2018年10月5日金曜日

雑感:『新潮45』の表現の自由をめぐって

LGBT問題で『新潮45』が右翼論陣に肩入れしすぎて、一部世間の虎の尾を踏んでしまった。猛烈な反発が巻き起こり、遂に廃刊となった。すると、これが契機になって、これは表現の自由の侵害にならないのかというので、またまた論争が起きているというのが現在の世相である。

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「表現の自由」という基本的人権をめぐってはこれまでにも投稿したことがある。たとえばこんなことを書いている。

表現は(基本的に)自由だが、それを聞いて怒る人も怒る自由はあるわけだ。決まっていることは、紛争の決着は腕力によって私的につけるのではなく、裁判で決着させる。公権力以外に力の支配に頼るべからず。これだけである。

元少年Aが出版した『絶歌』が世を騒がせている。

中年以上の人は「よくない」と反応し、若年層は「こうしたことを伝えていくという意味では必要かもしれない」という風に、世代間でかなり違いがあるようだ。

結論的にいえば、小生、元少年Aが非難されるのは当たり前だと思う。
(元記事)2015年6月12日「この数日の雑感―告白本の出版、表現の自由」

表現にせよ、結社にせよ、思想・信条にせよ、日本では憲法によって自由が認められている。 特定の思想や信条が、行政によって、法律によって、禁止されることはない。

しかし、自由であることは、イコールその人が責任を負担するというのがロジックだ。

全て行動というのは、自由意志の上に責任が発生する。誰か他者の命令に服従する立場にあるならば、その人の行動によって生じる結果は命令を下した者が責任を負うべきだ。命令を下した者に意志の自由があるならば。自由意志と責任が表裏一体と考えるところに近代法の基礎がある ― 決して普遍的な考え方ではない。必然と自由、神の意志と人間の意志との関係はキリスト教思想においても深い対立がある(と聞いている)。

何を言っても構わないが、言えば傷つく人がいれば、傷ついた人は怒りを感じるだろう。そのようなことを言うなとも主張するはずである。言うのを止めなければ実力行使にでるかもしれないが、これも言う側は予想しておくべきだ。これらをすべて含めて憲法が定める裁判所で公の判決を仰ぐ。これが現代社会の基本ルールである。

雑誌「新潮45」には、廃刊を選ばせるほどの社会的バッシングが集中したが、おそらく継続をしていれば販売部数は伸びたのではないだろうか?そうすれば、反対勢力は不買運動を展開したであろう。これが営業妨害であると同誌の編集部が判断すれば訴訟を起こして争えばよい。ロジックはこうなる、と。小生はそう思うのだな。

激高したリベラル派による「社会的制裁」は、「ひょっとすると出版の自由、表現の自由を侵害しているのではないか」とも思われるが、別に実力行使をしたわけでもない(と聞いている)。極端な内容の記事に対して、これまた極端な反論が続出しても、これ自体は当たり前である。自らの意志で書き、それを出版したことへの責任は執筆し出版した側にある。

その責任を廃刊という形で負担したのは、「俺なら違うなあ」という形の結末であった。

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