2017年10月23日月曜日

まとめ: 選挙のあとに

衆院選2017の結果は、各社の事前予測をほぼなぞるようであったので、実際の開票結果は予測の確認といったような塩梅だった。投票率が53.7%というのは関係ない。投票率が仮に95%であったとしても結果に大差はなかったであろう。基礎的な統計学でわかることだ。

やはり与党の圧勝、希望の党の自滅につきる。

これまでの投稿から抜粋するだけでも、総括としては十分なような気がする。

一つは9月29日付けの投稿から以下の下り。
マスメディア各社は面白いものだから<これで政権選択選挙>になったと力説している(もはや解説ではなく、まして報道ではない)。
見ようによっては確かにそうだが、それよりは今度の選挙は<イメージ*ムード vs ファンダメンタルズ>のどちらがより確実な勝因でありうるのか。こうとらえる方が正確だと思って見ている。
やはり選挙の勝敗は経済や外交など各面のファンダメンタルズが最も決め手になることが再確認できたと結論してもいい。

北朝鮮、中国ファクターもそうだが、景気、雇用状況、株価動向、物価動向、対米関係、対アジア関係、対露関係等々、どれをみても政権交代を望むような情勢はなかった。森友騒動、加計学園問題が、選挙期間中に結局は大きな論点として議論が広がることがなかったのは、国民の目がゆがんでいるのではなく、それが現実のリアリティそのものであるからだ。実際、与党が大勝したあとの本日、日経平均株価は岩戸景気時の14連騰を57年振りに更新する15連騰となった。安心感である。このような情況で野党が与党に勝てる理屈はないのだ。

もしも民進党の左から右まで全てを小池代表が受け入れて、共産党とも協力して、日本新党ブームの再来を目指したとすればどうだったろうか?小生思うに、それでもダメだったと推量する。そもそも統一的政策提言がない以上、野合批判には耐えられないのだ。日本新党が成功した要素として、小沢一郎の『日本改造計画』があり、その小沢本人がバブル崩壊後の日本の政治で様々な仕掛けを進めていたことを忘れてはならない。

一言で言えば、今回の与党大勝は民進党が自ら蒔いたタネによるものであった。マイナーな森友・加計問題であっても、内閣支持率に執拗な打撃を与え続ける蓮舫・野田執行部の戦術はそれなりの効果をあげていた。少し見っともない戦術であったにしてもだ。そのまま不動の体制でいけば、安倍政権は支持率の低下から解散を怖れざるをえず、ジリ貧だったであろう。その体制が都議選の敗退の責任をとるという理由で覆ってしまった。そこに隙と混乱が生じた。安倍政権は当然の選択をした。そもそも、いつか好機がくれば総理が解散をしたがっていることは誰もが知っていた。それを民進党は自らが最も不利な状態でさせた。まさに「敗北の方程式」である。勝負はここで決まっていたのである。要するに、そういう事であった。前原・小池会談は、つじつま合わせで瓢箪から出たコマに過ぎない。後始末の茶番劇である。

リアリティを無視して、シナリオだけを書いても、うまく行くはずはなかったのである。

さて、もう一つは10月2日付けから。
頭をつかって、風をみて、一日中動き回ったり、雲隠れしたりしているが、肝心の結果が出てこない。忙しいわりには効率が悪い。キョロキョロしている割には、結果的には迷い道にばかり入りこんでノロマである。だからキョロマ。語源はこんなところだろう。
キョロマ達が時代の風にあおられて走り回っても、目立つことは目立つが、それは輝くとは言わないだろう。不動の定位置にあって光を放つのでなければ、「輝く」という動詞は使えない。
今回の「希望の党」と「民進党」の合流騒動を通して、頭が一番いい人は誰であったか。それは女性ではない。やはり民進党の前原代表が一番頭がいい。小池さんは他人がやるべき汚れ役を代わりに引き受けた分、人がよくて頭がわるい。ただ悪いはマイナス、いいはプラスとならないところが、人間評価の面白いところだ。
世間では希望の党の小池百合子代表が、不評を通り越していまや嫌悪の対象にすらなった印象で落ちも落ちたりという感が拭えないが、そもそも上に引用したように、小池代表がやろうとしたことは、前原民進党代表が自らの手を汚してやらなければならなかった事である。前原代表をすら使い捨てにしなかったところに小池代表の甘さがあったといえば言えるだろう。かつ、そこに小池女史が政治家としての老獪さ、狡猾さがいま一つであることの証明をも見てとれるだろう。そもそも同女史が政治家として築いてきた実績はそう大きくはない。同女史が現にもっている政治家としての真の力量に限界があることはこの点からも明らかだ。

本当は冷静にそう見ておくべきだったのではないだろうか。「小池劇場」のプロデューサーは、ご本人というより、視聴率が欲しかった(と同時にアンチ安倍闘争を盛り上げたかった)マスメディア大手企業である。そうみれば、小池百合子といえども、マスコミに使い捨てられようとしている<政治女優>の一人に過ぎない。

2017年10月21日土曜日

メモ: 能力を構成する複数の次元

人生のかなりの割合を<仕事>というものが占めている。職業人生がうまく終わるか、失敗して終わるかは、その人の幸福を大きく左右すると言ってもよい ー もちろん仕事で失敗しても、家庭生活で埋め合わせられている人も多いし、この逆のパターンもある。ま、職業も家庭生活も両方ともうまくまとめたい。幸福へ至ることは西洋哲学では最高善とされている。善でありたいというのは、極めて論理的な願いなのだ。

幸福かどうかを結果、幸福を求めているその人の人間的要素を原因として大ぐくりに整理すると、瞬間的時間において考えるか、少し時間をおいた短い期間で考えるか・・・という具合に、能力にも複数の側面、というか次元がある。

いま現時点でどう話すか、何をするかを選ぶのは<感情>によることが多いような気がする。少し長めの時間をとった時に、是非や優劣の順序を決めるのは、やはり<理性>である。しかし、もっと長い期間をとったとき、方向軸がぶれず、一貫した努力を続けていけるかどうかは、理性というより<意欲>が大事だ。<意志>とも言える。そして、意欲や意志が適切であるかどうかは、最後にはその人の心の中にある<理念>が大事になる。では、その理念を形成するのは・・・。キリがないが、多分、その社会の慣習や伝統・美意識、宗教や哲学・世界観が軸になるわけで、マクロ的には<国民性>とか<民度>というものになって現れるのかもしれない。

この中で、いわゆる「頭がいい」というのは、理性の働きが速い、的確である、記憶力と論理的思考力が卓越している。大体、そんな意味をこめることが多い。頭だけではダメだというのは、感情の美しさや意欲、理念が高邁であるかどうかも同程度、というか一層重要であるからだろう。

ここまで書いてきて語呂合わせのように気がついたが、意欲といえば欲、意志といえば志だ。志(ココロザシ)といえばイメージが良いが、実は欲(ヨク)と一体のもの、実は同じものかもしれないねえ。そんなことだ。

2017年10月18日水曜日

メモ: 経済問題、最近の七不思議にまた二つ

今日時点で疑問に感じている点が少なくとも二つはある。なぜ本筋の議論をしようとしないのか、小生にとっての七不思議にリストアップした(もう七つは超えてしまったが)。

疑問1: 給付型奨学金の拡大
とりあえず簡単のため大学・大学院に議論の対象を限定しておきたい。「貸すのではなく、お金をあげるのだ」とすれば、どんな学生にお金をあげるのか、給付型奨学金の支給対象者の選別方法で紛糾するのは必至だ(授業料免除などは予算枠があるので学内で適否が審査されている)。 万が一、税金をドブに捨てるようなケースが発生するならば、どんな理想があれ、それ自体が悪(というより、退廃?堕落?)であろうから、支給による効果を最初にチェックするのは当然であろう。規模が小さいなら、世間の関心を呼ばずに「なんとなく支給」という方式もありえるだろうが、拡大するなら合理的に説明可能な方式を決める必要がある。これは非常な難問であるに違いない。
給付型の「学費支援」は日本は既に実質的に広範にやっている。 
公費で運営する国公立大学の授業料を一律的にさらに引き下げればよい。 
授業料をゼロにするセグメントがあってもよい。必要なら、国公立大学、学部・学科を新設したり、定員を増やせばよい。 
大学への合否判定で自動的にスクリーニングできるので来年度からでも実施可能だ。特に地方圏の子弟にとっては「希望の道」になる。経営の拙い割には不透明で国民の目が届きにくい私立大学を淘汰できるというプラスの効果も期待できるだろう。
戦前期は、陸海軍の士官学校、兵学校(現代の防大も同じ)、教員など教育指導者を育成する師範学校は授業料がゼロであった。ただ公費支給範囲がいかにも狭かった。が、経済的に恵まれない子弟が学問を志し、才能を開花させる道は提供されていた ー このことは日本が貧しさからスタートしたことの現れでもある。危機感の現れと言ってもよい。同じ危機感をもてば同じ選択につながるのではないか。
引き下げようと思えば簡単に引き下げられる国公立大学の授業料をまったく検討することなく、はるかに難しい制度設計が伴う給付型奨学金を議論するのは、やっぱり七不思議だネエ。そう感じてしまう。 

疑問2: 企業の内部留保課税
同じことは配当に対する分離課税税率を20%から(たとえば)30%に引き上げればよい。しかし、こうすると株主は配当で受け取るのではなく、内部留保による株価上昇という形でもらう方を選ぶはずだ。だから配当課税を重くしても税収は増えない理屈だ。 
故に、内部留保課税。目的は資本所得課税の強化である ー 資本課税にまで踏み込んでくると財産権不可侵とぶつかり社会主義に近くなる。同じことは所得税の累進度強化でも達成できる。アメリカなら共和党ではなく民主党政権がやりそうな政策である。 
配当・内部留保など資本所得に対する税率を引き上げるなら、日本企業に資金を投じる魅力が外国企業に比べて下がる。いまでも日本人にとってイギリス株を買うのは魅力的だ。というのは、配当の源泉税率はイギリス側でゼロである。加えて、イギリスでは法人実効税率が20%で日本の30%弱より随分低い(資料はここ、イギリスはもっと引き下げようと言っている)。それもあって英企業の配当利回りは非常に高い。だから日本株を買うより英株の方が有利だ ー アメリカ株ならいわゆる「配当の二重課税問題」があり複雑になるが、概して米企業の配当利回りは高く、米株有利の状況がある。今でも日本企業は資本調達で不利なのだ。 にも関わらず、もっと日本企業を不利にしようとしている。これは不思議である。
日本で新規事業が減れば、優良な就業機会が減る。収入は伸びず、低劣な仕事ばかりが増える。アメリカならこんな反対論が必ず共和党支持者から噴出して、与野党が伯仲するだろう。が、日本では「実は財務省も腹のなかでは考えていたのだ」などと、あたかも内部留保課税が正しい道であるかのような流れが出来かかる。これ、実に不思議だ。どちらが正しいなどと簡単に結論が出るような問題ではないのだ。
まあ、自民党政権では所得税の累進度強化は言い出せないだろう。分離課税廃止などは絶対無理ともいえる。これは自明だ。資本所得課税も言えない。だから消費税の税率引き上げを提案している。消費税率の引き上げは<党派的>と言えばたしかに党派的ではある。自民党の党益からみれば仕方のない選択だ ー 大衆福祉国家の理念が強かったヨーロッパは、それでも付加価値税20%の世界を築いているのだが。資本所得課税強化より穏やかな選択、たとえば所得税の累進度強化(さらには配当・譲渡益の分離課税廃止)を正面から訴えている政党が日本にないのは、やや不思議だ。低所得層から中の下までを減税、中所得層の上からは増税。人口でいえば利益を得る人が多いはずなのだが誰も言わない。近年の格差拡大は株式運用益の大小でほとんど説明できるはずだ。これを言う政党が一つもない。不思議だ。七不思議にリストアップしてもよいのだが、多分、ブレーンらしいブレーンがいないだけの話なのかもしれない。でなければ、自分の所得にとってマイナスだからかもしれない。

ついでにいうと、今度の選挙でどこかの党が口にしているベーシック・インカム。『私たちも言葉は耳にしています、良さそうネ、公約に入れておきましょうカ』という感覚で、まるで『サンタクロースが住んでいるお伽の国があるのヨ、そこではネ、・・・』という母の寝物語にも似ていて、どう考えておけばよいのか分からない。

2017年10月16日月曜日

一言メモ: これは本当に公選法違反にはならないのか?

2年ほど前に作った読書用メガネをなくしてしまった。ずっと昔の単焦点メガネはあるが、度が合っていないせいか、かけていると頭が痛くなる。「そろそろPCを使った統計分析実習は限界か」と感じてきたが、来年2月迄はやらなければならない。そんな事情で今日は隣町のS市にあるビックカメラまで出かけ、近くのテキストが読みやすい眼鏡を作ってきた。節約路線である。

選挙期間中というので駅構内のテレビでも選挙テーマのワイドショーを流している。と、KIOSKをみるとこんな広告がある。


余りの露骨さに呆れたので、帰宅してからネットの「週刊文春WEB」(本日現在)からコピーしたものである。

これは「希望の党」という政党の代表を誹謗している以上、特定政党に対するあからさまなネガティブ・キャンペーンである。発売は12日だから公示日より後である。

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個人としてブログを投稿している小生ですら、選挙公示日の10月10日以降は特定の候補を貶める、あるいは逆に特定の候補をもちあげるような文章を書くのは、なんとなく気が引けて遠慮している。一般有権者の中のたった一人でも、やっぱりネ、そんな感覚だ。もちろん一般有権者はブログやツイッターで特定候補者を応援することができる。落選運動も可である ー 但し、メールによる依頼は駄目だとされている(参考資料はここ)。

いま疑問に思っているのは、個人による落選運動は可能なのだから、法人であるマスメディア大手にも可能であるという法理はあるのかという点だ。

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市場において、消費者は商品を売っている商店主に対して売値を値切ることは自由にやってよい。むしろ対等の立場にある経済主体が競争し、かつ交渉しあうことで全体としてはより善い結果がもたらされるものである。しかし、大企業が中小零細企業に対して、同じ値引き交渉をすれば「独占的支配力の行使」、「優越的地位による交渉力の濫用」と判定されることが多い。だからこそ、独占禁止法がある。経済活動には過大な影響力が行使されないよう規制しているのだ。

同じ問題意識は、世論形成における影響力の大小にも向けられなければならないと思うのだが、どうだろうか。経済プロセスだけではなく、政治プロセスでも、個々人の集合体である国民の政治的意思が、少数者の影響を受けることなく、選挙結果に反映されることが重要になる。そのための環境作りは放っておいてもできるものではない。だからこそ公職選挙法がある。

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選挙期間中に新たな事実/功績/スキャンダルが明らかになるなら、報道としての価値もマアあるのだろう ― それが報道に値するという判断が少数の編集部幹部によって行われるのはやはり不適切だと思うが。しかし、上の週刊文春の批判記事はざっとみて、古い話ばかりであり、あえてこの時機に出版するのは何か同社が政治的意図をもっているからではないかとすら感じる。

そもそも営利法人である出版社に投票権はないのだ。ない以上、選挙という社会活動に参入し、選挙結果を左右する影響力を行使してはならないと思うのだがどうだろう。

というのは、有権者である個々人は投票権を持っていることを判定可能であるが、法人はそもそも国内で法人格を有しているだけの擬制的存在であって、その法人が有権者のある集合を代表しているのか、投票権を有しない外国人の意志を代行しているのか、まったく分からないからである。後者の可能性が理論的にもせよ否定できないのであるから、投票権がない営利法人が結果を左右するかもしれない政治的意見を公開することは、不適切だと小生は思うがどうだろうか。

営利法人である出版社が特定の政党を批判したり、支持したりする活動を是認するなら、たとえば経団連(→自民党を支持しているはずだ)が自民党を支持するコマーシャルを流したり、医師会(→やはり自民党だろう)やその他業界団体が同じことをするのもOK、全国の商工会議所(→ここもまず自民党だろう)が特定の政党を支持するコマーシャルをテレビで流すのもOK、その他の株式会社が特定の政党を支持するCMを流すのも、印刷物をホームページに掲載するのもOKになるのではないか。

しかし、上に挙げたどの団体も個人ではない。投票権は持たない。投票権を持たない法人が選挙に影響するかもしれない意見をあえて述べる動機はない、というか持ってはならない理屈だと思うがいかに。出版社についてもまた同様なロジックがあてはまる。





2017年10月15日日曜日

「無党派」というマイ・イデオロギーは何を意味するのか

選挙の結果を決めるのは「無党派」である。選挙がやってくると、例外なくマスコミはそう言っている。大体、有権者全体の確か4割ほどが無党派に属しているのだろうか。

が、よく考えてみると、「無党派」なる政治的立場というものは、一考に値する、というかそもそも最大集団が無党派だという状況になるというのは一体どういうことなのか。そんな疑問もわいてくるのだな。

「無党派」が最大の政治集団であるような先進国はほかにあるのだろうか?

こんな文章がネットにある。
希望の党はおそらく50議席も取れない結果に終わるだろう。そうなれば、小池氏の責任問題に直結し、人々は彼女から急速に距離を置き始めるに違いない。政治は結局、その時々の風や勢いだけで突っ走ると、失速したときに自らを支える軸がないので、新たな風や勢いに吹き飛ばされて終わる。安倍晋三氏が、一度は権力を失墜しながら復活できたのは、勢いを失った彼を支える人々が側から離れず、再起のチャンスを皆でお膳立てしたからだ。 
それでも世論調査では、比例での投票先に希望の党を入れるという人が根強くあるが、そうした人々の多くが、おそらくは無党派層であり、政治的関心の薄い人々だろう。他党に入れるという人に対して、希望に入れるという人は話題に飛びつきやすい「なんとなく層」が多く、彼らの多くは、投票日が晴れていれば遊びに行き、雨が降れば外出を控えるだけのことである。
(出所)植村吉弘「希望の党は大敗北に終わるだろう」、2017年10月14日

非常に冷めた目で「無党派」集団の行動パターンを見通している。大体、そんなところだというのが真相だろう。

ただ、小生自身も若い時は子供も二人いて小さく、平日は仕事があり、カミさんも家事に忙しく 、たまの週末はどこに買い物に行こう、どこに遊びに行こう、と。そんな話しばかりで、わざわざ寄り道をして「投票しとこうか」と現実に投票所まで足を向けたのは稀ではなかったかと。そう記憶している。まあ、5回に1回くらいは投票したろうか。それも国政であって、地方選挙などほとんど行ったことがない。40歳になるまでは、正直、そんな感じであったなあと記憶をたどっている。

で、政治的関心となると、やはり必ずしも一貫していなかった。つまり「薄い」といえた。北海道に移住してからも、地元選挙区で民主党候補にいれたりしたこともあったし、カミさんの知人(おそらく創価学会の会員なのだろう)に薦められて、カミさんと二人して公明党候補に票を投じたこともある。まあ「なんとなく」であるな。

自民党に一貫して投票するようになったのは、40代も後半になってから、それとももっと後になってからだろうか。職業人生の後半が明瞭に見えてきて、自分の年金生活も時間の地平線の向こうに見えるようになった頃だ。その頃になると、何か新しい風が吹いてほしいというより、積み重ねた実績や資産や生涯設計を安定的にキープしたいと。そう願うようになった。多くの人もそうではないかと思う。まして「リセット」などはとんでもない発想で、恐怖をすら感じさせる用語である。ほんと、小池百合子という人物は言葉のセンスがない御仁だ。

小生一人をとっても政治的姿勢はこんな変遷をたどっていることを思うと、「無党派」集団を年齢、職業などで層別化するなど、より詳しい分析をすると、面白い結果が出てくるような気がする。

◆ ◆ ◆

これ以降、マクロ的にざっくりとした観点から要点をまとめてみたい。

いま日本はシルバー世代に重心が移ってきている。また、日本国民は世界でも有数の資産を形成している。政府はすでに債務超過だなどと指摘されているが、日本国全体でみるとバランスシートは極めて強固であり、だからこそ経済的危機においてはしばしば円高となる。

日本の有権者はマクロでみると「金持ち」なのだ。日本という国は世界の中では「富裕層」に属している。これはデータに基づく事実だ ー 著名なリッチマンが目立って多いという意味ではない。

日本に金融らしい金融産業はないのが実情だが、カネは持っている。だから、持っているカネを海外に運用して、どう儲けようかと。これが近年の日本国民の関心事項である。政府はイノベーションであるとか、国家戦略であるとか、さかんに旗を振っているが、カネを実際に持っている人は「お上」を信用して国内でチマチマ運用するよりも、米株とか英株に投資する方がもっと儲かることを知っている。政治家は邪魔をしないでくれと願っている。だから、「改革」などはホンネでは欲していないのである。

年金制度自体、支給のための主な財源は支払保険料の積立金残高である。その積立金の運用に株式が組み込まれてからもうかなりな年数がたった。いま運用先の4割(今でもそうだと思うが)は外国株式・外国債券になった。日本国は、家計も年金機構もどこもかしこも丸ごと、国内外に資産を運用して儲けては、やり繰りしているのだ。こんな時代であることが政治の大前提になっている。「リセット」されるなどはとんでもないことなのだ。

■ ■ ■

日本が豊かである間は、本気で「改革」や「リセット」を望む有権者はいない。というより、正しくいうと、数が減りつつある。加速度的に減っている。

なので、正直に「改革」を本気で連呼する政治家は嫌われるだけである。まして改革より過激な「リセット」などを言えば、その時点で「あれはいかんね」と。これが現時点の日本社会の現実だと思うがどうだろうか。ついでに言えば、安倍現総理が憲法改正を言い始めて高齢層に受けが悪い理由は上に述べた点と同じである。

高齢層から既得権益(=財産権として保証されている富)を奪って、若年層にシフトさせても、国民の資産が増えるわけではない ー 高齢者の富はいずれ若年者にも継承される、あるいは高齢者が生存中にすでに継承されつつある、であるので高齢者の財産権の消失は、若年層が富を失うことでもあるのだ。そのことを若年の人たちは本能的に察知している。

資産の配分を移し替えるだけではダメなのだ。あちらが燃えているからといって、かける水を此方から彼方に変えるだけではダメである。此方がまた燃えるだけなのだ。かける水量全体を増やさなければ課題は解決できないのだ。

■ ■ ■

高齢者はなるほど恵まれた年金生活を送っている。しかし、年金の過半の部分は既にもっている資産の取り崩しである。自ら形成した資産をそのまま後世代に継承する義務はない。自らの生計にあてるために公的制度によって貯蓄してきたわけだ。当然、資産を取り崩せば、金持ちではなくなる。これは若年層には損失かもしれない。しかし、若年層は高齢層が形成した豊かな社会を生まれながらに享受できている。小生の上の愚息は非正規社員としてカツカツの暮らしであるが、それでも発展途上国の同世代よりはのんびりと豊かな生活をおくっている。この経済状況は比較的最近になって日本に生まれたことによる世代的な利得である。

要するに、先に貧乏を経験して後に豊かさを享受するか。先に豊かさを享受して、後に貧乏になるか。違いはここにある。これが基本ロジックだ。それでも技術の進歩、生産性の向上への努力があれば、団塊の世代が退場した後の時点において、現在の若年層が元の貧困に戻ることはない(はずだ)。そのための「国家戦略」、「人づくり」。だから、やはり、この方向はキープしておくのが理にかなっている。

有権者は政治家が想像するよりずっと頭がよい。政治家ほど言葉が上手でないだけである。

(とりあえず)本日の結論/予想:

  • 「無党派」に若年層が多く含まれているならそれはよく理解できる。イデオロギーというより、何を最優先するべき価値であると認識するかということ。
  • 「無党派」に高齢層が含まれているなら、与党支持/野党支持の意識がない、つまり自分自身の生活基盤がよく理解できていない人たちではないか。不満がある現状を「改革」したいという願望があるなら野党を支持する理屈だ ― それが自らにとって利益につながるかどうかは別の話題。生活基盤の自覚が弱いので、政治的立場が定まらず、故に言葉に騙される確率が高いのではないかと憶測する。

2017年10月13日金曜日

メモ: 東名高速事故

東名高速道路の追い越し車線で起きた夫婦死亡事故。大変傷ましい交通事故、というより事件であり、テレビのワイドショーでは選挙期間中の自粛ということもあるのか、いつもの政治ショーではなく、こちらが主役級の扱いになっている。

捜査当局から得た情報だろう。「危険運転致死傷」ではなく「過失運転致死傷」に問われるとの報道で、これはおかしいというコメントがテレビ画面ではあふれている。

そういえば、法曹出身のコメンテーターが言っていたのは『これは未必の故意による殺人ですよ』。

まあ、一つの事件をどういう角度からみて、いかなる法を適用するかは警察と検察が協議をしながら手続きが進められているはずだ。担当検察官の力量が非常に問われる事件でもあるだろう。現場で捜査をする警察の受け取り方が検察側にどのように反映されるかも興味のある視点である。

ただ専門外の立場からいまの感想をメモしておくなら『窓から植木鉢を落とす行為であっても未必の故意による殺人罪が成立することがある。まして駐停車厳禁である高速道路の追い越し車線に意図的に停車するよう仕向け、現実に被害者が死に至っている点をみれば、未必の故意による殺人が成立するのは当たり前である』、このようにも思うのだな。

「過失」というのは、もっと注意をしていれば回避できていたはずの致死傷行為をさす。今回のケースでは「過失」というのは当たらないであろうとも感じる。

この事件を担当する検察官、そして任命されるはずの弁護側。やりがいのある、「面白い」というと誤解を招きそうだが、公判の審理には非常に興味がそそられるのが事実。

それにしても、この捜査経過情報。警察側から出たのだろうか。検察が過失でいくという線に不満でもあったのか・・・よう分からぬ、いささか奇妙な雲行きである、な。テレビと世論に押されて、というか迎合して、検察側が罪名を途中で変更するというのもカッコ悪い。信頼にも傷がつく。どうするのだろう。この点は「面白くなってきた」と言っても問題はないだろう。

2017年10月12日木曜日

憲法論議七不思議の一つ

選挙期間ということもあって憲法論議が盛んである。

何かと言うと9条ばかりについて議論をしている。

昨日など、投票権が18歳以上に引き下げられていることもあって、ある高校の期日前投票所の風景が放映された。と同時に、憲法改正に関連した講演(講師は誰であったかな・・・)も挿入されていた。聴き手は高校生である。

エエ〜、みんな憲法というものの存在意義はなんだと思う?それはですネエ、憲法は国家権力を縛るもの、国民は自由、国民は憲法で縛られないんです、そうではなく権力を縛る。それが憲法なんですネ。憲法というものはそのためにあるんです・・・

イヤハヤ、マッタク、何だかそんなことをしゃべっていた ー とてもではないが、「話していました」などという礼儀を守った表現を付与する気にはなれませぬ。まあ、「公民」の授業がきちんと行われていれば、こういうアジ演説のような邪説の誤りは高校生もすぐに気づいていたとは思うが。

放送するテレビ局もテレビ局である。やはり『頭脳は新聞社にまかせ、テレビ局は肉体で稼ぐ』、今でもそんな風なのだろうか・・・。

◆ ◆ ◆

憲法30条の規定を引用しておく。
国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負う。
いわゆる納税義務の規定である。

憲法は国家が国民に提供する公共サービスのコストのうち、何パーセントを税として負担するべきであるとは定めていない。しかし、日本国憲法施行後、戦後日本ではずっと赤字国債はタブーとされ、昭和40年度までは均衡財政が守られていたことを思い出せば、憲法30条の規定する「納税の義務」とは、基本的には公共サービスの費用は国民が責任をもって税として納付する主旨である、と。そう解釈するのが自然だと思われるのだ。

まして国家財政のうち3分の1が税ではなく、必要な税率引き上げをしぶり、一部の富裕な国民、投資ファンドなど金融機関、外国人、あるいは日本銀行に国債を購入してもらう形で財政資金を調達している現状は、そもそも憲法30条に違反していると。小生はずっとそう考えている。

国民もまた義務を負い、憲法には縛られるのである。疑いの余地なし。納税の義務のほか、憲法はあと二つの義務をも定めている。憲法は権力だけを縛るものではない。

というか、<国民主権>である以上、権力を縛るイコール国民を縛る、こう言っても可であろう。いかに「国民の名において」ではあれ、やってはいけないことを定める。それが憲法である。こう言ってもよい。本当に主権者が国民で、日本国憲法が真に<民定憲法>であれば、こう考えるしか考えようがないであろう。

『憲法は、権力を縛るのであり、国民は縛られない』という意見が、なぜいつまでもテレビ界の「常識?」としてまかり通っているのだろう? これ、七不思議じゃ、ずっとそう思っているのである。不思議じゃ、ほんとに。

◆ ◆ ◆

で、9条の話題に戻る。いかに日本人が国民の名において「許せぬ」と思う場合でも、現行の9条ある場合は絶対に武力の行使は許されない。そう書いてある。自衛権云々は戦後日本で発達した屁理屈だ。国民の名における場合でもできないのだから、政府も理の当然として出来ないのだ。これが本筋のロジックではないか。

「できない」と憲法に書かれていることを「こういう場合ならできる」と政府が言っているのは、国民が本当はそう考えたいからである。結局のところ、政府は国民の写し絵にすぎない。なので、ロジックとしてはおかしいと感じることも、結局は通る。定着して、これで良かった、理にかなっている、と。

本当は縛られるべき国民が、縛られたくないと本当は思っている。だから『国民は縛られないのです』と堂々と語る人が出てくる。『縛られるのは国民ではなく政府です』という理屈を選ぶ。国民はフリーだと結論づける。実は最も危険なチョイスであるのだが、戦後日本社会の本質はこんな風に要約してもそれほど間違っていない。そんな気がしているのだ。