いつの時代だろうか、どこかの城の大広間に自分はいた。板敷である。大勢の武者がいて、庭の松明があかるい。周りをみているうちに、誰かがある小者を連れてきて、何かをいった。何を言ったかは目覚めてすぐに忘れてしまった。しかし、その時自分がいった言葉が頭の中に残った。
そ奴の首をはねよと、そういったのだ。
記憶の古層の下からときどき何かを思い出すことは誰もが経験することだと思う。しかし、夢というのは何かを思い出しているわけではないはずだ。しかし、何もないところから意識できるということがあるのだろうか。
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意識は自分の内部に存在する世界である。外界の現実もまた感覚器官を通して意識として再構成されている内部世界に他ならない。
西洋哲学では、物質と精神とを二分する思考を繰り広げてきた。外界の物質だけが真に存在するものであり意識も物質の中の現象にすぎないと考えれば「唯物論」になるし、世界とは再構成された意識であり意識の世界においてのみ存在・非存在を議論できると考えれば「唯心論」になる(と理解している)。
小生は、ずっと以前にも投稿したように、下部構造が上部構造をすべて決めていくと基本的には考えている。この点では、唯物論者であり、やはりマルクスと同じであるともう一度反復して言うことができる。
家族のあり方、地域社会のあり方、国家の役割、男女や上司部下といった人間関係のあり方(=セクハラ・パワハラ等の認識のしかた)、何が正しい社会かという思想・常識などは、すべて人間社会の生産プロセスの構造が決めてしまうと考えている。「生産」とは、人間社会が生きていくための現実そのものである。要するに、生きていくために都合のよい社会をつくり、国をつくり、法をつくり、人間関係をつくっていく、と。そう考えている立場に変わりはない。
人は自分たちが生きていくのに都合のよい思想を選ぶか、選べないときは発明する。
こういうことだと思っている。倫理や常識はもちろんその時点で是とされる思想を反映するものである。
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他方、小生の基本的な立場は(これまた前に投稿したように)「他力思想」を是とするものだ。自分の心の中の世界、つまり意識する世界の核心には阿弥陀信仰がある。というか「ある」ようになった。科学的認識とは異なる。「信仰」かもしれない。信仰も思想の中の一つだ。
こんな風に自己を意識する人間存在もまた現代の社会的生産関係の産物である。そういうことなのか。
どうも意識の流れと唯物論とがどうにも溶け合わないまま生きている感覚がして安定しない。矛盾の感覚がある。どう矛盾しているかはこれからの勉強のテーマだ。
仏教でも、物質と精神を金剛界と胎蔵界にわけて議論してきた。が、以前読んだ司馬遼太郎の『空海の風景』では「両部不二」という思想にふれていた。仏教思想を勉強したことはないが、実にユニークな見方だ。これが「密教」の特徴なのだろう。
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