2012年5月13日日曜日

日曜日の話し(5/13)

孤独死や無縁死の増加をどう考えるか、報道されることが増えている。先日もこんな報道があった。
賃貸住宅での孤独死について、都市再生機構(UR)が昨年秋、死後1週間以内に遺体が発見されたケースを統計に含めない方針を決めたことが波紋を広げている。URは「亡くなった瞬間に1人でも、孤立していたとは限らない」というが、孤独死対策に取り組む団体は「期間を区切ると実態が見えにくくなる」と反発している。相次ぐ孤独死の現実をどうとらえるべきか、関係者の苦悩が続く。【山寺香】(出所:毎日新聞5月11日(金)12時28分配信)

社会の知恵が求められているのか?社会の同情が求められているのか?支援事業を支える人が求められているのか?人を雇うカネが求められているのか?ビジネス展開するためのビジネスモデルが求められているのか?何が求められているのか、そもそも着眼点すら整理されきっていないのが現状だろう。

しかし、死に方の問題を放置しておくと私たちの暮らすこの社会が、どのような社会に変貌していくのか想像もできない、そんな潜在心理というか、恐怖があるのも事実だろう。


 巨勢金岡、餓鬼双紙

巨勢金岡(こせのかなおか)は、古代の飛鳥時代、白鳳時代、天平時代を通して、ずっと中国文化の影響下にあった日本美術を、国風の「新様」へと導いた所謂<大和絵>の創始者である。平安時代の初期、臣下の身にして初めて関白に就任した藤原基経の後援を受けたというから、800年代(9世紀)の画家である。

当時の日本国の人口は総計Ⅰ千万人にも満たなかったはずである — Angus Maddisonがいま手元にないので断言はできないが、まあ、この前後のはずだ。それでも上の作品に観るように、京の都あるいはその近郊で、人間の死や悲惨を目にすることも多かったに違いない。但し、巨勢金岡の真作は一品もないと言われている。全て他の人の手になる模写である。

平安時代の邸宅では間仕切りのための屏風や障子が多用され、それには色々な装飾絵が描かれていた。それらは全てこの世から消え去ってしまい、残っているのは平安後期にかけて生まれた絵巻物くらいである。だから東京国立博物館でも、京都国立博物館でも、絵画分野で検索をかけると保存状況の良好な仏画はともかくとして、風景や街を描いた世俗絵は、12世紀より以前の作品はほとんど出てこない — これは西洋美術にも当てはまることだ。

カミさんとはこんな話しをした:
「孤独死は一週間たたないと孤独死にならないのかねえ?」
「一週間ほおっておかれると、やっぱり孤独死なんじゃないの?」
「それなら一人で死んで、三日も誰も来なければ孤独死だって判定すればいいのにねえ・・」
「そうだね。だけど年をとると、どうしても一人でいる方が安気だよ」
「もっと哀れなのは、無縁死のほうじゃないのかなあ」

遺体を引き取る人がいなければ自治体が火葬をする。それでも家族が遠方にいれば連絡をとる。しかし「遺灰は適当に処分して下さい」と伝える家族が多いらしい。そうした無縁死のほうが、はるかに人生の悲哀を表している、と。小生はそう感じたりする。

巨勢金岡の描いた餓鬼双紙は現実世界ではないのだろう。悲惨のイメージだろう。西洋の人間も大体は同じように想像していたろう。このように死が身近にあるなら、人は死の前と後を厳しく区別せず、いまの生の延長に死後の生を置くように自然に発想するだろう。古代ギリシア時代にソクラテスが死後の世界の在り方を自らの哲学の基礎とし、死後の在り方に基づいて今の自分の生を定義しようと考えたのは当然である。そもそも彼は哲学者というより、盾と長槍を持って戦う市民戦士でもあったわけだから。

死を前提しない、死の在り方を前提しないモラルなどはあり得ないのかもしれない。死を語らずして、生きることだけを念頭において、いくら倫理やモラルを語っても、所詮<空念仏>、<馬耳東風>、話すだけ無駄なのかもしれない。いつか自分は無になり、死ねばただのゴミだと思うなら、せめて生きている刹那は、思う存分享楽に耽るのが合理的選択というものだ。有限期間の繰り返しゲームでは決して集団合理的な協調は成立しない。節制と自己犠牲が可能になるのは、いま生きている瞬間だけが自分の時間ではないと認識することが、大前提である。これが基本的なロジックだ。だとすれば、孤独死や無縁死について考えることは、生きるためのモラルを再興する一つの契機にはなるかもしれない。


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