2017年8月17日木曜日

「明治維新によって文明開化がもたらされた」という見方は科学的ではない

終戦記念日に靖国神社を訪れると、荘厳であるべき境内周辺は政治団体の勧誘(?)で騒然としており、そうかと思うと戦前どおりの帝国陸軍軍装を来た一団が闊歩していたりして、とてもじゃないが心をこめて参拝をするような雰囲気ではないそうだ。

それにしても戦前を懐かしむ人は案外に多い。増えているのかもしれない ― ひょっとすると、安倍総理その人もそうかもしれないと思わせるところが恐いといえば恐いのだが。

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戦前期・日本は明治維新(王政復古)でスタートして1945年8月15日で終焉を迎えた。これに反対する人はまずおるまい。確かに明治憲法が施行されたのは、維新から20年以上もたった1890年であったが、フランス流に名前をつけるとすれば戦前期・日本は全体として「第一帝政」という名前に落ち着くのだろう。まあ、維新から明治憲法施行までが第一帝政、憲法施行から敗戦までを第二帝政と呼ぶ人もいるだろうが、本質に大した違いはない。この伝でいえば、戦後日本は国民主権となり「帝政」とはいえないので「第一共和制」ということになるのだろうか。いや「共和制」ではないなあ・・・「象徴天皇制」ではあるのだから。ま、この点は今日は置いておこう。

日本人で明治維新を非常に高く評価する人は多いはずである。義務教育でもそう教えられている。廃藩置県や文明開化はそのプラス評価の柱だ。が、そんな一時期の功績に注意を限定してプラスに評価してよいならば、戦後の日本についても昭和20年代の財閥解体、農地解放、そのあと昭和30年から45年に訪れた「高度成長」時代だけをとりあげて、非常に高い水準でプラスに評価してもよい理屈になる。これが片手落ちであるのは当然だ。

政治体制、というか一つの時代を形成した特定の社会システムの評価は、発足から終焉までの総決算によって評価するべきだ。つまり、戦前期・日本を評価するなら、大政奉還を天皇が勅許した1867年11月10日時点の日本と1945年8月15日時点の日本の国土と社会を比較して、双方のプラスとマイナスを評価するべきなのだ。総決算とはそういうことだ。

そして戦後日本の中間評価をいまするならば、1945年8月16日と2017年8月16日(今日の時点)を比較して評価する。そうでなければ全体を評価することにはならない。

確かに戦前期・日本の下で科学技術は向上し、資本蓄積は進み、人的資源もレベルアップした。それは事実だ。とはいえ、そもそも(客観的数値化などは不可能だが)旧幕時代最後の一日における国民の平均的幸福度と玉音放送があった一日の国民の平均的幸福度とどちらが高かったのだろうか?総決算とはそういうことである。1945年8月15日の日本が戦前期・日本の帰結である。これはもう自明のことである。

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一般に、ある政策の効果を評価する場合は次のようにする。

  1. 政策を示す外生変数を定義する。
  2. 実際に実施された政策をデータに含めモデルを推定する。
  3. 政策の実施がなければどうなっていたかをシミュレートする。
  4. シミュレートされた計算値と実績値との差が政策の効果である。
  5. また、ほかに実施されえた政策を複数のケースに分けてシミュレートする。その中で最善の結果をとって、実績と比較する。実績がシミュレートされた最善値を下回れば政策による不利益があったと考える。
実際には、上のような経済実験はデータ的にも概念的にも実行が困難である。しかし、上のような考え方に沿えば、「もっとうまく出来たのに」という歴史上の「イフ(If)」はいつでも当然あるわけで、<明治維新のおかげで文明開化が出来たのだ>という歴史評価は決して科学的議論ではないことに思いが至る。

AのあとBがもたらされた時、Bという結果の原因がAであるとは限らない。AダッシュやAツーダッシュからもBはもたらされうる。因果関係の検証は慎重さを要するのだ。しかし、歴史評価ではAがあったからこそBがあったという議論をよくする。『先にあったことが後にあったことの原因である(post hoc ergo propter hoc)』(英訳:"after this, therefore because of this")と考えるのは昔からよく知られている誤謬"post hoc fallacy"である。「明治維新のあと文明開化があった」のは事実だが、明治維新なかりせば文明開化は決してなかったのだと、そうは推論できないだろう、と。そう考えるのはロジックに反するし、また実験で検証されているわけでもない。科学ならそのように議論する(はずだ)。

旧幕時代から維新後にかけて社会は大いに進歩したのだという福沢諭吉的観点に立つとしても、それは観察された事実がそうだったということだ。大政奉還がなかったと想定して、1867年11月10日以降をシミュレートすればその長期的な発展経路は、案外、実際の歴史経路よりもパフォーマンスが良かったかもしれない。少なくともその仮説的可能性を先に否定することは非科学的である。同じ意味で、もし明治維新後に実際に実行された政策は最善とはいえず(これが事実だと小生は考えているが)、ほかにもっと豊かで平和な日本を築くことが可能であった政策も存在した、と。そんな可能性についての議論が構築できるなら、そういう議論も決して無意味な議論ではない。

まあ、歴史学会ではどのような議論の仕方が普通であるのかは小生よくは知らない。

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であるので、靖国神社境内を帝国陸軍軍装で闊歩する一団をみると、重大な交通事故を起こした運転者(ないしその家族)があとで何度もその事故地点を訪れ、訪れるたびに「間違ったところはなかった」と、「誠心誠意、注意をして運転をしていたのだ」と、「ほかに何ができただろう」と、そんな反・自虐的追憶に心を任せる人物(悪い人では決してないのだろう)を想像してしまうのだ、な。道を変えれば事故はなかった可能性があり、そもそも運転をしなければ事故は起こりえなかったのだ。



2017年8月16日水曜日

一筆メモ: これも国民性の違い?

カミさんと話していたとき、こんな話をした:

カミさん: 日本人の若い人がまた海外でボランティアをやるみたいヨ。
小生: ずっと昔、宴会か何かでこんな話をしたことがあったっけ。ええっとネ、アメリカ人は『みんなで協力して大儲けしようじゃないか、金持ちになろうぜ』って言う。日本人なら『みんなで力を合わせて我慢しよう。困った人がいれば助け合おう』って言う。で、中国では『お上の言うことをきけば金を儲けてもよい』ことになっている。
いま思い出しても、結構よくできたアネクドートであったわい、と。

ただまあ、何事にも表と裏がある。アメリカ人なら『山分けで一番たくさんもらうのは、やっぱり案をだした奴だな』というわけで分配面の問題が残る。不平等が進むことが多い。日本人はみんなが平等になるが、下手をするとみんな貧乏になる。一人儲けると心やましくなる、やっカミをこうむることが多い。中国では、言うことを聞いていれば国が助けてくれるが、聞かなければ蓄財疑惑で家財没収になることが多い。

小生:一長一短だなあ、やっぱり。
カミさん: 暮らしやすくても貧乏はいやだなあ・・・。
小生: 才あるものは徳が薄く、徳あるものは才に乏しい。両方兼ね備えた者は誠に得がたいものである。同じだよ、これと(笑)。

2017年8月15日火曜日

北朝鮮は誰の番犬なのか?

先日の投稿では、こう書いた。
中国がつないでいた北朝鮮という名前の狂犬が、トランプと名乗るならず者と仲良くし始めた主人に疑いをもって、暴れまわったあげくに綱を噛みちぎり、みんなが困り果てていたところ、ロシアの狩人プーチンが力づくで犬を抑え付けて、ロシアの番犬にした。
核開発技術はロシア経由かと憶測しているのだが、こんな見方もあるようだ。
 習国家主席は、北京より平壌と親しい「瀋陽軍区」によるクーデターを極度に恐れている。「瀋陽軍区」高官の一族らは、鴨緑江をはさみ隣接する北朝鮮に埋蔵されるレアメタルの採掘権を相当数保有する。「瀋陽軍区」が密輸支援する武器+エネルギー+食糧+生活必需品や脱北者摘発の見返りだ。北朝鮮の軍事パレードで登場するミサイルや戦車の一部も「瀋陽軍区」が貸している、と分析する関係者の話も聞いた。
(出所)産経ニュース「野口裕之の軍事情勢」、2017年8月15日

ロシアではなく、中国の地方軍閥の番犬が北朝鮮だという見方もあるわけか。やはり大企業マスメディアの取材力だねえと見るべきか、それとも単にこんな噂もあるという目で見るべきか。この両方が正しいということなのか。

いずれにせよ、こんな地下で根が繋がっているような複雑怪奇なパワーゲームに参入した戦前期・日本は、ウブな感覚のままで状況変化に振り回され、狡猾に立ち回るべきところを武断主義などと称してガラパゴス的な行動を選び、結局は米・ソ・英・中(←中国に対して戦術的には優勢であったものの戦略的敗北に追い込まれたと見る点では合意が得られているようだ)の力に踏み潰されてしまう、力を使えばもっと大きな力に敗けるという大失敗を演じたが、これまさに理の当然でもあったわな。と、そう思う今日・終戦記念日である。

思えば日清戦争ではやくも明治天皇は『これは朕が戦にあらず、臣下の戦争なり』(だったかな?)と語ったよし。戦前期の天皇制の意思決定の本質、そして何が可能であったか、不可能であったか、その問題の本質等々、まだまだ研究課題は多いに違いない。

もう一度、仕事のスタートラインにたつならビッグデータや人工知能も面白いが、近現代史もまだまだ未開拓の余地があって面白いだろうなあと思う。"Noch einmal"(もう一度!)ができない点が人生で残念なところだ。

2017年8月12日土曜日

気温予報の説明方式には改善の余地あり

「西日本の気温は本日も例年より3度高くなるものと予想されます」・・・天気予報ではよく耳にする伝え方である。

しかし、長期的な温暖化が本当に進行しているなら、「例年」より今年の気温が高めになるのは当たり前である。

たとえば『最近10年間の平均気温よりは3度ほど高い暑さになるでしょう』という説明であれば意味がより明確になる。更に『温暖化が続くなか、データから予想される気温よりもさらに1度高い暑さが予想されています』、こんな予報であれば最近の気温上昇トレンドを加味してももっと暑い、つまり非常に暑い、こんな説明方式も可能なはずだ。

最近の気温の動きを加味した予測値計算は、扱いの難しい時系列データであっても、多々、統計的な計算方法があるので選択に困ることはない。

古典的なボックス・ジェンキンズ法を勉強するときに何度も強調されるように、高め或いは低めの同一方向に予測ミスを一週間も続けるなら、予測方法自体がおかしい。温暖化は気温にトレンドが生じていることだから平年値に予測上の何かの意味をこめているなら既に適切ではないし、従来の目安として使っているだけなら単純に意味がない。

温暖化を後追いしながら「例年より高め」だと説明する言い方には意味がない。

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ただまあ化石燃料利用による「温暖化」は本当かという点も、正直なところ、マユツバであるとは思っている。足元では確かに上昇トレンドにあるのだろうけれど、これを「温暖化」というなら、これまでにも温暖化現象があらわれた期間はあった。「寒暖700年周期説」を唱えた学者もいたくらいだ。

厳密な意味で正確かどうかは検証していないが、まず正当だと思われる記述があるので引用しておく。
白亜紀には、年平均気温で、現在より10~15℃も高かったので、北極や南極近くにあった氷床はとけて、海水が増えました。そのために、海岸線が上がってきました。これを海進(かいしん)といいます。また、海進との関係はまだよくわかりませんが、白亜紀には3度にわたる海洋での酸欠の事件(1億1500万年前ころ、9300万年前ころ、8800万年前ころ)がおこりました。
 中生代には、あたたかく浅い海が広がっていたため、海の生物が増え、有機物が地層中にたくさんたまっていきました。これが、石油となりました。
(出所)http://www1.tecnet.or.jp/lecture/chapter4/4_13.html

「白亜紀」とは中生代白亜紀のことで今から1億年前後さかのぼった時代である。恐竜が生きて地球上を闊歩していた。初期哺乳類はもう誕生していたはずだ。もちろん前後というのはプラスマイナス4千万年程度で広くみなければいけないー人類の古代文明が誕生してからまだ5千年程度であることを思うと、「文明」といっても自然史の中ではほとんど瞬間的な出来事である。中生代にはもちろん自動車も火力発電所もなかったわけだ。

2017年8月11日金曜日

メモ: 対北朝鮮=軍事マターと決めているのはメディアではないか

実質が確かにスキャンダルであった森友騒動はともかく、「加計学園問題」に本当に問題である実質があったのか、未だによくわからない ー というより、加計学園騒動は反政権闘争であったとみれば理解できる。

またまた不審な状況になっている。それは現時点の北朝鮮ミサイル発射観測に関するメディア各社の報道姿勢である。

どのメディアも防衛省の対応方針、たとえば「北朝鮮がグアム周辺水域に着弾させるとして、それは日本の存立危機事態に該当するのか」とか「同時に4発発射するとして、その一部が日本に落下する場合、打ち落とせるか」とか、あれもこれも北朝鮮問題を軍事マターとしてとらえている。

そして政府もまた、言うまでもないが、同じ姿勢で、つまり北朝鮮の軍事挑発には軍事的対応で対処しようとしている(ように側からは見える)。

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軍事の前に、外交マターではないのかねえ?この分野の専門家でもないが。おかしな状況だ。

防衛大臣に意見を聴く前に、まずは外務大臣に対応の基本方針を確認するべきである。メディアは取材対象の選択を完全に間違えている。

防衛大臣の所掌マターに外交当局が口出しできない「雰囲気」があるなら、戦前期・日本と何も変わっていない。TV局は、有効な意見など出てくるはずがない軍事評論家にワイドショー出席を依頼するよりは、まずは本筋通りに外交評論家の意見を聴くべきだ。

そもそも日本国憲法は、原理的に読めば国際紛争を解決する手段として武力行使を明文で<放棄>しているのであって、何であれ外交によって解決することを明確に要請しているのだ。日本の政府は日本の憲法が要請している国務を誠実に履行する使命を負っている。安保法制は成立したが、憲法が改正されたわけではないのだ(=政府が閣議決定を変更したというだけで司法判断で正当性が確定したわけではない)。

北朝鮮のミサイルに対して「迎撃ミサイルで・・・」なんて言ってね、話しがありますが、あくまでも解釈で「自衛のために最小限なら持ってよし」とされているだけでござんしょう?憲法には『陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない』ってハッキリ書かれているんでござんすヨ。まあ、「絶対使わねえから」って誓うんなら、「これは戦力じゃあねえよ」って詭弁もあるんでしょうけど、迎撃ミサイルで撃ち落とすってんなら、こりゃあもうどうみたって「戦力」に決まってらあ。武力は使っちゃいけねえってサ、小学校でね憲法でそう決まってるって先生言ってましたぜ。そうじゃあないんですかい?土台おかしなことをやってるヨ。「こんなこと、本当に憲法でできるんですかい?」ってね、政府のお歴々は頭はいいはずだし、メディアのお方も学問をしていると思うんですけどね、なあぜ「専門家」に聞いてみねえのか、頭の悪いアッシにゃサッパリ分かりやせん。ミサイルはねえだろうってサ、おれっちには落とすなヨってね、外交に一生懸命になるってえのが義務ってやつじゃないんですかい?

違憲の疑いがある(というより、法学界では明らかな違憲であると判断する学者が多数派である)安保法制によって軍事的対応をとる場合、違憲訴訟が続出することになりますぜ。マスメディアもいまは憲法より軍事だと言わんばかりに片棒をかついでいる。支離滅裂である。このバイアスは意図的なのか?それとも編集部、デスクのメンタルは大丈夫か?

2017年8月10日木曜日

メモ: 社会的役割と微罪の関連性

「微罪」というのは、例えばスピード違反やシートベルト装着義務違反、あるいは最近の時代であれば組織内部における(自覚のない程度の)パワハラ、セクハラ、アカハラ等の加害者経験も該当するだろうが、要するに規則上罰則対象になっている細かな違反行為を総称するものである(と本稿ではしておこう)。これが万引きや痴漢にまで至ると、「微罪」という範疇には含まれず、言葉のイメージ通りの「犯罪」ということになるだろうが、罰則の軽重から順序づければやはり「重罪」ではなく「微罪」ということになるのかもしれない。

「微罪」とはいえ、責任ある地位にある人にとっては、致命的なウィークポイントでもあるのが、現代の先進国の特徴である。なぜなら爛熟したマスメディアによって「微罪歴」を公表され、社会的な物議になることによって、その当事者は社会的地位を失い、将来責任ある地位につく可能性も喪失する可能性が高い、というのが特に近年目につくようになった現象であるからだ。一部の人は、成功した人物に対して「ある境遇の」人たちが共有する嫉妬であると、言い切るのも特に最近になって増えているようだ。

やはり「格差拡大社会」の負の側面が顕在化しつつある、ということなのか。

政治家(の事務所)であれば(過失による、もしくは監査の不十分性による?)政治献金未記載、株式会社取締役であれば泥酔暴行やアダルトビデオ購入歴などは上で言うところの「微罪」の典型例だろう。少なくともこれらが「重罪」であるとはどうしても(小生には)思われない。

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これも以前の投稿でつかった記憶があるのだが、江戸幕府6代将軍である徳川家宣が家臣・新井白石から勘定奉行・萩原近江守重秀罷免の願いを数度にわたってきくもののその都度とりあげることはなかった。『才ある者は徳が薄く、徳ある者は才に乏しい。両方兼ね備えた者は誠に得がたいものである』と。確かに荻原重秀は世評が極めて悪く、その何割かは事実だったのであろうが、財政運営における重秀の技量は実績の示すところであり余人をもって代えがたい。ゆえに、もう少し待て、というのが将軍・家宣の判断だったという。

現代日本なら、瓦版が重秀汚職の非難を繰り広げ奉行辞任を強要していたであろう。

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内閣にせよ、官庁、民間企業、はたまた一般の個人商店、家庭に至るまで、非常に長い期間にわたって問題なく運営するには相当の技量、覚悟と修練の裏付けが必要だ。

組織の重要ポストにふさわしい力量は、その職務から決まってくるものであり、円満な家庭をつくり子弟を育て上げるにはまた独立した才徳が要る。

何十年の「実績」の積み重ねは、それ自体としては事実であり、あった事実をなかったとすることはできない。

何が新たに評価材料として付け加わるとしても、プラスとマイナスをあらいざらい汲み取って人をみる(将軍はいないわけだから)国民の度量をメディア企業は損なってはならない。バイアスを意図的に混入させてはならない。反対尋問にたえる準備はせねばならないし、また必要に応じて尋問の機会を設けるべきだ(「日本報道検証機構」はあるがこの機構のパフォーマンスを評価できるほどの知見はもっていない)。小生はそう思うネエ・・・。やはりジャスティスやフェアネスが社会には大事である。

まあ、特に日本を話題にすれば、この二、三年の「安倍政権」の傲慢も酷かったけれど、ネ。

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微罪を攻めて社会的地位を失わせる行為は、現代先進国で開発されたソフト・テロリズムの兵器と言っても言い過ぎではないような気がしている。

もしも政治的党派感情から特定の会社・結社が敵対者を筆を用いて攻撃するとすれば、まさにソフト・テロという言葉が当てはまるだろう。

創造的かつ生産的な社会の維持にとってこのような人的資源の浪費はマイナスであるとしか思えない。

しかしながら、「表現の自由」を考慮すれば、このような攻撃的報道も違法ではない。これまた社会の健全性の証でもある。しかし、あらゆる意見に対して公平な機会が提供されていなければならない。これも重要な命題だ。

大企業によるメディア市場の寡占、寡占企業による結託、アウトサイダー排除等々の弊害を防止する必要があるのは言うまでもない。

要するに、特定の大規模メディア企業の影響力は、その報道姿勢によらず、一定レベルを越えるべきではないということだ。これも経済学上の一般的要請の一例であり、行政上の課題になりうる。

今日の投稿で述べたことと、インターネットが普及した状況の下ではどのメディア企業も<党派的>にならざるを得ないと議論した先日の投稿と、どう関連づけるか、それはまた別の機会に。


2017年8月8日火曜日

メモ:公職の選抜方式について

先日の投稿でも政治家や官僚などの所謂「公職」に就く人物の選抜方式をとりあげている。政治家は選挙で選ばれ、官僚は筆記試験を受けて選抜されるのだが、選挙と試験という方式の違い自体には何の倫理的価値も含まれていない。選ぶ人材と選抜の効率性に基づいた方式の選択でしかない。そんなことを述べた。

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朝の連続テレビ小説『ひよっこ』の視聴率がこのところ上がっているそうだ。拙宅でもカミさんと二人で毎朝視ているのだが、ちょうど失踪した父親が記憶喪失の状態で見つかり、今後の進行が期待される段階にきている。

見つかった父親は、ちょうど小生の亡くなった父とも同世代と思われ、思わず見入ってしまうのだが、ともすると『あれだねえ、あの世代は少年から青年にかけては軍事教練、勤労奉仕、あげくに軍隊に召集されて最前線で生死の境をくぐり、戦争が終わると今度は仕事の最前線で無際限に働けと・・・忙しいまま年をとり、年をとったら介護が大変、介護費用がもったいない。若い者が気の毒だ。いつまで生きるんだと言われているかのようで、ホント、報われないねえ・・・あわれだよ』。そんなつぶやきも口から出てきたりする。

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終わってチャンネルを切り替える ー 小生、まだ仕事は続けているが、「隠居」待遇なので業務上の義務からはかなり解放されている。だからこんな毎日を続けられている。

すると山梨市長が職員の不正採用の疑惑で逮捕されたとの報道だ。

『役所の原稿を読むことに徹します』といった風の抱負をのべた安倍・再々改造内閣の某新大臣のほうがまだましであった。

それにしても所謂「政治家」のレベルダウンが甚だしい。

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そもそもある一日に有権者が投票をして、より多く票を集めたほうの立候補者を議員なり、知事なり、市長に採用するという現行の方式。実質的に適切な人材を選抜する方式でありうるのだろうか、というより現にそうなっているのだろうか。単なる人気投票ではなくそれが適切であることは論理的に証明できるのだろうか。証明できるなら、どんな証明になるのだろうか・・・?もちろんこれらは反語的疑問文である。外ヅラがいいとか、内面がいいとかがあるが、人柄もよく知らずに投票をして、その票数で決めるなど、クジで決めるのとどこが違うのだろう、と。小生ずっと若い頃からこんな反民主的な思いをもってきた。が、最近はこの思いに自信も加わってきたのだ、な。

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大学でよくやるように、政治課題に関するレポートを書かせ(もちろんゴーストライターがいるかもしれないが、それは想定上のことだ)、レポートの採点をするのと併せ、そのレポートを踏まえたプレゼンを公開の場でコンペティション方式で開催し、専門家と一般有権者から構成される審査委員による評価に基づいて第1位候補者、第2位候補者を提示する。その候補者に対して有権者が最終的に投票するーこの最終段階の投票は省いてもよい。小生なら、市長や知事はこうするねえ。ま、いま職にある多くの首長はこんな風な方式であったとしてもやはり第1位候補者に選出されると思う。

普通選挙よりは筆記試験の方が知識・教養のある人材は選抜できる理屈である。頭脳とコミュニケーション力を求めるなら、選挙より公開プレゼンが最良である。プレゼン終了後は審査員が質問する。フロアで観ている一般有権者の質問も幾つかは応答する。実際にやってみればすぐ分かる。驚くほどよく力量を判別できる。もしリーダーシップや協働への適性を見るなら特定課題に関するグループ討論をさせてみるのが一番だ。これらを視聴する一般有権者は誰がもっとも「公職」にふさわしいか容易に判断できるはずだ。

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普通選挙は民主的だが、民主的であるがゆえに縁故や地縁・人縁に影響される。人材選抜の精度と民主性、更には経済性(=低コスト)を同時に満たすには、選抜方式を選抜目的と整合させなければならない。これは学問的知見が活用できる領域である。

専門家は、こんな時に活用するべきだ。

いずれにせよ、封建的・身分制的社会から現代社会に至るまでの理想であった「普通選挙」は、もう一度、その役割と位置付けの再検証が必要になってきたのが21世紀という時代だと思われる。