2017年5月25日木曜日

「乱」は「らん」でも、ちょっとなあ・・・です

歴史は繰り返す。一度目は悲劇として二度目は喜劇として。

文科省の前事務次官が在職中の内幕を暴露するという戦術で現政権に公然と反旗を翻すに至った。「乱」である。

一昔も二昔も前にあの界隈の一隅で多忙な毎日を送っていた身としては、こんなこともあるのかと慄然とせざるを得ない。

もしもクダンの「怪文書」が本当に文科省にあったもので、多分それは担当課の書き捨て前提のメモであったのだろう、その時の事務次官がその書付を元に部内会議を仕切っていたとして、いまの時点でその文書は本物だと言えば、それが本物であるという正にそのことにより、在職中の内部事情を漏洩したという判定になるのではないか。

もしないものを「あった」というだけであるなら、単なる虚言で終わるのだろうが。

内部機密に関する<真の>情報を新聞記者に漏らしたからこそ外務省職員は処分されたという(これも大昔の)前例を待つまでもない。

国家公務員法違反になるのではないか。
実に危険なギャンブルだ。
それとも有力な政治家の陰謀が背後で進行しつつあるのか・・・。それにしては、筋が悪い。そもそも内閣府の規制緩和政策に対して抵抗していた(いまも、いる?)のが文科省であるのは「教育」にタッチする人には周知のことで、この点は事実というしかない。大きな流れをみればマスメディアが文科省前次官を最後まで支援するとは考えにくいのだ、な。まあ、大手マスメディア企業、特に民間放送企業は参入規制に保護されているという点で、岩盤のような既得権益層に属するという側面をもつ、故に自由化には最も反対しているだろうし、案外に文科省官僚集団に与する立場にあるのかもしれないが。

必敗の乱である ー ま、乱というのはいつでも必敗なのではあるが。

思い出すのは有名な「加藤の乱」である。野党が提出した森内閣不信任案に賛成票を投じるため本会議場に入ろうとする加藤紘一議員を抱え込むように阻止する谷垣前幹事長の映像は何度も放送されている。

あれも「乱」であった、な。一週間程度の間に当時の野中幹事長に鎮圧されてしまったが。2000年のことであった。・・・そうか、もう17年もたったか。うたた凄然の心持ちである。

それに比べると、今回の乱は部下が政権に反旗を翻すという点では、江戸時代・大坂町奉行所の大塩平八郎の乱のようなものだろうか。

マスメディアは面白がって「判官贔屓」というものか、この2月までは非難・バッシングのターゲットにしていた同じ文科省次官をバックアップする気になっているようだ。そうすればそうするほど、教育行政の中枢である文部科学省自体の組織的危機が進行するのは確実なのだが、そんな感覚はメディア企業には求めても最初からないのだろう。そういえば、文科省の天下り斡旋を摘発したのは、国家戦略特区を担当するのと同じ内閣府の再就職等監視委員会であった。同じ霞が関住人ではあるが、恨み骨髄というのはこの事であったのだろうなあ。『武士の情けも知らぬのか』、『掟を破っておいて言い訳か』、『この恨み、忘れるなよ』・・・と、こんな感じであるのだろうか。

嗚呼、悲し、無惨の涙に耐えかねて・・・であるなあ。


2017年5月24日水曜日

ほんのメモ: 未来の「皇族」、というか「皇位継承問題」

こんなことを書けば、戦前期なら不敬罪になるだろう。

が、ミーハー的興味は抑えがたく昨日もカミさんとこんな話をした。

「女性宮家、日本会議っていう極右系の団体があるんだけど、猛反対しているらしいね・・・」
「真子様や愛子内親王は結婚後に皇族にはしないってこと?」
「そうだろうね。というか、娘だけじゃなくて、娘の息子も女系だからダメって理屈だね」
「でもさあ、もしもだよ、悠仁親王が天皇か皇太子になってさあ、娘しか生まれない可能性はあるよね、その時に愛子さんに息子が生まれたらどうなるの?」
「愛子さんは、その時は民間人だから、その息子も皇族じゃない。そうなるね」
「でも悠仁様の娘は後を継げないよね」
「男子がいなくなったら、敗戦時に連合軍から追放(?)された旧皇族を迎えたらいい。そんな考え方なんだろうね」
「娘の息子がいるのに、そんな遠縁の人が跡継ぎになるの?」
「確かに誰も納得しないかもね。だから、そうなる前にルールを作っておくのが大事なんじゃない?」

もし内親王が結婚後も皇族であるとして、宮家をつくるとすれば「▲▲殿下」と呼ばれるのだろう。その時は、夫の民間人も「▲▲殿下」になるのだろうか?う~む、それは難しいだろうなあ。殿下であるのは夫人の方で、旦那はそうではないからだ。これまでは殿下は全て宮家の当主である夫の方であり、その妻は「▲▲宮妃殿下」と呼んでいればよかった。逆のケースをどうするかだ。イギリスではエジンバラ公という呼び名があり、その名前も「公」という実質を伴っているからいいのだが、日本ではそれもできないだろう。ただまあ、先日の道新のコラム記事によれば(それも経済学者の宇沢弘文先生のケンブリッジ時代の思い出を引用して、という話だが)、ケ大の大食堂で食事前の乾杯を女王陛下に捧げるとき、たとえご夫妻臨席の場合であっても、夫君のエジンバラ公には捧げなかったという。隣の同僚にその理由を聞いたら「子孫を残すためだけの男に誰も忠誠心など持たないヨ」と言われたとのこと。それで宇沢先生はケンブリッジに長くいるつもりがなくなったという話だ。そんな話もあるから、この問題は微妙で難しい。

5代将軍・徳川綱吉は、娘・鶴姫の婿である紀州藩主・徳川綱教に後を継がせようとした。娘の息子どころか、単なる娘婿である。実の兄の息子、つまり甥の綱豊がいるにもかかわらずである。これに「筋が通らぬ」と反対したのが徳川光圀である。しかし、水戸黄門・光圀も、後継者が娘婿ではなく、娘の息子であったら強硬に反対できただろうか。

いやはや、下世話な話でござる・・・。

2017年5月23日火曜日

断想: China Dream? vs American Dream?

中国の習近平国家主席の現在の夢は終身国家主席の地位に就くことだと噂されている(明言は、当然ながら、できないことだろう)。

ひょっとすると、それは可能かもしれない。
では、終身国家主席が終着駅かといえば、息子(娘がいるそうだから、娘婿、それとも娘本人)が後継者として同じ地位を世襲することが認められるかどうかも夢になりうるだろう。

もしそうなれば、中国は別の国となる。国名を変更するだろうし、名実ともに新たな王朝国家として復活することになるわけだが、ひょっとすると実はこうなるのが"China Dream"かもしれない。

思うのだが、こうなったとしても必然的に非民主主義国家であるとは、小生どうしても思われないのだ。

戦前期・日本は天皇が国家元首であった。しかし、天皇が自分で決められる事柄はほとんどなかったのだ。軍国主義は、庶民出身の職業軍人集団が天皇を(文字通り)「神聖化≒傀儡化」することで実現された。成立の背景をみれば、日本の軍国主義がデモクラシーに反するものとは言えないだろう。軍国主義イコール国民総動員なのだから。

その事情は江戸時代の将軍も同じだったろう。江戸時代の各藩には殿様がいたが、殿様がやりたいことをできていたとはとても思われない。家老だって事情は同じだろう。

非民主主義的国家が必ず非民主的に運営されるとは限らない。そこには(いるはずの)独裁者もいないし、(いるはずの)権力者もいないかもしれない。収奪によって黒字のはずの財政は赤字で破綻しているかもしれない。支配されているはずの国民に多額の債務を負っているかもしれない。権力は形式だけにとどまっているかもしれないのだ。

逆に、民主主義的に法制化された国家で、権力が集中する状況も頻繁にやってくる。特に普通選挙で選ばれた政治家は正当性をもつ。強権的な税制改革を実行しうるのは、独裁者もそうだが、同じことは国民から支持されている民主的政治家もできる。同じことができるなら、独裁者と強力な民主的政治家でどこが違うのだろう。

★ ★ ★

ピケティの『21世紀の資本』は確かに面白い経済書だ。そもそも所得分配論は経済学の中で地味で人気のない分野だった。その面白さの大半は、確かに$r > g$が(理屈はともかく)歴史的に成り立ってきた。この点にあって、実はそれ以外にはないとも言えるのだが、具体的に記述されている事実は文句なく面白い。結論しているのは、結局『不平等は続く可能性が高い』ということと、国際的資本課税が必要だという2点に過ぎないのだが、地味なテーマでここまで読ませる筆力は侮れないものがある。

とはいうものの、内容本位で言えば、ピケティの師匠にあたるアトキンソン(Anthony Atkinson)による『21世紀の不平等』がはるかに充実している。この本の第1部は、歴史的事実でピケティを補足しているような所があるが、確かに「読ませる力」は弟子のピケティに軍配があがる。が、白眉は第2部だ。特に第6章の『資本の共有』は、経済政策に関心があるなら<必読>に値する。


アトキンソンが当たり前のように淡々と指摘しているように、ロボットは誰が所有するか。これが今後将来の最大の経済問題になるのは確実だ。人工知能の知的財産権、ビッグデータの著作権(?)・・・、すべて扱いは同じである。21世紀の不平等は、21世紀の所有権の再設計へと至らざるを得ない。それを正面から提案している。財産権の不可侵が近代市民社会の土台だとすれば、時代は大きな曲がり角にさしかかろうとしている。この歴史的洞察力には凄みがある。

以前の投稿でも書いたが、ロボットが人間のやるべき仕事を全て奪ってしまったとする。ロボットの管理もロボットが担当するとする。その時、人間は雇用されることはなくなる。もしロボットが資本財であれば、資本分配率は100パーセントになる理屈だ。

もしロボットで代替する方が生産性があがるのであれば、そうした方が社会は豊かになり、人間はより多くの余暇を楽しむことができる。故に、そうした方がよい。しかし、分配問題をその前に解決する必要がある。このような社会では、資本に帰属する(はずの)営業余剰をいかに分配するかが、その時の最大の政治問題にもなるはずだ。新しい所有権と新しい受益権、新しい決定権を議論する必要がある。

アトキンソンが提案するように、全ての国民に成年定額資本受給権を認めることで問題が解決できるのかどうか、小生には定かではないが。

いずれにせよ、こんな時代が本当にくるとすれば、いわゆるAmerican Dreamは歴史的役割を終え、文字通り一つの時代が終わることになるのだろう。


2017年5月18日木曜日

メモ: 貧すれば鈍するの野党の惨状

今は北海道に暮らしているが、両親は元々愛媛県の人である。小生も小学校までは父が勤務していた某大手合繊企業の工場がある四国松山近郊の小さな町にある工場の傍にあった社宅で育った。父はそこでナイロンの生産管理を担当する技術者をやっていたのだが、その工場は今は炭素繊維を生産しているというのだから、小生が過ごしたのも遠い昔になった。

松山の隣町(というには隔たりがあるが)今治市に国家戦略特区が指定され、四国で初めての獣医学部開設が(総理大臣のバックアップが本当にあったのだろうか)認められることになったのは暫く前である。

一地域が大学・学部開設許認可の権限を独占する文部科学省の岩盤を打ち砕いた末の悲願達成であったのだろう。

ところが、その話が国会の政争の具になってきている。

実に情けないことだ。

国家戦略特区は内閣府所管の業務である。官房長官や特命担当大臣がいるとはいえ、内閣府は内閣総理大臣の監督下にある。組織の長たる大臣の指導に従って官僚が他省庁と折衝したとしても、上司の命に従ってそうするのは当たり前である。折衝の中で「うちの大臣が直々に通せと言ってますのでね」と言うとしても、話して当然の科白である。必要なら大臣折衝に持ち込んでやる。

これを何を血迷ったか「不祥事」であるかのようにマスメディアは報じている。

関係者の努力に泥をかけるとはなあ・・・。京都産業大学の申請は却下されたと報道されているが、同一地域に重複開設することはできないと言われていただろうが・・・。

貧すれば鈍す。文字通り「情けなきこと 涙こぼるる」だ。
野党の政略はもはや戦略の名には値しない水準になりつつある。現地で仕事に取り組んでいる人たちの立場から見れば、国会の場を借りた野党議員の言動は、もはや「国政調査」を超えて「公務執行妨害」にあたると感じているに違いない。



・・・イヤハヤ、今日はさすがに憤懣に耐えかねて書きたいように書いてしまったなあ。冷静になろう。

2017年5月17日水曜日

原資は「税金」だからというフレーズの裏の意味合い

上のフレーズはよく聞く言葉だ。何か不祥事があるとメディアもよく使っている。江戸時代のご印籠と同じ力をもつ。

「公人」たる者、常に「天知る、地知る、我知る、人知る」を忘れてはならない。

なるほどよく分かる言葉だ。

ネットを見ていると、次のような下りがある。先ごろ不適切な言動が原因で経済産業政務官を辞めた某二世政治家のことだ。

▲▲氏の不祥事を縷々紹介したのは、ゲスな話に興味があるわけではない。中川氏は政務官辞任後に開かれた4月18日、21日、28日、5月9日、11日の衆院本会議を全て欠席している。議員の務めを放棄したわけだ。衆院議員の歳費は、期末手当や文書通信交通滞在費を含め年間約3200万円にのぼる。もちろん原資は税金だ。中川氏は議員の仕事をしていない。これでは税金泥棒と言われても仕方あるまい。

(出所)産経新聞、5月14日(Yahoo!ニュースより)

確かに男女の交際は「個人の自由」だが、議員の活動に影響があったとすれば、税金の無駄になる。理屈は分かる。

★ ★ ★

しかし、上の論法に沿っていけば色々な話になっていくのではないか。

たとえば義務教育には税金が投入されている。

授業中にやかましく私語をして、授業を妨害する行為は税金で運営している業務を妨害する行為、つまり公務執行妨害である、と。

そもそも「ズル休み」を認める親の行為も税金の無駄にあたる。というより、教育を受けさせる義務があるという憲法の規定に違反している。

あるいは、引退後のサラリーマンは年金生活に入る。過去の積立金も原資だが、基礎年金には税金が投入されている。高齢者は、原則、税金からお金をもらっている。税金を使う人を「公人」だというなら、高齢者はすべて公人だ。然るに、暴力や暴言を抑えられない高齢者が増えている。トラブルメーカーになることも多い。自動車保険料も上がった。何ということであろう、税金のお世話になりながらその資格を疑わせる行為をする老人がいるとは。

まだある。国立大学の学生には税金が投入されている(国立大学ほどではないが私立大学にも助成金が入っている)。ところが某国立大学医学部在籍者が凶悪な事件をひき起こしても「税金泥棒」という非難はされていない。が、明らかに税金泥棒にあたるだろう。

これらの反社会的行動にはより厳しい姿勢で接するべきだ、すぐにこんな話しになるのではないか。

・・・実に、器の小さい、コセコセした言葉だと日頃から思っている。

★ ★ ★

「原資は税金」という点が、それほど重要なのであれば、より多くの税金を納めた国民はより多くの貢献を日本国にしていることになるのではないか。

より多くの貢献をしているのであれば、より多くの権利を持っても不思議はないのではないか。

投票権だって納めた税金額に比例するようにしたほうが良いのではないか。理屈が通るのではないか。実際、株式会社はそうしている。税金を納めていないのであれば、参政権もなくて仕方がないのではないか。そもそも多額納税者が真っ先に参政権を得たのだ。

カネに話しを戻すなら、必ず上のような話になる。格調が低いことおびただしい。

非課税証明の対象になっている人は、「原資は税金だから」という言葉を(自称)ジャーナリストから聞くたびに、肩身の狭い思いをしなければならないということか・・・。いやいや、税金を一切納めていない人はいない。消費税は必ず納めているはずだから。しかしねえ・・・。

どちらにしても、よく聞く「これも税金なんですから」という表現、実にデリカシーのない言い方だと思う。

★ ★ ★

払った税金の金額によらず全ての日本人が参政権をもつという普通選挙。大正時代にそれを可能にしたのは徴兵制度だと思われる。つまりすべての日本人に兵役の義務があったからだ。カネよりは命。命をかけて国を守る義務を引き受けている以上、税金は関係ないだろう、と。そういうことである。

ただ、上の議論はあくまで戦前期の日本に通用した話しだ。だから、カネを納めているという次元に話が戻る。カネの話しに戻るなら、払っている金額が最も大事になるのじゃないか。

たとえ議員の報酬がゼロであり、税金などは投入せず、議員活動がボランティアであるとしても選挙で選ばれ、有権者の信頼を受けている以上は、信頼を裏切らないことが信義というものだ。こんな議論をすれば格調が高くなるというものだ。戦前であれば「承詔必勤」。報酬をもらっているからやれという思想はそこにはなかった。

まあ、もちろん上の考え方にも副作用はある。信義、つまり自分を支持してくれた人たちの方を向き、その信頼に報いる、その人たちのためにこそ行動する。・・・いけないだろうか?

2017年5月16日火曜日

初の憲法改正は「公布」に劣らず情けない「改正」になるかも

首相が憲法改正の必要性を訴え、そればかりではなく日程まで提案するという状態になって、曲がりなりにも憲法が茶の間の話題にもなることが増えてきた。

いわゆる「改憲派」は、日本国憲法の制定過程がいかにも情けなく、敗戦後の占領時代に押し付けられたものというこだわりがある。

しかし、このままの状況で行くと、初めての憲法改正が首相の提案どおり、2020年に施行されるとしても、それはそれで実に情けない憲法改正に終わる。そんな可能性も無視できないと思う。

***

憲法の勉強は小学校の授業でもある(はずだ)。中でも戦争放棄については、特に重要性が高い事柄だと思う。

小生の中学校時代であったか、高校時代であったか、それは忘れたのだが、いまでいう「公民」、当時の科目名なら「政治経済」の授業であったと思うが、たまたま第9条の話になった。社会科担当の教諭が『・・ですから、日本は戦争を放棄しているわけですね。で、戦力は持たない。そうなっています。つまり、自衛隊は戦力ではないという話しです・・・』と、そんな話があったように覚えている。その時、10代であった小生は、『ということは、自衛隊が持っている武器は使わない、使わないから武器ではないってことだよな』と、周囲のクラスメートとひそひそ話をしたような記憶があいまいなまま残っている。

戦後日本を支えてきた「正統派憲法解釈」であると言ってもいいだろう。

が、この憲法解釈が日本社会の「本音と建前」を学ぶ事始めにもなっているとすれば、やはり情けないわけであり、きちんと筋を通すとすれば「自衛隊を解散する」か、「戦力をもつと書く」か、この二つのいずれかになる。

潔癖なティーンエイジャーの感覚からみて憲法の授業は非常にキレが悪いのは仕方がないのである。「現実には」という議論は憲法学でできればするべきではないだろう。

***

漫談ではないが、あれから50年。

憲法学者は、自衛隊の存在、自衛隊が保有しているハイレベルの武器、武装。持たないはずの「戦力」とどう整合させて行くのか、この半世紀の間、自分の専門分野についてほとんど何の学問的進展をも示せず、何の草案も提案もなしえなかった(と、専門外ではあるのだが、そう見ている)。

安保関連法が成立したあと、今後の進展について予想したことがある。2年前の投稿に書いている。そこでは集団的自衛権の容認と安保関連法の制定がショック療法になって、これまでとはレベルの違う新しい法理論が専門家から提案され、新立憲主義のような考え方が立ち上がってくる、と。そんな風に予想していた。それでも、議論の収束には時間がかかり、安倍現首相の任期中には改憲は難しいだろうと、そう書いていた。

ところが、今のままではまるで住所変更届でも出すような感覚で、「行政の一環」として、日程どおりに安倍現首相の任期中に憲法改正となってしまうかもしれない。

ちょっと憲法のこの条文、困るんですよね、なおしましょうかネ(→修正:なおしてもらいましょうか)。

そんな感覚である、な。

そうなったら、そうなったで、今度は『この改正は当時の安倍内閣に押し付けられた条文です、実に情けない』と。

まあ、少数派からみれば憲法は「押し付けられたもの」といつでも見えるのだろうが、もっと情けないとすれば憲法学界から何の学問的議論もおこってこないことだ。

2017年5月14日日曜日

今年の"Sell in May"は不発だった?

『申酉騒ぐ』が日本の格言なら、"Sell in May"はアメリカ株式市場の格言だ。これには続きがあって『5月に売って、9月まで戻るな』となっている。

要するに、秋口に株を買い値上がりをまち、5月には売れという投資ルールが当たることが多い、そんな経験則を伝えている。

そういえば、昨年の4月、5月は底値を探るような展開だった。が、1年毎の季節変動というより、夏のブレグジット(Brexit)をどう見るかで不安が先立っているという説明が多かった。その前の2015年の5月も冴えない動きだったが、これも株価の季節性というより国際商品市況の暴落と景気後退が心配されているような説明であった。すると案の上、15年には上海市場が大暴落を演じた。5月に売れという格言はまさに的中したのだが、マクロ経済の変動とたまたまマッチしただけだという人が多かったろう。

今年はどうか。


やはり冴えない動きだ。

しかし、WSJの見方はかなり強気である。

 足元の景気拡大ペースが遅いという懸念は過去のものとなった。目下の注目は次のリセッション(景気後退)にどう備えるかだ。(中略) 5日に発表された4月の米雇用統計が堅調だったことを受け、米経済は正しい道筋をたどっており、FRBはこれまでやってきたことを今後もただ続けていくべきだという見方が一段と強まった。金融情勢は「安定期」にあるようだ。

(出所)WSJ、2017年5月9日

頭打ちのNY株価には、現在のアメリカ経済やFRB当局の見方が織り込まれているはずだ。とすれば、6月から9月まで今年のNY市場はプラスのサプライズが続き上げ基調を辿るのではないか。

理屈で考えると、株式市場に特定の格言が当てはまることはない。その裏をかいて利益を期待する投資家が必ず出てくるはずだからだ ー 市場が十分に効率的なら。故に、単純に過去の経験が繰り返されることはない。

しかし、毎年の年中行事は固定されていて、会計制度や決算の時期も固定されている。同じ時期に、投資家が同じような行動をとりたくなる。そんな反復性があるならば、株価にも現れるはずだ。だから『5月に売れ』。下がるべくして下がるなら、予想通り横ばいになるのと実質は同じである。

たとえ株価が停滞してもアメリカの金融情勢は「安定期」にあるとは、そんな意味だろう。

とすれば、『申酉騒ぐ』が文字通り東京市場で演じられたとしても、それほど驚くことではないことになる。北朝鮮リスクで東京市場は4月から5月にかけて低迷したという人が多かったが、その低迷は本当に北朝鮮リスクでもたらされたものなのか?怪しいものだ。そうなるべくしてそうなった。予想通りであったのかもしれない。予想と外れたトランプ大統領のシリア空爆はあまり関係なかった、その後の心配もあまり関係なかった、実はそうだったかもしれない。