2018年7月13日金曜日

「道徳教育」が再生困難である理由は何か?

小学校の道徳が正規教科となってから色々な混乱が発生しているらしい。

たとえば著名な若手憲法学者である木村氏はこんな意見を述べている。組体操で上にいたクラスメートが動いたため人間ピラミッドが崩れそのために負傷者が出たあとの人間関係がテーマである:
一部の子どもがバランスを崩しただけで骨折者がでる、そんな危険な状況で練習をさせたのであれば、学校の安全配慮義務違反が認定される可能性は高い。民事上の問題として考えるなら、学校が損害賠償を請求されれば責任は免れ得ないだろう。
また、刑事上の問題として考えるなら、注意義務違反によって骨折者が出ているのだから、教員は業務上過失致傷罪に問われてもおかしくない。
事故が起きれば、原因を追究し、責任者を特定する。責任者の行動が、不法行為や犯罪なら、損害賠償義務が発生し、刑罰が科される。どの国でも、法とはそういうものだ。
しかし、この教材は、「困難を乗り越え、組体操を成功させる」という学校内道徳の話に終始する。学校内道徳が、法規範の上位にあるのだ。いや、もっと正確に言えば、学校内道徳が絶対にして唯一の価値とされ、もはや法は眼中にない。法の支配が学校には及んでいないようだ。これは治外法権ではないのか。
出所: これは何かの冗談ですか?
URL:http://gendai.ismedia.jp/articles/-/47434

氏の意見は基本的に筋が通っていて理解できるものである。

しかしネエ・・・一面的でありすぎる面も否定できない。そんな印象を感じる。

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確かに「法治主義」は現代日本社会で守るべき貴重な価値であると、これは100パーセント賛成である。「法」というのは、成功や失敗、長い経験や学習の歴史を通して日本社会が(というより現代世界の多くの国が)習得してきた普遍性のある規範とも言えるからだ。

しかし、法が、というより憲法をはじめとする法規が、その社会の倫理的な価値を全て包含するというのは不可能だろうと思うのだ。もし規範的な価値がすべて法という形式に含まれうるものだと考えるなら、近年目に余る「法的には問題はないが許せない」という社会心理から展開されている「社会的制裁」は、論理的には一切不可であり、違法であり、故に社会的制裁が法的に制裁されるべきである、と。こういう理屈になるのではないかと思うのだな。

全ての規範は法規という形式をとるべきである。法という形をとらなければ人は自分の規範を他人に押し付けることは不可である。守るべきルールは全て法律という形をとるべきだ、と。本当にこのような社会を人々が望んでいるとは(小生個人の山勘ではあるが)どうしても思われないのだ。

だとすれば、その社会の規範意識の中で法が占めるのは部分的であるにすぎない、というよりそうあるべきだと人々が(ホンネでは)思っていると言うべきだろう。

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但し、こういうことは言えると思う。

すべて道徳教育というのは、究極的には『***べきである』、つまり独語でいえば"sollen"について教える教育である。

『なぜ人たるもの、かくするべきであるのか?』、ここを幼少期だけではなく、成人も含め全ての構成員が共有知として理解しておくことは、その社会が安定して機能していくうえで極めて重要である。

この「理解」は、ロジカルに、つまりは理性に訴えることで可能であると考えれば、カントの「実践理性」というものになるのだろうが、この考え方は19世紀から20世紀の歴史的経験を通して、概ね破綻したのではないだろうか。小生はそう思っている ― この点もまた微妙な点だとは思う。

とすれば、倫理的な規範をいかにして「規範」として理解し受け入れるか?この問題がやはり残る。もし規範が規範である根拠を「理性」に求めることができず、「法」に求めるとしても全てではないとすれば、あと残りは「共有された感情」くらいしか思いつかない。そして共有される感情というのは、典型的には「宗教感情の共有」として継承されていることが多い・・・。19世紀にアジアに進出したヨーロッパ諸国が「領事裁判権(治外法権)」にあれほど拘ったのは、相手国の文明的未成熟という点があったにせよ、それは非キリスト教国であるアジアとは心の深層部を占める宗教意識を、ひいては規範的価値を共有できないという認識があったのだと、こう言い換えても同じことだろう。

確かに宗教は規範の源たりうる。しかし、現代日本社会において公教育は宗教とは独立でなければならないと、日本国憲法がそう定めている。

では、「法」の中に包含しきれないような社会的規範があるとして、それは「法」ではない、「宗教」とも関係づけられない、しかし守るべきだと。そんな規範をいかにして理解させ、共有知にまで高めていけるのか?小生には分からない(マア、発案者の意図が想像できないでもないが)。まさかマスメディアやネットの投稿が正邪を決めるからというわけでもあるまいが、もしもその時の内閣、その時の文科省、あるいは国会(?)が「私たちが守るべきこと」を決めるというなら、まだむしろネットやメディアに決めてもらう方が好い社会かもしれない。いくら保守政権であれ授業の場で「大和魂」などと口にされるのは閉口だ。まだ「社会的制裁」のほうがましだろう、こちらも同じく閉口ではあるにしても。

どちらにしても、木村氏が「おかしい」と指摘しているように、規範の源を示すことなき道徳教育はお爺さんの語る寓話か、でなければ『挨拶とお辞儀はどちらを先にするべきか』という類の下らないマナー教室か、いずれかに堕落していくような、そんな未来がいまから窺えるような気がするのだ、な。



2018年7月10日火曜日

当たり前だが、真意の分からない意見はよくある

一体、職業生活を通して「会議」なるものに何回出席したのだろうか。何かを決めるときには、日本の組織は文書決裁(=稟議制)で(今でも)やっているはずである(と思う)。なら、なぜ正式の会議でこれはこうこうと致しますという儀式を行っておく必要があるのだろうか。決裁文書に記す本文の中の「経緯」という節で『●●年〇〇月△△日の第*回***会議において以下の方針が了承された、云々』というそれだけの事が多かったが、実に多大の時間を会議出席に費やしたものだと思う ― それにしては、よくみる夢の中で会議に出席しているシーンは少ないのが不思議だ。

それはともかく、以下のような(当たり前の)指摘がネットにはある。
30年7月豪雨による、災害、被害の現況が刻々と伝わってきます。その被害の甚大さは目を覆うばかり。
政府に対して、災害対策に万全を期すべしという申し入れを、野党として今日行いました。
安倍総理は11日からの海外出張を取りやめ。妥当な判断だと思います。
ひとつ国会で気になるのはカジノ法案の審議のあり方。この法案の担当大臣は石井国交大臣。まさにこの大災害時に陣頭に立って指揮をとるべき立場です。その人を、カジノ法案を通すために国会に張り付きにするのか。与党はどう考えているのか。カジノ法案審議を強行してくるのか。
あるべき優先順位は明らかだと思います。
URL: http://blogos.com/article/309994/

災害対策とカジノ法案を比べれば、それは災害対策を優先するべきことは当たり前であり、これが理解できない国会議員(地方議会議員を含め)はいないと思われる。なので、上の引用は真意がよく分からない。

ただ、与党はIR推進法案も成立させるつもりだろう。どちらもやるという作戦をとるのは、これまでの姿勢から明らかだと思われる。

しきりに思うのだが、国会答弁はなぜ大臣でなければならないのだろう?副大臣、政務官でも想定問答を読むくらいなら出来るはずである。どちらにしても、大臣の個人的見解などは期待されてもなく、開陳もできないのだから。

ずっと昔はよく役所の担当局長が手を挙げて委員長が『〇〇省△△局長』と言うと、横の方の席から役人が出てきて答弁していたものだ。民主党政権時代に「政治主導」というので政府委員を廃止したと記憶しているのだが、最近のTV中継をみていると、また復活しているようだ。

政府委員もいいが、副大臣や政務官が原則答弁するという方式でもよいのではないか。というより、政務官を報道官と改称して、官庁組織の意思伝達は報道官が担うという方式が合理的ではないか。米国、中国もそうしているようであるし、日本もその流儀を採用するのが行政効率化に寄与すると思う。

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本日は、中江兆民の『三酔人経綸問答』についてメモを記そうと思っていたのだが、たまたま上に引用した文章を見つけたので、テーマを変えた。

2018年7月8日日曜日

『これで分からなくなった』という認識の不毛

オウム真理教幹部が処刑され社会は(海外もまた?)衝撃を受けたようだ ― どの部分にショックを受けたかは人によって違いがあると思うが。

色々な意見が公表されている。それは当然だ。その中で『これで永久に不明のままになってしまった』という意見がある。確かに当事者を抹殺してしまえば、それ以後当人の口から聴けなくなることはある。これが理屈だ。

しかし、霞が関界隈で地下鉄サリン事件が発生して23年が経過したいま、『これで永久に不明のままになってしまった』と受け止める立場というのは、「不明の事柄が多く残っているにも関わらず死刑判決を下したのは不当である」という思考と実質は同じだ。

本当に事件の要点で不明のまま残されていることは多いのだろうか?判決は不当だったのだろうか?

たとえば<オウム真理教 書籍>と検索してみるだけで、実に多数の本が出版されていることが分かる。加えて、オウム裁判において記録されている膨大な資料がある。また、捜査・検察当局が作成した調書。これらは情報として公開されなければならないし、実際、公開され、吟味され、また新しく本や論文が執筆されることだろう。

それでも事件の中で100パーセント分からない部分は残るに違いない。これまた当然だ。そもそも〇〇年●●月△△日の***会議において、自分はなぜあんな発言をしてしまったのだろうか、あんな意見を述べさえしなければ、また違った結論になったかもしれない。小生だって、そんな記憶は幾つかある。自分にだって動機が分からないのに、他人の言動なぞ100パーセント理解できるはずがない。

それを言っちゃあ、おしめえヨ

まあ、そんな結論になるのだが、だからこそ『勝機がゼロであると知りながら、なぜ日本は日米戦争の引き金を引いたのか?』、『清水の舞台から飛び降りることも必要だとその時の東條首相は言ったらしいが、それはどういう意味だったのか?』とか、今もなお議論百出でいろいろな「事実」が掘り起こされている。そういうものですよ、としか言えないのではないか。

小生の好きな詩人の一人に三好達治がいるが、小品"Enfance finie"の中に次の下りがある:
今日記憶の旗が落ちて、大きな川のように、私は人と訣(ワカ)れよう。床に私の足跡が、足跡に微かな塵が‥‥、ああ哀れな私よ。
「世界」や「存在」は記憶の中でのみ存在することができるものである。とすれば、その存在も、人も、事実も、時間の中における一瞬の出来事でしかない。実に儚い自己意識がここにある。

社会で可能なことはマネジメントである。というか、マネジメント以上の何が可能だろうか?『分からない』と人がいうとき、『分かるべき何ものか』がそこに存在していることを前提しているが、実はそんな実体はない。『自分はいまこう思う』と、人に言えるのはこれだけだ。だとすれば、永遠に人は何かについて語り続けることができるだろう。それでいい、というかこれ以上の何が可能だろうか?

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ある日の試合で勝った野球チームがある。『これで勝ち方の何たるかを理解したよね、だから明日も勝てるでしょ?』と、このくらい馬鹿々々しいセリフはないのは誰にでも分かるだろう。

でも負けた。負けたのはなぜ?理屈としては勝ち方を知っているのに負けた。あなたの責任だよね。これまた意味のない理屈である。

そのとき何をするかを決めることしか人間には出来ない。それが動機といえば動機になるのだろう。が、動機を知ったところで、なぜそうなったのかを理解することはできないのだ。

論理的思考で人間や社会の核心は理解できない。当人になってみたって自分が自分で理解できないということを知るだけだ。作家モームの言うように『人間は矛盾に満ちた存在なのだ』。

小生はこんな世界観が大いに気にいっている。

2018年7月6日金曜日

覚え書: オウム真理教上層部の死刑執行に関連して

大阪から北海道に移住してから間もなくして阪神大震災が起こり、東京・霞が関界隈の地下鉄駅構内でサリン事件が発生した。どちらも小生の生活範囲であったかもしれず、それを思うと、文字通り『人生、一寸先は闇』であると感じる。

その一世を騒がせた宗教組織指導者13名のうち7名に対して本日2018年7月6日に刑が執行された。覚え書きとして記載する。

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中には『死刑の廃止は、国際的な流れだ。国内でも、死刑制度をどうするべきか、議論を深めるべきだ』との意見も提出されているようだ。TVのワイドショーでも『国家が人の命を奪ってもよいという点はもう一度議論するべきだ』というコメンテーターが多い。

しかしながら、欧州で死刑廃止が世の流れになったのは、加害者の人権を守るという思想に基づくものではなく、多分に政党間の対立から採られた政治的な結果であるという見方がある。

アメリカでも死刑が廃止される流れであったが、Wikipediaからも分かるように、犯した犯罪に照らして過剰ではない場合には死刑は合憲であるとの連邦最高裁判決が1976年に示されるに及び死刑が復活した。昨年7月末時点で2817人の死刑囚が米国内で収監されているようである。

死刑は国家による殺人であって認めがたいという哲学的指摘を認めるとすれば、そもそも殺人という罪において人が殺害されているという事実をどう考えるのか?人は人を殺すことがありうると認めながら、国家は人を殺してはならない、と。そう考えるべきなのか?テロリストがテロ行為に及びつつあるときに、警察官はテロ犯を射殺できないのか?殺人に及ぼうとする犯人を射殺してもよいのであれば、なぜ人を殺害した犯人を死刑に処することは不可なのか?国家は国民を殺すことができないが、人は人を殺すことがありうると考えるなら、復讐のために加害者を殺すことはありうる、正当防衛のために人を殺すことはありうる、決闘で命をかけて黒白を決着させる行為はありうる、と。そう考える社会へ変わっていくのではないか?

"MAY"の認識から"CAN"の認識まではほんの一歩である。

死刑の存否についてその是非を哲学的に決定したいなら、上のような諸問題に対して論理的な回答を引き出すことが必要であり、かつ社会的な合意を形成する必要がある・・・が、多分、それは不可能だろう。

とすれば、死刑の存否は世論、つまり多数の国民の意志による。そう考えて、民主主義を信頼し、死刑もまた善いか悪いかではなく、「法治国家」の在り方の一つであるとして受容する。これ以外にどんな道があるだろうか。


2018年7月4日水曜日

一言メモ: セクハラの世界的流行に思う

カナダ首相のトルドー氏もまたセクハラで炎上と見える。
18年前、あなた失礼なこと、私に言った(した?)わヨネ!
CNNではこんな風に扱われている:
(CNN) カナダのトルドー首相が18年前、女性記者にセクハラ行為をしたとの疑惑が浮上した。本人は覚えがないと主張している。
トルドー氏は長年、セクハラ問題への取り組みで知られてきた。しかし政界入り前の2000年、元首相を父に持つ28歳の青年だった同氏が同国西部クレストンで雪崩対策のチャリティー・イベントに出席した際、地元紙に掲載された無署名の社説が問題になっている。
URL:https://www.cnn.co.jp/world/35121915.html

***

小生の専門は将来予測である。

一つ、予測をしておきたい。

"Sexual harassment"の炎がグローバル規模で燃え広がり、世界が焼け野原になった後は今度はその近種である"Family harassment"が新たに発火するのではないだろうか?

あなた、会社でなんて呼ばれてるか知ってる?

職場結婚した夫婦であればこの位の会話は(かつては)日常茶飯事であったろう。
お隣の旦那さん、この夏のボーナス、200万円を超えたそうよ!あ~ァ、羨ましい・・・残業手当、稼いでよネ!
で、残業して帰宅したら「一人メシ」。まあ、ハラスメントでしょうなあ・・・。いわゆる「頭にくる!」という言葉は、性別によらず、年齢によらず、人間世界にはあふれかえっているのが現実だろう。

インフルエンザのA型が流行しているからといって、B型はスルーしてよいわけではない。ハラスメントを防止しようとするなら、あらゆる型のハラスメントに注意をして、発生の本質的原因を心理学的・社会学的に探究し、バランスよく対策を進めることが最も大事である。

まあ、漠然というなら「デリカシー」や「思いやり」が欠けているとき、色々な型のハラスメントが発生するのは確かだろう。「日常的疲弊」が重なれば、更にハラスメントの発生確率は高まる。これまた確かであろう。偏見や先入観の影響もまた然り。病理的現象は、社会の弱い部分に現れる。カネで弱さをカバーできるなら、それができない貧困世帯(or 職場)に、メンタル面の弱さがカギならストレスから逃れられない高ストレス世帯(or 職場)に、ハラスメントは発生する確率が高い。

専門的研究に期待する。

2018年7月3日火曜日

一言メモ: 二大政党は本当に日本にも訪れるのか?

日本も戦前期には二大政党制が機能していた ― 最終的には1920年代後半の内憂外患を解決できず軍部に主導権を奪われてしまったわけではあるが。

なので、国民性として二大政党制に不向きであるというわけではない。

実際、終戦直後にはまた二大政党に戻っていた。そのモメンタムを攪乱したのは、「労働者階級」を包括的に一つの政治勢力にしようと計画した共産党、というか社会党も含めた左翼政党である。昭和22年から23年まで実際に社会党政権が実現している。時代の風はマルクス経済学に吹いていたのである。

そもそもプレ高度成長時代に行われた自由党・日本民主党による保守合同は、左翼勢力が政権をとることへの警戒心からであった。

仮説的想像だが、現代日本で二大政党制が実現しない主要因は共産党と連携する左翼政党が(いまもなお)強すぎることだろう。

ソ連は崩壊し、中国も「中国共産党」が独占支配する資本主義国家になった。日本の「保守対革新」の図式には既にカビが生えている。

***

左翼への警戒心は現代日本社会ではもう既に非現実的である。マルクス経済学を真面目に勉強する若者は「青春の迷い」でこそあれ、政治経済理論としてはもう期待できないだろう。にも拘わらず、真実保守と保守リベラルが同じ政党に同居している。

警戒するほどの現実的意義はもうないが伝統芸能程度の重みは保っている。

同居しているのは、左翼勢力が自民政権を政策論争とは別の次元から、人格的に倫理的に非難するからである、というのも一面の真理だろう。そんなメタ政治的な非難が面白いので(無警戒な)メディアの話題にもなる。保守は大同団結する動機をもつ。思いは複雑だろうが・・・

もしこの認識が本筋であるなら、ネットで言い交わされている乱暴な表現<劣悪左翼>。本当に左翼陣営に属する政治家が劣悪であると小生は思わないが、一つ言えるとすれば、「日本共産党」と連携した左翼勢力が実質ゼロにまで衰退するとすれば、その時には保守が二つに分かれるであろう。そう予測する。そこが定常状態であろう。

このところ、自民一強の状況が進み、野党はすべて支持率を落としている。この現象は、健全な二大政党時代の到来には夢をもてる好い兆候であると思いつつ見ている。

2018年7月1日日曜日

メモ: 一人っ子はかわいそう??

ネットの巷では一人っ子は可哀想かどうかで意見がたたかわされているようだ。

ある人が「一人っ子はかわいそうですねえ」とコンビニなどで頻りに言われるので、一発でやり返せるような名文句を相談したところ、色々な意見が出てくる、出てくる・・・という様子である。

目についたページから引用させていただこう:

この投げかけに対し、掲示板では、やはり「スルーする」という声が多いなか、 
“兄弟がいるから必ず幸せとは限りませんけどね~と返す”
“そういう固定概念を抱いてる人こそ可哀想です”(原文ママ)
“無理して兄弟作るよりいいと思いますけどね(^ー^)”
“あー、昔はそう言う考え方もありましたけどいまの時代一人っ子なんて普通ですよー笑” 
などの返答を提案する書き込みがあった。ちなみにTwitterにも、“一人っ子=かわいそう”とされがちなことをボヤく声は散見される。
URL: http://news.livedoor.com/article/detail/14945438/


小生は三人兄弟だ(妹と弟が一人ずつ)。いま妹は東京に、弟は福島・いわきに住んでいる。

『兄弟がいるから必ず幸せとは限りません』というのはその通りかもしれない。いま現時点で、小生は遠く離れた北海道に住んでいるので頻繁に行き来できるわけではない。齢をとるとお互い別の生活になるので、何日かに一度は電話をするという関係でもなくなる。なので、兄弟がいるから幸せというわけではない、というのは確かにそうだ。

しかし、幼少年期を通してずっと一人っ子であったとしたら、(想像は難しいが)やはり多分、淋しかったろうなアとは思う。というのは、少なくとも高校くらいまでは毎日兄弟で遊んだり、おしゃべりをするのが常であったからである。小生は自分の学校で友人が少なく、引っ込み思案でもあったので、余計に兄弟がありがたかった。大学に進み、時々実家に戻るようになってからも、帰れば兄弟がおり、昔のように遊ぶことができた。時には口喧嘩をしたり、邪魔に思ったり、うとましく感じる時もあったにせよ、全てをひっくるめると楽しく、懐かしい思い出である。両親には感謝している。

兄弟がいれば協力できるとか(できないとか)、一家の安全保障になるとか(ならないとか)、二人より一人の方が限りある養育費を集中的に使うとか(使わないとか)、諸々の要素は一切無視しておく。

ともかくも思うのは、一人っ子でもいとこがいればいいでしょ、というのは誤魔化しであるような気がするし、友達がいれば親戚なんていなくてもいいじゃないと言えばそれもそうかもしれない。が、これは小生の記憶とはかなり違ってもいるのだ、な。

というか、一人っ子は可哀想なのかどうなのか?親世代が議論しても結論などは出るはずがない問題だ。一人っ子である当人が、成長してから兄弟のある他人をみて、どう思うかで決まることである。成長した一人っ子たちは、兄弟がいたほうがよかったと思うのか、思わないのか、いずれ統計的に判定できる事だろう。