2018年10月23日火曜日

一言メモ: 「弁証法」なるものが分かった気がした

夢の中でエラく難しいことを考えていた。覚めると、具体的内容のほとんどを忘れてしまったが、「弁証法とはこういうものを言うのか」という妙な納得感だけが頭に残った。

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自然について、あるいは社会について、ある認識のしかたがある。これを「命題」とか、「仮説」という事が多い。

同じ現象について、二つの異なった認識があるとき、どちらかが正しく、どちらかが間違いであると考えるのが普通である。

もちろん、上のような議論を進めるときは、提示されている二つの仮説(あるいは命題)のどちらかが真であることが明らかである根拠がなければならない。つまり、両方が誤りであるという可能性は排除されていることが必要である。

さて、二つの仮説は互いに矛盾しており、いずれか一方だけが真である(というロジックになる)。こんなとき、弁証法は一方を「テーゼ」、他方を「アンチテーゼ」と呼ぶ。この言い方は小生が大学生の頃に非常に流行していた言葉だ。が、正直なところ、小生にはよくわからなかった。まして、生じている矛盾を「アウフヘーベン」した結果である「ジンテーゼ」とは何が何だかわからないものだった。どちらか一方だけが真であるなら、正しいのはどちらであるかが問題となるのは明らかだ。それは「実験」によって識別するべきだ。小生にとって、弁証法は屁理屈にもならない、クズのような議論に思われたのだ、な。

なので、弁証法を盛んに重宝がるマルクス経済理論を研究する人たちも、とてもリスペクトしようという心境になれない、これは自分の方が頭が悪いのじゃあないか、そんな気になることもママあったのだ。

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夢の中で考える、というかイメージしたのはこうだ。テーゼ(A)とアンチテーゼ(B)は時間的にか、空間的にか、限定されたレベルで獲得される認識である。より一般的でハイレベルな観点に立てば、AもBもより一般的な概念についての理解に至る具体例に過ぎない。Aが正しいともいえるし、Bが正しいともいえる。AとBのいずれをも包含する真の存在の現れ方として、一見矛盾するように見える二つの認識がある・・・

言葉にするのは中々苦労するが、まあ、上のような納得感が目覚めると残っていたのだ。

こんな風な理解の仕方というのがあるのか・・・。よくは分からないが、若い時分から気になっていた点が「氷解」したような感覚だ。

とはいえ、なぜ今になって・・・最近は考えたこともないのに。まったく人間の頭の働き方というのはよく分からないところがある。

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であるとすれば、上へ上へという認識がここから出てくる。

正邪善悪もまた一般的存在がこの世界に立ち現れるときの千変万化する姿の一部にすぎず、正しいことは善く、邪なことは悪いという認識のしかたそのものに意味がないというロジックになる。どちらも同一の一般的存在の複数の側面にすぎないからだ。

人間世界では正義と悪が対立しているのではなく、どちらもより次元の高い同一の存在が持つ属性の一部である・・・。このような世界観から「全ては合理的である」という酔っ払い哲学まではほんの一歩である。

ただ経済発展プロセスを弁証法的に理解するというマルクシズムは理解しきれない。「上へ上へ」ではなく、「下へ下へ」と人間の生存の物質的基盤にまで下降すれば、古代的生産様式から封建制的生産様式、更には資本主義的生産様式へと進む、経済発展史が紡ぎだされる。どれも正しいとか誤りという価値判断とは別の、より一般的な力の現れである、と。まあ、こんな議論だったのだろう。今更ながら、そう思い出したりしている。

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