2024年4月10日水曜日

ホンノ一言: 性別とトランスジェンダーについてのカトリックの観方について

トランスジェンダーやLGBTQの人権問題は、記憶している限り、グローバル・スケールでいま最高の盛り上がりを見せている。

では具体的にどんな社会がこれから到来するのだろうかという予測をたてようとすると、途端に曖昧にならざるを得ない。

例えば、生殖器を切除した男性なら中国宮廷に「宦官」という職名で多数勤務していた。自発的去勢者も多くいたと伝えられている。彼らは男性とは認識されなかったようだが、女性でもなかったわけで、つまりは「無性者」という感覚だったのだろうと想像している ― そもそも日本にはないシステムであるから、感覚的リアリティは得られるものではない。そうかと思えば、以前投稿したことがあるが「男色」も「同性愛」も積極的に公開することではなかったにしても、それがイイという人にとってはあくまで自由、自然な趣向であった。

つまり、「婚姻」や「生殖」、「性行為」という点とは別に、男女の性別差をどう理解すればよいのか、遺伝子上の差異、生殖上の差異、法律上の差異、表現・感覚上の差異等々、互いに関連するかもしれない差異尺度が混在していて、どの尺度でどんな議論をして、落ち着きどころのよい結論が得られるのか、大多数の人たちにとってよく分からないというのが現状ではないだろうか?

そうしたところ、ローマ法王が声明を出したので、アメリカのNYT辺りは大きく報道した。

The sex a person is assigned at birth, the document argued, was an “irrevocable gift” from God and “any sex-change intervention, as a rule, risks threatening the unique dignity the person has received from the moment of conception.” People who desire “a personal self-determination, as gender theory prescribes,” risk succumbing “to the age-old temptation to make oneself God.”

Source: The New York Times

Author: Jason Horowitz and Elisabetta Povoledo

Date: April 8, 2024 Updated 1:11 p.m. ET

URL: https://www.nytimes.com/2024/04/08/world/europe/vatican-sex-change-surrogacy-dignity.html

人為的な手段で男女の性別に介入するのは、神が与えた個人の尊厳を毀損する、人間自らが神になろうとする思いあがった行為だ、という主旨である(と思う) ― 別に男性(女性)を女性(男性)に変えるわけではなく、せいぜい(昔からやっているように)生殖器を現代医療技術を用いて切除したり、それらしく模造するだけの事であるから、神の決めた性別を人間が変えるという指摘には当たらないと思うのだが。

ふ~~む、なるほど・・・ローマ・カトリックはこう考えますか。そんな感じだ。さすが<造物主>、というか<父なる神>の眼から世界をとらえるキリスト教だなあ、という訳だ。

正直に言うと、小生もかなりの部分で上の判断に与したいという気持ちはある。

しかしながら、仏教の観点から同じ問題をとりあげるとどんな理解になるのだろうと思わず考えた。

性を転換する、つまりトランスジェンダーという行為は、本質的に罪悪なのだろうか?

仏教には<五逆十悪>がある。

「五逆」というのは、

殺母、殺父、殺阿羅漢、出仏身血、破和合僧

「十悪」は

殺生、偸盗、邪婬、妄語、綺語、悪口、両舌、貪欲、瞋恚、愚痴

のことだ。

分かりやすく書き直すと、五逆

母親殺し、父親殺し、聖人殺し、仏を傷つけて出血させる、教団を破壊する

という行為。十悪

殺し、盗み、不純な異性関係、嘘、戯れ言、乱暴な言葉、陰口、貪欲、怒りや憎しみ、誤った見解

のことである。

極めて常識的であるし、むしろ現代日本社会でいかに「十悪」が蔓延しているかに改めて思いが至るというものだろう。

ただ、大事な点はリンクを上に付けているが、浄土系思想に基づけば

南無阿弥陀仏と称念すれば八十億劫の生死の罪が除かれ、往生することができる、とされる(同)。法然は『一紙小消息』に「十方に浄土おおけれど、西方を願うは、十悪五逆の衆生の生まるる故なり」(聖典五・九/昭法全四九九)として、十悪を犯しても往生はかなう・・・

要するに、悪を為す人は前世の縁からそうせざるを得ない業を背負っているからこそであり、まず最初に阿弥陀如来の慈悲によって救済の対象になるのだ、と。他力思想では、救済される側には努力の余地がなく、救済する側に絶対的な選択権がある。これ即ち、他力本願で、小生も信じている思想である。

だから、生を受けた身体を変改して別の性別に転換するという行為をするとして、例えばそれが悪であり、何らかの罪であるとしても、それはその人の業と煩悩によるもので、信仰の道を歩めば魂は(最終的に)救済される ― 人間世界では罪を非難されるかもしれないが、絶対的な意味では許される、受け入れてくれる、だから平穏な気持ちでいてよい。そんな見解になるはずである ― あくまでも他力思想の宗派によるもので、禅宗や日蓮宗ではどんな思考になるのかは詳しくない。 

キリスト教的世界観に立てば、この世界は神の意志によって造られたものであり、故に自然は人工的に改変してはならぬという思考に傾きがちだ。これに対して、仏教的思想はTVにもよく登場するように《厭離穢土欣求浄土》となる。この現世は、煩悩と罪業に汚れきっている、だから来世には清浄な浄土に往生したい、ということになる  ―  「即身成仏」を旨とする密教や現世利益を肯定する日蓮宗ではまた別の観方になるかもしれない。


こう考えると、トランスジェンダーが神の意志に反するという見方は、日本社会では共感されないような気がする。


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