2017年12月14日木曜日

揺れる相撲界: イナゲな理事?

角界を揺るがせている横綱・日馬富士の暴行引退事件。その後、突然に江戸勧進相撲発祥の場所である深川八幡(富岡八幡)で稀に見る惨劇が発生し、まるで相撲界の上に黒雲が広がっているような雲行きだ。

カミさんとも世間話に格好の話題なのでひっきりなしに話している。

この話題になるたびにいつも出る話し。

貴乃花親方。上層部と一戦交えるなら、まずは最初に理事職の辞表をたたきつけてから思う存分戦うのが男子たるものではないか。本気で対決するなら、いったん身を引いてから決然、旗上げするべきである。会社の経営陣を告発するなら、まずは会社に辞表をたたきつけ自由の身となってから戦うべきだ。同じである。月額100万円を超える役職手当をもらいながら、組織運営を妨害する行動をとるのは美しくない。ハッキリ言えば<ワガママ>、一言で言えば<裏切り>、よく言うとしてもせいぜいが<暴発>か<独善>あたりにしかなるまい。

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マツコ・デラックスは同親方を評して『いいにしろ、悪いにしろ、変わった人ネ』と言ったそうだ。

小生の田舎である四国・松山の人間なら同じ意味で『あの人もイナげなお人じゃなあ』と感嘆するところだ。

小生が形容するなら『非常識な人だねえ』となる。

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小生、個人的にはモンゴル出身、モンゴル国籍のままで相撲部屋を経営してもいいのではないかと思っているが、このタイミングではもう無理じゃないかと予想する。今回の事件は、いい方向に向かいつつあった角界を10年程度は混乱させるのではないか。必要もない反モンゴル感情を世間に醸し出すのではないか。もしそうなら本当の相撲ファンはガッカリするだろう。

大体いつもそうであるが、本当は無関心の人たちがにわかに興味を感じて騒動に参入し、多数派を占める無関心層が納得するような結論がただ民主的であるという理由で採択される。おそらく今回もそうなるのじゃあないか。この辺の事情は、衆参議院の選挙、都知事選挙、その他の選挙、日本の政治も同じだろうと思う。

2017年12月13日水曜日

「戦後」のノリを超えつつある「新聞社」の態度

戦後、日本はずっと戦前期・日本がとった行動を反省する姿勢をとってきた(と言えるだろう)。亡くなった父は朝日新聞を好まなかった。それでもハッキリ言えば産経新聞を「新聞」として相手にはしていなかった(ように覚えている)。当時から、小生はよく知らなかったが産経新聞は右寄りだった(はずだ)。

新聞社にも会社としての主張はあるわけで、政治的にも思想的にもあらゆる社会問題について自由に問題をみる視点を選んでよいと小生は思う。

戦後日本では日本国憲法が理念として共有されているのだから、それを否定するような言説をとるべきではない、と。そう語る人もいることはいるが、そんなことを言い出せば、「長いものには巻かれろ」と言うのとどこが違うのか、そう思ったりもする。

おかしいことはおかしいと言わなければならない。そう思っている。

◇ ◇ ◇

しかしネエ・・・、新聞社が学問の分野にまで踏み込んできて、報道の域を超えて、研究したい人、思想をパブリッシュしている人の名前を挙げて『これはイカンのじゃないか』と言いたげな記事を配信し始めるとなれば、流石に「これは新聞社としてのノリを超えているゾ」と、そう思う。

 「KAKEN」という題字が書かれたデータベースがある。文部科学省および同省所管の独立行政法人・日本学術振興会が交付する科学研究費助成事業(科研費)により行われた研究の記録を収録したものだ。 
 ここには次のような情報が掲載されている。 
 「市民による歴史問題の和解をめぐる活動とその可能性についての研究」(東京大教授 外村大ら、経費3809万円)、「戦時期朝鮮の政治・社会史に関する一次資料の基礎的研究」(京都大教授 水野直樹ら、同1729万円)、「朝鮮総動員体制の構造分析のための基礎研究」(立命館大准教授 庵逧〈あんざこ〉由香、同286万円)=肩書は当時。単年度もあれば複数年にまたがる研究もある。
 外村、水野、庵逧の3人に共通しているのは、3月25日に長野県松本市で開かれた「第10回強制動員真相究明全国研究集会」で「強制連行・強制労働問題」について基調講演などを行ったということだ。
 この場で外村は平成27年に国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録された長崎市の端島(通称・軍艦島)を含む「明治日本の産業革命遺産」について論じた。
 「ごく一部の新聞、産経新聞だが、(軍艦島で)楽しく暮らしていた。朝鮮人とも仲良くしていた(と報じた)。個人の思い出は尊重するが、朝鮮人は差別を感じていた。強制かそうではないかの議論は不毛だ。本人が強制と考えたらそれは強制だ」。
 研究会は徴用工問題に取り組んでいる「強制動員真相究明ネットワーク」などが主催した。同ネットワークは11月末、韓国の市民団体「民族問題研究所」とともに「『明治日本の産業革命遺産』と強制労働」というガイドブックを作成した。産業革命遺産の登録申請は従来の文化庁主導と違って「官邸主導ですすめたという点が特徴」としたうえで、こう指摘した。
 「誇らしい歴史だけを記憶するという、反省のない歴史認識は、再び日本を戦争ができる国にするためのプロジェクトと連動しています。『明治日本の産業革命遺産』の物語もこの一環とみられます」 
 文科省関係者によると、科研費の審査は3人一組で行い、総合点で上位の申請が選ばれる。「自然科学分野と違い、歴史学はどうしても思想的な偏りがある」とこの関係者はもらす。
(後略)
(出所)産経ニュース、2017年12月13日、7時16分配信

確かに歴史学の研究には、ある一連の事実を研究者自身がどう見るかという視点が混在する。というより、その視点自体が、その研究者が行った研究の結果として得られたものかもしれない。あるいは、ひょっとすると、その研究を始めた動機や契機に何かの主義や価値観、思想が初めから混在していたのかもしれない。

しかし、特定の思想や主義が混じりこんだ研究であっても学問としては全く問題はない。むしろ社会思想や宗教、哲学などを主題にしてアカデミックな研究を自由に制限なく進め、そこで明らかになった結論は自由にパブリッシュされるべきである。もちろん、自由に放任すれば、その時代の潮流に沿って、時にはある一方向にバイアスがかかり、特定の方向に則した結論が多く出てくる。そんなこともあるには違いない。

しかし『このような研究は社会的意義が乏しい』などと言い出せば、言っている人はずっと昔の「スターリン主義」に賛同していることになるだろう。

どのような問題についても、多様な学問的成果が蓄積される。日本国内の研究の蓄積がデータベースとして蓄積され、誰もがそれを参照できるようになれば、研究が更に効率的になり、内容が深まる。そもそもアカデミックな研究は筆記試験や資格試験ではない。<正解>などは存在しないし、正解を求める姿勢も不適切だ。

<正解>などは最初から存在しないのだと考えているからこそ、たとえある問題について外国から指摘されても、先入観を排し知的な観点にたって、有効なコメントや反論を国内から発することができる。また、そんな論争は本来(ある意味で)知的で楽しいものなのである。反論や批判は、本来は愉快な論争に結びつくものである。批判が不愉快に思うとすれば、自分が正しいと思い込んでいるからだ。これは学問とも研究とも縁遠い姿勢である。研究の事を語るべきではない。

◇ ◇ ◇


外国から何かの倫理上、歴史上、思想上の攻撃を受けたときに、日本政府による何かの対応を期待してもまったくダメである。学問上の事柄について政府に何かを期待するなど典型的な愚論である。閣僚や官僚は(議員もよほどの専門家ならまた別だろうが)、原則として、担当する実務以外には無知無学である。

自社の理念から気に入らない結論を掲載しているからという理由で、アカデミックな研究を非難するのは、あまり聞いたことがない。

「天皇機関説批判」や「国体明徴運動」、「人民戦線事件」や「平賀粛学」を思い起こすまでもなく、戦前期・日本のマスコミ大手が数え切れないほどの酷い失敗をしているので、もうそんな愚かな「主張」を国内のマスコミ大手が掲載するはずはないと思っていたが、どうやら『もはや戦後ではない』らしい。自分で経験したわけではないことは、最初から知らないことと同じなのだろう。自分の両親からも、身近の年長者はもちろん、上司、先輩など「先達」と呼ばれる人の経験から学ぼうとしない自称「最先端」の人間集団がいる。どこにでもいる。マスコミ界にもいるということだ。

こんなことを考えさせる掲載記事が日本国内の新聞には増えてきた印象だ。

2017年12月10日日曜日

日本人の税負担感は日本的なのか?

来年度税制改正では個人に対する増税が相次ぐという報道が盛んである。

タバコ税は紙巻き、加熱両方で税率の公平を確保するため、特に加熱式たばこの価格上昇が大きくなる模様だ。日本を出国する人、日本を訪れる外国人には国際観光旅客税が導入される。一人千円で航空券発券時に徴収するらしい。更に、森林環境税はこれまた一人千円だが、こちらは個人住民税に上乗せして徴収する。

観光税のほうは出入国管理の強化などに充て、森林税は林道や森林管理に使う。そう説明されているが、100%使途を限った目的税であるのかどうか、ハッキリとはしない。

ハッキリしないとはいえ、どの税目も100億円から500億円という程度の増収で消費税率2%アップと比べれば桁が違う。

増税といっても桁が違うためなのかどうか、マスメディアは全くその是非を論評していない。まあ、反対しにくいという情緒もあるのだろう。

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欧州では付加価値税率20%は当たり前であり、スウェーデン、ノルウェー、デンマークのような25%の国もある(資料はMOF作成のこれ)。しかし、税率の高い国の国民の幸福度は低いというデータがあるわけではなく、国連が発表している幸福度ランキングではノルウェー、デンマークが1、2位を占めている。付加価値税率の高い国の幸福度が高くなっている。

概して欧州の税制は付加価値税が主たる一般財源になっている。取引のたびに課税されるので税から逃げられないが、食品等には軽減税率が採用されている。税制としては単純である。ただ、徴収された歳入が何に使われるのかとなると、目的税とは違って、使途は見えにくい。それでも幸福なのだから、政府をよほど信頼しているか、政府が信頼できないならばそれは小さい政府で民間部門が充実しているか、このいずれかという理屈だ。ノルウェーやデンマークの政府は大きな政府であり、後者の可能性は当てはまらない。ということは、国民が政府を信頼していることになる。色々な媒体から実際にそのとおりであるという印象がある。幸福度ランキングの順位はやや下がるが、スウェーデンも似たような事情だろう。

日本では小さな目的税は通りやすいが、大きな消費税は大問題になる。痛税感があるためだが、たかだか消費税率10%で負担感に耐えられないというのは奇妙である。

どちらかと言えば、日本国民は自己主張が激しくなく、政府の指示には嫌々ながらも従う傾向がある。一度決まった事柄、規則はよく守る。欧州では25%の付加価値税率があるのに・・・である。

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・・・政府予算に国民の税収が占める割合は概ね3分の2、長期債務の対GDP比率は168%であるから、政府の行政においては、国債購入という形で資金を提供している有産階級(?)が相当貢献しているという実情がある。つまり、現在の日本政府は、「国民が」という原則は認められるものの、一部の「有産階級」が少なからず費用を負担して貢献している(というか、して来た)。

貢献あるところに権利あり

このメカニズムは時代を問わず機能してきた。

江戸時代において、借金まみれになった藩は主君である殿よりも資金を提供した上方商人に頭を下げなければならなかった。よく似ている。

カネを負担しなくとも「いざという危機」においては軍役について奉仕するのであれば、資金を提供している階級の影響力は限定的だ。が、負担する何物もないのであれば、影響力どころか、発言してもネグられる。不満が爆発して時々暴れるが、せいぜいが同情される、社会問題として指摘される、それだけになる。

負担なければ権利なし

このメカニズムも歴史を通してずっと一貫して働いてきた。カネも力も負担しない階級は福沢諭吉が『学問のすすめ』第三編でそう呼んだ「客分=お客さん」にならざるを得ない。頼りは日本国憲法あるばかり、だ。そんな状況になる。

「お客さん」に組織運営の負担を求めても、嫌がるだけであろう。

要するに、みんなで負担してみんなで相談してみんなで幸福になるか。誰かが負担して指導層になり、他の人々は面倒をみてもらう、その代わりに危ないこと、大事なことには参画しない。ジッシツ、選べるのはどちらかである。そんな浮世の現実が改めて確認できるわけである。

日本は、まだ後者の国家形態に移行したとは思われぬが、このまま放っていくと、実質的にそう成り行く可能性はある。もしそうなら明治維新前の古い日本に戻ることになる。

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年金保険料は使途が明確だから支払う。医療保険料は自分にも必要だ。だから支払う。森林税は使途が明確であり、金額も年間千円だから、まあ、認める。観光税も目的がハッキリしているし、現に自分も旅行しているので、支払う。

しかし、一般財源は何に使うかハッキリしないので、消費税も所得税も払いたくない。「痛税感」とはこういうものだろう。

日本人の幸福度ランキングは世界で51位、OECDでは最下位である。米英独仏は10〜30位前後、シンガポール、タイも同程度だから、日本の51位というのは先進国の中では際立って低い。

その根底には
政府が信頼されていない。
真の意味で信頼していない政府から増税されようとしている。 
という、そんな現実がある(かもしれない)。

つまりは、国民の願望に沿った政治が(本当は)行われていないという現実があるのではないか。

その背景には、「自分たちが支えている政府である」という精神的一体感を持っていない。そんな事情があるかもしれない。であれば、少額でもいいから(例えば)人頭税を導入して納税者感覚をすべての人に持ってもらうのが政府との一体感の形成には有効かもしれない。たとえば格差拡大への怒りが政治的エネルギーの高まりとなるには<負担の平等>に裏付けられた倫理的な正当性が要るだろう。この方向のずっと向こうには、いうまでもない、<軍役の義務=徴兵制>という名の負担の平等がある。

戦前期・日本で華族や富裕層、地主層が最終的に政治的影響力を失ったのは、兵役の義務を全うする兵士達は庶民にとっては非官僚的な人間集団であって、その兵士達を統率する軍部に対して庶民は既存の指導層とは別の親近感・清涼感を感じた。この点はよく指摘されていることである。古代ギリシア、共和制ローマとも共通しているが、いざとなれば自分達自らが国を守るという制度は、福沢諭吉も大いに評価した国の形なのである。

しかし、多分、話は逆なのだろう。そもそも現在の政府サービス自体に共感をもてない、こちらが先なのだろう。政府がまったく信頼できない、だから使途がハッキリしない税は支払いたくない。そんな因果関係かもしれない。だとすれば、人頭税などとんでもない話である — この場合、信頼されていないのは政府ばかりでなく、予算を議決する国会もまた信頼されていないということだ。

まあ、いずれにせよ確かに現在の日本国の費用負担状況を見ると、国民が支えている国であるとは言えないヨネ。これが現実だ。

更にまた、その根底をみると、日米関係の現実につきあたる(かもしれない)。自分たちで自国の将来を決められない。結局、ここに戻るのではないかネエ・・と。与党だけではなく、野党もまた、基本的には現行レジームのまま政権につきたいと。「そうではないんですかい?」と言いたい人も多いはずだ。

国民の幸福度は、その国の経済力で決まるわけではなく、自国の将来を国民がどの程度まで主体的に決められているか。いわば、その国の政治水準。経済水準とは別の政治水準もまた国民の幸福度の重要な決定要因であると。改めてそう思えてくる。





2017年12月7日木曜日

断想: NHK受信料合憲判決から

NHKという会社(?)は奇妙な存在であるということは以前にも投稿したことがある。もう5年以上も前のことだ。

放送受信料を強制的に徴収しているが、それは決して租税・公課ではない、つまり対価なのだというところから問題は発生する。

この件について最高裁まで上告されていた事案について昨日判決が出た。

結論は『放送受信料は合憲であり、支払い義務はNHKとの受信契約発効、つまりテレビ設置日に遡る』というものだ。

要するに、契約自由の原則という観点から考えれば、テレビを設置するという行為とNHKの電波から使用価値を受益するという行為は同一の行為ではない以上、NHKの電波を受信するかどうかについては自由意志に基づく交渉の段階がなければならないというロジックが一方の側にある。それに対して、NHKは公共の利益を守るために設立された事業者であり、民間企業ではない。民主的に選ばれた国会で議決された放送法で受信料支払い義務が規定されている以上、テレビ設置者には受信料支払い義務があるのだ、と。最高裁では後者の法理を採択したわけだ。

まあ、道理に沿った判決だと納得できる。契約は自由であるという原理原則の例外としてNHKという事業者は存在していることが改めて確認されたわけである ― とはいえ、ドラマやエンターテインメント性の高いバラエティも、全て公共性を本当にもっているのか?甚だ疑問であると感じられる番組は多いとは思うが。

■ ■ ■

判決で気になる部分もある。それは(当のNHKの報道から引用させてもらうのだが)次の部分である。

放送は、憲法21条が規定する表現の自由の保障の下で、国民の知る権利を実質的に充足し、健全な民主主義の発達に寄与するものとして、国民に広く普及されるべきものである。放送法が、「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること」などとする原則に従って、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的として制定されたのは、上記のような放送の意義を反映したものにほかならない。

(出所)NHK NEWS WEB, 2017-12-07配信

マスコミがよく使用する「知る権利」については、小生は先日も以下のように述べている。

なので、たとえばメディア・スクラムによって自宅に缶詰め状態になるなどという状態は、憲法違反ではないかと小生は思っている。よく「社会的制裁」と判決文にあるが、「社会的制裁」自体が私刑であり、憲法違反であると思う。「知る権利」などはマスコミによるマスコミのためのマスコミ用語であり、現行憲法には規定されていない蜃気楼のような概念であると思っている。

 最高裁判決が「知る権利」の根拠として挙げている憲法上の根拠は第21条である。これは表現の自由に関する規定である。文言は以下のようだ。

第二十一条 
①集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。 
②検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
新聞社は結社の自由で守られ、記事の表現は表現の自由で守られ、検閲によって報道が制限されることはない、という意味で日本国内のマスメディアが上の規定を印籠のごとくかざしているのはよく知られていることだ。

■ ■ ■

ただ思うのだが、昨日の最高裁判決でいう「知る権利」 ― 知る権利を21条で直接的に概念規定しているわけではないのだが ― と、先日も小生が投稿したようなマスコミのマスコミによるマスコミのための「知る権利」とは、まったく本質が違っている。内容が違う。

「知る」というのは「真相を知る」ことである。真実であるかどうか分からないことまで、時にはウソかもしれないと思いつつ、更には真っ赤なウソと知りつつ、自由に表現できるのは、国民に知る権利があるからだというのは屁理屈だろう。まあ、ここまでいうと言い過ぎかもしれない。が、「知る権利」というのは極めて限定的に解釈したほうが適切であるように思われるのだ、な。

別の角度からも吟味しよう。

■ ■ ■

基本的人権が日本国憲法のコアとなる規定であることは学界でも合意の広さという点からも最も共有されている理念である(と、小生は承知している)。

第十一条 
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
非常に強い規定であることは文言にも表れている。もし報道機関が主張する「知る権利」と、どの個人にもせよ基本的人権として持っている自由とが衝突するなら、当然、基本的人権を優先するべきである。そんな結論になるはずだ。なので、一度、「知る権利」と「基本的人権」が矛盾する事案について誰かがマスメディアを提訴し、法廷で黒白をつけてほしい。小生にはそんな願望がある。

■ ■ ■

個人については個人情報保護法が「知る権利」に対する盾になっている。政府については「特定の秘密の保護に関する法律」が平成25年12月13日に制定された。

21条にいう表現の自由とは民主的に選ばれた国会で議決された法律の範囲内で「知る権利」につながるものである。そういうことでもある。

契約自由の原則は大事である。しかし、現に民主的に選ばれた国会で放送法なる制限規定が議決された以上、契約自由の原則もその範囲内で認められる。故に、NHK受信料支払いの義務は契約自由の原則と矛盾しない・・・同じロジックであるようだ。

・・・マア、こんなに簡単に原理原則を制限する法律を合憲であると認めていいのかという問題提起はありうると、個人的には思ったりもするが、論理は論理だ。

確かに論理的である。論理的であるというのは、感情や思い込みが混じらず、普遍性をもつということなので、認めざるを得ないわけだ。

ただ一つのことは言える。国民が個人として持っている基本的人権は、いかなる場合であっても、現行憲法下では国会と言えども侵すことはできない。そう明記している ― もちろん自由に行動して、他人の権利をおかせば処罰されるわけで、それは当たり前。

いずれにせよ、小生が理解する「知る権利」とマスコミが常に主張する「知る権利」と、二つの接点について考えるチャンスになったのは事実である。


2017年12月6日水曜日

猛省: ニコ生を侮っていました

3月にこんなことを書いている。これも今年のことだったのかと日の経つ速さをつくづくと感じる:
TVとはあまり縁のない例えば法務委員会では「共謀罪法案」の扱いが検討されている。厚生労働委員会では「保育所問題」や「育児休業」が審議されている。TV中継される予算委員会以外の委員会では、総じて真剣な審議が行われている。そのことをTVはまったく見ようとしていない。 
以前に、日本陸上の特に男子長距離界の弱体化が進んだことと箱根駅伝の視聴率の上昇トレンドとの間には、有意な因果関係を統計的に検出できるのではないかと書いたことがある。 
同じように、予算委員会に偏重したTV中継と無責任な毎年度の予算編成との間には統計的に有意な関係が認められるのではないか、と。 
そんな憶測をしている。 
こう書いてくると、「TV中継」なるものが日本国民に何らかの価値を提供しているとは全く思われない。あえて言えば、TV局の番組編成局に所属する無学・無教養なプロデューサーの「見識」などは排して、多くの常任委員会・特別委員会をローテーション方式で機械的に中継していく方が国民への情報提供としては一層適切であり、国会全体の活動状況を正しく伝えることが可能で、また個人個人の国会への関心を刺激することにもつながるだろうし、そのためのルール作りを国会との間で取り決めるのが優先事項であると思うようになった。
 来年2月に開催される情報処理学会では人工知能(AI)や機械学習で最近よく名前を目にする人たちが講演するので、これはぜひ行かねばと思ったのだが、ネットから開催案内を読むと「ニコ生」でも中継するとある。

ニコ生? それは当然知っている。しかし全く利用していない。その意義をネグってきた。「そうか、こんなものも中継しているのか」と今更ながら見直して登録した次第。

中継中の生放送をみると本日現在で衆議院・外務委員会や厚生労働委員会、国土交通委員会、あるいは第53回原子力規制委員会などがライブ中継されている。

ここまで社会に浸透しているとはまったく知らなんだ。

時代に遅れていることを自覚しなかったというのは恐いねえ・・・猛省。

とはいえ、思っていた以上にTVが劣化しているという事実が一層明らかになってきた。これも事実だ、な。

2017年12月5日火曜日

慰安婦像増設戦術に対しては「抱き着き戦術」のみが有効ではないか?

韓国にとって従軍慰安婦像設置は今や日本に対する有効なソフトパワーアップ戦術になっている。

先日、サンフランシスコ市にくだんの像が寄贈される問題をめぐって大阪市は姉妹都市関係を解消すると通告し日本国内でも議論になった。

これを中国系市長と韓国系住民団体による連係プレーとみる向きもあるが、むしろ中国にとっての韓国が今や国家丸ごと日本に対する中国の倫理的優位性を国際社会において築くための戦略的ツールと化しつつある。こちらのほうがより重要だと思われる。

韓国という国は、中国が対日優位を構築するために間接的アプローチをとるとき<役に立つ駒の一つ>になりつつある、というよりなったと思ってみている。韓国の最適反応戦略は(中国からみると)極めて分かりやすいから。

明治以来、日本は朝鮮半島を国防上の最前線と見なしてきたが、いま現代において中国からみても朝鮮半島は地政学的にも、歴史的にも、自国防衛上の最前線としてみていることは自明だろう。

韓国の外交行動は中国の戦略的意図の反映であるとみる視点が大事だ。韓国もそのことを理解しているはずだが、ナッシュ均衡を崩すための勇気あるコミットメントを政府が行うには常に政治基盤が不安定である。

◇ ◇ ◇

アメリカはどのような思考に基づいて第二次世界大戦後の対アジア外交を展開したのだろう。小生も勉強不十分でそれほど当該分野の知識はない。が、アメリカにとって戦後の東アジア情勢は予想外であったろうと推測する。中国共産党政権の誕生、朝鮮戦争の勃発、朝鮮半島の南北分裂まですべてアメリカにとっては想定内、計画通りの進行であったとはいくら米政府も強弁しないだろう。

そのアメリカはいままた「日韓従軍慰安婦問題」がここまで引きずられてくるとは思っていなかったと思われる。

◇ ◇ ◇

この問題があるゴタゴタした経緯をへて認知されて以来、現在までかなりの時間が経過したが、このような場合、韓国にとって最も嫌な日本の出方は<偽善>だろう。

世界の女性共通の現代的問題と日本もまた認識し、国際的に主導的に活動し、従軍慰安婦像の設置には反対せず、むしろ全ての女性の視点から悔恨の意を表明し、設置賛同の志を金銭的にも寄付するとすれば、韓国としてはその寄付を拒否するかもしれない。受け入れれば日本の偽善は成功するし、拒否されれば拒否されることが日本にとってプラスとなるだろう。

ましていま現在、日韓合意に反する行動を韓国側がとろうとしている点それだけでも、日本は1,2点をとっている戦況である。

歴史問題に関連して日本の対決的姿勢は韓国が想定している反応であり、韓国(及び中国)が最も緻密な外交戦術を構築している領域だろう。相手の予想する行動はとらないのが紛争で優位を得るための王道である。

同じ敗戦国のドイツも歴史問題については対決戦術はとっていないはずだ。




2017年12月4日月曜日

12月2日への補足: 問題解決の際の「日本的」な傾向

ある問題が発生し解決を迫られるとき、それぞれの国民性が反映される。その国民性は数多くの要因が結構複雑に絡み合って決まっている。

日本人の場合は、たとえば「島国」で大陸とは海で隔てられていたので長い歴史を通して独自の文化、理念ができあがっている ー 「邪を正す」という発想より寧ろ「和を以って尊しとなす」のはその一例かもしれない。前の投稿では、加えて日本語の特質という点をあげた。

前の投稿から少し考えを足したのでメモしておこう。

次のような日本文がある。

こんな日は、読書だ。

これを英語で表現するとどう訳す? たとえば

In such a day I like to read books. あるいは
In such a day one likes to read a book. 

上の二つはかなりニュアンスが違うが、これなら、まあ、学校的には丸がつくだろう。それでも原文とは意味が違っている。

そもそも元の日本文は「こんな日は」である。「こんな日には」ではない。だから"In such a day"ではまずいのではないか。「こんな日は読書だ」と、「こんな日には読書だ」とは、確かにニュアンスが違う。しかし、このようなことを言い出せば「こんな日は」を英語にすることができない。

かと言って、「日」を主語にして(日本語でも一見すると「こんな日」が主語であるようでもあるから)、

Such a day is a chance for reading.

こうすると余りにも分析的になる。大体、元の日本文とはまったく意味の違う文になってしまっている。『こんな日は、読書だ』と『こんな日は読書をするいい機会だ』というのは、意味は同じかもしれないが、情緒が全然違う。

大体、『こんな日は、読書だ』、『こんな日は読書だ』、『こんな日は、読書です』、『こんなひは、読書だよ』、『このようなひは、読書だよ』、『こんなひは、どくしょだ』、『こんなひは、ドクショだ』、まだあるかもしれないが、すべて文に込められている情緒が違うし、違う以上は異なった英文で訳さなければ(本当は)正確な訳文にはならない。

日本語による表現は、言葉で書かれていない「言外の」情緒を伝えようとするところに深い意味がある。その情緒を理解しなければ、聞いたことにならないし、読んだことにならない。英語でいう「ニュアンス」とは使われる言葉の選択を指しているので、いま言っていることとはかなり違っている。

大体、日本語による文学作品の代表例である『源氏物語』。ほとんど主語がないのだな。谷崎潤一郎の『源氏物語』は小生にとって長期的な読書リストの一つであり、いま少しずつ読んでいるところだ。谷崎は、紫式部の原文の雰囲気を忠実に出すために、現代日本語訳でも極力主語を省き、それが誰の動作であるかは敬語を用いているか、それとも前後の文脈から読み手に憶測させる表現をとっている。「源氏物語」が外国語に翻訳されているのはまったく驚異であると小生は思っている。

◆  ◆  ◆

前の投稿では、日本人が日本語で何かの問題を分析する時、自然に言葉の特性が国民性のような傾向になって現れてくるような気がする、と。そう書いたのは以上の趣旨であった。

特定の問題をもたらしているメカニズムをまずどう理解しているのか。そのメカニズムは何かの目的を達成するために設計されたはずだが、何が目的で、いま何か問題を抱えているのか。その問題が解決されていないために、現在の問題点が結果として現れているのではないか。本質的な問題を解決するための筋道は何か。本質的な問題を解決すれば、眼前の問題点も解消されるのではないか、と。

本質的なところで問題が発生しているとすれば、多くの場合、ヒト(Man)か、設備・道具(Machine)か、素原材料(Material)か、方法(Method)かのいずれかに存在するという「4M理論」などは、問題解決のためのツールとして製造業現場で受け入れられた<QC>(=品質改善)に由来するベーシックな視方である。QCでは整理された問題に対して「重点志向の原理」に沿って、大きな三つの問題点から先に解決しようとする。2割の問題が障害全体の8割を説明するという「パレートの法則」が根本にある。決して、すべての問題点を洗い出してから、整理し、解決への戦略を検討してから後、実行へ着手するという方式はとらない。これもまた実践的(というか非常にアメリカン)な方法論だろう。

いずれにせよ、問題解決にはまず観察、理論、診断のステップが必要である。こんなロジカルな構成をもたせて議論すれば(本当は)効率的である。しかし、日本語を使った議論では、中々、ロジカルな議論にならない。「この問題は何を意味するのか」、「意味されたことは他のどんな事と関連するのか」、とまあこのように連想ゲームのように話しが纏綿と関連しあいながら、進んでいくことが多い。

日本国内で「国会審議」とか、「ジャーナリズム」と呼ばれている「言論の場」は、諸々の事実の断片が次々に出てくるままに、事態が次々に成り行くさまをそのままに語り、問いかけ、嘆き、書き下ろしているだけである。

小生は日本的ジャーナリズムの元祖は鎌倉時代という歴史の変わり目のそのまた末期の世相を実見した吉田兼好の『徒然草』であると思っている ー その『徒然草』が小生が枕元に置いてある本の一冊であるのは、実は日本的ジャーナリズムが嫌いではないことの証拠でもあるのだが。

これが前の投稿の趣旨である。