2024年3月18日月曜日

前稿の補足: 誰のための政党か、という問いかけが第一歩では?

前稿のテーマは、一つには「戦前期の政党政治崩塊」だった。日本における政党という「結社」、というか「組織」、「法人」は、遠く日露戦争前の1900年から存在し、一時は議会という場で日本政治を方向付けるほどの力を発揮したのだが、昭和初年から始まった「普通選挙」を機に急速に国民の信頼を失い、自己崩壊したのだった。

---2024-03-19追加

ほぼ同じ「言い訳」を前稿にも加筆したので本稿にも書き加えた。上で「日露戦争前の1900年から存在し」というのは立憲政友会の結成を指している。しかし「政党の誕生」という意味ではこれは間違いだ。第1回帝国議会は、山縣有朋内閣の時、1890年11月29日に開会されたが、議席は自由党(初代党首は板垣退助)、立憲改進党(初代党首は大隈重信)のいわゆる「民党」が過半数を占めた。明治10年代の自由民権運動から日本の政党が誕生したと考えれば、政友会結成よりも更に20年程は遡ることになる。本稿では、日本の「政党政治」が意識にあったので、藩閥政治が盛んであった時期にも政党が活動していた事実に触れずにしまった。これが提出レポートなら大減点だ。せいぜい「良」という評価だったに違いない。

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その政党崩塊の急速振りが日本においては非常に特異で、特徴的である。この点について、一点だけ補足しておきたい。

かなり以前の投稿になるが

誰のための政党なのか?

という問いかけを書いたことがある。

たとえばこんな下りがある。

政治団体(=政党)は、自党のターゲットをどう定めるか?ここが最も大事な出発点だ。ターゲットが定まれば、ターゲット外の人たちが忌避するような政策を訴えてもよいのである。ターゲットが支持すれば政党としては成功なのだ。というより、そうしなければ実行可能な政治戦略はつくれないはずだ。もちろん勝敗は数で決まる。決まったものが正しいのだ。なぜ正しいかは学者が考えるべき事柄である。

更に、

 本当の意味での対立軸がいつまでたっても与野党から出てこない。「これが国民のためになるのです」と、それしか言わないから、そもそもターゲット(=支持基盤)が真に求めていることを本当にやる気があるのか。そんな問いかけすら、するだけ無駄であるのが現在の小規模野党群である。民主党政権時には、あろうことか自民党の伝統的支持基盤を吸収しようとしているように見えたこともあった。『要するに自民党にとって変わりたいだけか』。小生はそう思ったものでござる。

ズバリ一言で言うと、

あなた方が目指す政権交代とは自民党にとって変わることなンですか?

これじゃあ、零点だ!!

ダメでしょう、と。野党の意味がない。自民党を支援してきた有権者、団体は自民党の優良顧客である。その支持基盤をソックリ頂いて出来る政権は、ヤッパリ、自民党の支持基盤であった階層の利益に奉仕する政治をするしかないのである ― でなければ政権を失う。

簡単な理屈ではないか。

故に、野党のやるべきことは

自民党の支持基盤と対立する有権者層を岩盤支持層にして、更に浮動票を獲得するための中道的な経済政策を提案することである。

 要するに、自民党の固い支持層が嫌がる政策。それは自民党が絶対に言い出せない政策でもあるが、そういう政策を提案すればよいのだ。

例えば、富裕層への増税。累進所得税率の累進度強化。利子配当の分離課税廃止、あるいは分離課税税率の累進化。固定資産税率の引き上げ等の資産課税強化。相続税率引き上げ・・・これらは自民党支持層にとっては嫌なものですゼ。実際、岸田内閣は「新しい資本主義」とやらで金融課税(の強化?)を唱えていた(と小生は記憶しているのだが)が、今では口にチャックをしたかのようだ。しかし、中流を超える富裕層・準富裕層への増税を財源に、児童手当を増やせば、中流未満の人たちにはウェルカムでしょう。アメリカのバイデン・民主党政権がいま検討している事だ。

『頭のいい人もいるでしょうに、なんで分からないかナア・・・』と、これまで幾度痛感したか分からない。日本の(共産党を除く)中道左派の低レベルには失望を通り越して、もはや視野から消えた感がある。まるで「透明人間」のような政治家集団だ。

長々と書いたが、実は、この辺に戦前期・日本の政党政治崩塊の根本的原因があると思うのだ。

それは、政友会にせよ、民政党にせよ、普通選挙を前提に成長してきた政党ではなかったことである。両党とも「恵まれた階層」にいる限られた有権者を相手に活動していた政党である。もちろん「恵まれた階層」と一口に言っても、地方在住の大地主もいれば、都市に住む新興企業経営者層もいる。大雑把に言えば、前者は政友会を、後者は民政党を支持していたと言われている。これら二つの階層は、求める政策に違いがあったので、自然と二大政党で支持基盤が分かれ、重点政策メニューも差別化されたのである。 

しかし、普通選挙を実施した後、それまでは投票をしなかった階層の有権者が新たに政治の場に流入した。当時の用語を使えば、財産をほとんど持たない《無産階級》、マルクス経済学でいう《プロレタリアート》である。

彼らを訴求対象とした政策に政友会も民政党も力を注いだことがなかった。なぜなら、そうした政策は自ずから社会主義的政策になるからであり、社会主義思想は当時の日本では「天皇制を脅かす」危険思想であると認識されていたからだ。故に、いずれの政党が政権をとっても無産階級の人々のために進められる社会政策は、微温的なものに止まり、コストを負担する経済界の意向に反するような施策が実行されるはずはなかったわけである。

とはいえ、普通選挙である以上、こうした中流未満の有権者からも票を獲得する必要がある。しかし、彼らのための政策は提案し難い。彼らのための政党ではなかったからだ。故に、スキャンダルに頼った。


19世紀のイギリス政治は自由党と保守党の二大政党のお手本のようであった。自由党は「ホイッグ」、保守党は「トーリー」と俗称されていた。自由党のグラッドストーン、保守党のディズレーリは、高校の世界史教科書にも載っている。

ところが、第一次世界大戦後のベルサイユ会議に自由党内閣の首相として出席したロイド・ジョージの後、自由党が没落したことは余り触れられることがない。

自由党に変わって党勢を拡大してきたのは、現在も英政界で勢力を有する労働党である。それまでの「ホイッグ対トーリー」は「企業家 vs 大地主」の利害対立から発生した構図である。企業家というのは、輸出大国としてのイギリスを支える製造業経営者であった。それが、20世紀初めには「労働党 vs 保守党」という対立構造に移行していったわけだ。その背景は、イギリス経済の成熟化が進む中で、「資産階層 vs 労働者階層」という利害対立構造が明瞭になったことにある。

今でも自由党は名称を変更しながらも存在し続けている。自由党が没落しつつある時代に経済学者・ケインズは活躍したが、彼は地主の党である保守党にも、労働者の党である労働党にもシンパシーを感ぜず、自由党を支持すると明言していた。

イギリスでは「誰のための政党か?」という疑問をほとんどの有権者は抱かずにすんでいるのではないか。

戦前期・日本の普通選挙の時代、日本に暮らす中流未満の有権者の利害を代弁してくれる政党は、危険団体視される左翼政党があるにはあったが、実際にはないに等しかった。投票する先がない。そんな状況は考慮しておく必要があるわけで、政友会や民政党に所属する政治家は正直なところ、新種の有権者たちを前にして困惑していたには違いないのだ、な。

現在の自民党は、かなりの右翼から、ひょっとすると中道左派までを含む「デパートのような政党」である、というのは前にも書いたことがある。しかしながら、自民党の固い支持基盤は確かにあり、彼らの利害に反する政策は決して自民党は実行しないし、仮に浅はかにもそんなことをすれば、自民党は支持基盤を切り崩され、政権を失う理屈だ。

しかし、自民党のミステークにつけいって、自民党の支持基盤を奪い取っても、政治が変わるわけでは決してない。そんな《オポチュニスト》のような野党は、有害無益なのである。

小売業界を見たまえ。デパートはデパートで売りたい客層と商品がある。スーパーはスーパーで売りたい客層と商品がある。客層が先ずそこにいて、業態が決まり、売る品も決まる。そこで経営戦略も決まるのだ。政党の成長衰退も、イギリスの政党史を振り返れば、自ずからその因果は明らかだ。

ちなみに、自民党は議員数合計を過剰に追及していると小生は思う。規模が過大であることから、どの有権者セグメントも要望に応える政策を実行してくれないという欲求不満を感じているような気がする。保守合同はせず、競争を維持したまま、個別政党ごとに支持基盤を選び、コミュニケーションを深め、党の「政策綱領」を練り上げた方が、日本政治はずっとマシになり、発展してきたのじゃないかナア、と。そんな風に思います。

ともあれ、日本の野党は、

自分たちの政党は誰のための政党なのか?

ビジネスと同じく、政治においてもターゲティングが最も重要で、ここからスタートするのが定石というものだろう。

【加筆修正 2024-03-19】

2024年3月16日土曜日

断想: 日本政治の現在位置は?

岸田内閣の支持率だけではなく、自民党の政党別支持率も歴史的低レベルにまで落ち込んでいるのだが、この理由は余りにも明らかだ。単に「安倍派と二階派(岸田派も)による裏金作り」にのみ主因があるのではない。とにかく

全ての(自民党の?)国会議員の(モラルとしても、政治能力としても)その低レベルに愛想がつきている

この辺りが、日本国内の有権者感情の最大公約数ではないか、と思う。ズバリいえば、

そもそもの阿呆が政治主導などと何を世迷言を言うとるか

と、マア、そんな所だろう。

本当の所は、自民党が二つに分裂するのが、日本人にとっては政治的選択肢を増やすという意味で、最もハッピーな帰結なのだろうと思う。個人的には、それを熱望している。

元々、昭和20年代においては保守勢力は、一方に吉田茂や鳩山一郎の流れをくむ自由党系、他方には吉田と同じ外務官僚であった幣原喜重郎や芦田均を中心とした民主党系という二大保守勢力が拮抗していたが、この対立構造は戦前期・日本の<政友会 vs 民政党>の二大政党構造を人脈としても大体は継承するものであった。

ずっと以前になるが、岸信介による保守合同が、戦後日本体制の安定をもたらした一方、1990年代以降の「失われた30年」という時代背景の下では、逆に日本の政治的選択を狭めてきた、と。そんな事を書いて投稿したことがある(これも)。

その決断の背景として、そこでは《共産主義警戒観》が当時の保守政治家に共有されていたと書いた。確かに、それは事実であったに違いない。中国本土から国民党が台湾に駆逐され、毛沢東の指揮する中国共産党が広大な大陸を支配するに至ったのは1949年である。その時点では、日本はまだGHQの統治下にあったが、1951年のサンフランシスコ講和で独立した後の1955年(昭和30年)に自由党と民主党が合同して「自由民主党」が生まれたわけである。

時刻表ミステリーではないが、時系列をたどれば、《対左翼警戒感》が自民党結成の主動機となっていたと推測しても、まずまず本質をついているに違いない。

しかしながら、保守合同を主導した岸信介氏の心中の動機は、他にもあったかもしれない。もしこの分野が専攻であったら、論文を(少なくとも)一本は書くつもりになったかもしれない。

一つは、岸信介という政治家は、昭和初期に登場した左翼的・革新官僚から大政翼賛会体制の下で政治を志した人物である。政党を否定する<専制体質>を元々もっていたとも想像される。もう一つは、<普通選挙による政党政治の大失敗>という戦前期・日本の経験がトラウマとなって記憶されていたのじゃあないか、と。そんな可能性もあると憶測しているのだ。

少し長いが、日本の政党の流れの概略をたどっておきたい。

日本においても、遠く明治以来、二大勢力が対立する政治構造があったのである。


日本政治において《政党》はそれなりに長い伝統をもっていた。

最初に伊藤博文が、というより伊藤の親友である陸奥宗光が死去した後、陸奥をとりまく土佐出身の人々が中心となり、伊藤を担ぐ形で誕生したのが「立憲政友会」である。1900年(明治33年)だから日露戦争より以前の結党である。その後、予算審議権をもつ帝国議会の支配的勢力になった政友会は、日本政治を動かす黒子役として強い力を発揮した。

---2024-03-19追加

政友会結成を「最初に」と書いているのは「政党の誕生」という意味では間違いだ。第1回帝国議会は、山縣有朋内閣の時、1890年11月29日に開会されたが、議席は自由党(初代党首は板垣退助)、立憲改進党(初代党首は大隈重信)のいわゆる「民党」が過半数を占めた。明治10年代の自由民権運動から日本の政党が誕生したと考えれば、政友会結成よりも更に20年程は遡ることになる。本稿では、日本の「政党政治」が意識にあったので、藩閥政治が盛んであった時期にも政党が活動していた事実に触れずにしまった。これが提出レポートなら大減点だ。せいぜい「良」という評価だったに違いない。

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次に誕生したのが、政友会と対立した民政党の母体である。これは少し細かい。長州出身の大政治家・桂太郎が宮中を担当する内大臣から総理大臣に任命され組閣しようとしたところ、「天皇の寵愛を利用して国内政治を壟断しようとしている」との猛反発をうけ、政界は騒乱状態になった。大衆デモが国会を包囲するに至り、桂は総理を辞任した。これが「大正政変」である。これに懲りた桂は自らも政党を結成しようと行動を始めたが、不運な事に急死してしまった。その桂の志を受け継いで桂シンパの政治家と官僚集団が集結して生まれたのが「立憲同志会」だ。陸軍出身の桂内閣が挫折した後、あとを継いだのは海軍出身の山本権兵衛で、薩摩出身の山本内閣を支えたのは政友会だ。ところが、「薩の海軍」に恨みをもった長州勢力はシーメンス事件を演出(?)して山本内閣を追い落とし、明治以来の大政治家・大隈重信に総理の座が回って来た。その大隈内閣を支えたのが上の立憲同志会だ。大隈内閣は、第一次世界大戦中の日本外交を進めるが、ここで大きなミスを犯した。「対華21カ条要求」である。この時点で、大隈内閣を支えてきた長州勢力の大立者・山縣有朋は大隈内閣を見限る。大隈退陣後に、大隈を支えてきた立憲同志会及び周辺勢力が集合して結成したのが「憲政会」である。

先の政友会の誕生には土佐派が中心になった。憲政会を結成させる背景としては大隈支持勢力があった。要するに、明治の自由民権運動以来ずっと続いていた《板垣自由党 vs 大隈改進党》の対立が、こうして(人脈としては?)継承されたわけだ。

その後、政友会も路線対立から二つに分裂し、その片方と憲政会が合同して「立憲民政党」が誕生した。このように時に応じて離合集散が繰り返されてはいたが、全体としては戦前期・日本ではずっと二大勢力が対立しながら、衆議院選挙があるたびに(貴族院は選挙がなかった)、議会の優勢を占める勢力が交代していたわけである。

もちろん戦前期・日本では、議会とは別に陸海軍を含む官僚集団が強い権力を持ち、彼らは選挙とは無縁であった。だから、戦前期・日本の政治を理解するには、政党とは別に官僚の動きをみる必要がある。が、それでも毎年度の予算が成立するかどうかは議会の協賛(≒承認)にかかっていたのだから、戦前の日本においても政党政治は曲がりにも機能していたと(小生個人は)考えているし、評価もしているのだ。少なくとも、1925年(大正14年)までは・・・


昭和になってから普通選挙が始まった。男性に限られていたが、納税額等による制限は一切なくなった。

その結果、日本政治はどうなったか?

戦前の「政界スキャンダル合戦」で何冊の本が書かれただろう?

普通選挙は普通選挙でも、政治的に未熟な国に導入される「普通選挙」で勝利するには、いわゆる「ポピュリズム」が必勝の戦略となる。もっともポピュリズムはそれ自体として悪いと断言できるわけではない。田中角栄が喝破したように、そもそも民主主義政治の本質は

政治は数であり、数は力、力は金だ

この認識に間違いはない。否定する人は、本質的には偽善者であると思う。

ただ数的優位を築くには、大変な政治的エネルギーと政治家本人の力量が不可欠である。ちょうど戦争において勝利を得るための兵器として、高価なミサイルと安価な毒ガスの区別があるように、低コストの政略がある。それは政敵のスキャンダルを暴露するという戦術である。つまり野党が選挙で勝つためには、与党の政治家の不祥事をメディアに垂れ込むのが、最も有効な戦術になる。

例えば、昭和になって普通選挙が始まった直後に《松島遊廓疑獄》で世間が騒然となり、憲政会の若槻礼次郎首相が辞職するに至ったが、この事件は冤罪、ほゞほゞ虚言とも言えるものであった。後にあった《帝人事件》は、事件自体がなかった全くの作り噺で、これまた目的は倒閣であったわけである。

以上のことを「ゲーム論」の観点から少し考察してみよう。

暴露されたスキャンダルの追及は、二大政党の双方にとって、ゲーム論でいう《支配戦略》になる。故に、結果として訪れる状況は必然的に《スキャンダル合戦》となり、政党政治への失望となって帰結する理屈だ。昭和・戦前の日本の政党政治を説明するロジックは「囚人のジレンマ」である。

「囚人のジレンマ」を回避するには、何度も戦略決定の機会が訪れるロングランの「繰り返しゲーム」として各プレーヤーが「ゲームのルール」を再認識する必要がある。そうすれば「フォークの定理」から双方とも最も望ましい行動を選び全体最適に到達できる理屈だ。

しかし、一方のプレーヤーが足元の結果を求める近視眼的行動をとれば、必ず「目には目を」の報復合戦になり、「囚人のジレンマ」の論理から最悪の情況を招く。そんな愚か者の失敗に気づき、ロジックを理解するだけの時間を歴史が与えてくれていれば、その社会は幸運であり救われる。

機会主義的な奇襲をかけても、次は相手の報復行為を招くだけである。近視眼的な利己的行為を自重し、長期の最適戦略を見定め、それにコミットすることが、そもそもの目的である自己利益を最大化する。それが出来ないのは、相手を消滅させる<殲滅戦>がゲームのルールだと思い込み、相手を消し去ることこそ<勝利>であると考えているからだ。確かに相手が消滅すれば自分自身が<覇者>となるので、「囚人のジレンマ」は消え失せる。しかし、発展した社会の中で相手を殲滅するなど達成不可能である。民主主義とは敵対勢力との折り合いの下で実現されるものだ。だとすれば、超・長期間の「繰り返しゲーム」に取り組むしかとり得る選択肢はない。

数多くの社会的な失敗と混乱を繰り返す中で、この基本的なロジックを学習し、国民として理解するだけの時間が与えられた社会はラッキーだ。例えば、王権と議会派が革命という内乱を戦ったイギリス、人口構成に影響が出るほどまで革命と戦争を戦い抜いたフランス、南北戦争という悲惨な内戦を経験し相互理解に至ったアメリカなどは好い事例だろう。

その意味では、幕末から明治維新に至る内戦の歴史は、全日本人の相互理解と相互信頼が不可欠であることを心から理解するには、時間が不十分であった、そんな解釈も可能かもしれない。それがひいては、戦前期・日本では、余りにも簡単に社会的な相互不信(表面的には嫉妬、危険視、排他性として現れる)が高まり、その不信が政党政治を崩壊させ、(清潔であるように見えるが政治には素人である)陸海軍の軍人に政治を任せるという事態に至った、その遠因になった、こんな見方もありうるかもしれない。

民主主義社会には欠かせない政党政治の失敗をリカバーできるだけの時間とチャンスが当時の日本には与えられていなかった。ここに日本の不運と悲惨があった。そんな風に歴史観としては思っているのだ、な。

元々は細かな些事で内容希薄なミステークが(誰かによって)利用され、デマとなって、まことしやかに、あるいは「犯罪」にフレームアップされて拡大され、メディアと有権者が政界スキャンダル報道に踊るという構図は、現在時点の日本だけではなく、遠い昔、普通選挙実施後の日本の社会そのものでもあったわけで、全ての日本人が参政権をもつ民主主義社会の実現に戦前期・日本は見事に失敗したのである。

これが戦前期・日本のデモクラシー発展史の最終到達点であり、この失敗のトラウマは現時点の自民党政治家たちにも、おそらく、共有された社会観として受け継がれているのではないだろうか?

一言でいえば、

保守政党が分裂すれば二大政党体制に移行するであろうし、それが有権者にとってはベストの状況になるのだが、その後の状況は再び救いがたい程の《ポピュリズム》に支配され、政党政治そのものが崩壊し、多分、自衛隊か、一部官僚が主導するクーデターが発生するであろう。

こんな杞憂が全く意識されていないのならば、むしろ幸いなことだ。

仮にこんな意識が本当にあるとしても、『羹に懲りてあえ物を吹く』という臆病は、最悪の可能性を回避しているわけで、決して非難するべきことではない。

要するに

有権者は政治家を信用していない。が、政治家の方も有権者を愚か者の集団と思い込み、決して信用してはいない。

ここで最初に戻る。

有権者は政治家が阿呆だと思っている。が、政治家の方も有権者を(本音のところでは)阿呆だと思っている可能性が高い。

もちろんメディアも阿呆だと思われている。こちらは有権者、政治家の双方からそう思われている(に違いない)。

これが、正直なところ、日本政治の現在位置ではないかと思っている。

【2024-03-18 加筆修正】


2024年3月14日木曜日

感想: 経済学初学者のためのベストワンの参考書?

随分以前 ― といっても昨年の事だが ― 著名な経済学者であるGregory Mankiwが推薦する経済学初学者のための参考書ベスト5がWall Street Journalに載っていた。そのベスト1はRobert L. Heilbronerの"The Worldly Philosophers"だった。日本語訳は『入門経済思想史 世俗の思想家たち』というタイトルで「ちくま学芸文庫」として刊行されている ― タイトルは余り良いものではないが、本文は読みやすい。ちなみに、そのベスト5というのは、

  1. Robert L. Heilbroner (1953), "The Worldly Philosophers"
  2. Milton Friedman (1962), "Capitalism and Freedom"
  3. Arthur M. Okun (1975), "Equality and Efficiency"
  4. Charles Wheelan (2002), "Naked Economics"
  5. Yoram Bauman and Grady Klein (2010), "The Cartoon Introduction to Economics, Vol. I

小生が学生の頃は、とにかくSamuelsonの"Economics"(=『経済学』)を読めというので、「あんな大部の本を読まないといけないのに、ハイルブローナーなんて読めるか」という感じで、一寸拾い読みをしただけで放擲してしまったことがある。というより、経済学の初学者から読むと、人物列伝でもなく、とにかく「面白くなかった」、ただそれだけであった。

そんな経験をしたのだが、マンキューが今でも

 For several years, I have been teaching a freshman seminar at Harvard. I always start with this book, and the students always love it. Most economics books are bloodless. They give us ideas, but the thinkers who first advanced them often fade into the background. Not so in “The Worldly Philosophers.” For Robert Heilbroner, economic ideas are intertwined with the passions of economic scholars and the historic circumstances in which they found themselves. He starts with the premise that “he who enlists a man’s mind wields a power even greater than the sword or scepter.” He then tells us about Adam Smith, Thomas Malthus, David Ricardo, Karl Marx, John Maynard Keynes and many others. 

フレッシュマンに対するセミナーでこの本を使い続けているというから、「そんなに良かったか?」と、改めて読み直してみたのだ、な。

ちなみに、本書はアダム・スミスの前に「経済の革命―市場システムの登場」という章を置いている。 そう言えば、学生時代の最初に手にとった時は、学説史の参考書だと思い込み(それはそうなのであるが)、特に有名な、例えばスミスやマルクス、ケインズ辺りを拾い読みしたのであった。

一冊の本というのは「拾い読み」するものではない。最初から順に読み通してこそ、著者が伝えたい本質が明瞭に伝わるものである。これを痛感したのが、第一の収穫だ。


順に読み通してくると、ヴェブレン、ケインズと来て、個人の学説としてはシュンペーターが最終となる。最終章は「世俗の思想の終わり?」という疑問形のタイトルが付けられている。

経済学をある程度勉強した人が本書を読むと、誰でも感じるのはメンガ-、ジェボンズ、ワルラスによる『限界革命』の意義が無視と言えるほどに軽視されているのは何故だろうかという点だ。ワルラスの一般均衡理論の重要性に至っては「完無視」と言ってもよい程でチョットした驚きである。ケインズの師匠である大経済学者・マーシャルに対して、冷淡とも言える姿勢を示しているのも、そこから来ているのだろう。つまり、経済学は市場による価格決定について説明すれば、その役割は果たせるのだ、と。価格が決定されるプロセスの中で需要と供給の均衡も自動的に実現される、むしろ需要と供給の均衡がいかに達成されるかが重要で、価格はその結果として形成されるのだ、と。(故に)政府は市場による価格調整メカニズムに決して介入してはならないのだ、と。政府が努力するべきことは、市場における競争を守ることである、と。このような経済学観に対して非常に冷淡であるのがハイルブローナーの特質である。これは全体を読み通せば、自然と伝わるはずであって、これが「本を理解する」ということだとすれば、拾い読みでは決して本質的理解には到達しないわけである。

上のような経済学観を基礎に置けば、マルクスに対する意外に暖かい目線も分かるし、ヴェブレン評もそうだ。シュンペーターで締めくくっていることもハイルブローナーにとっては自然な順序だったのだろう。

とすれば、最終章においてこう書かれているのも、自然な帰結である。

経済学が数学化したことは顕著で、・・・数学は今日では経済学に浸透し、形式化を推し進め、その好まれる表現様式となっているのだが、といって経済学を数学と混同する人など現実には存在しない。より深く、私の心中においてより重要な変化であるのは、経済学の(実際に真髄であるような)ヴィジョンとして、新たな概念がますます姿を現すようになったことであり、と同時に別のはるかに古い概念が姿を消しつつあることだ。その新たなヴィジョンが「科学」であり、消え去りつつあるヴィジョンが「資本主義」なのである。

この下りを読むと、ハイルブローナーが"Worldly Philosophers"と呼んだ人たちが何を訴えた人たちであったのかが、よく分かる。純機械的に言えば、日本語訳の「世俗の思想」は英語の"Worldly Philosophy"という対応関係になるが、これを更にドイツ語に機械的に変換すれば"Weltanschauung"が最も近い言葉だ。つまり日本語では「世界観」という言葉に近く、英語の"World View"よりはもう少し深い「世界哲学」、「世界理論」、マア、この辺のイメージでとらえれば、言葉の意味としては正確になると思う。"Worldly"を「世俗の」と訳するよりは、「世間の」という方が小生は好きであるし、「世間の」というとき「世界の」という言葉を日本人は普通に使っている。だから「世界観」という言葉がオリジナルのニュアンスに近くなると思う。つまり「ヴィジョン」である。

「資本主義」という概念は、世界哲学から誕生した概念なのであるが、そのような概念は現代経済学から消え去りつつあり、もっとメカニカルに経済現象をみる、即ち経済現象を科学的に解析することが経済学の役割である、と。そんな風に変わって来た、と。

そういうことをハイルブローナーは言いたいようで、だからこそ

19世紀ないし20世紀初期のそれに匹敵するほど有用たらんとするならば、それは深められ、広げられる必要があるだろうし、とりわけ今日われわれが手にしている干からびた残りかすのような経済学とは比較されねばならない。 ・・・本書は未来の世俗の思想(≒世界哲学)の希望に満ちたヴィジョンにささげられているのである。

こんな風に結ぶことにもなるわけだ。たとえ書いていることが「学説史」であっても、本書はハイルブローナー(というか、他の誰でも同じ理屈だが)が書いた「その人にとっての学説史」である。とはいえ、「これを1950年代という時代によく書けましたネ?」という感嘆は小生も感じているわけで、だからこそ、混じりけのない問題意識に溢れており、そこにマンキューも魅かれているのであろうと想像されるのだ。そして現時点においては、多くの人を引きつけるほどの説得力をもった「世俗の思想」、即ち世界ヴィジョンは一つもなく、そこに現代文明の閉塞感をもたらしている根本的背景がある。ハイルブローナーが70年以上も昔に本書を捧げた(はずの)新たな世界ヴィジョンは70年経った今も世に現れず、時代は混迷したままである、というのが唯一点極めて残念な事実であるのかもしれない。


確かに経済学は「資本主義」をどう観るかでダイナミックな発展を続けてきたのは事実だ。スミスから出発して、リカード、ミルへ至る発展は、資本主義がもたらした経済成長の結果、どんな社会が訪れるか、どうすれば良いかという問題に対する学問的回答だった。マルクスは資本主義が最終的に終焉する必然性について理論を構築した。ケインズ、シュンペーターも資本主義経済の管理、将来について新たな理論を提案したのだった。こうした思想の流れを「世俗の思想」と訳したのは、ちょっとまずかったネエと感じるのだが、それはともかく、現代経済学の極めて技術的性格と、ハイルブローナーが再活性化を願う"Worldly Philosophy"とを並べてみると、小生は必ずしも現時点の経済的分析ツールが「干からびた残りかすのような経済学」だとは感じない。

確かにマルクスは資本主義の崩壊と次の発展段階である社会主義の到来を予測したが、マルクスの経済理論を「真理」であると前提して、社会主義経済を実行したロシア(⇒ソ連)は、国家スケールの経済的悲劇を演出するだけの結果に終わった。一度、社会主義経済を始めれば、たとえミーゼスやハイエクが本質的批判を加えても、後戻りは不可能であるのだ。世界に関するヴィジョンは、提案は自由だが、実は的外れである確率も高いのだ。経済ヴィジョンだけではない。小生は、あらゆる「△△観」、「〇〇主義」はハナから「眉唾もの」だと仮定して、経過観察するのを行動原則にしている。大体、「資本主義」という用語だが、言葉の純粋な意味で「資本主義」であった国や時代は、いつどの国に実在したのか?そもそも「資本主義」という言葉も一つの抽象概念なのである。

現代経済学は、「経済成長」、「景気循環」、「不平等」といった経済的な問題について、データに戻づく実証的な分析ツールを提供することを任務としているようだ。小生は、そんな自覚は極めて健全だと思っている。


これが一つの結論であるが、もう一つの結論的下りを書くとすれば、

現代社会はもはや資本主義という概念で理解できない。

こういう事だとみている。

そもそも現代日本社会をみたまえ。どれだけの日本人が《資本主義》を良いことだと信頼しているだろう?むしろ

資本主義は私利私欲を是とする古くて悪い社会システムである。大事なのは社会である。利潤ではない。社会貢献こそ追求するべき目標でなければならない。

現代日本においては、「反・資本主義」感情を持つ人の方が、「親・資本主義」感情を持つ人よりは、はるかに多数を占めているように感ずる。でなければ「自由」、「規制緩和」、はたまた「小さい政府」や「新自由主義」に対して、これほどまでに強い拒絶がこれほどまで社会全体に広く浸透しているはずがない。 

そして同じ事情は、資本主義発祥地であるイギリスなど西ヨーロッパ諸国にも当てはまるように観ている。後は、アメリカだけではないか。そのアメリカも、党派によって、立場によって、企業利益よりは社会貢献をより重要視する人たちが増えているようにみえる。

経済学から「資本主義」というヴィジョンが消えて、「科学」というヴィジョンが主役を果たしつつあるのは、そもそも資本主義がもはやそれほど信頼されていない。この現実を先駆けて反映しているのかもしれない。そんな風にも思えるのだ、な。


 

2024年3月10日日曜日

断想: 進歩史観はイマイチという補足です

先日、「進歩史観」なる歴史観について投稿したばかりだが、書きながら「ここまで言うか」という気兼ねを感じて、その時は書くのを控えた下りがあった。このまま忘れてしまうのも残念だから、メモとして残しておきたい。

前の投稿にはこんな下りがあった:

どのような社会的混乱が眼前で進行するとしても、それは高度に進化した社会を実現するための「産みの苦しみ」である、と。こう考えるから「進歩史観」を信奉する人は必然的に極めて「前向き」の人物となる理屈だ。幕末の混迷の最中、『夜が明けるゼヨ~~』と叫んだ幕末の志士・坂本龍馬も、多分、こんな前向きのお人柄であったのだろう。ま、思想は自由だから、ご随意にということだ。

この伝で考えると、古代ローマの共和制廃止も、1930年代のナチス政権の誕生も、これらもすべて「進歩」であった、と。とにかく進歩史観というのは前向きなのである、と。こんなことを書いたわけだ。

しかし、それでも筋金入りの進歩主義論者であれば、「古代ローマ帝国ですケド、共和制を廃止し帝政に移行することによって更に400年以上も国として繁栄しましたよネ」とか、ナチス政権の誕生も「それ自体が進歩であったというより、あれは矛盾との格闘ですヨ。現在のドイツ社会の繁栄こそ矛盾の解消であって、ここにこそ進歩を見出すべきでしょう」とか、とにかく「ものも言いよう」になるのは確実であるわけだ。

「反証可能性」も何もないわけで、何を言っても、上手に辻褄を合わせてくる。


先日書くのを控えたというのは、

それを言うなら、古代エジプト文明はどうです?

紀元前3千年も昔から、多くの王朝が誕生しては繁栄し、衰退を経て滅亡してきた。このエジプト文明史を弁証法的な進歩の歩みとして観るのは可能だ。

しかし、最終的にどうなりました?

古代エジプト文明は完全に消滅した。今もなお復活していない。「進歩の結果として消え去ることもあるのです」と・・・ま、人間もいつか死ぬ。死ぬこともまた進歩の表れなのである。こんな風に強弁してもよいが、普通に考えれば、

消えて亡くなるのは進歩とは言わんでしょう

進歩史観と言われれば未来永劫ずっと一貫して前向きに進歩するものと考えるはずだ。

エジプトばかりではない。古代インダス文明はどうなりました。古代メソポタミア文明はどんな進歩史をたどりました?

インドがイギリスの植民地になったのは「矛盾の解消」であって、一つの進歩である、と。現在の中近東社会は、弁証法的な発展と進歩の歩みとして観るべきなのであると。確かに、サラセン帝国華やかなりし8世紀には大いに繁栄した。その後、オスマントルコ帝国の盛時は16世紀に訪れた。これを矛盾の解消であったと観てもよいかもしれない。が、その繁栄からも矛盾が生じ、より高度な社会へ進化するステージに入ったと見られるはずが、もう400年以上もイスラム教国家は苦悩している。まだなお混乱の最中にある。

産みの苦しみが400年も続くなんてこともありやすか?あっしにゃあチョット長すぎるように思えるんですがネエ・・・

ちょっとおかしい。まあ、キリがないので止めよう。


思うに、進歩史観などよりは、日本の平家物語が伝える《盛者必衰の理》の方がヨッポド信頼できる。

諸行無常の響きあり。《無常観》の方がずっと現実に沿った歴史観である。

個人的にはそう思っている。

夏目漱石は日露戦争前の日本の世相を対象にして

滅びるね

と「偉大なる暗闇・広田先生」に語らせている。永井荷風は明治以降の近代日本の堕落振り、その醜さを常に罵倒した。作家にこんな非難をさせて、本当に「進歩」なるものが日本社会にあったんでしょうかネエ・・・?ちょっと疑問でありんす。進歩したのは、日本社会でなく、西洋の進んだ科学技術を導入したという、ただそれだけの事でござんしょう。

福沢諭吉だけは「進歩」の肝心要のところが分かっていたと思うが、結局、総理大臣自らが「清水の舞台から飛び降りる覚悟」をもって太平洋戦争を選んだ結果、国家もろとも自爆するに至った。福翁の夢も見果てぬ夢と相なった。戦後日本体制については何度か投稿したが、これ以上は語る価値なし、というところだ。

以上、下世話な内容だが、先日の投稿の補足ということで。 

2024年3月9日土曜日

ホンノ一言: 「夫婦別姓」・・・議論するならシュールに盛り上がってほしいものだ

夫婦同姓に対して女性が抗議の声を上げる例が増えている。選択的にせよ、統一的にせよ、《夫婦別姓》を希望する人は今後も増えるに違いない。なぜなら自分がどう名乗るかに対して公的権力が強制的な制約を課するというのは、どう考えても道理に合わない。小生もそう思うからだ。

そもそも公的な手続きに《正式氏名》というのは、もはや必要ではないはずだ、というのは随分前の投稿でも書いたことがある。

父と母、いや別姓であれば父方、母方の祖父と祖母、父方、母方それぞれの父方、母方の曽祖父と曽祖母・・・、みな姓が違うだろう。どれを名乗ってもいいんじゃないの?経済的にはどの苗字を名乗るかによって実質は何も変わらないよね。お好きにどうぞ、と。未来の社会はそんな名前=記号である社会になっていくかもしれないのだ。となれば、マイナンバーだけあればいいよね。番号で行きますか。公的文書に氏名は書かなくともよろしい。マイナンバーを記載してください、と。

番号1924562238の方、窓口までお越しくださあい・・・(ディスプレイニモ番号ガ点滅スル)

名前はすべて通称となる。

ええぞなもし。いいねえ。これまたクールな社会ではないか。現在はそれまでの過渡期であろう。

 実際、<夫婦別姓>でブログ内検索をかけると結構複数の投稿がかかってくる。今では、それほど重要な事柄でもないと思うようになったが ― 時代の流れを見通すと、もう細かな些事でござんしょう ―、以前は相当に関心をもっていたことが分かる。

人の名前とは都合によって実は自由に変えられるものなのだ、と言う点はよく分かる。そして、本来は自分の名前くらいは自由に変えられるものであって当然だろう。これが「あるべき形」だろうと思われるのだ、な。

大体、全ての日本人が名字を持つ必要がありますか?「ケン」、「マリ」、それでいいんじゃないかい?『私は(正式の)苗字なるものは持ちません』、そんな選択肢もあってイイんじゃない?そう思いますケド・・・。 

実際、日本社会でずっと認められてきた当たり前の感覚はこんな風であった。

夫婦同姓は、明治になってから政府が全日本人に課した戸籍制度に発するもので、伝統というよりは旧法以来の法律的慣行と言えるものだ。

その戸籍制度は、父系的な家産相続制度、軍事的な動員力把握の必要性ともども、両方とも過去のものになってしまった現在、存在意義はほとんど失われている。血縁関係の確認なら、出生時にDNAデータを採取して永久保存すれば、それで済むことだ。

本人確認、親子確認、血縁関係確認等々は、今後将来にかけて、想像を絶する程の技術革新が予想される領域だ。「家族」の認定は住民票をベースにすればよい。

議論するなら、シュールに展開してほしいネエ。それが個人的な願望だ。 

2024年3月3日日曜日

断想: 「進歩」、「前向き」という言葉が濫用されていないか?

歴史観には多種多様なものがある。「唯物史観」や「陰謀史観」という用語はよく知られている(と思う)。が、現代世界で多くの人が暗黙の裡に肯定している歴史観はというと、《進歩史観》になるのではないだろうか?

過去から未来に向かう時間軸に沿って、世界は段々と進歩してより良い社会になるはずだ、と。そんな意識を多くの人が持っていると思う。

法制、暮らし、文化等々、この世界は常に移り変わっている。今まで良しとされていたことが、世間の急な変化で今後は駄目だとされる。こんな例は数多あるのが最近年の社会だ。

一見すると、世の中はこんな風に進歩するンだよね、と。こういう風に感じる人は多い。

ではあるが、実はこんなことも経験した。

勤務先の大学の将来構想委員会なる会議に、ある期間、出席していたことがある。研究教育の将来像について審議するのだが、ある年、学部の助手を「公募手続き」を経ずして、研究業績を評価したうえで、そのまま准教授に昇格させる人事を容認しようという提案がなされたことがあった。

学長、副学長等執行部による提案であったにも拘わらず、委員会の投票で否決されたのだが、その理由として文科省の要望には従わないという「反・中央感情」だけにはとどまらず、

これまで認められてきた制度をなぜ否定し新しい制度に変えるのか?

いわば《変えるという姿勢自体》に対して否定的な教員が多数を占めていたのである ― ちなみに、小生自身は変更に賛成していたが、こんな守旧的で頑固な人物は、たとえ意見の違いがあっても、大変好きである。

思うに、日本経済は「失われた30年」と言われるほど、長い期間ずっと停滞しており、停滞から脱して成長軌道に戻るには、各分野で構造改革を進める必要が指摘されている。ところが、いざ改革を進めようとすると、社会の多数から改革そのものに対して強い拒否が出てくる。小生が勤務先で経験した守旧的な反対とよく似ているのだ、な。そうして、強く反対している人がいるのに何故変えるのか、という結果になる。

実は、このような変えること自体に対する批判は、極めて儒教的な感情である。

儒教では理想社会を古代・周王朝の盛時に置き、それ以降は時代が下るにつれて腐敗、堕落が進み、間違った社会になってきたという歴史観をもつ。極めて保守的である。何かを変えることは腐敗、堕落の現れだという理屈になる。であれば、伝統として継承された制度や理念は改変不可。改革は、一部の人々の邪念による利己的企てであるとして、容認しない。連綿と受け継いできた国家の制度は礼式そのものであり守る。そんな気風が形成される。

儒教の創始者である孔子が生きた時代は、周王朝が衰退して列強が相争う春秋戦国時代になっていた。戦争が絶えない戦国の世に生きれば、誰もが平和を望むものである。世は次第に堕落してきた、私利私欲の追求ばかりをやっている、という歴史観をもつとしても、それは自然な出発点であったろう。

これに対して、現代日本社会で流行している、というより無意識に前提されている歴史観が《進歩史観》であるのは、もはや自明であると思う。

世界は常に進歩するものである。世界の歴史は過去から現在まで進歩してきた歩みそのものである。

確かに科学技術は発展してきた。進歩史観は、科学技術にとどまらず、法制度、人権尊重、倫理など社会全体としてもより進んだ社会に進化していくはずである。こう観るのが進歩史観である。

半月前にも投稿したが、進歩史観によれば理想社会は過去ではなく未来にある。その輝ける未来に向かって、社会は変わっていかなければならない。そのために私たちは努力しなければならない。道理に合わない諸制度は変革していく必要がある。変化すること、即ち進化であり、進化即ち善なのだ。こういう価値判断になる。


こうした《進歩史観》の根底には、独人・ヘーゲルの哲学があることは、ホボゝ周知のことであろう。

言うまでもなく、ヘーゲル哲学の基礎には弁証法がある。弁証法では、

ある命題(テーゼ)を提起したあと、それと矛盾する(かのように観える)命題(アンチテーゼ)が提起される。しかし、矛盾は解決されなければならず、両方を包含する統合命題(ジンテーゼ)が(いずれ)導出される。これを止揚(アウフヘーベン)という。

「テーゼ」、「アンチテーゼ」、「ジンテーゼ」という用語を一度も聞いたことがない大学生はいないはずである。

ヘーゲルの最大の仕事は、歴史の展開そのものを弁証法の下で理解したことである。ということは、歴史は過去から現在に至るまで、常により高次元のジンテーゼを実現する過程として理解されるべきものになる。その時代、時代が直面した諸問題は、テーゼに対するアンチテーゼが生んだ矛盾であり、その矛盾を解消するプロセスとして歴史を理解する。より高度の世界を実現する過程が歴史であるというわけだ。これが《進歩史観》である。

このヘーゲル哲学は、特に19世紀の大陸欧州の哲学に深い影響を与え続けた。マルクスの経済理論もそうだ。マルクシズムの根底にはヘーゲル哲学がある ― 但し、精神と物質の役割を逆転させた唯物史観をとった点がマルクスの真骨頂だが。いずれにせよ、それほどの昔ではない以前まで、ヘーゲルは克服するべき巨人であり続けたわけだ。


しかしながら、「進歩史観」はヨーロッパ文化に限っても決して伝統的な歴史観ではなかった。これ自体、フランス革命の勃発と欧州全体への革命の波及という特殊な時代背景の下で生まれえた特殊な歴史観であった。とはいえ、多くの人の目には伝統社会の崩塊と映った「乱世」が、弁証法に基づいて18世紀末から19世紀初めのヨーロッパ社会を眺めれば、社会は「崩塊」にあるのではなく「進歩」として認識されるのだから、誠に奇妙奇天烈、不思議な思想であったとも言える。

その後、19世紀を通してヨーロッパ社会は(弁証法がもたらしたわけでも、ヘーゲルが主唱した世界精神が活動したわけでもなく)自然科学の発展によって大いに高度の文明社会を構築できたから、マア、ヘーゲルの言ったように事後的にはなったわけだ―そこが孔子が生きた時代とは異なる。

どのような社会的混乱が眼前で進行するとしても、それは高度に進化した社会を実現するための「産みの苦しみ」である、と。こう考えるから「進歩史観」を信奉する人は必然的に極めて「前向き」の人物となる理屈だ。幕末の混迷の最中、『夜が明けるゼヨ~~』と叫んだ幕末の志士・坂本龍馬も、多分、こんな前向きのお人柄であったのだろう。ま、思想は自由だから、ご随意にということだ。

しかし、繰り返すが、こうした進歩史観は決してヨーロッパ社会で伝統的な歴史観ではなかった。同じように、現代日本でも「変革大好き人間」が数多いて、変革即ち進歩だと考えるのが常だが、こうした「進歩史観」は決して日本文化に継承されてきた歴史観ではない。


もし進歩史観を通して歴史をみれば、たとえば古代ローマが数百年の伝統であった共和制を捨て去り、皇帝が統治する帝政へと変化したことも「進歩」であった。

更に、第一次大戦後に理想主義的理念に基づいて発足したワイマール体制をナチス政権が打倒したことも「ドイツ社会の進歩」であったことになる。


要するに、その時代に生きる人々にとって「進歩」であると考えられた「変革」も、事後になって振り返ってみると「進歩」とは逆の「退歩」であった、と。「誤り」であった、と。将来の事実から過去の誤りが明白なものとなる。こんな事例は無数に見つかるわけである。何があっても「これも進歩のための産みの苦しみです」と言い放つ御仁がいるとすれば、その人の脳はどこかのピンが一本抜けている奇人なのであろう。

今日の投稿で何が書きたいかと言えば、

「正しい歴史観」というのは、存在しない

そもそも経験を超越してハナから真理であると言える命題が人類社会に関してあるはずがない。

社会の変化は、進歩や進化ではなく、その時点では単なる「変化」である。

その変化をどう評価するかが、常に私たちに求められている。が、それには進歩史観という一般命題は無用である。というより有害無益である。

変化がもたらす結果を観察することが大事だ。そして、その時に生きる人たちが現実を観察した結果として、その変化を「受容」するか、「修正」するか、「棄却」するかを選択すればよい。ある変化が「進歩」と言えるのか否かは、一般的な歴史観が決めることではなく、生きている人々が経験に基づいて判定するべきことだ。もちろん、人生は短し、学芸は長し、だ。その時の人々が判定する結果も暫定的評価でしかない。「歴史的評価」というのは、何百年という長い時間の経過の中で、徐々に固められるものである。

そもそも「武家政治」なる日本政治の在り方が、日本社会にどんな影響を与えてきたか?こんな古い基本的な問題であっても、今もなお色々な評価があるではないか。

これが小生の立場である。

こんなことを言うと、進歩史観に立つ人は、進歩を受け入れない守旧派の頑迷だと言って小生を非難することは分かっている。しかし《保守》と言われる姿勢が個人的には好きである。



2024年3月2日土曜日

断想: いわゆる「言論」も国ごとに、メディアごとに違いがあるようで

アメリカでは今秋の大統領選挙に向けて各州の予備選挙が進行中で、文字通り「政治の季節」、「言葉の年」といった情況だ。

他方、日本でも安倍派の裏金問題がこじれて、政局となる一歩手前の情況だ。政治倫理審査会でも野田・元首相と岸田・現首相が丁々発止(?)の質疑応答をしたばかりである。

ただ、どうなのだろうネエ・・・と感じてしまうところがある。

ひょっとしてこれは、英語と日本語との違いということか。そんな風にも思ったりする。

日本語は、心の中のニュアンスの微妙さを言葉にする時、非常に強力だ。

たとえば、「何があったのですか?」という単純な疑問文であっても

何があったンですか?

何があったのでございましょう? 

何かありましたか?

何かあったのか? 

何があったの?

何があったのヨ? 

何ごとだ? 

何ごとですか?  

何があったん? 

何かあったん? 

なンかあったん?

なんがあったんや?

なんかあったんか? 

何かあらはったんですか? 

等々、男女の言い方の違いもあるし、目上、目下の関係も同一の意味の言葉に織り込むことができる。表現が様々であることと、話者の気持ちが様々であることが対応している。これが書き言葉であれば、更に一部をカタカナにしたり、漢字にしたり、ローマ字にしたり、「・・・」を入れたりと、とにかく縦横無人に繊細な心の綾を言葉にして表現することができるのである。また、上の例文からも分かるように、日本語にはそもそも文法上の「時制」が曖昧だ。

日本のヤフコメを読んでいると、だから、書いている人は内心で怒りを感じているのか、情けないと感じているのか、誰かを揶揄っているのか、当てこすりたいのか、冷静な自分をアピールしたいのか、実は自慢話をしているのか、マア、この辺りの心理まで文章から読み取ることができる。・・・これは日本語という言語に備わった強みであると小生は思っている。

英語で言えば、ほぼ単一に

What's going (on)?

あたりで揃うのではないかと思う。

使う言葉の違いが社会の違いになっている(かもしれない)点は、ネットでも視える化されていると思うのだ。

例えば、同じYahooでもUS版と日本版があるが、双方のYahoo Comments(ヤフコメ)を一覧すると、日本語は情緒を微妙なニュアンスと併せて表現するのにに適しているように感じる。それに対して、英語は情緒を伝えるにはドライ過ぎる。が、客観的に主旨を述べるのには適している。そんな風に感じるのだ、な。だから、同じヤフコメでも、US版では微妙な当てこすりは目立たず、皮肉であっても言葉の意味としての皮肉であって、書いている著者の表情が目に浮かぶような情緒タップリのコメントは無い(小生の英語力にも関係するかもしれないが)、そう思われるのだ、な。

しかし、実は、細かなニュアンスを表現する「言葉の楽しみ」は、客観的な情報空間が豊かであるということを意味しない。

ともすれば、『ああ言えば、こう言う』というおしゃべりに堕するのが、日本語空間における言論の弱みであると、小生は勝手に考えている。

このように、日本語には日本語の強みと弱みがあり、英語には英語で強みと弱みがある。あとの言語もそれぞれ個性をもっている。比較言語学には素人だが、そういうことだろう。

ただ、民主主義を上手に運営するためには「議論」が欠かせない。実証的かつ客観的な言葉の使用が求められる。上下関係が自然に言葉使いに表れるとすると議論のツールとするには不向きだ。心を伝えるには美しい言葉が豊富にあり実に強力な日本語だが、であるが故にロジックを主張する時ですら、無用な感情のニュアンスが紛れ込むことがママある。討論する言語として、日本語は適切なのかという問いかけは確かに問題意識としてはあるかもしれない。

だからこそ、明治の文明開化の時代、啓蒙思想家や文人たちは、日本語を用いて、いかにして西洋直輸入の科学、哲学、思想等々、色々な学問を言葉にするかで悩んだ。その当時、多くの単語が造語されたり、言文一致体への移行が進められたのは、日本語で言論空間をつくろうという懸命な努力であったと解釈している。

日本で初代文部大臣・森有礼以来、時に《英語公用語化》が提唱されたりするのは、この辺の困難を実感したからではないかと推測している。

福沢諭吉は、わざわざ慶應義塾の敷地内に「三田演説館」を建てて、西洋で言う「スピーチ」の技量を育てようとした。そして、いま日本の初等中等教育だけでなく高等教育においても、「ディベート」教育が有用ではないかと指摘する声が増えている。

最近年で強調されている英語力の向上は、西洋文化の輸入に励んだ明治初めのスピリットに戻るだけでも、成果につながるはずだ。しかし、それより何をどのように話すかがもっと大事だろう。そもそも日本語を使って話すことを、そのまま英語で話そうとしても、同じようには話せないだろう。

明治の先達の努力を忘れ去ったような言葉のかけあい。「ああ言われたから、こう言い返してやった」と言った風な「言い合い」は、理屈の体裁をとっていても日本語ゆえに感情が混じり、感情のぶつけ合いになる。これでは日本社会の改善や進歩にはほとんど寄与しない。とはいえ、「ああ言われるときは、こう答える」という様なシナリオ式の進行も、予定調和的ではあるが、時間の無駄である。これだけは結論として、ここにメモしておいてもイイように思う。

政治や経済、科学や芸術について、世間の意見は様々あれど、

  • ネットは「砂浜」に似ている。ほとんど砂ばかりだが、美しい貝殻を見つけられることがある ― 特に台風が過ぎた後は。
  • 学会は、アルプスと高山植物が魅力的な「高原」に似ている。
  • テレビが展開する言論空間は、客を乗せては歓声をあげさせるお子様向けの「遊園地」のようだ。
  • 新聞がつくっている空間は「喫茶店」。店ごとの癖があるが仲間どうしで話がはずむ。大手紙は都会のルノアール。スポーツ紙、芸能紙は、大衆向けの「居酒屋」だ。
  • 台頭ぶりの目立つ週刊誌は「回転寿司」。所詮、大した品質ではないが、競争が激しいせいか、面白い品を出してきて、飽きさせない。

キリがないが、ベッドの中で上の例えを思いつきました。

アメリカ社会(やヨーロッパ社会)でもこんな傾向があるのかどうか定かでない ― 言葉だけではなく、発行部数や読者層のセグメンテーションも違っているので、多分、違っていると思う。