検索キーワード「夫婦別姓」に一致する投稿を関連性の高い順に表示しています。 日付順 すべての投稿を表示
検索キーワード「夫婦別姓」に一致する投稿を関連性の高い順に表示しています。 日付順 すべての投稿を表示

2015年12月17日木曜日

夫婦別姓合憲判決に思う

表題の件で最高裁判決が出た。夫婦同姓は合憲という判断だ。

これに対して、(新聞紙上では)女性差別の現実を見ていないという反発がある。もちろん家族の伝統を守るものだという肯定論もある。

フ〜ム……、思うに夫婦同姓を法律が求めるからといって、女性を差別することにはならないのではないか。男性が女性の姓を名乗ってもいいのだから。

韓国(中国も)は夫婦別姓である。日本も江戸期以前は夫婦別姓が原則であったようだー北条政子は通称ではなく、源政子ではない、あくまで北条政子であったのだな。夫婦別姓だからと言って、韓国や中国、近代以前の日本が男女平等社会かといえば、決してそうではないだろう。

日本は、子供は父の姓を名乗るという父系社会できた。これは東アジア全域でそうだと思われる。父系社会といっても、財産相続その他で父系か母系かという実質的な伝統はもう残ってはいないが、父と母の姓が違ってもよいとした場合、子供はどちらの姓を名乗るのか。これは「通則」を決めておかないと、やはり混乱するかもしれない。

たとえば、先祖の祭祀権は『慣習に従って祖先の祭祀を主宰すべき者』が相続すると民法で規定されている。そして、慣習的には祖先の祭祀を行うのは、その家の長男であろう。実際、位牌には『▲▲家先祖代々之霊位』と記されている家庭は多いと思う。墓石には『□□家之墓』と彫られているところが多いと思う。ならば、特に長男は父の姓を名乗ることが期待されるのだろうか。長男は差別されるということなのだろうか。確かに、夫婦同姓により女性が苦痛を感じるときがあるのだろうが、農耕社会となってから以降千年以上も日本が父系社会の歴史を歩んできた。そして、それ故の慣習もある。これも現実だろう。

社会とはそもそも同調ゲームだと言える。男女のデートゲームと言うともっと簡単だ。同調を強いるからには、意にそまぬ選択を強いられる人たちにはプレッシャを感じさせるであろう。それでも、プレッシャを感じつつ、結局は社会に同調して生きているのだな。この現実をありのままに見ることを小生は選びたい。

安定している暮らしの現実をお上が混乱させることは避けた方がよい。

+++

日本人の苗字は「どこの誰だ」という名乗りを上げる時の「どこ」に当たる部分だ。それに対して、昔の侍社会には氏があった。氏とは出自であり、社会階層と直結する。たとえば、源尊氏は氏+名、足利尊氏は苗字+名である。足利に住んでいる尊氏という意味だ。しかし、姓を支えるこうした親族・同族システムは社会的にはもう機能していない。というより、会社も店も同族集団の財産というより社会の公器である。日本人は日本で暮らしており、同族という傘のもとではもはや暮らしていない。

日本全体で考えればよいということになれば、氏名は、要するに個人が特定できればよいのだ、な。生活が混乱しないように慣習に従えばよいわけである。使いたければ「我こそは木曾冠者義仲なり」と、通称をつかえばよいわけだ。ただ、法律上の手続きを行うときは『正式の名前を記載されたし』と。この位は許容範囲なのではないか。忠臣蔵に出てくる吉良上野介の正式の氏名など誰が知っていよう。それでも(ジェリクル・キャッツではないが)本当の名前を求められる時はあったのだ。本当の名を誇りをもって名乗れるなら、そんなシステムが最上のシステムではないか。

+++

いまでも同族関係は空虚となり、親子関係すら希薄になっているが、このうえ相続税率を100%に引き上げ、親子関係からほぼ全ての経済的側面を奪ってしまえば、そもそも姓に実質的な意味合いなどなくなるであろう。

父と母、いや別姓であれば父方、母方の祖父と祖母、父方、母方それぞれの父方、母方の曽祖父と曽祖母・・・、みな姓が違うだろう。どれを名乗ってもいいんじゃないの?経済的にはどの苗字を名乗るかによって実質は何も変わらないよね。お好きにどうぞ、と。未来の社会はそんな名前=記号である社会になっていくかもしれないのだ。となれば、マイナンバーだけあればいいよね。番号で行きますか。公的文書に氏名は書かなくともよろしい。マイナンバーを記載してください、と。

番号1924562238の方、窓口までお越しくださあい・・・(ディスプレイニモ番号ガ点滅スル)

名前はすべて通称となる。

ええぞなもし。いいねえ。これまたクールな社会ではないか。現在はそれまでの過渡期であろう。

★

それよりはもう一つの判決。女性の再婚禁止期間だ。

すでに以下の報道がある。
政府は16日、女性の再婚禁止期間の100日超部分を憲法違反とした最高裁判決を受け、民法の規定を見直し、禁止期間を現行の6カ月(約180日)から100日に短縮する方針を決めた。(時事通信)
これよりは、女性が妊娠の事実に気がつかないままに結婚し、結婚後に妊娠の事実を知った時に、その子の権利はどう守られるのか。男性の権利は?女性の権利は?某タレントの騒動もあったが、今という時代、むしろこちらのほうが実態とより密接に関係するのではないだろうか。

なぜかって・・・?
だって、結婚とはそもそも子弟養育システム。いろいろな見方があるだろうが、9割方、ほぼ全面的に、「結婚」とは子供を育てるためにあった方が安心で便利だから存在するに過ぎない。「家」を捨象した現代社会では、とどのつまり、そうだろうと思われるのだがどうだろう?

2021年2月20日土曜日

ホンノ一言: この非論理性もよく言えば「日本的直観」なのか

もともとは森喜朗オリパラ委員長の「女性蔑視とも受け取れるような発言」であって、言う必要もない刺激的な言葉であった以上、確かに「失言」であった。

大体、委員会に女性委員が増えると、時間が長びくという傾向があるとは小生だって経験と合致していない。時間を気にせず滔々と自説を展開して自己陶酔する御仁はむしろ男性に多いと小生は確信している。概して女性の意見は男性の意見に流されず、具体的であり、役に立たない理念論争にはまってしまうことを防いでくれたような記憶が多い — 漠然とした記憶だが。観察事実としても、だから、森発言は間違っていると思う。

ところが・・・

森発言がネットとメディアという「培養液」の中で自己増殖する中で、ついに「夫婦別姓問題」に火がついて来たというのだから、まったく、自分が暮らす日本社会ではあるが「わけが分からない」状況になってきたと思う。

それほどにまで、日本女性には不満が高じていて、すぐに引火するような危険な状態にあったのだろうか?

だとすると、TVの情報番組はまったくの社会オンチ、というか、これまた「差別用語」ということであれば「目が節穴」であったことになるネエ。

まあ、格差拡大の中で問題意識は「男女平等」を超えて、ついに「あらゆる不平等問題」に火がつき、相対的貧困世帯の怒りが大炎上してきたというなら話しが分かるのだが、「夫婦別姓問題」ですか・・・何だか「憲法改正」を叫んできた安倍さんのようだなあ、と。そんな感想もある。

そう言えば、ずっと昔、何かの雑誌で読んだのだが、熊本の舞台では何の関係もない芝居でも最後には鎧兜をつけた武者が出て来て

何という事なけれども まかり出でたり 加藤清正

と見栄を切ると、ヤンやヤンやの歓声があがったという。そんなものなのかネエ、「憲法改正」も、「夫婦別姓」も。幕末の「尊皇攘夷」も同じようなものだったか・・・。

話しが飛ぶのは、天才的直観に恵まれた人にはありがちな特徴だが、橋本聖子新会長が就任したかと思えば、夫婦別姓で激論が始まるとは・・・

いま新型コロナで職を失い、生活に困窮しているのは、主に女性非正規就業者である。これは本当の意味で解決するべき問題だと思う。なぜ、目の前の問題を議論しないのだろう?

「世論」には目も脳みそもついていないとよく形容されるが、「いま面白いのはこれだ」というノリ、というか「直観」でも働いているのだろうか?

マコト、不思議ジャ・・・。

2024年3月9日土曜日

ホンノ一言: 「夫婦別姓」・・・議論するならシュールに盛り上がってほしいものだ

夫婦同姓に対して女性が抗議の声を上げる例が増えている。選択的にせよ、統一的にせよ、《夫婦別姓》を希望する人は今後も増えるに違いない。なぜなら自分がどう名乗るかに対して公的権力が強制的な制約を課するというのは、どう考えても道理に合わない。小生もそう思うからだ。

そもそも公的な手続きに《正式氏名》というのは、もはや必要ではないはずだ、というのは随分前の投稿でも書いたことがある。

父と母、いや別姓であれば父方、母方の祖父と祖母、父方、母方それぞれの父方、母方の曽祖父と曽祖母・・・、みな姓が違うだろう。どれを名乗ってもいいんじゃないの?経済的にはどの苗字を名乗るかによって実質は何も変わらないよね。お好きにどうぞ、と。未来の社会はそんな名前=記号である社会になっていくかもしれないのだ。となれば、マイナンバーだけあればいいよね。番号で行きますか。公的文書に氏名は書かなくともよろしい。マイナンバーを記載してください、と。

番号1924562238の方、窓口までお越しくださあい・・・(ディスプレイニモ番号ガ点滅スル)

名前はすべて通称となる。

ええぞなもし。いいねえ。これまたクールな社会ではないか。現在はそれまでの過渡期であろう。

 実際、<夫婦別姓>でブログ内検索をかけると結構複数の投稿がかかってくる。今では、それほど重要な事柄でもないと思うようになったが ― 時代の流れを見通すと、もう細かな些事でござんしょう ―、以前は相当に関心をもっていたことが分かる。

人の名前とは都合によって実は自由に変えられるものなのだ、と言う点はよく分かる。そして、本来は自分の名前くらいは自由に変えられるものであって当然だろう。これが「あるべき形」だろうと思われるのだ、な。

大体、全ての日本人が名字を持つ必要がありますか?「ケン」、「マリ」、それでいいんじゃないかい?『私は(正式の)苗字なるものは持ちません』、そんな選択肢もあってイイんじゃない?そう思いますケド・・・。 

実際、日本社会でずっと認められてきた当たり前の感覚はこんな風であった。

夫婦同姓は、明治になってから政府が全日本人に課した戸籍制度に発するもので、伝統というよりは旧法以来の法律的慣行と言えるものだ。

その戸籍制度は、父系的な家産相続制度、軍事的な動員力把握の必要性ともども、両方とも過去のものになってしまった現在、存在意義はほとんど失われている。血縁関係の確認なら、出生時にDNAデータを採取して永久保存すれば、それで済むことだ。

本人確認、親子確認、血縁関係確認等々は、今後将来にかけて、想像を絶する程の技術革新が予想される領域だ。「家族」の認定は住民票をベースにすればよい。

議論するなら、シュールに展開してほしいネエ。それが個人的な願望だ。 

2021年3月17日水曜日

断想: 「選択的夫婦別姓」の議論百出に想う

森喜朗・前オリパラ委員長による「女性蔑視発言?」を契機に、一挙に標題の話しまでが本格化してきているという。まさに一寸先の展開が読めない闇の時代である。

もちろんこの問題に「正解」はない。あるはずがない。

夫婦が、一夫一婦の社会であろうが、一夫多妻の社会であろうが、他のどんな社会であろうが、夫婦はそれぞれいかなる苗字/名字を名乗るのが正しいか?

ロジックで結論を出せるはずもないし、実際、日本の歴史の中でもその時代、その時代、都合の良いように移り変わっている。

その以前に、それほど重要な問題でありうるのだろうか?

***

自然科学の中身は実は「仮説」に過ぎず、ただ「精密科学」であるが故に機能している。社会科学においては確立された仮説すらもないのが現時点における知の限界だ。故に、標題の「選択的夫婦別姓制度」は是か非かという問題にも、「正解」がないのは当然で、どう結論を出すにせよ、多数の日本人が「納得」できるか否かという点だけが問題となる。大体、「苗字/名字」というのはどこの国でもそうだが、便利なように自然発生的に出来てきたものである。稀な例外を除いて政府の命令に基づいて決まった苗字はない。全て自然に発生して当人がそれを使ってきた。

はるか古代においては「氏」があった。藤原氏や源氏、平氏などがそうで、いわば(父系)の血族的所属を明らかにするものである。その「氏」は子孫が分派していくうちに「姓」に分かれ、「家」が形成された。例えば、藤原氏は「藤原北家」や「藤原式家」等に分かれた。更に家から「流」が派生して、藤原北家からは「近衛」や「九条」など五摂家が生まれてきた。これも「▲▲家」である。その「近衛」や「九条」だが、血縁集団を示す「氏」ではなく、同族の中で「近衛大路」に屋敷を持っている家は「近衛」、九条通りに住んでいる人は「九条」と呼ばれるようになったわけである。つまりは名字は識別のための呼び名であった。

武家も同様だ。源頼朝は氏である「源」を名乗っていたが、嫡流から外れた傍流の源義国流の家系は暮らしている土地の名前を苗字とした。長男の義重流は「新田」、次男の義康流は「足利」を名乗るようになった。その足利も全国に枝葉を広げるうちに子孫は「細川」、「斯波」、「畠山」などと別の苗字を名乗り、分家が増えていった。その分家も更に分かれて「〇〇流」などと区別されるようになる。鎌倉幕府を支えた北条家も最後には多数の「流」や「家」に分かれていた。これはもう家系図の世界であって、専門に研究している学者も数多い。

ここから分かる事は、そもそも個人の名前とは

個人名としては〇〇、所属する家の名は●●、その家の発祥は◇◇

を含む情報から構成される固有名詞であり、それが世間が求める識別情報として十分であれば名前としては通用したわけである。

通用させたい空間が武家社会であれば、苗字に加えて源氏であるか平氏であるかが重要であったかもしれず、その空間が自分のムラであれば、活動範囲も限られ、地名を苗字とする必要もない。

この辺りの事情は、ヨーロッパの例えば古代ローマにおいても同様で、有名なシーザーはガイウス・ユリウス・カエサルが本名だ。個人名はガイウス、氏族としてはユリウス一族(日本で言えば、たとえば源氏)、家の名はカエサル(例えば、源氏の中の足利家)という意味である。

これに加えて、幼名が通称として使われてもおり、また名を与えられることもあったので昔の人は度々自分の名前を変えている。長尾景虎が上杉家を継いで上杉政虎に、そして将軍・義輝から輝の一字を受けて輝虎と名を変えたのはよく知られている。これに幼名の虎千代、法名の謙信があり、謙信が通称として最もよく使われているので実に面倒だ。

とはいえ、人の名前とは都合によって実は自由に変えられるものなのだ、と言う点はよく分かる。そして、本来は自分の名前くらいは自由に変えられるものであって当然だろう。これが「あるべき形」だろうと思われるのだ、な。

***

江戸時代までは日本の一般庶民は苗字/名字をもってはいなかった。名字をもつというのは、世間に対して明らかにするべき「氏族名」、「家名」を有している場合において意味をもつのであって、特に歴史的な勲功や豪族の一員でもなければ、名字を名乗る必要はなかったわけだ。

こんな事情であったのが、明治8年になって「平民苗字必称義務令」が施行され、全ての国民が苗字/名字を名乗ることになった。《戸籍制度》を拡充して確実な徴税を目指した大蔵省が主導した政策である。徴税だけではなく、徴兵や義務教育の浸透にも寄与したのは当然の成果であって、デジタル技術などがない明治維新期においては今日の《マイナンバー制度》に相当するような抜本的な改革であったのだ。

「戦前」という時代、全ての日本人男性は兵役の義務を負っていた。召集令状に応じる義務があった。召集を受けた日本人は現住所にかかわりなく本籍地を管轄する連隊に入ったのであった。戸籍制度と戦前日本の行政システムは裏腹の関係にある。そして、全日本人の「苗字/名字」は戸籍制度をどう設計するかによっている。

***

現時点の日本の行政に日本人が全て戸籍上の「苗字」をもつ必要性はないのではないだろうか。

個々人はすべてデジタル化時代の国民管理システムである「マイナンバー」を通して把握されている。そのマイナンバーで徴税、資産管理、医療、福祉等々、国家と国民が関係するあらゆる側面を制御していくというのが、いま日本社会が進んでいる方向である。マイナンバーは人為的に生成された番号だが、DNA情報が出生時に公的に登録されてしまえば、ナンバー変更すらも可能になる理屈で、いずれそんな時代になるだろう。

思うのだが、日本国にとって必要なのは一人一人がどう名乗るかという氏名ではない。ナンバーが確定されれば、誰であるかは直ちに識別できるのである。もはや、手続きを行おうとする日本人が「鈴木太郎」という氏名を名乗っているかどうかは、どうでもよい。マイナンバーを正確に入力してくれれば、行政上必要な事柄は確認できる。

このような現代日本において、どんな苗字を名乗るか、どんな名前を名乗るか、それが公的な意味をもつとは思えない。

というか、江戸期の日本に戻って、苗字は不要と考えるなら、昔のように「五作」、「市兵衛」、あるいは「はな」、「しの」、「アンナ・マリア」などと自由に名乗るとしても、公的になにも不都合はないはずだ ― セキュリティ上は、その時点で届けている「名乗り」をパスワードとしてマイナンバーと紐づけておく設計は必要になるだろうし、更に第2パスワードも要るだろう。が、つまりはマイナンバーシステムのセキュリティ管理に属する問題で、夫婦同姓が善いか、夫婦別姓が善いかという不毛の論点とは無縁の事柄だ。

戸籍において、「苗字」を必要記入欄から外してしまえば、夫婦別姓であろうと、夫婦同姓だろうと、どちらでもよいという理屈だ。2代あとの孫が住んでいる地名をとって別の姓を名乗り始めるのも自由である理屈だ。もちろん「細川」とか「島津」とか、子々孫々(?)伝えていきたい苗字を有している人は、その苗字を大事に守っていくだろう。が、これは個人個人の自由裁量に委ねるべき事柄で、法律を規定して国から「こうこうするべし」と命令することでもないはずだ。

意味のない議論などは中止して、現時点の技術水準を前提として制度設計を行うべきだろう。人がどう名乗るかという行為は、本来は国家が決めることではなく、まずは両親、家族、成長したあとは本人が固有にもっている権利であるはずだ。



2013年9月5日木曜日

マスコミ報道に一言: 婚外子相続格差違憲判決

昨日、最高裁が婚外子相続格差は違憲であるとの判決を下した。

谷垣法相は違憲判決を受けて、「違憲立法審査権を有する最高裁判所が、憲法違反の判断をしたことは厳粛に受け止める必要がある。判断内容を十分に精査して必要な措置を講じていきたい。相続は日々起きることなので、『法律にはこう書いてあるが、最高裁判所はこう判断している』ということで、いたずらに混乱を生じさせてはいけない。できるだけ速やかに検討して、速やかに対応策を講じていくのは当然だ」と述べているよし。

昨晩の「報道ステーション」でも当然のこと話題になっていて、朝日新聞社から派遣(?)されている記者が、個人的な意見を開陳していた。その概要は、
今回の判決は当然だと思う。ところが、与党保守勢力は家族を非常に重要視する立場をとっていて、夫婦別姓にも反対している。自民党の憲法草案をみても、『家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない』と。憲法第24条に追加することが含まれている。もうホントに時代遅れなんですね。国内で暮らす人たちの多様な価値観を認めることが何より大事ではないでしょうか。
こんな意見を述べていた。憲法草案24条については河野太郎議員が反対していて聞いている人も多かろう。

★ ★ ★

色々な生き方を認める。小生、反対はしない、というか大賛成だ。しかし、ちょっと待っておくんなせえ。そう言いたくもなるのだ、な。

倫理をどう考えるのか?善悪の別をどう考えるのか?規範意識を放置すれば、いまでも階層化が進んでいるのに、分裂へ向かう契機になるのではないか?

前近代においては宗教が規範意識の土台であった。近代に至って、理性が神に置き換わり、カントは実践理性の存在を認めた上で、普遍的な倫理規則をすべての人間が共有できるはずであるという結論に至った。そこには「個人別々の倫理を認め合う」という思想はない。

「多様な価値観」という言語表現のうちに、何が善であり、何が悪であるかについても、個人個人で色々な考え方、別々の倫理観があるという見方が含まれているなら、是れ既に「倫理の否定」であって、悪を羞じる心がなくともよいという立場に陥るのではないか。その人にとって、その行動は「悪」ではないのだから。

人として何が大事か、まあ色々考え方もありますから……と、こんな風に言い出せば、反政府勢力に化学兵器を使っても、この国にはこの国の倫理があるのです。アサド政権はこう反論するであろう。大河ドラマの八重ではないが『ならぬことはならぬのです』と、そこから生きる事を始めるのが「倫理」であろう。多様である余地は、「倫理」にはないのであって、意見が異なるのは「色々な倫理」があるからではなく、個々人の理解が不十分だからだ。こうも言えないか。

★ ★ ★

だから、単に自民党保守勢力が主張していることだから、古臭いに決まっている、時代遅れに決まっている、時代遅れのことは間違っているに決まっていると考えるとすれば、とんでもなく傲慢な姿勢である。

とはいえ、「国民共通の規範」という概念自体、時の権力の統治ツールであった面も見逃し難い。なぜ国民の規範意識を統一する必要があるのか?窮極的には、均質・良質の兵士を徴兵して強力な国軍を編成するため、労働者という経済戦争の兵士を調達するためであった。つまりは、「国民国家」の誕生と「神から理性」、「信仰から倫理」への置き換わりは表裏一体のものであり、歴史においてほぼ同時に進んだことである。そうしてどの文明国家も富国強兵、その果てに侵略と拡大を目指して競争する近現代400年が形成されるに至った。そう見ることも出来るような気がするのだ、な。

もし21世紀がカビの生えた国民国家が崩壊して行く時代であり、世界共通の自然観、人間観、生命観、社会観が浸透し、受容されていく時代であるなら、日本もまた日本独特の家族観に執着する必要はない。まして成文憲法に記載する必要はなにもない。有害かもしれない。そう言うべきだろう。

2024年10月31日木曜日

ホンノ一言: 皇位の男系継承に国連が批判的眼差しを向けているとか・・・

国連の機関が日本の皇位継承システムに口をはさんできたというので政府は国連に抗議したそうである。

例えばこんな報道になっている:

女性差別撤廃条約の実施状況を審査する国連の女性差別撤廃委員会(CEDAW)は29日、日本政府に対する勧告を含む「最終見解」を公表した。選択的夫婦別姓の導入や、個人通報制度を定めた選択議定書の批准を求めたほか、「男系男子」が皇位を継承することを定める皇室典範の改正を勧告した。

Source: 朝日新聞DIGITAL

Date: 2024年10月29日

林官房長官は30日の記者会見で、男系男子による皇位継承を定めている皇室典範の改正を求めた国連女子差別撤廃委員会の勧告について、「大変遺憾だ」と述べ、委員会側に強く抗議した上で記述の削除を申し入れたことを明らかにした。

Source: 読売新聞オンライン

Date: 2024年10月30日

ちょうどいま、愛子内親王を女性天皇に「推そう」という一部の強い願望があることもあって、国連ともあろう機関が日本国内の意見対立を煽動し、紛争へと誘導するつもりなのか、と。そういえば、現在のロシア=ウクライナ戦争も、元来は旧ソ連圏の内紛であったのを、欧米が口をはさみ、ウクライナに軍事支援までも行って、戦争状態へと誘導したわけである(ように見える)。マア、最近目立って増えてきた「人権」という大義の下の「内政干渉」にこれも該当するようにも観える。もし「侵略的人権外交」というのがあれば、ですけど……。


★


ただ、どうなのだろうナア、とは思う。

例えば、イギリスの王室は、現国王・チャールズ3世その人が女系の継承であるし、19世紀にはビクトリア女王のときにも女系継承をしている。そもそもハノーバー朝(=ウィンザー朝)初代のジョージ1世は、ドイツの貧乏貴族であったが、スチュアート朝最後の女王・アンと女系でつながっていた縁で、英王位に就いた人である。その一方で、フランス王家は初代のパリ伯ユーグ・カペーが王位に就いてから以降、ずっと男系で継承した点がイギリスとは違う。ただそれは諸々の政治上の事情もあったが故であり、原理・原則として男系継承を定めていたわけではなかったようだ。そのフランスもブルボン朝が廃されてから200年余りが過ぎた ― 家門としては今も続いている。前にも投稿したことがあるが、中欧の大国・オーストリアも男系で王位を継承していたが、マリー・アントワネットの母にあたるマリア・テレジアのあとは女系継承になった。ただし王朝名が「ハプスブルグ朝」から「ハプスブルグ=ロートリンゲン朝」へ変わった。

今も残っている世界の王制の全てに精通しているわけではないが、日本のように《男系世襲》を法で定めている国は、現代にあっては極めて少数派であるのかもしれない。そんな世界の中で日本の天皇制をみると、いかにも「旧い」、というか「道理に合わない」と。そんな感覚をもって受け止められる。そういう事かもしれない。


★


天皇と朝廷が日本に誕生してから、今年で1700年以上は経過したのだろうか?

とにかく皇室というのは古い血統である。大貴族である藤原氏よりもずっと古い。大伴氏や物部氏、葛城氏、蘇我氏といった古代の豪族で、現代日本まで続いている一門が他にあるのかどうか、不勉強のせいか、小生の知る所ではない。

古代の大貴族が消えてしまった背景には公地公民を原則とする律令体制の発足があるとみているが、これはまた日本史に関係する論点。

今年の大河ドラマ『光る君へ』は藤原氏の摂関政治華やかなりし時代設定だが、これをみていると、平安時代にあってはつくづく皇位継承は恣意的であったと感じる。

皇太子が天皇よりも年長であったりする。その背景として、そもそも《兄弟継承》が頻繁に行われていて、皇統が複数並存(=両統迭立の状態)することもあったことがある。

というより、そもそもの初期においては、兄の後は弟が継承する兄弟継承が基本であったということも、何かで読んだ記憶がある。

大体、直系の男系世襲にこだわれば、徳川幕府の将軍も4代・家綱で絶えていた。遠縁の傍流から8代・吉宗が将軍に就いたが、それも15代目に水戸家の慶喜が血筋ではなく、能力を評価されて将軍職に就いた。血筋に基づいて男系継承を行うなら、田安亀之助(=徳川家達)が将軍職を継承するところだったにもかかわらず、だ。

日本国憲法で「皇位は世襲」と規定しているのは、能力ではなく、血筋によって継承するという主旨だと理解しているから、15代将軍・慶喜のようなケースは採らないということだろう。しかし、これを過剰に厳密に解釈すると、自縄自縛になる可能性が高い。適任者がいれば、15代・慶喜のように皇位を継承することもありうると、理解しておくべきだと思うが、違うのかナ?


★


「皇族」と言っても、要するに、「親族一同」である。

だから、皇位継承にあたっては、親子継承に加えて、兄弟継承、伯甥継承、叔甥継承、従兄弟継承、再従兄弟継承などなど、あらゆるパターンがありうるとあらかじめ予想し、多くのパターンを容認しておくのが自然な措置である。明文規定のように単純に「世襲」の一言で定義するのは迷走の元であると思われる。

大体、皇位継承の可能性がある皇族と言っても、個人的な出来不出来は様々である。適性もある。持病など健康もある、精神的安定もある。身障者かもしれない ― 障害があれば天皇が果たすべき職務に支障がある可能性は高い。要するに、想像を超える様々な状況があり得るということだ。

近代以前の昔であれば「天皇になりたい」と思うのが普通の皇族の人情であったろうが、それでもなお自由に好きな芸術の道を歩みたいと願う人がいたはずである。煩わしい天皇に就いても数年で譲位して、あとは「上皇」として優雅に過ごす人も多かった。

現行法制下では、生前退位もままならない。余りに硬直的ではないか。これは明治以降の天皇制の欠陥であると小生は思っている。


せいぜい「家元」くらいの感覚でよい。それで(多くの?)日本人にとっては「象徴」として十分である。

なので、思うに男系だ、女系だ、長子だ、傍流だ、何だかんだに関わらず、皇室の(≒現天皇)の裁量で好きに内閣に諮問すればよいと思う。好きに決めるとしても、その時代の自然な慣習に任せれば国民は納得する。何なら皇位継承を宮内庁と内閣で定期的に審議しても可だ。最後は国会で承諾すればそれで決まりだ。

もちろん天皇の意志がそのままで通るとは限らない。それは近代以前であっても同じだった。次の天皇、つまり皇太子だが、新天皇が践祚する直後に皇太子を誰にするかで、その時々の権力者の意向が重要だった。今なら内閣と国会が代表する国民の「総意」だろう。


これではお家騒動になると心配する人がいるかもしれないが、心配ご無用だ。そんな事になるとは到底思われない。

近代以前の体制なら、朝廷に徴税権があった時代もあるし、近世・江戸期であれば禁裏御料(3万石)、公家領が徳川幕府から認められていた。

しかし敗戦と占領を経て、明治体制は瓦解し、天皇にはもはや統治権がなく、収入を保障する固有の領地もない。資産は、皇室の私有財産なのか、国有財産なのかが曖昧だが、つまりは微々たるものである。

それどころか、国事行為の義務に加えて関係者が色々な雑用を押し付け、人生の自由を奪っている。人権上の問題があるとすら小生には思える。「皇族」とは、職業選択の自由も定年もない境遇を代々身分として相続する「永代終身公僕」とも言える特殊な家に生まれた人たちのことである、と。こちらの方が問題だろう。「国体護持」を信念に戦い降伏した陸海軍の武人たちは、いま皇室が置かれている現状をみれば、涙を流し伏して詫びるであろうと、そんな風にも思われるのだ、な。


★


日本国民と皇室一門とに今でも実質的な関係があるとすれば、宮中と宮家には公費が使われているという点で、割り切って言えば、その一点だけである。

つまりは皇室関連の実質的問題として国民が意識するべき論点は財政である。これ以外にはない、というより口出しをするべき立場にはないだろう、というのが小生の感想だ。

「皇族」全体の財政状態には日本国民は目をひからせるべきだ。しかし、芸能人一家じゃああるまいし、後継ぎや家庭内情況にまで関心をもつのは、「デバガメ」って奴ですぜ。余計なお世話だ。

厳格に皇嗣を決定していても、それでもなお愛子内親王の皇位継承を願望する人たちが、言論は自由だとばかり、公開の場で意見を開陳している。法律で決めるから、逆に「皇位継承に誰でも口出しをしてもいいのだ」となる。小生の好みには合いませんネエ、こんなのは。そう思うがいかに?


★

法律の明文規定として

男女を問わず皇位は長子継承とする

このように法改正を行えば国連は喜ぶのだろう。が、ここまで強く《長子親子継承》を強制すれば、いずれ困ったことが起きるのは必至である。困る理由などは両手に余る。喜ぶのは外国だけだろう。

誰が天皇になるかで国民生活は変わらず、つまりは誰でもよいのだから、後継ぎは天皇ご自身、皇族ご一同でお好きに選べばよい。

徳川時代の将軍継承とは現実的重みが全然異なるのだ。誰でもよいのだから、皇位継承、皇太子の決定は、それ自体として「政治」ではない。純粋に皇室内部の「家政」である。故に、天皇が内意を伝えても可であると小生は考える。

ただ、官庁、企業の人事部ではないが、大体の将来路線は予想しておいた上で、常に2人ないし3人の若い皇族に帝王教育を施しておくのは不可欠だ。

要注意点はこの位だと思うがいかに?

 

マア、普通の感覚で判断するなら、親王がいれば年長の息子が皇太子になる。しかし、どんな皇太子になるか分かるまい。困ったことになるかもしれない。なので、英王室のヘンリー王子ではないが、《スペア》は必要なのだ。

娘、つまり内親王がいれば娘に継がせたいと願う天皇が出てくるかもしれない。それは娘しかいないか、あるいは息子、娘双方の個人的資質をみての判断かもしれない。

しかし、それでも天皇として果たすべき職務の多さと多忙、(将来の)配偶者の地位と処遇、子に与えられる自由と束縛、践祚後に決めるべき皇太子について政治サイドから口出しされるのではないかという懸念などから、内親王は皇位継承を嫌がる可能性が高い(と推測する)。それはそれで自然な感情であろう。皇位継承に懸念がなければ、内親王は民間に降下して、自由な人生を送る方がよほど幸福であるに違いない。その事情は親王、宮家家族にも当てはまる。

故に、予断を持って決められないのだ。皇室の存在が国民的課題である体制を続けるなら、余裕をもって、備えておくべきだろう。皇統を守りたいと考える皇族及び親族は、必ず世代ごとにいるはずである。

【加筆修正:2024-11-01】

2019年12月28日土曜日

一言メモ: 「女性宮家」を新設すると変な話になりますぜ

相当以前にも投稿したことがある話しだが、時代、国境を超えて聴き手に受けること間違いなしの面白い話題が三つある。それは

第一に「旨いもの、まずいもの、変わったもの」。食事の話がくる。
第二に「贅沢、財産、城の大きさ、領地の広さ、富」。要するに、こんな金持ちがいるという話だ。
第三が「愛と憎悪」。お家騒動、仇討、復讐、跡目争いなどはこの範疇に来る。

さしづめ、今の皇室問題は上の第三に含まれるわけで、受けること間違いなしの話題であることは間違いない。

★ ★ ★

いま「女性宮家」を中心に検討が進んでいるとのことだ。

内親王を民間に嫁入りさせることなく、生涯ずっと皇室に縛り付け公務を押し付けようという算段だろう。

まあ、宮家歳費として女性に報酬は支払われるのだろうが、ただ、どうなのだろうネエ・・・と思う。宮家から嫁いだ旧家の御簾中としてノンビリと暮らすことは出来なくなるという以外にも、色々と可笑しなことが発生しそうだ。

★ ★ ★

例えば、日乃本太郎さんという民間男性と内親王が結婚するとする。内親王は宮家のままだとすると、その女性は嫁ではなく、故に日乃本姓を名乗らないことになる。

つまり「夫婦別姓」になるのだろうか?

いくら庶民の世界では名字の意味が空洞化し、戸籍上の名前、普段の名前が入り乱れて、滅茶苦茶になりつつあるとしても、皇位継承にかかわることは「家の継承」、「血統の維持」であるのは明白だ。とすれば、どの姓を名乗るのかという点は最も重要であろう。大体、何度も投稿したが「世襲による皇室」と「戦後民主主義」とは水と油の関係にあるのは直観でわかるはずだ。いまの世間の常識で理屈っぽく答えを出すと、それこそ皇室は滅茶苦茶になるかもしれない。

★ ★ ★

その子はどうか?

女系の子孫は皇族ではないという現行の原則を通せば、その子は例えば日乃本次郎という名を名乗ることになる。仮に女系の子を皇族に認めるとしても、父が日乃本太郎なら長男も「日乃本次郎」と名乗りたい、と。そう希望する事態もありうるであろう。日乃本家には男子がいないので日乃本姓を名乗らせたいとする父側実家の事情があるかもしれない。それを禁止する法的根拠はないはずである。

そして、仮にその他皇族が絶えて、日乃本次郎氏が皇位を継承することになれば、それ以後は天皇の姓は「日乃本氏」に変わり、欧州の父方姓を王朝名とする習慣に従えば日本も「日乃本王朝」が始まることになる。そして、日乃本一族は新たに皇族として認知されることになるだろう。

実際、こうした変事は欧州でもあり、有名なところでは屈指の名門・ハプスブルグ家が18世紀の中頃、神聖ローマ皇帝にしてオーストリア大公であったカール6世の長男が夭折したため娘のマリア・テレジアが女性の身でありながら家督を継ぐことになった。ローマ皇帝にはなれないのでフランスのロレーヌ公(ロートリンゲン家)の息子フランツと結婚しローマ皇帝位はフランツが就き、ハプスブルグ家とオーストリア大公は娘マリア・テレジアが継ぐことになった。これ以後、ハプスブルグ王朝はハプスブルグ=ロートリンゲン王朝となり、第一次世界大戦敗戦で帝国が崩壊するまで続くことになる。帝国崩壊時、オーストリア国内で復位運動が拡大しなかった背景として、既に王朝がフランスのロートリンゲン家の血統に移行していたという点も挙げられてよいかもしれない。実際、マリア・テレジアによる女系継承に対してプロシアのフリードリッヒ2世(フリードリッヒ大王)が反対を唱えオーストリア領の一部シレジア地方を侵略した。即ち、オーストリア継承戦争である。この戦争で敗退したオーストリアは今度は戦備を整え七年戦争に打って出た。聡明な娘を愛する思いから女系継承をとったことから長期間の戦争がヨーロッパでは起きてしまったわけである。

家の継承は思わぬ紛糾を誘う一因になるということだ。

★ ★ ★

こうした事態を避けるには、そもそも最初から婿の日乃本太郎氏が自身の姓を捨てて皇室に入ることにすればよいわけだ。だとすると、日乃本氏も皇族という扱いにしなければならない。ちなみに、上に述べたフランツ・ロートリンゲンは姓は捨てず、ハプスブルグ家の方がハプスブルグ=ロートリンゲン家と改名したのだが、領地であるロレーヌは捨てることになりフランス王国に返納した。フランスがロレーヌ地方に対する領有権を主張するのはそのためである。

内親王と結婚する民間男性・日乃本太郎氏は本当に姓を捨てて皇室に入るのだろうか?

そうするとすれば、要するにこれは古来とられてきた「入り婿・入り養子」と実質は同じになる。違うとすれば、全てを捨てて養子・婿入りするにもかかわらず、入った先の「主人」はあくまでも(家付き娘のケースは)妻の側である可能性が高い点だ。英国王室のように「△△公」といった貴族の称号を付与してくれるわけでもあるまい。更に、配偶者がもつはずの財産相続権を民法の規定通り持てるのかどうかすらも怪しい。何世代かの後いつの間にか皇室財産が日乃本家の私有財産に移っているという事態をさけるためである ― 皇統とは無縁の純粋民間人男性の場合は不確実な面があまりにも多い。イヤハヤ、「婿養子未満」の扱いになることはほぼ確実な想定とするべきであろう。

歴史的に縁の深い家から養子を入り婿として迎え「血族」(というと山口瞳の『血族』を思い出すが)の絆を守る努力は日本社会で広く行われてきた慣行である。暗愚な直系男子に継承する事の危険を避ける工夫でもあった。であるなら、女性宮家などと臨時・緊急的に宮家の数を増やして税金を使うよりは、既存の宮家に養子を迎えるほうが余程分かりやすい ― 勿論こうしたからと言って、徳川幕府12代将軍・家慶が暗愚な実子・家定よりも水戸家から一橋家に迎えた慶喜を偏愛した例もあるので御家騒動が起きる可能性は常にある。

以上色々と述べたが、女性宮家などと対立を招きそうな新手のやり方を創めるよりは、皇室・皇族の婿養子を解禁するほうがどうやら理に適うのではないか、と。そう感じられるのだな。

・・・これで御用納めとういことで。そろそろ年末・年始モードに入るとしよう。

2026年2月6日金曜日

ホンの一言: リベラルから保守反動への世界的潮流?

今週末の衆院選ではどうやら高市首相率いる自民党が圧勝しそうな塩梅だ。中道改革連合が発足した当初は期待をもたせられたが、やはり「お疲れ気味」の老人が二人で語りかけるスタイルでは有権者をひきつけない。

いま巷では高市首相圧勝のあとは自民党単独政権の《爆走》が始まるであろうと予想する向きが増えている。

積極的財政政策推進と円安・インフレ加速、それに高金利到来。対中関係の一層の悪化と対日経済制裁の拡大。皇室典範の改正で男系天皇制死守。憲法改正で自衛隊明記、更には「国防軍への改称」か?まさか徴兵制再開への道を開くなどもありうるか?

公約には含まれなかったが、医療・年金など公的保険のスリム化、労働市場の流動化促進と金銭解雇解禁。農業経営の合理化、等々。ここまでやってくれれば日本経済には勢いが戻るだろう。急に精力がつきすぎて頓死するかもしれないが。

ま、滞っていた日本社会が俄かに走り始めることだけは高い確率で予想できる。とにかく《決断力》のある首相であることが実証されたわけだ。

やはり過激派なのであるナア、と思う。決して全て反対だと思っているわけではない。先日にも投稿したが、経済・外交政策だけは目を覆いたくなるのだ。

★

振り返ると、イタリアの右翼過激派のメローニ首相、ドイツ政界で勢力を急拡大中のAFD(Alternative für Deutschland:ドイツのための選択肢)を率いる極右政治家アリス・ワイデル博士は二人とも女性である。更に、フランスの「国民戦線」だったか「国民連合」だったかの代表をしているマリーヌ・ルペンもパリ大学卒の弁護士ながら過激派ぶりは筋金が通っているようだ。但し、ルペン女史に関しては、これを脅威とするマクロン大統領の指示かどうか不明だが、検察が公金横領事件容疑で検挙し、一審が有罪となったので2027年の大統領選挙への出馬は禁じられたよし。裁判は控訴審が進行中である。

★

こうみると、いま世界の民主主義国では極右の女性政治家が急速に支持を集めつつある、というのが潮流であるようで、この根底にはやはり1990年代以降のグローバル化、リベラル思想の支配を否定する保守反動が勢いを増してきた。こう達観するべきなのだろう。

とすれば、今後、イギリスでも再びサッチャー的な女性政治家が出現する可能性はあるし、ドイツもAFD政権がいよいよ現実化するかもしれない。

日本の高市政権(が多分実現するだろうが)、これも世界の中で理解した方がよいのかもしれない。

どちらにしても「LGBT」など少数者への過剰な配慮、「男女性差の過剰な否定」、「選択的夫婦別姓の過剰な主張」、「外国人の一部参政権容認など過剰な人権擁護」等々、リベラル思想を象徴するようなポリティカル・アジェンダは、当分の間は休眠を余儀なくされそうな気配になってきた。

2026年2月7日土曜日

断想:「良妻賢母」が再び語られる・・・「復古調の令和時代」になる?

国政選挙の前は色々な論点が集中的に世間で取り上げられるので、ブログ投稿も自然に増えてしまう。明日で集中投稿週間もひとまず終わりそうだ。

本日は、昨日の続稿ということで。

こんな下りを昨日は書いた:

こうみると、いま世界の民主主義国では極右の女性政治家が急速に支持を集めつつある、というのが潮流であるようで、この根底にはやはり1990年代以降のグローバル化、リベラル思想の支配を否定する保守反動が勢いを増してきた。こう達観するべきなのだろう。

・・・

どちらにしても「LGBT」など少数者への過剰な配慮、「男女性差の過剰な否定」、「選択的夫婦別姓の過剰な主張」、「外国人の一部参政権容認など過剰な人権擁護」等々、リベラル思想を象徴するようなポリティカル・アジェンダは、当分の間は休眠を余儀なくされそうな気配になってきた。

本当に高市自民党が圧勝するのか、いまだに100パーセント信用する気にはならないのだが、これほどまで事前調査の結果がそろっている以上、そうなのだろうと予想してしまう。もし反対の結果が出れば、それこそ『ビックリ仰天、開いた口がふさがらぬ』ということでござんしょう。

*

まあ、多分、高市自民党は圧勝するのだと、そんな気分に小生もなっている。

となると、日本でも《保守反動》の政治が色濃く出て来るはずで、前稿では代表的な例をあげたわけだ。

実は、もっとディープな方向転換が日本で(突然、まっしぐらに)進み始めるのではないか・・・とも想像(?)しているので覚書きとして書いておきたい。

但し、ひょっとすると、高市自民党は小幅の勝利、というか「辛勝」にとどまるかもしれない。そうなれば、これから書く想像は空振りである。

それは《専業主婦再評価》の議論から始まり、最後には《良妻賢母の勧め》に至る、ある意味で《復古的家庭像》の盛り上がりである。

振り返れば、戦後日本の高度成長を支えた「人口ボーナス」が消え去り、それとは反対の「人口オーナス」が見通される1980年頃から《男女雇用均等化》への歩みは始まっていた。実際、「男女雇用均等法」が施行されたのは1986年4月である。

小生が経済学を勉強していた頃は、女性労働力は「核労働力」ではなく「縁辺労働力」として位置づけられ、従って主たる問題は「男女賃金格差」の分析であった。それが想定を超える少子化の進行で男性労働力の減少が予想されることから、女性労働力への期待が高まってきた。人手不足になれば臨時的に働くのではなく、常時、労働資源として女性には働いてほしい、そんな風に企業経営者の目が向いてきたわけである。

つまり、「男女雇用均等化」への動きは、男性労働力人口の減少に危機感を強めた経済界が、女性の労働市場参入を促した結果だろうと推測している。外国出身の移民に頼らない労働力確保の方策として、家庭にいた日本人女性に財界が着目し、政府も後押しをした。これが現実に進んだ経済プロセスであり、それを駆動したロジックは男性賃金の上昇に歯止めをかけたい企業経営の論理で、決して《男女間の不平等是正》に価値を置くリベラル思想などではなかったと小生は理解している。

ご都合主義はいつでも高邁な理念を装束としてまとわされるものなのである。

ところが専業主婦モデルが崩壊し半分以上の世帯が共稼ぎ世帯になるに伴って、予想以上に少子化が進んだ。経済界も政府も男女合計の労働者数が減少していくことに危機感を覚えた。人手不足の深刻化は、AI、自動化など資本集約度の上昇で(本来は)対応できる問題で、賃金上昇圧力は生産性の上昇で解決するべきだ。しかし、自動化のための投資資金の捻出に苦しむ企業が多い。安価な外国人労働力に目を向けているのは、企業経営の論理に従えば当然である。

共稼ぎ世帯の増加と少子化の急速な進行の間に因果関係があるかどうかは、なかなか検証が難しいが、何の関連もないとは断言できないと小生も思ってはいる。

少子化の解決(?)に向けては、例えば年金支給モデルの改変などで対応できるのではないかと、素朴な方式を投稿したこともあった。が、人手不足と少子化を同時に解決するには道は一つである。

現場は外国人にお願いするので、日本人女性は家庭を守って、子を産み、育てる仕事に従事して下さい・・・

と、

実際、専業主婦モデルの時代には、男性世帯主に家族の皆さんを扶養できるだけの報酬を支払っていました。今は男女協業の中でそれが出来なくなりましたが、元の賃金モデルに戻していくことにします。女性の方は、もう外で働く必要はありません・・・ありがとうございました。家庭にお戻り頂いても結構でございます。本当に有難うございました。日本国として感謝いたします。

と、いずれ政府の中枢で検討される経済社会モデルの中で、上のような「基本方針の大転換」が浮上してくるのではないか?

実に《ご都合主義》である。が、ご都合主義ではなく高邁な理想に基づいて日本国を統治した政府など、これまでの歴史を通してあっただろうか?

何だか、笑い話のようだが、ありえぬ事ではないと想像(というより空想?)している。

ここまでくると、保守反動の時代を超えて、「復古の潮流」と呼ぶべきであろう。ただ外国人の急増が進む中での21世紀型の「復古日本」であるのが違う。


・・・もちろん少子化現象をもたらしている要因は、共稼ぎ世帯の増加に限ったことではない。ひょっとすると、夫婦二人とも仕事で多忙であるという事と子を育てないという意思決定の間には何の関連もないのかもしれない。忙しくても子をもつ親は多い。経済的に豊かで時間に余裕のある専業主婦でも子は一人か、つくらないという家庭も多い。一概には言えない。しかし、今よりはずっと貧しく、大半の女性が専業主婦として家事労働に勤しんでいた時代、一人っ子は少なく、3人兄弟は普通であったのだ。少子化は現代の《都市化》と《多消費社会》の下で進んできた。「福祉国家」の理念が浸透し法制化されたことも少子化には関係しているだろう。真の要因を求めるとすれば、「共稼ぎ」の増加ではなくこちらの方向だろうというのは、これまでの投稿でも書いている。以上、つけたしまで   ―  実証作業は面倒だからもうやらないが。

年金など福祉国家の根幹に対する信頼性が低下しているいま、少子化が進んでいるのは、(仮説としては)論理矛盾で、反証でもあるが、本日はこの辺でやめておこう。

【加筆修正:2026-02-09】