2018年4月21日土曜日

前の投稿への反すう(その1): 現代社会のハラスメント問題

前の投稿の以下の部分について、思い当たった点を補足したい:
例えば、街の喫茶店で数名の仲間と遠慮のない会話をする中で、偶々、話題が下ネタに落ちしてしまい、大笑いをしてしまったとする。その近くの席に座っていた(女性かもしれないが)眉をひそめ、憤慨の気持ちから店の人に「あまり汚い言葉使いで不愉快です」と伝え、注意をしてもらうというのは社会では当たり前にあることで、都会生活とはそういうものだろうと思われる。しかるに、注意をすると逆切れされるという恐怖も手伝うこともあろう、スマホでその雑談を無断録音し、話している(男性たちかもしれないが)面々の顔が特定可能な動画を公開の場にアップするとする。それで自分の鬱憤をはらすとする。 
小生の基準では、雑談がセクハラに該当したのかを吟味する以前に、無断録音をして公開の場にアップして話していた他者の名誉や信用を壊すという行為が、その人物たちの基本的人権を侵す違法行為となる。「出発点」と言ったのはこういうことである。
隣席の男性集団が下ネタで大笑いすれば、隣にいる女性達が不愉快になるだけではない。その周囲の客たちも不愉快に感じるであろうし、店の従業員、店主もまた迷惑このうえないことである。

つまり、品の悪い雑談をしている客たちの行為はハラスメントの動詞形を用いると"harassing"である。

隣席の女性たちが店の従業員に頼み注意をしてもらうとする。このとき、男性客たちはバツの悪い思いをしながら、おそらく注意を依頼したのは近くの席にいる女性たちであろうと推測するであろう。「もしも近くの席にいる人が同じ男性であれば、このような細かなことで公衆の面前でメンツをつぶされることはなかった」と、そう感じるとすれば、やはりその男性たちも「不愉快だ!この店は!」と感じるかもしれない。だとすれば、最初のハラスメントとは逆向きのハラスメントもまた事実として生じている理屈である。その客たちの性格によっては「ここは怒ってもいい、怒る権利がある」と感じるかもしれない。

社会問題としてのハラスメントは、ほとんどの問題、相互理解・相互信頼の欠如、であるが故の敵対意識から生じるものである。

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ここで、同じ店内にいる他の客もまた同じように不愉快を感じていれば、たとえ男性客が店に抗議をしても、大勢の客が男性たちに一斉に声を上げるだろう。社会の日常的トラブルが解決されるには、政治と同じ「数の力」が必要である。そもそも古代ギリシアの時代から「人間は三人集まれば既に政治が始まっている』と言われる。それが人間だ。多数が結論を決めるというのは人類社会の原初形態であるとも言えるだろう。民主主義といえば学問の香りがするが、社会のあるべき正しい状態とは、多分に「常識」と「みんなで渡ればこわくない」という群集心理によって実現される面があるものだ。

このメカニズムが機能しなくなった時に色々な社会的病理が発生する。とくに社会の自浄作用に期待すると口では言いながら、規律と制裁(ディシプリンとペナルティ)の権限を当事者から公的機関へ一元的に集約しようとする傾向が強まるに伴ってそう言える。

もしも 周囲の客が十分な勇気を持たず臆病であり、何事も<お上>に解決してもらおうという姿勢を日常的にとっていれば、声を上げることをためらう。トラブルを解決する役割を担当するのは、庶民である自分たちではなく、店なり、警察なり、公人であるという生活感覚が当たり前の時代であればそうだ。そんな時代、周囲の人物は物理的距離の近さとは関係なく、当事者ではなく傍観者となる。その場の女性客も、そんな臆病な他人たちには何も期待できないと知っている。店の従業員に注意を依頼することも後難をおそれ、その場では諦めることになる。スマホで密かに動画を撮って音声とともにYouTubeに匿名でアップする行為は、その場で為すべきことを勇気に欠けるがゆえに為すことができなかったことの代償である。

本質的には勇気にかけるが故の卑劣な行為であるのだが、為すべき行為を為せなかった代償であるが故に、それは後になっても正義にかなっていると確信するのだ。

しかし、こうした行為は自動車が接触して自分が怪我をしたとき、相手の攻撃的態度に恐れを感じ1万円のカネで済まされたところが、どうしても怒りがおさまらず後になってその人物の背中をナイフで刺す行為とどこか似たところがあるではないか。

言うべきことは言うべき時に言わねばならず、為すべきことは為すべき時に為さねばならない。これを可能にするのは勇気であり、できないのは臆病のためだ。臆病な人は正しいことを為すことはできない。臆病な人は向き合うのではなく、逃走すればいいのだ・・・小生はそんな風に思う。戦う必要はない。しかし、戦わないなら、後ろから刺すようなことをするべきではない。すれば倫理としては悪である。

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ハラスメント、あるいはハラスメントがイジメに進行するケースも現代社会の病理として蔓延している。小生が若いころは、喧嘩や武装闘争のような陽性の敵対関係がずっと多かったように思う。これに比較して、現代日本社会のトラブルは陰性であり反復的である。

戦争でも社会的トラブルでもその在り方や態様が変わるには何らかの理由がある。

パワハラは上下関係の下で生じると考えがちだが、真に実質的支配力を有している上役ならば、気に入らない部下は解雇すればよい。左遷してもよい。英語でいえば"fire"すればよいのだ。これ即ち「むき出しの経営判断」である。ところが、国の労働行政で経営者の思うようにはできなくなってきた。課長の上には部長がおり、部長の上には取締役がいる。中間管理職として部下が掌握できずトラブルが生じれば管理職としての評価に傷がつく。「上」が「上」でなくなれば「下」は「下」ではなくなる。「上」が弱体化している下でパワハラは代償行為として起こるものだとみている。パワハラは虐めではない。不愉快な人間関係は実はお互い様である場合が多い。パワハラの周囲では、他のタイプの様々なハラスメントが併せて発生しているものだ。ひょっとすると、パワハラと正反対の向きの"too many complaints harassment"もあるかもしれないし、"neglecting harassment"も確認できるだろう。

人間関係において生じるトラブルは複雑で微妙なのだ。

法律や社会規範で保護されている限り、弱い立場にあるものは本質的に弱いままである。守られている集団が守られようと願っている限り、その集団は臆病であり、社会の中では当事者ではなく傍観者である。故に、その行動が社会正義にかなうことはほとんどない。社会の傍観者が社会に対して真に貢献する行動をとるはずはないと考えるのがロジックではないだろうか。

ナポレオンは(フランス語で話したはずなので誰かドイツ人が伝えたのだろうが)こう語ったそうだ:

Man muß stark sein um gut sein zu können.
人間は善でありうるにはまず強くあらねばならない

臆病な人が社会で増えれば、その社会から善いことは減り、悪いことが増える。これは必然的な結果だろう。

智の人は惑わず、仁の人は憂えず、勇の人は恐れない

智・仁・勇の三徳を重視する古き道徳教育に何か取り柄があるとすれば、良い人間関係の形成に重要な点を繰り返し強調していた点だろう。

最近の現代社会的な病理の原因がこの種の道徳教育の消滅にあるのでなければ幸いだというべきだ。



2018年4月19日木曜日

財務事務次官セクハラ事件の感想

財務省の前身である「大蔵省」は、横暴にして天上天下唯我独尊的姿勢が顕著な官庁だったことは小生もよく覚えている。

政府部内のあらゆる枢要なポストに「出向」と称して、大蔵官僚を送り込み、政府全体の基本方針を自己の手中でコントロールしようという気構えが明瞭にうかがえた。小生の勤務していた役所もそんな大蔵省の植民地官庁の一つであった。

その大蔵省が1900年代末に接待汚職にまみれ、金融部門を切り離されるという断罪を蒙るという情景は、小生はすでに役所勤めからは足を洗っていたが、実に月並みな言葉ながら「奢れるものは久しからず」という言葉を思い起こさせた。

そして今回、セクハラ疑惑で大蔵省の後身である財務省の事務次官が辞任することになった。

転た凄然。この国はどうなるのだろう、と ― 別にどうなるわけでもない、過剰な国家意識をもった「官僚の中の官僚集団」が普通のGovernment Officialになることは決して悪いことではない。そう思っている。確かに、まあ、少数を除く大多数の与野党・国会議員の低レベルをTV画面を通してみていると、心配なことは心配だが。

★ ★ ★

ただ今回の件は、刺した方も刺された方も、感心できない。

高校野球でいえば、双方とも四死球が10個、内野のエラーが6個、バントミスが4回、スコアは17対14。そんな試合を観たような感じに通じるものがある。

もっと修行した方がいいねえ・・・。そんな感じである。

問題は、なぜこれ程までに取材される高級官僚と取材する大手TV局報道記者のレベルが低落したのか・・・こんな疑問が残るのみ。

レベルが落ちるにはそれなりの原因と背景、経緯と契機があるはずだ。それを知りたい。

そもそも小生が知っている時代にも辣腕で社交的、親分肌で人望がある人は、いた。そんな人は麻雀もゴルフも達者で、5時半以降の「アルコール解禁タイム」(当時はそうであった)ともなれば、「▲▲室」に大勢の人が集まり談論風発。そのうち下ネタが飛び交うこともままであった。しかし、そんな親分は案外と官僚トップの次官にはならなかったことが多く、トップには品格のある、調整型のジェントルマンが就くことが多かったように記憶している。

官僚内部の評価システムが変わってしまったのだろうか・・・・・・一足飛びにここまで結論付けるのは乱暴だが、今回のようなケースが現に生じていることの責任は、人事権を握っている首相官邸、安倍首相、菅官房長官、官房副長官等の面々にあると言えるのかもしれない。

★ ★ ★

会話をしている相手が無断録音をして、その一部を切り取って(例えば)YouTubeにアップするという行為を許容すれば、それがいかに不適切な会話であるにせよ、それは現代社会の共有財産である<相互信頼>を本質的崩壊に導く導火線となるのは確実だ。そればかりでなく、言葉による会話の内容にまで社会が立ち入ることから、日本国憲法で最も重要な国民の基本的人権として保障されている<表現の自由>を根本から犯す行為である、と。この点を、小生、本稿の出発点としたい。

例えば、街の喫茶店で数名の仲間と遠慮のない会話をする中で、偶々、話題が下ネタに落ちしてしまい、大笑いをしてしまったとする。その近くの席に座っていた(女性かもしれないが)眉をひそめ、憤慨の気持ちから店の人に「あまり汚い言葉使いで不愉快です」と伝え、注意をしてもらうというのは社会では当たり前にあることで、都会生活とはそういうものだろうと思われる。しかるに、注意をすると逆切れされるという恐怖も手伝うこともあろう、スマホでその雑談を無断録音し、話している(男性たちかもしれないが)面々の顔が特定可能な動画を公開の場にアップするとする。それで自分の鬱憤をはらすとする。

小生の基準では、雑談がセクハラに該当したのかを吟味する以前に、無断録音をして公開の場にアップして話していた他者の名誉や信用を壊すという行為が、その人物たちの基本的人権を侵す違法行為となる。「出発点」と言ったのはこういうことである。

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原理原則として、録音をしたいときは「録音させてもらいます」と相手の了承を得ることが不可欠である。撮影するときもそうである。盗撮は原則として反倫理的だ。故に、相手の了承なく、無断で録音した内容を公開することで相手が不利益を被れば、内容によらず無断で録音した側には損害賠償責任がある、というのが小生の個人的意見だ。

公的機関による公式の承認なくして自分の意志で会話を無断録音して後刻それを相手に聴かせて判断を迫る場合は<脅迫罪>、勝手に公開して相手の社会的地位を失わしめた場合は<信用毀損罪・業務妨害罪>に相当する。当然に刑事罰を適用するべきだとすら感じるのだ、な。

そもそも「盗聴」は捜査当局であっても慎重に運用されており、証拠として認められるかどうかは微妙なのだ(無断録音は盗聴と違うが)。

今回の件は、ゲスの喧嘩としか感じられず、両成敗を適切と考える。これを本日の投稿の結論の基本としたい。

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囮捜査や司法取引は捜査活動にとって有力な手段である。しかし、いくら有効かつ強力であるとしても、それを使っていいかとなると直ちに結論が出るわけでもない。

化学兵器は低コストで製造でき、かつ効率的に敵兵を殺傷できる。だからといって、それを使うと、使った国は守るべき倫理から外れた国として国際的制裁をうけるだろう。

有効であると分かっていながら、その運用に社会が慎重であるのは何故かという点が大事だ。報道機関が取材活動をする上で有効だとされるからといって、どのような行為も許容されるわけではないだろう。専門家によっては、報道機関による無断録音は許容されるべきだという向きもあるようだが、小生の意見は違う。いくら「公益」に奉仕しているのだとしても、公益の前には基本的な人権は小さなことであるとは強弁できない。大体、セクハラ、パワハラなど「ハラスメント」という現代的テーマと、近代社会に移行してからずっと維持されている「表現の自由」との調和ある解決は、いまだに達成されているわけではない。そう思っているのだ、な。

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不愉快に感じれば、「言いすぎですよ、それ。録音しますからね」といって、ボタンを押せばいいだけの話である。相手は(泥酔状態でなければ)それで自制するはずだ。それをしなかったのは、自由に語らせてネタをとりたいという意志があったからであろうと推察される。

まあ、相手が報道関係者であることを知りながら、『これはオフレコですよ』という一言で安心して、何もかもをさらけ出してしまう被取材側が、バカであるという事実は否定できない。

今回の事件は、今後、報道関係者と二人で会話をするときのケーススタディとして活用されることだろう。そして、財務省内では悪しき口承伝説となり、二度とこの種の失敗を犯さないように徹底的に若手を訓練することだろう。その結果、とりわけ女性、というか異性の記者に対しては決して本音を語るべからず、と。そんな行動規範が共有されるようになるだろう。部外者と部内者の線引きが厳格に守られることになるだろう。国家公務員の都合に合わせたリークと都合の良いメディア操作のバーターを続けるには大事な基礎的前提が崩壊したとも考えられるだろう。最終的には、いわゆる「記者クラブ」の空洞化が進むだろう。

持ちつ持たれつの古き相互信頼の社会的土壌は、何らかの別の原理によって浸食されつつある。

今回の件は、一方の側の何がしかの善意と正義感がもたらしたものであることは間違いない(と、報道内容からは推測できる)。もしそうであっても、しかし、善意と正義が最初に意図した結果をもたらすことはあまりないものである。人間集団でトラブルが発生すれば、双方に言い分があるものであり、どちらかが「正しい」などとは言えない以上、善意や正義の観点から求めたとおりの結果になって行かないとしてもそれは仕方のないことである。

2018年4月18日水曜日

嘘を隠すために、また嘘をつく・・・のは言語が発生して以来の人類の本性だろう

先日、勿来にいる弟宅を訪れ、久しぶりに二人でウイスキー1瓶を空けたのだが、約半日、いろいろな話をした。

酒が回ってくると、自分が何を言おうとしてこんな話をしているかが分からなくなる時がある。これも久しぶりだったのだが、

ありゃ、何を言おうとしているんだったかなア・・・ 
あのネ、女の人はネ、何を話そうとしているかはほとんど気にしないみたい、だから話題がどんどん変わっていってもネ、それはそれで話していること自体が面白いって感じてるんだって聞いたことあるヨ。 
そりゃそうかもしれんよ、男はサ、話題がどんどん変わっていってサ、しばらくすると誰かがね『でえ、話しを戻しますネ、〇〇さんが●●だって話をしていて、△△さんは▲▲だってことを言ってました。結論としては、どうなるんですかね?』ってサ、必ず一人出てくるんだよ。 
アハハ、いるいる。あまり呑んでいないんだよね、そんな人、結構、頭冴えてるんだよネ 、で話を戻すんだよね。
そりゃ、呑まなきゃ、頭も冴えるわサ。男はさ、これこれこういうことだから、どうなるんだって、結論を出さないと気が済まない。
そう男には結論が大事なのよ! 話のかたをどうつけるのさって。途中で終わったらいかんでしょう。
女のおしゃべりは、ぐるぐる回って、最初と同じ話に戻っても、それはそれで楽しかったって。結論みたいなものは出さない・・・って言うか、出さないようにする。そんなところがあるかもね。
 男が生きていくには<方向感>が絶対に欠かせない。目的なくこうしている、というのには耐えられない。女はどこに行くという目的がなくとも案外平気のようだということは、小生のカミさんを日常観察していてもそう感じるのだな。女が必要とするものは<居場所>、つまりここにずっといる、ここは平和である、そんな感覚だとみている。なので、どこかに向かって進んでいるのか否かという事柄には無関心である。むしろ勝算もなく夢を追って旅に出るなどという愚行には付き合おうとしない。

そんな男と女が、「本来男女に違いなし」という原理原則にたって、イコール・フッティングでコミュニケーションをとろうとしても、感性は違う、求めるものは違う、問題解決法は違う、円滑にいかない。こうなる可能性は少なからずあると小生は思っている。互いにイライラする、これだけでもうハラスメントである。いわゆる「ハラスメント」の種は、「浜の真砂」が尽きるとも尽きることはないであろう、と。小生、そう思っている。

男女共同参加は立派な理念だ。しかし、それが「世界の大勢」だと吹聴し、そればかりをパロットにように反復するのは、1900年代末から2000年代初めに何かといえば「グローバル・スタンダード」を標榜した新自由主義者と同じ単細胞型の言動だ。

大事なことは人間の脳みそから生まれたシンプルな理念ではなく、複雑な自然の認識、細部にわたる現実の理解のほうであろう  ―  何しろ小生は旧世代の中でも保守的なグループにいる。そう思ってしまうのは仕方がないと言うしかない。

◇ ◇ ◇

ホテルに滞在中、先日購入したWALKMAN ZX2でよく音楽を聴いた。SHUREのイヤホンがそろえば言うことはないのだが、今のところAudio-Technicaの廉価品で我慢している。

弟は学生時代によく『さだまさし 帰去来』を聴いていた。その中の異邦人(エトランゼ)は小生も好きである。

アルバム版限定のセリフが挿入されている。
意地を張るのに 嘘ついて・・・ 
嘘を隠すために また 嘘をつく・・・ 
たとえば・・・ 
「ごめんなさい」が 素直に言えたら・・・ 
こんな遠回りなど しなくて済んだだろうか・・・
安倍政権は既に末期的段階にさしかかっていると見られるが、どこで失敗したのだろう・・・、あれほど高い支持率を誇っていたのに、と。いまは後悔の念に苛まれているだろうネエ。

ZX2はAndroid(ただし4.2)を搭載しているので、ネット経由でAmazon Musicを利用できる点が便利である。

聴いていると、"Amazon Music Unlimited"を始めませんかと勧誘してきた。Primeには入っているが、Unlimitedは月額800円弱が必要だ。商売が上手いというか、えげつない。思わず入ってしまった。

2018年4月17日火曜日

単細胞的意識の典型: ハラスメントと虐めとの混同

亡くなった両親の墓参を兼ねて、いわき・勿来に住んでいる弟宅を訪れて帰ってきた。東京では久しぶりに芝・増上寺の近くに宿をとった。以前はよくその辺に泊したものだ。



それにしても東京の街中はずいぶん歩きにくくなった。というのは雑踏の事だ。その昔、東京で暮らしていた時にも雑踏はあったが、よく考えれば小生が毎日エキナカを歩いたのは、朝方、深夜でほとんど全てはネクタイをしめたサラリーマンだった。そして大半は同じような世代の男性だった。彼らは降りるにしても、乗り換えをするにしても、人波は幾つにも分かれながら、大体は通路の片側に沿って同じ方向へと歩いていき、一定のペースで黙って進んでいったものである。小生はそんな物言わぬ人間集団の中の一人であったのだな。列をつくって行進をしているようなものであった。

その東京の街中、中でもエキナカが歩きにくくなった原因はというと・・・第一には外国人観光客。様子がわからず迷っているのだから、迷走するのは当たり前だ。斜行したり、立ち止まったりする人が結構いるのは外国人が多いからだというのは直ぐに気が付いた。第二は高齢者。時間帯にもよるのだろうが、小生の在京時代、これほど多くの高齢者が雑踏に混じって歩いていることはなかった。お年寄りは歩く速度が違うし、群衆に混じると見えにくい。ぶつかってお年寄りが転倒し負傷すると小生は加害者になる。やはり気をつかわざるをえない。高速道路でひどくユックリと走行している車が一定数以上いると、走りにくいものである。これと同じだ。第三は・・・女性が増えた。やはり気をつかわされる。

北海道でいま暮らしている町に戻ってきて、一番ホッとしたこと、それは「歩きやすい」というこの一点である。人にぶつかることも、ぶつかりそうになって舌打ちをされることもない。この点だけでもストレスは大いに低減されるのだ、な。

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小生が知っている群衆とは次元と質を異にした雑踏が、いまの東京にはあふれかえっている。非常に疲れる。その疲れの原因を振り返ると、多くの人が「予想困難な動きをする」からだと感じた。

何でもそうである。自分と物理的距離が近い人たちもそうであるし、業務上の関係が近い人もそうだが、そんな人たちの移動、言動の予測困難性は当事者のストレスを確実に高めているのではないかと思う。

ハラスメント(harassment)の原義は「虐められる」という意味ではない。ハラスメントをされる側の感情から意味を定義すれば、日本語では「(ネチネチと)悩まされる」、「(頻繁に)嫌な思いをさせられる」という表現になるだろうか。もちろんハラスメントをされれば"harassed"である状態にはなる。理屈では片方の側は"harassing"であることになるが、それほど簡単に黒白をつけられるわけではないのが現実であることは誰でも知っているはずだ。

<ハラスメント≠虐め>であることを意識しているマスコミはどれほどいるのだろうか? 最近の批判的報道ぶりを見ていると極めて疑問に思う。どのマスメディアも、複雑で微妙な現実の人間関係を、単純な二分類の枠組みに押し込めて議論している。

そもそもどんな交通事故も一方の責任がゼロ、片方の責任が10割となることは稀である。それと同じ道理だ。

「虐め」事件であれば、「喧嘩」とは異なり、必ず虐めた側がおり、虐められた側がいる。その事実関係を明らかにすることから、被害者の保護、加害者に対するペナルティが検討される。しかし「ハラスメント」は「虐め」ではないのだ。

一方がハラスメントを訴えるとしても、もう片方もまたハラスメントを訴えたい心境であることは、私たちの日常をみても当たり前のようにある。「嫌な思いをさせられる」というのは、この人間過剰な日本社会にあっては多分にお互い様なのだ。

ハラスメントはお互い様であるにも関わらず、先に訴えた方が被害者となり、もう片方は加害者となる。そんな解釈なり受け取り方を最初にしてしまうのは、ハラスメントと虐めとを混同しているからだ。

極めて単細胞的、かつ阿保な認識能力しか有していないことを伝えている。

だから虐待防止法とは別にハラスメント基本法が要るのだ。虐めとハラスメント。併発しているケースもあるが、この二つは基本的にまったく違う。異なったアプローチをしなければ社会は迷走するだろう。この話題は前にも投稿しているのでスキップする。

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嫌な思いをさせられる、その根本的原因として、なぜ相手がそんな言動をとるのかが分からない。予測困難性、というか理解困難性があるのじゃあなかろうか。

小生もまた雑踏に埋もれる東京駅構内には辟易とした。不愉快な思いを何度もした。が、その時、小生を不愉快にさせた相手の女性も、外国人も、高齢者も小生には不愉快な思いを感じたのではないか。

そんなことを考えさせられた。と同時に、ハラスメントが「迷惑防止条例」の対象に含められるという極端に異常な社会に日本がまだなってはいないことに感謝している。

2018年4月10日火曜日

民主主義: 公文書・データ・情報の混乱と勘違い

公文書・データ・情報をめぐって混乱が続いている。

「隠蔽」されているはずの公文書が、何らかの筋から特定の狙いをもってリークされるかと思えば、「保護」されているはずの情報が外部機関の利益目的のために不正に入手され利用されたりしている。かと思うと、公開しておくべき文書が「既にない」はずであったのが、実は「あった」と。もうメチャメチャである。

現在の社会常識に照らせば、「個人情報」は保護され、「公文書」は秘匿するべきではない。国内でも「個人情報保護法」の流れが一方にあり、他方では「情報公開法」の制度化が整った。一見矛盾するような二つの流れは、一見バラバラになりながら、世界で勢いを増している。

その基本的な背景は、データや情報の利活用が広く生産性を上げるというビッグデータ時代の到来にある。つまり情報はこれまでの時代にもまして「利益」につながるのだ。

「決裁文書」などの公文書は公開するべきだが、税務情報は「秘匿するべき行政情報」である。統計調査目的で収集した個票情報も秘匿するべきである。戸籍情報も然りで公開されるべきではない。官公庁が管理している情報には秘匿されるべきものと公開可能なもの、公開されなければならないものがある。この辺の道理は、官公庁だけではなく、公共性の高い上場株式会社にも当てはまる。

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守られるべき情報と公開されなければならない情報と。その線引きは、どのような考察と基準のもとに引くべきなのだろう。

たとえば・・・

役所の係長未満の末端職員が部内会議で個人的に記したメモが存在していることが、何らかのルートから野党議員に情報として伝わり、国政調査権の下にそのメモを提供せよと要求する場合、そのメモは提出するべき公文書として扱われることになるのか? そのメモは官庁組織の管理下にあるものなのか? それともそのメモは職員が個人的に記したものであり、その内容は保護に値する個人情報でありうるのか・・・?。

ずっと以前に小役人として勤務した経験があるので、個人的感想を記すなら、自分限りの意識でとったメモを国会議員から「提出せよ」と要求されたならば、それこそ晴天の霹靂であり、こんな業務命令がまかり通る世の中は異常であると意識することだろう。おそらく役所という組織にとどまらず、どの民間企業に雇用されている社員であっても、物事には程合いというものがある。そう言いたいところではないか。

この辺の心理的事情は、ちょうど大学入試の数学において答案用紙だけではなく、下書き用計算用紙も一緒に提出せよと指定されるのと似ているかもしれない。受験生は『計算用紙も提出するのか!? 評価対象になるのだろうか・・』と危惧するであろう。そう思えば「下書き」ではなくなる。もちろん提出させる以上は、採点業務上の必要に応じて計算用紙を参照するかもしれないという可能性が示唆されている  ―  しかし、どのように参照するかは具体的に規定しようがなく、だから「下書きも一緒に」なのである。

結論をいえば、下書き用計算用紙は答案とともに提出させるべきではない。その理由は、少しでも受験経験があったり、入試業務にタッチした経験があれば自明のことである。個々人が担当する業務についてインフォーマルに書き留めるメモも上でいう計算用紙に似ているだろう。その性質は個人的であり、公的なものとは異なる。故に、公開対象とするべきではない。小生はこう考えるネエ・・・

しかしながら、最近年の世の風潮は社会的な井戸端会議で物事の正邪善悪を決めようとする勢いである  ―  たとえば森友事件や加計学園問題で個人的にメモを残している職員が存在しているとして、そのメモをある理由で公開したくないと当該職員が提供を拒否すれば、世間はその職員を反社会的であるとして指弾するだろう。その職員が社会から非難される苦痛を自己救済するべく裁判所を通して慰謝料を請求するとしても、どの程度、真摯に扱ってくれるか明らかではない。

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情報やデータの保護に関して憲法は具体的に規定してはいない。憲法が厳格に保護しているのは基本的人権である。全体的構成からみて、日本国憲法の特徴は、個々人が政府や社会から守られるべき人権の尊厳であることを明記している点だ。

マスメディアも、何かといえば護憲を主張している以上、すべての行動の出発点には護憲の精神を置くべきだろう。憲法で規定していないことを主張するのではなく、明記されている保護対象を厳格に意識するべきだろう。

公人には人権はないのだなどという暴論を平気で口にするジャーナリストを時々みる。公人に人権がないのだと考えれば、そう主張する人物にも守られる人権はないと考えなければフェアではない  ―  こうした議論がまったく不適切な空論であるのは自明だが。そもそも憲法には人権保護の例外規定はない。

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人権の観点から保護されるべき情報が一方において法的に定義されている以上、公開されるべき情報もまた制度的に明確に定義されなければならない。

何らかの情報公開を要求するなら、要求の法的根拠を明らかにし、要求対象が公開義務範囲か公開可能範囲に属することを明らかにし、公開による利益を明らかにしなければなるまい。

守るべきモノは明確である。そして、社会を毎時刻々と流れている情報は無限に近いほどである。憲法上保護するべきものが明確である以上、保護されるべき情報もまた明確に定義される。公開に際して慎重に扱う情報もまた存在する。一口に文書・データ・情報と言っても、それが公開可能/義務範囲にあるのかどうか、公開するとして社会の成員全員に公開するべきなのか、一部の関係者に限定するべきなのか、公開方式をどうするのか等々、あらかじめ決めておくべき事は非常に多い。

そもそも国会が行政府に対してあらかじめ公開を予定されていない情報を提供せよとして国政調査権を行使する際には、それが権利の乱用に当たらず、かつ求める情報に十分な秘匿性はなく公開が適切であることを判断する段階が必要ではないか。そのためには、政治的に中立な司法府なり独立した行政情報管理委員会を通す方がよいのではないか(もちろん現実にはこうなっていない)。国会という本来は「国権の最高機関」であるべき場で恥ずかしげもなく繰り広げられている「お白州」、いやいや「素人法廷芝居」をTVで見せつけられるにつけ、こんな風に感じることが劇的に増えているのだ、な。

情報化時代とはいうものの、情報利用・情報公開については、いまだに未整備のことは多いのが現実だ。

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思うのだが、民主主義社会にとって情報公開は大原則であるのかどうなのか?

まあ、全面的に否定するつもりはない。ただ、情報公開というキーワードは保護/公開という線引きの下で考えてこそ、はじめて意味をもつ論題だ。最初から「情報公開」という言葉が意味をもつわけではない、というのは重要だ。

大体、憲法上の大原則として規定されていない以上、「情報公開」はその時々の具体的な目的に役立つツールとして使われるべき言葉だろう。原則ではない。

なので、これまでは情報公開なき非民主主義国家であったが、これからは情報公開を徹底して民主主義的にするのだという認識は、政治タレントの煽り演説にしかならない。

まとめておこう、

公文書やデータ・情報が必要な時に公開されない社会は国民主権の民主主義国とは言えない、と。こういう指摘には小生は賛成しない。知りたいことを知ることができないからと言って、社会は非民主的であるとは思わない。

但し、保護対象とするべき情報は民主的手続きに沿って決められるべきである。もちろん憲法をおかすことはできず、憲法をおかしたいならその前に憲法を変えるべきだ。保護を必要としない情報を、どのように公開するのかという問題は、何のために公開するかという目的に応じて個々に判断していくべき事柄だ。

やはり最終的に公開義務/公開可能/非公開範囲の3分類になってくるのではないかというのが、今後の整備に関する予想である―もちろん内部的には更に細分類してグレードを設けることだろうが。


2018年4月5日木曜日

FB: 個人データ流出事件について思うこと

フェースブックを利用している5千万人分の個人情報が英国のコンサルタント会社ケンブリッジ・アナリティカ(CA)を経由して、トランプ大統領候補陣営を支援するターゲティング広告に利用された・・・という事件が、文字通りいま世界を揺るがせている ― これに比べると、日本社会が騒いでいる割には森友事件の案外な矮小さに、小生、情けなさが募るばかりであるのが正直なところだ。

ロイターは、FBとCAとを繋ぐキーパーソンとしてケンブリッジ大学の心理学講師・アレクサンドル・コーガン氏の研究テーマに改めて光をあてている。
フェイスブック利用者約5000万人の個人情報が不正流出したスキャンダルの中心人物とされる英ケンブリッジ大の心理学者は、ロシアの研究者と、病的な人格の特徴に関する共同研究を行っていた。 
この心理学者アレクサンドル・コーガン氏は、心理学分野で「邪悪な人格特性(ダークトライアド)」と呼ばれる精神病質やナルシシズム(自己愛)、マキャベリズム(権謀術数主義)といった性質が、インターネット上での他者に対する虐待的行動と関連があるかを調べているロシアにあるサンクトペテルブルク大の研究チームに助言していた。

「われわれは、ネット上の怪物を特定したかった。こうした怪物に悩まされている人々の助けになりたいと考えた」と、サンクトペテルブルク大のヤニナ・ルドバヤ上級講師はロイターに語った。
(出所)ロイター、2018年3月21日配信

社会が高速ネットワークで緊密かつ広範に連結され、いまこの人類社会はこれまでと質的に異なったステージに移行しつつある。公益を守るべき国家や政府もその激流の中で無力になりつつある。こういう漠然たる不安や恐怖の感情が世界に広まりつつある。この点は確かに否定しがたい現実である。

その根っこには、善悪という尺度で極端なケースともいえる人間が少数にもせよ社会には生息していて、ネットワーク化された社会の中で訪れた新たな犯罪チャンスを利用しつつある。悪意ある人間が悪意を現実のものに転化できつつある。いま求められているのは、こんな認識をもって適切に対応することである。対応するための方法について科学的な研究を深化するべきである。

フェースブックだろうが何であれ人と人をつなぐソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)が構築する社会は、リアルな社会をそのまま仮想化した存在になる理屈である。そもそもネット社会が現実の社会とは別の社会になるはずがない。故に、現実の社会で運用されている法は、ネット社会でも形をかえて運用されるべきであり、そうでなければネット社会は無法化され、荒廃していくのは必然だろう。そんなネット社会は悪意をもった人間だけが互いに罵詈雑言を繰り返し、毎日のストレスを発散するだけの結末となる。

人間性善説が現実には無力であることが多いのはネット社会でも同じだ。と同時に、人間性悪説はネット社会にも、現実の社会にも当てはまらないはずである。

確かに論理的にはこんな議論になるしかない。

ネット社会なる存在が既に現実に出来てしまった以上、『危ないものは使わなければいいのサ』では問題を解決することにならない。時間はかかるだろう、法やルールを設けて、ネットを社会のツールとして広く定着させていく、こういう一本の道しか歩める方向はない。

進歩にはコストがかかる。代償も必要だ。もはやネットなき呑気な社会は戻ってこないのだ。

ソーシャル・ネットワークという現代の怪獣は、大変でも飼いならし、人間社会にとっては有害ではなく有益なものにしていく、そのために投入する時間と汗がすべて<文明の進歩>をもたらす、と。これ以外に何と言えばいいのだろう。

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核兵器の時代には核抑止戦略が求められていた。と同様に、クローン人間にせよ、遺伝子技術にせよ、ネットワーク社会に潜む悪意にせよ、科学技術の更なる発展には新しい研究が必要になってくる。これが問題の本質である。

新しい科学技術を活用して豊かな社会を謳歌しながら、同じ科学技術によって問題を解決するという発想には根本的な違和感を感じるという態度は実に手前勝手である。結論としてはそう思うのだな。

ずばり言えば、小生はSNSを流れる個人情報を分析して、それがネットワーク社会がもたらす様々な暴力や犯罪的行為を解決できるなら、そんな研究は大いにやってほしい。そう期待しているのだ。

今回の事件はまさに『事実は小説よりも奇なり』。フェースブックのCEOであるマーク・ザッカーバーグは、何年も前の映画「ソーシャル・ネットワーク」の主人公であったが、今回、ケンブリッジ大学の天才心理学者、英国のコンサルタント会社、ロシアの科学者、アメリカの大統領候補などが登場するデータ流出事件もまた近い将来に映画化され、再び主人公となる。今からそう予想しても間違いないようだ。

二度にわたる主役。つまりは、現時点の世界で未来を切り開きつつあるイノベーターである証拠なのだろう。ジェフ・ベゾスでもなく、ビル・ゲーツでもなく、真に私たちの社会を根本的に変えつつあるのはマーク・ザッカーバーグかもしれない・・・、確かに一理ある見方だ。アマゾンは欲しいものの買い方を変えつつあるに過ぎないし、ゲーツのWindowsやジョブズのMacintoshはその昔のTSS端末をグラフィックに使いやすくしただけだ。そうも言えそうだから。

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若いころの小生の研究テーマはマイクロデータセットとマクロ経済情報とのインテグレーションだった。恩師にその話をしたとき、『それにしても政府がネ、マイクロデータ情報(=個人情報)を管理してサ、マクロ政策にどう対応するとか、こんなグループは利益配分が薄くて政権に反発するだろうとかさ、そんなシミュレーションをしてネ、政府がやりたいことを反発なくやっていくってえのは、恐ろしい社会がやってきたと思うヨ』と、恩師はそんな感想を述べていたものである。

当時、小生が利用していたマイクロデータなど640メガバイトのMOディスク数枚に保存できるほどのものでしかなかった。今では、メガを超えて、ギガ、それにも収まらなくなってテラバイトにならないとビッグデータとは言わなくなった。PCの内臓HDDが1テラなどは普通に販売されている商品である。

そんな時代の個人情報から行動予測モデルを推定する作業は、それは科学的な意味合いでとても面白いに違いない。面白いだけではなく、社会的に有用な知識になることもほぼ確実である。

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今回のデータ流出事件はマネージメント上の失策である。

失策なら、今後は失策しないようにすればよい。PDCAサイクルのCとAのステージに相当する問題だ。

そもそも邪悪なビジネスを展開しているからこの種の犯罪が必然的に発生するのだ・・・などというのは、SF小説の読みすぎだろう。

まして、大統領選挙で悪用され、それによって投票結果そのものが逆転したなどという指摘は、この点こそ科学的に立証されるべき問題で、これから大いにやっていってほしい研究テーマである。

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個人的感想だが、投票先に迷っていて、たまたま送られてきた選挙運動関連メールではじめて意思決定できたなどという程度の浮動層有権者は多数いるわけである。それら浮動層を時々刻々とりまいているノイズが合計としてプラス/マイナスのどちらにふれるのか、個別ケースごとに評価するのは不可能な計算である。多分、ノイズの作用は平均としてゼロ付近であると、統計的に自然な想定をするしかない。まして、特定の人物が特定の投票行動をとったとして、多数のノイズの中の特定のターゲティング広告が、意思決定においてどれだけ影響したのか、影響は大きかったのか、小さかったのか。そんな問題に時間をかけて検証するなどは無駄のまた無駄であると感じる  ― マア、正義の観点からはやってみたいと思うテーマであろうが、だから「やるだけの甲斐がある」とは全く思われない。

もちろん今回の個人情報の使い方に義憤の念を感じている有権者はいるはずだ。「何だかおかしなことをやってやがったんだ、やっぱりな」というそんな怒りであろう。アンフェアに対する怒りでもある。

しかし、アンフェアであるのは片方だけではないと推測するのが定石だ。それが選挙、というよりあらゆる戦いの通例だろう。新種のアンフェアと伝統的なアンフェアの区別があるだけではないか。伝統的なアンフェアなら予測可能で容認可能だが、新種のアンフェアは悪いというロジックは無理だ。

まあ、トランプ大統領候補に投票して、ホントに大統領になればこうなるヨっていうのは、最初から分かっていたんじゃない? 満足なんですか? アメリカの人たちにはそう言いたいところではあるけれど。とはいえ、未来のことは誰もわからない。

いずれにせよ、社会はマシンではない。特性を超えて適切かつ瞬時に変化できるわけではない。摩擦的要因が常に作用している。社会には常識も慣行も法律も働いている。遠い昔、「蓄音機」が登場した時には音楽界から反発があったそうだ。「電話」で連絡をとりあうことに不安を覚えた人も多数いたそうだ。戦車が活用される直前には騎兵から反対論が提出された。馬は草さえあればどこまでも走れるが戦車は石油がなければ動かない。プラスにはならないというわけだ。

技術進歩は、それを是とする社会心理が定着するまでは、古いシステムに置き換わることはない。実際、目でみるまでは新しいものがプラスであるとは思わないのが人間だ。だからこそ、新しいものを試みることが非常に重要だ。そして、新しいものを試みるのは何故かというに、その根本には他者に対して<競争優位>に立つ。つまりは「戦略」の意識が大前提としてある。その戦略の目的はなにかといえば、結局は「国防」の観念に行き着く。「防災」と言い換えると平和日本でも感覚が共有されるだろう。もし現在の繁栄がいつか崩壊するのではないかという恐れがないのであれば、現在の平和は確固としているという自信があるのであれば、新しいものには原則として反対するのが人間社会である。

いまはこんな風に考えているということで。

2018年4月3日火曜日

メモ: トランプ大統領に関する一つ気になること

新年度早々、アメリカ・ト大統領に関して一つの心配、というより危惧、あるいはもっと軽い意味では気になること。

アマゾン・ドットコムが郵政公社(USPS)を食い物にしているとトランプ大統領がツイッターで投稿して、まず第1回目のアマゾン株価急落を(当然の結果として)誘った(3月28日)。その後、USPS関係者の側からアマゾンのお陰でUSPSは利益を確保しているという援護発言があり、加えてホワイトハウスからもアマゾンについて何らかの行動を検討しているわけではないという声明もあったことから、株価は回復してきていた。ところが、ト大統領が追い打ちをかけるように、アマゾンの節税・避税(更には脱税?)、郵政公社の料金が低廉に過ぎる点を指摘する投稿をしたことで、2回目の急落となった(4月2日)。更に、今回はマルコ・ルビオ上院議員もアマゾンが将来的に行使するかもしれない市場支配力を懸念する意見を表明したことで、IT関連株価全体の先行きが不透明化してきた。Amazonに限らず、Google、Facebook、NetflixのFANG4社、Microsoft、Intel、Appleなど現在のアメリカ経済を支えているテクノロジー企業は、市場シェア、占有技術など様々な面で競争優位にあることは明白で、市場支配力を現に有しているからであって、当のアメリカ政府が「これは独占規制の対象である」と切り込むのであれば、今後の影響は甚大である。

ただ、どうもおかしい・・・。

アマゾンがロビイストを変更する決定をして間もなくしてト大統領の発言があった。フェースブックはロシアが大統領選挙中にトランプ候補に有利な情報を発信する場として利用していたという批判の真っただ中にある。ザッカーバーグは国会に招請されるなど当局への協力姿勢を示さざるを得ない状況だ。

IT企業をめぐる色々なゴタゴタとト大統領の口先介入のタイミングが一致しすぎている。

アマゾンはトランプ大統領のNY市場に対する口先介入で10パーセント近い株価下落に襲われた。もし、大統領がツイッターに投稿することを事前に知っていれば、その人はアマゾン株を空売りしたい誘惑に打ち勝つのは難しい。その機会も2回あった。

大統領発言をめぐってインサイダー取引の可能性を誰もが想像するだろう。

今秋にはアメリカで中間選挙がある ―  だからといって、日本の選挙とは違うので、大統領自らが選挙資金を集める必要は薄いかもしれない。しかしメディア操作などカネが必要な仕事もあるかもしれない。

かつてNTT DoCoMo株が株式分割後に急騰した時、なぜか亡くなった小渕恵三元首相がドコモ株を事前に大量に買っていたというのでインサイダー取引ではないかと疑われたことがあった。

政治家と株式市場とは切っても切れない縁がある。それは口先でカネが調達できるからだ。だからこそ、政治家は市場については語りたがらない。李下に冠を正さず、である。ト大統領はあまりにも露骨だ。ということは逆に、ト大統領は真の意味でアメリカ経済の競争的環境の維持、企業全体の健全な発展を望んでいるのかもしれない。しかし、もしそうなら、ほかにも言い方があるだろう。

同じことを日本の安倍総理がもしも口にしていたら(絶対にそんなことはないはずだが)、モリカケ騒動を超える大騒動になっていたに違いない。

行政責任者の口先介入はあってよい時もある。しかし、今回の株価変動劇には疑惑の余地があるような気がする。ひょっとすると、既にSEC、FBIが市場関係者から情報を収集していたりするかもしれない。ひょっとすると、100年前のウィルソン政権からハーディング政権への交代劇が何もかも同じシナリオで再び繰り返される前振れかもしれない、と。そう気になっているところだ。