町外れにあるネッツ店でタイヤ交換をして来た。
冬タイヤを夏タイヤに換える頃には、毎年、道端の残雪が僅かになる。やがて桜が咲き始めると強風が吹き荒れる何日かがやってくる。桜はあっという間に葉桜になる。ちょうど黄金週間に入る頃である。気温は10度前後で小高い山に登ると肌寒さを感じる。GWが明けると厳冬期に凸凹になった道路を補修する工事があちこちで進む。そして工事が一段落すると、その頃までには白樺林は若葉の新緑になっていて、隣町ではライラック祭りがある。国道沿いのアカシアの花も開き始めると、初夏がやってくる。林の中でエゾハルゼミが短い夏の先触れのように高い声でさかんに鳴く……
まあ、こんな風に春から夏にかけての時候を毎年過ごしているが、これを幸福と言うのか、単調と言うのか、変化がないことは不安がないという事なのか、不安がないというのは平穏ということなのか、自分にはよく分からない。「ものも言いよう」なのだろう。
ただ、雪国に春がやってくる時節の晴れやかな嬉しさは格別である。これは真実である。
思ひきや 雪ふる里の わび住まい
妻とよろこぶ 春の知らせを
首都圏で暮らし続けていれば、分からずじまいであった幸福だ。
誰であれ楽しかった思い出や、哀しかった思い出があるものだ。若い頃は、楽しかった時のことを思い出しては幸福感にひたったものだ。しかし、幸福の裏側で自分が気付かないままにやっていた独善や傲慢をやがて認識する時が来る。傷つけていた人たちに謝りたくともそんな機会は来ず、埋め合わせなど出来ることではないのだ。楽しい思い出は苦い追憶に変わる。これも浮世の摂理というものだろう。
反対に、辛い思い出は思い出したくもなかったが、時がたつといつの間にか懐かしい日々となって思い出されるのは実に不思議である。
ながらへば またこのごろや 偲ばれむ
憂しと見し世ぞ 今はこひしき
藤原清輔の作である『新古今和歌集』のこの和歌には以下のような解説を窪田空穂が付けている:
これからのち生きながらえたならば、今と同じように、また現在のことがなつかしく思い返されるでしょう。憂いと思った頃が、ただただ今になると恋しいことです。
失恋もまた時の経過とともに美酒になるということか。時間は、ワインやウイスキーを産むだけではなく、人の心も別の心に換える。それは忘却ではなく、事の真相に到達するということなのだろう。裏もまた真なり。
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