2019年12月6日金曜日

メモ: 法律とモラルについての断想

法律とは要するにソーシャル・マネジメントである、というよりそのためのツール(の一つ)である。ソーシャル・マネジメントというより支配のためのツール。ごく最近では支配する権力を抑制するためのツール。こんな点も強調されるようになった。この種の話題は本ブログで最近になって複数回投稿している。

法律と機能が類似しているのがモラル|倫理|道徳である。道徳もまたずっと昔にはソーシャル・マネジメントのツールの一つとして大いに活用された。儒学などはその一例である。

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機能としては似ている面があるものの、法律とモラルは完全に合致しているわけではない。

法律的には合法であるが、モラルからみると非難されるべき行為がある。反対に、法律的には処罰の対象になるが、モラルとしては非難するべきではないと思われるような行為もある。この二つのズレは、TVのワイドショーでも毎度毎度の事件で格好のトピックを提供している。

明治期の文豪・森鴎外は『青年』の中で「因襲」と「道徳」との矛盾、対立について登場人物の口を借りて考えを述べている。因襲とは江戸期以来の日本人の慣習、道徳とは一言で言えば西洋から輸入されたモラルのことである。明治時代の日本においては、この二つは当然のことながら矛盾していた。鴎外は、因襲を排してモラルにつくという立場を肯定している。やはり西欧を手本にした明治の人である。しかし、現代の日本人はこれほど素朴に「日本人の常識」を「因襲」として否定しているわけではない。「外国ではそうかもしれませんが……」という言い方は現代の日本人の好んでいるところだ。

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よく思うのだが、現実に人間社会で社会を統制しているのは何かと言えばそれは法律の方であるのだが、世間の人々はたとえ適法であってもモラルの観点からある行為を厳しく非難することが多い。『今の法律では合法ということになっちゃうんですよネ』という言い回しをこれまで何度聞いたことだろう。その背後にはモラル、つまり道徳が意識されているものだ。これをどう理解しておけばいいのだろう。

コンプライアンスの好きな現代日本人の事だ。法律の側に問題があると言いたいわけではないだろう。それなら『合法ということになっちゃうんですよね』という言い方はない。法と矛盾する日本人の常識がおかしいと言うべきではないか。しかし、そういうわけでもない。日本の文化、ありのままの日本人の姿勢にそれだけ自信を深めてきているということなのだろうか。

人間が守るべきモラルについては、たとえばカントが実践理性の観点から深く考察しているし、ニーチェもまた「超人」を措定してその向こう側を論じている。それこそ古代ギリシア以来、哲学者は法律を論じるよりも遥かに徹底的にモラルについて議論してきた。

モラルは守るべきだ、法は守るべきだってネエ、親父の遺言も、お袋の言いつけも、ホント、アッシが守らないといけねえものは一体いくつあるんですかい?何をやっても誰かに叱られるってえのは、割が合わねえじゃござんせんか。

人は誰でも自由に己が歩みたい道を歩みたいものである。原始人の未開な社会では共同体の一歯車として働き、生き延びることだけを目標にして短い人生をおくったろうが、文明が発達し、社会が豊かになれば、ヒトたるもの自分がもって生まれた才能を開花させたいと願う。その個人、個人の思いを尊重する事こそ、現代社会で最も重要な目標であるはずだ。

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唐突な展開かもしれないが、実証科学的に考えれば人類の直接的な祖先はサルである。更に、その祖先を遡れば地球上の生命体は全てバクテリアやウィルスといった存在から派生してきた存在にすぎない。人類と同じような「社会」を形成して生きているアリやハチも、長い時間を経た今だからこそ似ても似つかない形になっているが、元をただせば生命体としては同根なのである。

そのサルの社会でもやはり「掟」はあるのだろう。アリにもハチにも「掟」というのはあるのだろう。種に織り込まれた行動基準と言う意味ではモラルとも言えるかもしれない。もしそうした昆虫のルールやサルの倫理をリスペクトする気持ちに全くなれないとするなら、ヒトがヒトとして内在的にもっているモラルも要するにその程度のものであると考えても理屈は通るのである。

それでも人間のモラルが崇高であることを主張したいなら、人間存在(語っている人の?)の尊厳やヒトがもつモラルの背後に神の存在をみるというような何らかの超越的な大前提が必要である。であれば、人のモラルを主張しながら、同時に自然科学的に無宗教を貫いたり、神的存在への無関心を人前で語るのは、基本姿勢として矛盾していると小生は思うのだ、な。唯物論的かつ機能的に人間社会を観察するのであれば、モラルなどは盲腸のようなものである。

「法を守る」という感覚をヒトがもてば、それだけで十分であり、それで現代社会は運営できる理屈だ。結局、森鴎外が善しとしている立場に近い所にいる自分がいる。鴎外死して既に100年がたっているのにだ。

とすれば、現実に機能している文明的所産である「法律」に問題意識を集中して、「法の完成」に向けた議論を真面目にするべきだろう。しかしながら、社会的目標を達成するための最適な法とはいかなる法体系であるのか?社会と法、法と経済の関係下に現れる問題を解決するための一般理論はまだ何もできていない。

法的には違反していないが、道義的に非難するべきだという議論、法的には違反しているが、モラルとしては理解できる行動であるとか、世間ではよくされる議論だが、所詮は迷走している思考を表していると思うのだ、な。

2019年12月2日月曜日

一言メモ: 結構「天皇」について書き込んでいるものだ

このブログで結構「天皇制」や「天皇」(この二つは別の話題だ)について書いてきていることに今さらながら驚く。

たとえば、これ、あれなどだ。他にもある。検索をすると意外に多数の投稿が出てくるので驚きだ。日常的に「天皇」について考えるなど、小生の専門分野でもないし、理屈ではあり得ない。それでも関心があったとすれば、やはり日本人だから、というしかないのだ、な。誰でも日本の人は天皇について無関心ではないのかもしれない。

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前の投稿でも書いたように、「正解」がある問題は実はこの世界にはほとんどない。

「正解」と言われているあらゆる解答は、『いまの仮説が使えるならば』とか、『この位の誤差で許されるならば』とか、『ルールや法律で定められている』とか、更には『多くの人はこれがよいと信じている』とか、何かの言い訳|条件|前提|社会的状況などの一言があって、あたかもそれが「正解」であるとされているものだ。完全に正しい議論は、数学や論理学の世界にのみありうるもので、そんな世界は精神的な世界であって現実の世界ではない。現実の世界とは要するにただの「沈黙せる現実」であって、そこに「正解」というラベルが貼られている状態は一つもないのだ。統計学者George E. P. Boxが語ったように"All models are wrong"という事実認識は真理をついている。

「正解」がない問題を解決する必要があるとき、回答を決める方法(の一つ)として民主主義があるということも書いた。

「天皇制をどう安定的に維持するか」という問題は「正解」のない問題である。

故に、天皇制をどう安定的に維持するかを決定するには民主主義による(のも一案)、というのが三段論法的な思考になる。

しかし、最重要な論点は『民主主義は正解のない問題に解答を出すための方便であって、正解がないという問題それ自体の真相が変わるものではない」という点だ。

民主主義だから正しいというロジックはない。

民主主義が出す決定がしばしば事後的に誤りを犯しているように見えるのは、そもそも正解がない世界に私たちが生きているからに他ならない。

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天皇制の維持に関する正解なき問題は民主主義によって解決するべしという思考は確かに現代日本社会においてはロジカルであるが、正直なところ、この理屈を全面的に信頼できずにいる自分がいる。

なぜなら「天皇制」と「民主主義」ほど、水と油の関係にある二つはないからだ。天皇制がなぜ非民主主義的かという理由については、今更わざわざ説明する必要はないだろう。

民主主義を信頼するなら、天皇制を廃止する ― 法的な意味で廃止する、つまり憲法外の存在として公的性質を奪う ― のが純粋にロジカルな答えだと小生には思われる。しかし、小生はこの答えにも満足しない。

とすれば、小生は多少なりとも非民主主義的にならざるをえない。おそらく、日本人なら誰でも同じ心理をもっているのではないかと想像する。

天皇制、というかあらゆる「君主制」を維持する根源的な心理は、民主主義に白紙委任状を与えることへの躊躇、ためらいである。

21世紀においてなお人々は民主主義を全面的に信じているわけではない。そういうことではないだろうか ― 特に普通選挙制に基づく現代民主主義に対してはそう言えるような感覚を覚える。


2019年12月1日日曜日

断想: これもジェネレーション・ギャップ

18世紀から19世紀への移り目においてヨーロッパの時代の区切りになるのはフランス革命だろう。「フランス革命」という言葉には曖昧性が残るので、これを「ナポレオン戦争」と言いかえると意味が明確になる。

近代欧州において「ナポレオン戦争」を知っているか、知らないかは最大のジェネレーション・ギャップではなかったかと想像する。

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モーツアルトはナポレオン戦争を知らずに死んだ。

ベートーベンはナポレオン戦争の始まりから終わりまでを経験した。

この違いは大きい。

ハイドンは長生きをしてからフランス軍が占領したウィーンで死んだ。

ベートーベンの後は第一次大戦までほぼ一つにつながっている。なので、最近もあった「モーツアルト・ブーム」には実のところ不思議を感じたりする。

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昨晩、元の勤務先の同僚であり大学の後輩でもある幾人かが出席する夕食会に招かれた。談論風発。カミさんも参加したが、大学で仕事をしている人はとにかく自己主張が強い、話し始めると長い、まとまりかけてきた結論をひっくり返すような意見が最後に必ず出てくるなど、今更ながらも呆れてしまったよし。『だからマンション管理組合の総会には出席したくないんだよ、合意されかかっていることにイチャモンをつけたくなる気持ちに逆らえないんだよね』と、関係のない言い訳をする。

『今の学生はやっぱり幼稚化してますよ。よく勉強のできる真面目な女子学生が多いんだけど、ワタシ、答えのない問題を議論するのが好きなんですよ。すると、正解はないんだと知った途端にヤル気がなくなるみたいで……』 
『正解がないんだと知った途端にテンション、下がるんでしょ www その心理分かる気もしますヨ。必ずある正解を出すことが面白い、宝探しに似た心理なんでしょう。そんな風に勉強してきたんだと思いますヨ。』 
『クイズと勉強をごっちゃにしているのネ』
先日の投稿でも述べたが、数学には文字通りの「正解」があるが、自然科学に場を移した途端に「正解」であるのかどうかはハッキリしなくなる。ニュートンの万有引力の法則は宇宙という広大な空間や素粒子という微細な世界では厳密に成り立たなくなる。宇宙規模の計算になると相対性理論を活用しないと誤差が大きくなる。しかし、その相対論は素粒子の振舞いを理論化した量子力学と合致しているわけではない。話が経済現象や社会現象になると、どの問題にも正解らしい正解を与えることはほぼ不可能になるのだ。

正解がない領域で問題に取り組むとしても何か結論を引き出す必要がある。しかし、データとロジックでは答えが決まらないので、何かの価値観なり信条に立脚するしかない。先日の投稿では『何が正解かルールを決めてしまえばよい』と書いておいた。つまり法律なり規則なり手続きである。経済学が幾つかの派閥に分かれているのは何が正解か定まらないからだ。 政治学もそうだろう。

『経済学では何らかの価値観によらなければならない問題は回避してきた、それで純粋の社会科学としての体裁を保ってきたという歴史があるんです。』 
『あなたは価値観に基づく経済学を支持する立場ですか、価値観とは関係のない理論を受容する立場ですか?』 
『私はネ、統計専門家ですから ww、 必ず正解がある問題と取り組んできました。正解のない問題と取り組むと、結論をどう下すにせよ、必然的にどこかの「派閥」に属することになる。そういうことは私は好きではないんですよ。

小生が経済学を勉強した時代は「価値自由」というキーワードが重視されていて、分析の結果は客観性のあるものだと理解されていた。「パレート最適」という最適概念には一切の価値観が含まれていない。純粋な厚生概念であると。そう説明されていた。パレート最適である資源配分の中のどの状態を社会が選択するかは、何を善しとするかという価値観が必要であるから、そんな問題は扱わないのだ、と。

21世紀という時代は「科学としての経済学」を許さなくなるのかもしれない。誰かが損をし、誰かが得をするという問題にも何かの結論を出さねばならない。「社会科学」にもその役割を期待されている。

しかし、誰が損をし、誰が得をするかを決める仕事は「科学者」の仕事ではないと小生は考える。これまたジェネレーション・ギャップかもしれない。

2019年11月28日木曜日

一言メモ: 意味がよく分からない言葉から2例

最近になってからというより、3,40年のスパンで聞くことの多い単語でありながら、意味がよく分からない言葉がある。メディア業界用語というより言論業界でずっと愛用されてきた言葉ではないかと推測する。戦前期にも既にあった言葉なのかどうかは確認中である。

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その一つは「反社会的」という言葉。

「それは反社会的です」という人に限って『この問題は社会的に解決する必要があると思うのですよ』という意見を述べたがるものだ。小生、何かが問題になるとすぐに「社会で(国で、政府で)」という表現を愛用する人は、信条の核心部分において「社会主義者」である、そう思うことにしている。少なくとも「集団主義者」であると思う。それで大体は間違いはないと信じている。

社会主義者は個人の自由意志に否定的だ。規律が好きで、勝手を嫌う。関係者によるローカルな問題解決方式には理解をあまり示さず、それよりは中央管理型のルール化された問題解決方式を好む。

最近のメディア情報の言葉の使用をみると、ある行為や言動をとらえて「反社会的」と形容するのは、その人物や企業を社会から抹殺したいとの願望を込めているようなニュアンスがある。不適切を怖れずに引用すれば、韓国社会で「親日的」という言葉を投げつけるのと似たような、何か「裏切者」とか「犯罪者」に通じるような意味合いがあるのじゃあないかと憶断しているのだ。

疑問に思うのだが、いわゆる「反社会的勢力」。反社会的な勢力に属している人も大半は日本国籍を有しているはずで、従って彼らは選挙権を有し、法の前の平等と基本的人権を有しているのだが、この事実をちゃんと現代社会は分かっているのだろうか?法を犯す犯罪は処罰されるが、処罰されないのであれば普通に暮らすことができ、人種が違うかのように抑圧されたり、汚物を見るがごとくに差別されたりすることはないはずである。そんな疑問を感じることがある。

小生が若い時分は「反社会的勢力」などという灰色の言葉はなく、ずばり「非合法組織」という言葉が使われていた。国際的に通用するようになった(と言われる)「ヤクザ(Yakuuza)」も「やあさん (Yahsann)」も「極道モン」も「社会の余計者」を砕けていう時の言葉であった。そのうちに「暴力団」という言葉が浸透してきた。それが今は「反社会的勢力」、いわゆる「反社」になった。

使う言葉を次々に変更してきたことに何か厳密な意味上の違いを再定義して込めているのだろうか?

特にメディア業界の人が「反社会的勢力」という言葉を使うとき、ひょっとして『彼らは非国民ですから』という戦前期の殺し文句と同じ意味合いをこめて使っているなどということはないよネ、と。そんな問いかけをしたくなることもある。いや、メディアではない。現代日本社会の普通の人はそんな風に思っているわけではないよネ、と。

特に政治家など「公職」にある人は一視同仁。罪を憎んで人を憎まず、だ。日本国内で暮らす日本人、ばかりでなく外国人も含めて、差別の心情を排して公平に接することが大事だ。いくら政党に分かれ敵対しても、異分子などとは思うことなく、これだけは忘れてほしくないものだ。

案外、大事な点ではないだろうか。

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次に「前時代的」という言葉。

『そんな家族、前時代的ですよネ……』、こんな表現も最近非常に増えてきている。『今の時代、それはもう駄目ですよ』という言い方も意味合いとしては同じである。

しかし、この論法でいけば『社会は過去、現在、未来と一つの決まった方向に進歩していくものなのだ』と。こんな命題になってくる。

本当に、社会というのは絶えず進歩し続けていくものなのだろうか?

科学や技術は進歩する。前時代の正統派が実は間違っていると指摘されることもある。いわゆる『パラダイムの転換』である。しかし、それが本当に「進歩」であるのか否かはデータに基づく厳格な確証があって初めて学会が公認する結論である。「新しくて何となく進歩した感じ」という言葉に対応する客観的存在はない。これでは単に「新し物好き」であるだけだ。「何となくの感じ」とは違って科学知識は拡大情報系というか、知識の量が単調に増大していくものだと思う ― ま、これすら古代社会の崩壊と継承の断絶があり、「ルネサンス(文芸復興)」などという時代があったりするので確言はできないが。

社会が常に進歩するのであれば10年前の社会よりは今の社会の方が進んでいる。20年先の社会は更に進んでいる。故に、先輩世代は現役世代よりは遅れた社会で活動してきたのだ。そんな理屈になる。技術的にはそう言える。が、技術だけである。信条や理念、人間観、社会観は技術ではない。

「社会は常に進歩している」というこの考え方は日本人の好むところだ。過去を水に流す性向もここに由来するのかもしれない。しかし、これを一般に広げると、それこそ戦前期の日本で「下克上」と「軍律の乱れ」が蔓延し、「革新」を唱える青年将校の跋扈を許してしまった根本的原因になる。

日本の社会は常に進歩し続けて来たわけではなかったのだ。その時、その時の社会の通念が正しいとは限らない。「時代の風を読む」ことが正しいとは限らない。何が真理なのか、何が正しいのか、何が善なのか。これらの価値を求める努力は「時代を読む」という視点とはまったく関係がない。

アメリカや中国、ロシアに『1930年代の日本社会はその時はその時で正しい行動をしていたんですヨ』と。正面から言ってごらんなさい。その時点では前の時代よりは進んでいたはずだから、その時の考え方が一番正しいんですヨ、と。

『おのれ信じて直ければ敵百万人ありとても我ゆかん』である。

さすがにそれは怖いと感じるとすれば、「正しい」という自信がないからである。

社会は常に進歩し続けるわけではない。慰めは退化し続けるわけでもないことだ。

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以下は付け足し。

真のメディアがあれば、いま社会は進歩しつつあるのか、退化しつつあるのか、普通の人にとっても有用な情報が提供されるだろう。しかし、こんな事は実は期待できないのだ。耐久性のある良質な道路を費用をかけて建設すれば利用者には有難いが、破損個所がなくなるので道路補修の仕事がなくなってしまう。同じ理由で、メディア企業は情報に飢えた視聴者が絶えることなく大量に存在する社会をつくりたい。であるので、本当の意味で有用な情報を提供する動機はマスメディア企業の側にはないと考えられる。情報に渇いた大衆に提供するべき情報は「一滴の水」にしておく。いつの時代でも、それを持っている側がそれに渇いた側から多くを奪うものである。

「前時代的」という言葉には「俺たちが正しいから俺たちの言うことをきけ」という主張がニュアンスとしては込められている。と同時に、議論は時間の無駄だと言い切る不遜な姿勢も込められている。この分だけ悪質な表現になっている。正しい社会的理解が多くの人に共有されていれば、こんな表現は必要ないのではないだろうか。




2019年11月24日日曜日

覚え書: ローマ教皇と「平和な世界」について

ローマ教皇・フランシスコが教皇としては38年ぶりに来日し、広島、長崎を訪問する、天皇陛下、首相とも会見するというので、マスメディアもやはり注目している。

教皇が発言している言葉を報道で聴くと、特に「戦争」の災禍をどうにかして避ける手立てを考えなければならない、と。それと関連して、原爆投下直後に死亡した弟をおんぶして火葬の順番を待っている少年の写真。これに感銘を受けたということでもある。

確かに、現代社会において宗教指導者(の多く)は平和の使徒としての役割を果たしているように見える。また、そう期待されてもいる。

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とはいえ、ヨーロッパにキリスト教世界が形成された紀元1千年以降をみても、ローマ教皇の督励の下で十字軍が東方に向かって発進した。宗教的理念に反する自然科学は抑圧された。ガリレオ・ガリレイは抑圧下で天寿を全うできたが、ジョルダノ・ブルノは宗教指導者の意に従わなかったゆえに火刑に処せられた。その果てには、宗教戦争が頻発してドイツ30年戦争まで引き起こしてしまった。スペインでは「魔女狩り」が横行した。すべてキリスト教を信仰する動機から発した行動である。

宗教が戦争を主導した例は枚挙にいとまがないのである。この事実自体は、それはそうだろうと多くの人は思うだろうが、やはり逆説的であり奇妙なことだと小生は考える。日本国内をみても、中世を通して宗教組織は戦争をおこないうる一つの権力であった。

ヨーロッパの世俗化、つまりキリスト教からの解放と世俗的利益の追求、商工業への専念は人々の相互理解、平和な世界の構築に有益であるという認識が広まったが、そうなるべき時代背景があったわけだ。

ところが、経済発展の果てに植民地獲得競争、帝国主義の時代がやがてやってくる。複数の「国家」が経済的利権を争って「戦争」になるケースが増えた。植民地をめぐり英仏の対立が激化したり、英独の対立がやがて第一次世界大戦につながっていったのは好例だ。

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本来、キリスト教は『汝の敵を愛せよ』という博愛主義に立っている。経済的な利益は誰もが理解できることであり、豊かな生活を戦争によって破壊するという行為をするはずがないというのは確かに合理的な見方である。

しかし、宗教によっても、経済的動機付けによっても、人間は戦争を繰り返してきた。

これが世界の現実である。

愛を重視する宗教によっても、利益機会を約束する平和な世界の魅力をもってしても、戦争をして世界を破壊しようとする人間性を抑えることはできなかった。これが歴史によって証明されている事実ではないか。

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ひょっとして一つの成功例になるのは、豊臣政権から徳川政権への交代を区切りとして日本国内で長く続いた「戦争の時代」が終わったことだ。大阪の陣は文字通りの「最後の戦争」となったわけだ ― 鎖国の停止と開国をきっかけに「国内平和のシステム」が崩れ、歴史的因縁から再び内戦を招いてしまったのではあるが。

その「徳川の平和」がなぜ250年も続くことが出来たのか。いま「世界平和」を考えるなら最も参考になるケーススタディになりうるのじゃあないかと小生は思う。

少なくとも、徳川政権は博愛をとく宗教指導者ではなかったし、また経済的利益や経済発展を広く庶民たち(≒国民)に約束したわけでもなかった。それでも日本人は戦争によって問題を解決する冒険をあえて選ばなくなった。

そのカギは何だろう?

平和を願う宗教の広まりでも、儲けを自由に追求できる世の中がやって来たからでもなかった、という理屈になる。

その当時、日本人は『もう戦争はイヤだ』という気持ちになっていたからなのか……。いま生きている小生には分からない。

「平和」を唱える人が即ち平和な世界を構築できる人、実際に構築する人ではないのだ。「…ではない」とすれば、平和を唱えているわけではない人が平和な世界を構築することを希望するとしても一理あるだろう。

これを「平和のパラドックス」とひそかに(かつ勝手に)名前をつくっているのだ。




2019年11月21日木曜日

「政党」も「趣味」ではなく「ビジネス」なのだと思うが

政党は国内の支持者の多寡を争う競争関係にある。典型的なシェア競争である。なので、自民党・公明党、その他野党連合という風に「結託」することに戦略的利益を見出すプレーヤーが出てくるのは必然だ。

政党をいかなる産業に分類するかといえばモノづくりではない以上、やはりサービス業に分類されることになるのだろう……。

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互いに競合関係にある企業では、いかに自社製品(サービス)を他社と差別化するかがポイントになる。差別化に失敗して、自社製品(サービス)がコモディティ化すれば安ければよいという競争圧力にさらされ利益は消失してしまう。組織の成長機会は失われるわけだ。

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ただ、政党と民間企業で最も異なるのは、サービスを提供するとは言っても価格を伴わない、対価がゼロ。つまり公共サービスである点だ。政党は政党交付金を支給されているが、その支給額は国民によるサービス評価の代理指標であるのだろうか、選挙で当選した議員数にほぼ比例する方式で決定されているようだ ― もちろん専門外であるし、具体的方式にはそれほど興味もないのでこれは憶測である。それと政党に対する政治献金、あるいは共産党の『赤旗』といった出版物の販売利益なども政党を支える基盤になる ― 政党は建前上は非営利組織であるから「販売利益」にも自ずから上限はあるのだろうが、これまた小生は専門外なので詳細は承知していない。

競合関係にある企業にとってプロモーションは極めて重要である。自社製品(サービス)を他社と差別化して顧客(=有権者)に訴求することは、一定のシェアを奪取するうえでは決定的に大事だ。

かつて民主党が賢明に駆使した「マニフェスト」は、民主党が目指す政策サービスと自民党・公明党が目指す政策サービスとを差別化し、その違いを有権者全体にアピールする有効なツールとして機能した。

本当はこうでなければならない。

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現在、日本国内で政権から外れている野党連合は、プロモーションとは言っても、ネガティブ・キャンペーンを主たる戦略にしている。

民間で競合製品の問題点ばかりを指摘するネガティブ・キャンペーンを展開する企業の製品は決して売り上げが伸びないことは、長い資本主義の歴史の中で確認されてきている事である。

なぜネガティブ・キャンペーンが決して自社を利するプロモーションにならないのかといえば多くの説明があるのでここでは長く記さない。一つだけ挙げれば、競合商品の問題点ばかりを指摘する会社があるとしても、新規購買者はともかく、既存使用者は使っている製品の長所・短所を経験的にわかっている。その製品を非難している企業の製品はよく分からない。ネガティブ・キャンペーンと併せて誠実にアピールしている内容があるとしても過激に展開しているキャンペーンのほうに目が向いてしまう。マスキング効果である。自分の経験とよく分からない会社による非難と、二つの情報を天秤にかければ信用できるのはどちらか、直ぐに結論できることが多くなる理屈だ。例えれば、籠城戦で『お前たちの主人がどれほど酷い人間か分かっているのか』と叫ぶことで敵陣営を調略しようとしても自分もまた観察されているものだ。自らの力量を信用してもらわなければネガティブ・キャンペーンだけでは効果が期待できないものだ。ま、やめておく。書けば書くほど情けない現状がいま展開されている。

一度見事に成功した政党ビジネス戦略をなぜ再び練り上げて自党の発展への機会を狙わないのか?

小生は現時点の野党連合の政治家たちのその「無能さ」というか、インテリジェンスが見事に欠けているという事実に限りない淋しさを感じる。

★ ★ ★

これは全く別の話になるが、中道左派のリベラル勢力がシェアを拡大したいのであれば、戦後日本の体制と両立しない共産党を消滅させることを目標とすればよい。極左の共産党が消滅した後、自民党は保守と中道に分裂する誘因が生まれるから、現在の中道リベラルに成功への機会が訪れる。

しかし、理屈はともかく実行は困難な戦略だろう。自民党よりも左で中道リベラルが自民党と協調するのはリスクが高い。 鵺 ( ぬえ ) 的である。 自分たちが消える可能性が高い。かといって、共産党の右側にいながら共産党と敵対して単独で戦うのは力量不足だろう。だから中道左派は共産党と協調する動機をもつ。

袋小路である。

日本国民が建前と本音を厳しく洞察する意識をもてば「日本共産党」の虚構性に気がつくロジックだ。気がつかなければ、実行困難な戦略があるのみであり、現状が続く。だとすれば、ネガティブ・キャンペーンを思いつくが、それでもコンテンツがなければどうしようもないのである。

2019年11月19日火曜日

法律と善悪、「ご禁制品」の科学的根拠について

映画『パッチギ!』も『クローズド・ノート』のどちらもずっと前に観たが素晴らしい佳品であった。だから、というわけではないが、今回の逮捕劇は実に残念で、これから営業自粛などという仕儀になる事態は理解できないと語る人達の側に小生はいる。

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本日の投稿は、最近相次いで逮捕されている芸能界の人たちを弁護しようとしているのではない。

この種の摘発劇についてずっと抱いている疑問である。

いま、「薬品」、「薬物」、「ドラッグ」、「嗜好品」、「サプリ」等々、日常的に摂取する穀物、肉類、野菜などとは区別され、栄養以外の例えば気晴らしや疲労解消などを目的に摂る生産物を合併した集合をとってみよう。これらを「非栄養摂取物」と総称してもいいかもしれない。

そうすると、この「非栄養摂取物」の中には風邪薬や消化薬のほかに、睡眠剤、精神安定剤も含まれるし、酒や煙草(食べるわけではないが体内に摂取するという意味で)、清涼飲料水もあり、果ては大麻、コカイン、覚醒剤、MDMA/LSDなどの「ご禁制品」も入ってくる。

この「非栄養摂取物」のどこかに「医療用vs非医療用」、「健康増進vs非健康増進」などの線引きがあり、いずれの線引きにおいてもプラス効果が認められない摂取物は「ご禁制」として使用を禁止するというのは、なるほど合理的であるような一面もある。

しかし、本当に禁止するべきかどうかについては真に厳密な科学的根拠と判別のバランスが必要である。

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なぜこんな事を書くかと言えば、最近になって続々と逮捕されている人達の中には、20年に及ぶ長期間、ドラッグを服用していた人物もいる。ところが、その人物が逮捕されたあと、本人の健康状態については続報がマスメディアからサッパリ出てこないのだ。健康状態を報道しないのは、本人がほぼ健康であるからではないかと。そう小生は邪推しているところだ。

「健康に害悪を与えるが故に禁止する」という取り扱いが本当に不可欠で切迫した判断であるなら、それでは「大麻」という生産物が海外では合法化される例が相次いでいるのは何故なのだろうか?それが疑問の第一である。おそらく小生の理解力が不足しているのだろう。

日本人にとっては健康に害悪があり、アメリカ人にとっては健康に害悪がないということなのか?あるいは、アメリカ人にとっても健康上の害悪はあるが、別の考慮からやむを得ず合法化しつつあるというのだろうか?もしそうであれば、最近になってから一部の電子タバコが健康上の理由からアメリカでは使用禁止になった。日本では電子タバコの健康上の害悪はそれほど議論されていない。思うのだが、日本は健康に非常に関心があり、アメリカは無頓着であるということではないだろう。そのアメリカで大麻を使用禁止にしないのは科学的観点にたてば奇妙であると思う。

本当に健康上の害悪がある非栄養摂取物であれば、長年それを摂ってきた来た人には必ず何らかの健康障害が認められるはずである。もし認められないのであれば、その摂取物には深刻な負の作用はないということではないのか?

要するに、法律上の「ご禁制品」であるからという議論ではなく、「科学的に」議論をすることが最も大事であると小生には思われるのだ、な。

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毎年、飲酒運転や泥酔の上の暴行など、酒をきっかけにしたトラブルは多数発生している。先日も泥酔の果てに路上で眠りこんだところ轢き逃げにあって公務員が死亡するという事件が北海道であった。過度な飲酒が肝硬変や肝臓癌を誘発することは誰もが知っているし、認知症などの健康障害を招く可能性もあると小生は聞いたことがある。酒類には明らかにマイナスの作用があると言うべきである。しかし、現在の日本で成人ならば誰でも酒を買える。飲酒は禁止されていない。

法律上の「ご禁制品」、例えば「大麻」や「コカイン」、今回の「MDMA」を摂取した作用が原因になって、どんな傷害事件がどの程度発生してきているのだろうか?現代はオープンデータ化の潮流にある。行政当局は犯罪統計の一環としてこの辺のデータを提供しなければなるまい。

「ご禁制品」として指定されれば売買は闇取引になる。闇取引を行政機関が摘発するのは当然である。しかし、ブラック・マーケットで営利活動をしている「ブラック企業」を摘発せずして、それを購入した消費者を摘発し逮捕するのはバランスを欠いている。まして、摂取した人物に健康上の被害が出てはおらず、かつ摂取の副作用で不当な行動をとっているなどの履歴がないのであれば、法律上の制裁を加えるべきかどうかすら小生には疑われる。

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禁止されているドラッグであると知りながらそれを買う買い手も法を犯しているという意見もあるだろう。しかし、本来、消費者は消費者主権を持つことが現代社会の原理・原則である。買うか・買わないかは本来消費者の側が決めるべき事柄である。「健康に害悪があるご禁制品」を所持・使用すること自体が犯罪になるのであれば、毒物を服用して自殺する事すら犯罪になってしまう理屈だ。無茶苦茶であろう。

また、禁止ドラッグを販売している人物を当局に「通報・密告」せずして購入すること自体が犯罪を幇助しているという一見正当な議論も予想される。しかし、これもまた自由社会の原理・原則を侵害している。自らが必要性を感じ、欲し、健康上の害悪はなく、かつそれを使用することによって他者に損害を与える意志がなく、その対価を支払う意志があるのであれば、売り手から購入できる機会を提供するのが現代社会の原理・原則ではないのだろうか。売り手に対して「これは売買が法律上禁止されている」と通告するのは当然だ。しかし、消費者の側に向かって「買うな」と命じるのであれば、戦争直後の東京の闇市で「ヤミ米を買うな」と国民を指導した政府と同じである。そもそもブラック・マーケットで闇商品を購入する買い手には価格交渉力がある理屈はなく、不当な対価を支払わされているに違いない被害者である。本当に健康障害があるなら猶更のこと被害者である。「保護」なら分かるが、なぜ「逮捕」という手続きになるのだろうか。

サッパリ分からねえってのは、ここでござんす。

いま政府が禁止している「ご禁制の品」を国民が求めていないのは必要性を感じていない人が多いからに過ぎない。しかし、特定の職業の一部の人物たちは求めている。「買うな」と法的に命令するのであれば科学的根拠がやはり必要だろう。いかなる条件下においても消費不可と規定するなら、海外では可とする取り扱いとは矛盾する規定を何故あえて置くのか、その理由を示すのは立法側、行政側の責任であろう。説明もなく法を犯した「犯罪者」をつくるのは非条理だ。

「一定の条件下で消費するべし」と規定するのであれば、消費者が利用できる情報の不完全性から了解できる。が、いかなる条件下においても消費を禁じるなら、その理由は取引の形態ではなく、その商品の属性自体にある理屈だ。それは何か。科学的根拠は明白なものでなければならない。

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データに基づく行政が叫ばれてからもう何年もたっている。『法律で禁止している以上それは悪いことだ』と言われて、『それはそうだ』と思うとすれば、その思考回路はまるで江戸時代の「隠れキリシタン狩り」と同じだ。戦前期日本で吹き荒れた「赤狩り」とまったく同一の論理である。

実際には、キリスト教そのものに社会を破壊する要素はない。社会主義・共産主義思想そのものから破壊活動を予測できる見方は成立しない。根拠もなく単なる恐怖の心理から特定の思想なり表現、趣味、嗜好を禁止するような政治は不適切であったことは歴史の証明することであり、このことは現在に生きている私たちは理解しているはずである。

前回の投稿でも述べた事だが、法律に適合しているが故に正しい、法律に違反しているが故に間違いという修辞は論理としては実は通らないのだ。もしこの論法でいけば、優生保護法の下で実行された不妊化手術は法律の命じる所であったが故に正しかったという理屈になる。法律に従うのは善であると考える人すらいるだろう。明らかに誤った理屈だ。善は善であるのであって、いつの間にか善は悪となると考えだせば、そもそもモラルや倫理そのものの意味がなくなってしまう。法律はソーシャル・マネジメントである。管理のためのツールである。企業組織を管理するための内規と本質は同じだ。規則自体に真、善などという価値はない。目的を追求するうえでそのツールは最適化されているのかどうかという視点が何よりも重要だ。優生保護法という法律に則した判断であっても、それは戦後日本社会のマネジメントとしては誤りであった、と。そう現在では結論を出しているのである。

仮に近年の世界的潮流を日本も考慮して、「比較的害悪の少ない一部の」摂取物については「合法化」するとの法律改正をするとしよう。そうすれば、合法化以前に「不法所持」を理由に職業生命を奪われた人にはどう賠償すればよいのだろう。おそらく非常に多数の行政訴訟が為されることは必至であろう。優生保護法の二の舞にならないことを祈るばかりだ。

議論をするときに『法に適合しているか、違反しているかによって善悪は定まる』という単細胞的思考を反復していると、前回にも書いたことだが、それは社会全体がバカになる近道である。法律ではなく、科学的な視点から事実だけを追うことが大事だ。

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まったく話は違うが、何事にも手っ取り早く正しいか、間違いかの答えを得たいと望む心理があって、「ここで法律を…」という議論になるのだろうと小生は個人的に推測している。

現実にはこの世に答えのある問題は実は少ない。しかし、ルールさえ決めておけば、法律さえ作っておけば、本来は答えのない問題でも正解を決めておくことができる ― 要するに、ルールをつくっておけば勝敗の決まるゲームを自由につくることができる。

このような<正解願望症候群>は社会心理上の病気であると小生は思う。その遠因として、客観評価法(=クイズ式)に基づく現行の「大学入試センター試験」が挙げられるとすれば、なるべく早期のうちに改善するべきだ、というのは実際に大学で仕事をしてきた身にとっては本音なのである。