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2024年12月10日火曜日

ホンノ一言: 主婦年金廃止を提案する前に、基礎研究はしっかりやっているのだろうか?

 基礎年金の「第3号被保険者」という制度は、確かに「専業主婦優遇政策」だと思う。うちのカミさんも、この政策によって心強い気持ちを持てているのだと思う。


そもそも明治に始まった軍人恩給など、国の「恩給制度」では、奉職した本人にのみ恩給が支給されたわけであり、妻は対象外であった ― 但し、受給者本人が亡くなった後は、未亡人等に「普通扶助料」(だったかな?)が支給されたはずである(が、詳しくは承知していない)。

戦後、恩給から年金保険制度に衣替えしてからも事情は変わらなかったが、仮に夫婦が離婚すると妻は無年金になってしまう。その非条理を改善するために、専業主婦であっても基礎年金受給権や離婚時の年金分割などの措置が為されてきた。大雑把だが、そう理解している。


ところが、専業主婦世帯の減少にともない、主婦年金廃止の提言が経団連からされているようだ。多分、

専業主婦優遇政策を今後もずっと続ける必要はないヨネ

と、まあ、こんな了解が日本社会の中で形成されつつあるのだろう。

ただ、思うのだが、このような意見の基礎部分に

専業主婦は生産活動に寄与していないし、GDPへの貢献もゼロだヨネ

こんな認識があるとすれば、それは明らかな間違いである。この点については、前にも投稿したことがあるので、再述しておきたい。

★

考え方は、持ち家の「帰属家賃」の扱い方に近い。即ち、「家賃」というカネの流れが発生していないにも拘わらず、持家の持ち主が自ら所有する持家に家賃を支払っていると擬制してGDPを推計するのは何故か、という問題だ。

なぜこんな現実と異なる計算法を採っているかといえば、仮にいま2軒の持家があるとする。ある時、何かの事情があって、2軒の家の持ち主が家を交換して互いに転居するとする。そして、他人の家を借りる以上は、賃貸料を払う必要があるので家賃が設定されるとする。そうすると、転居の後は家賃というカネの流れが発生する。家の持ち主には家賃収入が発生するし、その家賃は相手方への家賃支払いにそのまま充当されるわけだ。これらの家賃は、当然ながら、GDPにも計上される。双方の世帯が自分の家に住んでいる時は家賃がゼロで、互いに転居した後は家賃が発生してGDPが増える・・・実質的な変化はないのに、GDPが増えるという推計はマクロ的にはおかしいだろう、というのが「帰属家賃」を評価・計上する理由である。

主婦の家事労働も同じである。

いま、隣り合った2軒の専業主婦世帯がある。仮に、それぞれの主婦が互いに隣の家の家事労働を担当するとしよう。他人の家の家事労働をするからには、家政婦(?)サービス料金を受けとる。つまり、ここでカネの流れが発生する。それぞれの世帯は、隣の家の家事を担うサービス料金を受け取るので収入が増えるが、それはそのまま自宅の家事をしてくれた隣の主婦への支払いとして消えて行く。実質的には何も変わらないが、カネの流れが増えた分だけ、GDPは増えるわけである。

これはおかしいでしょう、という問題はちょうど「帰属家賃」の計上と同じなのである。

故に、本来は「主婦の家事労働」を帰属評価した《拡大GDP》を参考数値として公表するというのが、ロジカルな対応である。

・・・とまあ、こんな投稿を前にもしたことがあるわけだ。


このような、いわゆる「自家生産」、「自家消費」の扱いはマクロ統計の肝でもあり、面白い所でもあるわけで、ほかにも例えば農家が生産する農産物の半分が農家で自家消費されるときも同じだ。自家消費(=自家生産)される農産物の価値を、きちんと実質GDPに計上しておかなければ、農産物生産量と原材料投入量との整合性もとれなくなり、マクロ的生産力を測る指標としても役に立たなくなるわけである。

★

この30年程の間、進行してきたのは

男性労働者が不足してきたので、女性の(主として非正規)労働市場への参入で、生産現場を回してきた

一言でいえば、このような経済政策を選んできた(というのが個人的見方である)。当然の理屈として、男女賃金格差が残っている状態の下では、それまでのコア労働力であった男性の賃金には抑制がかかり、共稼ぎ世帯の割合が上がる。

この流れは、法制面でもモラル面でも、また世論によっても後押しされた。1972年の「勤労婦人福祉法」以降、1985年の「男女雇用機会均等法(通称)」を経て、2007年の同法改正に至るまで、法改正が繰り返された。女性の社会進出と性差別解消は、文字通りの「善」であり、「進歩」の象徴であったわけだ。

マア、上部構造としてはこういう流れであるのだが、下部構造はあくまでも企業の営業現場の要請であったと小生は観ている。

★

もし家事労働を担ってきた女性が、他世帯の家事労働を担当するだけであれば、家事労働はマクロ的には不変であるため「実質拡大GDP」は変化しない ― 家事労働を帰属評価しない通常の実質GDPは増える。

この30年に進行してきたのは、主婦の家事労働の減少と市場における労働の増加である。確かにゼロであったカネの流れが発生するから、労働市場に参入した女性がGDP成長に寄与してきた、とは言える。しかし、それは通常の実質GDPである。家事労働にあてる時間は削減されてきたので、帰属評価される主婦サービスは減少してきた。故に、社会の付加価値全体がどう増減したかは「実質拡大GDP」を推計するまでは分からない、という理屈になる。


それでも、多分、以前なら6時間かかった家事労働が、色々な耐久消費財の普及によって、今では3時間しかかからない。毎日余った3時間を家庭外労働に活用して、エクスプリシットな賃金収入を得ている。そう観ることが出来るかもしれない。こんな実態があれば、主婦が家庭外の仕事に従事することで、マクロの付加価値は増えるので、家庭外で有給の仕事をするかしないかで、社会保障上の処遇に違いをつけるのは理に適っていると言う人もいるだろう。

他方、もしも主婦の労働は効率化されておらず、単に家庭外労働が増えた分だけ家事労働時間が削減されたのだとすれば、(誰かがしわ寄せを蒙っているはずの)家庭の犠牲があって、企業の営業現場が助かっている。そんな状態かもしれない。もしそうなら、家庭内で働こうが、家庭外の労働市場で働こうが、マクロの付加価値合計には中立的なのだから、どちらの働き方を選ぶかで「公的年金」という社会保障上の処遇に差を生じさせてはならない。こんなロジックもあるかもしれない。

更に、考えてみると、基礎年金は文字通り「基礎的レベルの老後保障」であるから、送った人生とは関わりなく、(育児への貢献だけは別として?)無条件に同額の年金を全ての人に支給するべきだという理念をもつ人もいるかもしれない。そもそも「公的年金」というのは、社会全体への永年の貢献に対するリターンである。保険料支払いがあってこそ保険金(=年金)給付があるという保険会計に忠実でありたいなら、公的年金は民間ビジネスに衣替えするべきだ。公的△△を詠うなら、国の理念を基礎とするのが筋というものだろう。確かに、こんな言い分もあるかもしれない。


小生は、主婦労働の生産性向上が、労働市場への女性参入を支えてきたのだと思っているが、この両面を総合評価して、日本全体としてはどの程度まで付加価値が増えているのかを知りたい時がある。

それには、総務省統計局の『社会生活基本調査』等に基づいて、家事労働を帰属評価した《拡大GDP》を時系列として推計する必要があるのだが、残念ながらこうした問題意識は今のところ皆無であり、平成25年の内閣府による試算を最後に研究が途絶えているというのは、

労働力人口が先細りの中、現場が人繰りでバタバタしながら、基礎的な研究意欲そのものが萎えて来てますヨネ

何だかそんな「貧すれば鈍す」というか、退廃的な気分が、日本社会に蔓延しているのではないだろうかと、暗い気分になることがある。


そして、いま主婦年金の廃止が議論されようとしているのだが、専業主婦が担っている家庭内労働を評価する位の準備作業はしてもよいのではないだろうか? 確かに、経済的な価値の生産をしているのは事実なのだから。

【加筆修正:2024-12-13】





2024年4月23日火曜日

断想: 「専業主婦」をみる現代的視線への異論

実を言うと、専業主婦の第3号被保険者を廃止するべきであるとか、配偶者控除を廃止するべきであるとか、意義のない浅い議論だとずっと以前から思っている。

実際、<専業主婦>をキーワードにしてブログ内検索をかけてみると、非常に多数の投稿がかかってくる。

例えば、2016年4月14日の投稿にはこんなことを書いている:

税制もまた行政府が行う政策の一環だ。同棲をしている二人と、正式に結婚をしている二人はもう差別しない。そう考えるなら、税負担も平等にするべきだ。しかし、育児には家庭が必要で、家庭を築くには正式に結婚することが望ましい。そう考えるなら、専業主婦となるがゆえの利益は、そのことの社会的利益に対応するものと考えて、(一定期間かもしれないが)育児に専念する行為に対する報酬であると意味付けても、小生、それほど道理に反しているとは思えないのだ、な。そもそも今は子育てに優しい、出生率を高める方向の制度が必要なのではないか。

極右だとは自覚していないが、かなりの保守である。というか、内縁の夫婦と正式の夫婦を差別するなという意見も入り込んでいるので、かなりのプログレッシブではないかとも意識している。

かと思うと、 2016年8月8日には

確かに「女性が就労しやすい」ことで達成しやすくなる目的はある。労働供給のボトルネックを緩和して、潜在成長力を上げるという目的にはプラスだろう。ある意味で「経済合理性」があるとは思う。しかし、プラス効果は一面的だ。ロジックとしては、就労しやすい=主婦専業を奨励しない。これも別の面で言えることだ。

女性が就労を選びやすくすることは、女性が主婦専業を選びにくくすることと同じである。本当に、こうすることが今の日本社会の現実にマッチしたことなのか。

いや、いや、参りますネエ、旧すぎて・・・と言われそうだ 。

ごく最近になっても、

非市場家庭内サービスを担当していた専業主婦が、労働市場に参入し、サラリーをもらって働くようになれば、それまではゼロであった付加価値がプラスになるので、人口で割った一人当たりGDPが成長するのは当然の理屈であって、IMFの分析担当者が言う通りだ。

しかし、<国内総生産=GDP>という概念を考えるとき、主婦(と限ったわけではない)が担っている非市場性の<家庭内労働>も本来は帰属評価をして「国内総生産(=GDP)」に加算するべきなのである。

以前は、家庭内主婦労働を評価しないマクロ経済統計に対する不信感がずいぶんあったものである。平成25年には ― もう昔になったのか —、内閣府が家庭内の無償活動を評価、加算した拡大GDPを試算しているが、上のような問題意識に応じる試みだった。

「主婦労働」を評価しようという問題意識そのものが、もはや「時代遅れ」になってしまったのかもしれない。問題意識がなくなリャ、研究もせんわナ、ということだ。

しかし、新たな時代なら新たな時代として、研究の積み上げが必要だ。経済分析への取り組みがまったくとられないまま、世間が「少子化対策」、「子育て支援」、「財源調達」、「ジェンダーフリー」などと騒いでみても、これはいわば「負の世論」であって、有意義な政策形成にはほとんど寄与しないと観ている。そんな下向きの世論に応じて政策を展開してみても、それはいわゆる古代ギリシアのプラトンの昔からある「衆愚政治」というものだ。


・・・その果てに、家庭内で働いていた女性たちが労働市場へ参入し、そこで報酬を伴う仕事に就き、足元では女性労働者 ― ほとんどが非正規だが ― の就業率もほぼ上限に達し、ビジネス現場では空前の人出不足になった。

この状況をどのように考え、どのように評価すればよいのだろう?

日本の労働力人口の減少が始まった1998年以降、この25余年間、日本は一体何をしてきたのだろう?


騒がしいイデオロギーと落ち着いた国民生活とは、しばしば両立しないものだ。

騒がしい集団には注目して報道し、静かで安定した人たちが共有する基本的問題には無関心をつらぬく日本のジャーナリズムの底の浅さも、現代日本社会の世相を醸し出している一因なのかもしれない。


2016年4月14日木曜日

保守的なへそ曲がりの結婚観

朝食をとりながらカミさんとみるTVのワイドショーが本ブログに何度登場していることだろう。別に、ワイドショーが主たる情報源ではないのだが、視聴していると口を出したくなる「議論」にいつもなっている。だからこそ、「井戸端会議」なのだろう。

本日の話題は『幼稚園・保育園から大学までの教育無償化』、そのための財源についてであった。確か「お維新」の着想ではなかったかと記憶しているが、先日の投稿のとおり、真面目に議論するほどのアイデアでもないと思われるので、小生の意識からは消え去っていた。

やはりTV局は、パクっと食いつくのだなあ・・・そう思った次第だ。

すべて覚えているわけではないが、個人的なコメントをメモしておきたい:

(1)

★ 教育無償化に必要な財源は概ね7兆円。

京都大学の某教員が試算した数字だが、現在の大学進学率を与件とし、大学授業料を年間50万円ほどと前提して計算しているようだ。進学率はいいとして、日本で大学といえばほとんどが私立大学である。授業料50万円は国立大学の授業料だ。私立大学、特に医学部は数百万円かかる。積み上げ計算の詳細はわからないが、人数×50万円で大学教育費とするのは非現実的だ。

この7兆円が防衛費6兆円を超えるというのは異論はないが、医療費や年金費の数十兆円と比べれば大したことはないと話していた。日本の国家予算は90兆円である。医療費・年金費を足せば、90兆円を超えてしまう。

多分、TVで言っていた「年金費」は、「公的年金受給者の年金総額」のことだと推察される。これならば、平成26年度に53.4兆円になっているから、話しの辻褄があう(資料)。しかし、これは年金として支給された金額であって、税の投入額ではない。年金を支える財源は、税というよりは保険料である。長生きした人には支払った保険料から戻してあげるのが「年金保険」である。なので、年金費という場合、支給額ではなく税負担額を使わなければならない。医療費についても、医療保険から支給される分は税負担ではないので同様の理屈になる。

ちなみに厚生年金保険の場合、平成26年度の国庫負担額は8.8兆円になっている。教育無償化に必要な財源よりは若干多いが、大体等しい。故に、大雑把な金額としていえば、『教育無償化政策を実施したいなら、厚生年金保険をもう一つ作るのとほぼ同規模の予算を手当てしないといけない』。そういう試算になるのではないかと思われる。

(2)

★ 財源として相続税強化が有望。

これは全面的に賛成だ。ただ反対は多いと思う。いわゆる「名門・名家・上流階層」は戦後日本でも形成されてきているが、たとえば田園調布の高級住宅街が空洞化しつつあるような現象が、全国でより加速されることになるのではないかと思われる。とはいうものの、いわゆる「二世政治家・世襲政治家」の芽を摘むという効果もあり、全体としてはプラスになるのではないかと思う。

(3)

★ 資産課税を強化する。

たとえば1億円の預金を保有している人には、その資産に対して税をかける。気持ちはわかるが、日本国憲法の29条には「私有財産の不可侵原則」が規定されている。資産運用収益は所得であるから課税しても可であるが、資産そのものに課税する(=お上がとりあげる)ことは容認されていない。「資産課税」を文字通りに実施すれば、「憲法違反である」という違憲訴訟が相次ぐであろう。

資産課税を定義通りに実施するなら、シュンペーターの言うようにまずは憲法を改正して、社会主義への道を開いておく必要がある。が、こんなドラスティックなことをせずとも、現在の日本で富を保有している人の大半は高齢者である。相続税の強化で、長期的には、問題は解決されるはずである-徴収した資金を賢明に支出する能力を政府はもっているのかという疑問はあるが。

(4)

★ 専業主婦など配偶者優遇制度の廃止

これはずっと以前から指摘されており、既に段階的に実行されつつある。

ただ思うのだが、A君とBさんがいて、二人とも働いている。それで近いうちに結婚したいと思っている。結婚後も働くかどうか、育児に専念するか、Bさんは迷っている。財政学者がよく言うのは『その人のライフスタイルによって税負担が異なるのは合理的でない』という主張だ。この主張は本当に本筋をついているのだろうか?

もし税とライフスタイルとは独立であるべきだと考えるなら、結婚後に働くか、専業主婦になるかで税負担額に違いを設けない。それは分かる。しかしそれ以前に、二人が働いている状態で、結婚しようが、同棲のままでいようが税負担額には違いはない、と。こうあるべきだと主張しなければならない。小生にはそう思われるのだが、そうなのだろうか?専業主婦であるか共働きをするかどうかがライフスタイルの選択ならば、結婚するか同棲のままでいるかもライフスタイルの選択ではないのか。敢えて結婚をするのは、子どもを育てるという目標を暗黙に前提していると思うのだが、違うのか。子供は育てないと決めているならば、結婚することが望ましいとは、言えないのではないか。

税制もまた行政府が行う政策の一環だ。同棲をしている二人と、正式に結婚をしている二人はもう差別しない。そう考えるなら、税負担も平等にするべきだ。しかし、育児には家庭が必要で、家庭を築くには正式に結婚することが望ましい。そう考えるなら、専業主婦となるがゆえの利益は、そのことの社会的利益に対応するものと考えて、(一定期間かもしれないが)育児に専念する行為に対する報酬であると意味付けても、小生、それほど道理に反しているとは思えないのだ、な。そもそも今は子育てに優しい、出生率を高める方向の制度が必要なのではないか。

小生は既に子育てを終え、カミさんと二人だが、子どもが幼少期(=学齢期以前)の間、特に母親が常に目に見える範囲にいることは、子どものメンタル面を安定させ強くするという研究結果を読んだことがある。であれば、なおさらのこと、できるだけ多くの時間を子供と過ごすという「ライフスタイル」を社会的に支援しても道理に反することにはなるまい。

小生はへそ曲がりであり、かつ(極右とは思っていないが)相当に右翼である。それもあって、専業主婦優遇制度の廃止には、明確に反対なのだ、な。

【加筆】上に書いたようなことをカミさんに話すと、『旦那さんの給料だけでは生活できないから奥さんも働くんでしょ、たくさん働いたら税金が増えて、かえって使えるお金が減るとしたらおかしいよ。専業主婦を優遇するのはいいけど、専業主婦になれない人はどうするの?』このようなことを言った。なるほど・・・。確かに不合理だ。とはいえ、だから専業主婦であることの利益を消し去ることが道理にかなっていると。そうは言えないが、この点はまた別に。


2024年5月9日木曜日

「子持ち様」という新語についての感想

 TVのワイドショーで<子持ち様>という新語が、最近、愛用されるようになった。

どの程度の現実的裏付けがあることなのか、現在時点の職場の現状については、段々と疎くなっているので、小生にはどうも実感がわかない。

ただ職場で「子持ち様」という言葉をそれなりの数の人たちが使う心理の根底には、

子育てという私事を職場に持ち込まないで。迷惑なンだけど・・・

と。こんな(他人に迷惑をかけない?)「専業主婦世帯」を標準とする、といった風な価値観も窺われる気がする。

しかし、こういう価値観はもう歴史的役割を終えた。そういうことだと(個人的には)観ているし、実際にもそうなる。

★

言うまでもないが、小生が仕事をしてきた環境では、「子持ち様」という単語は存在しなかった。「同棲」はともかく、婚姻届けを提出した夫婦に子供がいない状況は、極く極く少数で、核家族であれ、大家族であれ、結婚すれば子供が生まれるというのが社会常識であった。婚姻率は高く、年齢も今に比べるとずっと若かった。こんな社会状況で「子持ち様」という言葉が使われるはずはなかったのだ。

そもそも「子育て支援」なる概念が、「身内」ならいざ知らず、社会において形成されてはおらず、まして共有などされるはずがなかった。

「男尊女卑」、「男性社会」と言いたいなら、言わば言え。大正デモクラシーの日本人が江戸時代の切腹を「許されざる残虐な刑罰」と非難しても意味はない。今日の日本人が明治以来の(農村はまた別であったが)男性中心社会、専業主婦と家庭のあり方を非難して、いかに酷い時代であったかと責めてみても、意味はほとんどないのだ。

★

考えても見たまえ。

洗濯機も、掃除機も、炊飯器もない。エアコンも、電子レンジも、ガスレンジもないのだ。米は竈で炊く。最初チョロチョロ、中パッパだ。焼き魚は七輪を使って炭火で焼く。風呂は薪を燃やしてわかすのだ。風呂番をしないといけない。時代を下った小生の亡くなった母親でも、小生が幼少期の時分は朝から夕方まで家事に時間を費やしていた。夕方には疲れて昼寝をしていたものだ。祖母の時代には、井戸で水を汲む作業まであった。家族の誰かが担う必要があった。と同時に、近代化された社会で農村から都市に移動した家族は、生活の糧を、つまりカネを稼ぐ必要もあった。問題はシンプルだ。多くの家族は似たようなパターンで問題解決をした。バカでもなければ、同じ環境下で、人は似たような選択をするものなのだ。

何度も投稿しているが、社会の習慣や価値観、理念という上部構造は、生産という下部構造によって規定されるものだというマルクスの社会科学を、この点では信奉する立場に小生はいる。価値観や倫理が社会を決めるのではない。

基本的には似ている平均的な庶民が、毎日の暮らしの必要に迫られて自ら選ぶ生活のあり様は、自然に似てくる。それが社会の大勢となり、支配的な生活様式、つまり標準モデルになる。すると今度は、そんな暮らし方や生き方は「正しい」とする道徳や倫理が形成される。道徳はやがて美意識となり、その意識に適った美談が生まれてくる。そして、社会は安定し、長く続くことから、国民は広く一定の気風(エートス)を持つに至る。人々は特徴あるマナーを重んじ、他の時代や他の国民と差別化された言動を表す。


〽妻をめとらば 才たけてエ~

〽みめうるわしく 情けありイ~

〽友を選ばば 書を読みてエ~

〽六分の侠気 四分の熱~

詠う人はもう少ないだろう。しかし、ある時代においては、この「人を恋うる歌」が広く愛唱された。自らの生に正しさを感じ、やがて善いという信念になり、美しいと感じる自意識が出来あがれば、歌が生まれ、詩になり、その時代の趣味に沿った芸術が生まれる。黒澤明の映画『生きる』を観たことはあるか。これが文明なのだろう。

しかし、上のような時代は過去になった。知識人が「それは間違っている」と考えたからではない。世界の変化、生活環境の変化が別の暮らし方を迫るからである。(実は)こんな事は誰でも分かっている。口先上手な人がいくら独りで弁舌を尽くしても、大衆は聞き流し、それで社会が変わることはない。この意味で、理念や価値観は結果であって原因ではない。


一つの時代に専業主婦世帯が多数を占め、それが標準となった。それに対して、専業主婦は女性の就業意欲を抑圧していた「悪習」であったと、現代人がいま批判する。

それは今だから言えることでしょう

この一言で終わる。歴史を語るにはリアリティを共有する感覚が不可欠なのである。

そして、マルクス派経済学者なら、こうも付け加えるはずだ。

社会は常に「歴史性」という制約をもっています。だから「〇〇時代」が形成されるのです。いまあなたが言う専業主婦モデル批判こそ、弁証法で言うアンチテーゼです。アンチテーゼが提起されることで、社会の矛盾がアウフヘーベンされる契機が生まれ、初めて歴史は発展できるのです。

つまり従来モデルへの批判を超えるジンテーゼたる新モデルを提案しなければならないわけだ。

それには、マルクスが『経済学批判』を超えて著した『資本論』に対応するような現代日本の社会理論が出て来なければ、結局のところ、出来ることだけをやり続けて、最後にはスパゲッティ化した子育て支援政策になるのは間違いないところだ ― マ、年金もそれに近い発展史を歩んできたが。

★

いや、いや、話しが逸れてしまった。それに大きくなりすぎた。

さて、「子持ち様」という新語について、だ。

子育て世帯を経済的に、また時間的に優遇するなら、子育てから解放されている人が、子育て世帯に支給されるサービスをカネの負担や拘束時間の形で負担する。そんな結果になるのは必然的なロジックだ。

もし日本社会の中で、あるいは会社の内部で、自分は関係ないのに他人の「子持ち様」を助けてあげる義務を押しつけられている、と。そして不満をもつ。こう感じる人が大半を占めるなら、

社会が子供を育てていく

という理念は、日本社会においては実行不可能である。

小生が育った時代において「子持ち様」という単語がなかったのは、

親族が子供を育てていく

という共有された常識があったからだ。故に、子育てと職場は(原理的に)無関係であった。

若い夫婦に子供が生まれれば、親類である祖父母や叔父、叔母も(もちろん伯父伯母も)忙しくなるのは当たり前でどの家庭も同じ、疑問などを持ちようがなかったわけだ。実にシンプル、議論のしようもなかったのだ、な。

実際、若い夫婦に子供が1人生まれたとして、親類が集まれば祖父母4人、叔父、叔母他が両家併せて概ね6人、合計で10人にはなる ― 実際にはもっと多かったか。預かるにしても、子守をするにしても、簡単なことだ。このように子供は育っていった。

親族が近隣に住むという社会状況が失われ、子供は核家族で育てられることになった。それでも主婦専業の常識が機能していたおかげで、育児活動に(時に実母?や姉妹?に援けてもらう緊急時があったにしても)大きな支障は生じなかった。急速な家電製品の進化もそれを可能にした。ところが日本国内の生産年齢人口が1995年をピークに減少してくる中で、農村の共同社会ももはや実体はなく、女性にも産業への就労、労働力化が求められ、外で働く女性が当たり前となり、男女雇用均等社会にもなると、上のような育児システムが維持できなくなった。世代交代システムの危機が訪れた・・・要するに、こういうことである。

親族という実体が崩壊し、核家族すらも機能しなくなれば、子供は社会で育てるしか方法がないであろう — この「社会」を「国」と認識するか、「地域社会」と認識するかは、意外と大事な点だと思うが。ともかく、この単純な事実に現代日本社会は慣れなければいけない。そういう理解をするしかないわけで、他に選択肢がないという意味では「一本道」である。

★

ただ「子持ち様」への不満は、少々、誇張されているような気もする。

というのは、多くの人が子供を育て、そうでない人が少数なら、そもそも日本は少子化に悩む社会ではないはずだ。

なので、ロジックとしては「子持ち様」と言われる人が、実は社会の中で期待されるほど多くない。「子持ち様」が少な過ぎることこそ社会問題なのだ、と。そう理解するべきだろう。

それに本当に手がかかる「子育て期間」は、学齢期に達するまでの数年間で、小学校に上がれば親の時間的負担は相当軽減される ― その代わり、経済的負担が増してくるわけだが、「子持ち様」問題は、経済的負担というより、時間的負担が主たる論点だろう。

なので、人的労働という形で助けてあげるべき「子持ち様」が、人数という次元で社内で今後とも急増するという事象は、小生にはチョット非現実的に思える。

こう考えると、少数の「子育て世帯」を、多数の「非子育て世帯」が支援するのは、それほど過大な努力を強いる結果にはならないものと思われる。


この点は、減少しつつある現役世代が、増加しつつある高齢世代をいかに支えるかという問題とは本質的に異なる。

仮に「子育て世帯」が増え、相対的に少数になった「非子育て世帯」の負担が過重になるようなら、むしろ社会状況としては安心できる。(遠い先だろうが)仮にそうなれば、子供を持つ・持たないことから生じる負担の不平等を是正するうえでも、重点的な子育て支援政策は縮小しても問題はないだろう。


【加筆修正:2024-05-10、05-11】

2026年2月7日土曜日

断想:「良妻賢母」が再び語られる・・・「復古調の令和時代」になる?

国政選挙の前は色々な論点が集中的に世間で取り上げられるので、ブログ投稿も自然に増えてしまう。明日で集中投稿週間もひとまず終わりそうだ。

本日は、昨日の続稿ということで。

こんな下りを昨日は書いた:

こうみると、いま世界の民主主義国では極右の女性政治家が急速に支持を集めつつある、というのが潮流であるようで、この根底にはやはり1990年代以降のグローバル化、リベラル思想の支配を否定する保守反動が勢いを増してきた。こう達観するべきなのだろう。

・・・

どちらにしても「LGBT」など少数者への過剰な配慮、「男女性差の過剰な否定」、「選択的夫婦別姓の過剰な主張」、「外国人の一部参政権容認など過剰な人権擁護」等々、リベラル思想を象徴するようなポリティカル・アジェンダは、当分の間は休眠を余儀なくされそうな気配になってきた。

本当に高市自民党が圧勝するのか、いまだに100パーセント信用する気にはならないのだが、これほどまで事前調査の結果がそろっている以上、そうなのだろうと予想してしまう。もし反対の結果が出れば、それこそ『ビックリ仰天、開いた口がふさがらぬ』ということでござんしょう。

*

まあ、多分、高市自民党は圧勝するのだと、そんな気分に小生もなっている。

となると、日本でも《保守反動》の政治が色濃く出て来るはずで、前稿では代表的な例をあげたわけだ。

実は、もっとディープな方向転換が日本で(突然、まっしぐらに)進み始めるのではないか・・・とも想像(?)しているので覚書きとして書いておきたい。

但し、ひょっとすると、高市自民党は小幅の勝利、というか「辛勝」にとどまるかもしれない。そうなれば、これから書く想像は空振りである。

それは《専業主婦再評価》の議論から始まり、最後には《良妻賢母の勧め》に至る、ある意味で《復古的家庭像》の盛り上がりである。

振り返れば、戦後日本の高度成長を支えた「人口ボーナス」が消え去り、それとは反対の「人口オーナス」が見通される1980年頃から《男女雇用均等化》への歩みは始まっていた。実際、「男女雇用均等法」が施行されたのは1986年4月である。

小生が経済学を勉強していた頃は、女性労働力は「核労働力」ではなく「縁辺労働力」として位置づけられ、従って主たる問題は「男女賃金格差」の分析であった。それが想定を超える少子化の進行で男性労働力の減少が予想されることから、女性労働力への期待が高まってきた。人手不足になれば臨時的に働くのではなく、常時、労働資源として女性には働いてほしい、そんな風に企業経営者の目が向いてきたわけである。

つまり、「男女雇用均等化」への動きは、男性労働力人口の減少に危機感を強めた経済界が、女性の労働市場参入を促した結果だろうと推測している。外国出身の移民に頼らない労働力確保の方策として、家庭にいた日本人女性に財界が着目し、政府も後押しをした。これが現実に進んだ経済プロセスであり、それを駆動したロジックは男性賃金の上昇に歯止めをかけたい企業経営の論理で、決して《男女間の不平等是正》に価値を置くリベラル思想などではなかったと小生は理解している。

ご都合主義はいつでも高邁な理念を装束としてまとわされるものなのである。

ところが専業主婦モデルが崩壊し半分以上の世帯が共稼ぎ世帯になるに伴って、予想以上に少子化が進んだ。経済界も政府も男女合計の労働者数が減少していくことに危機感を覚えた。人手不足の深刻化は、AI、自動化など資本集約度の上昇で(本来は)対応できる問題で、賃金上昇圧力は生産性の上昇で解決するべきだ。しかし、自動化のための投資資金の捻出に苦しむ企業が多い。安価な外国人労働力に目を向けているのは、企業経営の論理に従えば当然である。

共稼ぎ世帯の増加と少子化の急速な進行の間に因果関係があるかどうかは、なかなか検証が難しいが、何の関連もないとは断言できないと小生も思ってはいる。

少子化の解決(?)に向けては、例えば年金支給モデルの改変などで対応できるのではないかと、素朴な方式を投稿したこともあった。が、人手不足と少子化を同時に解決するには道は一つである。

現場は外国人にお願いするので、日本人女性は家庭を守って、子を産み、育てる仕事に従事して下さい・・・

と、

実際、専業主婦モデルの時代には、男性世帯主に家族の皆さんを扶養できるだけの報酬を支払っていました。今は男女協業の中でそれが出来なくなりましたが、元の賃金モデルに戻していくことにします。女性の方は、もう外で働く必要はありません・・・ありがとうございました。家庭にお戻り頂いても結構でございます。本当に有難うございました。日本国として感謝いたします。

と、いずれ政府の中枢で検討される経済社会モデルの中で、上のような「基本方針の大転換」が浮上してくるのではないか?

実に《ご都合主義》である。が、ご都合主義ではなく高邁な理想に基づいて日本国を統治した政府など、これまでの歴史を通してあっただろうか?

何だか、笑い話のようだが、ありえぬ事ではないと想像(というより空想?)している。

ここまでくると、保守反動の時代を超えて、「復古の潮流」と呼ぶべきであろう。ただ外国人の急増が進む中での21世紀型の「復古日本」であるのが違う。


・・・もちろん少子化現象をもたらしている要因は、共稼ぎ世帯の増加に限ったことではない。ひょっとすると、夫婦二人とも仕事で多忙であるという事と子を育てないという意思決定の間には何の関連もないのかもしれない。忙しくても子をもつ親は多い。経済的に豊かで時間に余裕のある専業主婦でも子は一人か、つくらないという家庭も多い。一概には言えない。しかし、今よりはずっと貧しく、大半の女性が専業主婦として家事労働に勤しんでいた時代、一人っ子は少なく、3人兄弟は普通であったのだ。少子化は現代の《都市化》と《多消費社会》の下で進んできた。「福祉国家」の理念が浸透し法制化されたことも少子化には関係しているだろう。真の要因を求めるとすれば、「共稼ぎ」の増加ではなくこちらの方向だろうというのは、これまでの投稿でも書いている。以上、つけたしまで   ―  実証作業は面倒だからもうやらないが。

年金など福祉国家の根幹に対する信頼性が低下しているいま、少子化が進んでいるのは、(仮説としては)論理矛盾で、反証でもあるが、本日はこの辺でやめておこう。

【加筆修正:2026-02-09】



2016年8月8日月曜日

配偶者控除見直しへのへそ曲がり的反対

日経での報道:
政府の経済財政諮問会議の民間議員は8日の会合で配偶者控除の見直しをめぐり、年内に結論を出すよう政府に求める。専業主婦世帯の税負担を軽くする配偶者控除は女性の就労促進を妨げているとの指摘があり、政府・与党も見直しが必要との認識を共有している。年末にまとめる2017年度税制改正大綱に盛り込むよう要請する。

 現在の制度は妻の年収が103万円以下であれば、夫の課税所得から38万円の控除を受けられる。政府はこれまでも「国民的議論が必要」として見直しを議論してきた。控除を廃止し、新たに夫婦単位で一定額の控除を設けるなどの案が検討されたが、消費増税時に導入する軽減税率の議論に時間を割かれ16年度税制改正で結論は棚上げされた。

 政府が経済政策「アベノミクス」推進の柱とする働き方改革でも女性が就労しやすい環境を整備することが課題になる。
(出所)2016年8月8日、日本経済新聞

現役引退が間近に迫った小生としては、個人的には「無関係のことでありんす」とやり過ごすのが正解だ。細かいことで頭を使うのは損である。

しかし、『女性が就労しやすい環境を整備する』という下りには疑問がある。

そもそも絶対的に善である物事はこの世にはないものだ。ある視点からみれば良いことが、別の面からみれば悪いのが、自然・社会の鉄則だ。

確かに「女性が就労しやすい」ことで達成しやすくなる目的はある。労働供給のボトルネックを緩和して、潜在成長力を上げるという目的にはプラスだろう。ある意味で「経済合理性」があるとは思う。しかし、プラス効果は一面的だ。ロジックとしては、就労しやすい=主婦専業を奨励しない。これも別の面で言えることだ。

女性が就労を選びやすくすることは、女性が主婦専業を選びにくくすることと同じである。本当に、こうすることが今の日本社会の現実にマッチしたことなのか。

 少子化に加えて、子供と過ごす時間、親子のあり方、幼児期の育て方など様々な問題が指摘されているにもかかわらず、専業主婦の利益を抑え、仕事につくことを奨励する。こんな制度改革が、真に社会の利益になるのだろうか。社会の潮流に合致していない。学齢期前の幼児に食事と保育士を与えればそれで育つと考えるのは誤りである。小生は心の底からへそ曲がり、かつ相当の右翼である。リベラルな発想など糞食らえだ。故に、反対である。

2023年11月14日火曜日

ホンノ一言:女性が労働市場に参入して一人当たりGDPが増えたと言ってもネエ……

今日届いたIMFのメールマガジンではアベノミクスの政策効果をプラスに評価している。特に、

Japan has one of the oldest populations globally, with its working-age population shrinking since the late 1990s. Despite that, Japan achieved impressive per capita gross domestic product growth, trailing only the United States, from 2012 to 2019 during “Abenomics”—the combination of monetary stimulus, fiscal flexibility, and structural reform advocated by Prime Minister Shinzō Abe.

労働力人口が減少する中で、マクロの経済成長はともかく、一人当たりGDPの成長率が下図のようにアメリカに次いで第2位という結果を残しているのは、高く評価されるというニュアンスだ。


この要因は、IMFも指摘しているように
A major contributor to per capita growth was the rising number of women entering the labor force. The female labor-force participation rate in Japan rose to 74 percent in 2022 from 63 percent in 2012.

つまり女性労働力である。

非市場家庭内サービスを担当していた専業主婦が、労働市場に参入し、サラリーをもらって働くようになれば、それまではゼロであった付加価値がプラスになるので、人口で割った一人当たりGDPが成長するのは当然の理屈であって、IMFの分析担当者が言う通りだ。


しかし、<国内総生産=GDP>という概念を考えるとき、主婦(と限ったわけではない)が担っている非市場性の<家庭内労働>も本来は帰属評価をして「国内総生産(=GDP)」に加算するべきなのである。

類似した例として、持家に居住している人は家賃を住宅市場で支払っているわけではない。が、現行のGDP推計においては、持ち家という住宅資産もまた住宅賃貸サービスを生産しており、持家居住者はその営業余剰を所得として受け取り、それをそのまま消費支出として支払っているという「帰属処理」をしている。

持家サービスについて帰属処理をするなら、もっと重要な主婦労働も(本来は)帰属処理をするべきだ、というのが当然の理屈になる。

実際、内閣府・経済社会総合研究所では、主婦労働を帰属評価した<広義のGDP>を試算したことがある ― 一回限りの試算で、定期的に推計するまでには至らなかったようだが(資料はこれ)。


つまり言いたいことは、専業主婦が労働市場に参入し市場性サービスを提供することにより確かに現行概念のGDPは増加した。しかし、労働市場で働く分、非市場性の家庭内労働時間は減っている。もし、平均的に期待される賃金で家庭内労働を評価するとすれば、労働市場で働くプラスと家庭内労働が減るというマイナスが相殺されて、広義のGDPは増えていない。そんな理屈になる。

加えて、家庭を離れ労働市場に移り、家庭からはその時間だけ不在となることによって、それまでは常に家庭にいてくれた母親が不在になるという淋しさを子供が感じるかもしれない。子供に絵本を読んであげる時間も、キッチンで料理を一緒に楽しみあう時間も、子供が読んだ本について母と感想を語り合う時間も削られるであろう。これを満足度の低下と考えれば、社会全体の幸福度はむしろ低下しているのではないかという疑念が生じる。

Non-market ActivityとMarket Activityとの間のこうした選択変容は、全世代を含めた満足度の変化に加えて、家庭内の人的資本育成を通じてマクロの潜在成長力にさえ影響が及んでいるかもしれない。


小生は旧い世代に属するので、IMFのように女性労働力が労働市場に参入したおかげで、日本の一人当たりGDPはアメリカに次いで高い成長率を示したと、そんな数字をもろ手を上げて喜ぶという気持ちにはとうていなれない。

日本社会の現実はとても楽観的解釈が出来るものとは違う。アベノミクス8年間の深層には多くの問題が隠れていた。その時は、労働市場の好転や旺盛な株式市場に幻惑されたが、今ではこんな風に思っているのだ、な。 




2016年9月30日金曜日

配偶者控除撤廃 ー まず撤廃するのは次の展開に向けた戦略なのか?

配偶者控除が撤廃されれば、専業主婦は単なる無収入者もしくは少額所得者となり、専業主婦であるが故のメリットはなくなる。働けば働くほど、収入が増えるので専業主婦であり続けることの機会費用は大幅に上がることになる。

この件は前の投稿でも議論したのだが、ひょっとしてこれは政府の戦略かもしれんなあ、と。そんな気もするようになった。


+++


まず配偶者控除を撤廃してから、次に『育児控除/子育て支援控除』・・・名称はともかく、現在の児童手当を更に一層かさ上げした優遇措置を導入する可能性も否定できない、と。

子供が成人するまでは、現在の配偶者控除に相当するほどの額を「子育て控除」として認める。現に子供を育てている世帯は優遇する。そうでない夫婦は除外される。働けばいい。実に、身もふたもない。が、「ええぞなもし」、そんな評価をする夫婦も多いかもしれない。

今でも扶養控除はある。が、家計における老親、配偶者、子供のそれぞれのポジショニングはいま確かに変わりつつあるのだろう。税制上の取り扱いも整理したほうがいい。こんな思考も確かに可能だ。

子供がいない夫婦も多数いる中で、いきなり『来年度から配偶者控除を撤廃して、育児控除にリニューアルします』というわけにはいくまい。

結局、政府というのはいつも子供の数を数えている。一人一人の顔ではなく、数が大事なのだ。要するにそういうことかもしれないのだ、というよりそうであろう。

そのうち基礎年金額(税が投入されている)にも育てた子供の数が反映されるようになるかもしれない。

一応、覚書きにしておこう。

2018年8月5日日曜日

「結婚」の定義が曖昧になりつつある。これは「混乱」ではないか?

結婚をした二人が世間にその事を知ってもらう時ほど嬉しい瞬間はないだろう。派手婚であろうが、地味婚だろうが、ナシ婚だろうが、結婚する二人の本質に違いはない。これまでは・・・

もし結婚の本質を「愛」と考えるなら、たとえ同性婚であっても、二人が"LGBT"であっても、結婚を可能とするべきだという議論になる。それを「結婚」という言葉の概念範囲に含めるとすれば・・・。

こんな議論もある。
 しかし、法律婚は「子どもを産み育てる」ことを前提に税金での優遇制度がすべて設計されているわけではない。
 例えば、茨城県石岡市にも新婚世帯への家賃補助があるけど、こっちの目的は「新婚世帯の定住化の促進を図るため」である。
 ここでは、子どもを産み育てるかどうかではなく、「夫婦というユニットになることで、生活基盤が安定し、定住性が高まる」という考え方がベースにある。定住することで、そこで働き、何らかの富を生み出すという想定があるのだろう。それが税金を投入するのに値する、というわけである。
URL: http://blogos.com/article/315765/

実は「結婚」というキーワードでこのブログを検索すると、以前にこんなことを書いたことが分かる(だからこそブログは自分自身の思考の旅程であり便利なのだ)。

「家族」とは何のために存在するのか?以前にも投稿したことがあるが、小生の理解はシンプルである。地縁・親族・姻族を柱とする大家族制から核家族制に移った社会においては、「家族」の存在理由は「子の養育」が目的であるとしか考えられない・・・ロジカルに考える時、何がほかに挙げられるだろうか。夫婦の愛を育むことだけが目的であれば、結婚という制度は不必要だ。相続などは遺言をかいておけばよい。
愚息は結婚をして、戸籍を別に作る時点において、小生とは別の「家族」となる。つまり愚息が子の養育を開始する意思決定をして、自らの家族をつくり始める時点が小生の家族から離れる時である。それは「核家族」であり、伝統的な「大家族」ではない。「核家族」という言葉の意味合いを社会学的な観点からつくづくと実感したのは初めてである。
出所:古い慣習の効用?、2017-3-13 

なぜ結婚をしようと人は決めるのか? それは、新たな生命を創り、子とともに新たな家族を築いていこうと(その時点では、少なくとも)当人たちが決意するからである。

こう考えていたことが確認できる。これ以外に「結婚」をどう考えればいいのかという意味では、基本的に小生の考え方は変わらない。

なので、そもそも最初から「子供は要らない」と決めているのであれば、「ではなぜ結婚するのですか?」と。同棲がより純粋である。愛の終わりが二人の別れであると思うのが、より純粋な愛のカタチではないか。「結婚」を制度的なハードルにして、二人の共同生活を長期安定的なものにしようというのは、当人二人を守るためではなく、幼い子供に安定した家庭環境を与え続けるためではないか? 結婚した二人に対する社会的支援が正当化されるロジックは「子の養育」にある、そうではないのか? もし愛する二人を愛しているがゆえに応援するのであれば、同棲して事実婚を続けている二人も同じように守られるべきである。愛という点において一層純粋である理屈だから。

まあ、やめておこう・・・いくらでも書けるのだが。

こんなことも別の投稿で書いている。
もし税とライフスタイルとは独立であるべきだと考えるなら、結婚後に働くか、専業主婦になるかで税負担額に違いを設けない。それは分かる。しかしそれ以前に、二人が働いている状態で、結婚しようが、同棲のままでいようが税負担額には違いはない、と。こうあるべきだと主張しなければならない。小生にはそう思われるのだが、そうなのだろうか?専業主婦であるか共働きをするかどうかがライフスタイルの選択ならば、結婚するか同棲のままでいるかもライフスタイルの選択ではないのか。敢えて結婚をするのは、子どもを育てるという目標を暗黙に前提していると思うのだが、違うのか。子供は育てないと決めているならば、結婚することが望ましいとは、言えないのではないか。
出所:保守的なへそ曲がりの結婚観、2016-4-14 

最初に引用した議論と小生の考え方とは基本的に相いれない。というか、同じ現代日本社会に暮らしていても、人の考え方はこれほどまで違うものである。文字通り、人生いろいろ、人はいろいろ、なのだ。だからこそ、「民主主義」と口で言うのは簡単だが、その運営にはよほどの知恵と練達がいる。社会は本質的にバラバラである。

◆ ◆ ◆

とはいえ、「家族」が先ず存在する。「社会」の前にまず「家族」がある。この点だけは最初に引用した議論と(意識のうえでは)共通しているかもしれない。

つまり、どんな言葉で表現するかという問題にすぎない。家族という共同体を形成するのに「夫婦」でなければならないと断定する必要は(論理的には)ない。同性であっても一つの戸籍をもち、法律上の(≒義理の)兄弟、姉妹となることは可能だ(可能とする)。古すぎて何だが『三国志』に登場する「桃園の誓い」がいい例だ。LGBTである二人が親と子(養子)になることもありうる(ありうると認める)。"T"のステージに進んだ二人であれば、兄と妹、姉と弟、いとこ等々からいずれかの関係を選べばよい(と認める)。そして「家族関係」を結ぶ。そもそも「核家族」が浸透する以前は「大家族」であったのだ。「結婚」したいと望む同性の二人は、自分たちの愛は夫妻愛と本質的に同じであると考えるだろう。しかし、小生、同じであるとは思えない。結局、法律とは制度であり、人の内心に立ち入るものではない。愛の同質性は法律的議論にはそぐわない。

「家族・親族」には色々な「関係」が含まれうると考えるべきだ。そんな柔軟な制度設計がこれから求められているのだと思う。だからといって、「結婚」、「婚礼」という日本語の概念範囲を拡大するメリットはない。

そう思うのだ、な。


2017年10月11日水曜日

今後の課題メモ: 美人の社会学? 女性の社会進出の一側面

「女性が輝く時代」、「女性の社会進出」というキーワードには小生は心底から賛成だ。亡くなった母は『お母さんは何も仕事ができないのが残念だわ、戦争で諦めたけど本当は帝国女子医専ていう学校があってネ、高等女学校を出たら、そこに進学したかったのよ』と、何度小生に話したかわからない。母は専業主婦であったから、父と結婚して主婦となってからは、いわゆる<仕事>というものを持つことはなく、ひたすら家庭の中で家事を担当して人生を生きた。成長してから調べてみると、母が進学したかったと言う「帝国女子医専」は現在の東邦大学医学部であることがわかった。

それでも母はそんな仕方で社会で重要な役回りを果たして生きたことに違いはない、と。そう思っている。他人では代替できない役回りを担っていたからである。そんな社会システムであったのだ。カネをもらってやる仕事と、カネをもらわずにやる仕事と、どちらが立派な仕事ですかと問われれば、人は答えるのに迷うだろう。

なので、女性の社会進出は母が聞けば当然のこと「いい世の中になったわね」と、そういうに違いない。

◇ ◇ ◇

しかし、どうも疑問に思うときが増えてきたことも事実だ。

世の中、色々な仕事がある。しかも人間の半数は男性である。ずばり『美人の女性はそれだけでエラくなるのに有利になるのではないか』。この問題はキチンと調べる必要があるのではないか。そう思うようになってきたのだな。

日本人は美人好き。いつだったか、いい加減な言葉だが、目にしたことがある。もちろん、「日本だけでそうだ」ということなら王朝時代の中国で「傾国の美女」やら「傾城」などという単語が生まれるはずがない。「クレオパトラの鼻がもう1センチ低かったなら世界の歴史は変わっていたであろう」というパスカルの言葉も同じだ。「美人」が世の中で果たしてきた役回りはどうやら国を問わず普遍的なものであるようだ。

魔女は絵本ではお婆さんの姿をしている。が、これは本当は奇妙だ。老婆は力弱き人間の象徴である。おそらくメッセージとしては「本当の姿は年老いた老婆である」という設定、物語のプロットとしての定石が<魔女=老婆>なのだろう。そして、人の前に現れる時は必ず美人になっている。美人に扮している。人は一般に他人を疑うが、美人には騙されるからだ。振り込め詐欺の例を引くまでもなく、お婆ちゃんは騙される立場におりがちであって、騙す方ではあるまい。人を騙すなら、お婆ちゃんより美人のほうに競争優位性がある。

若い頃からの小生の疑問は、『本当は老婆であるが、人前には美人に化けて現れるという童話がこれほどまで多いのはなぜか?』という問いである。

□ □ □ □ □

これまでに述べたことと、政治家には世間全体の比率に比べて<美人>が相対的に多いような印象があることと、何か関連性はあるのだろうか?世界的大企業の取締役以上の女性経営者にも、やはり<美人>が相対的に多いような気がする。この点もまた調べてみると、何か面白い結果が得られるのではないだろうか。

特に社会の支配的地位につこうとする場合、多くの人の支持を得る必要がある。そんな時、特に女性が進出する場合には、美人であることが相当有利ではないのだろうか?

小生、今後のちょっとした「調査課題」として「美人の社会学」というものがあるのではないかと、そう思い始めているところだ。

『美人には気をつけよ』、古代から言い伝えられてきた言葉であるが、この格言と「女性の社会進出」という大きな目標と、どこか関連づけて考察する必要があるのではないかという問題意識だ。


2024年11月20日水曜日

断想: 高齢化と少子化は、当然、シンクロするはずのもので・・・

本ブログ内を<幼稚化>というキーワードで検索すれば、無数といっても可であるほど多くの投稿がかかってくる。

つまり、

日本人は、以前に比べて、幼稚化している

と、そんな感想を小生はずっと持っているのだろう、という証拠である。

実際、ワイドショーで出演者が見せる色々な挙措や振りをみていると、

何だか幼稚園にいるみたいだナア

と感じることが多い。実際に視ているのは(時刻からいっても)三十も過ぎた大人達であろうのに。

ただ、視ていて思ったことがあって、カミさんとこんな話をした。

小生: 子供をつくらず、自らが子供のままでいるのが、いまの日本だネエ・・・なんでかな?

カミさん: さあ・・・(笑)

小生:一人っ子なら、お母さんがお姉ちゃんになってあげないといけないヨネ。お母さんが大人であっちゃあ、一人っ子は淋しいからネエ。

カミさん:一人っ子にも同じ年くらいの友達がいるんじゃない? 

小生: そりゃ、そうだ。ン? いるかなあ?……でも何だか、最近の人は幼いと感じない?高齢の親がいつまでも元気だからじゃないかな?

カミさん: そうなの?

小生: いや、自分でも思うんだけど、人ってサ、親や家族を亡くして、「死」というのを痛切に知って、初めて独立精神が身につくと思わない?「無常」を知ると、人は成熟するものだからサ……

カミさん: それはそうかもね。

小生: 子供を持たない今様の夫婦なら、そもそも大人になろうとか、大人であろうとか、感覚そのものがないンじゃないかなあ。親がピンピンしてればネ。

カミさん: う~~~ん、ちょっと、それ分かんない・・・

小生: マ、僕もわかんないけどネ(^^。。_ _

高齢化と少子化は、シンクロして進行してきたが、ミクロ的にもマクロ的にも経済的に極めて合理的な行動をしている。

仮に、高度成長期並みの出生率を今でも維持していれば、日本社会は老人と子供と、被扶養者比率の極端な上昇から、家計は破産寸前になっていたかもしれない。

過去50年間、日本社会はどの程度の出生率(と平均寿命)を維持していれば、結果として理想的人口構造をいま実現できていたのか? ……、確かにこんな数値実験も面白そうだ。


実際、小生が中学生であった時分、一緒に塾に行っていた友人の家庭は、三人姉妹に世帯主の母親を加えた6人家族であった ― それでも当時の習慣というか、専業主婦家庭であったが。1人の稼ぎ手に、5人の被扶養者・・・、正に"good old days"である。1人が5人を食わせることが出来るだけの労働生産性を発揮して、家庭は回っていたわけだから。

父などは『△△さんチも大変だろうと思うヨ』と、何が大変なのか小生にはピンと来なかったが、とにかく何かが大変なんだろうと思って聞いていたことを覚えている。


現在は、夫婦の両親4人がそろって90歳を超えることもザラである。文字通りの長寿社会である。4人の高齢者を最後まで見守るとすれば、高齢者の年金収入、保有資産にもよるが、よほどの余裕が子の家計になければ、更に子供を育てるのは難しい。

以前は、親が子を助けながら子育てをした ― 結婚年齢も若かったし、親もまだ元気が残っていた。近年は、親と子といっても、独立世帯で、かつ遠方に離れていることが多い。晩婚で親も健康寿命を過ぎている。近隣社会は他人の寄せ集めで互いに信用できない。それでいて、高齢になれば子は親を介護したり、扶養したりする。

確かに、これでは子は育てられんワナ

なので、日本人の幼稚化はこれからも進行するのであろう、と。 

ちょっと思いついたのでメモしておく。


2025年11月18日火曜日

断想: 中国に明るい未来はあるのだろうか?

日中関係は(歴史問題をたとえ脇に置くとしても)100年単位でみて、決して蜜月関係にはならないだろう。

そもそも米中関係がどれほど改善されても、米軍基地が日本国内にあり、中国軍基地がまったくないわけであるから、米と中はいわゆる《タカ・ハト・ゲーム》の状況に置かれているのであって、である以上は自ら《ハト戦略》を選択するロジックはない。そんな戦略的状況の下で、日本は米側に属しているのは(ほぼ?)自明であるから、中が日に対してソフトに行動する理屈は(ほぼほぼ?)ない。

高市首相の国会答弁から又々こじれている様だが、日常茶飯事の小競り合いと達観して、覚悟しなければやってはいけない。

ただ、外交には全く素人だが、簡単な理屈くらいならカミさんともよく話している:

カミさん:また台湾のことで高市さん何か言ったの?

小生:中国が戦艦を繰り出して台湾を包囲して、アメリカ海軍との武力衝突があるとするなら、これはもう日本にとっては「存立危機事態」だと、そういったんだよ。中国は台湾のことに口を出すなって激怒しているわけさ。

カミさん:起きてもいないのに、なんでそんな事を言ったの?

小生:高市さんの本音が出ちゃったんだろうネ。日本が「存立危機事態」を宣言すれば、自衛隊は行動を起こすし、そもそもそういうことをしようというのが高市さんだと言うことさ。

小生:ハッキリ言わなくてもイイのに・・・怖い人なんだね、高市さん。

小生:外交や国防に詳しい人はみんなそう言ってる。お手本はサッチャー首相みたいだし、これからもあるんじゃないのかナア・・・

 一介の専業主婦である小生のカミさんすら「いまそれを言う?」という感性はあるようだ。

★

ただ思うのだが、「台湾は中国の領土と日本が認めている」というのは、(専門家の議論があるようだが)やっぱり一寸違うのだろう。

台湾は日清戦争のあと日本に割譲された。日本が太平洋戦争に降伏するまでは日本の領土であり日本が統治した。ただ領有権を日本に譲渡したのは清王朝だった。その清王朝は辛亥革命で崩壊したのだが、それを継ぐ中国の公式政府は北京の袁世凱から軍閥へと混乱し、やがて孫文・蒋介石と続く国民党が北伐を開始し優位に立つことになった。日本は反・国民党の立場を選び日中戦争への道を歩んだ。日本は第二次世界大戦で無条件降伏し、台湾は中国に返還された。その時の中国政府は蒋介石の国民党政府だった。国際連合の常任理事国に選ばれたのも国民党の「中華民国」である。その後に起きた「国共全面戦争」はとても複雑で本稿で短く要約するのは無理である。結果としては、共産党が軍事的勝利を得て毛沢東が「中華人民共和国」の建国を北京で宣言し、国民党勢力の掃討戦を行う。蒋介石は中華民国首都を重慶から成都へ移し、最終的に台湾・台北に首都を遷都した。その後、中国統一を目標とする北京政府は台湾を制圧しようと前哨戦である金門島上陸作戦を展開したが想定外の猛反撃に遭い敗退した。形の上では、正式な政府である中華民国と、中華民国を軍事的に打倒した中華人民共和国が並立・対立する状況がずっと続くことになった。

アメリカと大陸・中国との国交は1971年の米中接近を経て1979年に正常化し、アメリカは中華民国と断交し、北京政府が中国の唯一の公式政府として認められた。が、アメリカはその後も台湾との外交関係を非公式に続けてきている。日中国交回復も枠組みは同じだ(と理解している)。


台湾が日本の領土でないことは自明である。もちろんアメリカの領土でもない。ではどこの領土か?

北京政府と台北政府はなお敵対関係にあって《講和》は成立していない。台北政府にとって台湾は仮の居場所なのであろう。ちょうど首都・開封を追われた「北宋」が南方の臨安(現・杭州)に首都を遷し「南宋」と称した故事と似ていないまでもない。臨安とは「臨時の首都」であるという意味だ。北京政府からみれば台北政府は(軍事的に敗北しているにもかかわらず)台湾を「占有」し、北京政府の統治権を認めようとしない。

故に、台湾を領有するのは北京政府か台北政府かを単純に決めるのは中々難しい。


確かに北京と台湾の関係は「中国の内政問題」であるのだろう。この認識は北京と台北双方に共通の認識のはずで、日本やアメリカ、その他の外国が介入する事柄ではないと、双方とも考えているはずだ。少なくとも日本の領土に関する問題ではなく、アメリカの領土問題でもない。たとえは悪いが、日本にとっての「北方領土問題」を見る視線とロシアが見る視線が正反対の関係にある事情と似ているかもしれない。アメリカが北方四島の領有権に何か意見を言えば、ロシアは『これはロシアと日本の問題だ』と口先介入を非難するであろう。

中国を統治している唯一の公式政府だと自認し、また承認されている北京政府としては、台湾を占有している「台北政府」を解体し、大陸と統合するのは国家目標なのだろう。しかし、日本が返還した台湾を受け取った「中華民国」が台湾に移り、台北政府が台湾領有権を主張するとすれば、日本がその正統性を否定するのは難しい。少なくとも、北京政府が台湾領有権を継承していると主張するのは、旧政府が現に台湾に存在し領有権を主張している以上、無理があると感じる(はずだ)。

「北京(=中国)が台湾領有権を現にもっていると日本が認めたわけではない」という議論にはそれなりの理屈がある。

このように、どこまでも平行線である。

★

仮に、北京政府がソフト・コミットメントを採って、地方分権的原則に基づく《中華連邦制》を目指すとすればどうなるだろう?

中国は共産党による集権的計画経済では最早ない。共産党の優越的地位さえ認めるなら、それでイイと北京政府が達観してしまえば、あとは高度の自治権を獲得した方が、台湾ばかりではなく、中国国内の各地域にとってもウェルカムであろう。

国を問わず、時代を問わず、領有権の筋道など普通の人にはどうでもよいことだ。毎日が楽しく、暮らしが豊かになれば、その体制が最も好いのである。

政治は宗教とは違うし、理念は信仰と違う。政府は教会ではない。価値観などと小理屈を言わず、人々の暮らしを豊かにする平和な空間を創造してくれるなら、それが客観的な意味合いでも最良の政府であるに違いない。

豊かで広大な社会を造ったうえで、中国発祥の新たな文明を創り出していくのが、北京政府にとっては最適戦略だと思うがいかに?

ただ、創造と破壊を共産党が心底から怖れているなら、こんな方向は無理だろう。


 

2025年11月26日水曜日

断想:再び『社会が家族の代わりになろう』なんてネエ、という話し

少年時代、父からは将棋を教わった。ただ、その頃の父はそれほど多忙ではなかったのだが、教え方はあまり上手ではなく、駒の動き方を一通り説明したあとの基礎力をどう上げればいいか、当人の頑張り次第だナと、そんな感じだった。だから一生の趣味になるほどのレベルには達せず、中学生になって勉強が忙しくなると、自然に遠ざかってしまった。

芸は身をたすく

今になって思うと、塾の試験で正解できなかった問題を解説してくれるより、将棋を教え続けてくれたほうが余程ありがたかった。

将棋から少し遅れて母方の祖父は碁を教えてくれた。ただ祖父母は遠方にいて、頻繁に行くことが出来ない。なので親の家に戻ると、自然に碁のことは忘れてしまった。碁は将棋ほど覚えることは少ない代わりに、それらしく打てるまで体感すべき事は多い。もし祖父が(一時代前のように)近くで悠々自適の暮らしをしていて、いつ遊びに行っても相手をしてくれていたなら、パズルを解くのが好きであった小生は碁に親しんでいたと思う。これも極めて残念なことである。


最近、時間が少しできてクライツィグの数学テキストやスミルノフを読み返すだけでは飽きるとき、取り組みがいのあるゲームをやりたくなった。

いまはAI搭載の将棋、碁アプリが数多く使われている。そこでGoogle Pixel Tabletに詰将棋をインストールして何年振りかで将棋を再開した。ところが勘がまったく鈍っている。少年期に一定のレベルにまで上がっていれば「鈍ってもタイ」のはずだが、早々にやめたから身についていない。それでも段々と感覚を取り戻してきたのだが、タブレットの画面では駒がいかにも小さい。文字も小さすぎる。駒は動くし、目が相当疲れるのである、ナ(^^;;;)。かといって将棋盤を買いなおすのは億劫だ。片手間でよい。

それで碁をやってみた。こちらは最初から習得したとは言えない幼稚なレベルだ。それでも日本棋院から優秀なアプリが提供されているので、昔に比べると格段に勉強しやすくなっている。

もし小生の少年時代に「Katago」や「KataTrain」、「みんなの碁」、「KGS」などというソフトウェアが利用できていれば、祖父の家から両親のもとに帰ってからも、やり続けることが出来ていたはずだ。

英語や数学、更には大学の専門科目である経済学や統計学は、確かに人生を歩むのに役に立つ。が、少なくともそれと同程度に将棋や碁も我が人生を豊かにしてくれていたはずだった。つくづくそう思うのだ。


現代日本社会でファミリー・ライフといえば「両親+子供」の核家族を指すものと決まってしまった。

今はそんなご時世だ。しかし、かつてはそうではなかったのだ。

父は仕事で忙しく、便利で多種多様な家電製品がなく、食事の宅配サービスもコンビニ弁当もない時代、専業主婦の母もまたそれほど子供の相手はできない。そんなとき、祖父母は格好の話し相手、遊び相手であり、また教師であった。何より都合がよいのは「無料」なのである。そこに若い叔父や叔母が来て、従弟妹たちが集まってくれば、自然にそこはフリースクールになる。参加者もまた楽しいのであり、すべて無料である。

今は子供が何かを習得しようとすれば、家族外の有料サービスを利用する(しかないだろう)。お稽古事、習い事など教育サービスの価格は結構高い。その教育支払いを負担するために共稼ぎを余儀なくされている若い夫婦も多いようだ。

幸い、小生が暮らしている町は地方の小都市なので、カミさんの友人はこのところ孫を引きうけ始めて、自宅がまるで幼稚園や託児所のようになっているらしい。これもまた「無料」だからきっと娘夫婦の助けになっていることだろう。

もちろん祖父や祖母は、対価を受け取って特定のスキルを教えるわけではないから、若夫婦が希望する教育をしてくれるわけではあるまい。

しかし、ものは考えようで、親が望む教育を子が受けることが子にとって楽しいものとは限らない。中国ドラマ『琅琊榜 ろうやぼう』の中の台詞だが

親、子を知らず
子、親を知らず

である。

無報酬で、ただただ自由な祖父母の語りは、子供にとっては最もノビノビできる時間である。


いま東京の中央政府は、解体されつつある《家族》の機能を《社会》で代替しようと(どのくらい真剣なのか不明だが)努力している様だが、軌道に乗るまで何年かかるか小生にはわからない。ひょっとすると、不可能な難問に挑戦しようと大法螺をかましているだけで、かつて東京都で実施されていた「学校群」のように、30年くらいたってから、その時の現役世代が

過ちては改むるに憚ること勿れ

などと下から突き上げて、結局、何の成果も跡形もなく放棄されてしまうかもしれない。いわゆる《社会目標》というのは、その時代に何故そのときの大多数の人々がそんなことに賛成したのか、後になってみると分からない、そんなものが多いことは日本人には周知のことである(はずだ)。(特に民主主義国では)政府も議会も、決して失敗の責任はとらない。というより、とれないのである。

2017年1月15日日曜日

「イバショ(居場所)」の話から共生関係、更には公私の公について

昨日は1年ぶりの(当たり前だ)センター試験監督をやって疲労困憊した。あれは受けるのも若者、監督をするのも若者、どちらにしても若者が取り組むべき、というか取り組める課題である。体がついていかない。

今回から壇上でシナリオを語る主任からは解放された。それでも一人また一人と手が挙がり、細かいトラブルが何度かある。そのたびごとに事務から参加したKさんに助けられた。Kさんは、まだ若い女性職員だが、対応準則に精通していて(=事前によく勉強していて)テキパキと応じることができた。感謝にあまりある。


+++

これが契機になった、というわけではないが、人が生きる上で最も必要とするものはなにか?椅子に腰を下ろして、そんな瞑想にふける・・・・・・



カネか?経済学者なら労働報酬と余暇の最適な組み合わせを分析するに違いない。それともモラルか?哲学者なら幸福に至る道としてのモラルを議論するだろう。

「やはり自分の居場所ではないかなあ・・・相手が自分に感謝し、自分も相手に感謝するような人間関係、単に雇ってもらいカネを毎月支給してくれる、それだけでは人間、やっていることを続ける気にはなれないものさ・・・」、と。まずこんな風に「居場所」が見つかったのかどうかが大事だと考える。


「居場所か、そういえば女性の人生というのも現代社会ではかなりリスキーになっているねえ、結婚をすると、子供ができると、それで仕事をやめて専業主婦になるとする。夫となる男性が自分のために生きてくれるか、自分は夫となる男性のために生きることができるか?この点がリスキーであればあるほど、自分のカネを確保しておきたいと、そう考えるかもなあ、・・・で、仕事が大事だ、仕事が大事となれば、自己表現になっているかと、議論は広がるねえ・・・」、まあ、確かに男性は働いて自分の食い扶持は自分で稼ぐことを当然だと考えている(人が多い)。女性は、そこが選択肢になっているのではないか。

これは「男女間の意思決定非対称性」かもしれないねえ(こんな用語はないと思う)。


「どちらも相手を必要としている、そんな共生関係が確立されているとすれば、というか家庭というのは本来はそういうものだったのだろう、夫のカネは夫のカネとは限らない、自分のカネも自分のものとは限らない、こういう共生の場が法制度に織り込まれていた時代も確かにあったのだけどねえ・・・この20年間、社会は進化してきたと言えるのかねええ・・・」

こんな風に思案をめぐらしていると、また一人、受験者の手が挙がる・・・ヤレヤレ


★ ★ ★


徳川幕府は、自らを「公儀」などと名乗っていたが、本質的には単に「巨大な私的存在」でしかなかった。私的な存在が公的な存在であると自称することができたのは、それ以外の民(=国民)にとって平和をもたらす幕府という存在が望ましかったからだ。幕府は私的な勢力にすぎないが、収入源となる民が必要であった。

幕府は、競合し敵対的な勢力と競争をして勝った私的な勢力にすぎなかったが、一度、無数の民との共生関係ができてしまうと、他の私的存在にとっても幕府を「公儀」として受け入れるほうが得であり、こうして日本社会全体が共生システムとして完成されることになった。

要するに、大小さまざまな私的存在がそれぞれの居場所を得たわけである、な。だから、平和が続いた。

ゲーム論的には「ナッシュ均衡」に該当するが、これもまた「公なるものの本質暴露」であろう、といえば社会学になってくるか。


+++


本来的には私的な存在であった幕府を倒したのも、私的勢力であった薩摩・長州といった反幕勢力であった。その勢力が、天皇を中心とする明治維新という名で「公」を名乗った。

本来的には「巨大な私的勢力」である存在が、大多数の国民との共生関係を築こうとするとき、必ずモラル的な根拠を模索する。「正しい」という根拠だな。それが天皇という存在であった。

ここで、すべてが居場所を見つけたことになる。

明治政権は、本当は私的な勢力そのものであったが、それが公的な政府になりえたのは、その時代の日本人全体にとって明治政権を認めることが利益にかなっていたからだ。共生関係が(短期間であるにもせよ)再構築されたわけだ。

★ ★ ★

その時の「政府」も本質的には私的存在である。

国民にとって本来の公的存在とは、互いに必要としている共有の資産でなければならない。これがコモンウェルス(common wealth)だ。具体的には、文化や慣習、伝統、家族制度、祭事、宗教、その他もろもろの要素がある。

政府や法制度も、国民の側からみれば本当はコモンウェルスであるはずだが、権力とは本当は「巨大な私的存在」であって、実際には他国(と国内の他勢力)と競争しているネーション(nation)として機能しているのであって、「国」といっても、本質的には私的な存在であるとみるのが真相だと、最近思うようになった。

本質的には国民の利益とは別の自己利益を自由に求める私的な存在であるのが「国」である。本当はこうだろう。そう思うようになった。まあ、そうは言っても私たち国民との共生を国は認識している、と。その仕掛けが民主主義である、と。確かに、理屈は通っているが、理屈は理屈である。マスメディアがよくご高説として述べる「民意=国家」など、欺瞞である。これはフィクションである。日本人なら誰でも知っている。

この点では、サッチャー元英首相の次の名言にますます与する者である。

 ... there is no such thing as society. There are individual men and women, and there are families
Source:  http://briandeer.com/social/thatcher-society.htm


よくいう「国益」とは、安定した共生関係が形成されていれば「国民の利益」だが、単に私的勢力としての「国の利益」でしかないケースは無数にあったし、これからもあるだろう。

本当は私的な存在である「政府」が、公私の「公」を名乗るのは、幕府が公儀と自称し、明治政権が国家を名乗ったのと同じであるとみるべきだろう。

とはいえ、政府や国が本質的には「巨大な私的存在」であるとは、特に民主主義社会では、憲法、法律、さらには「民意」と呼ばれるものに隠蔽されて、見えなくなっているものだ。共産主義社会であれば、もっと露わであるのだが。

★ ★ ★

日本人が生きていくときに、人生そのものは私的なものである。

公私混同がよく社会的に批判されるが、公私混同を批判する社会的な勢力もまた本来的には巨大な私的勢力にすぎないことは、普段からよく見ておかねばならない。

真の意味での「公」、つまりコモンウェルスなり、真にパブリックなものの実体といってもいいのだが、それは厳密に私的な存在である一人ひとりの日本人の感性によるものだ。



・・・まあ、昨日はこんなことを瞑想させうる程度まで、じっと忍耐の丸一日であったわけだ。もう二度としないとなれば、それでも少しは寂しいかもしれないが。

2017年11月4日土曜日

現代社会を象徴する迷宮: 年金制度

60歳を超えてからも国民年金には任意加入をして<継続>してきたと思い込んでいた。ところが、先日届いた基礎年金支給額の証明書をみると<満額>ではない。吃驚して色々と調べてみると、国民年金の任意加入手続きは居住する市役所で行うことになっている。ずっと以前、60歳になったときに勤務する大学内で年金関係手続をしたのだが、そのとき『年金関係はこのまま継続しますか』と、そう聞かれたのを記憶している。『ええ、継続でお願いします』と、そう答えたのだった。にも関わらず、だ。「国民年金への任意加入手続きは今回の手続きには含まれておりません」とか、「任意加入は市役所のほうで行ってください」とか、一言あってもよかったのではないか、と。そんな憤りを感じたのだが後の祭りと思うことにしていた。

それが少し以前のことだ。

カミさんがもう少しで60歳を迎える。これまでは小生の給与で国民年金保険料を払っていることになっていた。いわゆる専業主婦の「3号被保険者」である。小生はカミさんが60歳を超えても給与をもらう。カミさんは、しかし、60歳を迎える。「保険料支払ったことにしてくれるのかなあ?」、そういう疑問で、年金機構に電話をかけてみたのだな。

カミさん: やっぱりネ、払わなくても払ったことにしてくれるサービスは60歳で終わるんだって。その後、任意加入したいなら市役所に直接いって、手続きしてくれっていうことだよ。 
小生: やっぱりそうか・・・とにかく60歳で切れるんだな。給与はもらい続けるけど、それまでは払ったことにしてくれる、誕生日の後は払ったことにはしてくれない。自分で払いなさいと、そういうことか。なんか可笑しいけどねえ。 
カミさん: サービスだって言ってたよ(笑)。してくれるのはサービスだって・・・でね、その手続きはまだ出来ないそうよ。誕生日の前日から手続きが可能ですからって(笑)。そういう<規則>なんだって。あっ、それからネ、旦那さんが勤務し続ける場合は60歳からあと、国民年金への任意加入は認められないことになってるって。だから、大学の事務の人のせいじゃないんだヨ、定年が63歳だからさ、仕事を続けるでしょ、だから国民年金には入れなかったって事。 国民年金は入れないけど、厚生年金には入っているはずだから、そちらが増えてるでしょって、言ってたヨ。国民年金は、平均で1年63万円くらいなんだって。満額支給の人って、あんまりいないみたい。
小生: じゃあ『年金はこのままで行きますか?』というのは一体なにを聞いたのかなあ・・・ 
カミさん: でもおかしいよねえ、60歳からあと、▲▲タンは給料はそのままもらっていても保険料は払わないことになった。でもワタシの保険料は払ってなくても払ったことにしてくれていた。 
小生: これは分からないヨ。知らないうちに未納になったり、払っているつもりがいつの間にか払えなくなっていたり、一体全体、こんな制度は誰が作ったのかねえ・・・??
すべて制度は「そうなっているんですから」と思って、個人個人の行動の大前提として受け入れれば、大前提自体の合理性を問題視する必然性はない。そうなっているものとして、後の合理性を確保すれば、それで最適化されるからだ。

しかし、現在の年金制度、ずっと昔にフレデリック・フォーサイスの『悪魔の選択』を耽読したものだが、まさに今の年金制度は「悪魔の制度」であるような感じがする。

複雑にして精緻、精緻にして理解不能。しかし、機能している。

一体、だれがこのような制度を構築したのであろうか。

2016年4月19日火曜日

エンゲル係数の上昇をなんとみる

やや旧聞に属するが、読売新聞に以下のような記事が掲載されていた。最近の日本のエンゲル係数(総消費に対する食費の割合)が上昇しているという点だ。

家計の消費支出に占める食費の割合「エンゲル係数」が上昇している。経済成長、生活水準の向上で数値は小さくなるとされ、戦後低下してきたはずだ。何が起きているのか調べてみた。 
日本のエンゲル係数は、1960年代前半は40%近かったが低下が続き、95年頃からはおおむね23%台で推移していた。ただ、2005年頃から上昇基調に転じ、14年に24%を超え、15年には25%を突破し、25・01%となった。
東京都内の40代の公務員夫婦は先月、家計を見直す中、エンゲル係数を計算して驚いた。28・8%。平均以上だ。小学生の子が2人いる。仕事で帰宅が遅くなると街の総菜店で買ったり宅配の冷凍食品を使ったりする。「割高だが、調理に時間がかからない。家族で食事を楽しむ時間を持ちたい」と妻。休日はほとんど外食という。
(出所)読売新聞(ヨミウリオンライン)、2016年4月12日

これに対して専門家の見方は以下のようなものだ。
エンゲル係数の上昇は、経済的に苦しいこととされていた。しかし共働き世帯や食を楽しむ人の増加など一概にそうとも言えない。豊かさを知る指標としては今も機能しているのか。 
小方さんは「生活が多様化し、日本全体の指標とするのは疑問。しかし、低所得層は依然として係数は高く、対象を見極めれば有効だろう。家庭で時々計算し、家計を見直すきっかけにしてもいいのでは」と話す。
(出所)同上

エンゲル係数上昇の背景として高齢化があげられることは当然である。
高齢者世帯の増加も一因とみられる。おしゃれや趣味への支出が減る一方、食事は欠かせないからだ。弁当や総菜の利用も増える。都内で独り暮らしの女性(98)は「1人分の食事を作るのは気が乗らない」と話す。朝はパンとスーパーで購入したサラダ、昼はデイサービスの施設で食事、夕食は宅配の給食。
高齢者向けの総菜などに力を入れるセブン―イレブンの担当者は「食の外部化はさらに進む」と言い切る。
(出所)同上

食にどれほどカネを使うかは(基本的には)その世帯の趣味・感性による、とは確かに言える。しかし、エンゲル係数の高さを決める最重要な要因としては、実質所得水準-総消費をほぼ決める-と世帯人員が挙げられることは、概ね合意が形成されている。高齢化によって料理を省き、外食やコンビニの弁当を利用する頻度が高くなるのは、そもそもコンビニなる業態がなかった昔から、ある程度わかっていたことである。

齢をとったから食費がかさんでくるのは昔からそうだったの。だからと言ってお年寄りは暮らしの水準が落ちていたとはいえないでしょ。そうしたほうが楽だからお弁当を買っていたのよ。貧しいからじゃないの。最近のエンゲル係数はお年寄りが増えていることが背景にあるんでしょ。だからといって暮らしの豊かさが落ちているということにはならないのよ。

これが上に示した専門家の見解にかなり近い。

★

確かに、ミシュランの星三つで食事をしても「食費」、節約をして家でご飯をたいても同じ「食費」である。この二つともが<必需財>であり、そうである以上、生活水準に向上に伴って比率は下がるはずである、と。そうは一概に言えないだろう。

カネにゆとりがあれば、誰でも高級フレンチには行ってみたい。マル鍋やテッチリをたまにはつついてみたいものだ。これらは<贅沢財>ではないか。

共働きは、専業主婦に対する別の選択肢であって、一つのライフスタイルである。より高い所得を求めて、共働きをするなら、外食や宅配・弁当はどうしても増えるでしょうと。これもライフスタイルの選択である。

だから、エンゲル係数が高い・低いという現象も多分にライフスタイルの選択なのではないですか?

問題だと騒ぐ必要はありません。世の中うまく行っています。

なるほど一つの見方である。

★

統計データは平均的なトレンドを示している数字である。

食が贅沢財になっている家庭と、食は必需財であると感じている家庭と、どちらの家庭の状況が統計データに反映されているか。その解釈が大事である。

小生のカミさんの友人たちは、時にレストランで家族そろって食事を楽しむ人もいるが、そんな人ほど普段の食費は実に節約しているときいている。一円でも安く豆腐を買うべく、買い物ツアーをするバーゲンハンターであると聞いている。

それでもエンゲル係数があがれば、それは「上がってもよい」ではなく、「上がってしまった」とみるべきではないのか。

そもそも食費がかかれば、他に欲しいものは買いづらくなるのが理屈だ。他に欲しいものがないから、食にカネを回しているのか。

そうではないと思うのだがなあ・・・

★

エンゲル係数が上がるのも、新しいカルチャーが生まれつつあることの兆しではないか・・・。なるほど、ポジティブ・シンキングとしてはよく出来ているが、ここまで楽天的になると、「ノー天気」と批判されても仕方がないのではないだろうか。そんな心配もされてくるのだ、な。

ま、何にせよエンゲル係数を下げる特効薬。それは自由貿易。TPPをスタートさせた後、エンゲル係数がアメリカ並みに下がるのか、ドイツ程度にまで下がるのか、シミュレーションはできるはずである。

2021年2月6日土曜日

「男女共同参画」は時代の必要に応えるボキャ貧な言葉だ

 「男女共同参画」という言葉は小生の若い時分にはなかった、という意味では全くの「新語」である。ということは、新しい時代背景の下で初めて意味のある言葉であるということだ。言い換えると、古くて新しい問題ではなく、まったくの新しい問題に応じて生まれてきた言葉である。このくらいはすぐに推論できることである。

逆に言うと、ずっと昔には「男女共同参画」という言葉が必要な社会状況はなく、今日になって初めて「男女共同参画」という言葉が必要になってきた、ということでもあるのではないか?

***

要するに、本質的な点は、女性が働く場所がこの3~50年間の変化の中で解体されてきたということだろう。

いま、女性は「家」でも、「家族」でも、「親族」でもなく、まして「村」や「里」でも「地域」でもなく、いかなる血縁関係、婚姻関係、地縁関係からも切り離されて、文字通り「社会」の中で人生を生きていくしか居場所がない。少なくとも個人、個人の女性に「ない」と感じさせるような変化が、雰囲気として、価値観として、また生活実態的にも進んでいる。もちろん男もこの変化の中に漂っているが、女はより先鋭的に感じる、そんな変化の事である。

鴨長明は名著『方丈記』の中で、「人とすみか」と言っているように、どこでどう生きていくかを人生の主題とした。それと似た問題なのだと思っている。

19世紀の英国・プロレタリアートは、いかなる土地からも自由となり(=農地を奪われ)、大都市の労働者として身を売るしか生きるすべがなかった。同じ観点から、「働く女性」をとらえることが可能だろう。

いま女性が日本社会で仕事をしながら生きていくのは大変だ。これが本質的論点である。

男性の小生すら「組織」や「交友」に対して「疎外感」を感じることはママあったわけである。小生は、酒席も献酬も大嫌いであるし、大人数の宴会などはいかにして欠席するかを常に考えていたくらいだ。そんな場で、疎外されている感覚、余所者である感覚、仲間ではないという感覚を何度感じたか、数えられる回数ではない。大学に戻って何より有難かったのは、集団で仕事をする義務から解放されたこと。「変人」であることが「独創的」、「横紙破り」であるのは「進取の気性」として評価された点である。やはり

一般社会の常識は大学では非常識、大学の常識は一般社会では非常識

ここが嬉しかったのだ。ヤドカリが自分の住むべき貝を見つけたようなものだ。

つまり「常識」という圧力がある。多種多様であるべき常識をただ一つの「常識」に統一化したがる性癖が日本社会にはある。「意識統一」という言葉が以前にはあった。今でもあるかもしれない。ここに日本社会の生きづらさの病根がある。

世に従へば、身、苦し

従はねば、狂せるに似たり

鴨長明が生きた平安時代から鎌倉時代にかけての日本。その時代にも生きづらいと思う人物はいたわけだ。

女性は「社会」で生きていく。ここが20世紀以前の社会と21世紀以降の社会とが違うところだ。だとすれば、旧来の社会で感じさせられていたような疎外感を女性に感じさせるとすれば、それは既存の社会システムの側の問題である。仕事をする女性には気の毒というしか言いようがない。問題解決しなければならない。

***

とはいえ、何度も投稿しているが、男女の性差というのは明らかに観察可能である。男女の違いは、子供を育てる中で容易に確認される明瞭な傾向として誰もが気がついている事実であるに違いない。

つまり、男性には男性の比較優位が、女性には女性の比較優位がある。

小生が育てられていた時代において、男女の比較優位分野はそれぞれ、家庭・社会全体の中ではホボホボ半々であったように感じる。そして、「家族」は市場経済原理からも競争原理からも無縁な共同体である。

しかし、「社会」では競争があり、市場が働く。

男性と女性が性差に由来する比較優位に基づいて、得意分野により多くのエネルギーを注ぎ、結果として男性優位の業務、女性優位の業務が分離してくるとしても、それは当たり前のロジックである。ちょうど、製造業が優勢な国・地域もあれば、金融業が盛んな国・地域もある、農業地帯もあれば、油田地帯もあることと同じである。IT産業が、いま最も有望な産業だからと言って、どの国も、どの地域もIT産業を誘致しようとするのは、かえって自らの利益にはかなわない。自らの利点を活用しない非論理的な希望となる。男女の違いも同じ視点で考えればよい。

故に、あらゆる活動分野で男女が均等であるような政策目標を掲げるとすれば、これはそれぞれの良さを生かさない愚かな政策であると思われるのだな。

***

亡くなった母は「生涯一専業主婦」であったが、いま女性が母と同じ人生を送るのは無理だろう。

「家庭」でも「地域」でもなく「社会」で生きていこうとするときに、比較優位を表現できる適切な働き場所が社会の中に十分にある。こんな社会システムを構築する努力は必要なのであって、個人個人の「最大多数の最大幸福」に至る途でもある。

日常生活は時間効率化され余暇ができた。余暇‐所得選好図式によっても仕事への需要は高まるわけだ。そんな状況が続けば、賃金には低下圧力が生まれる。

その低賃金トレンドは、AI(=人工知能)導入などによる生産効率化投資を抑え、日本の経済発展にはマイナスである。働く世代の幸福にもつながらない。もし小生が元の職場の現役であれば、育児、失業、病気、高齢化という4大リスク(?)をカバーする公的保険を統合し、保険料の雇用者負担を引き上げ、実質的な高賃金状況をつくる。支給拡大による家計収入安定と企業側の効率化投資の促進を狙う。そんな原案をつくるに違いない。きっと面白い仕事になる。単なる「最低賃金引上げ」ではダメだ。リスクカバーと再分配につながらなければダメだ。

流れとしては、女性の生きる場が家庭から社会へ移っていくのは止めようがないだろう。しかし、急な変化には世代間の意識のギャップが日本では大きすぎるような気がするのだ、な。伝統的かつ支配的な「常識」の下で疎外感が形成されてはならない。

「男女共同参画」がいわばお上から押し付けられた努力義務として認識されてしまう所に学問的な貧困がある。多くの人もそう感じてはいないのだろうか。

2011年9月3日土曜日

リンク集 ― 野田新内閣への期待は?

野田政権の執行部と内閣が発足した。マスメディアには ― 新聞も週刊誌も含めて ― 様々な期待、はたまた冷めた批判が掲載されている。

手元にある本日の日経朝刊が経済政策上の課題を下のように整理している(3面)。


ヘッドラインは<復興増税まず関門>になっている。上の表をみるとタイムスケジュール的には、

  1. 三次補正予算、所得税・法人税の臨時増税が10月
  2. 消費税率引き上げ、社会保障と税の一体改革法案が来年3月
  3. 当面の対応課題として、円高対策
  4. 長期的課題としては、新エネルギー戦略、TPPへの参加の是非判断。何とTPPは11月には判断と記してある(ちょっと無理であろうが・・・)

まずは復興財源対策と円高緊急対策からスタートするというのは、共通の意識であろう。

エネルギー戦略はにわかに結論が得られるとは思われない。成長戦略と表裏一体であるから、いまから始めても1年程度の審議は必要ではないか。しかるに経済財政諮問会議をスリープさせ、無数の重複した会議が官邸内部に乱立しているから、いくら古川経財相が頑張っても、体制立て直しだけで3ヶ月はかかるだろう。ま、来年から新体制で成長について議論を始めるというところだろうね、そう予測しておきます。となると、税と社会保障をどうするか。これも3月には基本方向だけがアドバルーンとして出てきて、具体的には来年度、概要が公表されるのは来年9月ではないかなあと、小生は見ているところだ。

日経が社長100名にアンケートをとってみたそうだ(11面)。


足元の課題は<震災復興>と<円高対応>。中長期では<成長戦略>と<エネルギー政策>、エネルギーとほぼ同数で<TPPなど通商貿易政策>。短期はともかく、中長期の課題は要するに<何か、変えてください>という期待に尽きる、そう読んでおくべきだろう。

そう。変えるべきことは分かっているのだが、変えようとすると異論・反論が洪水のように溢れてきて、つぶれてしまう。そんなパターンが何度も繰り返されているのは、変える道筋が時代の課題に合致していないからですね。一言でいえば、日本経済のビジネスモデルはそのままにして、<カイゼン>で乗り越えようと考えるものだから、そもそも<イノベーション>を歓迎しない。成長ではなくて、合理化。所得倍増ではなくて、分配率の変更。もっと悪意をこめて表現すれば、所謂<搾取>を否定できない。技術進歩のプロセスにおいては、中低位の所得階層から高所得階層への富の移転が行われる局面もありうる。そう言われても、<ゼロサム・ゲーム>では人々は納得しない。国にとってこうするのが利益なのですと唱えられても、普通の人には損である。社会的な利得状況をそう考えてしまえば、集団全体としては適切な政策であっても、多くの人にとっては反対する誘因が生じる。

野田新政権の課題は、この認識のミスマッチ。パーセプセション・ギャップを解消しておくのが、絶対不可欠な政策課題である。それはゲーム論的にはコミットメントであって、これ以上の所得分配不平等化の進行を許さないという強い意志の表明である。具体的には、(追加9/3/14:30 所得税率の累進度を上げることと、併せて)納税者IDをたちあげて節税、脱税に厳しく対処する姿勢を決然と示すことが、政策不信を解消する第一歩になるわけで、まずここを押さえないと従来と同じく、発声は宜しいが走りだして転倒、同じ結末になりましょう。

その意味で「国家公務員の給与を2割下げます」と言ったところで、多くの人は「それはいいですよ」というだけであって、それが終われば「次は電力だねえ、で次は銀行。保険も高すぎるね。それからテレビ局か、というか、あらゆる大企業、もらい過ぎだよね・・・」という風に、<となりの芝生>の無限ループに陥るだけである。

さて前口上が長くなった。新政権への期待を、もう一度、ダイヤモンド・オンラインから。

野田新政権発足へ!DOL版・新内閣支持率調査

財務省の意向に沿って、フワッとした立ち上がりで増税を言ってしまうと、そこで終わり。この点は、同じダイヤモンド・オンラインで田中秀征氏が述べている。

野田新政権は「党強政弱内閣」か

同じダイヤモンド・オンラインを見ていて、次の岸博幸氏の東電処理案は小生も基本的に同感だ。

野田政権は東電破綻処理を急げ―このままでは日本は中国やロシアからの巨額賠償請求の餌食になる

放射性物質が海洋に流出していることから、いずれ汚染は北海道に及び、その後は北太平洋からアラスカを洗うだろうということは小生も予測していた。岸氏が懸念するように、中国が日本に損害賠償を求めるという可能性は高くはないと思っていたが、ロシアはまず確実に出してくるのではあるまいか。そう思っていたところだ。といっても、まあ漁業権の観点であるから、せいぜい10兆円か20兆円くらいじゃないか、取れてもそんなことをして対日関係を修復不可能なほど毀損させるよりは、北方領土を諦めさせ、同時にサハリン・北海道の天然ガス・パイプライン敷設を承認させ、併せて東シベリアの経済発展に協力させる。小生がプーチンでも、この位は、まず言うだろうなあ、と。よほど呑気でない限り、すぐに想像のつくことだ。

ロシアが言えば、当然、中国も原発汚染では地理的に無理筋だが、何か言わなければロシアに一方的にとられてしまうから、食品汚染とか、大気汚染を言い出して、保障を求めてくるだろう。

だから、東電を存続させ、国が責任をもって対応するという現体制は、対露、対中でみると極めてヴァルネラブルであって危険だ。これは合理的な指摘である。残しておくより、企業の論理を適用して整理したほうが、国益にかなう。もっともであります。

しかしながら、菅前首相は既に原発事故における国の責任を認めてしまっている。東電が消滅してもロシアは日本政府に対して損害賠償を求めるだろう。

来てもない要求を心配しても仕方がないが、後をひく大問題ではありましょう。

野田新政権が復興と原発収束を目下の課題とするのは当然だが、世界市場の環境はこれまでになく悪化している。

「日本病」が世界を襲う(池田信夫blog part2)

「日本病」という時、The Economistが先日とり上げた政治的「日本病」か、経済的「日本病」か、同じ「日本病」でも着目する症状は一様ではなくなってきたところが、小生、非常に面白いと感じている。

デフレを軽く見て、自発的に成長軌道に復帰できない経済体質になってしまったのは、治療ミスであろう。ところが経済的敗戦の中で、粗雑かつ不適切な責任追及が行われてしまったことが、今度は責任回避による各プレーヤーの利益を増やし、ここにおいて日本的政治経済ゲームの構造は変質してしまった。まずこの点を見ないといけないのではないか。

それ故に、それまでなら可能だった望ましい均衡点の実現が、リスクの高まりから、極めて困難になった。<党派主義>の蔓延は、大同団結よりも散開の利益を求めるものであり、その背景には本筋から離れ、あまりに形式にとらわれ過ぎた(と小生には見える)日本人の責任追求行動があるのではないか。自分には制御できない過失に対する激しい責任追求行動は、プレーヤーにとってはリスクの高まりであり、だからこそ大樹の陰で少人数グループが独立するという状況を形成している。そんな風に、小生は見ているのですね。とすれば、失敗、敗戦に際して行う原因調査委員会の調査精度、最終的な拠り所としての裁判の公正とスピードは、組織的失敗からの立ち直りを担保するうえで最も大事な社会的インフラストラクチャだと思うのだ。

ま、先進国経済全体に日本病的症状が現れ始めている。これは経済上のメカニズムから、ある一定期間、避けようがないと思われるのだが、大事なのは治す過程における評価主体(=国民)の態度である。そう思っているところだ。その点で、The Economistや先日のWall Street Journalで示された見識レベルをみると、「これは日本とはかなり違うみたいだなあ」と、そう感じてしまうのも事実なのだ、ちょっと残念な気もするのだが。

最後に

専業主婦年金の廃止(政治ブログ、佐藤健)

必ず出てくる指摘だと思う。ただ、どうなのだろう。「老後のことはカミさんと相談して民間保険会社と契約しますから、もう国は手を出さないでください」と、そんな意見もまた同時に出てくるのではないだろうか?

そもそも日本国憲法で国が国民に保証していることは第25条で定めているように<健康で文化的な最低限度の生活を営む権利>であって、第1項を受けて<国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない>とされている。就業期間中の平均生活水準に比例する老後の生活を送ることに国は責任をそもそも持っていない。最低限の年金にのみ国は責任をもち、その年金も受給できない国民は生活保護で救済する。これが本来の形ではあるまいか?だとすると、公的年金の運営そのものを見なおすべきであり、現行システムでカネが足らないからといって、現在の勤労世代の負担を増やすという選択は、本来、国の政策としては予定されていない。こんな風な反論が必ず出てくるように思うのである。

2024年2月3日土曜日

断想: 次叔父が亡くなった後に想う

父の次弟であった叔父が亡くなったので愛媛・松山であった通夜、告別式に出てきた。92歳であった。父は53歳で他界したので、父よりは随分長い寿命に恵まれた。亡くなった叔父の顔をみると、何だか長い道を歩き終わったあとの安堵感が窺われて、澄み切った平穏を感じた。

北海道に戻ってカミさんとこんな話をした。

小生: すごく穏やかな顔をしてたよ。最後はそういう心境に達したってことかなあ・・・

カミさん: いろいろ思い悩むことも多かったんじゃない?

小生: そうさナア、まあ、男子二人と女子一人に恵まれた長男がいて、かたや子供に恵まれない次男がいる、と。それで本宅を継いだのは次男夫婦の方だった。これだけ聞くと、長男とその父上とは余程折り合いが悪かったんだろうネエってさ、そう思うだろうな。

カミさん: お母さんのおなかに赤ちゃんがいるのに、長男のお父さん夫婦が同居していた家を出て独立するなんて、やっぱりスッタモンダしたと思うよ。

小生: 独立するまでは親父も電車で通勤していたんだし、それが大変だから勤務先に近い狭い家を借りて引っ越すのも、どことなく不自然な話だからな。でも、その前後の事情はほとんど聞いたことがないんだよね。

カミさん: そんなこと、話さないよ。でも、そのとき出て行かれた方は、やっぱり「兄さんたちは出て行ったんだ」って、そう感じたかもしれないね。

小生: 女性には、母としての役割、妻としての役割、嫁としての役割があるって、昔から言われてるけど、母としてお袋を思い出すとき、何の不満も不平も感じないんだよ。母としては百点満点だったと思っている。でも、妻としてはどうだったんだろう?これは親父に聞いてみるしかないけど、うちって結構、夫婦喧嘩が多かったほうかもしれないんだ。

カミさん: そうなの?お母さん、思ったことを言う方だったの?

小生: うん・・・大きな声で言いあってたな。それで、嫁として観るとね、お袋は大家族の中で、テキパキと切り回すなんてこと、苦手だったに決まってるよ。それをするなら、やっぱり◎◎叔母さんの方がずっと上手だったね。マア、独立した経緯は知らないけど、嫁として観るとお袋は合格じゃあなかったのかもしれないなあ・・・

カミさん: 何となく他人のように冷淡にされたのはそれでなの?

小生: 全部憶測で、実際にはどうだったか分からないけどね。

カミさん: それですぐ下の叔父さんがお父さんの代わりに家を守ったとすると、叔父さんたちにとっても迷惑な話だったろうね。

小生: 長い道を歩き終わった後の穏やかさを感じたのは、そんなことかなあ・・・

いざこうして覚え書きにすると、実に昭和的、というより前時代的である。とはいえ、伝統的な日本社会はこんな風であった、ついこの間まで日本社会のリアリティそのものであったのだ、ということも事実なのだ。事実の前では謙虚であるべきだというのが個人的価値観である。マ、「謙虚」と「ビナイン・ネグレクト(=優雅な無視)」が混在している所が現代日本の世相ではあるが。


亡くなった叔父は、戦前の生まれで陸軍幼年学校を卒業している。年齢的には、今の中学校2年生から中3、高1にあたる3年間で、少年の人間形成において最も基礎となる価値観ないし理念を吸収する頃である。老齢の叔母と共に喪主になった養女の△△さんが最後の挨拶で

自分に厳しく、人にも厳しい人でしたけれど、ユーモアがあり、お洒落で、趣味を楽しむお父様が私は大好きでした・・・

小生も、世話になった感謝と母には冷淡な姿勢を貫いた叔父への反感とが混ざりあった感情を持ち続けてきたが、公平に顧みると、上のような表現がトータルとしての叔父の本質を言い当てているように思われた。要するに、軍人気質を色濃くもち親族全体に対する責任観の強すぎる人物であったのだ。であるが故に、しばしば圧伏的な態度、物言いをして、悪感情を持たれること数多に及んだのは、必ずしも叔父が歩もうと予期した人生ではなかったような気もする。長い道と書いたのは、そうした道のことであった。

南無阿弥陀仏。以て瞑すべし。

昨晩、叔母から電話があった。

遠い所から帰ってくれて有難う。これほど嬉しい事は叔父さんにはなかったと思うよ。

電話の向こうで話していた。

何もアメリカら帰ったわけじゃあないよ。当たり前だよ。

小生は人から有難うと言われると、ずっと昔から何だかコソバユイような感じがして堪らない。偏屈なへそ曲がりである証拠である。

実をいうと、いま奇妙なほどに非常に晴々とした気分なのだ。


【加筆2024-02-04】

上で「女性の役割」と表現した部分で「女性の社会的役割」、具体的には「仕事」がない点について疑問が出るかもしれない。本ブログは、あとで愚息やその家族が読めばよいというのがレゾンデートゥルなのだが、「社会的役割は?」と。ゼミならそう質問されそうだ。

もちろん男性も同じである。その頃の男性には、「父」としての役割、「夫」としての役割、「一家の主人」としての役割があった。

だから「社会的役割は?」という質問だが、これは男性に対するにせよ、女性に対するにせよ、非常に愚かな質問である。

そもそも現に生きて生活をしている以上、生産活動に従事している理屈である。故に、生きているということが社会の中で役割を分担していることを含意している。

金銭による報酬を受け取らないからと言って、家事に専業する女性が生産に参加していないことにはならない。家族は助け合いである。当然、全ての人は社会の中で何かの役割を自動的に果たしている。それをイチイチ問わないだけである。現行のGDPに(例えば)主婦労働が計上されていないのは、GDP概念が不備だからであって、かつて日本の内閣府も主婦労働を帰属評価の上、追加計上した「拡大GDP」を推計公表している。非常に重要な数字だ。

金銭を伴う仕事に就くかどうかは、あくまで《余暇と所得(=自由と労働)の消費者選択》という問題で、更にいえば《職業選択》に属する事柄である。つまりは自由意志によることだ。

なので、男女を問わず、その人の「社会的役割」を問うなど、小生は一切しない。というより、その人の社会的役割を問うという意識は、個人や家族の以前に社会を設定する「社会主義思想」そのものではないか。

社会主義は、(時に)平等を実現するかもしれないが、しばしば自由は抑圧され、人権が侵害される結果に終わることは歴史が証明している。更に、社会主義が前提する「社会」は、自国民という正規成員から構成され、排他性を有しがちである。国際化が進み国境が緩やかになりつつある現代において、社会主義は社会の正規成員ではない外国人労働者を不当に処遇する確率が高い。つまり意図せざる差別が社会の中で発生しがちであると思うのだ。