2018年8月10日金曜日

「道徳」ではなく、経済学と哲学の意義を感じるこの頃

日本ボクシング連盟、東京医科大学の「不正入試」(?)、日大で相次いで発覚しているパワハラ問題もそうだが、いま世間の雰囲気は「怪しからん!」という感じであり、一口に言えば、関係者は「バッシング」の嵐の中にいる。「解決策」というタイトルの投稿記事もネットには見受けられる。

(当事者になってみると小生にも多分わからないと思うのだが)「怪しからん」という道徳的非難にはどう対応すればよいのだろうか?

怪しからぬ問題点を手段を選ぶことなく最優先で消失させればよいのだろうか? 関係者の「粛清」をすればよいのだろうか? これまでの関係者は邪悪であり、周辺で傍観していた人たちは正義の側にあるということなのだろうか? 要するに、世間は(にわか勉強を繰り返しているマスメディアのことだが)、現在の問題について大事な事をほとんど知らないのではないか? いわゆる「第三者」にまかせて経営再建ができた企業はどれほどあるのだろうか?

またしてもモームの名言を思い出す。
他人の間違いには厳しいが自分の間違いには甘いのは、そのときの事情を自分が一番よく知っているからである。
原文をみずに書いているので文章は少々違っているかもしれない。『サミングアップ』の中に出てくる一句なのだが、小生、この名言が非常に気に入っている。

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あらゆるトラブルは、問題となる病理的症状の確認、その症状をもたらす原因の特定(=診断)、原因の除去、抑制をはかって解決(=治療)する。こんなプロセスを経るのだが、最近の報道記事やネットで流布している投稿を読む限り、「診断」の段階において学問的未発達を感じることが多い。知的な未成熟を感じるのだ。

たとえば、ここに急病で苦しむ患者がいる。高熱があり、腹痛、頭痛、背中痛、咳の症状が認められる。観察されるこれらの症状を確認した医師が、
これで現在の状態は整理できましたから、「重点志向の原理」にしたがって、まずは最も苦痛を与えている「腹痛」を解決することにしましょう。苦痛の8割は2割の原因からもたらされているのです。これを解決できれば、あとは順次、解消されるはずです。
こんなザレ言を口にする「医師」はいない。問題領域には領域ごとの専門的学理がある。学理は経験と観察から帰納的に蓄積された知の体系である。「パレートの法則」があるからといって、それを病気治療に当てはめるのは、単なる無知に他ならない。

普通の医師なら、複数の症状をもたらしている主因がインフルエンザではないかと推測し、まず検査をするはずだ。

そして病名の特定に全力をあげるはずだ。病名が特定できれば治療の方針が明確になるからである。

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戦後世界経済のある期間、『いまや世界は失業問題から解放されたのだ』と、夢のような見通しを口にする経済学者が続々と登場した。ケインズのマクロ経済学を発展させた「新古典派総合」に立脚する経済学者たちである。

しかし、ベトナム戦争が激化する中でアメリカ財政は悪化し、インフレが高進した。物価上昇は景気後退に入ってもむしろ加速する「理解できない状況」となり、新種の経済問題として「スタグフレーション」という新しい名称が与えられた。その解決策として戦後の伝統となっていた需要管理政策ではなく、賃金上昇を抑制する所得政策が提案されたのはその頃だったと記憶している。また、1972年から73年にかけてオイルショックが発生する前から日本では「狂乱物価」の状況となっていたが、その現象に対して恩師が所属していたK大研究所は"Polypoly"という名を与えた。あまり発生しない経済問題であるとして対処策を議論する様子をみるのが、当時大学院生であった小生には大変刺激的だった。

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東京医科大学で行われていた差別的得点調整に対して、世間の議論は「問題点は〇〇と△△であり、これは医療の現場で***という現実があるためだ。だから、まず第一にこれをする、第二にあれをする・・・」と、こんな風なパターンの投稿が多い。ひょっとすると「重点志向の原理」が有効である問題領域かもしれないが、このケースはやはり医療サービスのサプライサイドで生じた問題が、入学者選抜にしわ寄せされたと認識するのが本筋だと思う。医療サービス市場の経済学的分析から議論をスタートさせなければ入学試験の問題は解決できない理屈だ。

とはいうものの、「選別的・差別的に扱われる」女子受験生の怒りを何とする?これは経済問題ではない。とはいえ、そこには「集団的怒り」がある。これもまた社会的な病理現象ととらえるべきではないだろうか。

これも含めて、小生思うのだが、セクハラ、パワハラ、マタハラ、差別的取り扱い、差別的ブラック行為等々、このところ数えきれないほど観察され報道されている社会的現象。つまり不当な扱いに対する「広範囲に高まっている集団的怒り」のことだが、入試の場に限らず、またスポーツにとどまらず、企業・官公庁、小学校以上のすべての教育現場、スポーツクラブ、LINEなどのSNSの場においても、日常的に頻発している病理現象である、と。そう思われるのだな。

「やる方」と「やられる方」がいるわけだが、その発生パターンは様々である。と同時に、類似性もある。

類似の症状は、少数の潜在因子によって引き起こされていると解釈するのが、通常のアプローチである。トラブルが報道されるとき、「モラルの欠如」と簡単に言い切ってしまうと、犯罪多発もモラルの欠如、DVもモラル、いじめもモラル、高齢者の孤独死は家族のモラル崩壊、子供の虐待死は親のモラル崩壊、果ては交通事故もドライバーのモラル崩壊といった議論になりがちで、メディアには扱いやすいだろうが、実に不毛である。

同じタイプの(困った)現象が(また火事のように)発生したとして、
またか!怪しからん!!許せん!!!
などと怒ってみても、有効性はほとんどなく、同じ問題はまた起こるし、火事もまた発生するのである。余りに愚かだ。問題を解決するには、病理的だと思われる現象が発生するメカニズムについて科学的に理解する真面目な努力が第一歩である。そのためには十分発達した学問的基礎が要る。

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繰り返し観察される病理的現象を少数のティピカルな因子の作用であると解釈し、仮説を提案し、データに基づいて実証するという科学的手法が最も求められている方向だろう。新たな社会現象が望ましくはない病理的症状だとしても、それがもたらされている原因は少数に分類できるはずである ― というか、発生する新たな病理的現象がすべて独自のものであり、それらが少数の因子によってもたらされているとは思えない、と。もしそう考えるなら、あらゆる社会的病理は発生するたびに独自の新型であるわけで、科学的な解決は不可能である。

少数の潜在因子には名称を付けるべきであるし、それら因子の作用の仕方に対して幾つかの「***症候群」という名前を与えるべきだろう。

実際、病気の治療においても内科、外科がまず発展したずっと後から、精神クリニックの技術が検査・診断・治療各面において進歩してきた。

問題を解決する科学的技術を発展させることが社会を暮らしやすく、豊かにする。この経験的命題はいまも有効であるはずだ。

世間が憤慨する何かが続発したときに
怒るより他に何が可能でしょうか?
正しくあれかし、と。そう祈るより他に何が可能でしょうか? 
私たちが怒ることで、社会に正義がもたらされるとすれば、私たちの怒りこそ最も美しいものではありませぬか?
時代劇ではあるまいし、そんなことしか言えない社会は、あまりに情けないではないか。まあ、怒りは正義の発露であるという人もいるくらいだから、馬鹿々々しいとまでは言うつもりはない。それにしても・・・である。

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問題を解決するには科学的に考察するのが最も早道である。まずは「検査」、いやいや「データの収集とデータベースの構築」がまず取り組むべき課題だろう。

「社会的真理」というのは、モラル的非難を通して得られることはなく、正義や公平と言った社会的正義論や法律的議論によっても獲得はできず、ただ観察と実証から帰納的に得られるものである。正確な認識に至る道筋は自然科学と同じだ。「道徳」ではなく、有効性が確認されている科学哲学が基礎であるべきで、やるべきことにエネルギーを使わずして、慨嘆や怒号を繰り返すのはただ空しいだけである。

そろそろ景気の先行きについて覚書を記しておこうと思っていたが、その前に表題の件をテーマに(忘れないうちに)書いておこうと思った次第。

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