調べに弁護士が同席することはない。裁判とは違うのである。「一事不再理」の大原則も適用されず、不起訴であっても、検察の裁量で再び取り調べの対象となりうる。逆に、検察の裁量で起訴しないと決めれば、裁判の被告人になることはない   ―  「検察審査会」は最近になってようやく実現した司法の民主化の成果である。

検察官の裁量が排除され、無罪の可能性を含んだうえで事件はすべて公判に回されるのであれば、政治家が不正を行うハードルは極めて高くなるはずだ。また、公判裁判をとおして有権者が民主主義社会を運営できるだけの「常識」をもつことにもつながると思う。

日本の政界の浄化は《司法の浄化》が特効薬になると考える次第。覚書まで。

2026年1月29日木曜日

断想: 中国の刑事司法は怖い ≒ 日本の刑事司法は怖いという一面

再審法改正に向けて作業が続けられているが中々収束しない様子だ。そもそも「改正」の名に値する刑訴法改正になりうるのか、検察側の抵抗もあって予断を許さないとも伝えられている。


思うのだが、欧米先進国(?)と肩を並べて民主主義国に恥じない司法であるというには、四つの選択肢しかないと小生は思っている。順にあげよう。

  1. ドイツ風の起訴法定主義
  2. フランス的な予審制
  3. イギリス的な法曹一元と私人訴追制
  4. アメリカ流の検事公選制

思うのだが、いったん犯罪容疑者になった場合、身の潔白を晴らすには《裁判》によって無罪判決を勝ち取るのが最良かつ最終的である。


古代ギリシアでは市民が訴追し、市民が弁護し、市民が判決を下した。いわば「みんなで弁論をして、みんなで判決する」という民主的司法が制度として実現されていたわけで、このあたり、文明の出発時点でそもそも東洋と西洋は気風が大いに異なっていた。

日本国内のマスコミは、何かというと警察による「逮捕」を有罪の証明とみなし、検事による「不起訴」を無罪の証明のように語る。が、これほど大きな間違いは反社会的であるとすら思っていて、人権侵害の最たる報道姿勢である。

検察の不起訴は、実質的には無罪と等しいのだが、裁判によらずして無罪とするのは筋が違う。無罪が確定したわけではないので、いつまでも同じ容疑で世間からバッシングされる温床になる。日本の法務省にはお飾りのように人権擁護局があるので、こうした酷い状況が発生しないようコミットする義務があると思うがいかに。


検察による不起訴は無罪の証明ではない。そもそも検察庁は司法ではない。行政官庁の下にある行政庁である。なので、検察官は行政官として刑事事件の捜査で警察を指揮し、公訴事務を担当し、(原則として)すべての事案について司法の法廷の場で決着させる。これがドイツ流の起訴法定主義で実にドイツ的な首尾一貫さを感じる。

フランスでは予審判事が置かれていて強力な捜査権限をもっている。起訴された刑事犯を予審判事が中立的な立場で吟味し、裁判の厳密性を保証しようとするフランス的なやり方だ。ドイツも予審制はあるので「大陸法系」とまとめてもよいのだが、フランスは起訴法定ではなく起訴便宜主義をとっているので分けた。

小生が最も共感を感じるのはイギリスの司法である。ネットにはこう書いてある:

イギリスの法曹一元制は、熟練した法廷弁護士(バリスタ)が裁判官に任命される制度であり、14世紀からの伝統を持つ。事務弁護士(ソリシタ)と法廷弁護士の二層制(職務分担)を基礎とし、10〜15年以上の経験を持つ者が上級裁判所裁判官に選ばれる。これにより実務経験に基づく多様性と専門性が確保されている。 

またイギリスの検察官は事務職である:

イギリス(特にイングランドおよびウェールズ)の検察官は、主にCPS(刑事訴追局:Crown Prosecution Service)に所属し、警察が捜査した事件の公判を担う。日本の検察官と異なり、原則として捜査権を持たず、起訴後の訴追打ち切り権限や起訴状作成を行う。実務上、法廷弁護士(バリスタ)が訴追代理を務める。 

職業裁判官、職業検察官を任用せず、法曹資格のある専門家が判事役、検事役、弁護士役を務めるのは、フレキシブルでアングロサクソン的な行き方だ。

最後のアメリカ風の検事公選制は、大半の刑事事件を担当する地方検事のことで、連邦検事は任用制で公務員である。選挙によるのでアメリカの検事は、広い裁量権を与えられていて、必然的に起訴便宜主義をとっている。


検察官がキャリア公務員(=官僚)であるかどうかと、起訴を法定とするか裁量とするかは、ハッキリとした相関はないようだ。


検察官が警察の捜査に対して一般的指示権をもつのは、大陸法の系統で法を構成している国に多いのだが、ドイツでは起訴法定主義をとっていて、起訴・不起訴に検事の裁量は混じらない。フランスは検察から独立した予審判事が検察・警察と独立して捜査・証拠収集を行い、公判へ送るかどうかを判断する。司法は行政から独立している。


今回の刑事訴訟法改正で、日本の刑事司法が恥ずかしくないものになる可能性はほとんどない。

数年前にカルロス・ゴーン日産社長が微罪(?)で拘束され、その後レバノンに逃亡するという事件が起こったが、同氏は『日本には民主的な司法が存在しない』と話していたという。何もゴーン氏の味方をするつもりはないが、

日本には民主的な司法がない

と怖れた心理は、中国で拘束された日本人が

中国には民主的な司法がない

と恐怖する心理とどことなく大同小異に見えて仕方がない。

何事によらず落ち目で、本卦還りの三つ子のような感がする日本国であるが、せめて司法の民主化だけは粛々と進めなければなるまい。そうでなければ、優秀な外国人が働く場所としては怖くて、怖くて、検討対象にはとうてい入れてもらえないであろう。


今日のようなトピックはあまりとり上げたことがない。本日は頭出しということにしよう。何回か話題にするかもしれない。


2026年1月26日月曜日

ホンの一言: 「オールドメディア」というより「ゾンビメディア」だネエと感じること

つねづね不思議に感じているのは、これほど「専門家のご意見」を好む(オールド)メディアで、生身の専門家には意見を問うが、急速に発展中のAIを利用する場面はまったく目にしないことだ。

いま「大手政党?」のほぼ全てが「食料品に対する消費税ゼロ」を公約にかかげている現状に経済専門家はほゞほゞ例外なく反対を表明している。だけではなく、日本の財政破綻の懸念から国債相場と円の対ドルレートが暴落している。


ちなみに「長期金利急騰」と表現して「国債相場暴落」の語句を避けているのは、幼稚なイメージ操作であって、政権に対する忖度だろうと小生は観ている・・・マ、これは細かい話だ。


先週末になって、日米政府の協調介入がまとまったか詳細は不明だが、急速な円安修正が進んだが、今日の月曜になると円高進行が国内景気に冷水を浴びせるのではないかという心配から日本の株価が暴落した。

何だか、あちらを立てるとこちらが立たずで、「高市路線」は最初から方向違いであることを示唆しているのは明白なのだが、当のご本人が国民の審判を求めるなどと堂々と語っているので、状況は何も変わっていない。


大体、日本国民が思う方向で日本社会が変われるなら、バブル崩壊も失われた30年もなかったはずである。停滞の理由は、合理的な政策を一部国民の強硬な反対から進められなかった点にある。

この辺を淡々と事実のままに報道すればいいのに、取材力が落ちたか、そんな話題には故意に触れないつもりなのか分からないが、「オールドメディア」が触れない重要な話題は最近になって特に増えていると感じる。


消費税ゼロについても突っ込みが不足している。こんな時、これまでの行動パターンならすぐに国際比較をするはずである。

消費税≒欧州型付加価値税(VAT)である。そこでChatGPTに

欧州諸国の多くは食料品に対する付加価値税率を低くしていませんか?

と聞いてみた。その回答をポイントだけだが以下に示す。

多くの欧州(特にEU加盟国)では、「食料品に対する軽減税率」を導入しており、標準VATより低い税率で課税している国が多い。

そもそもEUでは付加価値税率は最低でも(=標準税率)15%以上と決められている。その中で食料品に対する税率はフランスでは5.5%、ドイツでは半分の7%である。EU域外になったイギリスでは食料品はゼロ税率。

イギリスではトラス政権の大盤振る舞いとポンド崩壊が記憶に新しいが、それでも食料品に対するVAT税率は(基本的に)ゼロとしている。それでもって経済は、マアマア、安定している。

こんな事実は、ギャラを払って経済専門家にご意見を求めなくとも、安い課金で一発でPCが教えてくれる。

食料品に対する消費税率ゼロは(小生はゼロ税率は反対だが)決して突飛な政策ではなく、むしろ望ましい政策である。・・・コメをはじめとする輸入食料品に対する関税率を(一定期間だけ?)下げることも検討するべきであるが。どうすれば可能かだって?初めてのことならいざ知らず、実際やっている「欧米先進国」があるのだから、お手本はあるだろうにネエ・・・分からんか!と言いたいところだ。


なぜ真っ当な議論をメディアは進めようとしないのか?

いま問われているのは

大砲を増やすか、バターを増やすか

選ばなければならないのは、伝説的な経済学テキストであるPaul Samuelsonの"Economics"で有名になった経済学の最重要課題であるこの問題なのである。

要するに、軍事拡大を進めれば生活支援まではカネがない。生活支援を手厚くすれば軍事費にはカネがない。両方は不可能だ。この選択なのである。

政治家には選択の権利がないから選挙で問うのである。

この基本認識を語っている「経済専門家」は一人もいない。直面している《選択のフレーム》に落とし込む作業くらいはしてあげれば良いのではないか?ChatGPTなら政治家の発言記録を情報にして直ぐにやってくれますゼ。出演している「経済専門家?」、おそらく大方は「無免許運転」なのであろうと推察している。


ドラマもダメ。スポーツ中継もNetflixなどの配信にとられる、映画も復活気味。報道もこんな惨状。残るのはお笑い芸人が集まるワイドショーだけとあっては、もう《オールドメディア》という呼称さえ非現実的だ。《ゾンビメディア》の方が似つかわしく思う。


2026年1月22日木曜日

断想: 何かを信じたいとき問題は「三択」になる

 「高市解散」は極めて世評が悪いが、それでも一部の(熱狂的右翼の?)支持層を基礎に今でも高い支持率を誇っている様だ。

国債増発まで選択肢に入れて、積極的な財政出動、軍事拡大路線を進み、中国と戦おうという高市首相ご本人の統治スタイルが若者たちには受けているのだろうと観ている。

しかしながら、それによって金融市場、特に国債市場では先行き財政破綻懸念から国債相場暴落、長期金利急騰が続いている。

今日あたりは日銀の国債買い入れ増額方針が効いたのだろうか、相場暴落は一休みしているが、もしもこれが総理‐財務省による要請なり、プレッシャによるものであったなら、インフレ下の国債買い入れ増加イコール貨幣供給増加であるから、必然的に物価を上げる方向に作用する。

純経済学的に考えれば、「高市路線」は詰んでいるのであり、

ここは一歩後退。守りを固め、時機を待ってから反撃するべきです。

と。総理に諫言するべきタイミングなのだろうが、そうすれば「ぶれた」と批判され、そのまま失脚するのが怖いのだろうと勝手に憶測している。

ただ、どれほど一歩後退しようが、高市総理という政治家は《国家主義者》である事実は永遠に変わるまい。

思うのだが、人は何かを信じて生きるものである。成人するまでは親、もしくは身近な保護者を信じるものである。

やがて人は独立して、自分で考えて自分の人生を歩み始める。そうなってからも、親のいうとおりという御仁もいるが、大方は何かを信じて生きているものだ。

それは友情であったり、家族であったり、人間関係であったりする。他の人間によって自分は生かされていると思えば、《社会》を信じる。社会に恩返しをしたいという心境になるものだ。逆に、社会に居場所を得られないと感覚すれば、社会に敵意をもち、時に暴発する。社会は一定の確率で、この種の不適応者を生むもので、そんな人物に対して社会は責任を感じるべきだと考えている。

社会を信じる人は、社会を支える現実の力として《国家》を求めるのも必然的な結果である。国家主義者が10人いれば10人とも社会的価値の重要性を説きたがるものだ。

日本国の尊厳を主張する保守的若者は、内面においては日本社会を守りたい、そこに生きている家族や友人、知人たちを守りたい。こんな心情があるのだろうが、この辺の国民心理(?)は、太平洋戦争に大敗した以降も日本人の心情としては、何も揺らいではいないはずである。

これとは正反対の極にいるのは《科学》を信じるというリベラル的思考である。最もラディカルであるのは、マルクス的な科学的社会主義であって、一切の人間存在は物理学的な素粒子に還元される。人間は、要するに高分子炭素化合物なのであるから、精神的な概念や価値は単なる主観的錯誤、幻想であって、実在するものではない。社会にも実体はなく、国家にも実体はない。実在するのは、生きている生物、その中の人類という種であるから、重要なのは「食うこと」、「住むこと」、「寝ること」である。そのための「生産活動」である。こんな思考になるので、国家のためにという議論は意味がなくなる。

小生は、経済学とデータ解析で食ってきたので、唯物史観的な世界観にはずっと親近感をもっていた。が、数年前から疑問を感じ始め、いまでは完全に転向した次第は本ブログにも投稿してきた。

とはいえ、この≪科学主義≫というか「合理的リベラル思想」というべきか、こうした立場の良いところは、極めて普遍的である点である。

もしも日本政府が完全リベラルな世界観をもって統治をおこなうならば、あらゆる非科学的な偏見や先入観を排して、民族、国籍、日本人、性別、出自などを問わず、人はみな平等とみなして、全員が「食って」、「寝て」、「暮らす」ことを最高の統治目標とするはずだ。

これがいまの日本人にとって悪いはずがない。

とはいうものの、

人はパンのみにて生くるにあらず

である。『新約聖書』の中のイエスの言葉として有名だが、実は『旧約聖書』でも

それは主である神が、あなたに、人はパンだけでなく主である神の口から出る全ての言葉によって生きているということを知らせるためであった

こんな一文がある(Wikipedia)。

人間は、食べるもので自分の身体を養うが、物質的身体は「魂」や「知性」の入れ物であって、人間存在の本質は身体ではなく、精神である。

「精神」すなわち「言葉」である。個々の人間存在は、身体ではなく、言葉を使って、考えることによって実在する真理を認識している。

どうしてもそうとしか考えられない段階がやってくる。

「国家」でも「科学」でもないが、信じるに足る対象。それが「哲学」であったり「論理学」であったり、「数学」であったりするわけだが、理性を超えたところに「宗教」がある、というのがロジックである。

社会で生きていく上で、となると第3の選択肢は「哲学」ないし「信仰」という言葉になる。

物質的身体を動かしている非物質的な実在を漢字では「精神」と書いたり「魂」とか「霊」とか「法身」と書いて理解しているが、その理解はちょうど数学者が「無限集合の濃度」や複素関数の微分可能性を理解したり、はたまたヘーゲル的な「世界精神」を理解するのと、ほゞほゞ同じ種類の知的行為である。

そんな意味合いで、観察可能な科学的真理を認めつつも、観察不能で非物質的な実在も、理解可能な範囲、議論可能な対象として信じるのが第三の立場になる。

但し、宗教や信仰は観察可能なデータで(原理的に)検証されえないため、学理としても信仰対象としても宗教対立を招きやすいのが欠点である。

とはいえ、知的行為が人類共通の行為であるという意味で、この立場も普遍的であって、特に共通の信仰の下では日本人と外国人の差別はもちろん、男女差別、人種差別等々、一切の差別を否定するところが2番目の「科学主義」、「唯物主義」と共通している   ―  キリスト教やイスラム教の女性観は十分な知識をもっていない。法の前の平等という多分に作為的な平等観ではなく、もっと原理的に「神の前に」あるいは「仏の前で」、「阿弥陀如来の前で」人間はすべて平等であるとみなされる。

思うのだが、この第三の立場の利点は、精神的価値と知的活動を肯定し、文化を積極的に支援することが統治上の原理になることだ。

平等施一切 同発菩提心

という句は、小生が毎朝読経している総回向文にある。「平等」という言葉は(物理ではなく)仏理に由来しているのを意外に思う人も多いかもしれない。

イノベーションは、人間の精神的活動が人間を支えるものと認識し、学問的自由を保障するところから生まれる。

だから21世紀の統治原理としては、この第三の立場しかあり得ないというのが、小生の勝手な個人的見解だ。

宗教と政治の関係性については、相当以前に一度投稿したことがある。そこで

民主政治を支える一人一人の有権者の心に宗教感情があれば、政治と宗教を完全分離するのは、そもそも不可能なことである。

こんなことを書いた。そもそも広い意味での「宗教感情」が日本人に広くもたれているのは、正月の初詣で、お盆の精霊流しなどの行事をみれば明白である   ―   日本固有の神道における平等観は勉強したことがない。

そんな意味では例えばリベラル派経済学者として著名なKrugmanが次のように発信しているのは、見解の自由、意見の自由、表現の自由を保障する在り方として羨ましく思っている。

I had never heard the term “sundowning” before it happened to my own father, yet it’s a fairly common syndrome. In his last few months my father remained lucid and rational — remained himself — during daylight hours. Once the sun went down he deteriorated, becoming confused, paranoid and aggressive.

It’s terrible to watch sundowning in someone you love. But that’s a personal tragedy – not a national or global one. It’s an entirely different matter when the president of the United States is sundowning — a president surrounded by malign sycophants who tell him whatever he wants to hear and indulge his every whim, no matter how destructive.

 

「サンダウニング」という言葉は、父が実際に経験するまで聞いたことがありませんでしたが、実はかなり一般的な症候群です。父は最期の数ヶ月、日中は正気で理性的な、つまり本来の自分らしさを保っていました。しかし、日が沈むと容態は悪化し、混乱し、偏執的になり、攻撃的になりました。

愛する人がサンダウニングに陥るのを見るのは辛いものです。しかし、これは個人的な悲劇であり、国家や世界規模の悲劇ではありません。アメリカ合衆国大統領がサンダウニングに陥るとなると、全く別の話です。大統領の周りには、どんなに破壊的なことであろうと、聞きたいことを何でも言い、どんな気まぐれでも甘やかす、悪意のある追従者たちがいます。 

Source: substack.com

URL: https://paulkrugman.substack.com/p/its-sundowning-in-america

Date: Jan 20, 2026

Author: Paul Krugman 

自国の現職・大統領を「病気」だと言っているに等しく、こんな発信が自由にできるなど、日本国の現状と比べて、その寛大さは比較を絶している。


少し前までは、日本社会は自由で大らかで、品がなくハラスメントは横行していたかもしれないが、面白く生きられる社会であった(と記憶している)。

あらゆる人が、あらゆる人に「寄り添う」とき、「国家主義」は単なる「もたれあいの社会」を作るだけである。できあがる社会は動きのとれない、非寛容な管理社会だ。もたれあい・・・かつて「酷電」と呼ばれた朝の通勤電車は文字通りの「もたれあい空間」であった。立ったまま寝ても周囲の人にもたれて倒れずにすんだ。しかし、そんな残酷な空間からは誰しも逃れたいと一人残らず思っていたのである。社会を「酷電」にして支えあうなどは知恵と創造力の欠如を象徴している。まさに「貧すれば鈍す」だ。国家主義が堕落するとこうなる。

人が人に具体的な何かを期待し、求め始め、それが自己愛と結びつくことで、人は限りなく堕落すると確信している。人が人を救えると考えるのは科学主義者であろうが、科学主義の世界に精神の自由が尊重される空間はないはずだ。


現代日本社会の若者世代に高市的統治スタイルが善いとされているのなら、今後、日本が歩んでいく道は、かなりな程度「国家主義的」で「管理国家的」な色あいを強めることになるのだろう。

弱者を救済するのは「国家」の責任であると思えば思うほど国家は権力を堂々と行使する。

やはり日本は、「国家総動員」という社会体制を一度は選択した国民なのだナアと思う。そして同じ入り口から入れば同じ出口から出て瓦解するであろう・・・そんな事態は本当に一度だけ、"Das gibt's nur einmal"であってほしいものだ。

今回の投稿は覚書だ。ちょっと舌足らずだったかな?ま、もっと書き込むのは別の機会に。

2026年1月19日月曜日

断想: 大正と令和、明治と昭和。反発と憧憬が同居する関係性か?

カミさんと愚息の話になってこんな会話をした:

小生: それにしても最近の若い世代って、繊細であるのと同時に鈍感、傷つきやすいのに人を傷つけていることには鈍感。何だか分かりにくいところがあるよナ。うちの〇〇もそんなところが濃厚にあるだろ?

カミさん: △△さんとこの娘さん夫婦もそんな風みたいだよ。大人になっていないのかなあ・・・

小生: 幼稚だって世間では言うけどネ。若い人たち、よく「昭和」は古いってボロカスに言うじゃない。だけど同時に「昭和レトロ」なんて、昭和時代の当たり前の日常に結構魅かれるらしいんだよね。ずっと前にさ、ゼミ生の◆◆君がいたろ?彼なんて、将来は自分の窯で陶芸をやりたいなんて言うんだ。作務衣を来てね。マ、なんとなく形から入るところがあったけど、そんなに古い和風がいいと思うのかねと不思議に思ったよ。

カミさん: 惹きつけられながら、ご本人にあうと反発するって、若い人は昔からそうだったよ。

小生: 平成もそんなところがあったけど、昭和への反発は令和になってから高まるばかりだなあ。昭和に反発するなら昭和文化も排斥するのが道理なんだが・・・そういえば、大正時代の風潮は『明治はもういい』というもンだったんだ。明治の家父長的な家庭を否定して、食事の食べ方まで変わっていったのが大正時代なんだよね。「大正デモクラシー」って偉大な明治への反発から始まったものだって俺は思っているよ。だからだね、大正の民主主義はヒ弱くて、昭和の保守化が来ると呆気なく消えてしまったのは、偉大な明治への反発心が支えていただけってところがある。

カミさん: 食べ方まで変わったの?

小生: お祖父さんから聞いたんだけど、明治の世帯主、戸主って呼んだはずだけど、食事は時代劇に出て来る「箱膳」でさ、それも一家の家長が奥さんから給仕されながらまず先に食べるのが普通だったそうだよ。

カミさん: 私が小さかった頃はもう丸形のお膳だったけどね。

小生: だんだんそれが広まったのが大正時代から昭和。一家団欒なんて言葉は明治にはなかったのさ。家族がそろって食べるときも黙々と箸を動かしていたそうだ。別々の膳を前においてね。

カミさん: 昭和時代の暮らしなんて今の若い人は想像できないかもね。

小生: 俺が小さい頃はサ、結構「停電」があってネ。おふくろが「今日は夕方まで停電なのよ」って言ってたものサ。だけど、ちっとも焦ってなかったよ。その頃は、冷蔵庫は氷式。暖房は木炭の火鉢。風呂を沸かすのは薪。料理は都市ガスじゃなくてプロパンガスを使うことが多かったけど、焼き魚は七輪でこれまた木炭。電気は夜の照明だけさ。テレビ、ラジオは電気だったけどね。別に必須ってわけじゃない。今は、何もかも、自動車まで「電気を使おう」だからネエ。社会が脆くなるはずよ。

カミさん:北海道のブラックアウトには吃驚したものネ。 

小生: 一事が万事さ。便利さの裏には潜在的な不便が隠れているンだな。江戸時代の暮らしが時代劇で分かっているなら、昭和時代だって頭では分かるさ。だけど、生々しい感覚としては全然分からんだろうね。ま、一口に言うと

親、子を知らず

子、親を知らず

って、ドラマの「琅琊榜(ろうやぼう)」にあったよね。育ってきた生活のスタイルが違うんだから、感覚もまったく別、感じ方も別、親と子であっても、分かりあえる部分は何パーセントしかないと思うよ。言葉ではコミュニケーションできてるけどね。


何だか淋しい話をしたものだ。

しかし、いま会話を思い出しても、令和の優しさはいずれ難題を乗り越える国家主義の時代がやってくると「ひ弱な令和」と揶揄されて、否定されてしまうのではないかと心配になる。ちょうど明治への反発から生まれた大正文化の理想が《あだ花》であったように。


そうそう、では「平成」という時代は?

平成は昭和が最後に残したバブルのつけを苦闘の末に解決した時代だ。苦闘の30年の間に、すっかり背が丸まって下を向く癖がついてしまった。その意味で、平成は文字の定義通りの《ポスト昭和時代》であったと勝手に総括している。

2026年1月16日金曜日

ホンの一言: いわゆる「7条解散」だが高市解散はさすがに明らかな違憲になるのでは?

国政選挙で選ばれた衆議院議員の身分を奪う「解散」を行うには相当厳しい条件が課せられている。原則は憲法第69条で次の通り定められている:

内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。

自治体の首長が議会で不信任された場合と主旨は似ており、要するに不信任案が可決された場合には、議会の解散を以て民意を問うことができるという規定だ。

これが憲法上の趣旨であることは自明であろう。


ところが、第7条には「天皇の国事行為」として

天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。

という規定があり、その3項には

衆議院を解散すること。

という一文が含まれている。

国会で内閣不信任案が可決されたわけでもないのに総理大臣が衆議院を解散できているのは、内閣の助言によって天皇が衆議院を解散しているのであって、故に解散の正当性はこの第7条の規定にあるというのが、議論としては通ってきている。

しかし、本当に《7条解散》は合憲なのかというのは、常に問題として議論が続いている。

天皇の解散詔書があれば総理大臣はいつでも自由に解散できるのか?総理大臣には解散権を与えられているのか?

素直に読めば、総理大臣が何の外的条件もなく「解散権」を自らの権限として有しているのではなく、天皇が国事行為として解散を行う、それには内閣の助言がいるのであるから、天皇に「解散権」があることになる。

こういう理屈になるのではないか?本当に天皇に「解散権」があるのだろうか?憲法の条文はこういう主旨なのか?


思うのだが、法学者から憲法上の疑問が提起されるような「際どい政治」をするべきではない、というのが小生の感覚だ。

憲法上の本則ともいえる《69条解散》は、実は戦後政治史において頻繁に起きているわけではない。記憶に残っているのは昭和55年の大平内閣による「ハプニング解散」、それから平成5年の宮沢内閣による「嘘つき解散」の2件である。解散のほとんどは7条解散であるから、もしも7条解散が違憲であると判断されれば、これまでの解散はほとんどが違憲であったという理屈になり、戦後日本の国内政治は違憲の上に成り立っていたという帰結になる。とてもじゃないが、7条解散は違憲であるという結論は、今さら(革命でもない限り)公式には出せるものではない。


それでも小生は

7条解散は憲法違反である

そう思っている。専門外で細かいロジックは書かない。理由はただ一つ

7条解散は、(自民党の)自己都合による天皇の国事行為権の乱用で、従って「天皇の政治利用」に当たる。

普通に考えればこうなるのではないかと思っている。「総理の専権事項」など憲法のどこを探してもそんな規定はない。

天皇の名を借りて衆議院を自己都合で解散している以上、「天皇の政治利用」に該当する。

そう感じますがネエ・・・戦前なら大騒ぎだ。「詔勅を防壁となし」と非難され退陣した桂太郎の前例を挙げる人がいないのは可笑しな話だ。何より民主化された戦後日本で大騒ぎにならないこと自体、小生には七不思議であります。大体、国会の予算審議日程をカン無視するにも程合いってものがある。そう思いませんか?支持・不支持は別として・・・

大体、総理大臣がいつでも好きな時に衆議院を解散できるなら、そもそも第69条の条文を敢えて入れる必要はない。不信任されようがされなかろうが、自由に解散できるのだから。第69条があるのは、この場合には議員の任期に関わりなく衆議院を解散できるという限定的な規定であると解釈しないと理屈が通らない。第7条の主旨は、天皇に解散権があるのではなく、解散詔書を以って衆議院の解散日とするという手続き。そう読むのが中学生でも分かる普通の読み方ですゼ。

それに小生が暮らしている北海道の2月。投票当日が猛吹雪であったらどうする?別に国会が暗礁に乗り上げたわけでもないのに、実に配慮のない政治手法でついて行けるものではない。

今回だけは《中道改革連合》に走るか……フランスの「共和国連合」を連想するナア(今は「国民連合」?)。「連合」というのは、その昔の「連合軍」が潜在意識にあるのでしょうネエ(違うかな?)

もうこれを限りに自民党とは「お見限り」とするか?長かったが縁の切れ目かもしれない。本当は中道右派にシンパシーを感じていて、立民のリベラル左派の思想とは波長が合わないのだが、右翼よりはよい。

【加筆修正:2026−02-04】


2026年1月15日木曜日

ホンの一言: 日米の良識派、いまだ健在なりということか?

通常国会冒頭でにわかな衆議院解散という方向になった。隊列を組む前のバラバラ状態のまま大将自ら突撃の号令をかけたような塩梅にみえる。敵にも味方にも不満が鬱積しているそうだ。多分、後ろから火が迫ってきていて、首相自身が「清水の舞台から飛び降りる覚悟」で決めたのだろうと勝手に想像している。

ちまたにはこんな見解もある:

 私は、昨年の高市発言以来、中国政府関係者から話を聞いてきたが、いずれも、レアアースの輸出規制はやりたくないと話していた。影響が甚大で、日本との関係を修復不能なまでに悪化させる恐れがあるからだという。

 しかし、結果的に、中国はこの可能性がある切り札を出してきた。それは、中国が高市首相とのディールを諦めたということではないのか。日本側が本気で謝罪して撤回しなければ、どこまでもいく。そんな決意が見えてくる。

 こうなってしまった以上、もはや、高市首相が日中関係を改善するというストーリーはなくなったと言って良いだろう。

… …

仮に1月23日招集の通常国会冒頭の解散がなくても、2026年度予算成立後、通常国会閉会前後、そして、秋の自民党役員人事と内閣改造などを機に、高市首相が衆議院の解散総選挙を断行する可能性は高いと見られる。その時こそ、国民はここで述べたとおり、日本が強権暴力主義の米国への従属から逃れ、再び平和と繁栄の道に戻るために正しい選択をしなければならない。

Source:YAHOO!JAPANニュース

Original:AERA DIGITAL

Date: 2026-01-13

Author:古賀茂明

筆者は経産省出身のリベラル派として周知の人物である。上の見解もいわゆる《中道リベラル》の典型的な考え方とみる。

これとは別。アメリカの話だが、リベラル派経済学者として著名なKrugmanがsubstack.com上でこんな発信をしている。タイトルは"One Year of Trumponomics"になっている。この一年間のトランプ政治を経済の面から論評したもので、一国を代表する政治家に対してこういう評価を自由に発信できることは、日本の経済学者もうらやましい限りだろうと推測している。

四方八方からトランプ政策を吟味しているが、どれもデータの裏付けを示しながら議論している。ただここでは、結論だけを引用しておこう:

To conclude, Trumponomics 2025 is a story of how Trump worsened the economy that he inherited from Biden through big promises and policy choices that failed to understand how the economy actually works. The uncertainty created by Trump’s constantly changing tariff policy during 2025 appears likely to continue, as he delivers a stream of unworkable, half-baked ideas. While the stock market may be doing well, the rest of America isn’t. And it may very well get worse before it gets better.

URL:  https://paulkrugman.substack.com/p/one-year-of-trumponomics 

下線を引いた部分だけを和訳すると

株式市場は好調かもしれないが、それだけだ。他はそうではない。そして、状況は良くなる前に悪化する可能性が十分にある。

奇妙なほどにトランプ政治と(1年に満たないが)日本の高市政治は似ている   ―  米株は足元で何だか冴えないが、東京市場は金利先高観の逆風をついて絶好調と、まこと奇っ怪な状況ではあるが。

ただ違うのは、今回、高市首相は(ほとんど?)誰とも相談せず任期の半分も経過していないのに衆議院解散を断行しようとしている点だ   ―   アメリカの大統領は議会を解散する権限は与えられていない。

アメリカのKrugman、日本の古賀茂明。学界と官界と。背景は違うものの、リベラル派と呼ぶより《良識派》と呼びたい階層は予想以上に広がるかもしれない。実際、アメリカではトランプ政治を支持する人々は(当たり前だと思うが)急速に減少しつつある。

先日も投稿したが日本外交の「敗北の方程式」が作動するときが近づいているかもしれない。

現内閣がとっている対皇室スタンスだけには共感するが、あとは上の良識派の観方に賛成したい自分がいる。


 


2026年1月12日月曜日

ホンの一言: ダメダメ世論の典型か?

 ネットは日本の世論が形成される主たる場になってきているのだが、例えばこんな記事もある:

高市首相の「台湾有事」発言を受け、中国による不可視の制裁「限日令」が牙をむき始めた。かつて韓国に産業構造の変化を迫った「限韓令」の悪夢が日本にも迫っているのだ。


【写真】今年1月で国内のすべてのパンダが中国に返還される


一方、この圧力を中国依存から抜け出す好機ととらえる声もある。迫りくる「限日令」――生き残りをかけて日本が選ぶべき道とは?

対中関係を悪化させた高市発言の結果を与えられた状態と前提して、「では、日本はどうすれば生き残れるのだろうか?」を議論しようとしている。

典型的なダメダメ世論だネエ

と思いました。


太平洋戦争開戦の前、対中関係の悪化が対米関係の悪化を招き、戦争の予感が世に広がり始めた。そんな中、対米関係が悪化したのは仕方がない、これを前提にして、日本が生き残る道を考えようではないかと思考を進めたのが、当時の日本政府、特に陸海軍であった。《理論音痴・戦略音痴》、その結果である《行き当たりばったり》は、古来、日本人の悪癖の最たるものだと思う。戦略音痴の根本的原因は《目的音痴》、つまり自分が目指している目的の無自覚性にある。

自然に淡々と生きることを善しとする日本人にとって、〇〇を目指して生きる生き方は縁遠いのである。

目的の無自覚性は、日常生活から仕事の進め方など、色々な側面で顔を出す。

独・伊と枢軸国を形成した果ての対米戦争は実に愚かであった。「誤りは二度と繰り返しません」という誓いがまだ色褪せないのに、また同じことを日本社会は繰り返している。

状況を与えられたものとせず、状況を改善することを目的とするべきだ

小生はいつでもこう考えるようにしてきた。

高市首相一人が引責辞任するのが即効性という点では一番でありましょう   ―   対皇室スタンスだけは共感を感じているので残念ではありますが。


《ダメダメ世論》は、その作用をみると、反社会的であるとすら思うのだが、一部の世論をシステマティックに排除するやり方は、これまた民主主義の自殺的行為になる。

《情報リテラシー》が現代社会では不可欠だと言われるが、いまほど日本人の平均的な情報リテラシーのレベルが問われている時代はないかもしれない。

2026年1月10日土曜日

断想: 「現場重視」の迷妄から覚めたいまは……

夢をみた。小生はよく夢をみる。夢を見ている途中で目覚めることが多いので、夢で話していたことをよく覚えてもいる   ―   何分か時間がたつと、鮮明に覚えていたはずの夢の内容を、不思議なことにまったく思い出せなくなるので、メモに書いておくことも夢投稿が増える理由かもしれない。

こんなことをカミさんと話していた:

小生: 裁判官っていう職業は仕事が楽しくてやるもンじゃあないよね?

カミさん: だけど仕事は楽しんでやらないと長続きしないのじゃないの?

小生: それはそうだ。だけど僕の祖父が判事だったンだけど、ずいぶん齢をとってから『法廷で 死刑を宣し 勲〇等』っていう俳句というか川柳を詠んだらしくてネ、祖母から聞いたことがあるンだな。

カミさん: お祖父さん、民事が多かったンじゃないの?

小生: 刑事裁判も偶にはやったンだろうね。いかに犯罪者とはいえ、懲役とか、まして死刑を判決で言い渡すなんて、そんな仕事が楽しいわけないよ。

下の愚息が、10年以上も前になるが、法律専門家の道を歩き始めたので、これと同じ話を既に投稿したような気もするのだが、ちょっと出てこない。こんな時は、やはりブログよりは紙媒体のノートの方が便利である。キーワードが特定できる時は検索機能が効率的だが、極度にあいまいな時は、かえって不便なのである。Googleでも《あいまい検索》ができるといいのだが、Geminiがこれほど進化した現時点でも、このブログであいまい検索は出来ない。

それはともかく、楽しんでやるべきではない職業は、世間には多い。

判事がそうであったと同じ理由で、検事も楽しんでやるべき仕事ではあるまい。なるほど法律を犯している悪人を裁判にかけて求刑をする仕事は、公益にもかない、やりがいはあるのだろうが、人を処罰する行為を一生の仕事にしたくはない、というのが小生の主観である。マ、個人的な主観に過ぎないので、一般化はできないだろうが。

もちろん楽しくなくとも、充実感や達成感や、何らかのプラスの感情は仕事に付随しているとは思う。


よく考えると「軍人(≒自衛官?)」という職業もそうかもしれない。

戦前期・日本のエリートであった陸海軍の軍人は、例えば陸軍省や参謀本部でデスクワークを行う人物の方が、最前線で部隊を指揮する現場の将校よりは、はるかに《格上》であったということだ。

日本の「庶民」は「現場重視」や「たたきあげ」が大好きで、国防という重要な職務においても、デスクワークを担当する参謀が現地司令部の行動を指示するその上下関係に嫌悪の感情をもっていたと、これまた聞いた事がある。

現場が「表舞台」、参謀は「裏方」。現場のことは現場に任せて、弾の飛んでこない後ろからあれこれと指図するな、というわけだ。マア、その感情は今でもとても分かる。

似たような話は、製造業の民間企業にもあって、工場の現場より本社の経営企画室やらが肩で風を切って歩くような会社はダメだと、エンジニアであった父からよくそういう話は聞いていたような記憶がある。

それで小生もずっと、物事は現場が大事。デスクワークを得意とする高級参謀が威張るような組織は腐っている、と。そんな風に社会をみていた時代、というより年齢上の期間があった。

しかし、いま現在はまったく正反対の思いを持っている。

話は陸軍に戻るが、最前線で兵を指揮する仕事というのは、いかに敵兵とはいえ(もしそうなれば)戦場で人を殺すことを仕事にするということだ。それが国益を守ることである。しかしどう考えても、現場で人を殺す仕事が、戦術・戦略を考える頭脳労働より高等(?)であるはずがない。

有能な戦略家は、戦わずして勝つ道筋に組織全体を導いていくにはどんな選択をすればよいかを常に考えるものだ。戦術家も有能であれば、味方の犠牲が少なく、短期のうちに勝敗を決するやり方を考案する。血みどろの戦いが展開されるのは、戦略や戦術を考えるセクションが無能であるためだ。だからといって、現場で戦っている人間こそ戦略家や戦術家を超える高い価値を有しているとは思われない。そんな風に観るようになった。

一部の現場を犠牲にして、多くの現場を救い、全体的な安定に導くのが中枢機能のミッションである。

ある事業所にその事業所の改革はできず、裁判所の裁量で裁判所の改革はできず、国会議員の裁量で行うべき国会の改革はできない。

これがロジックではないか?


ずっと以前、『現場の経済学』などとタイトルをつけて何回かのシリーズを書いたことがある。小役人をしていると、まさに「現場」こそ組織の核心だと思っていたのだろう。

慙愧に堪えない迷妄であった。

経済的混乱を救うのは「現場」ではない。学理に通じた有能な人物が「中枢」に配置されて、置かれている状況に応じて効果的な経済戦略を見出すとき、社会全体も救われるのだと、いまは理解している。


インドのカースト制は強固な身分制である。西洋にも東洋にも永らく身分という社会慣習が世を支配していた。現在では、すべての人、故にすべての職業も平等だと信じられているが、これは近代民主主義のイデオロギーがもたらした社会意識上の大変革である。

しかしながら、やはり職業や仕事には《職業上の貴賤》がある(のではないか?)。職業と言っては語弊がある。同じ組織、同じ社会でも、生業というか、日々の仕事というか、何をやって報酬をもらっているかという点で、行動には貴賤がある(のではないか?)。

なので、超長期のあいだ続いた伝統社会の貴賤思想には、近代市民革命でも払拭できないような、人間社会を見通す深い叡智が隠されていた、と。いまではそんな風に思えるときがある。

少なくとも言えることは

その仕事の貴賤は、いわゆる「市場価格」の高低とは、まったく別の問題である。

プラトンも職業上の貴賤を『国家』の中で論じていたが、何だか最近はずっと持ち続けていた固定観念が、溶解していくような気持になることがある。 

【加筆修正:2026-01-12】

2026年1月6日火曜日

断想: 「改革、改革!」の前に目的を確認するのが第一歩でしょう

 「改革」とか「総決算」という言葉は日本人の大好きな言葉だ。1982年から始まった中曽根内閣のスローガンは「戦後政治の総決算」であったし、20世紀が終わる間際に橋本内閣が目指したのは(残念ながら達成できたのはごく一部であったが)行政・財政・金融・経済・社会保障・教育にわたる「六大改革」であった。中央官庁が再編成されたのもその一環だ。その後も小泉内閣の「郵政改革」があり、安部内閣のアベノミクスと経済再生へと改革志向は続く。アベノミクスも「異次元」を売りにしていたので、それまでの政策の「ちゃぶ台返し」と言っていい。

とにかく、日本人は服を着替えるように「心機一転」するのが大好きである。

外国は、たとえば大統領選や国王の世代交代で自然な「変革」が事実として進行するのだが、日本はそうでないというのが、本質的原因なのか?

なぜ同じことを何度も繰り返すのだろうと常々不可思議に感じているのだ、な。大体、変えること自体が善いという理屈はない。大正デモクラシーの潮流を変えて国家総動員に変えた結末は誰もが知っている。真珠湾を攻撃して対米開戦の火ぶたを切った時になぜ多くの日本人は喝采の声をあげたのだろう。スカッとしたということか?前途を悲観する人は内外事情に通じる極々少数の人たちだけであったと聞いている。

なぜ「改革」やら「心機一転」をこれほど好むのだろう。ChatGPTにニュアンスが近い表現を聞いてみると

I decided to start afresh after the failure.

He promised to turn over a new leaf this year.

I went for a walk to clear my mind.

色々と複数の言い回しがある。最初の"start afresh"は失敗のあとのリセットに近く、これが「心機一転」のニュアンスに近いかもしれない。二番目はひょっとすると坂本龍馬の『夜が明けるゼヨ~~~』の乗りか…。最後の"clear my mind"は何かに執着している心を一回解きほぐすといったニュアンスだ。ちょっとこれは日本人の好きな「改革」とは違うかもしれない。

最も不可思議なのは、変えること自体を主張するときに、現行方式のそもそもの目的は何であったのかという、当初の目的の再確認を誰も言い出さない点である。

だってそうでしょう。

初心忘るべからず

という。一度目指した目的を中途で放棄することは最終的失敗への道である。そんな根気のない国民は何をやっても所詮は失敗します。

何かをやり始めたのは《目的》があったからだ。その目的を確認せずして、うまく行っていない/うまく行っている、そんな評価が出来る理屈はないのである。


その目的は今でも有効で、これまで通りの目的を今後も追及していくのか?うまく行っていないのであれば、その原因は何か?改革にはこんな議論が自然に出て来るはずだ。これが日本では出てこない。いわゆる「暗黙知」を前提するにも程合いってものがあるでしょう。

目的の確認があって初めて社会科学的分析に入れる。・・・当たり前のことを更に書いても仕方がないが、いわゆる《PDCA》。Plan‐Do‐Check‐ActionのPDCAだが、実のところ"A"をAnalysis-Actionの二つにしたいとずっと思ってきた。が、それはともかく、最初はプラン"P"から始まっている。がしかし、プランには目的があったはずだ。目的は"Goal"でも"Object"でもよい。だから私的にはObject-Plan‐Do‐Check‐Analysis-ActionのOPDCAAだと話してきた。チェック(C)と分析(A)の前と後に二つの行動フェーズ、つまりDoとActionがある。この二番目のアクションが日本人の好きな「改革」に当たっていると小生は思っている。

つまり日本人の好きな「改革」とは「軌道修正」のニュアンスに近いのかもしれない。

しかし、チェック(C)と分析(A)が目的の再設定につながることも理屈としてはあるし、それこそが大事だと小生は思っている。

端的にいうと、改革は目的の再設定を必ず伴うというべきだ。目的は変えないということの再確認でもよい。

ところが目的の議論が一切ない。日本人なら日本国の《国是》くらいはわかっているという大前提があるのだろうか?そんな姿勢で日本国の国際化などは不可能でしょう。

目的の確認なき"PDCA"はあり得ないのだ。

目的確認なき改革はプランなき行動につながる。

よい例がエネルギー計画だ。《再エネ重視》もいつの間にかなし崩しになってきた。そもそも原発から再エネへと方向転換をしたのも原発事故があったからである。小生は何も再エネ主義者ではないが、福一原発事故の後遺症がいまだ残っているのに再エネ見直しをするのは『初心にこだわるべからず。何事も臨機応変!』を見事に実践しているわけだ。一事が万事ですナア、と思っている。


改革、改革とみな連呼している。

鎌倉時代、室町時代の「徳政令」は「徳政」ではなく、要するにただの「借金棒引き」でありました。徳政とは真逆の失政である。分析なき改革、目的の再設定なき改革は、ロジックなき統治で必ず失敗するということである。

だから幼稚に見えて仕方がありませぬ。

2026年1月4日日曜日

ホンの一言: トランプ政権の決行を認めるのが理屈でしょう

 元日投稿は、浮世離れした話題から入り、ドロドロした現世の世相の感想を追加してまとめた。本日はその続稿ということで。

ネットをみていると、早速

高市早苗首相は、米国によるベネズエラへの軍事攻撃を受け、トランプ大統領の決断を支持するかどうか難しい対応を迫られる。国際法違反の疑いもある一方で、非難すれば同盟関係がきしむ恐れがあるためだ。立場表明にあたり、G7各国の対応を見極める方針だ。

Source: Yahoo! JAPAN ニュース

Original:  KYODO

Date:  1/3(土) 19:34配信

アメリカがベネズエラ大統領を連行・拘束したというのだから、世界はビックリ仰天というところだ。

こんな事が許されるのか??

そりゃあ、そうです。これが許されるなら中国の台湾統一は理の当然として容認されるべきであるし、ロシアのウクライナ攻撃も反ロシアを露わにする隣国を制裁するための決起であるから認められて当然という結論になる。最近4年間の西側陣営の国際外交はすべて誤りであったと認めなければならない、という結論になる。


現実として20世紀の理想はほゞほゞ破綻した。理想は本来は普遍的なものであるはずだが、いま現実世界に普遍的な理想などはない、というか、なくなった。

親ロシアに立位置を(小幅?)修正して、まずはロシア=ウクライナ間に平和をもたらそうとするトランプ的解決には小生も共感を覚える。というより、賛成だ。この考え方からベネズエラ制裁に行動を起こしたとみるのは極めて自然である。


昨年末にノーベル平和賞を受賞したベネズエラの政治家・マリア=コリーナ=マチャド=パリスカは、米政府の決起を歓迎しているよし。実際

2025年、ノーベル平和賞を受賞したベネズエラの野党指導者、マリア・コリナ・マチャド氏は、アメリカ・トランプ政権による軍事攻撃で、マドゥロ大統領夫妻が拘束されたことを受けて初めて声明を発表し、「ベネズエラは自由になる!」と喜びをあらわにしました。

こんな風なネット記事がある。

平和賞を授けたノルウェーもマチャド氏に同調して米政権の決行を歓迎するのが筋であろう。


平和が毀損されるそもそもの原因は、地理的に、あるいは経済的に、極めてローカルなものであることがほとんどである。

紛争が拡大して戦争になったり、大戦になったりするのは、当事国が行動を起こすことなく、ただ仲間を増やす、つまり軍事同盟を結ぶからである。この理屈は古代ギリシア、古代中国の昔から変わっていない。

ローカルな紛争はローカルな範囲に限定して、決してグローバルな規模に拡大させるべきではない。前にも投稿したことがあったが、21世紀の平和維持の原則は、理想ではなく極めて現実的なものでなければなるまい。

なので

高市政権は早々にトランプ政権の行動を認めるべきだ

というのが、小生の(現時点の)世界観であります。

2026年1月1日木曜日

元日一想:人間の身体は化学的にはありふれた素材で………

人間の身体の60%程は水分、つまり$\text{H}_2\text{O}$だから元素ベースでは酸素と水素に還元される。更にいうと、人体の95%超はいわゆる"CHONS"、即ち炭素(C)、水素(H)、酸素(O)、窒素(N)、硫黄(S)から構成され、残りの4%余はカルシウム、マグネシウム、リン、鉄などのミネラルであるから、人体は地上に豊富にある、とてもありふれた元素から出来ている。もう少しマクロ化して化合物ベースで議論をすれば、人体にとって重要な部分はタンパク質でできており、そのタンパク質はベンゼン環を中心としたアミノ酸から構成される。「亀の甲」と呼ばれるベンゼン環は炭素原子に水素が結合した極めて単純な化合物である。その組み合わせで各種のアミノ酸に分かれる。必要なアミノ酸の生成と結合に必要な設計図が遺伝情報であり、DNAという形で保存されている。専門が違うので記憶が大分うすくなったが、こうした概要は、今では高校でも教えられている生物学の常識になっている。

※ あとで確認したが、ベンゼン環を含まないアミノ酸の方がずっと多かった。忘れたことに気づかなんだ。が、構成する元素は上に書いたとおりだ。

ずっと昔、最初にこのことを授業で聴いたときは「へぇ~~~っ」と感じたことだけ覚えている。もしその時、

先生、質問ですが、要するに炭素と水素が中心になって、それに酸素とか、窒素、硫黄が特別なパターンで結合すると、人体が出来上がって、その物質が言葉をしゃべったり、考えたり、数学や物理を勉強したりするようになる。そういうことなんですね?

小生は昔から極めて偏屈で、人を困らせる人間であったから、

答えに詰まる質問をするんじゃない!
こう一喝されたと想像する。と同時に
ただな、生物学の大前提にあるのは生物は生物からのみ生まれる。無生物から生物が自然発生することはない。このことは念頭に置いた方がいいな。
このくらいの示唆は語ってくれたのじゃあないかとも思う。まったく学校というのは、受け身ではなく、何でも質問する方が良いのだと、つくづくと後悔する次第だ。

科学的な説明というのは、どうしても物質的現象を因果関係という観点から説明するので、唯物論になってしまう。小生がそんな唯物論から転向したことは何度も投稿してきた。高分子化合物である人間の大脳は、人類に与えられた《考える器官》である。動いたり、動かしたりする器官である手足と同様、大脳を使うにも上手下手の個人差がある。生まれつき器用な人がいるように、生まれつき頭の回転が速い人もいる。しかし、元素が組み合わせのしようによっては物質がおのれの欲するように意志をもったり、行きたいところに自由に動いたり、はたまた理想を語ったりすると考えるのは、あまりにも荒唐無稽で、神話と同程度に信じがたい物語である。

単に刺激と反応の因果関係を検証するだけなら化学反応プロセスを追求すればすむはずだ。しかし、自由意志や理想に導かれる目的合理性は、刺激と反応に似た化学モデルにはおさまるまい。この点は既に何度も触れたことだ。

大脳は思考のために欠かせない器官だ。しかし、考えるための器官である大脳を活用している主体が実在するはずだ。それが人間を考える生物たらしめている本質である。人はそれを(漢語に限っても)「精神」とか「心」、「魂」、「霊魂」、「識」などと呼んできた。

というより、今では《生命と非生命》、《物質と非物質》を超えてしまって、すべては《エネルギー》であると認識するのが、現代物理学がイメージしている宇宙の風景であるようだ。だからこれまでの投稿のように、物と精神、物質と非物質という語り方はもう古いのだ。では、「エネルギー」とは、結局のところ、何なのか?・・・そりゃ分かりっこない。ただ《働いている》のだと思う。エネルギーが実空間において実在する在り方を問うのが、これからの物理学の問題なのだろうと勝手に想像しているところだ。

話はまったく変わる。

元日に上のようなことについて考えるなど、どこか滑稽味があると自覚しているのだが、日中関係の悪化もどこか滑稽味があって、当事者が真面目になれば真面目になるほど、可笑しみが醸し出されてくる。

本質的に歴史劇というより、コメディである。

しっかり自分の地を守ったと思ったら、どこもかしこも断点だらけでサア、一瞬の見落としをつかれて、あとはアタリ、アタリの連発。地はボロボロ。ひどい目にあったヨ・・・

と。どこかの碁会所で普通に耳にするおしゃべりを連想してしまうのだ、な。

ザル碁の典型だネエ・・・日本の(中国も?)外交と同じか・・・

こんなところかもしれません。中国に言わせれば 

クドクドとまだ台湾に口を出すか。そっちがその気なら、こちらも琉球までさかのぼって、沖縄の領有権に口を出してやろうじゃないか。

こんなところかもしれません。台湾が中国の領土でないと言うなら、沖縄だって怪しいもンだ、というわけだ。

ま、いい加減に手を打ったらと思う人が多いはずなのだが、祭りと同じで声の大きいグループに乗せられてしまうのが、人間集団の常だ。大多数の日本人は、一部の声の大きな人たちの巻き添えになる定め(?)なのである。

では声の大きな人たちは、声の大きさ以外に何かの才能をもっているのか?

古代ギリシアと異なり現代の民主主義では、(原則、未成年を除く)全ての人が参政権をもっており、そこには何の参加規制もなく、能力審査もない。

民主主義社会を支えているのは、実は無責任な凡人集団であることを思い出すと、とても怖い気がするのは小生だけだろうか?

【加筆修正:2026-01-02】