2018年5月25日金曜日

一言メモ: 「善意志」に基づく行動を認めるべきときとは

前稿ではこう書いた:
近代社会の哲学的基盤を整えたと言っても過言ではないドイツの哲学者エマニュエル・カントは『この世界で最も善なるものは善意志をおいて他にはない』と考えた。行為の受け身となった側の受け取り方よりも(こちらに着目すればアングロサクソン流の功利主義となるのだが)、本来、善をもたらしうるのは善意志をもって行為をする側である。意志の善悪に目を向けるこの哲理もまた真理であろう。善意志のもとに行為している側にハラスメントが認定されるとすれば、法と哲学が矛盾することになるだろう。
では、1931年9月18日の関東軍参謀・石原莞爾のように(真に?)国益を願って軍律違反の作戦を実行した場合はどう考えればいいのか? 国益を願っての行動は正に善なる意志によるのではないだろうか?

★ ★ ★

当時の日本国内のマスメディア大手は大半が軍の行動を支持した。国際協調の観点から軍の独走を抑えようとする内閣を「堕落している」と非難した。

事後的には満州事変がその後の日本の歴史を歪め敗亡への道を歩ませることになった。文字通りの一大転機となった。

善意志の善たる価値は、いわゆる「国益」であった。その国益を「純粋」に追及して行動に出た。故に、国民はその大胆さに感動の気持ちをすら覚えたのだろう。保身に身をやつす政治家とは対照的だった。

が、もしも国益が善なる価値であるなら、その行動が真に国益に合致するのか?これまた難しい判断だ、本来は。どのように判定するのか?

一つ言えることは、一部のエリート軍人に情報が独占されるのではなく、国民全体が考えるべきであった。エリートが判断するのではなく、国民が判断するべきであった。つまり全てのモラル的な価値は国民が共有するもので、少数のエリートが決めるものではない。故に、国際関係や中国情勢の正しい情報、海外からの反応、日本の国力等々、重要な情報をオープンにした上で、国民が国益に合致するかどうかの判定を下すべきであった。この意味で、<民主主義>というのは<善>をこの社会で実現するモラル的な基盤でもあると位置づけられる。「最悪だが、まだましだ」というような政治体制ではないのだろう。「民主主義」そのものの価値については小生はずいぶん懐疑的であったが(たとえばこれ)、最近になってだんだん変わってきた。

とまあ、ひとまずは考えておけば前稿の一言メモは完結する。

★ ★ ★

とはいえ、上の総括では十分ではないかもしれない。

「侵略」とは隣国に対する窮極的な国家的ハラスメントと言えるだろう。共存共栄の国際的理念に合致していることも、それが善なる目的に沿った行動であるかどうかの判定をするには大事な要点だったはずだ。

何が善であるか? 結局、この問いにまた戻るのだ。

カントは、「実践理性」なるものが全ての経験に先立って、最初から人間には備わっているはずだと考えた。その実践理性の働きを曇らせるものは、独断や後天的な慣習、教育である。

小生にもまだ分からない。

時間が出来たら読みたいと思う本があった。が、勉強したいことはどんどん増える。

日暮れて、道遠し

ハラスメントの防止は重要な社会的課題だ。しかし、難問だ。まあ、運用可能な法技術でとりあえず始めるのだろうが、最初は欠陥だらけのスタートとなるのは間違いない。

2018年5月22日火曜日

一言メモ: ハラスメントの概念が今後大きな問題になる。極めて難問だが。

狛江市政の紛糾は改めて書く必要はない。

ただ以下の事は言えるだろう:

現在、セクハラ、パワハラ等々、すべてのハラスメントは「言った方の意図ではなく、言われた方がどう感じるか」で認定される。これが(今のところ)原則になっている。

しかし、普段はA党を支持している職員が多い―役所の職員はもちろん中立であるが歴史や経緯からという意味。実際、市役所職員もまた個人としては投票権をもっているわけで支持政党というものはある―役所において、野党のB党から首長が当選し、それまでとは異なる方向の指示をしたとする。こんなことは民主的な地方自治では日常茶飯事だ。

首長の指示に対して、職員は従来の政策の流れを現状と併せて説明しようとしたとする。その説明を遮り、『私は当選したのだから、君たちの講釈を聴く義務はない!私の指示に従いなさい!』と言う。これまた日常茶飯事で、民主主義社会の維持のためにはこうでなければならない。

職員が不快を感じ、理不尽なパワハラだと感じれば、感じた側の感情がそのまま認められパワハラとして認定されるのか?

もしそうであれば、極めて不適切で認めがたい。

ハラスメントの認定は、言われた側の感情がきっかけになるとしても、その判定は民主主義や社会のフェアネス、公正、確かな公益の存在等々、より次元の高い理念を根拠として行うべきだ。

「お客様は神様です」というのは、なるほど極端なスローガンだ。しかし、社会主義時代の旧ソ連内の「店内」で働いていた職員たちのように、勤労する側の怠惰や協調不足、職務規律からの逸脱が認められれば、叱責され、指導されても、それはハラスメントではなく、公益にそった組織管理である。業務には一定のディシプリンが要るわけで、そのためのマネジメントを担当するのが上司である、定義としてはだ。

近代社会の哲学的基盤を整えたと言っても過言ではないドイツの哲学者エマニュエル・カントは『この世界で最も善なるものは善意志をおいて他にはない』と考えた。行為の受け身となった側の受け取り方よりも(こちらに着目すればアングロサクソン流の功利主義となるのだが)、本来、善をもたらしうるのは善意志をもって行為をする側である。意志の善悪に目を向けるこの哲理もまた真理であろう。善意志のもとに行為している側にハラスメントが認定されるとすれば、法と哲学が矛盾することになるだろう。


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行為の受け身の側の感情に着目したセクハラ、パワハラなどのハラスメントが大きな社会問題として注目されるようになった背景、というか社会的・歴史的条件として、冷戦の終結があると小生は思っている。敵対陣営が消滅し、自由で豊かな長寿社会が到来した。確かにネット化社会の中で新型の人権侵害現象も起こっている。しかし、基本的にハラスメントという問題のクローズアップは、意志なき調整型国家が到来しつつある兆候なのではないかと思ってみているところだ。ルール化の徹底は社会生活のスポーツ化、社会の無目的化、意志や目的なるもの、そういったものを押し付ける政治家への不信や反発を意味するものと思ってみているところだ。

以上、付け足し。


2018年5月20日日曜日

メディア(=大衆)と関係者たちの戦略ゲーム?

レバ・タラを議論するのはそもそも意味のないことだというのはその通りだ。

しかし、最近年の日本社会で顕著になってきたメディア主導の「社会的制裁」をみると、その特質を理解し、進行を予測する能力を磨いておくことは、非常に重要である。特に、組織マネジメントの地位にある人たちにとっては、メディアが演出する「世論」というか「群集心理(→経済では市場心理と呼んでいるもの)」をケーススタディで徹底的に理解しておくことが危機管理に必須の学習項目になってきている。

ケーススタディでは、前例を分析し、そこから今後に生きるメッセージを抽出することが主なトレーニング内容になる。レバ・タラを考えることは思考能力を磨くうえで格好のエクササイズだ。

***

現在世を騒がしている「日大関学アメフト騒動」で日大側の視点からレバ・タラを整理してみよう:


  • 1回目のファウル(=悪質タックル)で直ちに選手を下げていたら。

試合直後に監督自らが関学側に謝罪に出向くことが必要だっただろうが、監督辞任に追い込まれることはなかっただろう。逆に言えば、何らかの計画的悪意があったならば、こうしていたはずであるとも言える。ということは、そのままプレーを続行させたこと自体、悪意をこめたプレーを計画的に指示していたという見立てとは矛盾している。日大側の言っている「偶発的」という表現は、日大指導陣の目線にたてば、一面の真相を表している可能性はある。


  • 2回目のファウルで選手を下げていたら。

1回目のファウルで一発退場になっていないこと自体、ラグビー、サッカー、野球など他の種目のプレーヤーの感覚からみると不思議であるそうである。『アメリカン・フットボールではあんなことは普通なのですか?』と聞く人もいる。アメフトをやっている人も『イヤ、イヤ、そんなことはないです』と応じているのだが、2回目のファウルで下げていれば、非難は1回目のファウルでプレーを続行させたレフェリー判断に向かっていた公算が高い。もちろんこの場合でも試合後に謝罪の意を関学側に伝えることは必要だった。ということは、逆に言えば、この時点で下げていないこと自体、悪意のある計画を実行したとは推察できない、という見方もある。つまり、何か隠したい悪意はなかったと、そう推察する余地もあるということだ。はじめから悪意があったのなら、あまりにも露骨に悪意的であり、愚かに過ぎるだろう。


  • 試合後ただちに謝罪の意を発言し、負傷した関学選手を見舞っていれば。

ラフプレーに対する非難はあったにせよ、関学側は謝罪を受け入れている状況であり、関学が記者会見を開き抗議をする事態にはならず、和解への道を進むことができたのではないか。今回の騒動のきっかけが関学側の抗議であるのは明らかだ。ということは、日大側にはそもそも計画的な悪意というものは最初からなく、故に悪意を隠すための体裁をつくる必要も感じておらず、そもそもが礼儀やマナーも二の次であり、相手に対するリスペクトもなかったので「この程度の事は謝る必要もない」と、タカをくくっていた、と。こんな見立ても可能かもしれない。


  • もし動画サイトもSNSもなければ。

『見ていた?』、『いや見てなかったなあ』ということで水掛け論になり、レフェリーがそのままプレーを続行させていたことでもあるので、うやむやに終わったに違いない。今回の騒動は、動かせぬ事実が誰の目にも明らかになるツールが存在しているという技術革新があって初めて起こりえた。そんな時代の特性が日大側にはピンときていなかったのではないか。選手の「想定外のプレー」が意外な騒動になり、しかも傷害事件とも指摘され、かつそれが故意であるというストーリーとあまりにも辻褄があう発言を選手にもしていたので、ついに対応に窮し立ち往生している、と。まあ、日大側の視点にたてばこんな見立てもできるかもしれない。

***

今後の進展を予想しておく。当面は日大の監督は辞任するものの、兼務する常務理事の職には留まり、またアメフト部のコーチ陣もそのまま残留するということである。

予想の前に前稿にも書き記した部分を再掲しておく:
マスメディア、というよりマスメディアが煽る世間の群集は、法を運用する政府や法曹界のエリート達よりもはるかにスピーディに、実効性あるペナルティを、加害者である日大に加えるだろう。日本大学という巨大な私立大学が世間に対して無条件降伏の白旗を掲げるまで、世間の非難・攻撃は止むことはないと予想する。イメージダウンによる大学経営面の損失は莫大であろう。 
日本社会を律する規範は、すでに法律からモラルへと作用の重心が移りつつある。法曹エリートから大衆へと実質的な権力が移りつつある。この変化を日大は見るべきだ。

既に、メディアのターゲットは「日本大学」に向けられている。順に予想をリストアップする:

  1. 残留するコーチの氏名、前歴などがネットで公開され、特に「(反則を)やるやろな」と試合当日の朝、反則を行った選手当人に念を押したというコーチが先ずは炎上すると予想する。
  2.  上のコーチが世間の攻撃に耐えかねて辞めた後は順に一人ずつ氏名と顔がネットで公開されメディアによる攻撃の的となる。辞めた前監督の前に1年で解任されたT氏にも取材記者がインタビューを求めるだろう。解任前後の経緯も記事となる。
  3. 一斉にか、一人ずつかは分からないが、コーチがすべて辞める。
  4. マスメディアの標的は再び常務理事にとどまっている日大前監督U氏に向かう。併せて、日大アメリカンフットボール部自体の廃部を世間は「期待」し、求めはじめる。この時点で、当事者である日大にも関学にも、また大学連盟にもスポーツ庁にも事態は制御不能になる。
  5. 日大の前監督は常務理事退任を余儀なくされる。これが10月頃の時点になるか。
  6. 日本大学の運営そのものに世間の非難は向かう。アメフト部の存続だけではなく、アメフト部以外の部の内情に世間の目が向けられ、あらゆる不祥事が洗い出される。また、非難のターゲットは<暴力体質>を肯定してきた理事長にも移る。
  7. 日本大学の学内内部の派閥対立が週刊誌で繰り返しとり上げられるようになる。日大OB層は人数も多く各分野に分厚く存在する。人的ネットワークも多様である。状況は複雑化する。
  8. おりしも大学受験の志願を決める季節でもあり、大学経営面での打撃が云々される。

まるで太平洋戦争時の日本の戦略と同じである。同じ戦略をとれば同じパターンで敗北する理屈である。

一般に戦略ゲームにおいては相手の予想を超える大胆な行動のみが勝利をもたらしうる。量的に勝る相手に抵抗しながら一歩ずつ後退するという発想では最後には無条件降伏以外に選択肢がなくなり全てを失う。

・・・

この後に更に予想されるのは、他の大学の特に運動系部活動に残っている(かもしれない)暴力体質に世間の関心が向かうことだろう。これもまた洗いなおされてくると、日大以外にも打撃を蒙る大学が出てくるのではないか。事態がここまでに至れば、大学スポーツの在り方、教育と運動との両立の状況、授業出席・単位修得と練習時間との整合、スポーツ推薦、卒業判定等々、ありとあらゆる側面が民放ワイドショーの格好のトピックとなる。私立大学のブランディング・ツールと化している大学スポーツは混乱を極めるだろう。戦後日本でずっと常識として受け入れられていた(特に私立大学の)運動系部活動の在り方は根底から改革を余儀なくされるに違いない・・・そして、大学スポーツが一巡すれば、今度は特にスポーツ名門校と評される高校部活動の暴力体質、パワハラ、(それからセクハラ?)となる。・・・いやはや大変である。カオスとなる可能性すらある。

ちょうど韓国の文在寅大統領が五輪をきっかけに南北融和を進めようとしたところ、この先の進展が不透明になり、南北の当事者にも制御不能となる可能性があるのと似ているようでもあり、ちょっとした火遊びが大火事になるとはこの事だ。

***

もしも昨日の前監督の謝罪の直後、つまり本日の朝、日本大学の決定として「U氏とコーチ全員の解任・U氏の人事担当解除・学外関係者を含む調査委員会立ち上げ・アメフト部新体制編成への基本的な考え方」をパッケージとして大学が公表していれば、(その実際的機能はともかく)世間にはサプライズとなっていた(かもしれない)。

トラブル解決のオーソドックスな手順は激変しつつある。法曹専門家のテクニカルな発想では課題解決に失敗することが増えている。重要項目は<法的責任>ではない。<真のコミットメント>になってきた。空虚なポーズではなく<背水の陣>をしく覚悟が求められている。もやは<調整>の時代ではない。起きているのは<サバイバル>のための闘争である。負ければ損をするのではなく消え去るのである。実に厳しい。理屈よりも意志が決定的に重要なのだ。そんな時代になってきていることを見なければならない。

『・・・すべては私の責任でございます』ということはコーチの責任ではない、故にコーチは留任してもよいのだという論理は法律的な三段論法であって、いかにも弁護士好みの立論だ。しかし、トラブルが社会化されたときの戦略ゲームでは、法的ロジックではなく、社会心理に受け入れられるかどうかで勝敗が決まる。

解決のためのルーティンが日本では変わりつつある。これが善いことなのかどうか小生はまだ判別がつかない。良い面も悪い面もある。稿を改めて書きたい。








2018年5月17日木曜日

メモ: 日大の突然の「炎上」で感じること

関西学院/日本大学のアメリカンフットボールの試合において起きたラフプレーは録画を見る限り、明らかに傷害事件の域に達しているほどの異様さがある。

この行為については、まだ日大学内において調査中であるのだが、既に無数の感想・解釈が公開されている。

ここでは掘り下げないが、憶測はある:

傷害行為とも受け取られる行為を日大選手がしたこと自体は明らかだ。弁明のしようがない。しかし、日大側の監督など責任者が被害者側に直接に謝罪をしたという報道はない。多分、世間の動きをみて、結局は行くだろうが、遅すぎる。

憶測なのだが、日大側は顧問弁護士あたりに事件への対応方を相談しているのではないだろうか。もしそうであれば、危機管理失敗への第一歩となるだろう。最近年の日本社会では弁護士が得意とする法律論からトラブル解決への道を探る議論は失敗することが多い。

***

先般の財務省事務次官、女子レスリング界で生じたパワハラ・トラブル、その他のイジメ・パワハラ・セクハラ事案一般、(更には森友・加計学園問題もそうかもしれないが)これらに共通している点は、当事者、特に加害者・責任者だと目される側が、自身の「法的責任」をまず明確化するという発想では、最近年の日本社会ではトラブル解決に成功していないという現実がある、ということだ。

なぜなら、事件を報道するマスメディアへの当事者の対応に世間が反応し、双方が相互に反応している中で世間の群集心理がバブルのように形成・拡大されてしまう。その結果としてトラブルを解決するルールであるべき法律をはるかに上回るスピードで世間の「社会的制裁」が「加害者」と目される側に加えられてしまうからである。

前の投稿でも何度か述べているが(たとえばこれ)、現在の日本社会でトラブルを解決する際に、まずは双方の法的責任を明らかにし、それに基づいて法治国家にふさわしい合理的な解決を導くという「公式ルート」は現実には機能しなくなりつつある。法治国家がもっている正当なプロセスが機能不全の状態に陥っている。全面的にでないにしても、確かにそう言えるところがある。これにはマスメディアの姿勢に責任の大半があると何回かの投稿に分けて述べたところだ。

***

日大側は、本事件の処理に関して、法的ロジックから対応方法を議論しているのではないかと憶測する。だとすれば、非常に拙い。問題は解決できまい。テクニカルな法律的思考では状況をむしろ悪化させる可能性を考えておかなければならない。結果として日大は失う必要のないものまで失うだろう。

マスメディア、というよりマスメディアが煽る世間の群集は、法を運用する政府や法曹界のエリート達よりもはるかにスピーディに、実効性あるペナルティを、加害者である日大に加えるだろう。日本大学という巨大な私立大学が世間に対して無条件降伏の白旗を掲げるまで、世間の非難・攻撃は止むことはないと予想する。イメージダウンによる大学経営面の損失は莫大であろう。

日本社会を律する規範は、すでに法律からモラルへと作用の重心が移りつつある。法曹エリートから大衆へと実質的な権力が移りつつある。この変化を日大は見るべきだ。

それが正しいかどうかを言い立てても意味がないのだ。情報がネットを瞬時に流れる社会ではこうなるのだ。そういう現実が観察されつつある。生活、金融、製造現場等々、あらゆる場面において進行している多くの社会的変化の中のこれまた一つの断面なのだ。そんな社会的変化への<不適応>の一例として日本大学の名前が残るなら、いささか残念である。

これは確かに憲法でも禁止されている「私刑」に違いないと小生は思う。が、政府にもどこにも止められる主体はないのが現実だ。そんな時代が到来している。

2018年5月15日火曜日

クウェスチョンマークや「ではないでしょうか?」で終わる文章は「報道」の要件を欠く

職業柄、アカデミックな論文を読むことも多かったし、愚作ではあれど自論文をサブミットしたこともあった ― サブミットした論文がアクセプトされた時の強い喜びを学生への教育活動で同程度に感じられる機会はそう多いものではないのが現実だ。この点で亡父からきいた戦前期の「大学」と今とはまったく状況が違う。

・・・いや、いや、大学論や学生論が本日投稿の主題ではない。

***

論文でもクウェスチョンマークを使うことはある。ただし、それは論文のイントロダクションで使うことがほとんどである。たとえば、"Problems to be answered are as follows:"などという表現は英語の拙い日本人には定石的文章になっている。このあと、箇条書きで疑問文をリストアップするのだ。

その後は本論になる。そして本論に入ってからは、クウェスチョンマークを使うことは、よほどの修辞的文章でなければまずはなく、すべて記述的な平文でデータに示された事実や論理的に得られる堅い推論を飾りなく述べていくのが鉄則だ。二重否定や修辞的な反語的疑問文は逆効果である。

事実やデータ、実験結果を示して何かを結論付ける、何かを提案する以上は、「・・・ではないでしょうか?」と言うのは禁物だ。まあ中には「予想」を述べる場合もある。が、学問上の「予想」というのは「理論的には・・・であると結論され、今後のデータによってそれが正しいことが確認されるものと予想する」。これが趣旨である。予想とはいえ、理屈としては結論を述べているのだ。数学的な「予想」もほぼ同趣旨だ。証明はまだ得られていないが、これまで得られた結果をみれば、このような結論が証明可能であるはずだという確信を述べたものだ。

『・・・ではないでしょうか?』、結論がこんな風では「今回公表する必要はあったのでしょうか」と逆に指摘されるのが落ちであって、何かを提案する以上は『・・・とするべきである、何故なら・・・』と主張するのがよい。データがあるなら「・・・であることが明らかになった」という具合に結論を明確に示さなければ論文の体をなさない。

***

報道機関が何かの報道をするとき、以下のようにしてくれれば、ずっと目に入りやすくなる、また聞きやすくなるだろう:

  1. 疑問文を結論部分には置かず、また極力、反語的疑問文は用いない。
  2. 文章中のクウェスチョンマークは不使用を原則とする。

言葉の定義上、事実を相手とするのが報道である。「・・・ではないでしょうか?」とどうしても語りたいなら、根拠とともに「・・・であると思われます」と、少なくともこの程度の断定はするべきだ。でなければ、伝えていることが信頼されることはない。

まして『・・・と疑われます』などという表現は論文では使ってはならず(序論の部分で旧説への懐疑を示す下りならまだしも、本論で使えば何も研究していないのと同義である)、報道としても限りなく失格に近い、と感じるのだ。これは、その人の意見であり、意見である以上は「個人の責任においてそう思う」と言明する一言が必要である。というか、意見を報道と称するべきではなく、政府から割り当てられた電波を利用して自己の見解を独占的・一方的に述べるのは機会の平等に反する。

『・・・は不明のままです』や『・・・という謎が残ります』という表現も、「報道するべき今後の課題宣言」としては分からないわけではないが、個人的にはタブーとする方がニュースレベルが保たれると思う。が、あれはダメ、これもイカンと言うのでは、一切のニュース解説は無意味にもなりかねず、ここでは掘り下げない。

ずっと以前のニュース番組では、キャスターは(念入りに推敲されたのであろう)ニュース原稿を読み上げていたが、いつの間にか、原稿なしで(自由に?)事実について色々と話すようになった。そして、いつの間にかニュース番組が「放談番組」に近づいてしまった。ずっと昔になるが、細川隆元と藤原弘達(小汀利得が初代)の二人の談義は『時事放談』とタイトルを打っていただけ良心的であった。確か、TBS系列だった。立場や主義が違うにせよ、ハイレベルの批判は批判される方もファイトが掻き立てられる。何にせよ、だ。意気に感ずるのはこういう時だ。みんな小粒になったから「放談」とは名乗らずに中身で放談をしちゃってる、と。無免許運転にも似ているかねえ・・・時代が変わってしまったといえば、それまでのことか・・・。



2018年5月14日月曜日

メディア企業による世論調査の質問設計で一つの疑問

今朝の朝刊に共同通信が実施した内閣支持率調査の結果が掲載されている。

それによると、安倍内閣への支持率はなお30%台(=40%弱)ながら前回より微増。半面、不支持率はまだ50%を超えている。「踏みとどまっている」というコメントがつけられていた。

また、次の総理に誰がふわさしいかという質問に対しては、小泉進次郎氏が初めてトップになったということだ。2位が石破氏、安倍現総理は3位であったよし。但し、自民党支持層に限れば安倍氏の支持率が40%となり、小泉氏の20%のほぼ倍となっている・・・と、そんな解説がつけられている。

「???」、が小生の感想である。

***

調査の質問は次のようでなくてはロジックが通らず結果の解釈が難しい。

質問〇〇: 与党を支持していますか、野党を支持していますか?
( )与党(自民党・公明党)
( )野党(その他の政党)

質問□□: 上の質問で与党を選んだ方に質問です。次の総理大臣に誰がふさわしいと思いますか?
( )安倍晋三現総理
( )石破茂議員
( )小泉進次郎議員
( )山口那津男(公明党代表)
( )その他(具体的に名前をお書きください:       )

質問◇◇: 質問〇〇で野党を選んだ方に質問です。次の総理大臣に誰がふさわしいと思いますか?
( )玉木雄一郎議員(希望の党代表)
( )大塚耕平議員(民進党代表)
( )枝野幸男議員(立憲民主党代表)
( )その他(具体的に名前をお書きください:       )

当たり前の質問設計であるので、こうなっている(のかもしれない)、とは思う。

質問〇〇では敢えて「支持政党なし」は入れていない。与党を支持するか、野党を支持するか、ロジックは二択である。質問□□と◇◇で未回答は「該当者なし」と解釈される。

野党を支持すると回答していながら、次の総理大臣にふさわしい議員として自民党議員を回答するというケースは、解釈が難しくなる。実際、共同通信社の調査ではこんなケースが大量に発生していると推測できる。

野党を支持するなら野党議員の誰が次の総理大臣にふさわしいと考えているのかを先ず回答してもらうのがロジックだ。

そう質問しなければ「支持している政党」という語句の意味するところが曖昧になってしまう。

***

いずれにしても、次の総理大臣にふさわしいのは誰かという質問で、小泉進次郎議員が首位となったのは「野党支持層」を含めての数字であるのは明らかだ。

が、自民党議員が総理大臣になりえるのは、自民党(+公明党)が議席の過半をとったときだ。その自民党支持層では安倍現総理がダントツで支持されているのが事実なら、基本的な流れは安倍政権継続という結論になるのではないか。首班指名で自民党議員は自民党総裁に(ほぼ確実に)票を投じるのだから。流れはこう見るべきだろう。

どうも小生が昨年春に投稿した予測は外れそうな状況になってきた。

まあ、自民党支持・安倍非支持+野党支持が結託して、安倍現内閣支持勢力を上回るという可能性もあるのだが、上のような記事からこれを読みとれというのは、素直な伝え方とは言えまい。データの解釈において、可能性を探るような読み方は(ある意味)タブーである。まずは素直に読みとることが大事だ。

世論調査に限らずデータ分析を行う時には、自らの意見は封印してニュートラルな姿勢にたつことが非常に重要だ。

★ ★ ★
話しはまったく変わる。

「セクハラ」についてはこのところ相当集中的に投稿していて、これまた昨今の世相そのものだと思うのだが、色々とネット上にある投稿を読んでいると、セクハラに悩む(特に)女性勤労者は非常に多いということが分かる。

ただ、どうなのだろうなあ・・・

訴えられている辛さや悲しみは、その人がまさに女性であるためだと思わざるを得ず、だからこそ「セクハラ」ということになるのだが、訴えられている内容は「仕事の辛さ」、「理不尽な処遇」、「職階の上下関係のやり切れなさ」、等々であるようでもあり、もしそこから「セクハラ」的側面をとってしまえば、そのまま男性若手勤労者にも当てはまる、同じような辛さでもある。男一匹生きてりゃあ、そんな逆境は幾らでもあるだろう、女一匹だって同じさ、と。そういう感懐をも持ってしまう。これまた事実なのだ、な。

そりゃあ仕事になると、何だって辛いもんだぜ・・・そうそう簡単に人様からカネをもらえるわけないだろが。会社に入って楽ができるって思ってたのかい?  仕事なんて楽しいもんじゃないヨ。お客様は神様だし、モンスタークレーマーだっている、大体、上司と波長が合うなんて、そんな年は何年あったかなあ・・・そんなもんさ、あとはフンって感じよ。砂を噛むような毎日さ。前にもいったろ? 仕事で幸せになろうなんて考えちゃ駄目だヨ。命をとられずに、カネをくれるだけ、運がよかったくらいに思うこった。でなけりゃあ、辛い仕事、やっていけねえぜ。楽しみを別につくらねえとな。土台、仕事なんて行儀よくなんて言ってちゃあ、勝てねンだよ。戦争に負けてよ、日本がアメリカやヨーロッパに馬鹿にされながら、それでも仕事でうまいこといったのはヨ、とことん行儀悪くやったからだって。それを今になってヨ、仕事は上品に、優雅になんて言ってよ、中国や韓国はどんどん情け容赦なく日本から何もかも獲っていこうって、そんな時代だろ。あっちはあっちで行儀のギョの字もなくやってるよ。そんな戦争みたいなマーケットでよ、お行儀よく営業なんてできねえぜ。裏じゃ相手の股グラ蹴り上げてんだヨ。自分の会社の中はお上品になんて言ってもヨ、そりゃただの自己満だろうが。サービス残業とか、横流しとか、犯罪色々ある中でよ、ああ言われた、こう言われた位で、社内で紛争起こしてちゃあ、肝心の会社がそのうちつぶれちまうんじゃないのかい?

そんな苦言、というか叱責、指導・・・いやあ小生も年だネエ。そんな感じがしてしまう。

2018年5月12日土曜日

メモ: セクハラ防止で盗聴社会になるかもしれない日本の社会

別の話題が頭にあったのだが、本日は(最近の世相を象徴するような記事があったので)メモっておきたくなる事が出てきた。

今朝の朝刊で記事になっていたのだが、自民党に所属する某国会議員が(想像するに)次のような趣旨の挨拶、というか祝辞を結婚披露宴で述べているそうだ。

前略・・・ええ、昨今の少子化・高齢化が進む日本の未来を少しでも明るくするためにも、是非! ご新郎、ご新婦のお二人におかれましては、できればお子さんを二人、いや必ず三人以上は(笑い)、おつくりになって育てられて、先達から受け継いだこの私たちの日本という国を、次の世代へと伝えていっていただきたい、【少し取り乱して】あ~、エエ~、つい私の日頃の職業病が出てしまいまして、ご列席の皆様のお耳を汚してしまいましたなら平にお許しをいただければと存じますが、世の中にはお子さんが欲しいと思ってもさずからないご夫婦もいる、人様の子供の税金で老後を送る、私はやはり考えていただきたく、若くこれからの日本を支えるお二人には乗り越えるべき問題として意識していただきたい、日ごろからいつも感じているものでございますから、こうしてお話しさせていただきました。ご新郎、ご新婦のお二人には是非実りある人生を歩んでいかれることを心から願っている、そんな私の気持ちとしてお受け取り頂ければと存ずる次第であります・・・云々
これが問題となった。「結婚式で『必ず三人以上の子供を産んで欲しい」と呼びかけている」と報道されている。正直、噴飯というか、吹き出してしまった。親戚の甥や姪であれば分からないが、まあ人様の結婚式に招待されて、小生ならここまでは言わないネエ・・・とは感じる。

首相の所属する清和会(というのが報道の動機であったのだろう、まあ、小生の感性にも合わない政治グループではあるが)、そこの会合で某議員がそんな話をしたそうである。それが、どうしたことか、リークされてしまってマスコミの記事となり、議員は発言について謝罪をする事態にまで追い込まれてしまった・・・。まあ、当の議員は今回の騒動をもネタにして、同じ趣旨の挨拶をして、披露宴の客を喜ばせることだろうが・・・。

細かな言葉づかいは分かりようもなく、実際に披露宴に招待された来賓客のスピーチを無断で録音する不作法な人がいるとも思われないのだが、大体は上のような挨拶をしているのではないだろうか ― 議員という人たちは挨拶慣れしているので、市販の「挨拶百選」にも掲載されているような文例に近い言葉づかいであることが多い。

それにしても、

いかに国会議員という公職であるにしても、結婚披露宴の来賓祝辞という名目で語っているというその言葉がオープンになり、それが問題化し、謝罪、撤回する事態となっている。決して話してはいけないことなのだろうか・・・?小生は、正直なところ、そう思った。

国会議員は自分の思っていることを、私的な席でも語ってはいけないのだろうか?禁止されているのだろうか?結婚披露宴は一般大衆とは無関係の純粋の私事、プライベートな空間である。そこで聴いている人たちが好いと思えば好いのではないのか。もし好いと思われなければ、議員個人が嫌われるだけの話ではないか。そこまでの話にするべきことである。

このような世相の延長上にあるのは、個人の生活にも公益を名目とした盗聴が入り込む可能性だ。

「セクハラ防止」という社会的目的は、盗聴やプライバシーの侵害をも打ち消すほどに優先されなければならない目的なのだろうか。極めて疑問である。

セクハラ防止が実行されなかった従来の日本社会は別に崩壊はしていない。それどころか、発展して、非常に洗練された文化をつくって、日本文化が世界市場で利益になる時代すらやってきた。が、盗聴や個人の自由の侵害を許すような社会が到来すれば、戦前期に経験したような恐ろしい社会になることは確実である。そこでは公益が万能であったのだ。公益を振りかざす社会ほど怖い社会はないということを、日本人は勉強したはずなのだが。

メディア産業の各社は本当にそう思っているのだろうか?

「公益」と「善」とは別物ですよ。公益に奉仕するものと信じて行動したところが、実はそれは悪行であった・・そんな事例は無数にありまさあネ。私たち日本人だって戦前期ニャア、そんなことをやらかしてましたよ。エッ! 覚えてない? 聞いたことがない? 忘れちまうには、まだ年数、たってないでしょうが。そう思いますがネエ・・・。ホントに、あなた方、大丈夫でンすか?

どれほど不愉快に感じようとも、人の話しはその人の話しとして聴いた方がよい。世の中そんなものだ。金正恩がどんなに嫌だろうと話を聞かないわけにはいかないだろう。嫌なことは聴きたくもない。そのような態度は国全体を変な方向へと導くものである、と。小生は、そう思うのだがネエ。