2012年5月17日木曜日

陰謀史観が当てはまるかもしれない例 ― 電力・KY・ギリシア問題

<陰謀史観>という見方がある。善きにせよ悪しきにせよ、世の中の出来事の背後には全て<黒幕>がいるという哲学である。なるほど人間社会の歴史は自然現象ではなく、人間の意志が原因で進んでいくものだ。事故や内乱や戦争は、ある人間集団の、その人間集団の指導者の意志がそれを求めていたからだ。そう見る訳である。太平洋戦争の開戦を余儀なくされたのは日本潰しを狙ったアメリカの陰謀である、そうかと思えば、太平洋戦争は日本の指導層による共謀(Conspiracy)であるとみる。つまり陰謀史観であります、な。

まあ太平洋戦争はともかくとして、最近、これはひょっとすると陰謀史観が的を射ているのではないかという現在進行中の事例に思い至った。

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一つは、稼働原発ゼロという今の状態である。確かに「安全である」ことを証明する義務が政府にあり、ストレステストまでをも義務づけたからには、安全性の証明は限りなく難しくなった。それ故、稼働原発ゼロに至り、電力需給は綱渡りになった。

理屈はそうなのだが、もし昨年に浜岡原発を停止させていなかったらどうだったろうか?おそらく法的手続きにそって、技術的な安全性が確認された原発から順に、淡々と再稼働されたことだろう。電力不安はなく、震災復興と福島第一原発の後処理に全力を傾注できていたであろう。

しかし、その場合でも東京電力の福島第2を再稼働するのは無理である。新潟・柏崎刈羽原発の再稼働も、福島県の現状が変わらない以上、非常に困難ではあるまいか?というか、東京電力が同一の企業組織であるまま、首都圏の電力需要を原発再稼働でまかなうことは、社会心理的に不可能に近いと思うのである。

であれば、いまの電力供給体制を前提すれば、首都圏の電力価格と首都圏以外の電力価格に大きな格差が生まれるのは必至である。これまでは首都圏の電力価格は、全国でも割安だった。それが急激に逆転するだろう。おそらく金融機関、IT産業のデータセンター、サーバー類は一挙に首都圏から流出するだろう。部品・パーツなど技術力をもった中小企業も、東海、近畿、東北、北陸など首都圏外の適地に移転すると予想される。これでは首都圏内の経済が維持できない。首都圏は、3.11の巨大津波には襲われなかったが、電力価格の構造変化という経済的津波に飲みこまれるであろう。

全国一律の原発停止措置は、「首都圏経済の保護」を目的とした霞ヶ関による陰謀ではないか?これが<陰謀史観>、その一である。

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二番目の事例は、所謂<KY>と関係する。

今の日本でカゼをよめない奴というのはネガティブな形容である。最近、国立大学で開催された新歓コンパで、上級生が一年生のコップにつぐ酒を断りきれず、多数の一年生が急性アルコール中毒となり、救急搬送されるという事件が発生した。「いえ、僕はもうソロソロ止めておきます」、このようにハッキリと言いにくい雰囲気なのだろう。「KY!」というのは、その昔、武士が臆病者よばわりをされるのにも似たダメージなのだろう。

小生の幼少年期は、少し違った雰囲気であったようだ。たとえば「正しいと思ったら一人でも正しいと言いなさい」、「敵幾万人ありとても我ゆかんという気持ちをいつも持ちなさい」などなど、むしろ風に逆らう、多勢に無勢でも、最後まで自分を貫けというか、そんな言葉を頻繁に、耳にタコができるほど、色々な大人から聞いた記憶があるのだな。何か不祥事があった後の学校のホームルームでも、「その他大勢に流されてお前もそれをやったのか」というのが最後通牒的な叱責の言葉であったと覚えている。今の「KY!」、「かぜを読めよ」というのは、余りにベクトルが違っているのだ。

小生、これは文部科学省による<陰謀>ではないか、と。だって学習指導要領。これを自由に議論すれば、もうもちません。中央の指導には誰も従わないでしょう。だから「言うな!従え!」と。画一的教育システムを死守する。そのための<KY批判運動>、<KY批判教育>ではないのか。小学校から積み木を一つ一つ積み重ねるように、我を張らない、流れを尊重する教育を実践している。官庁の権限を守るための<KY>ではないのか。これまたKY=陰謀なのかもしれんなと、そう感じるに至ったのであります。

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もう一つ、ギリシアの債務問題である。

英紙としては日頃見ているDaily Telegraphは少し右よりである。しかし左翼系のThe Guardianもこんな報道をしている。
Sometimes, just sometimes, economics and politics are like physics – one can recognize immutable forces. One of those times is now, asGreece is inexorably pushed out of the euro. It took no particular talent to have seen this coming, just the recognition that it has always been a fantasy to believe that the Greeks would democratically choose to destroy their economy for the better part of a decade in order to pay foreign creditors.
The fact is that Greece never was a suitable member of the eurozone. That the Greek economy was extremely inefficient, that corruption was rife, that the government budgets were perpetually out of control, and that the official statistics were not to be believed were widely known. But, as in many marriages, Greece's entry into the euro was a triumph of sentimentality and wilful blindness over realism. (出所:The Guardian, Monday 14 May 2012 19.49 BST)
そもそもギリシアのユーロ圏加入に合理的根拠はなく、それ自体、何か得体の知れない心情とか理念がまかり通ってしまった結果であった、と。ここまで言うかなあ。そう思ったりもするのだが、英国からみれば、全体が一つの壮大な共謀とその失敗劇に映るのかもしれない。 <共謀>・・・、まあ、そうなのだろうね。<欧州>という共通の家を構築しようと言うのは、独仏主導、小国参加による共謀でなくて、何であろうか?

であるので、これまた陰謀史観が該当する事例になるかもしれない。

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