2018年1月16日火曜日

一言メモ: TVワイドショーへのいつもながらの苦情

TVのワイドショーというのは、(先日も使った表現だが)『ほんと、日本というのはトンデモナイ国だよなあ』という韓国の人たちの反日とすごく似ていて、『ほんと、今どきのワイドショーっていうのは、とんでもない番組だよなあ』と、そう口にすると大体の人と感覚を共有できる。そんな時代である。

韓国と北朝鮮が平昌五輪開催を前に雪解けブームである。ワイドショーも例によって、視聴率のあがる世間的話題に集中する癖があるので、これをとりあげている。

気になった下り:

それにしてもですよ、これまで喧嘩をしてきた隣の国が、急に笑顔になって、やあやあと。 
いや、韓国は本音では北朝鮮とネ、同じ民族ですから、仲良くやりたい。そんな思いがあるわけですよ。 
へえ~~~っ!でもね、国際社会の動きとは逆ですよね。北朝鮮ですよ。 
それでもネ、相手が笑顔で家から出てくれば、こちらもニコニコとネ。根は同じ民族なんですから。 
へえ~~~!
何が「へえ~~~っ」ですかね。

分断国家の悲哀は決して体感的に共有できるものではないが、第2次大戦敗戦を機に、もし東京以北の日本本土と、中部地方以西の日本が分断され、主義も歴史も違ってしまって、再統一までの道筋もおぼつかない。そんな想像をすれば、やはり独特の悲しさや無力感は想像できるのではないか。もしそうなっていれば、いまの北方領土どころではないだろう。アメリカもロシアも中国も、(そしておそらく日本もそうに違いないが)、朝鮮半島の分断の継続を本心では(なぜか)望んでいる ー 決して口には出さないが。そういう韓国と北朝鮮が、たまに巡ってくるオリンピックを口実に、つかの間の平和攻勢を演出するとしても、『あからさまに五輪を政治利用するなど本当にいいんでしょうか?』と目くじらをたてることもないのではないか。もともと古代ギリシア世界のオリンピアはそんなものだったのだ。一時休戦をして、オリンピックの後はまた戦火を交えていたのだ。それを『スポーツの祭典と政治をごっちゃ混ぜにして」などというのは、実に「ケツの穴の小さい」、料簡の狭い言い草であると感じる。

朝鮮半島の現状には、日本も相当の責任があるだろう。確かに朝鮮戦争そのものには交戦国としては参加していないが、アジアにおいて戦後もずっと活動してきた米軍の後方支援基地は何を隠そうこの日本であったことを思えば、「我が国はずっと平和国家で来たわけですから」などとはヨク言ウワ。まったくの偽善。偽善も偽善のコンコンチキである。加えて、1910年から45年までの歴史問題もあるからややこしい。朝鮮半島の現状に(直接的責任は小さいとはいえ)日本は濃厚に関係している事実にかわりはない。

それを『へえ~~~っ』とはねえ、高校の社会科をもう一度勉強した方がいいのじゃないか。そう感じた次第。

2018年1月15日月曜日

「センター試験」を改革できるのか?

最後のセンター試験監督をした。

第1回は、まだ「共通一次試験」と言われていた時分、役所から大学に出向していた身分の頃に遡るから、もう25年以上は毎年正月明けに試験監督をしていたことになる。

ずいぶん長くしてきたなあ、というのが今の気持ちだ。と同時に、もういいんじゃないという気もする。うんざりと言ってもいいくらいである。

***

センター試験はマークシート方式であり、あれでは真の知力・真の学力は測定できないなど、世間ではもっともらしい意見が提出されている。

ちなみに小生は、マークシート方式であるから真の知力・真の学力が正しく測定できないとは思っていない。

確かに、個別大学の二次試験は記述試験が中心だ。それは何も真の知力・真の学力を正しく測定したいというのが唯一の理由ではない(はずだ)。

マークシート方式では最後の答えだけを求めるがゆえに、答えが間違っていると自動的にゼロ点になる(この点も単純にこうだとは言い切れないのだが)。あと一歩で正解に到達するところであった受験生も、半分程度は正解までの道筋を辿っているものも、まったく箸にも棒にもかからない者も、答えが間違っていたら一律にゼロ点になる。正解を得た者だけがプラス得点になる。

一回でも採点業務を経験した人であれば、とっくに分かっていることだが、こんな機械的採点だけで試験問題を構成すると、ゼロ点附近に大半の生徒が底だまりしてしまって、成績評価が非常に困難になる。特に思考力を問う良質の問題であればそうなる ー だからマークシート方式では低品質の問題しか出せないという事情は確かにあるだろう。合格者を十分に増やすためには、わずかな違いも得点差に反映するように問題を作っておく方がよい。回答だけではなくプロセスを部分評価する必要がある。だから記述式問題になるのだ。解答までには至っていないが、『ここまで出来ているなら、7割はあげるか、これは・・・まあ3割かな』と、そんなニーズが採点業務、入試業務にはあるのだ。

マア、もっときめ細かく評価するべきではないかというのは確かに説得力がある。マークシート方式なら「まぐれ当たり」が出るでしょうというのはその通りだが、そんなことを言えば、記述式の解答であっても、ある所でおかしなことを書き、別の所で元の正しい筋に戻っているものの、全体としては論旨が破綻しているなど、多分に「運任せ」、「知っていることを並べただけの答案」というのが山のようにある。マークシート方式より記述式の方が真の知力・真の学力を測定できるというのは、あまり採点業務をやった経験のない人が信じがちな思い込みであると思われる。

学力抜群の受験生は、記述式であろうが、マークシート方式だろうが、それが正解のある試験問題である限り、ちゃんと正解に到達して高得点をとるに決まっている。単純なロジックだ。本当は、この最上層の部分を抽出できれば、あとはどんな方式でもよいのではないか。

試験の得点が評価方式によって変わるのは中層以下の受験生である。試験の得点と将来性はそもそもあまり相関はないとみられる。ならば、どんな方法にせよその出題方式がベストである方式などはあるまい。合格者のうち3分の2程度は運がいいから合格する(と言われている)。だとすれば、出題方式にそれほど執着する必要などないのではあるまいか。とすれば、効率的な方式の方が客観的にみて良い方法だ(と個人的には思われる)。

小生は到達点としてこんな風に「入試」なるものをみている。

***

だから記述式問題を中心とすることがなぜ試験改革になるのか。小生はよく理解できない。

まあ、国語などは選択肢の中から適切なものを選ぶより、書かせてみるのがよいという人もいるかもしれない。歴史や地理も考えるという作業が最も大事であることはそうだろう。しかし、だから記述式問題を出せということにはならないだろう。設問の構成によっては、誘導式かつ機械式に回答させることもできる。

***

マークシートか記述式かの不毛な論争より、改革してほしい問題点はある。

まず答案枚数の確認だ。100人を超える試験室で回収した答案枚数が事前に報告した受験者数と合致しないときは悲惨である。焦ると数えなおすたびに違った数になる。センター試験は、時間的ゆとりが極端に少なく、少しでもマゴマゴしていると、次の受験科目までの休憩時間がなくなってくる。

回収した解答用紙をクリップではさむと、ドンピシャリ、枚数を瞬時に計測できる小道具があれば、何と効率化されることだろう。

このくらい、日本の電機産業の技術力があれば出来るだろうと思う。現在は、試験室と大学ごとの試験本部が総がかりで手で枚数を数えている。

もう人力をあてにした単純作業は改善しませんか、というのが第一点。

第二点は受験者数の数え上げだ。

受験科目は事前に登録するのだが、当日の受験者数が受験予定者数に一致するとは限らない。なので、試験科目ごとに受験状況調査をする。その結果は、東京にある入試センターに連絡するのだが、小生はまず室内の通路を歩き、空席になっている席があれば、その受験番号を欠席とする。そうして室内調査の結果から 「受験予定者総数マイナス欠席者数イコール出席者数」を出す。その後、試験室内の座席を1列ごとに何人の受験生が着席しているかを指で数え上げる。全ての列の合計人数が先に出した受験者数と合致すればよし、合致しなければ再度室内を歩き、欠席者の数に間違いがないかどうかを確かめる。こんなバカバカしいほどの数え上げ業務に各科目で15分ないし20分はかけている。多分、全国のすべての入試センター試験試験室で同じ単純業務が行われているに違いない。

何と不毛な業務形態だろう。

もしスマホのカメラを各列に向ければ、画像解析によって人数を即座に教えてくれるアプリが開発されれば、上の答案枚数測定器具とあいまって、試験監督業務は飛躍的に効率化されるだろう。

***

休憩中に同じ試験室で監督をしている同僚たちに話すと、非常に受けて、それより天井にWEBカメラを設置して、上から受験生の動きをモニターできるようにすればあとは人工知能(AI)で不審な動きは検出できますよとか、スマホのアプリなどよりは天井のWEBカメラのほうがずっと正確に人数を数えられるはずだ、と。そんな話も出た。

受験生が写真票に貼っている顔写真をみながら、毎試験科目で写真票照合をするのだが、正面から顔をみてもいないのに正確に照合できているかどうか分かったものではない。それよりは、写真をデジタル化しておき、受験生が正面をみている試験前の段階で顔認証をすればずっと容易だ。群衆の中からテロリストを顔情報から検出できる時代だ。大学入試の本人確認は何と原始的で、非効率なのだろうと感じるばかりだ。

***

本当に良いかどうかも曖昧な問題形式変更にエネルギーを投入するより、プラスの効果が明確に期待できる分野に時間と労力とカネを使うべきだと感じる。

ツベコベ不平を言わず、そんな暇があったら、手足を動かして勤勉に働いてください、と。このスピリットが余りに濃厚であるために日本が世界に対して出遅れた分野は数多くあると思うのだが、どうだろう。

何事も長所と短所は表裏一体だ。長所はすなわち短所であり、短所はすなわち長所なのである。手間暇を惜しまないという性癖は、確かに長所である一方、進歩への反対論にもなりうるのだ。

2018年1月12日金曜日

「予報屋」はインガな稼業ときたもんだあ~

北海道の厳冬期における願いは吹雪の到来を早めに知りたいということに大体尽きる。

想定外の吹雪は、除雪の遅れ、JRの混乱、高速道路の閉鎖、一般国道の不通、出勤困難など、あらゆる分野で混乱が生じる。

いま暮らしているマンションの管理人は、何かというと『天気予報と違うじゃないか・・・』とぼやく。駐車場の除雪を外部の業者に委託しているので、どのタイミングで除雪車を呼ぶのか、天気予報が頼みなのだ、な。

ともかく北海道では『ほんと、天気予報って当たらないですよネエ』というのは、韓国の人が『ほんと、日本ていうのはトンデモナイ国だよネエ』という反日とたぶん似ていて、その場にいる誰もがうなづける共通の話題なのである。

予報屋なんてインガな稼業である。

◇ ◇ ◇

今週は週初めから今冬一番の寒波がやってくると、小生がいま暮らしている道央地域でも暴風雪警報が発令されていた。

しかしながら、事後的には風はビュウビュウと吹き荒れたものの雪の方は大したことはなかった。

テレビやインターネットで確認できる天気予報を視聴していると、リアルタイムといえば印象はよいのだが、ありていに言えば毎日言うことが変わっている。

言うことが変わるのは、昨日には分からなかったことが今日は分かったということなのだが、予報屋さんは決して「こうなるとは分かりませんでした」と口にはしない。

しかし、本当は分からなかったのだと思われる。予報とは可能性の議論であり、どうなりそうかという予測を範囲でしか言えないはずである。一点だけを示す点予測の信頼度など最初からゼロに決まっているのである。

◇ ◇ ◇

景気予測も一種の予報である。しかし、景気予測にせよ、株価予測にせよ、たとえば東証日経平均であれば<○○円~△△円>と範囲をつけるのが普通である。しかも数人、数機関の予測範囲を並列して伝えるのが常識になっている。

ところが天気予報は『明日は多分こうなります』と言うことが多い。だから、暮らしている町の狭い区域の住人から見ると『また外れやがった』となることが多い。

大体「北海道では雪が激しくなるでしょう」とよく言うが、苫小牧や白老などでは今でも雪はほとんど積もっていない。北海道は東北地方と関東地方を併せた面積とほぼ同じなのだ。一律には言えないでしょう。

予報を伝える伝え方は科学的に間違いのないものであってほしい。

何と言っても、天気予報はエンターテインメントでもなく、娯楽でもないのだ。

2018年1月11日木曜日

一言メモ: 「慰安婦合意は間違った合意であった」と日本は認めうるか?

予想されていたことだが、韓国の文在寅大統領は2015年12月28日に日本政府と朴槿恵前政権との間で成立した慰安婦合意は「間違った合意であった」と語った。

具体的にはまず元慰安婦達を大統領府に招き以下のように直接的に謝罪した。
文在寅(ムン・ジェイン)大統領が4日、慰安婦被害者を青瓦台(チョンワデ、大統領府)に招請して昼食会を開き、韓日政府間12・28慰安婦合意が「間違った合意」だったとして公式謝罪した。
(出所)中央日報(日本語版)、2018年1月4日17時4分配信

その後、間違った合意ではあるが再交渉は求めないとして以下の発言をしている。
従軍慰安婦問題を巡る日韓合意は両国間の公式的合意という事実は否定できないが、誤った問題は解決しなければならない。
(出所)産経ニュース、2018年1月10日配信

韓国では意見が割れ、日本では概ね批判的な反応が多いようだ。

***

韓国が公式に表明したこのような認識を日本政府が共有することはロジックからして不可能であろう。

なぜなら、「間違った合意をした」と日本政府が認めるなら、日本としても「間違い」を犯したことになるからであり、当然の論理として日本の外交責任者の責任問題につながるからだ。合意成立時の外相であったのは岸田政調会長であり、次期首相に最も近い人物と目されている。論理としても、人間関係からしても、無理な筋である。

大体、韓国はすべての失敗の責任を前政権にとらせることができるが、日本では政権が交代しているわけではなく、総理も同じである以上、上のような「間違い」を認められるはずがないとは、最初からわかりきっていることだ。

いや、むしろ話はこうなるかもしれない。韓国が「間違い」だとする内容の合意案に日本が合意したのは、それが間違いだと日本は分からなかったからである。韓国が「間違いではない」とする合意案が実は「間違い」だと日本は思わなかった、つまり日本は騙されたことになる。故に、合意に基づいて日本が支出した10億円を韓国はだまし取ったことになる。こんな主張も相当の論理を有しているだろう。

更に挙げられる。もし朴・前政権の間違いは文・現政権の責任ではないという論理を認めるなら、戦前期・日本政府の責任を占領期を経た後の戦後日本の政府に求めることも無理になるのではないか。70年前になる戦前期の行為の責任を韓国が日本に求めるなら、2、3年前の行為の責任を日本が韓国に求めてもよいだろう。


***


色々な観点から無理筋ともいえる無理押しをあえて韓国政府が採ったのは、消去法によれば残されたたった一つの選択肢であったからだと思われる。

この件に関しては日韓の外交当局の間で何の水面下におけるすり合わせもしていない(はずだ)。勝機の検討もなく、正にぶっつけ本番。日本の真珠湾奇襲と同じであるのが奇妙である。

「まあ半年か一年は暴れてみせましょう、しかしその後はわかりません」。これと同じだ。「行くしかないだろう」という点では今回の韓国外交は特攻作戦と同じだ。「正義は我にあり」の道を高々と歩こうと高揚している可能性がある。

あるいは先日投稿したように、韓国は既に中国の外交戦略の一駒になっているが故に、真の目的である中国の国益(≒アメリカの損失≒日本の損失)が韓国の利益としてトリクルダウンすることを期待している、こんな可能性もあるのかもしれない。ならば事大主義である。名誉ある降伏を考えてばかりいる敗北主義的作戦であるともいえる。

いずれにしても、今回の韓国外交は非正規的な戦術であるには違いなく、何かに差し迫られて選びとった結果であるのは確実である。

ということは、日本もまた韓国を外交的に追い詰める姿勢をとっていたということではないだろうか・・・。だとすれば、開戦前夜のアメリカ外交について一部に批判があるように、足元における日本の対韓外交にもまた批判に値するいくつかの点がある、と。そうも言えるかもしれない。

ここまで書いてきて、何となく旧・民進党代表の前原代表が自党凋落の危機に直面して選び取った捨て身の作戦を連想してしまう ー まったく関係はないのだが。あれもまた、後を考えない一期一会、オールインのギャンブラー戦術だったネエ・・・。両方とも相手のある話だ。文在寅さん、北に騙されなければいいけどネエ。人を騙して苦境にたつと、今度は足元を見られて自分が騙されるものだ。

2018年1月10日水曜日

北朝鮮のミサイル開発: アメリカは自国ファースト、東アジアは捨て駒なのか?

アメリカのグラハム上院議員の発言が、昨年も押し詰まったころ、世を騒がせたことがある(少し古いが)。
トランプ米国大統領に近いとされる共和党の重鎮、グラハム上院議員の発言が日本にも波紋を広げている。「北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)との戦争になれば韓国や日本などで100万人規模の犠牲が出かねない」というCNNテレビでの質問に、「大統領は(日本や韓国の北東アジア)地域より米国を選ぶ」と答え、「北朝鮮のICBM級核ミサイルの完成前に米国は、日本に100万人規模の死者が出る恐れがあっても軍事オプションに踏み切る」とのトランプ政権の方針を語ったのだ。

しかも日韓が“捨て石(盾)”となる「米国本土防衛作戦(軍事オプション)」は、既に米国内にかなり浸透、可能性がさらに高まっているとの見方がある。

(中略)

野党はどうか。「先制攻撃は国際法違反。認められない」と指摘した枝野幸男・立憲民主党代表は安倍首相の対米従属ぶりを批判したが、大塚耕平・民進党代表もグラハム上院議員の発言について、安倍首相に「米国は『自国の利益を犠牲にしてでも他国、たとえば日本の利益を守る国だ』と思っているのか」と聞いても明確に答えなかったと指摘した上で、「(米国第一で日本国民二の次の)不安を国民が持つのはあり得る話なので、(安倍首相)自身の考え方を可能な範囲で述べる努力を求めたい」(7日の会見)と述べた。
(出所)BLOGOS、2017‐12‐25
(URL)http://blogos.com/outline/267482/

『米国は「自国の利益を犠牲にしてでも他国、たとえば日本の利益を守る国だ」と思っているのか?』と。この質問の思いは分かるが、日本の利益を犠牲にしてでも、他国を守る覚悟のある日本人などいるのか?? 自分ができそうもないことがアメリカ人には出来ると期待する方が奇妙、というより奇妙を通り越して奇っ怪である。

自国を守るための同盟である。論理的に言えば、それはお互い様なのだ。日本は日本ファースト。アメリカはアメリカ・ファースト。当たり前である。単独でいるよりは集団化すればリスクは(色々な意味で)減るということの分かりやすい一例に過ぎない。複雑な議論など(本来は)必要ないのだ。

上記文章より少し遡るが以下のような報道記事もある。
北朝鮮の長距離弾道ミサイル開発問題では、早ければ来年にもベルリンやパリ、ロンドンといった欧州の主要都市が射程内に入る可能性が指摘されている。だが、現行の欧州ミサイル防衛システムでは迎撃できないと、外交筋や専門家は警告している。

米政府は、構想から10年以上が経過する欧州ミサイル防衛について、欧州を「ならず者国家」から守るために必要だと繰り返し説明してきた。米当局者がこの言葉を使う際、それらは北朝鮮やイランを指す。

ところが専門家によれば、北大西洋条約機構(NATO)が北朝鮮のミサイルを迎撃するためには、より多くのレーダーと専用の迎撃ミサイルを配備する必要があるという。

(中略)

だが北朝鮮の弾道ミサイルを撃ち落とすには、開発中の新型迎撃ミサイル「ブロック2」が必要だ。このミサイルは、弾道弾をより早期に高い高度で迎撃できる性能を持つ。

だが2018年に完成予定のブロック2は、米アラスカ州やカリフォルニア州、日本や韓国への配備が欧州より優先される可能性が高いと、前出のエルマン氏は話す。同氏は「同盟各国が競ってブロック2を求めることになるだろう」と予想している。

(出所) ロイター、2017年9月13日

アラスカ州もハワイ州もアメリカの領土である。グアム島もアメリカの準州だ。故に、アメリカ・ファーストの対象となる。しかし、欧州はアメリカではない。

なので、北朝鮮のミサイルに対してヨーロッパが脆弱であるとしても、アメリカ政府の責任としてその国防、いやいや防衛に努力する義務はない。であっても、欧州はやはりアメリカに期待している。アメリカもヨーロッパの防衛に誠意を尽くすだろう。それがアメリカの利益につながるからだ。

ところが、アラスカ、カリフォルニア、日本や韓国に防衛システムは優先配備されるとヨーロッパからは観察されている、というわけだ。それがアメリカの利益にかなうとヨーロッパからは見える(ということだ)。

◇ ◇ ◇

「やってもらう」ことをまず頭に思い浮かべるヒトは、福沢諭吉が『学問ノススメ』で述べているように国にとっては「客分」、つまりは「お客さん」である。

お客さんには、何かして下さいと頼んでも無駄である、そもそも立場も意識も「周囲の他人のためにいま何かをする」ということとは無縁なのである。

「イの一番にやってくれるのか?」と相手の誠意を不安視するのは、相手をパートナーではなく、自分が弱い立場、相手が強い立場。自分が下、相手が上。要するに、相手を店主か主人のようにみているからだ。友人を相手にこんな不安は(普通)感じないだろう。

つまり「客分」として自分のポジショニングを定義している。


決して裏切ることのない忠実な臣下がいてくれるなら、危機に直面したとき、『そこもとは〇〇をせよ!』と下知を伝えればそれで十分だ。累代の臣下は『ハハ、畏まって候』とただ一言で承るだけだ。ここには(建前としては)不安はない。封建の道徳とはこういうものだった(と思う)。

現代の世界では、「役に立つから」同盟関係にある。役に立たなくなれば、同盟は不要だ。自分に言えることは相手にも言える。自分の不安は、相手の不安でもあるのだ。

危機になったとき、アメリカは日本を守るだろうか?
危機になったとき、アメリカは日本を守るだろうと日本は考えるだろうか?
危機になったとき、アメリカは日本を守るだろうと日本は考えているとアメリカは考えるだろうか?
危機になったとき、アメリカは日本を守るだろうと日本は考えているとアメリカは考えると日本は考えるだろうか?
以下無限に続く・・・

相手に対する不信は、そもそも最初から最後まで日米双方ともにもっているのではあるまいか?

実際、日米二国は(いかに粉飾するとしても実質的には)日米軍事同盟ともいえる関係にずっとあるが、その同盟は第2次世界大戦後、一度として本当の意味で試されてはいない。


◇ ◇ ◇


見捨てられることを不安視するのは、自分は相手の役に立つから相手と協力関係にあると自分が思っているからだろう。なぜそう思うのか。本当は、相手が自分にとって役に立つから自分は相手と協力関係を結んでいるからだ。

道具は無用になれば切り捨てられる。自分がそうしようとそもそも思っているのである。だから不安なのである。しかし、相手はそうは思っていないかもしれない。

『見捨てられるのではないか』という不安は、自分の側に『いざとなれば見捨てても仕方あるまい』と、そんな思いがあるからだ。

自分の側の心理が自分の不安に投影されているだけのことである。

2018年1月8日月曜日

「井戸端会議=忘れ去っても構わない会話」と定義するなら・・・

Evernoteは実に便利で重宝している。昨年の春から初夏にかけては、あらゆる森友不祥事、加計学園問題に関するネット上の記載に、 "temporary"  というタグを付けて、Evernoteに保存しておいた。が、その大半は再度見直すこともなく、今後は不要と思われたので、先刻、Evernoteから全て削除してしまった。

中にはこんな記事もあった。日経の記事である。

経団連の榊原定征会長は5日の記者会見で、学校法人「加計学園」が国家戦略特区に獣医学部を新設する計画が国会審議の主要テーマになっていることに苦言を呈した。「集中して議論してほしい項目が山ほどある。優先順位からすれば加計学園ではないだろう」と述べた。榊原氏は国会で優先的に議論すべきテーマとして、北朝鮮問題やテロ対策、環境政策をあげた。
(出所)日本経済新聞、2017年6月6日

経団連会長まで発言していたんだねえ・・・ 忘れていたが。

◇ ◇ ◇

正論を述べても、マスメディアの編集陣は頭の中が真っ白で、思考力を喪失していた、そんな世間の雰囲気が察せられる。後から振り返ると、「なんで俺たちあんなにバカだったんだろうな?」と口にしたくなる時期というのはあるものだ。1940年から41年にかけての日本の政界、官界、軍部、マスコミ、国民すべて、ある種の感情に理性がマヒしていたと言えばいえるのか。まあ、それと同じだ。

ただ、違う点もある。戦前期の開戦前後の詳細はこれからも何度も検討され研究されていくだろう。それほどにまで重みのある混乱であったから。しかし、おそらく2017年の春から夏にかけての紛糾は、登場人物こそ総理大臣とその夫人、文部科学大臣、官房副長官、前事務次官など大した人たちであるが、長期的には記憶としては残らず、その詳細を研究してみようと思う歴史家、政治学者は今後もまずは現れそうになく、ただ時間だけを浪費したくだらない事件として、最後には忘れ去られていく ・・そんな気が今からするのだ、な。

結局、世を騒がせた事件ではあるが(まだ終わっていないと食い下がっている人たちはいるものの)、例えば「バブル崩壊」などとは違って、この件を調査した名著のような書籍は多分現れず、現れても残らず、やがて絶版となり、おそらく<平成期大事件百話>などにも入らず、あと30年もすれば、「なかった事」と同様の状態に収束していくであろうと予想する。現代日本社会を舞台にした、いわば<日の丸を背負った壮大な井戸端会議>であった、と。いまはそんな空しい感覚を感じている。

本当にこれを<付加価値>というのか?

なんの成果も残さず、なんの痕跡も残さず、時代の進む方向を1ミリも変えることができず、ただ声高に騒ぐだけであった・・・とするならば、現代社会でマスメディアに投入されている人的・物的・貨幣的コストは一切が無駄であった、そもそもがエンターテインメントとしての娯楽的消費であったと、そう批判されても仕方がないのではないだろうか。

東芝をつぶす、シャープをつぶす、山一證券をつぶす、拓銀をつぶす・・・民間企業なら運営の上手下手は会社の存否に直結する。しかし、マスメディアというのはどんなプラスの価値を提供しているのか明瞭でない。なので、こうした途方もない浪費がときに生じるのであろう。

ただ、マア、ケインズは『カネを埋めて、それを掘り返すだけでも雇用のためにはやる価値がある』と言っている。これは極端なまでの「有効需要の原理」の説明である。が、いまは人出不足の時代である。生産性の向上が重要な時代だ。マスメディアによる巨大な浪費は避けるほうが理に適っていて望ましい。もっと地頭のよいプロデューサーに番組編成をさせよという要求は、優秀なエンジニアが技術開発に参加することが重要だというのと、まったく同じ意味である。これまた、全要素生産性の向上率が国民の豊かさをもたらすという経済学的原理の一例である。

たかがEvernoteのメモ整理。ではあるが、何かをすれば何かに気がつく。

時には<棚卸し>というか、情報の大掃除をするのもいいことだ。



2018年1月5日金曜日

こんな怪しげな指摘が横行している怪?

朝刊には色々な雑誌の広告が掲載される。その昔、新聞の広告欄と求人欄が最も有益な情報であると喝破した大先輩がいた。これらを詳細に吟味すると、バイアスのない、真の情報が読み取れると語っていた。

小生は紙媒体の新聞はとっくに放棄してしまったが、株価や商品市況欄は大学の食堂や町の喫茶店に新聞が置いてあれば、今でも必ず目を通して何度でも読み返す。ReuterやBloombergでも毎日確認している。

そもそも新聞が存在した理由は、こういう純粋に客観的な事実情報が整理された形で早く手に入る。この点にこそあったのではないだろうか。記者が文章を書く報道記事は歪曲や偏向が(少なからず?)混在しているにしても、先入観を込めようのない事実報道は今でも非常に役立つものである。

今朝の朝刊である月刊雑誌の広告に目を向けるとこんな文字があった:


  • 県庁で「赤旗」を購読する怪
  • 「朝日」や「赤旗」を公費で購読しているのはなぜ

アホらしいので雑誌を買ってまで本文を読む気はない。が、上の宣伝文句とその他記事の傾向をうかがうと、どうやら「私たちの税金」で「赤旗」なる共産党の機関紙を定期購読するのは不適切であると言いたいらしく思われる。同じ趣旨で、「朝日」や「赤旗」のような特定の政治的立場にたつプロパガンダ紙は、公費で定期購読するべきではない。多分、税金でうえのようなメディアを発行する企業・団体を支援するなどとんでもないことである、と。どうやらそんな主旨であると思われたのだ。

まったくヤレヤレというものでござる。精神年齢がここまで幼稚化しているのは、文字通り慄然とする思いでござる。「だからこそ、必要なのだ」という大人の思考は、「汚くて、ずるい」としか感じられないような世代が育ちつつあるようだ。


太平洋戦争がはじまると、明治初年にあれほどまで燃え盛った英学熱もどこへやら、「鬼畜米英」がしゃべる言葉を勉強するなどまかりならぬ、と。洋楽など聴いてはならぬ。野球のストライクなどは「よし一本」と言え、と。亡くなった小生の父は、戦時中に官僚たちが押し付ける新方式がいかに非生産的でバカバカしいものであったか、友人たちと散々にバカ扱いしていた。そんな思い出話を何度聞いたか分からない。

同じ時期にアメリカでは憎き敵国・日本を打倒するために日本語学習熱が高まり、日本研究の盛り上がりの成果として名著『菊と刀』、人材としては川端康成の紹介者であるエドワード・サイデンステッカーや永井荷風に心酔したドナルド・キーンなど、実にハイレベルな専門家が輩出し、彼らこそが戦後の日本文化の国際化に大いに貢献したのであった。

彼我の間のこの大きな器の違い。本当に何とかならないものかと、暗澹たる情、この上なく、まことに情けなく感じおり候次第。国小さければ人も小さく、心も小さくなるものなりと、かく言われればその通りかと納得する塩梅にも御座候が、小国弱国からも偉人は生まれ出ずるものなれば、やはりこれも我が国の歴史文化生活に由来せるものかと、かく思案いたしおり候。

ま、こんな感じになった。