2018年10月31日水曜日

一言メモ: JTのプルームテック初使用の感想

申し込んでおいたプルームテック・スターターキットが本日JTから届いた。早速近所のタバコ屋(というのはもうないので、イオンのタバコ売り場だが)で、メビウスのブラウンとミックス・グリーンを買って帰った。

試してみる。充電が必要なところが電子タバコである所以だ。

1時間半ほどで充電が終わり、使用可能になる。

モカの香りがするブラウンから試す。

ゆっくりと深く吸う。

う~ん、これは確かにタバコである。煙も出る。が、タバコ葉を燃やしているわけではないので、タールなど肺がんを誘発する物質はほぼ除去されている(そうだ)。

科学の進歩には感謝するばかりだ。また喫煙の習慣が再開できた初日となった。

電子タバコでも健康被害はゼロではないという。しかし、小生は1日でも長く生きていたいという気持ちはそれほど強くない。毎日を楽しく、愉快に、幸福にやりたいものである。アレルギーならば仕方がないが、そうでないなら食べたいものを食べ、飲みたいものを飲み、行きたいところに行き、読みたいものを読む。誰でもそうすればいいと思う。もちろん人様々ではあるが。幸福は生きた日数には比例しないものである。

★ ★ ★

若いころには官庁で小役人をやっていた。調査分析もやったし、統計業務もやった、性格的にはマッチしないことテキメンであったが記者クラブを相手にする広報室も経験した。その他いろいろだ。

思うのだが、もしあのストレスに満ちた毎日、オフィスで喫煙が禁止されており、電話折衝や会議室で延々と続く部内検討の場で一切タバコを吸ってはいけないという状況であったなら、気持ちはどうであったろうというのは、想像もつかない。

当時、小生が愛用したのはキャビンとプロムナードであった。どちらかと言えば、濃厚なテイストが好みだった。

イライラとしたとき、相手も自分も黙々と煙草をふかすものだ。5分もそうやっていると、何か落としどころがないか、また頭脳が回転を始める。そんな感覚は、もうそれは日常茶飯事であり、「あの頃」の「仕事」はそんなものだった。

それでもストレスは溜まった。そんなときは、勤務時間が終わってから同僚と夕食がてら呑みに行った。8時頃、また戻って、仕事をした。

そんな毎日だった。

禁煙できたのは、子供が小さかったのと、大学に戻ってストレスが減少したからだ。

★ ★ ★

今様のオフィスはずっと清潔なのに違いない。

清潔にはなったのだろうが、ずいぶん、ハラスメントは増えているのかもしれない。

こういうと、『昔だってハラスメントはあったでしょ、なかったなんて信じられません、人間なんだから・・・』という指摘もあるかもしれない。

しかし、小生は運が良かったかもしれないが、上役や先輩、同僚などからハラスメントをされた、意地悪をされた等々、そんな気持ちを抱いたことはない。というか、一度もない。厳しい(時に過酷な?)要求をされたことは随分あり、無茶をいってくれるものだと腹が立つことも再三であったが、そんなストレスを解消するための工夫が、まずはタバコ、それから週に一度くらいの飲み会だった ― 宴会は嫌いだったが、仲間内の飲み会は大好きだった。

ストレスは蓄積しないことが第一だと言われるが、長年の経験知がまだ日本の組織にはあったのかもしれない。

「仕事」というのは、外部(=市場、競争、国際関係、政策課題、etc.)の現実から決まってくるもので、組織内部の人間が何を仕事にするかを自由に決められるわけではない。人が現実に対応するのであり、現実が人に合わせてくれると理解するのは非現実的だ、と。思い出してみると、ずっとこんな考え方をしてきたようであり、今もまだそうである。

オフィスを清潔に、マナー正しくするのは大賛成だ。小生が若かった時分はどの人の机もチャンガラで、灰皿には吸い殻が積もっていた。しかし、いくら乱雑で、タバコ臭くても、ハラスメントの被害者や加害者になるよりはマシだ。我慢、というより慣れればそれが自然になる。周囲との人間関係で不愉快な事ばかりが頻発するのは真っ平御免だ。そんなトラブルに陥らずにすんだのが幸いだ。

上で「慣れれば自然」だと書いた。自動車が走っていない明治期の日本人が現代の都心を歩けば、その喧騒と危険に我慢できないだろう。東京タワーと東京プリンスホテルがそそり立つ増上寺境内の様変わりに涙をこぼすことだろう。現代日本が美しく、清らかだと思う人は現代の日本人だけに違いない。そう思われるのだ、な。

タバコ臭く、マナーレスなオフィスではあったものの、その頃は幸福な時代だったかもしれない。

2018年10月28日日曜日

難問: 現時点の景気予測

本年初めの期待は株式市場の格言『戌わらう』だった。実際、年初には株価も急騰し、大いに笑ったものだった。ところが、現時点から来年にかけて、経済動向は不透明。文字通り五里霧中だと言っても言い過ぎではない。

小生が関心あるのは株価動向である。株価は先行指標の代表だ。故に、経済実態に概ね半年から1年程度は先行して変動する。つまり、現時点において予想される将来景気の予想に基づいて、株価はいま変動しているといえる。

その株価は、中期的に近々ピークアウトするだろうという判断が形成されつつある。NYダウ平均は三尊型ピークを形成しつつあるように見える。


2000年初頭のITバブル崩壊時にはピーク比で35%程度の下落、2008年のリーマン危機では同じく50%程度の下落を示している。NY株価はどうみても下落局面直前だと思われるが、石油価格や国際商品市況の水準をみると、リーマン危機後に匹敵するほどの暴落にはならないと予想するが、こればかりは分からない。

FRED(St. Louis FED)が提供しているLeading Indexはもっと明瞭に先行き下降の兆候を示している。


先行指数の水準は既にピーク比で1ポイント下方にスライドしており、拡大局面の持続期間を考慮しても、間もなく急低下の局面に入る可能性が暗示されている。

ただ金利の長短スプレッドはまだ下がりきってはおらず、予想が難しい。


これをみると、実態経済の下方転換点は2019年の秋口辺りか、あるいはもっと遅いか、という風にも思われる。とすれば、先行性のある指標には来年前半からその兆しが現れてくるだろう。いずれにしても、来年10月に「予定」されている、消費税率引き上げには暗雲が立ち込め始めていると観ている(この点は、ずっと前から分かっていることで投稿もしているが)。

★ ★ ★

専門家の意見もそろそろネガティブな指摘が増えてきているようだ。米企業の利益も頭打ちになりつつある。たとえば最近の報道では:
米株市場のファンダメンタルズは概ね堅調を維持している。昨年の法人税減税に後押しされた利益の増加には割高な株価収益率(PER)を正当化する効果があった。売上高の伸びも年初に記録した急激なペースから比べると減速しているが、前年比プラスは堅持している。

 アナリストの多くが焦点を当てているのは、来年の数字がどうなるかだ。売上高成長の減速が数四半期続けば利益成長の維持が難しくなり、市場を支えている重要な柱が弱まるとアナリストはみている。
 (出所)WSJ、2018-10-28

日銀の早川元理事も次のように述べている:
早川氏は16日のインタビューで、来年10月の消費増税や2020年夏の東京オリンピック終了に伴い、「来年か再来年のどこかが景気転換期と考えるのが自然だ」と語った。設備投資計画は「近年まれに見る強さ」だが、景気後退期直前の強い設備投資は、過剰設備となるため失敗することはほぼ間違いないと説明した。
(出所)Bloomberg、2018-10-17

実体経済の景気転換点が、もしも来年から再来年にかけて訪れるとすれば、これは小生の予測なのだが、仮に株価が11月から歳末にかけてもう一度上昇を試みることがあるにせよ、その場合は年明け後の大発会で急落を演じるという可能性もあるのではないか、と。そう思ったりして、今は対応を急ぎつつある。

かつてリーマン危機の到来を予測したNOURIEL ROUBINIとBRUNELLO ROSAは、本年9月の時点で2020年景気後退説をProject Syndicateに投稿している。
As we mark the decennial of the collapse of Lehman Brothers, there are still ongoing debates about the causes and consequences of the financial crisis, and whether the lessons needed to prepare for the next one have been absorbed. But looking ahead, the more relevant question is what actually will trigger the next global recession and crisis, and when. 
The current global expansion will likely continue into next year, given that the US is running large fiscal deficits, China is pursuing loose fiscal and credit policies, and Europe remains on a recovery path. But by 2020, the conditions will be ripe for a financial crisis, followed by a global recession.
Source:
Roubini, N., Rosa, B. "The Makings of a 2020 Recession and Financial Crisis"

ただFRBのパウエル議長は少し違った見方をとっているのかもしれない。
 米連邦準備制度理事会(FRB)のパウエル議長は2日、マサチューセッツ州ボストンで講演し、米景気の見通しについて「非常に良い」と述べ、先行きに改めて自信を示した。
 米議会予算局(CBO)は2020年末まで失業率が4%を下回り、個人消費支出(PCE)物価指数の上昇率もFRBが目標とする2%近辺で推移すると予測。パウエル氏はこの予測に触れ「多くの予想によると、好ましい状態が続くようだ」と語った。(中略)
 またパウエル氏は、米景気のリスク要因として、米国外の景気動向や中国などとの貿易紛争を挙げ、注視していく考えを示した。
(出所)The Sankei News, 2018-10-03

進行中の米中貿易戦争による世界貿易減少を考慮に入れれば、景気転換点の予測時点はずっと前の方に修正されるかもしれない。ただ、今回の拡大局面が終了するとすれば、資源制約やインフレ率上昇ではなく、労働市場逼迫による成長率低下、利益率低下、過剰設備の顕在化が招くストック調整というクラシックな類型の景気後退であるとみてきた。とすれば、現在の貿易戦争がマクロ経済に対してどのような効果をもつのか?2019年に入って以降の金利上昇テンポを加速させるのか、減速させるのか?そこがどうもハッキリと見えない。なので、本日の表題となった。

***

日本の株価については、国内景気には独自の底堅さがあるとか、日本の強みがあるとか、これから1980年代末バブル高値にチャレンジするなどと、色々な修飾が語られているが、無責任でありまったく信頼はできない。東京市場はニューヨーク市場のミラー相場であり、かつ東京のほうがずっとボラタイル(Volatile)である。

日本国内の景気、株価を予測するには、アメリカと中国の経済動向をフォローしておけば、本筋を外すことはない。日本経済はもう独立変数ではなく、従属変数である。なので、本日は主に米株式市場に関する見通しについてまとめておいた。 

2018年10月26日金曜日

断想: 月参りで配布される冊子から

毎月一度、下の愚息もお世話になった寺の住職が読経に宅を訪れる。月参りである。一通り読経が終わると、『はちす』という名のパンフレットを畳の上に置いて帰る。時に茶一服分、休んでから帰ることもある。

『はちす』とは何の意味か調べたことはない。遠方にあるもう一か所の寺と共同編集しており、今月号で200号になると書かれてあった。長く続いたものである。

今月のテーマは「お十夜」だった。小生が親から継承している他力本願の宗派からみれば重要だとされている行事である。その主旨は「せめて僅かな善根功徳を為そう」というところにある。というのは、他力思想の根幹には『人は自らの意志で善い行為を行えるわけではない』という人間認識があるからだ。・・・更に敷衍すれば、人は善いことを為そうと考えつつ、その実は悪行を重ねるということもママある。

多くの人々の常識は「慈善なり修行なり、良い(と考えられる)行為を積み重ねていけば、その人の魂(なるものに無関心であれば、本日の話題もまた無意味であるが)は、救済に至る」というものだろう。

他力思想においては『善悪と簡単にいいますが、実は難しいことであり、善悪は人間の都合で変わるのが常である』と、そんな主旨のことが書かれてあるのが今月号の『はちす』だった。いわゆる『小さな親切、おおきなお世話』というもので、自分自身が善いと考えた行為であっても、それが悪いと考える立場にたっている人も世界には多いわけである。「親切の押し売り」が実に嫌なものであるのは誰しも経験することであろう。この辺の儚さは映画化もされた浅田次郎の佳作『柘榴坂の仇討』を思い出すまでもないことだ。

「お十夜」というのは、これだけは善いことであるという確信をもって参加できる場の一つである。そんな認識をしている。


2018年10月24日水曜日

電気版: 欲しがりません、勝つまでは

地元紙・北海道新聞の朝刊に以下の記事が載った:
胆振東部地震後に起きた道内の全域停電(ブラックアウト)を検証する電力広域的運営推進機関の第三者委員会(委員長・横山明彦東大大学院教授)は23日、東京都内で第3回会合を開き、再発防止策を盛り込んだ中間報告をまとめた。
結論は『停電は苫東厚真火力発電所(胆振管内厚真町)の停止や送電線事故など複合的要因で起きたと結論づけ、北海道電力の対応は「不適切だったとは言えない」と指摘。北海道と本州をつなぐ北本連系線増強の是非を検討することも提言した。』というものだった(上記記事から引用)。

『北電の対応に問題なし』ということは「構いなし」。経営責任は追及しないという判断が下されたことになる。

これに対して、道新は『中立性欠く人選 北電擁護に終始 停電検証委』というヘッダーをつけて批判的な評価をしている。

中立性を欠く人選というのは、委員長以下、電力システムに詳しい大学教授が何人か含まれており、それらの人々は(当然ながら)電力会社と近しい関係にあり、故に「中立性を欠く」ということのようだ。(電力の?)専門家から寄せられた一言コメントも「北電に経営責任あり」、「デンマークなどでは風力発電など電源を分散化しており停電は起きていない」等々、再エネ率上昇に消極的であった北電の責任を追及する意見を新聞社としては選んでいる。

常日頃から脱原発論者であることが明らかな(メディアが●●論者であること自体が奇妙なのだが)道新であるから、こうした評価をするのは不思議ではないが、思わず連想してしまったのが、上の表題である。

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素朴な疑問。

北電の経営責任を追及するなら、なぜ行政責任を追及しないのか?日頃から行政の責任を追及するのに躊躇しない道新にしては、エネルギー政策・エネルギー規制・環境規制を所管している行政全体をチェックする姿勢が甘い。

小生は、今回のブラックアウトの原因の過半は、東日本大震災以降のエネルギー戦略を進める中で起きた戦術的失敗にあるとみている。行政の失敗が7割、北電の怠慢による失敗が3割。こんなところではないかなあと、日ごろの報道やら経験を思い出すと、そうした印象をもっている。だから、半分以上の責任は行政機関にあり、この数年間のエネルギー・環境・国土管理行政を全面的に検証しなくてはならない、と道新が主張しないのは小生には非常に不思議である。

北海道新聞の現況判断は

冬の電力安定供給にめど 北電、火発再稼働で上積み見込む


という見出しに表れている。

データはどうなっている?ヤレヤレ・・・地元紙がこうだからネエ・・・

本当に大丈夫か?新聞社に命の責任はとれるのか?

いま朝ドラ『まんぷく』では、米軍による空襲(≒空襲被害?)が増えてきた昭和19年から20年にさしかかっている。街角には「欲しがりません、勝つまでは」、「進め一億、火の玉だ」のポスターがベタベタと貼られている。

国家的目標もよし、崇高な理念もよし、ただ原理主義者は常に非人間的である。

多分、主観的には良心に忠実なのだろう。が、選択肢が唯一であると信じるドグマに陥った独善主義者は、政府であれ、マスメディアであれ、非人間的であらざるを得ない。必然的に、だ。

そこにはデリカシーがない。柔軟性がない。生命のリスクに配慮をしなくなる。嫌でござんす、な。そんな御仁は社会の発展に寄与できるとは思わない。ただ声が大きいだけの存在に堕する。余計ものである。

こんな風に思われる今朝のことであった。



2018年10月23日火曜日

一言メモ: 「弁証法」なるものが分かった気がした

夢の中でエラく難しいことを考えていた。覚めると、具体的内容のほとんどを忘れてしまったが、「弁証法とはこういうものを言うのか」という妙な納得感だけが頭に残った。

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自然について、あるいは社会について、ある認識のしかたがある。これを「命題」とか、「仮説」という事が多い。

同じ現象について、二つの異なった認識があるとき、どちらかが正しく、どちらかが間違いであると考えるのが普通である。

もちろん、上のような議論を進めるときは、提示されている二つの仮説(あるいは命題)のどちらかが真であることが明らかである根拠がなければならない。つまり、両方が誤りであるという可能性は排除されていることが必要である。

さて、二つの仮説は互いに矛盾しており、いずれか一方だけが真である(というロジックになる)。こんなとき、弁証法は一方を「テーゼ」、他方を「アンチテーゼ」と呼ぶ。この言い方は小生が大学生の頃に非常に流行していた言葉だ。が、正直なところ、小生にはよくわからなかった。まして、生じている矛盾を「アウフヘーベン」した結果である「ジンテーゼ」とは何が何だかわからないものだった。どちらか一方だけが真であるなら、正しいのはどちらであるかが問題となるのは明らかだ。それは「実験」によって識別するべきだ。小生にとって、弁証法は屁理屈にもならない、クズのような議論に思われたのだ、な。

なので、弁証法を盛んに重宝がるマルクス経済理論を研究する人たちも、とてもリスペクトしようという心境になれない、これは自分の方が頭が悪いのじゃあないか、そんな気になることもママあったのだ。

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夢の中で考える、というかイメージしたのはこうだ。テーゼ(A)とアンチテーゼ(B)は時間的にか、空間的にか、限定されたレベルで獲得される認識である。より一般的でハイレベルな観点に立てば、AもBもより一般的な概念についての理解に至る具体例に過ぎない。Aが正しいともいえるし、Bが正しいともいえる。AとBのいずれをも包含する真の存在の現れ方として、一見矛盾するように見える二つの認識がある・・・

言葉にするのは中々苦労するが、まあ、上のような納得感が目覚めると残っていたのだ。

こんな風な理解の仕方というのがあるのか・・・。よくは分からないが、若い時分から気になっていた点が「氷解」したような感覚だ。

とはいえ、なぜ今になって・・・最近は考えたこともないのに。まったく人間の頭の働き方というのはよく分からないところがある。

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であるとすれば、上へ上へという認識がここから出てくる。

正邪善悪もまた一般的存在がこの世界に立ち現れるときの千変万化する姿の一部にすぎず、正しいことは善く、邪なことは悪いという認識のしかたそのものに意味がないというロジックになる。どちらも同一の一般的存在の複数の側面にすぎないからだ。

人間世界では正義と悪が対立しているのではなく、どちらもより次元の高い同一の存在が持つ属性の一部である・・・。このような世界観から「全ては合理的である」という酔っ払い哲学まではほんの一歩である。

ただ経済発展プロセスを弁証法的に理解するというマルクシズムは理解しきれない。「上へ上へ」ではなく、「下へ下へ」と人間の生存の物質的基盤にまで下降すれば、古代的生産様式から封建制的生産様式、更には資本主義的生産様式へと進む、経済発展史が紡ぎだされる。どれも正しいとか誤りという価値判断とは別の、より一般的な力の現れである、と。まあ、こんな議論だったのだろう。今更ながら、そう思い出したりしている。

2018年10月22日月曜日

一言メモ: 「世界の潮流に逆行する」と言うのは批判、それとも諦め?

米政権が性別を生まれつきの性別に限定する、つまりトランスジェンダーという位置づけを行政手続きから排除するという報道がある。

その報道は『少数者の権利を保護する世界の潮流に逆行する』という一言で締めくくられている。

「世界の潮流に逆行する」という表現の真意は何なのだろう?

***

世界の潮流はいつでも正しい、故に今回の米政権の決定は間違っている、と。つまり、これは正邪善悪の話なのか?

あるいは・・・世界の潮流に逆行する決定をアメリカ政府がしようとしている。潮流が変わるかもしれない、しかしアメリカが決定するのなら、それは止めようがなく、仕方のないことだ、と。そんな諦めの気持ちを表明しようとしているのだろうか?

世界の潮流はいつでも正しいと考えるなら、その潮流が変わっても、今度は新しい潮流についていくのが正しいことになる。そんなことを言いたいのだろうか?軍拡と冷戦が新たな時代になれば、その潮流に沿って、今度は自由主義圏の絆を強調するのだろうか?価値観の共有を主張するのだろうか?

アメリカが世界の潮流と逆行することを決めようとしている。世界の潮流は変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。変わってほしいのか、変わらないでいてほしいのか?変わらないでいてほしいと願うなら、米政府の決定は間違っていると正面から非難しないと理屈が通らない。

自分の意見が不明である。

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『▲▲は世界の潮流に逆行している』という文章表現を、小生、使ったことはない。どんな意味をこめているのだろう?

2018年10月19日金曜日

『〇〇は健康に悪い』という医学的指摘と異論

夏の終わりにJTの電子タバコ「プルームテック」を申し込んだのだがまだ到着しない。実に待ち遠しい。

30歳台終わりまで喫煙していた。大体一日一箱ペースだったので人並みのレベルだ。健康に悪いという理由ではなく、喫煙者に対する世間の視線が厳しくなり、タバコを吸うのも気づまりになったから止めた。小生は酒も嗜むので、夜になってから晩酌をすれば、昼日中のタバコ位はいいかという、まあ逃げ場もあったわけだ。

いまの世の中は、仕事をしていると実にストレスが多い。車で走っていると、車中でタバコを吸っているドライバーをよくみる。ポイ捨ては良くないが、喫煙している姿をみると、「吸いたくもなるよねえ・・・」と声をかけたくなるのが、小生自身の気持ちであり、これは人情であるとも思っている。

電子タバコは、タバコの葉を燃やすわけではない。タールは発生しないので、肺がんを誘発するリスクは無視できるほどに小さい。それでも、医学分野の学会は『電子タバコは有害であり、従来型のタバコと同様、使用禁止とするのが適切である』と、まあ、こんな主旨の見解を発表しているようだ。

そりゃあ、元はタバコでござんすから、悪いっていやあ、悪いでしょう。

そんなところだ。

★ ★ ★

ただ、どうなのだろうなあ・・・とも感じる。

飲酒は健康にどの程度悪いのだろう?そう質問すると、やはり『酒も飲まないにこしたことはない』。これが公式の医学的見解であるそうだ。

1合の清酒を三日に1回(だったかな?)、あるいは一晩呑めば、48時間は時間をあける。そんなルールを目にしたことがある。

故に、電子タバコで喫煙を再開するなどは、もっての外であり、晩酌も止めるべきだというのが、小生の健康維持を考えれば正論になる。

だけど、あれもこれも止めちまったら、楽しみってやつがなくなりまさあネ。タバコは絶対ダメ、酒もよくない。じゃあパチンコでもまた始めますかい・・エッ、ギャンブルはダメ。ゴルフかね?ゴルフコースは土砂災害の原因になってる?そうなのかい? じゃあ、釣りでも・・・環境破壊になるってか??それでなくっても、釣り師には世間の目が厳しい、釣られた魚はPTSDになる? 魚がPTSDになるってのかい?動物虐待になる・・・ちょっと待っておくんなせえ、じゃあ、オイラの心はどうやって明るくしたらようござんす? エッ、自己責任でなんとかしろ?冷たいネエ・・・そこでホッポラかされたら、アッシは行き場がないじゃあござんせんか。エッ、海外旅行に行けばいい?外国はもっと自由だ。まったく、なんかこの国も住みにくくなってきたねえ。

まあ、どこかの町でこんな会話がされてなければ幸いだ。

最近になって、小生は果物アレルギーが出てきて、リンゴもメロンも食べると喉がイガイガしたり、下痢をするようになった。ネットで調べると、食べない方がいいと書いている。スイートは糖分過剰、ステーキは悪玉コレステロールが増える、・・・サバやイワシを食べなさいってネ、まったく余計なお節介というものだ。

小生の母は、子供の頃、サバを食べて蕁麻疹が出たそうだ。小生の祖父は酒もたばこも愛したが、何の体調不良もなく、天寿を全うした。そばで煙を吸っていた祖母は祖父よりも長生きをした。医療専門家は、それでも「酒もタバコも止めてれば、10年は長生きできたでしょう」とは言うだろうが。あまり意味のない言い草ではあるにしても。

★ ★ ★

確かに、健康被害が生じれば寿命が縮むだろう。90歳生きられるところが80歳で死ぬかもしれない。立証は難しかろうが、理屈としてはありうる。死ぬっていうのは単純に考えれば悲しいことだ。

しかし、80歳から90歳まで10年長く伸びたところで、生まれてよかったという人生の喜びの総量が何パーセント増えると予測できるのだろうか? 可能性の問題なのだというが、10年間寿命が延びた末に、交通事故に遭っても、大地震で家が倒壊して仮設住宅で寝たっきりになっても、誰が責任をとってくれるのか?後期高齢者になってから最後に10年間人生が長くなっても、幸福の可能性は半分、不幸の可能性が半分、確率半々、期待値はゼロ。こう考えるのが合理的ではあるまいか。不幸のほうがより鋭く心を刺すのであれば、期待値はマイナスだと計算するべきかもしれない。何しろ最後の10年間に想定外の不幸を経験しても、自分の力で乗り越えるのはもやは難しいだろうからだ。

「人生長ければ長いほど良いことである」というのは仮説としても、価値判断としても信ぴょう性が乏しいと小生は思っている。

なので、前にも投稿したことがあるのだが、この点については小生はヨハン・シュトラウスのワルツ「酒、女、歌(Wein, Weib und Gesang)」が大好きなのであり、兼好法師の『徒然草』にあるように、平均寿命には達しない寿命で何の心配も残すことなく極楽往生できれば、それが最良・最上の人生であると信じているのだ。
命長ければ辱多し。長くとも、四十に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。そのほど過ぎぬれば、かたちを恥ずる心もなく、人に出で交らはん事を思ひ、夕の陽に子孫を愛して、さかゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世を貪る心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。
(元記事)本ブログ「高齢化社会、その光と影を考える」、2011年7月12日

 シュトラウスの「酒、女、歌」の発想(=作曲)の源となったのは、宗教改革で有名なマルチン・ルターの言葉「酒と女と歌を愛さぬものは、生涯馬鹿で終わる」を基にしてジョセフ・ベルが作った詩であると、Wikipediaには説明がある。

健康は確かに大事だが、「あれは健康に悪いから止めなさい、これも禁止にした方がいいね・・・」という専門家は、バカとは言わないが、野暮くらいにはなるかもしれない。少なくとも、自分はやらないからといって、人の楽しみを片っ端から禁止して得意がるのは、小人物であるのは間違いない。というか、この程度のアドバイスであれば、ビッグデータを活用したIBMのドクター・ワトソンのほうが得意でござんしょう。人工知能の助言くらいにしておいたほうが、世の中波風がたたなくて暮らしやすいのではなかろうか。

2018年10月16日火曜日

覚え書: 辟易するネットメディアの頻出単語

本日もまた井戸端会議風の雑論。

ネットで国内外の動向を知るのは、もうニュースチャネルとしては主流になっている。とはいえ、無数にある投稿記事には執筆者の主観や思い入れが濃厚ににじみ出すぎていて、辟易するものも多い。

客観的にして高精度、淡々とした事実報道は、大手マスメディアの得意とするところだ。これ、やはり、人海戦術が効果的なビジネスということだろう。その長所を忘れているメディア大手が増えているのは残念なことだ。

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『・・・善の勝利』云々という文章表現。類似例として『正しい側が苦境に立つなどという事態は理解不能・・・』とか、『不正義を容認する現代社会』云々とか、いろいろなバリエーションがある。

思うのだが、人間社会もまた自然史の一部であるのは自明の事柄である。アリの世界でも闘争はある。同じ巣穴に生息する集団にも内部では働いている個体もいれば、怠けている個体もいる。役割も分担されているそうだ。いじめもあるというし、ひょっとするとパワハラもあるのかもしれない。しかし、アリの社会でどのような「不正義」があろうと、それはアリという生物特有の事柄であり、人間社会にはどうでもよいことだろう。善、正義、価値といっても、所詮はローカルなものだと小生はホンネでは考えている。全地球的な普遍的な価値が客観的に存在するなどと、素朴に考えている人は、なんと幼稚であるのか、と。

辟易してしまう一例だ。

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本日の道新のコラム記事は医療の世界をとりあげていた。その中に『世の中は男性と女性がほぼ半々だ。医師も半々が普通だろう』という下りがある。

そんな事をいえば、世の中は男性と女性がほぼ半々、だから数学者も男女半々、将棋や碁のプロ棋士も男女半々が自然状態。営業現場はもちろん男女半々、経営企画部も男女半々、建築士・弁護士・公認会計士などの士業も男女半々。そうでないのは性差別を示唆している。警察官・自衛官・消防士もそう・・・というロジックにあいなる。

そう言いたいの??・・・と喫茶店での雑談なら聞き返すところだ。


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前の投稿でも何度か述べたのだが、特定の職業で成功するには才能も必要だが、それ以上に性格がマッチしていることが決め手になる。

それで、小生の経験則なのだが、男性と女性は才能はともかく ― 概略、才能という次元では差異はないと思うが ― 性格には明らかな性差があると確信している。

正邪善悪とは無関係だ。観察事実として男性と女性は傾向として性格に違いがあるという意味だ。

性格の男女差は、幼少期から遊び方の違い、喧嘩をする時の行動パターンの違い、話し方の違い等々、様々な違いとして観察できる。子供を育てた経験のある親なら、男女両方を育てた親であれば猶更のこと、この明らかな事実は認めるのではないかと思う。

才能の分布に違いがなくとも、性格に違いがあれば、志向する職業の分布に性差が出てくるのは、理屈として当たり前のことであると小生は思う。

どんな人生を歩みたいと考えるか?その選択は、どんな才能を持っているかも大事だが、やはり性格にあった生き方を選ぶ。この要素もあるだろう。さらにいえば、その時代時代の社会の通念。当然であると考える常識。他にも生き方を決めるときに影響を与えうる要素は多々あるに違いない。

社会の通念や文化的習慣には改善を必要とするものもあるだろう。しかし、どんな国、時代であっても、男女の行動パターンには違いがずっとあり続けたのではないだろうか?その違いをもたらす要因として、最後に残るのはやはり「性格」としか言いようがないだろう。

男女は同数、才能は平等。だから、どのような職業、分野でも男女は同数であるはずだ。この仮説は、「仮説」というには余りに思慮浅はかな考察でござんしょう。世の中、もっと複雑ですぜ。

2018年10月14日日曜日

メモ: ネットメディア批判への一つの疑問

景気見通しを整理しておきたいと思っているが、メモにしておきたい(しておかないと忘れてしまうので)ことが頭に浮かんで、中々まとめるに至らない。

フェースブックがヘイトスピーチなど悪質なコンテンツ配信の責任を追及されている。最近は、ハッカー被害をうけて千万人単位の個人情報が漏出したというので、甘い管理体制が批判されている。

どうもその世間による集中バッシング、というか非難振りにへそ曲がりの小生はマタマタ疑問を感じ始めたのだ、な。

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確かに悪質なデマや中傷、フェイクニュース、政治的プロパガンダがネットで流通すれば社会にとっては害悪になる。

しかし、だからといって、配信メディア企業に害毒を流している責任があると言い出せば、では非合法取引の利益を預金として受け入れた金融機関は、その預金の源泉が犯罪であることが事後的に判明した時点で、責任を追及され有罪となる可能性があるのか?あるいは、患者を治療したつもりの医者や歯医者は、その患者が非合法取引に従事していることが事後的に明らかになった時点で、犯罪者を幇助したという責任を追及されるのか?

極端なケースを考えれば、犯罪計画を電話で相談したから電話会社に責任があるのか?犯罪者が利用したから鉄道、バス会社、高速道路株式会社に責任があるのか?電気を使ったから電力会社に責任はあるのか?水道が犯罪に利用されるかもしれないから公営企業はモニターしなければならないのか?公園で麻薬が取引されるかもしれないから公園管理者は利用者を取り締まらなければならないか?

まったく・・・キリがない。というか馬鹿々々しい問いかけだ。包丁が凶器に使われたからといって、その包丁のメーカーを責める道理は現代社会ではもはや通用しない ― 包丁なるものが世に普及した初めの事情はわからないが。

SNSは既に社会のインフラである。そのように認知されている。正しく利用するユーザーもいるし、悪質な使い方をするユーザーもいる。社会の現実だから仕方のない話だ。便利な道具も悪用すれば害悪をなすツールとなる。しかし、悪いのは悪用している人間であり、道具が悪いわけではない。

要は、悪質なユーザーが確認された時点で、できるだけ速やかに悪質な行為を止める。これが社会のルールであるわけで、ネット企業はその取り組みに協力しなければならない。

これが基本的なロジックである。

ヘイトスピーチを流通させたこと自体に基づき、フェースブックなどSNS企業を非難するのは、非論理的であり、非難の対象を取り違えている。その種の人は、電話会社、金融機関、交通機関等々、すべての社会インフラを非難しなければならない。トヨタや日産といった自動車企業も、犯罪に関係した角で責任追及、カネを使っているからという理由で日本銀行も非難・・・とまあ、ここまで行かないと理屈が通らないってものでござんす。

2018年10月10日水曜日

内閣支持率を視聴率のように使うメディア企業の阿保らしさ

マスコミ、というか近年の体たらくをみていると、もはや「新聞業界」、「テレビ業界」という言葉を使いたくなるのだが、日常的に販売部数、視聴率の動向に気を使いながら経営しているせいか、報道対象(マスコミにとっては素材というべきか)のコアをなす内閣、この内閣支持率調査の結果を定期的に報道するのが、社員たちにとっては、一種のカタルシス(≒気晴らし)になっている、というのは小生も共感できる。

最近の世論調査によれば安倍改造内閣の支持率も不支持率も40パーセント程度で拮抗しているということだ。

★ ★ ★

ただ、どうなのだろう?

回答者は電話番号からランダムに抽出する方式だが、つまりは普通の人たちである。

支持率というのは「総理大臣に対する支持率」ではなく「内閣に対する支持率」である。

普通の人は安倍内閣を構成する大臣のうち何人を知っているのだろう?麻生財務相、河野外相くらいは知っているだろうが、今度の防衛大臣は誰だったか、法務大臣は誰だったか。評価していいのか、悪いのか。個人的に知っているのだろうか?当然のこと、知らないはずである。

そもそも自分の勤務している会社の中ですら、〇〇専務や△△常務を冷静かつ客観的根拠を以て評価できる平社員など、どの程度いるのだろうか?現執行部を評価できる社員などいるのだろうか?噂話や社内世論の何となくの空気、たまに放映される動画などに基づいて、それぞれイメージを作っている人がほぼ全てであろう。大企業なら特にそうだ。官僚だって、総理の顔を近距離からみたことがない人は多い。

自分の勤める会社でもそんな事情ではないのだろうか?

小生、内閣支持率の数字などはまったく評価の基礎を欠いた、その意味では統計データではなく、情報産業の生産物であると受けとるようになった。

★ ★ ★

社長はじめ現執行部が社員から支持されるかどうかは、ただただその企業の経営実績が左右する。要するに、給与、賞与、市場シェアが好調なら個人的人柄が分からないままに支持するのが当たり前である。まして株を買う株主にとって、ナニナニ銀行の頭取がどんな思想で、どんな人柄で、どんな経営戦略を持っている人かどうかなどは考えないし、まして支持するかどうか質問されればプッと吹き出すに違いない。『頭取で決まるわけじゃないですからネ』くらいは、素人投資家でもよくご存じだ。

放言をしようが、軽口を言おうが、部下の前でイライラと机をたたいたり、罵声を浴びせようが、会社を成長させれば、その限りにおいて社員は社長に変わってほしいとは思わないはずである。

社長は、平社員の友達ではない。嫌々、つき合う必要はない。普通の人は、自分たちに利益をもたらしてくれれば、反対する必要などはないのだ。

内閣支持率も事情は同じである。

支持率、不支持率が拮抗しているというのは、安倍政権下で利益が拡大している人たちと拡大してはいない人たちが、ほぼ同数程度いるという現実の反映だろう。即ち、「格差拡大」(単なる給与格差拡大ではなく、全年齢層を含めた経済状況格差の拡大という意味である)が、なお進行している。これからも同じ方向が期待される。それが、この結果をもたらしていると考えれば、仮説としては面白いだろう。

ただ、全体のパイの拡大を優先するか、分配平等化を優先するかの議論は、価値観の対立が最も先鋭化する点であり、学問的に解決のつく問題ではない。一つの立場にたった政治というのは、選挙の結果であるとも言えるのだ、な。

★ ★ ★

その選挙の結果と情報産業のイメージ作り(=報道傾向)はパラレルではない。各社各社特有のバイアスが混じり、それゆえに内閣支持率は「支持率」というよりは、各社の「宣伝効果インデックス」と理解したほうが一層正しい。内閣支持率を上げたいと考えている新聞社も、反対に内閣支持率を下げたいと考えている新聞社も、実はどちらも新聞業界にはある(はずだ)。テレビ業界にも双方の側の会社がある(はずだ)。これが現実描写としてはより当てはまっていると思う。

言い換えると、内閣支持率調査とは「世論調査」では実はなく、新聞社を経営する執行部が展開するプロモーション戦略の影響力を測定するための自社調査である、と。小生はこう見るようになったのだ。

この認識から以下の段落が導かれる。

『内閣支持率をもっと上げなければいけませんヨネ』と言うのは、政治とドラマを同じようにとった言いぐさであり、考察力不足を伝える、というか(より以上に)不誠実な言葉である。

であるので、毎回毎回の「内閣支持率」の変動を視聴率よろしく伝えるテレビを観ていると、小生、はからずも失笑し、プロデューサーの指示通りに話しているキャスターに哀れを感じてしまうのだ、な。救いがたい阿保にどうしても見えてしまうのだ。自分自身もそう思っているわけではなく、ただ上司のプロデューサーに指示されて話しているだけであろうから、実に気の毒である。



2018年10月9日火曜日

北海道ブラックアウト損害賠償請求の後日談

今朝のニュースによれば、標題の損賠賠償に関してコープさっぽろは北海道電力に対して法的措置はとらないとのこと。

そうか、そうか・・・決行すれば類似の訴訟が殺到していただろうから、止めてよかった。インタビューをうけた道内事業者も『今度のことは地震ですから・・・仕方ないんじゃないかと思っていました。(認メラレタラ、ドウスルカト聞カレ)そうですね・・・認められたら、やっぱり人間ですから、請求は検討はするでしょうね』、マア、こんなところが多数の回答だった。

訴訟は止めたそうだが、今回の道新報道は道内では結構な反響であった。『北海道内のエネルギーの在り方を考えてもらうきっかけにしたかった』というコープさっぽろの希望は実現できたと言えるだろう。

こんな内容をTVで視ながらカミさんと話した:

小生: これは圧力だな・・・ 
カミさん:圧力って、どこの? 
小生: そうさな、道庁あたりじゃない?もし裁判になればサ、今度のブラックアウトは北海道電力だけの責任なのかってサ、証人尋問を入れながら、洗いざらい事実関係を証言させられるだろ?絶対嫌だって人は、道庁、官庁、いっぱいいるやないか。 
カミさん: ホント、性格悪いよねえ・・・そんなんで毎日面白い。 
小生: 人間関係のサ、ドロドロした保身とか、出世欲とかさ、そんなの大好きでさ、ワクワクするんだよね。

***

2011年の福一原発事故の事故原因については4通り(3通り?それとも5通り?)の調査が行われて、4通りの結論が書かれていると聞いている。

一つ言えることは、東日本大震災の広い被災地に多数あった原発関連施設の中で大事故を起こしたのは福島第一原発だけであったという事実だ。その福一原発も地震そのものに対しては、設計通り運転が自動停止している。そもそも福一原発は震源地の最近接地点にあったわけではない。あれほどの大規模事故に進んだのは、津波による電源喪失である。緊急用発電機、外部電源と繋がる送電線が被災し、やってきた緊急電源車のプラグが合わなかった ― というよりそれ以前に、自衛隊機で東京の現場に戻ろうとする社長を越権行為のかどで離陸地に戻らせた当時の菅直人内閣の迷走ぶりも要因として見落とせないだろう。

要するに、一見したところやむを得ない天災による大事故であっても、詳しく見ると天災から直接に引き起こされた損害はそれほどのものではなく、大事故に至った要因(近因と遠因)は、人災的なものであり、関係者の判断ミスが主たる原因であるというケースは実は多いのだ、な。

小生は、今日に至るまでの福一原発事故による災害は、人災的側面が半分以上の割合を占めているのではないかと推測しているのだ。

こんな見方を整理すれば、優に400ページ程度の書籍になるだろう。誰かまとめてくれないだろうか・・・(アタシャ、もう年でござんす)。調査委員会の分析は委員会ごとに構成員の違いもあって相当バラバラであり、見方によってどうとでも言えるような部分もあると耳にしている。が、確定された事実は共通認識として知識化したいものである。

東電、経産省、内閣、その他関係者それぞれの責任割合を秤量することが最も大事であるはずなのだが、あまり聞いたことはない。世間は「東電が悪い」の一点張りであり、今回の北海道ブラックアウトもまた「北電が悪い」の一点張りになりそうだ。

ほんとうに毎度、頭の悪いなりゆきで、困ったことだと思う。

***

そもそも福島第一という退役予定の原発施設を運転していたのは何故かという疑問に直接回答してくれる人はこれまで見かけたことがない。

背景として、2003年だったか(?)、その福島第一に加えて、新潟柏崎原発など複数の原発施設で発生した微細トラブルの隠蔽、データ改竄が発覚したところから、東京電力が保有する全原発施設の運転が停止させられたことは、まったく関連がなかったわけではないだろう。

それから2007年だったか、新潟県で発生した中越大地震。その時も、柏崎原発は設計通りに停止したが、その地震強度が設計基準を超えていたというので東電は再稼働までにかなり苦労した(と聞いている)。

電力需給のバランスと電力の安定供給を至上命題とする東京電力にとって、運転許可/稼働停止のいずれかで揺れる行政リスクの高まりが、退役予定の福一原発を継続使用する動機の一つになったという見方は、証言をえたわけではないが仮説としては理屈にあっている。

上の段落において、東京電力を北海道電力に置き換えることはできない。なぜなら、北電は泊原発に替わる老朽原発施設をもっていないからだ。原発施設ではなく一極集中体制で電力発送電を行った。そこにはやはりリスクが潜在していた。これが基本ロジックである。

***

社会的リスクとは、個々の市民から見ればババ抜きのババのようなものだ。行政機関がリスクの発生源となりながら、そのババを民間経済に押し付ければ、民間の経済主体はババを自分以外の他者にパスしようと考え、損失回避のための合理的行動をとるだろう。

現在は、エネルギー産業においてすら競争圧力にさらされている。企業経営合理化への規律なりディシプリンが働いていないはずはない。大局的にいって、東日本大震災後の北海道電力の行動に非合理性はないと小生はみている ― まあ、重箱の隅をつつくように見れば、何らかのミスは見つかるだろうが。

非合理性があるとすれば、競争にさらされていない行政機関の側に隠れているはずであり、エネルギー分野であればエネルギー関係機関の行政プロセスが全体として妥当であったのか?ここをまず検証するべきだ。

まあ、ロジックはこうなるが、最近の政治結社化したマスコミ大手はあてにはできないねえ・・・やはり信頼するべきオピニオンはネット経由で公開されるだろう。

小生: それにしてもあれだネ、運転を認めるべきでなかった福島第一は運転を認め、そこを津波に襲われて大事故になった。稼働を認めておくべき原発は止めつづけ、今度は供給力不足でブラックアウトを招く。 
カミさん: でも冬でなくて良かったよ・・・もし外が吹雪だったら、水も凍るし、ストーブも止まるし、どうしたらいいんだろうね。 
小生: ホント、大失敗ばかりサ。責任もとれないくせに権限だ、認可だって言い張ってさ、それで何かあると責任はとらずに(今の世では切腹も出来ずとりようがないので)、業者が悪いって開き直るしかないのは、みていても不愉快になるネエ。形式的な安全チェックだけにして、自由化したらいいんじゃないのかなあ・・・自由には責任がともなうから、そのほうが企業も最先端の知識をつかって、管理するはずだよ。なまじお上がシャシャリ出てきて、「我々が審査しましょう」なんて言い出すから、ミスが起きて、それだけではなく無責任社会にもなる。
カミさん: まあ、まあ、カッカしないこと! 

2018年10月8日月曜日

行政は常にシクジルものであると思っておくとよい

地元の道新では既に報道されているが、胆振東部大地震時のブラックアウトで生じた損害の賠償請求をコープさっぽろが北電に請求するということだ。裁判になるだろう。

電力契約では地震等天災による停電に関しては北電は賠償を免責されることになっている(はずだ)。にもかかわらず、賠償請求しているのは(道内全体では発電設備が十分であるにもかかわらず)電力の安定供給を果たすことができなかった点を指摘したものであり、すなわち今回のブラックアウトは<人災>であるというロジックである。

コープさっぽろは、北海道内のエネルギー供給の在り方について問題提起をしたいと説明しているよし。

企業たるもの結果責任を負うべし、というのは成程そのとおりである。が、結果責任を負うべき主体は企業だけではない。官公庁も同じ立場にあるはずだ。

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このところ、非常に不思議、というより義憤を感じるのは、今回のブラックアウトの大きな責任が北海道電力にあるという論調が主流になってきていることである。

発電設備を十分に保有しながら、ブラックアウトの大半の責任が電力会社にあるというのは、非常に一方的な議論であって、この辺のことは最近1か月内に何度か覚え書きを投稿している。

高橋道知事がまず北電の責任に言及して以降、段々と電力会社責任論が強まっており、今回のコープさっぽろの賠償請求もその流れにあるようだが、冷静に考えれば、東日本大震災以降の日本の電力政策、エネルギー政策に誤りはなかったのか?この点を再度検討しなおす契機になるとすれば、大きな第1歩だ。

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その昔、1980年代末から90年代末にかけて、バブルの発生とバブル退治、その後のバブル崩壊と金融パニックが進む中、<官僚組織の無謬神話>は完全に崩壊したはずであった。そして2011年の東日本大震災時で露わになった原子力安全管理体制もまた<エリート達の無責任>を露見させるものだった。

<官僚の誤り>は日常茶飯事である。何度も露呈されるたびに、人の再配置と中央官庁の看板の付け替えが繰り返されてきた。

行政は常にシクジルものなのだ。そう考えると経験には合致するのだ。

今回の北海道全域ブラックアウトは戦後日本では最大規模の停電事故である。これだけの電力事故において最近数年間の電力行政に責任がないはずがない。責任は経済産業省にもあるとみるべきであるし、もう6年近くも全国の原発施設の安全審査を担当してきた原子力規制委員会、それを所管する環境省にもある。当然のこと北海道庁にもあると考えなければ理屈に合わない。とすれば、責任はこの5年間余り行政を総覧してきた安倍内閣にもあるわけだ。そう考えておくのが当然ではないか。

にもかかわらず、日常的には行政は間違いなく行われていると日本人はなお信じたいかのようである。理屈に合致しないことが政府内にないかどうか、モニターすることが本来のマスメディアの仕事であるはずだ。権限を得た<官僚システム>は常に自己を正当化するものである。

しかし、マスメディアはこの件に、つまり電力問題に触れることに非常に臆病であるようにみえる。その理由は、東日本大震災勃発時から全国の原発施設を超法規的措置により停止させ、その後の原発審査体制を構築した民主党政権の直接的責任にも話しが及ぶと考えているからだと憶測されるのだ、な。
あのうるさいマスコミが何で言わはらしませんのんやろか? 
決まっとるがな・・・言うたら自分の身に返ってくるからヤ。あれを止めろ、これを止めろいうて、せっかく動いとった電気をやなあ、台無しにしたんは民主党もそうやけど、マスコミや。藪蛇になるんが怖いんやろ・・・誰か何か言いだすのを待っとるんやろな。
こんな会話が関西地方でもかわされていなければ幸いだ。

上のような架空の会話は空想だ。とはいえ、当たっているかもしれない。もしあたっているなら、マスメディアは党派的であるという非難を通り越して、そもそも<メディア>という呼称にも値しない政治結社であるとすら言いたくなるだろう。

マ、今回のブラックアウトの技術的検証が今月内にもまとまるだろうから、まあまあバランスのとれた方向が出てくるのではないか、と予想している。

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確率的に考えれば、この厳冬期に再びブラックアウトが発生し、多数の凍死者が出る可能性はそれほど高いものではないと予想はするが、仮に現実にそうなった場合、<行政の不作為>による多数の死者発生の責任を問う、今度は本物の行政訴訟が殺到することはまず間違いのないところだ、と。

北海道の電力問題が全国規模の大炎上に拡大するかもしれない。その根っこには、またもや「官僚の無謬性信仰」がある。そこがまた非常に危うい状況になってきたネエ・・・と。そう思っているところだ。

奇しくも今度の冬が過ぎて春がくればやがて夏の参議院選挙がある。

運命はどう出るか?何かの予想と何かの決断をするべきリスクがここにある。

(来年のことを語ると鬼が笑うというが)来年に待ち構えている大きなリスクは「電力と北海道の冬」ばかりではない。が、もう一つの方は長くなるので、また改めて。

2018年10月5日金曜日

雑感:『新潮45』の表現の自由をめぐって

LGBT問題で『新潮45』が右翼論陣に肩入れしすぎて、一部世間の虎の尾を踏んでしまった。猛烈な反発が巻き起こり、遂に廃刊となった。すると、これが契機になって、これは表現の自由の侵害にならないのかというので、またまた論争が起きているというのが現在の世相である。

***

「表現の自由」という基本的人権をめぐってはこれまでにも投稿したことがある。たとえばこんなことを書いている。

表現は(基本的に)自由だが、それを聞いて怒る人も怒る自由はあるわけだ。決まっていることは、紛争の決着は腕力によって私的につけるのではなく、裁判で決着させる。公権力以外に力の支配に頼るべからず。これだけである。

元少年Aが出版した『絶歌』が世を騒がせている。

中年以上の人は「よくない」と反応し、若年層は「こうしたことを伝えていくという意味では必要かもしれない」という風に、世代間でかなり違いがあるようだ。

結論的にいえば、小生、元少年Aが非難されるのは当たり前だと思う。
(元記事)2015年6月12日「この数日の雑感―告白本の出版、表現の自由」

表現にせよ、結社にせよ、思想・信条にせよ、日本では憲法によって自由が認められている。 特定の思想や信条が、行政によって、法律によって、禁止されることはない。

しかし、自由であることは、イコールその人が責任を負担するというのがロジックだ。

全て行動というのは、自由意志の上に責任が発生する。誰か他者の命令に服従する立場にあるならば、その人の行動によって生じる結果は命令を下した者が責任を負うべきだ。命令を下した者に意志の自由があるならば。自由意志と責任が表裏一体と考えるところに近代法の基礎がある ― 決して普遍的な考え方ではない。必然と自由、神の意志と人間の意志との関係はキリスト教思想においても深い対立がある(と聞いている)。

何を言っても構わないが、言えば傷つく人がいれば、傷ついた人は怒りを感じるだろう。そのようなことを言うなとも主張するはずである。言うのを止めなければ実力行使にでるかもしれないが、これも言う側は予想しておくべきだ。これらをすべて含めて憲法が定める裁判所で公の判決を仰ぐ。これが現代社会の基本ルールである。

雑誌「新潮45」には、廃刊を選ばせるほどの社会的バッシングが集中したが、おそらく継続をしていれば販売部数は伸びたのではないだろうか?そうすれば、反対勢力は不買運動を展開したであろう。これが営業妨害であると同誌の編集部が判断すれば訴訟を起こして争えばよい。ロジックはこうなる、と。小生はそう思うのだな。

激高したリベラル派による「社会的制裁」は、「ひょっとすると出版の自由、表現の自由を侵害しているのではないか」とも思われるが、別に実力行使をしたわけでもない(と聞いている)。極端な内容の記事に対して、これまた極端な反論が続出しても、これ自体は当たり前である。自らの意志で書き、それを出版したことへの責任は執筆し出版した側にある。

その責任を廃刊という形で負担したのは、「俺なら違うなあ」という形の結末であった。

2018年10月3日水曜日

社会の舵とりはルールや法律が行うのではない?

現代社会に自己増殖している法匪(<=法律専門家)については先日も小生の見方を書いておいた。

最近、TVのニュース、というよりはワイドショーの方であるが、頻繁に『これは法律的にはどうなんでしょうね?』、『規定はどうなっているんでしょう?』という言い方をよく耳にする。

言うまでもなく『法律に違反している以上、一刻も早く摘発して、相応の処罰を課するべきではないか』という主張をしたいわけである。その裏側には『正直者が馬鹿をみる世の中は最低である』という感情があるのだと思われる。

小生は相当のへそ曲がりだ。この点は何度も断っている。だからここに書くのだが、『規定に違反しているとしても、だから何ですか?』、『あっ、法律に違反してますか?』と、いつも反論したくなるのだ、な。

***

法律に違反しているからと言って、一人残らず摘発して処罰するような社会が良い社会だとは実は思っていない。

たとえスピード違反が見過ごされ、あおり運転で不快な思いをするにしても、路上で(何に腹を立てたのかわからないが)暴言を浴びせられ、「殺すぞ」とののしられたとしても、だから直ちに相手を警察に引き渡したいという気持ちに駆られたことはない。なぜなら、自分もまた若いころ、殺人的な満員電車の中で足を踏まれたら踏み返したし、もたれかかられて不愉快な思いをすれば故意に肩透かしをして相手を転倒させたりしたことも何度かあったからである。

微罪を凡人の愚かさとして互いに許しあうのは、車のハンドルに遊びがあるようなものだと思っている。

***

こんなことは誰でも分かっているのに、法律なる条文に違反している者がいないかどうかを常に監視する人がいるとすれば、その理由は自分が「馬鹿な正直者」になりたくはないからである。だから他人を監視するのだ。

社会で合意できるルールとは、本来は誰にとってもプラスになるからルールになるものだ。社会の同調圧力で守らせなくとも、ルールを守る方が自分も得をすると分かっているから自発的に守るのがルールである。法律も同じである、というか同じでなければ、その法律は守られないだろう。

互いを監視するのは、自分たちが守ろうとしているルールが良いルールであるか無茶なルールであるかに、実は自信がないためである。

社会的には無理な合意であり、法律であると誰もが分かっているときに、違反者に対して社会は過酷になるものだ。違反者にペナルティを求める底には怒りがある。「自分はきちんと守っているのに、お前は抜け駆けをしやがって・・・」という憤慨に非常に近いのではないだろうか。良いルールが浸透した社会では「ルールを知らないなんて、愚かだねえ、教えてやれよ・・・」という憐憫が支配的になるはずだ。

人間を大事にしない社会は法律を大事にする。規定を大事にする。条文を大事にする。しかし、現実の社会は軍隊でも会社でもない。社会にはまず文章で定めた法律がある・・・という考え方そのものに小生は異論をもつのだ、な。
そりゃあ、違うでしょう。一晩あけて明日になったら、突然サ、日本って国が消えていたとしなせえ。それでも我々、多分、生きてまさあ。法律があってアッシ達があるなら、法律が消えたらアッシ達も消える理屈でござんしょう。法律なんてものは、あったほうが世間の役に立つから、作っているだけでござんすヨ。世間の暮らしの役に立つってんなら自然に守られましょうし、邪魔になりゃあ止めちまえばいい。それが民主主義ってもんじゃござんせんか。
まあ、この辺で十分か・・・以上をまとめると、本日の標題のような文句になる。

***

戦前期日本にも「贅沢は敵だ」と書かれた標語の「敵」の前に「ス」の字を落書きした人が多数いたそうだ。現代社会であれば、隠れて「ス」の字を入れるのではなく、堂々と名乗って入れられる社会になっていなければならないだろう。

弱い軍隊は軍律だけは厳しく過酷である、というのは古来の戦訓である。作家・永井荷風は『断腸亭日乗』の中で戦時中の臆病で神経質な国民総動員精神なるものを揶揄している。非常に面白くて小生が一番気に入っている個所である。

まあ、総動員でなくとも、<脱***>や<***化>は現代の国民運動であるし、<***時代>などという日本語も総動員精神に類似した使われ方をしている。そうそう、<**主義>という言葉も「おにぎり社会」の日本ではすぐに国民運動と化してしまう。まったく「物いえば、唇寒し」の今日この頃でござんす、というのは案外多数の日本人で共有された思いではないだろうか。堂々と揶揄され、反論されるだけの器の大きさがなければ、これらの言葉はからかわれ、疎んじられ、いずれは近い将来に消えていくだろう、と。人間の小さな脳髄が作り出す「意見」などというものは、現実という歴史の碾き臼でひかれて、永く使えるものだけが生き残っていくものである。そう予測している。

2018年10月2日火曜日

最も難しく人材を得にくい職業とは何だと思う?

司馬遼太郎は、最も得難い人材として「名将」を挙げている。つまりリーダーである。リーダーの役割の重要性については日本人も大変関心があり、歴史小説の多くは著名な人物のリーダーシップを語るものである。特に経営者は好きなようだ。

が、いくら座右の書を再読三読しても凡人が名将になることは稀である。リーダーになるには、多分にその人の才能、というより性格が関係する。これも周知の事実になっているはずなのだが、最近はパワハラ云々もあって、統率力や指導力の形について混迷状態に陥っているのが日本社会であるような気がする。

***

本庶佑博士がノーベル医学生理学賞を受賞した。「オプジーボ」と聞いて納得した。母が肺がんで亡くなったのは1990年だったから、とうてい間に合わなかったが、医学の進歩には驚異を感じるばかりだ。

研究者として成功するには、才能も必要だが、性格がマッチしていなければならないというのも、よく聞く言葉である。

小生は、営業マンだけは向いていない、と。若いころからずっとそう感じていた。何より酒席の立ち回り、持ちまわしが極端に下手だ。酒は好きだが、献酬が、というよりその雰囲気が嫌いなのだ、な。立席パーティも苦手だ。人の波を泳ぐようにして人から人へと談笑に興じるのが非常に苦手だ。まったく・・・これでは接待も無理である。故に、営業はできない。

研究は好きだった。一つの疑問に答えを出すために1年、2年を費やするのは何ともなかった。たとえ一人でやっても孤独などは感じなかった。ある程度の結果を出せたのはある程度の才能が、というより性格が向いていたのだろうし、それ以上の結果に到達できなかったのは地頭が悪かったからだ。

***

大学という場で研究をやっていると、同時に教育にも携わる必要がある。

その教育が苦手だった。学生と心を開いてコミュニケーションをとることに面白みが感じられなかったのだ。

研究仲間と会話をすることには非常な面白みを感じるのに、レベルのまだ幼い若い人たちと話をするのに面倒くささを感じたのは、若い人たちへの愛情に欠けていたからだと思っている。

研究につかれると、家に帰ってカミさんや子供たちと一緒に過ごすことを何よりも愛した。

つまり家族以外の第三者に対して、愛情を感じられなかった、連絡や調整はあっても、深い交流をしようという気にならない。とすれば、学生を教育し、育てることにはならないのは当たり前だ。

***

長期間、大学という場で過ごしていると、大体の傾向が分かってくる。学生を愛し、学生の成長に強い喜びを感じ、うるさがられても若い人の面倒を見る人は少数である。

「教師」に適している性格を持っている人は大学では少数である。おそらく(これは想像だが)まずは学力で選抜される小中学校の教師もまた「教える」ことに本当に性格がマッチしている人は案外少ないのではないだろうか?

人に信頼してもらって、できないことが出来るようになるまで教え、迷っているときには何時間でもつきあい、人が成長する姿が自分のことであるように嬉しいというのは、才能の仕事ではなく、形はどうあれ愛情のなせることである。そんな愛情を持てるのは、そういう性格であるからだ、としか言いようがない。

その愛情は、おそらく博愛ではない。気に入った弟子を愛するのである。であっても良い教師というのは得難い存在には違いない。たとえ疎んじられた少数の弟子からは批判的に話されるとしても、多数の人を育てるというのはそれだけで素晴らしいものだ。

それほどまで良い先生というのは得難い。「学校」という場においてすら、良い先生は少ないものである。