2019年11月14日木曜日

一言メモ: 「いじめ」をどう考える

既に言い古されたことだが「いじめ」という現象は小生の幼少時代からあった。というか、ずっと昔からあったことであるには違いない。「いじめ」が社会化され、固定化されると、即ち「差別」となる。

「差別」は改善されるべき前近代的悪習だと思うが、一過性の「いじめ」くらいは自分に与えられた試練だと思って『乗り越えんといかんだろう』と、そんな感覚が正直小生にはあった。

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茨木市消防署で起きた消防士同士の「いじめ」事件がまたワイドショーをにぎわせている。この種の話題はテレビ局の大好物である。これからどんな展開を見せるか分からないが、加害者である上司3名は既に懲戒解雇されたようである。被害者の20代の消防士がこれからどんな職業生活を送ることになるかはまったく想像がつかない。

30代から40台にかけての中堅が若手を「鍛える」と称して、実質的には「いじめ」を繰り返していたとなると、先日神戸市内の某小学校内で起きた教師同士の「いじめ」事件を思い出す。こちらもまた加害者が「じゃれあった」と語っているそうだから、今回の消防士同士の「いじめ」事件と共通した側面をもっているようである。

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前にも書いたのだが、小生が大学に戻った平成初めの時代に比べると、この20余年間で大学生の幼稚化はものすごい程のスピードで進んだ。その幼稚化の進行が逆転したとか、進行が緩やかになったということは聞いていないので、今もなお大学生の幼稚化は進行中なのだと憶測する ― もちろん急増しつつある留学生は除いた話である。キャンパス全体の雰囲気とは別であることを付言しておく。

どう「幼稚化」しているのかと聞かれると困る。実地に体験するのが一番だが、多分、ほとんどの人はビジネスマンとして若手同僚とコミュニケーションをとったり、あるいはアルバイトに採用した若者と話し合ったりしているに違いない。同様の感想をもっている人は、40代、50代のかなりの割合を占めるのではないかと、小生、想像しているのである。

やはり現在の20台は20年まえの10代、現在の30代は昔の20代である。いまの大学生は昔の高校生か中学生、そろそろ中堅のはずの30代は昔の20代ルーキーに近い雰囲気を漂わしている。マ、あくまで小生の主観ではあるが……。

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幼稚化現象の本質的要因が何であるかは実は小生にも分からない。人生80年どころか人生百年の時代が到来して、ゆっくりと成長するように人類が変容しつつあるのかもしれない。あるいは、21世紀に入って普及したインターネットとIT化の流れが人間全般の幼稚化と何らかの関連性をもっているのかもしれない。「鍛えてやる」が「いじめ」になっているという想像力が失われつつあるのかもしれない。相手に共感する能力、相手の表情を読み取るデリカシーがいま弱体化しつつあるのかもしれない。

継承されてきた組織内ディシプリンが機能しなくなるとき、そこで経験を重ねてきた人は怒り、焦り、過激な行動をとる。そんな一面も現在の社会にはあるのかもしれない。

法的に言えば、加害者は悪く、被害者は悪くない。しかし、すべての社会現象には原因があるものだ。組織内の「いじめ現象」を社会問題として把握するのであれば、何がこの現象をもたらしているのか。まず問題を把握しなければ問題は解決されない。

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そもそも同種の不祥事は一定の頻度で実は発生していたのであるが、被害者による告発やマスコミの興味の高まりなどによって、あたかもこの種のトラブルが増えてきているという印象だけが高まっている可能性すらある。だとすれば、なぜこれまでは表面化しなかったのか、どのように解決されてきたのか等々の疑問がわいてくるのだ、な。しかし、小生にはやはり発生頻度として高まっている。何か社会的な要因があって組織内状態が変容し始めている。そんな気がする。とはいえ、意識調査などのデータを視ているわけではない。

特定のタイプの犯罪は毎年ほぼ一定の頻度で発生するものである。個別のケースは関係法令を適用して裁けばよい。しかし、年を追って発生頻度が上昇するなら、上昇をもたらしている原因を探るべきである。個々のケースを法律的に裁いているだけでは問題は解決されない。

2019年11月13日水曜日

一言メモ: 「逆イールド解消に安心」はないでしょう

米国・ミネアポリス連銀総裁がリセッションの兆しと言われる逆イールド現象(短期金利>長期金利)がごく最近になって解消したことに安心していると報道されている。

[12日 ロイター] - 米ミネアポリス地区連銀のカシュカリ総裁は12日、リセッション(景気後退)の前兆とされる米国債利回りの逆転(逆イールド)が解消されたことに安心感を示した。

総裁はまた、設備投資が弱い一方で、消費支出や雇用市場は力強く、米経済見通しは「若干まだら模様だが、おそらく数カ月前と比べるとやや楽観度が増している」と語った。
(後略) 
(出所)ロイター、2019年11月12日

 この景気判断はないだろう。

経験則によれば、逆イールド現象が一度発生したあと、それが解消してから間もなくの時点で実体経済はピークアウトしてきた。

つまり、ピークアウトは間近いと予想しておくべきである。


セントルイス連銀が運用しているFREDから作成したグラフをみても逆イールドと景気循環の下方転換点との関連性は経験上明らかである。

2019年11月12日火曜日

一言メモ: 単純な疑問

最近近年のテレビでは政治の話題が非常に増えた。小生が若かった時分は、あまり政治をテレビで議論するなどはされなかった記憶がある。中には細川隆元の『時事放談』(であったか?)、それから竹中労氏あたりが時たま過激な政治的発言をしては世間を面白がらせたことがあったか……。大部分はドラマとスポーツ中継、それから歌番組、毒のないお笑いとバラエティであった。政治を世間の井戸端会議に持ち込んだきっかけになったのは、やはり久米正雄の『ニュースステーション』ではなかったろうか……、いまでは番組タイトルもメンバーの雰囲気も一変してしまったが。

日本人は政治問題を話してそれほど愉快になるのだろうか?もし聴いていて不愉快になるならそれを我慢すれば何かが解決できるのだろうか?どこのテレビ局も毎日同じような話題で番組を編集している。同じようなCMを放送している。放送業界は過当競争にあるのではないか?合併統合をすれば成長産業に資源を振り向けることができるのではないか?

そのほかにも色々な疑問を感じる今日この頃だ。

ココ何日かの疑問:

  • なぜ立憲民主党と野党連は「内閣主催の桜の花見」の招待客などという、マア「些事」と言ってもよい問題にエネルギーを費やするのだろうか?何か出ては来るだろうが、それほど大事な問題なのだろうか?

  • なぜ香港の状況、更に言うなら中国の人権問題について何も主張しないのか?問題視しないのか?まったく口を挟まないのは何故か?首相や外相がそれを言えば日中問題に直結するだろうが、野党なら言えるはずだ。言うべきことは野党の立場から言う方が日本の国益にもなる。野党の党益にもなると思うのだが、なぜ黙っているのだろうか?

  • なぜトランプ大統領のパリ協定離脱をもっと口を極めて非難しないのだろうか?なぜ日本政府の姿勢を問わないのだろうか?

  • なぜ電力エネルギー問題と電気自動車普及促進との兼ね合いを追求しないのだろうか?CO2排出と地球温暖化、異常気象との因果関係は科学的には未確定の部分が大きい。しかし、CO2排出量を抑制することは世界の未来にとってはプラスになる。こう考える立場はいま政治的に合意されていることである。にもかかわらず、だ。なぜ日本国内で火力発電所を増設することに疑問を表明しないのだろうか?

  • なぜ新センター入試で導入予定である記述式問題についてもっと激しく詳細を追求しないのだろうか?焦点を当てれば色々な問題が表面化してくるはずである。大きな政治問題になる可能性がある。にもかかわらず、である。

  • なぜ消費税の軽減税率の分かり難さを問題にしないのだろうか?「もって三年、早くて二年」と小生は個人的に予想しているが、本当に野党は納得しているのだろうか?

2019年11月8日金曜日

実行可能な「大学入試改善」とはどんな方向になるのか?

英語民間試験の実施延期で騒動が起きている。政治責任を問う声も世間にはあるようだ。野党の一部には『現行の入試センター試験でよい』などと、大学入試のあり方を改善したいという問題意識そのものを否定する(無責任な?)声すらある、と伝えられている。

そして、英語民間試験の次は国語、数学の記述式試験である。50万人受験者の答案を1万人の採点担当者が評価する。しかも採点は民間委託する。それで公平性が保たれるのか。そんな疑問である。

(いつもながら)ヤレヤレ、である。ラグビーの「にわかファン」なら「にわか」であっても有難いだろうが、入試に関する「にわか評論家」には問題が多い。電気自動車の普及をどう考えるかを民主主義で決定しようとするのに相通じるところがある。地球温暖化への対応を民主主義で決めてどうなるのか?甚だ不安であるのが理屈である。

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記述式問題に対する答案を1万人の採点者で採点するのは適切かという問いかけがある。

小生はずっと昔になるが1000人程度の数学受験者の答案を1週間程度で採点したことがある。数名から10名程度の出題委員が共同で採点するのである。ただ、その時は(どこの大学でもそうだと思うが)採点担当者全員が全受験者の答案を採点し、最後に採点者の平均点を出していたと記憶している。

個々の採点担当者が全受験者の答案を(一応)みているので「公平」といえば公平だが、それでも採点担当者の主観が入るので数名の平均点を評点とするわけだ。ついでに言うと、同じ採点者が全受験者を採点すれば「公平」だと世間では言うだろうが、そんな事は現実にはない。日によって採点者の心持ちは変わる。その日が寒いか、晴れているかで違うかもしれない。最初の方で採点したか、最後の方で採点したかによっても、採点姿勢というのは無意識に違いが出てしまうものである。まして1週間もかけて採点するのであればそうだ。理想通りに客観的かつ公平に採点したかどうかなどは検証のしようもなく、内容としても厳密に言えば無理な仕事なのである。それでも全受験生の答案を見ることは公平性には欠かせない要件である。

センター試験でそんな方式をとるのは不可能だ。だから1万人が50人を採点する。要するにそんな考え方だ。とすれば、採点担当者ごとの平均点には違いが出てくる。その違いが、その担当者が担当した受験者の学力差なのか、その担当者の採点方針が厳しいのか緩いのかという違いなのか、この二つは識別できないので、素点を使うにも得点調整をするにも問題は残ることになる。故に、記述式解答を多くの採点担当者が分担して評価するのは不適切である。ロジックはこうなる。1点の違いで合否が分かれるような大学入試にこんな雑駁な方式を採るべきではない。

同じ問題は英語民間試験にも当てはまる。異なった機関が実施する英語能力検定試験をどう共通の尺度に変換して得点化するのか?誰もが合意できるような得点調整方式などは絶対に出てはこないわけである。

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現行の入試センター試験の問題点を改善するための新入試制度には決定的な問題がある。しかし、現行の入試センター試験は主観に対立する意味での「客観評価」を目的に問題が作成されている。つまり穴埋め式のクイズになっているわけである。このことが日本の大学生の思考力を衰えさせているという指摘はずいぶん以前からある。また、中高併せて6年間も英語を勉強しているにもかかわらず、英語によって自己表現できる日本人がいかに少ないかという点はこれもずっと昔から指摘されている問題だ。

現在の入試センター試験制度のままでは駄目だという危機感には確かにリアリティがある。これを否定すると『それを言っちゃあ話しが出来ねえ』になるわけで、日本人の人的能力への危機感を共有してくれなければ困る。これが問題の本質である。

マア、事の本質は学校教育の再建にあり、入試を改善すれば学校教育が自動的に良くなるというものではない。とはいえ、底の浅い入試が底の浅い授業へと学校教育を退廃させる因果関係は確かにあると思われる。暗記でしのぐ、解法を覚えてしのぐ、難問は避けてしのぐ等々、「当場しのぎの教育法」が現在の受験勉強に蔓延しているとなると極めて問題であろう。故に、入試制度の改善を議論しているわけである。

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実際の入試に携わってみればすぐに分かることだが、複数の採点担当者の採点結果は常に同じパターンになる。

受験生は三つのグループに分けられる。先ず「全ての採点者が高く評価した受験者」が第一だ。次に、「全ての採点者が低い得点を与えた受験生」、これも明白にグループ化される。最後に採点者によって評価が分かれる受験生である。そして、ごく少数の優れた受験生を除けば、中間グループの受験生にはそれ程の得点差が結果として出て来ない。個々の採点担当者では中間層の受験生にもそれなりの差が出ているのだが、その差は他の採点担当者の結果とあわされることによって平均化されて、評点としてはごく狭い範囲に入ってしまうのである。そして、最下層には誰がみても評価の低い受験生が「底だまり」をする。どこの試験会場でも似たようなものだろう。

大体、1回限りの受験で分かることと言えば、『誰が誰よりも客観的に力がある』などという事ではない。そもそもそんな事が分かるはずがないだろうと小生は思う。分かるのは『この受験生は大学に入学するには力不足である』という受験生である。最底辺に入る受験生を識別するのは、少数の採点者が多数の受験生を担当しても、相当の客観性をもって可能な仕事である。

こうした点を考えれば、国が実施する共通入学試験は名称を変更して『大学入学資格試験』とするのが適切だろう。そして、その試験で6割未満の「不可」となれば、その資格試験制度に加入している日本国内の大学には入学できない。つまり、大学が独自に出題する二次試験は出願できない。

こんな制度であれば実施可能であろう。

これは「足切り」そのものではないかと批判する向きもあるだろう。しかし、入試に合格するというのはその大学への入学資格を認められるということだ。不合格とは「認められない」、つまり学内教育の中で競争する機会を奪う。要するに不合格判定とは「足切り」に他ならない。理想は志願者には入学を許可し、学内教育の中で成績評価を受ける機会を与えることにある。が、これは現実には物理的制約から困難である。日本国内の大学を志願するための学力要件を満たしているかどうかを検定する試験は「足切り」ではない。

もちろん、大学入学資格を識別するこの種の共通試験制度に参加しない私立大学が少なからず出てくることは予想できる。それはそれで問題はないと小生には思われる。

まあ、大学にも三ツ星、二つ星、一つ星、星なし、と。こんな時代がやって来たといえばそうなのだが、層別化、視える化が世界的潮流であるいま、こういう試みをするのは避けて通れないことだろう。

2019年11月7日木曜日

晩秋断想:2019年11月

君主制の国家には皇帝なり国王がいる。しかし、王様が社会の全てを知ることは出来ない。そこで賢臣や佞臣が政治を左右する。そして王様は「はだかの王様」になる。

民主制の国家なら主権は国民にある。しかし、「国民」という名の人物がいるわけではない。一人一人の住民が社会の全てを知ることは出来ない。そこでマスメディアが生まれ、良質なジャーナリストや悪質なジャーナリストが政治を左右する。そして「国民」は「はだかの国民」になる。民主主義は「はだかの民主主義」になる。

★ ★ ★

向上しようとする人間の心には瞋恚、倦怠、嫉妬などの煩悩が生まれる。煩悩の炎に焼かれるとき、その炎が実はいかに美しく昇華されるかを知るとき、人は癒される。モーツアルトの音楽の魅惑の本質はここにある。

★ ★ ★

幼いころ、嬉しいこと、悲しい事、全ての事には親がいる。親がいなければ誰か大人がいるものだ。嬉しかったことは自分が大人になってから子供たちにして上げればいい。悲しかったことは真似しない方がいい。

そうすると世の中はだんだん進歩すると思う。逆のことをすると、世の中はだんだん悪くなる。

ついでに言うと、小生が一番悲しかったことは、自分が叩かれたことではない。父と母が諍いをすることだった。小生がカミさんと諍いをすることを嫌うのはそのためだ。他方、子が嘘をついたときには体罰を課した。父も同じように小生を厳しく叱ってくれたからである。

本当に大切なことは言葉や説教で分かるのではない。分かるから分かる。経験によって分かるのである。

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ルールがあればいちいち考えなくても結論を出せる。機械学習に頼ればデータを見なくとも結論が出せる。人工知能に頼れば考えなくとも結論が出せる。そして人類は次第に馬鹿になる。もう馬鹿になっているかもしれない。何でも法律にしたがるのはそのためである。

2019年11月4日月曜日

「炎上商法」の合理性と害悪

本日の標題には矛盾がある。少なくとも逆説的である。なぜなら「合理性」に「害悪」がありうるという表現に正当性を認めると、あらゆる科学的思考を信頼する根拠が揺らいでくるからだ。

とはいえ、「暴虐な政府」というのは例えばレーニンのボルシェビキやヒトラーのナチスを引き合いに出すまでもなく、科学的合理性を少なくとも表面的には打ち出す(打ち出したがる)ものである。そもそも現代世界の最大の脅威である核兵器を生み出したのは自然科学の理論的進歩にほかならない。「合理性」という言葉の印象が悪いとしてもそれは仕方がない面もある。

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自然科学ですら人間社会でその進化が社会的害悪をもたらすことがあるとすれば、経済政策や経営管理において合理性を貫徹することがそれ自体として善いのかどうか、甚だ疑問であるという人が出てきても何もおかしくはない。

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オリンピックのマラソン開催場所変更の話題は、それ自体としてはバカバカしくて小さな話題である。バカバカしい話題は無視するに限る。しかしこれがもたらす社会的リパークッションが現実にマイナス効果を与え始めるとなると、変更の提案をした人物が悪いのか、マイナス効果をもたらすような反応をしている人物が悪いのか、ハッキリとはしなくなる。

世間では「ミヤネヤ」という低俗なワイドショーがあり、そこでメインキャスターが東京都民の心理を忖度したのか札幌市や北海道に対してネガティブな「妄言」を繰り返していたというので騒動を引き起こしている。ネットでも論争が起こり始めている。ヤレヤレ……というところだ。というか、やっぱりネ、かもしれない。

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大体、IOCが今回このような変更案を突然に提出しなければ、何事もなかったわけである。しかし、IOCが今回提出した変更案には前稿のとおり科学的根拠があり、それ自体としては一考に値する価値があると小生はみた。

東京都が拒絶し、場合によっては五輪開催自体を返上すればよかったのだという人たちもいる。仮に五輪開催返上となれば五輪中止の責任が東京都に帰せられることは火を見るよりも明白である。IOCはマラソンと競歩の開催場所変更を提案しているに過ぎないわけだ。仮にマラソンの東京開催を貫き、もしも来夏のマラソンでドーハの混乱が再現されれば、IOCはその責任を東京都に求めるだろう。これも明白だ ― もちろん何もなければ幸いである。

あるいは札幌が東京都に忖度し『東京都から依頼がない限り受けられない』と返答したとする。この場合、東京都は札幌市に開催依頼はしないだろうから、その場合も東京都に責任が帰着する。

他方、札幌市が変更受け入れを当初から拒絶するとする。その場合、マラソンは東京で開催されるだろう。真夏に公認のマラソン大会を毎年開催している都市は他に思いつかない。札幌が断れば当初プランに戻ると予想される。仮に来夏の酷暑でドーハの再現があったとすれば東京都は受け入れを拒絶した札幌市にも責任はあったと発言するだろう ― 特に現在の都庁なら。IOCは混乱の責任を回避する。

つまり東京都あるいは札幌市がIOCの変更提案を拒絶すれば、IOCは来年夏の気温にかかわりなく自らの責任を回避できる。この時期になって無理な変更をしてでもIOCは猛暑に配慮した。これが基本である。

次に、札幌市には提案を拒絶する誘因がない。なぜなら拒絶をすればマラソン大会混乱の責任の一部を負担する可能性があり、逆に受け入れるとして、もし来年夏の札幌が結果的に暑くドーハ程ではないにしても棄権率が上がったとしても、それは札幌の責任にはならない。IOCの提案を受け入れたに過ぎないからだ。それだけではなく、さらに訪問観光客数の増加などプラスの効果も見込める。何よりIOCに恩を売れるという一面もある。故に、札幌市がIOCの変更提案を受け入れる意志をまず表明したのは合理的な判断だ。

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となると、東京都の意思決定が合理的であるなら、今回の開催場所変更は全体として合理的な意思決定であった、ということになる。

小生が東京都の職員であれば『札幌市が受け入れ可能であると判断するなら、東京都はIOCの決定に従う』と最初から言明した。政治家は別の事を言うかもしれないが、放っておけばいい。

オリンピックは東京都が実施主体なのだから ― マア、正確に言えば実施主体はIOCで東京都は開催都市ということなのだろうが、少なくとも東京都民は東京都が都民のカネで実施すると意識しているのではないだろうか。

しかし……

東京都は『合意なき決定である』という立場をとった。今回提案には反対する姿勢を最後まで貫いた。多分それはカネを出すのが嫌だったからだろう。しかし、メンツは立ち、カネは節約できたが、失ったものもある。

それは「近代オリンピック運動」に占めているIOCという組織のポジションに合意しない開催都市も現れうるという前例になったことである。オリンピック運動は一言で言えば「国際平和」、つまりは「反戦運動」として発足し、必然的に国家からの独立、政治家からの独立を大原則として世界中に広がった。今日ではビジネス五輪の色彩を強めているが、政治家から嘴を出されるよりは民間ビジネスから支援を受ける方がまだマシである。ビジネスは政治よりは遥かにマシである。オリンピックの理念に合致する。これがIOCのホンネ、高尚にいえば思想であることは、行動を観ていれば分かり切ったことである。

今回の東京五輪の開催場所変更は、結局のところ、日本の政治家である森、橋本(それから首相官邸?)が進めた根回しと都知事の座にいる政治家小池との政治的格闘に訴えることで、IOCの意思を通すことができた。繰り返すが、開催都市がIOCに従わず、国家の政治家による介入によって問題を解決した。これはIOCの立場から見れば不祥事であったという受け取り方につながっていくのではないかと小生はみているところだ。

その意味では、五輪開催都市・東京都の今回の意思決定は合理性をやや欠いている。しかし、これも世間のオーディエンスを意識した「炎上商法」とみなすなら、政治的合理性はやはりあるのだ。

しかし、五輪開催都市の首長がなぜ政治的合理性を追求するのだろう。それは都知事が五輪を招致した開催都市の責任者というよりも自分自身が一人の政治家だ(と思っている)からだ。つまり五輪の理念(≒IOC、としよう)への共感よりも自分を選出した有権者の思惑をより重視する立場の人物であるからだ、と考えるのがロジカルである。

開催都市の責任者である小池氏は本当に終始一貫、いささかも「政治的炎上戦略」を採らなかったと言えるのだろうか?それを報道するテレビ放送局は視聴率上昇を目的にした「炎上商法」を採らなかったと言えるのだろうか?うちのカミさんですら『森さんや橋本さん、なんで黙っていたの?あんなにIOCにペコペコしないといけないの?』と話しているくらいだ。世界のどこでも避戦派よりは主戦派のほうが人気が出る。たとえ泥をかぶって解決に努めようとする避戦派に内心では同調しているとしても口先ではその格好悪さを罵倒するものだ。

以上のように見てくると、IOC、日本国、東京都、北海道、札幌市、マスメディア各社それぞれ、個別的な意味では合理的な意思決定をしてきたように見える。リスク回避は常に合理的行動である。しかし、全てのプレーヤーが私的な意味で合理的に行動するとしても全体最適がもたらされない可能性はある。「囚人のジレンマ」はその好例である。

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札幌はIOCの変更提案を受け入れてマラソンと競歩を開催することにした。もしも来年夏の札幌が酷暑となりドーハが再現されるとしてもIOCが招いた事態である。その意味では、IOCはリスクを負担して自身の意志を押し通したとも言える。何にせよオリンピックの開催都市を決め、準備状況をモニターし、開催の責任を引き受けているのはIOCなのである。この点に疑いをはさむ余地はないと小生は思う。大体、その年に五輪を開催する巡りあわせになった一国のたかが一つの都市が大規模な国際的イベントを平穏に開催するだけの責任を世界に対して負担できるのかと問えば、そんな世界規模の信頼がその都市にあるわけではないだろう。IOCが選び、IOCがモニターし、IOCの名で開催するが故に世界から信頼されている。これが現実ではないか。たとえカネはなくともIOCが唱える理念と意義を否定する国はそうそうはない。その意味ではIOCという非民主的な機関が有している一定の「権威」は認めざるを得ないだろう。数ある大都市の中の一つである東京都にIOCと同レベルの「国際的権威」があるとは言えないだろう。いや、いや、そんな「権威」などニューヨーク市もロンドン市もパリ市も持ち合わせてはおるまい。都市は結局のところ一つの場所であるにすぎない。故に、IOCはオリンピック開催の権限を握っている ― それは時代遅れだという人もいるが、また別の話題なので改めて。そのIOCがドーハの惨状と欧州メディアの集中砲火をみて慌てた……。今回のことはこれに尽きる。

IOCと国際陸連が揺らいだとき、東京都は先手を打って『日本は大丈夫だ』と。科学的データと併せて特集記事を海外メディアに寄稿するなど、適切に反応すればよかったのだ。少しのアクションとコミュニケーションでまったく違った状況に導けただろう。後悔先ニ立タズ。この格言を東京都は噛みしめているはずであるし、噛みしめていないとすればノー天気であると小生は思う。

***

確かにIOCはリスクを負担したが、しかし真夏のマラソン大会である北海道マラソンで猛暑のあまり棄権率が異常に高まって選手など関係者から非難されたことはない。この点ではIOCは今回の変更に自信があるのだろう。

今後日本に出来ることがあるとすれば良い終わり方を目指すということ以外にあるだろうか。とにもかくにも招致運動中の贈賄容疑でJOC委員長が辞任する事態が発生するほどにまで熱意をもってオリンピックを招致したのは外ならぬ東京都なのである。招致にあれほど熱意をこめたのであれば、その実施にも同じ熱意がこもっているはずだ。

しかしながら、当然に目指すべき全体最適が本当に確実に実現できるのかと問われれば、やはり『私的合理性と全体合理性とは必ずしも一致しない』という命題を再掲しておくしかない。特に今回の日本側の混乱を観た以上、そう思わざるを得ない。

2019年11月3日日曜日

技術革新とモーツアルト

少し前の投稿でモーツアルトのことを書いた。小生は自分で演奏することはしないが音楽を聴きながら仕事をするのは好きである。なんでも聴く。その中のクラシック音楽に馴染みが出来たのは母の影響である。

母は娘時代からクラシック音楽が好きだったそうだ。父との縁談があったとき、母はショパンの『前奏曲雨だれ』を話題にしたそうである。父は偶々『雨だれ』だけは知っていた。ショパンで唯一知っていた曲名がその『雨だれ』であったのだ。この話は面白おかしく何度も母から聞かされたものだ。そんな母は結婚する時にベートーベンの『皇帝』を持ってきていた。何枚かが1セットになっているSP盤でまだ小生宅に残っている。コルトーの名盤である。それからLP盤の『運命』とチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲もあった。指揮はどちらもオーマンディ、ヴァイオリニストはフランチェスカッティだったと記憶している。この2枚のLPがまだ残っているかは宅のクローゼット奥のそのまた奥に積み重ねているのを1枚ずつ確かめてみないと分からない。いずれにしてももう傷だらけである。

残念ながら母が持ってきたレコードを再生する蓄音機はずっと家にはなかった。父はクラシック音楽には本来無関心であったのだ。家に小型のラジオ兼プレーヤーがやってきたのは小生が小学校何年生になった頃だったろうか。よく覚えていない。小生は母が買ってくれるドーナツ盤の童謡に飽きると、LP盤を何度もかけて段々とオーケストラの響きやクラシックの旋律に慣れていった。そんな小生の姿をみるのは母には結構嬉しかったようだ。『この曲、いいと思うの?』と意外そうに聞かれたことがある。それからヨハン・シュトラウスのワルツや自分が好きだったというメンデルスゾーンのV.C.を買ってきたりするようになった。

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そんなわけで小生が最初に親しんだクラシック音楽はチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲だった。それからずっと好きである。調査出張でフランクフルト経由でウズベキスタンのタシケントに行った時も飛行機の中でずっとその曲を何度もリピートして聴いていたものだ。が、母と一緒に暮らしていた時分、一番頻繁に聴いたのは回数を数えたわけではないがメンデルスゾーンの方だったかもしれない。

母は小生が小学校に入学した頃に、まだ田舎に住んでいた頃であったが、近所に訪問指導で来ていた先生につかせてヴァイオリンを習わせたのだが、子供心にはまったく面白くない。直ぐにさぼるようになった。それをみて母も諦めたようだ。小生に楽器演奏の才能はない。

そんな小生が高校生になってからモーツアルトに興味を持ったのは天才というのはどんな楽曲を創ったのか聴いてみたいという単純な好奇心があったからだと思う。それに当時人気のある音楽評論家に宇野功芳という人がいたのだが、その人物が音楽雑誌でえらくモーツアルトをほめている。その影響もある。それで、母に頼んではピアノソナタやピアノ協奏曲のLP盤を近くのレコード店に注文してもらうようになった。学校生活に適応できずろくに部活にも参加しなかった小生は買ってもらうLPに耳を傾けるのが何よりのリフレッシュの手段になった。しかしLP盤は安い買い物ではない。その当時、1枚で大体2500円ないし3000円はしただろうか。アルバイトもしない小生のオネダリを母はよく何度も聞き入れてくれたと思う。あれで家計を圧迫することはなかったのだろうか、と。今さらながら自分の身勝手が情けなくなってしまう。

LPレコードの事情がそんな風であったので、モーツアルトと言ってもそれほど多くのLP盤を聴いたわけではない。自ずから経済的制約があった。好きだったピアノ協奏曲でも実際に手に入れて聴いたのは20番、21番、それから23番と27番。その位である。

YouTubeもAmazon Prime Musicもなかった。LPレコードを自分で買うことが出来ないなら、友人に借りるか、たまにある演奏会で聴くか、そうでなければ聴かずに諦めるか、選択肢はこれだけである。モーツアルトは日本に洋楽が紹介されてからあまり評価されては来なかったようである。日本では大正から昭和、戦前から戦後にかけてずっとバッハ、ベートーベン、ブラームスの”三大B”が本流であり続けた流れがあるのではないか。モーツアルトには「思想」がないと、思想好きの日本の知識人には考えられていたのかもしれない。母もモーツアルトはあまり聴いたことはなかったらしい。それでもモーツアルトの楽曲にはベートーベンやブラームスとは全く違った美しさがあると話していたから気に入ったのだろう。いつの間にか、小生の弟もモーツアルト好きになっていたのは、ずっと後になって知ったことである。

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今では高額のLP盤を多数購入する必要はない。

年に1回だけAmazon.comにPrime会費4900円を支払っておけば、すべてのプライムサービスを受けることが出来る。その中にプライムミュージックやプライムビデオがある ― 現在はMusic Unlimitedに進化しているが、小生はWalkman ZX2で動作する旧版のAmazon MusicがMusic Unlimitedには対応していないようなのでPrime Musicの利用を続けている。このプライムミュージックで小生はモーツアルトのピアノ協奏曲の全曲、ピアノソナタ全曲、交響曲全曲、ヴァイオリン協奏曲全曲、ヴァイオリンソナタ全曲、弦楽四重奏全曲、ディベルティメントとセレナード全曲をフリーでWalkmanにダウンロードした。奏者はバレンボイムやブレンデル、パールマン等々、誰もが知っている名盤である。ベートーベンのピアノソナタ全曲、ピアノ協奏曲全曲も一昨日無料で入手した。ブレンデルである。演奏するには楽器がいるが愛聴するだけならプライム会費を払うだけでよい。これも一つの文明進化、技術革新の現れであることは間違いない。

いまはモーツアルトのピアノ協奏曲全曲を聴き終わったところだ。それで分かったのは、多くの人がいう『モーツアルトのピアノ協奏曲を聴くなら先ずは20番以降である』という通説、お薦めがまったく正しくはないことだ。間違いだというつもりはないが、助言としては不適切だ。19番は26番『戴冠式』と同じ日に演奏された『第2戴冠式』である。その19番よりも小生は18番が好きである。というより17番は傑作である。14番はいま小生が愛してやまない曲の一つに加わった。15番も佳品だ。とりわけモーツアルトが21歳の年に創った9番『ジュノーム』は最高傑作の高さに達しており、と同時にミステリアスである。初期の習作を除いた実質上の第1作である5番が既に陰影のある魅力をもっている。

モーツアルトの楽曲の魅力は意表をつくような突然の転調と奇想天外の展開にある。哀傷の心をたった1音で表現するところがある。よく評論家はモーツアルトは天国的な晴朗さを感じさせるというが、小生にとってモーツアルトの音楽は極めて人間的で、煩悩にあふれている。煩悩に苦しむ人間の生の現実をそのまま音で表現している。だから理想は感じないし、思想も感じない。しかし、弱い人間の煩悩を感じさせるその人間臭さがモーツアルトの手によって表現されると実に美しいのである。そんな音楽は30分も聴けば休みたくなる。1時間も連続してモーツアルトを聴き続けると心が疲労する。

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ごく最近になって知ったピアノ協奏曲は世評では決して有名ではない。なのでずっと昔に聴くことはなかった。モーツアルトのヴァイオリンソナタも聴くことはなかった。しかし今は聴いている。ヴァイオリンソナタの35番が非常に感動的であることも最近になって知ったことだ。どれも母は知らなかった音楽である。以前なら人々は我慢をして諦めなければならなかった楽しみである。

科学の進歩、技術の進歩によって、出来ることが増えた。生活水準が上がった。

確かに社会は豊かになっている。これだけは間違いがない。たとえ実質GDPにこういう事実が数字として反映されていなくとも、だ。