そんな小生が、日本共産党に(中国共産党にも)シンパシーを感じるはずはないのだと、先にここで書いておこう。
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その共産党が「ついに」というべきか、「驚くことに」というべきか、日本の天皇制を容認するとの方針を採った、と。そんな記事がネットにはあるのだ、な。
ところでこの天皇制の扱いですが、どう考えても次の選挙では争点にはなり得ないものです。URL:https://blogos.com/article/378182/
中には、これを共産党の右傾化だという非難があるようですが、そんな声など聞く必要もありません。
今、何が一番、重要なのかという時の政治課題があるわけで、今、安倍政権による失敗したアベノミクス、弱者に冷たい政治を変えて欲しいという多くの有権者の期待に応えることも共産党の方針です。その実現方法が野党候補の一本化であるならば、それに応じて譲るところは譲るということも必要なことです。
例えば、今、次の選挙に向けて共産党がこの代替わりのときに天皇制批判を強めることに意味がありますか。
有権者の中には天皇制に批判的な人もいれば好意的な人もいます。
そのような中で次回選挙では天皇制は争点ではないのですから、そこは天皇制に好意的な層に譲る、ということも大切なのです。
今、天皇制の批判をしたりすることは、この野党一本化を水を差すだけにしかなりません。
思うのだが、「理に適う」とか「合理的である」という基準は、何らかの「目的設定」が先に定まっていなければ判定のしようがない。
人がどのように行動しようとも、その人の主観に立ってみれば、その人は合理的に行動しているものである。
少なくとも、その人の行動はその人にとって「正しい行動」であるというのが理屈だ。
正しい行動をとるとして、それが合理的な行動であるのかどうか。それはその人が目指している目的をもっと確実に速やかに達成できるはずの選択肢があるのかないのか。それで決まってくるものだ。
要するに、理にかなった議論の土台には、その人が良しとする価値があり、意欲があり、意思があり、目的があるわけだ。自分の土台にたって、その人は自分の議論が理に適っていると考える。
立場が異なる人が聞けば『あなたの言っていることはおかしい』と。そういう反応になる。おかしい=不合理となる場合もあるが、不条理、非条理、非道と言いたいこともあるだろう。
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共産党の目指す社会は社会主義であり、その先の共産主義社会であることは否定できない。この命題を曖昧にすることは共産党の存在意義を危うくする。
そして、達成される共産主義社会において、その社会の統合を象徴する存在は、天皇ではなく共産党であることも間違いない。共産党は常に「社会の前衛」であり、社会をリードする存在であるからだ(と共産党は自分自身を定義している)。
故に、共産党と天皇制とは論理として矛盾している。
その共産党が現在の日本における天皇制を容認するとすれば、「いまは何も言わず、容認するかのような姿勢をとっておく方が自党にとって得である」からに決まっているのだ、な。
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もしも他の野党が同じ考え方をもつなら協力すればよい。が、基本姿勢が異なれば協力できないというのが、当たり前の理屈になる。
協力したいが考え方が違っているならば、解決するべき問題として相互に努力しなければならない。それが課題になる。
「野党一本化」は解決するべき課題を回避する「当面の目的」として魅惑的であるのだろう。広大な政治的沃野が眼前に広がるかのような感覚があるのだろう。
問題解決ではなく、問題の自然消滅を狙う戦略である。
何だか閉塞感にみちた戦前期の日本社会を連想する。
戦前期の日本は、第一次世界大戦中の外交戦略の「ミス」もあり、様々の難題に直面することになった。「いまは▲▲は争点になっていません。いまは〇〇を獲得することに意識を集中するべきではありませんか」、「そうすれば現下の問題はすべて解消されます」と、そんな魅惑的な戦略を提案する陸軍参謀は山のようにいた ― 誰にも分からなかったのだろう、百家争鳴状態ではあったが。
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弱体野党については以前にも投稿したことがある。保守一党体制についても、その時の観方を書いたことがある。
目的を達成するには必ず問題が発生する。問題は解かなければならない。解くためには課題が発生する。課題解決は目的達成のための<必要条件>なのである。
問題を回避すれば背後に隠れて見えなくなるだけである。
現在の日本国憲法は天皇制を前提している。共産党は(論理的に)「改憲勢力」である。「護憲勢力」とは協力の余地は本来はないというものだろう。
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