2017年11月18日土曜日

「政治ドラマ」、「政治俳優」、「政治女優」の時代なのか?

選挙に勝った<立役者>だというので小泉進次郎議員がブレーク中である。そうかと思うと、こんな記事も出始めた。

報道陣から代表辞任の思いを問われ、「日本と、そして東京が良くなることなら、なーんでもしたい」と意気軒昂だったがこの人の心変わりは速い。知事の任期を全うするかどうかも分からない。

(出所)産経ニュース、2017年11月18日配信

言うまでもなく小池百合子都知事の近況である。

政治が現実そのものであるという実感を喪失して、どこかで上演されているドラマに近いような感覚で聞くようになると、必要なのはワクワクさせるようなストーリーと、ストーリーの中で演技をする俳優と女優である。

前に投稿したように、元キャスターである小池百合子はマスコミがうんだ最上級の政治女優であった。 しかし、同女史はプロデューサーであるマスコミが期待する言動から外れて、勝手なことを発言し始めたので、役を降ろされた。あとは失墜の行く末が待つだけである。転落した大女優もまたマスコミ好みの主題なのである。

小泉進次郎も政治俳優の道を歩むつもりなら転落が近いだろう。

安倍総理はマスコミの脚本を演じるつもりはハナからないようだ。今の日本社会ではそれが正解だ。

予想だが、小池百合子女史は近い将来に「平成無責任女」と呼ばれるようになるのではないだろうか。マスコミがそう名付けるのではないか。かつてマスコミは植木等を「昭和の無責任男」と呼んで、一大ヒットを飛ばしたものである。平成無責任女・小池百合子を完成させるのは都知事辞任(→海外の大学客員教授就任?)劇をおいて他にない。

政治ドラマを考えているマスコミはその方向でいまシナリオを検討中だろう。いま、小生、そんな想像をしている。もしそうならば、先ごろから本ブログでも何度か投稿している「小池女史=嘘つき魔女」よりももっとタチが悪い悪ふざけであると思ったりする。

なぜそんな悪ふざけをするのか? 視聴率が上がるからである。販売部数が増えるからである。儲かるからである。ただそれだけだと小生は思ってみている。

実に、国家の政治が少数の私企業の損得計算に支配されている。憲法で保障された表現の自由には当てはまらない問題のはずである。表現の自由とは思想や信条、信教に関する個人の権利のはずである。私企業の利益とは関係のない、もっと基本的な概念のはずだ。しかし、誰も何も言い出せない。

情けない状況になってきた。

2017年11月16日木曜日

裁量的な行政 vs 恣意的な反対

この春から紛糾してきた加計学園獣医学部の新設が大学設置審で認可され来春には開校の運びとなった。

これで事態は収束に向かって間もなく一件落着かと思われたが、ドッコイドッコイと言いたいのか、野党はまだなお徹底追及する構えを見せている。土俵際で倒れながらも、背中に砂が付くまでは「まだ負けてない」と、そんなスタイルであるな。

野党の頑張り自体は尊敬に値するものだ。野党が無気力になれば、民主主義そのものが腐敗してしまう。とはいえ(公平な第三者で構成されると想定するべき)審議会の結論自体を認めない、その結論に沿った行政府の事務執行にまで国会が異論を挟むようになると、行政が停滞する。さらには立法府が行政府の事務にそこまで介入できる権限があるのかという問題も出てくるだろう。

行政権は行政府にある。明確に法律に反している、あるいは立法趣旨に反している時は、立法府は行政府の行為を変更するべきだ ー 行政組織、行政法分野には、小生、素人だが、多分、間違っていない。違法の場合は国会が取り上げる以前に即刻判断がつくはずだが、関連法制の趣旨に照らして不適切であるならば、不適切であると判断するプロセスが国会の場で必要だ。多分、そのプロセスも多数派である与党に影響されるだろう。それが選挙というものではないか。委員会の質問の場で政府の不適切を指摘することも当然ながら可だ。しかし、不適切の有無は法に沿って指摘するべきであり、「なんとなく感じが悪い」などという修辞や誇張は野党の信頼性を落とすだけだろう。

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どうやら野党は獣医学部新設に関わる石破4条件に反していると。この線から攻勢をかけてくるという報道だ。

そもそも石破4条件というのは、2015年当時に地方創生担当相であった石破茂議員がまとめ平成27年6月30日に閣議決定された「日本再興戦略改訂2015」(本文第2部・第3部)の121ページに記載されている、以下の一文であるらしい。

現在の提案主体による既存の獣医師養成でない構想が具体化 し、ライフサイエンスなどの獣医師が新たに対応すべき分野における具体的な需要が明らかになり、かつ、既存の大学・学部 では対応が困難な場合には、近年の獣医師の需要の動向も考慮 しつつ、全国的見地から本年度内に検討を行う。

上の文中の『本年度内に検討を行う』というのは、平成27(2015)年度中という意味である。「かくかくしかじかを考慮しつつ、本年度内に検討を行う」という文言は「来年度以降には一切の検討を行わない」ということを意味しない。もし「未来永劫」ずっと行政府の判断を縛るものにするなら閣議決定ではなく立法化しておくのが適切であった。そうすれば立法府が行政府を縛ることができる。

実際、当時の責任者であった石破氏は次のように語っている。

 「学部の新設条件は大変苦慮しましたが、練りに練って、誰がどのような形でも現実的には参入は困難という文言にしました…」。平成27年9月9日。地方創生担当相の石破茂は衆院議員会館の自室で静かにこう語った。


当面は獣医学部に参入できないようにしておこうという「行政判断」として上のような文章表現にしたということは明らかである。これ即ち「既得権益の保護」であり、現政権だけではなく、経済理論にも、近年の世界の経済政策の潮流にも反している ー この1,2年の保護主義には合致しているが。

集団的自衛権ですら閣議決定を変更して、それまでの「非」を「是」とした。いわんや一大学の一学部においてをや、だ。こんな些末な事柄など閣議決定をいつでも変更できるだろう。

というか、石破4条件なるものは元の文書を素直に読む限り「当面の方針」である。

「石破4条件」を盾にして正面から論争するとしても野党に勝ち目はないのではないだろうか。

確かに安倍政権は裁量的に色々な事を変更している。それが是か非かという問題はある。しかし、論理は曲がりなりにも構築している。野党の反対にはそれがない。このままでは恣意的な反対だと言わざるを得ない。そうなるのではないか。

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 まあ、小生もこの件については専門的にあらゆる記録を調べてはいない。ひょっとすると、▲▲が●●でこんな発言をしている、こんな資料が隠れてました等々、というような動かぬ証拠があるのかもしれない。

だが、しかし、政治とか経済のプロセスはその因果関係が多面的で複雑だから分かりにくいが、紙一枚で大きな政治的決定が為されることはない。紙一枚はリアルな諸事情の結果である。紙一枚がその後の進展を決めるわけではなく、その紙一枚を書かせた諸事情が決定していくのである。紙一枚の一言一句に執着して是非を議論しても重箱の隅をつつくだけの神学論争になるだけである。

『よお〜く調べてみたら、こんなことがわかりました』、『いやあよく分かったねえ』と。研究では確かにこんな局面もある。連想するのだが、ビッグデータの世界では、1千万件のレコードを分析して初めて分かってきたことがある。そんなニュースが時々ある。それほど重要な傾向があるなら、なぜ今まで気がつかなかったんですか。重要な傾向なら誰でも経験で気が付いているのではないですか、と。そう聞きたくなるではないか。

ビッグデータ分析にも創造性のある分析とつまらない分析がある。ビッグデータなら良いとは限らない。問題追及にも、真に社会を進歩させる追求と重箱の隅をつつくだけの追及がある。問題がある(ありそうだ)から追及する、それだけではダメなのだ。

細かな細部をつついて初めて分かることが、実は決定的に重要な主因であったなどということは経済分析、経営分析、あるいは政治分析においてほとんどない。基本的なことは粗々のモデルで大体分かるものだーもちろん一定の視点/パラダイムは大前提としてある。たった一つの細かな証拠が結論を左右するほどに決定的であったりする刑事事件とはここが違う。社会現象の分析と刑事捜査とは本質的に異なるものである。国会議員は、政治・経済・社会の理解者としての役割が主であって、刑事事件捜査の担当者としての感覚を持つ必要はない。

だから余り細かな事ごとを調べて、加計学園問題を理解しようなどという気にはなれないのだ。


2017年11月15日水曜日

「小池劇場」の終幕?

小池都知事が希望の党の代表を辞任して小池劇場の幕はおりた、とワイドショーにまた話題を提供している。

希望の党の立ち上げから50日。今夏の都議選で都民ファーストが圧勝してから100日余。昨年の夏、都知事選に自民党から抜け駆け立候補してから1年余。

先日の投稿では、小池劇場なる出し物、昨夏の都知事選で幕があいたと述べた。それは長大な喜劇であったと書いた。ジャンヌ・ダルクという悲劇のヒロインかと思いきや、ジャンヌ・ダルクが舞台の真ん中でスッテンコロリンと転んでしまう、実は公衆の大笑いをとる傑作ドタバタ喜劇であるとした。

ノーベル文学賞をとったカズオ・イシグロでさえも表現し切れない、現世のアヤがみてとれると。そんなことも書いた。

やっぱりそうであったか・・・今はそんな感想である、ナ。

そういえば、この秋に盛んに投稿したように、小池女史、勝負服も緑から黒に変更した様子だ。誰かがアドバイスしたのだろうか。

結局、マスコミに使い捨てられようとしている政治女優の一人である実態があらわになってきたということか。

栄枯盛衰。

人間も会社も、時にバブルがみるみる膨らむようなブームにわくことがある。しかし、長期的にはその人間の識見・力量、会社の経営陣の実力、その会社がもっている経営資源を反映するような結果に落ち着いて、全体の状況は定まるものだ。

人生には、政治人生、学者人生、医師人生等々、いろいろな人生があるが、人生を全うするだけでも立派な人生である。中途で▲▲生命を失うといった例は歴史上でも数え切れない。

大きな事を成し遂げるのは、その人の巡り合わせで大勢の人が集まるからであって、上昇したいというような「希望」があって出来るものではない。そもそもの志と時運がマッチすることが大事だ。

こんなことを考える機会を提供してくれた顛末であった。

2017年11月14日火曜日

家族 vs 福祉国家

最近は高齢者福祉から育児支援・教育支援になんとなく世間の注目が集まっているが、TVのワイドショーでもとり上げられているように、問題の規模や深刻さは高齢者問題をどうするかの方が段違いに大きい。これはもう放映される情景をみれば、誰でもが直感的に明らかだと思うのだな。

孤独死しかり、住居難しかり、生活苦しかり、病気になって病院に行けないという運動困難しかりだ。あらゆる人生苦が凝集されている社会問題が高齢者問題である。

★ ★ ★

どんな人間社会においても高齢者や幼少年をどう養うかはずっと問題であり続けた、これは当たり前の事実だ。

そして、その解決の主体になってきたのは、ずっと家族・親戚・同族であったことも事実である。「国」や「社会」は家族内、親戚内の問題について深くは入り込まないのが不文律であった。なぜなら「社会」という存在は実際にはないのであって、その実態は他の家族であるに過ぎないからだ。自分たちの家族内で発生した問題は、原則として家族内で解決するのが当たり前だというのが日本人の倫理だったと言える。そんな倫理がある以上、国は家族内の問題は家族に一任するのが、面倒でなく費用もかからず楽であったのだ。

その倫理・慣習を突き崩した根本的原因は、明治以降の兵役の義務と戦前期・日本の軍国主義によるいわゆる「根こそぎ召集」である。

家族や同族の生き残りのためならば生命を捧げることすら厭わなかった日本人の生活に、「国家」のために命を捧げよと求めてきた政府は明治政府が初めてである。そんな政府は1945年に(幸いなことに)消滅したが、家族や同族の上に国家や社会を置くという価値観はまだなお色濃く日本社会に残っている。

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自民党の改憲案では家族の重要性を謳っているようだが、実際に最近とられてきた制度改正はずっと昔の尊属殺人重罰規定の廃止、個人ベースの国民年金制度、離婚時の年金分割、配偶者控除見直しの開始などなど、あくまでも個人個人に区分した生活保障が基本的な潮流になっており、家族をむしろ個々人に解体する方向を指している。

人生を通した生活保障は元来が家族や同族が行ってきたのであって、そうでなければそもそも「家族」や「結婚」、「親子」や「親族」などは単なる束縛であり、存在価値がないものではないかと思う。いやいや、現実に家族や同族といった観念は日本社会において面倒で不必要なしがらみとして捨て去られようとしているのかもしれない。この2、30年は日本社会の激変期であるのかもしれない。

それならそれでも構わないのだろう。ずっと昔は「世間」と言ったり、「浮世」と言ったりしたものだが、どう変わっていくか予測はできないのが社会である。それでもなお、老いた男性には別れた妻がおり、3人の子供がいるにも関わらず、誰一人として保証人がなく、老齢でいつ死ぬかわからないという理由で、住む家に困り、自分の死が早く訪れることを望むなどという状態は、哀れな国であるとしか思われない。

たとえば市役所や地域社会が何かの措置を講じ、国もそんな高齢者の社会支援をバックアップするというのは、かつての軍人恩給制度とどこか似ている感覚がある。問題がそれで解決されるなら、それでもいいのだろう。

しかし小生は、ずっと以前にも投稿したが、マーガレット・サッチャー元英首相が言った"There is no such thing as society. There are individual men and women, and there are families."、この社会哲学の信奉者だ。マア、単なる好みなのかもしれない。しかし、社会とは「他の家族」のことだ。社会が支援するというのは、他の人たちの財布から出してもらうということである。なぜ血の繋がった自分たちでまず助け合わないのかという疑問は、誰も口にしないだろうが、社会福祉にはいつも潜在しているウィークポイントだろう。この話題では、小生、社会の役割軽視、家族の役割重視、親族間の相互扶助尊重。疑いなく右翼である。

軍国主義や全体主義が持続可能ではなかったように、国民全体を一家族のように擬制するような社会福祉もまた持続可能ではないと思われる。

2017年11月11日土曜日

「日本の家電メーカーは世界に冠たる・・・」と豪語していた時代

東芝がテレビのREGZAブランド、パソコンのDynabookブランドを完全に放棄することを検討しているようだ。

歳月匆々、転た凄然というのはこの事である。

◇ ◇ ◇

小生が北海道の地方都市に移住してきたのは1990年代の初め、バブル景気は崩壊したものの、それから後に「失われた15年」という長い時間が必要とされていたとは想像もしていなかった頃だった。単なる株価の大幅調整、地価の水準調整。その程度に考えていた。

ただ日本の花形産業がそれまでの「鉄は国家なり」から軽薄短小の電機産業にシフトしていく方向は必然とみられていた。中でも日本が絶対的な強みを持つと思われていたのは、家電製品全般、半導体、精密機械だった。自動車は確かに強力だったが、まだまだアメリカのビッグ3が覇権を握っていて、トヨタやホンダ、日産はあくまでも世界市場への挑戦者という立場でしかなかった。

その電機産業は既にアジア全域にサプライチェーンを構築中であり、製品の信頼性、コスト優位性などすべてを含めて、絶対的な競争優位性を信じて疑わないという鼻息だったことを鮮明に記憶している。「生産のモジュール化がカギなんですよ」と何度聞いたろうか。

・・・まるで、ミュージカル『キャッツ』でグリザベラが歌うバラード「メモリー」の世界である。
Memory
All alone in the moonlight
I can smile happy your days (I can dream of the old days)
Life was beautiful then
I remember the time I knew what happiness was
Let the memory live again
メモリー 月明りの中
美しく去った過ぎし日を思う
忘れない その幸せの日々
思い出よ 還れ
今朝、カミさんが『大分寒くなってきたよね、そろそろ毛布もいるけど、ダイソンのヒーター、羽がついてない扇風機みたいなものがあるでしょ?あれもネ、いろんなヴァージョンがあるみたい。扇風機にもヒーターにもなって、静かみたいヨ』と眠いのに話しかけてきた。薄く目を開けると、もうiPad Air2を指でタッチしながら何やら調べている様子だ。

◇ ◇ ◇

アップルはアメリカ企業だ。ダイソンはイギリス企業だ。

日本の電機産業は世界に冠たる競争優位性を築いていたのではなかったのか。文字通り『過ぎし日を思う』朝のひと時であったのだ。

小生がまだ大阪で研究をしていたころ、主に使っていたのはNECのデスクトップPC98であった。DOSマシンである。ただ、その頃アップルのMacintoshが急成長しつつあって、やがて小生も研究費でSE/30を購入した。その後、Quadraまでアップルを使った後、ようやく追いついてきたWindowsに移行して、その後PCはずっとMicrosoftを愛用している。ただ、趣味の世界ではやはりアップルを使い続け、ウォークマンを二度ほど買い換えたあとは、iPodに移り、その後はiPhone2、iPhone4sと買い換えてから、いまのGoogle Nexusにたどり着いた。いやあ、SONYのオンライン・ミュージック・ストア・・・何と言ったっけなあ・・・使いにくかったねえ。それだけは覚えている。

小生が若かった頃にはなかったものが、今では広く使われていて、ライフスタイルは昔と一変してしまった。そんな新しい生活を支えているものは第一にスマホ、タブレットというよりインターネット。PCもタッチペンが鉛筆や万年筆なみになってきてデジタルノートがとれるようになった。買い物はAmazonだ。この冬にはEchoが日本にも登場する。毎日の家事では掃除・洗濯・料理がある。そのうち、掃除はダイソンのコードレス・クリーナーに買い替えてしまった。料理といえば炊飯器だが、それはまだ日本製だ。しかし、ホームベーカリーはフランスのTfal、やかんはTfalのケトル、コーヒーサーバーはネスカフェのバリスタ。まだ現役続行中であるのは、東芝製の洗濯機であるが、東芝は既に白物家電事業を中国に売却した。

こうみると、世界に冠たるはずの日本電機産業は中国や韓国の低価格商品に駆逐されて敗退したわけではないことがわかる。もちろん半導体が韓国勢に後れをとったことは事実だ。しかし、1990年代初めの時期、過剰設備を解決しようとして生産能力をスリム化した日本勢の戦略が韓国勢の拡大戦略を誘発したことも否定できまい。戦略的代替関係が支配している設備投資ゲームにおいて、日本の出方をモニターしているライバルの存在を意識することなく、何らコミットメントを発することなく、スリム化戦略を進めたのは油断というしかない。

世界を変えるような創造的な新製品はアメリカやイギリス勢に後れをとり、コスト優位性があるはずの既存製品では戦略ミスを犯した。戦略ミスは経営能力の問題だ。

競争優位を築いた先駆者が退いたあと、実際に手足を動かし、汗を流して動き回った後続世代が経営の舵取りを担うようになった。おそらく自分たちこそが世界市場の覇権を築いたという感覚を持っていたのだろう。それは錯覚だった。勝つか負けるかは、個々の兵士、個々の営業レベルで決まるのではなく、もっと上位レベルの戦略的判断を担う人たちの能力で決まるものである。一定の方向付けを与えられて個々の問題を解決できたからといって、世界規模になったメガ企業をどう発展させていくかという高度の問題は身に過ぎた問題であった。

◇ ◇ ◇

戦争はやってみないと分からないところがある。もっと危ういのは、負ける可能性を認識できず、必ず勝てると信じてしまう人物群が指導的なポジションを占めていることだ。まあ、最後にかつ人間というのは有能な人物ではなく、勝てると信じている人間であると、ナポレオンは言っているそうだが。そのナポレオンも敗れて人生を終えた。

黄金時代の日本の電機産業は、確かに韓国や中国の低価格戦術に被害を被った。しかし、アメリカ勢にも、ヨーロッパ勢にも創造性や魅力という点で敗退したのである。

決して安物にシェアを奪われただけではない。「世界に冠たる・・・」は、ヘボの勘違いであったに過ぎない。

「価値観や哲学、統制ある行動パターンとか、すべて間違いだったとは思えないんですよネ」と言っているようでは、電気産業だけではなく全産業において危ないと小生は思って見ている。

2017年11月10日金曜日

大国になれば「大国の論理」が出てくるのは自然である

訪中しているトランプ大統領に対して中国は「太平洋二分論」を繰り返しているとの報道だ。やはりそうか、という人も多かろう。

1930年代から40年代にかけて、大日本帝国の基本戦略は「大東亜共栄圏」というものだった。その狙いは、広域アジア圏からイギリス、フランス、オランダ、それからアメリカなど欧米の勢力を「排除」(=植民地を解放)し、独立したアジア世界を構築しようと。立派に言えばこのような戦略を実行していた。中国が「大国の論理」を振りかざしているなら、戦前期・日本も同じようなホラを吹いていたわけだ。

近年、中国が特にアメリカを相手にするときに主張する「二大国」、「太平洋二分論」は、かつて大日本帝国が主唱していた戦略とさほど違いはない。アジアのことにアメリカは口を出すな、と言っているわけだから。

なので、中国が主唱している「太平洋二分論」は、急成長を遂げつつある国なら必ず口にする発想に過ぎず、そういうものだと見るのが自然だ。が、その国が「大国」を目指している。この点は、やはり見逃せない事実であり、既存勢力との対立から地域を不安定化させる要因たりうる。古代ギリシアのペロポネソス戦争以来、覇権の交代が進む時代には、安定ではなく不安定が支配する(ツキディデスの罠)。

本当に現代の中国はペロポネソス戦争を見る目で見なければならないような存在なのだろうか?

◇ ◇ ◇

旧勢力の側にたって整理してみよう。

客観的にいうと、急成長する国家が危険な存在になるのは、以下の場合であろうと思う。

  1. 生産力が急速に発展し、債務国から債権国に移行し、発言力が高まった。
  2. その裏面で、マーケット、というより顧客や影響力を奪われた既存勢力があり、対立的な状況が生まれている。
  3. 新興国は、まだ文化的優越性を持たず、ヒトの流入、カネの流入が安定的に期待できない。
  4. 新興国がマクロ経済的な問題(=需要不足、失業増加等の混迷)に直面し、経済取引や経済政策以外の手段(政治外交的圧力、軍事など)で問題を解決したいと願う誘因をもっている。

アジア圏における戦前期・日本のポジションを上の1から4までの観点からみてみる。大日本帝国については上の1は事実だった。3も当てはまっていた。4も第一次世界大戦後の1920年代から30年代を通して確かにそう言えた。2はどうだったろうか。日本の国際的競争力はそれほどのレベルではなかったはずだが、第一次世界大戦の勃発から日本が欧米企業の顧客を奪取した状況が先にあった。大戦中に日本国内では設備投資ブームが発生した  ー  それが終戦後は過剰設備となったのだが。4の苦境は、大戦終了後の反動であった。やはり2も該当していた。大日本帝国については1から4までが全て当てはまっていた。

現在の中国だが対外純資産はすでに巨額に上っているので1は該当する。2も当てはまるだろう。日本は中国に、というより電気製品で韓国にという方が適切な部分があるが、その韓国が中国に顧客を奪われているとすれば、やはり2は当てはまると言ってもよいかもしれない。しかし、日本が生産拠点を中国に移している面もあるので単純に当てはまるとも言えない。3については、ヒトは集まっていない。が、カネは集まっている。実際、上海市場は好調、中国には大富豪がどんどん誕生している。しかし、中国の生活(Chinese Way of Life)、中国の文化(Chinese Culture)が世界に魅力を感じさせている状況ではない。ヒトは中国に憧れはしないだろう。3は半分程度は当てはまるというところか。4は微妙である、というより当てはまっていない。中国経済はバブルと言われるようになって久しいが、バブルは5年も10年も続きはしない。バブルというよりは高度成長時代というべきだった。が、成長率は必ずキンクする。中成長路線へのスムーズな移行ができるかどうかが今の問題である。成長している限り、国営企業の不良部門は必ず整理できる。

中国は対外純資産はプラスに転じたとはいえ、所得収支はまだマイナスであり、外国に支払う利子や配当の方が大きい。対外直接投資残高をみると、世界で10位前後であり、他を引き離すアメリカに次ぐ2位から9位までの諸国と同程度の横並びである。上の項目の2も該当するかどうか分からない。しかし、対立に至りそうな勢い、というか芽はある。この位は言っても可かもしれない(言えると考える人が、中国脅威論を述べているのだろう)。

中国に確実に当てはまるのは上の1。1だけである。他は全て微妙、もしくはハッキリと当てはまっていない。

こうみると、中国の「大国志向」は自国の問題解決のために採用される「拡大戦略」というよりも、経済成長がもたらす自然な結果であるとも言え、「志向する」というより「事実としてそうなる」、どちらかと言えば19世紀のアメリカ合衆国の成長とあい通じるものがあると思われる。

第一次世界大戦中のアメリカと北朝鮮危機の下での中国と、両国はいかに似たポジションをアジアにおいて占めていることだろうか。北朝鮮という厄介物がなければ、旧勢力(日本)の側が新勢力(中国)に対してもつ嫉妬がアジアにおける決定的な不安定要因になっていたかもしれない。「北朝鮮のおかげ」という一部政治家の発言は、案外、的を射ているかもしれないのだ ー そんな深い意味はないと思うが。

◇ ◇ ◇

ペロポネソス戦争のように旧勢力(コリント、スパルタなど)の側から新勢力(アテネなど)に戦争をしかけるということがなければ、新勢力である中国の側から軍事的抗争をしかけるという事態は予想しづらいものがある。ツキディデスの『戦史』に叙述されているように、ペロポネソス戦争を引き起こした根因として、旧来の商業国家コリントが新興の海軍国アテネに対して感じる嫉妬があったことは現代にも通じる歴史である。軍事強国スパルタはアテネと戦う積極的理由はそれほどなかったにも関わらず、軽武装国家コリントがアテネと対抗するために利用され、戦争に巻き込まれたと見るのがやはり正しいのだろう。

要するに、成長する中国自体が危険な存在であるとは小生には思われない。なぜなら、世界GDPが増加することは経済状況としてプラスに決まっており、まして世界の経済的不平等を解消するのに寄与するのであれば、倫理的にも善いことだ。これが道理だろう。というのが、現在の状況ではないだろうか。

そう。確かに古代ギリシアにおいて、ペロポネソス戦争勃発時においてアテネは未だ新興勢力であった。ギリシア世界の文化的中心ではなかった。ギリシア悲劇が花を咲かせるのはペリクレス時代というより、ペリクレス没後の戦時、敗戦直前までの暗い時代であった。プラトンがアカデメイアを開学したのは敗戦後の混乱しつつあるアテネである。政治的勢力としてアテネは没落途上にあった。政治的に没落したアテネにあって、文化的には花が開いた。後世に残る文化とはそんなものであろう。

まあ現状をみると、現代中国という地に非常に魅力的な文化が花開き、世界中の人を魅了するのは、まだしばらく遠い将来のことである。そうとも言えるようである。むしろ中国がそのような場になるように他国が対応していくことが、世界規模の幸福の増進になるだろう。これだけは言えそうである。

最終的に世界中の人たちが従うのは、優れた文化にであって、戦争の勝者にではない。アメリカの台頭によって欧州は地盤沈下したが、それが世界にとって不幸であったと論じる人はどこにもいないだろう。それと同じである。

覇権闘争にカネをつぎ込むことの損は日本も十分にわきまえておくのが賢明である。日本国が提供できる魅力を毀損するだけである。

『北朝鮮のおかげで政権のやりたいことができる』などという政治哲学では、文字通り「お先真っ暗」、成るようにしかならない。「一寸先は闇」という政治しか期待できない。これまた今の時点で言えそうなことである。

2017年11月6日月曜日

罪の公訴時効 vs 知的財産権の効力

近いうちに映画が公開されるので評判のミステリー小説『検察側の罪人』(雫井脩介:文春文庫)を読んだ。ミステリーとは言うものの、プロットは半分辺りで明らかになってしまうので、あとは相当程度ヒューマンドラマ的な味わいになっている。

内容の批評はさておき、一言だけ覚え書きを。

公訴時効によって罪を逃れた犯罪者が本来受けるべき罰を与えるに、いかなる罰が最も厳しく、苛酷であるか? それはやってもいない犯罪で立件し、刑に処することである。つまり、冤罪の苦痛は何ものよりも耐え難く悲痛である。もしも罰するなら冤罪より苛酷な「刑罰」はない。無茶な論理ではあるが、こんな着想が作品のベースにある。

殺人罪の時効がまだ15年であった時代が発端になっている。しかしながら、殺人罪の公訴時効は2010年4月27日に「刑法及び刑事訴訟法の一部を改正する法律」によって既に廃止されている。

20歳の時に犯した重罪は、たとえ90歳の老人になって罪が発覚しても、刑罰から逃れることはできない。国民(=公益を代表する立場に立つ検察)は、70年の時間の長さの中でどんな生活が営まれて来たのか、それは別問題として70年前の罪の責任を追及できるようになった。もしこんな状況が最初からあれば、上記作品の主人公(?)である野上検事は無理な冤罪工作をせずともすんだわけだ。

ここでちょっと思うのは、知的財産権の存続期限である。各種権利を整理すると
特許権: 出願から20年間
実用新案権: 出願から10年間
意匠権: 設定登録から20年間
商標権: 設定登録から10年間
著作権: 著作者の死後50年間(法人著作は公表後50年間) 
になっている。すべて有限期間である。

知的財産権の中には、社会生活を一変させるほどに決定的だった技術革新も含まれている。しかし、そんな特許技術も存続期間は20年間であり、その後は誰でもその技術を模倣して、利益を追求できるわけである。

社会全体に巨大なプラスの価値を提供した人物であってもその功績、というか報償を受ける権利は20年間で消失し、反対に犯罪という反社会的な行為を犯した場合には(特に重大な犯罪の場合であるが)無期限にその責任を追及されるというのは、表現は難しいが直観的にバランスがとれていないように感じる瞬間があった。

確かに公訴時効は、15年とおいても、25年とおいても、理不尽なことが生じうる。だから無期限に社会的責任は続くものとした。しかし、であれば、たとえば新素材や特効薬を見出した特許が20年間で消失するというのは、「世間というのは忘れっぽく、恩知らずである」と発見者は感じるかもしれない。技術が古くなり使われなくなれば、自然に消え去っていくということだが、使われているなら使用料は無期限に支払ってほしいと考えるかもしれない。豊かになれた功労者の恩を<社会としては>忘れてもよいなら、半世紀も昔の犯罪も<社会としては>忘れるとしても、それも在りうる考え方ではないか。そんな問いかけがあってもよいような気がした。

恩は忘れても恨みは忘れぬ、というのは理が通らない。そう問うても可だ。

まあ、ずっと歌い継がれたり、読み継がれたりする音楽や文学作品は、作者の生前はずっと、死後までも権利が守られているわけだから、犯した罪の責任も当人の死まで及ぶと考えても、整合しないとまでは言わないが。

◇ ◇ ◇

それにしても、小生、クリスティの『検察側の証人』は何度も読み返していて、同じ作者によるもっと高名な『ねずみとり』よりずっと愛着があるのだ。『検察側の罪人』というタイトルには、意味不明で思わず「ン~~ン!!」と唸ったのだが、読んでみると「なるほどね」と納得はするものの、一寸底が浅いなあという印象だ。