2012年6月29日金曜日

米国FRBはQE3を採るのか?

アメリカ景気の動向が微妙になっている。

まず目を引いたのは日経の小さなコラム記事だった。


(出所)日本経済新聞、2012年6月23日

ここで言及されている指標は市場予想の予測誤差がプラスに出るかマイナスに出るか、それをインデックス化しているようだ。これが最近マイナスをつけ続けている。アメリカ経済は予想を下回る動きになっているわけだ。

ただ直接本日の話題とは関係ないが、もしプロフェッショナルの予測誤差が上の図にように本当に出ているとしたら、どてもプロとは言えません、な。明らかに自己相関がある。利用可能な情報を、最も効率的に利用した予想を形成しているなら、予測誤差はランダムに出るはず。定番のARIMAモデルにおいても『予測誤差はランダムのはずだから』という前提を置いてモデルを推定する。というより、上の図は和分された非定常時系列であり、それもランダムウォークのように思える。ということは、そもそも現実とは全然マッチしていない、見当はずれの予測方式で将来予測をやっている、それが所謂「プロフェッショナル」である。まさかねえ・・・・しかし上の図をみると、そう思っちゃうのですね。まあ、上のような形で予測誤差が出ているのは、<色々な意味で>感心しない。

さて、話しを戻そう。ブログ”Pragmatic Capitalism”の投稿。今月26日付けになっている。
Copper which is used in many facets of industrial production and is a gauge of global economic activity has declined recently. 
... .... ... 
Furthermore, this decline in inflation expectations could give Ben Bernanke and the Federal Reserve the green light to embark on another round of balance sheet expansion in Quantitative Easing. While past policy action has usually coincided with lower levels of inflation expectation (and of course signs of weaker economic weakness), the tea leaves suggest that Fed action might be right around the corner if the current trend continues. Stay Tuned.
 他方、米住宅市場にはプラスの兆候も出ている。こちらはブログ”Calculated Risk”から引用させてもらった。

Nick Timiraos at the WSJ has a nice summary: Why Home Prices Are Rising Again (According to Case-Shiller)
Yes, this was pretty easy to see coming. A key question is: Did nominal house prices bottom in March or will there be further price declines?
I think it is likely that prices have bottomed, although I expect prices to be choppy going forward - and I expect any nominal price increase over the next year or two to be small.
It wasn’t hard to see this coming: Home prices rose in April after a spring that bought more buyers chasing fewer homes.

こちらは少し以前に遡った記事で、本年1月までの住宅価格の動きから投稿されたものだ。価格の動きを見ると確かに米国の住宅価格調整は終盤にさしかかっていることを窺わせる  ― それでもジリジリと弱含みを続けており、住宅ローン債権の不良化は依然進行中だとは思う。

米国内住宅価格、国際商品市況などの物価面、さらには大統領選挙といった背景を考えると、マネタリーな量的緩和が採られる可能性は高まっているとも言えよう。

カギとなるのは雇用者数の増減だと思われるが、これは既に5月の数字について以下のような報道がされている。
[ワシントン 1日 ロイター] 米労働省が1日発表した5月の雇用統計は、非農業部門雇用者数が6万9000人増と、昨年5月以降で最も低い伸びとなったほか、失業率は8.2%に上昇、昨年6月以来の悪化となり、米連邦準備理事会(FRB)に対する金融緩和圧力が今後強まる可能性もあるとみられている。(6月2日配信)
 FRBの次の一手が<要観察>である。

2012年6月27日水曜日

メモ ー 民主党内のいざこざ

民主党内から党議違反の造反者が大量発生して執行部が困惑しているとか、首相は「厳正に対応する」とか、幹事長は除名などの厳罰は避けるとか、見るに耐えないほどの醜態であり、このまま行くと何から何まで真っ暗闇、いや違う、グダグダ状態になって、日本国から政治が消え失せ、あとは霞ヶ関官僚集団だけが活動することになろう。

メモに残しておこう。

首相は(もう安心して)幹事長を更迭するべきである。その後、小沢一郎議員を除名し、他の反対票を投じた議員にはすべて離党勧告をするべきだ。喧嘩をすれば、必ず支持率は上がる。小沢グループの造反に国民はまったく共感していない。将来構想の妙案なくして「反増税」、「反原発」を唱えても活路はない。今回の造反は「空振り」であることが明瞭になりつつある。離党しない議員は次回選挙で公認せず、新候補をたてるのが正攻法だ ー 次回、民主党はそれでも敗北するだろうが筋を通した方が評価は必ず上がる。

2012年6月26日火曜日

日本人が「自由競争」を見る目はなぜ冷たいのか?

日本では、特に霞ヶ関中央官僚や大手マスメディア経営陣にその色合いが認められるのだが、<自由競争>というものに対する忌避感が、とても強いと思うのだ。一体、なぜだろうか?

小生は、大学では経済学を専攻し、いまは統計学でメシを食っている。その経済学だが、当事者の自由な意思決定をとても尊重する。自由な意思決定をする当事者たちが、自由に交渉をする時に、社会には公正な価格が形成され、取引される商品の量もバランスのとれた量になる ― もちろん交渉上有利な地位の濫用は公的機関が摘発することを前提にしている。フェアネスという目線がそこにはあるのだな。小生の若い頃にまだ強力であったマルクス経済学陣営は、現実は問題だらけであり、改革が必要であり、究極的には革命によって資本主義システム自体を改変する必要がある。そう考えていた。この理念は、結構、いまの日本人の本音に響くかもしれんねえ。


なぜこれ程、日本人(と言ってもいいと思っている。まずは官僚集団だろうが)は<自由競争>なるものを嫌悪するのだろう?<競争>なるものを胡乱気なまなざしで見るのだろう?これをずっと、小生、不思議に思っておった。ところが、先日、そのヒントかなと思われる点に思い至った次第だ。

× × ×

ことは人間観にあるようだ。ということは社会観にもつながる。

人は三つの部分から構成されると古代ギリシア人は考えていた。一つは「頭」の部分、これは理知を担当する。二つ目は「胸」。勇気や愛情、そして怒りの感情は胸にわいてくる。例えれば人間にひそむ獅子の部分だ。三つ目は「腹」であり、そこには食欲、物欲、性欲、金銭欲、支配欲などなど際限のない欲望が溜まっている。ここには多頭大蛇、つまりヒドラが棲んでいる。ヒドラは常に理知が示す方向に反逆を試みる。時に理知と欲望が真っ正面から対立し、その人が煩悶に苦しむとき、怒りは必ず理知に味方する。古代ギリシア人はこう考えたようだ。どちらにせよ、人間は矛盾に満ちた存在である。

人間が矛盾に満ちている』ということ自体は、東洋と西洋でそれほど違った認識はしていないようだ。ただヨーロッパの哲学と(特に)日本の思想を比べてみてすぐに気がつくのは、ヨーロッパでは最高善として<幸福>をおいている点である。<本当の幸福>とは何であるのか?幸福を実現する価値とは何であるのか?文字通り<幸福>について真剣に考え抜いてきたのが、西洋の思想の特徴だ。アングロサクソンで優勢な功利主義哲学もその同じ流れにある。中国流の儒学も壮大な学問体系だが熟知していない。少なくとも福沢諭吉は近代化を進める上で儒学は敵だと言っていた。

その<幸福>だが、それは生きている人間に定義される概念だ。なぜなら存在するのは一人一人の人間であり、生まれるのも一人、命の終焉である死もまた個人に訪れるからだ。社会は人間集団がつくった仕組みに過ぎない。つまるところ一人で生まれて、一人で死んでいく人間存在について<幸福>を最高の善と見なしている。これは神を信仰することを通じて救済を願う宗教的心情にも根底でつながっている。徹底した行動で個人の心に宿る神と自分自身とのつながりを主張し、ローマ教皇の宗教行政システムを破壊したのが、16世紀のドイツで勃発した宗教改革である。マルチン・ルターがはじめてドイツ語に訳した聖書は、ドイツ語文語体を創造したといわれ、今もなお読まれ続けている ― アルプス以北と以南には確かに感性の違いがあるようだ。ウェーバーの”プロテスタンティズムの精神”に論拠を求める必要とてない。その感性の違いがその後もずっと引きつがれてきたことは、いまの欧州事情を瞥見していても分かることだ。

× × ×

さて話が拡散してしまった。

日本ではそもそも<幸福>が重要な論題になることはほぼ皆無だ。最近は国民幸福度指標などが研究テーマになっているが、それは海外の研究例の輸入である。

日本においては、個人が自由に行動する場合、それは欧米的価値基準を当てはめれば<幸福追求>という誰でも認めなければいけないはずの行動だが、日本では幸福追求はそれほどには尊重されてはおらず、<欲望>のままに勝手気ままに振る舞う、と。そんな冷たい目で見られることが多いのではなかろうか。小生、そう思うことがままあるのだが、これはねじ曲がった根性なのだろうか?少なくとも政策当局は国民をそんな目で見ているのじゃないか。<自由>とは欲望のままという意味であり、<競争>とは欲望の強い者に勝利を与える。そう見る人が日本人には多いのじゃあないか。だとすれば、競争市場メカニズムに嫌悪感をもつのは当然だ。

いわゆる<ヨーロッパ的個人主義>がもたらした成果は、(多分に建前にすぎない面もあるが)神がいなくとも人は欲望のままに行動するようにはならない、と。この自信、というか洞察・倫理感から発している。キリスト教会からの独立であるな、これは。幸福は、父なる神がいなくとも、キリスト教に帰依する心がなくとも、人間が自分の力で実現できる。それが18世紀から遅い国では19世紀にかけての「啓蒙時代」、世に浸透したヨーロッパ哲学革命である。より良い社会をつくる仕事は、理知と愛が欲望に打ち勝つ独立した個人が集まってなすべきことである。そういう誠に立派な建前、というか社会理念が歴史の地層に埋もれている。この精神的古層がヨーロッパの個人と、日本の個人の資質を分けているように思うのだ、な。人間の理智が神を継承しているから、「神の死刑宣告」がなされても、人間は堕落せずにすんだわけ。詩人ハイネはドイツ古典哲学について名著を書いているが、この辺の本筋を見事についている。

ズバリ言えば、「西洋社会」(こうとでも言うしかないでしょう)において、「市場均衡」は物欲のバランスでもないし、強欲の勝利であるとも考えていないのである ー 結果として強欲資本主義化しているというのは、市場の病気であって、欠陥であって、それは治せるものであると考える。その治す主体(通常、政府であり議員である)は多数の欲望に目を向けることなく、あくまでも理智と愛(=社会愛)に基づいて、治療方針を決定するべきだ。欲望から行動するのは恥ずかしいという感覚であって、議論は、当然、こうなるのだ、な。少なくとも理念としては。

日本でも15世紀から16世紀にかけて宗教一揆が全国に広がった。しかし本願寺が織田信長に敗れることで、封建大名の武威が宗教勢力を押さえることができた。その後、あらゆる宗教組織は禁止されるか、江戸幕府の権力機構に組み込まれた。個人の主観的価値は社会秩序の維持という大目的に従うことが当たり前になった。個人の自由を広く認めることは、彼らの欲望を肯定することと同じである、と。当然のようにこう考えるとすれば、それはこれまでに滅んだ日本の政府が政治的に作ってきた<支配のツール>である。これと同じようなことを丸山真男がかつて書いていたらしいと最近何かで読んだのだが、まだ確認していない。確か加賀一向一揆の歴史的意義についてだったと思うが・・・


歴史家というか、小説家の井沢元彦は、シリーズ『逆説の日本史』の中で「日本が、現在、宗教問題に苦しまずにすんでいるのは、織豊政権、江戸幕府がそれを解決してくれたからである」と、そんな指摘をしている。井沢氏の書く本は大変面白いのだが、小生は、この点ばかりは全く反対の見方をしているのであって、それは人間的精神を社会秩序に服従させる仕掛け、文字通りの”Japanese social mechanism”であったと受け取っているのだ。


つまり日本国では ― OECDメンバーでもある先進国では想定外のことだろうが ― いわゆる「人間解放」がまだ十分終わってないのじゃないか?そういうことであります。

2012年6月24日日曜日

日曜日の話し(6/24)

20世紀ドイツ表現主義派の一人であると目されながら、実際には仲間と共同行動をとることは少なく、特に日本人にとっては非常にマイナーな芸術家であると思われるエミール・ノルデ。前の投稿でとりあげたが、ノルデが描いた花の水彩画は大変高い評価を得ていて、いま画廊に並んでいても好評をえるような気がする。実際、日本でもノルデ展が開催されたことがあったことを知った。2004年のことだから、8年前になるか。


Emil Nolde, Red Poppies, 1920, Philadelphia Museumu of Art

和紙に描かれていて滲みの効果がいい雰囲気を醸し出している。小生もノルデの作品なら何でもいいから自分の部屋に飾りたいものだが、高いだろうねえ。

先日届いたiPadでWacom製のスタイラスペン”Bamboo Pen”で計算をしたり、メモを書いたりしている。昨日、同社が提供している手書きメモ・アプリ"Bamboo Paper"を使ってみた。老舗アプリであるPenultimateも十分上質の書き味だが、Bamboo Paperはその上をいきます、な。ペンとの相性がいいのだろう。特にインクの色味と画面に表示される紙の材質感が素晴らしい。こんな落書きをして、挿絵を入れておいた。
桜は心にいたすぎる
梅は孤独で寂しすぎる
藤は優雅だがふりむかない
紫陽花はしくしく泣いてばかりだ
向日葵は笑いさざめくが私の顔をしらない
萩は祖母のように心配ばかりする
桔梗は私からはなれていく
山茶花は忘れっぽい友だ
芥子はノルデが愛した
小沢一郎の妻が告発したと言われる文章が出回っているよし。鳩山派の二、三人は消費税率引き上げ法案に造反するという報道だ。政治家は闘争を嫌がっていてはいけない。昨日、今日、新聞が伝えているような状況が嫌だと言うなら選挙などに立候補するべきではない。それでもナチス政権幹部で広報担当相であったヨーゼフ・ゲッベルスがノルデの水彩画を好んでいたというのは、甚だ上質の趣味であったものだと思うなあ。ノルデは、ゲッベルスのような人間のために、ケシより泥に咲く睡蓮を書いてあげるべきだったのでしょう、な。ゲッベルスと言うと、以前、第二次世界大戦中に大指揮者フルトヴェングラーがベートーベンの第9を指揮をした時の情景をYouTubeで見つけた。探してみるとまだあった。映像中にゲッベルスとリーフェンシュタールに似た人物がいたと思ったが、他人の空似かもしれない。




2012年6月21日木曜日

民主党、チキンレースの行方を予想する

民主党の主流派対反主流派の政争。どうもイニシエに自民党内で繰り広げられた権力闘争よりは余程レベルが小規模で、少しも迫力が伝わってこないのだが、民主党が定期的に公開するロードショーくらいの意味合いはあるようだ。

覚え書きまでに、現時点の個人的予想を書き記しておきたい。

民主・主流派と自民・公明が合意した以上、民主党内の反主流派がどの位の数に達するか不確定だが、どう頑張っても法案自体は通る可能性が高い。参議院でもそうだ。だから、いくら民主・反主流派が力こぶを入れても可決を阻止するには力不足だ。結果は多分出せない。それでも反対だけは貫くというのは、政治家としては自爆である。自爆ということは、つまりパフォーマンスである。パフォーマンスの狙いは観衆をうならせることである。それには<数と団結>が欠かせない。

昨年の菅首相不信任案騒動でもそうだったが、今回もキーパーソンは鳩山由紀夫元首相であろう。もしも野田首相が、法案可決を確実に担保できるなら、それと引き換えに早期解散の約束くらいは応じているに違いない。どちらにしても任期満了選挙が近づいているのだ。だとすれば、最大の目的を確実に達した上で、造反者を大量除名し、空いた選挙区に新候補を立てるという戦術を選ぶ誘因がある。どうせ負けるにしても、最悪の反主流派候補を立て続けるよりは、自分が選んだ候補者の方がよっぽどマシであろう。

首相がそういう行動に出る誘因をもっているだろうことは、小沢派も鳩山派も計算に入れているはずである。小沢一郎は明治の西郷隆盛のごとく子分と運命をともにすることを厭わないだろうが ー 年齢も年齢である、それにもう十分長期間活動したではないか ー 鳩山由紀夫は民主党を出ては行けないに違いない。名誉を失う事態も避けたいと考えるだろう。昨年もそうであったが、鳩山元首相の背信により、小沢一郎は人生最後の敗北を喫すると予想しておく。

2012年6月20日水曜日

G20首脳会議とオウム信者の近況、後者は井戸端会議なのですか?

メキシコ・ロスカボスで開催された<G20>でも世界経済に関する本質的な提案は出てこなかった。ギリシアの再選挙で反財政緊縮派が政権を握る事態は回避されたが、それでも与野党の勢力は拮抗しており、ユーロ離脱と財政緊縮路線厳守のいずれをとるか、選択は容易でない。この二つは、ドイツの対欧州経済戦略にも依存するので、今のままでは両立不可能だ。それ故、状況は<塹壕戦>というか、持久戦模様になった。というか、ギリシア的な小国がフラフラ状態のまま、それでも財政緊縮努力だけは続けており、そんな欧州不安からユーロ・じり安になる現状は、そもそもドイツの国益に適っている。ドイツが率先して、現状を変えようとする誘因はないはずだ。ドイツは小出しに戦術を繰り出しながら、フランス、イタリア、スペインなどの南欧、英国とのバランスをとるだろう。ドイツに経済戦略変更を迫れるほどの大政治家は、いまのヨーロッパにはいないのじゃあるまいか?

G20の場では日露首脳会談も実現した。日本の国益とロシアの国益の二つを両立できる方法があれば、それを実行していけばいいが、鍵は北方4島だ、な。関係者も既に高齢で、関心を持つ人も減っており、領有権を「棚上げ」しながら経済的利得を追求することに対して、国民的反発は(全くなくはなかろうが)それほど心配する必要はないのではないか。自分たちの所得よりは国家としての原理原則にこだわるのであれば、目先のゼイキンが何パーセントか上がる損失は何でもないはずで、それよりは長期的な財政安定という本筋を優先するのが理屈にかなっている。この何ヶ月の議論を振り返ると、多くの人の関心は原理原則ではなく、自分たちの所得と利益にあることは明白である。経済的な日露交流拡大には日本人の多数が賛成すると判断するのがロジックだ。

それでも心配があるのだとすれば、領有権譲歩ドミノの引き金を引くことになるのじゃないか、これでしょうなあ。日本は領土よりは経済的利益をとる。日本経済の現状は外国にも周知のことだから、原理よりは所得、これが本音じゃないかと、そう外国政府が憶測しても不思議ではない。だとすれば、日本は本音を隠した方がよい。で、やせ我慢となる。やせ我慢だとすれば、張り子の虎なのだから、中国資本をじゃんじゃん導入すれば、いずれ日本も耐えきれぬようになる。とまあ、こんな議論をすることも可能だが、素人がちょっと短文を書いていても、このくらいは直ぐに思いが回る。とすると、これは真実ではないのだろう。やせ我慢ではなく、どこまでも永久に原理原則をつらぬくのが日本人なのかもしれない。

どちらにしても<G20>関連は、<世界>の話しだから巨大だ。その反対に小さい(と思われる)井戸端会議的話題もある。オウムだ。


最近、オウム真理教の主流派「アレフ」への入信が(特に、小生が暮らしている北海道では)加速しているという。逮捕された高橋克也が逃亡後17年を経た今もなお当時のままの信仰を全うしていることが分かり、オウム信者はそのことに大変勇気づけられているとのことだ。マスメディアはオウム信者の近況を報道しながら、公安当局在職者にも登場してもらいながら、オウムへの警戒心を明らかにしている。


いかにも下世話な話題に見える。奥様達の井戸端会議で話題になるのは、グループ・トゥウェンティ(G20)の成果ではなく、オウム信者であろう。それはG20が日本にとってはいっそう重大で、オウムは些末な事柄ということなのだろうか?


マスメディアや公安当局は日本のエスタブリッシュメントの一部である。首都圏で活動する大企業のビジネスマンもそうである。他方、一般に新興宗教に帰依しようとする人は、何らかの意味で社会から疎外されているか、不安を感じている人である。必ずしも反社会的感情を最初から持っている訳ではないにしても、特定の宗教団体を権力が押さえ込もうとすれば、信者は自分たちが日本社会からそのように処遇されていると感じ、潜在的な入信者層もむしろその宗教団体への共感を強めるであろう。宗教の場合、抑圧は実質的な応援に等しい。


日本の相対的貧困率(可処分所得中央値の半分以下の世帯割合)は、2009年時点で約15%に上がり、OECD平均値の10%をはるかに超えてしまった。一般にイノベーションが進行すると勝ち組と負け組が発生するので、所得分配は一時的に不平等化する。というか、大成功へのインセンティブを与えるので、不平等化したほうが良い。また別の場合もあり、所得分配は大企業が<市場支配力>を行使することによっても不平等化する。経済成長が加速しながら不平等化するなら前者であるが、生産性が停滞しながら不平等が高まれば、それは<独占の弊害>であることが多い。後者の不平等化が進む場合は、むしろ有利な地位の濫用や不当利益の摘発、さらには企業分割などを果敢に実行し、市場のパフォーマンスを発揮させる方が事態を改善する。機会均等の原則を貫くと言ってもよい。日本の不平等化進行は公正取引委員会と旧・労働省(現・厚生労働省)の<サボタージュ>である可能性が高い。市場シェアではなく資本関係に着目するべきだ。これが小生の見方だ。


このように議論を進めると、現在のG20とオウム報道のどちらが日本の将来により関係が深いか、かなりハッキリすると思うのだ、な。奥方たちは国際経済学やマクロ経済学にも、独占禁止法にも無頓着だ。それでも主婦の直感は鋭い。そこで話されていることが実は日本国民には大事な話題なのだ。そういう見方も可能であろう。

2012年6月18日月曜日

文科省 ー 経営指導・保護・全面崩壊の方程式の再現?

1980年代末のバブルとその崩壊で日本の銀行組織内部に大量の不良債権が発生した。巨額の自己資本を失った以上、公的資金を投入するため何らかの手を打たないと、日本経済の成長エンジンが停止する。当時の(一部の)指導層はこの事実に気がついていたが、眼前の経済的混乱が政治的能力の劣化であると判断した国民は、時の指導者を信じて危機対応政策を急ぐよりも、むしろ政治改革への願望を強め、結果としてマクロ経済政策の抜本改変は後回しになり、従来型の公共事業拡大で急場を乗り切ろうとした。1997年以降の金融パニックは、アジア危機、ロシア危機など世界的金融危機もあるが、それは一つの背景であり、主因は後手後手に回った日本の国内政策であった。

一口に言えば、日本は20世紀の最後の10年間、カネの使い方を間違った。なくしたカネの巨額さに冷静さを失い、現実の確認をおざなりにして、生理的な反射反応を繰り返したとも言えるか。ここで世界に目を向けて発想転換していれば「失われた20年」も少しはマシであったはずだ。もちろん人によって物も言い様だ。とはいえ、事実の進行という点については、小生は上のように思っている。従来システムへの過信が失敗の原因だ。なぜそんな過信が生まれたかと言えば、「中央の指導と保護」が、つまり護送船団方式が共存共栄をもたらす正しい道であるという思想が(日本では)広く共有されていたからだ。そういう考え方自体が根こそぎ消滅したのが20世紀の終わりであったと小生は思っていたのだが、どうやら霞ヶ関ではまだ根強く残っているらしい。

× × ×

本日の道新4面に「地域貢献の私大支援」というヘッドラインが大きく出ている。
文部科学省は17日、環境や観光など幅広い分野を対象に、地域と協力する中小規模の私立大への財政支援を強化することを決めた。地域貢献につながる取り組みに私学助成を拡充し、本年度の増額分は数十億円になる見通し。
やれやれ、ホントにこういう感覚で震災復興計画を認可したり却下したりする霞ヶ関の姿勢こそが、いま日本経済の足を引っ張っている、地元のダイナミックな活力を抑圧している。そう言われているのではなかったか?懲りないねえ・・・というか、いったい今の中央官僚は、目と耳がどこに付いているのかと思いました。

学校経営指導をするから、統合、撤退など、生き残りについても助言に従いなさいということなのだろう。それでは駄目じゃないのか?「大学」という学校法人に執着することなく、学校組織の在り方そのものを自由化し、その一方で身に付けた学力を厳格に審査する体制に持っていかないといけないのじゃないか?

確かに学校経営管理も文科省の仕事の一つには違いない。しかし、どこでどうやって学ぼうが、習得した知識と技術が、必ずその人にプラスの報酬を与えるような仕掛けを作る方が、今という時代ではもっと大事な課題ではないか。技能検定、マイスター制、各種検定など色々あろうが、「自分の能力証明」、それも国際的な広がりでシグナリングできる仕掛けを整えれば、それだけでいい仕事に到達するチャンスが増える。いい仕事に就く環境をつくることこそ、教育に国が介入する根源的理由であるはずだ。大学単独でそういう学業証明・能力証明を学生に授与できる大学は、日本国内750校の中で高々100校程度であろう。そこに入れればよいが、入れなかった人たちには、国家が彼らを証明し推薦し、職業生活への道を開いてやるべきだろう。そのためのツールを作るべきだ。


以前、「平均値も理解できない大学生」報道について投稿したが、こんなことが話される状況を放置すること自体が、日本の学校システムの実質的破綻を示唆している、いや「示唆」というよりも、ズバリ、伝えている。


それ故、上に引用した道新の報道は、学校法人生き残り戦略に文科省がコミットしているようにしか見えない。学校という業界では<護送船団思想>がいまだ亡霊のように日本国中をさまよっている。金融パニックに懲りず、想定外の学校法人頓死ドミノ、学校パニックをひき起こしてしまうかもしれない。危険なやり方だ。自然淘汰にまかせる所はまかせ、広く国民にプラスの価値を創出する分野に予算を投入するべきだ。

2012年6月17日日曜日

日曜日の話し(6/17)

先日、アランの『プラトンに関する11章』を引用したことがある。忘れないうちに、同書の核心と思われる部分の一つを記しておきたい。それは人生という時間に深く関係していると思うから。
想起、前世、未来の生、プラトンはいったいどのようにそれらを理解しているのだろうか。 
わたしは幾何学を発見するのではない。それを(忘れていたのを)再び見いだし、再び認識するのだ。これは何を意味しているだろうか。次のことだ。私がそれを仮に経験していなかったとしても、私がそれを<理解>する以上は、わたしがそれを経験していたことがわかる、ということだ。・・・わたしはずっと知っていたのだ。それは、すでに前から、この私の面前で、<真理>であった。かくて時間は除去される。(思考においては)未来、現在、過去 ー 皆同時に存在する。
私がそれを再び見いだしたなら、それは私が見失っていたからだ。 
もしものが老朽するなら、そのものはずっと以前から死んでいたのだ。まさしくここにおいてこそ、君は、永遠に同一な自然を少しなりと把握してみるがいい。 【出所】アラン「プラトンに関する11章」第6章(森進一訳、ちくま学芸文庫)
プラトンと言えば「洞窟の比喩」が有名だ。それは、すべて人は暗い洞窟に閉じ込められているのだと例える。入り口には火が燃えていて、洞窟の外の出来事は壁に移る影をみて想像するのだ。外の世界を目にしたことのない人間は、影を実際に存在している物だと信じる。その影についてあれこれと議論をする。外の本当の世界が「イデア」と呼ばれ、影が「現象」である。先日話したサイコロと立方体の話しはこの一例であったわけ。

親しい人の中でも「自分自身」は最も親しい人間だ。その自分をどう認識しているか。いま現在時点における自分が「自分」であるとは考えない。過去から現在まで、更に未来にも生き続けていくであろう自分をすべてひっくるめて「自分」と考えているだろう。自分とは自分の人生全体にわたって存在している。他人が小生を見るときは、その瞬間時点における小生である。しかし、それは時間軸に投影された小生という真実在の影にすぎない。真に存在する「自分自身」は時間を超えたところに存在する。その存在を少なくとも自分自身は実感するだろう。 それが上の引用文で語られている「未来、現在、過去 ー みな同時に存在する」という考え方だ。自分以外の親しい友人をどう認識しているか。同じである。やはり時間を超えて「その人物」という存在を理解しているはずだ。いま見る友人は、「友人その人」が現在という時点に投げている影である。

真理は「発見する」のではなく「思い出す」という以上は、自分が覚えている自分自身よりも更に過去の時点において、自分自身つまり自分の魂が存在していたことになる。プラトンは前世をこのように理解する。だとすれば、前世における自分を基準にすれば、今の自分は未来における自分になるので、今の自分にも未来の生があることになる。かくして自分という存在は時間を超えて永遠に存在しているはずだという議論になる。「数学的帰納法」だね、これは。肉体は明らかに滅びるのに、自分は永遠に存在することが可能であるとすれば、魂の実在を認めるしかない。これがプラトンの霊魂不滅説である。

面白いねえ、こういう見方。若いときに初めてプラトンを読んだ時、小生、こいつは狂っているのかと思ったなあ。しかし、年数をおいて何度か目を通しているうちに、洗脳される感覚を感じ、一度、染まってしまうと思想になって、心の中の強固な軸になる。プラトンというのはどうもそんなところがあるようだ。欧州を乗っ取ったゲルマン人が洗脳されるはずだ。


Miro, Dona, 1974

上の作品はスペインの画家ミロの作品で"Woman"と呼ばれる一連の作品の中の一つである。他にも多数の"Woman"をミロは描いている。どれも人間の目で見る女性とは隔絶した形である。

つまりミロが描いたのは人間の目に映る女性の影ではなく、女性の真実在なのだろう。真実在の姿を人間の目に見えるイメージで表現するとすれば、実際の映像よりは上の作品の方がより近いはずだ。こう言えば<ミロのプラトン的解釈>になるかもしれないねえ。ただ、ミロは他にも多くの"Woman"を描いている。ということは、女性の真実在など、ミロもよく、というか全然、分からなかった。そういうことでもありましょう。

2012年6月16日土曜日

補足 − 「いままでのやり方では駄目だ」の世代対立

経済・社会・政治において「今までのやり方では駄目です」と言って、それが大成功をおさめると、それが即ちイノベーションになり、ニュービジネスモデルになる。しかしながら、ここ日本国では「今までのやり方では駄目だと思います」と言うと、「今までが間違っていたと言うのか?」と。そんな詰問が先輩の口から発せられることが多い。

これは戦略決定の是非と環境変化の有無を混同した話しだ。戦略決定では、賢いか愚かであるかが大事だ。環境変化の有無は、ライバル・状況をどう見るかという事実認識が大事だ。このように全体が情報分析になっているのだ。

× × ×

いまの状況をどう見るかですら合意は難しい。しかし合意はそもそも必要ではないのだ。ありうる将来を列挙する段階で見方が対立することは少ない。違うとすれば、どんな状況になりそうかという主観的確率であろう。しなければならない議論は、ありうる将来に応じて、どんな行動をとるかという<仮定上の議論>である。それをゲーム論では<戦略の決定>という。戦略とは<ライバル・環境に応じた行動計画>を指すのだ、な。

それでも、現状をどう読むかで、いま選ぶ行動は違ってくる。「今までのやり方は駄目なんです」と言う人と「間違っているというのか!」という人は、状況判断が違うわけだ。というより実質的には、頑張ってきた老世代と、これから頑張りたい青年世代との対立であることが多い。

× × ×

民族移動に応じて環境変化が激烈であった大陸諸国では集団的DNAのように戦略変更のモチベーションが引き継がれている。古くは中国戦国時代に「胡服騎射」を取り入れて軍事的勝利を得た趙がある。服装を蛮族のように変えて一人一人が騎兵となり戦車戦中心であった古代中国の戦い方を変えてしまったのだ。新しくは、高価な傭兵を中心に軍隊を編制して、犠牲を少なくする持久戦、機動戦を展開するという旧来のやり方を、徴兵を導入して安価な大軍を編成し、短期殲滅戦を展開した革命後のナポレオンのやり方がある。「勝つためにはやり方を変える必要がある」というのは、勝つチャンスに気づく、見つけることと同じであって、ただひたすら勝つことだけを考える姿勢がなした結果である。

ただマナーは大事なのだろう。やり方を変えるのは状況が変わったからであり、今までのやり方が愚かであった訳ではない。この点を認識しておくのは<和>を維持するには大事なことだろう。というより、状況変化を先読みして、それに応じた行動計画を準備し、その行動計画を次世代に託すというのが社会的な摩擦を最小化する、最良のソフトランディングなのであろう。この時、頑張ってきた上層部は「老兵は語らず、ただ消え行くのみ」。日本企業の社内文化で形成するべきことの一つとして、消えて行くマナーと否定するマナーがあろう。日本的な<和の文化>と<創造的破壊>を両立するには、触媒となるマナーを形成することが不可欠だ。

2012年6月15日金曜日

政治モデルはビジネスモデルのようにいかない、ここ日本では

税と社会保障で与野党協議が、難航というか、巡航というか、とにもかくにも匍匐前進の如く進んでいる。首相は政治生命をかけるといい、幹事長は継続審議でお茶を濁そうとしているようであり、自民党はやれと言い、与党内はやらないでくれという議員が多いようだ。こういう状況を政治的バトルロイヤルと言うのだな。政党政治であるにもかかわらず、何故こんなことが起こりうるのか?まあ、説明は色々と専門家の方々がつけているようだ。要するに、こんな状況はよろしくない。そう言えるのか?

ビジネスには、優れたやり方、勝てるやり方がある一方で、勝てないやり方、駄目なやり方もある。インターネットが登場すれば、販売におけるネットの活用が主戦場になってきた。ビジネスの在り方を振り返ると、明らかに技術進歩、イノベーションが実現されている。科学技術上の進歩を応用して、ライバルに打ち勝つ戦略を練れば、その結論として「今までのやり方ではだめだ」と。当然、そんな議論が出てくるわけである。

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私事にわたるが、小生は数学上の計算をすることが結構多い。ところが紙を消費することが減ってきた。特に数日前、待望のiPadがやってきて以来、計算はすべてPenultimateでやるようになった。分量が多くて一冊のノートにまとめた方がよいものは、Noteshelfを使っている。こうすると、文献を読みながら計算を確かめたり、コメントをまとめる時に、実に便利である。計算したら、それをそのままEvernoteに送る。キーワードをタグにつけておいて保存するから、やったはずの計算がどこかに行ってしまって、仕方がないから再度やりなおすなどという事態は確実になくなった。「あれはどこに行ったかな?」と思えば、Evernoteと接続して ― 接続はPocket WiFiでどこでもできる ― 検索するだけでよい。ズバリ、効率性の向上をもたらしている。下は二日前に授業の準備で書いたメモだ。


これはもう手放せない。

17世紀の英国で天文学者ハレーが物理学者ニュートンに「惑星の軌道は楕円だと考えるのですが、どう思いますか?」と質問したところ、ニュートンは即座に「そう、楕円だ」と答えた。そこで驚いたハレーが「すぐに答えられましたが、なぜそう言えるのです?」と聞くと、「ずっと以前、計算で確かめたからさ」と言う。「その計算をいま拝見させてもらいたいのですが」とハレーが頼むと、「いいよ」と応じる。ところが、ニュートンが、部屋中の紙や本の間をひっくり返して探したものの、既に十数年も前に計算したメモは見つからなかった。そこでハレーが勧めたことは、ニュートンが自身の研究成果を体系的にまとめて本にすることだった。歴史的古典「自然哲学の数学的原理」(Philosophiae naturalis principia mathematica)はこうして登場した。その執筆の途中で、ニュートンが必要な計算や証明を再度繰り返したことは言うまでもない。

ニュートンがiPadとPenultimateを持っていれば、楕円軌道の計算結果を即座に取り出せたことであろう ― その場合は、プリンキピアも世に登場せず、物理学の発展の歴史もまた変わっていたかもしれないが。

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こういうイノベーションが、政治領域でもありえたと思うし、事実進んできたはずだと思うし、経済では可能だが、政治では無理だという理屈はないように(小生には)思えるのだな。だとすると、いま現在の日本の政治は、30年、40年も前のこの国の政治と比べて、どの側面がどの程度まで進歩していると言えるのか?ニュー・ビジネス・モデルは事業において成功する第一歩である。1930年代末、ニュー・ネイヴァル・モデルまであと一歩のところまで行きながら相手側に先を行かれたことが、日本海軍の戦略的敗北の主因となった。いま日本の政治において、ニュー・ポリティカル・モデルを見出そうとする努力は払われているのか?

この20年の日本の経済的停滞は、要するにイノベーションの停滞である。多くの人は需要がないからというが、それは逆であって、競争優位性を失ったからこそ、顧客を奪われてきたのである。ライバル企業が、新興国が、同じものを安く作れるようになったので、日本は顧客を奪われたのである。日本は新しい提案を行うことに失敗したのだ。それは新しいものを生み出す力が不十分だったためである。ないとすれば新興国の同輩と同じ生活レベルを甘受するべきだ。それをしないから競争優位性が毀損されたのである。経済に停滞をもたらしたこの因子は、共通因子として、政治領域においても働いていると思うのだ。

やはり小生はグリーンスパンの目線に共感するなあ。要約すれば、どうすれば良いか分からないとき、どうすれば善いかという議論がまとまらないときは、当事者の自由意思にゆだねるのだ。政治的イノベーションを加速させたいのであれば、総務省による公職選挙規制を緩和し、政党の活動の自由を広汎に認め、更に多くの分野から多くの主体が政治分野に参入する自由を広く認めるのだ。この政治自由化は、良く言えば「導火線」となり、悪く言えば「パンドラの箱」になるだろう。

政党が大学キャンパスの中で交流サークルを運営してもよいではないか。政党が就活支援を行ってもよいではないか。政党がドラマのCMを常時流してもよいだろう。ある政党が労働組合から資金的支援を得るのであれば、他の政党はIT産業からじゃんじゃん支援を受けてもよいだろう。それによってプラスになる便益と、それはまずいという負の側面を比較秤量すればよいのである。最初から「これは悪いことだ」と決まっているものはないものだ。そう決めているだけである。

2012年6月13日水曜日

政治主導よりも立法府と割り切ることが国会復権につながる

楽天証券経済研究所の山崎元氏が適切な意見を述べている。最後の下りだけを以下に引用しておこう。
ともあれ、独自のスタッフを持たずに官庁に乗り込むような「政治主導」など、信用してはならない。加えて、選挙前に具体的な法案が細部まで決まっていて、「多数を得た場合には、この法案を通します」という公約でなければ、期待するだけ無駄だという現実に、国民はそろそろ気づくべきだろう。 
結局のところ、時間の空費に過ぎなかった今回の政権交代の貴重な教訓だ。(出所: ダイヤモンド・オンライン「消費税率引き上げのための修正協議の奇妙な展開」)
 政党が法案を自前で準備して、マニフェストに記述した上で公約し、選挙で勝利した場合、官僚集団にその法案の可決を阻止する大義名分は何もない。法案の修正も、一字一句、全くできないだろう。その法案が「▲▲基本法」と名のつくものであれば、既存の関連法や政令・府省令が新基本法と齟齬を生じないように細かな法改正作業に取り組むことを余儀なくされるだろう。その種の細部の法規を整えることこそ、本来、民主主義社会における職業公務員が果たすべき役割であるとも考えられる。職業公務員が非協力的な場合であっても特定分野の或る事柄について、既存の関連法全体に代わって施行される法であることを、条文として記述することは技術的にも可能だ。そもそも日本国憲法は大日本帝国憲法の改正憲法として粛々として公布されたものなのだ。

上に述べられたことが現実になれば、それこそ霞が関官僚集団にとっては文字通りの悪夢の到来になるだろう。対抗手段は裁判所による違憲立法審査しかない。しかし、国民が選挙で選んだ政党があらかじめ国民に公約した法律に対して、裁判所が違憲判決を出すとすれば、その場合にこそ初めて日本国憲法改正の気運が醸し出されることになるだろう。これが本当の「政治の季節」と言えるものだ。最近のつまらない政局とはレベルが違う。

2012年6月12日火曜日

「知恵誇り」の不毛について

消費税率引き上げ、社会保障の将来像で与野党協議が進行している。本音と建前、譲歩と攻勢、まああれでも国会議員であるから、虚々実々の駆け引きが展開されているわけである。

直接には関係ないが、昨晩、テレ朝系の▽▽ステーションを観ていると、最後にメインキャスターのF氏が「この世の一寸先は闇です。・・・アジサイの花はきれいに咲くことでありましょう」と、こんな言葉だったかな、正確ではないかもしれないが、大体上のような別れの言葉をつげて終了となった。

よく言えば「政治とか経済は、一寸先が闇で、予測もつかないが、アジサイの花が明日美しく咲くことは人を裏切らないですよ、だから元気を出していきましょう」、そんなことを言いたかったのかもしれない。しかし、上の言葉を聞いていた小生は、気分が悪くなったのだな。「政治や経済では色々とやっているけれど、一寸先は闇。私は、何があってもビックリしません。驚きません。いまハッキリと言えるのは、明日、アジサイが咲く。このくらいですね」、実に捻くれた発言だなあ、と。国会議員が丁々発止やっているが、おれは騙されないよ。視聴者の皆さんも騙されなさんなよ。そんな風なメインキャスター氏の<知恵誇り>の心理が、ヒシヒシと画面から伝わってきたのだが、小生、余りにバイアスがかかっているだろうか?

小生がブログで偏屈なことを書くのは何も問題はないのである。そもそも個人的意見であることは誰がのぞこうが、ハッキリしている。しかし公共の電波で放送している▽▽ステーションのメインキャスターが「この世の一寸先は闇です」と。こんな風に言ってしまって、いいのか?一寸先が闇であることは分かり切った事実だが、人間になしうる良い事があるのじゃないか?その努力を待とうではありませんか、と。なぜそんなことを語れないのか、こいつは?思わず、そう感じてしまったわけ。こういう疑問って、結構、本質的じゃあないだろうか?

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人間を不幸にするのは<知恵>である。

いま愚息が読んでいたゲーテ『若きウェルテルの悩み』をパラパラとめくっている。こんな下りがあった。
ぼくらの立派な先祖たちは、あんな狭い知識しかもたなくとも、あんなに幸福だったのだ。・・・人間は、その上で味わい楽しむためには、わずかの土くれがあれば足り、その下に眠るためには、もっとわずかで事が足りるのだ。
この文章表現、小生の祖父が昔語ってくれた禅語「起きて半畳、寝て一畳。人間本来無一物」を思い出させてしまう。洋の東西を問わず、同じようなことを考えるものである。
それに公爵はぼくの心よりも、ぼくの理知や才能のほうを高く評価しているんだが、このぼくの心こそは、ぼくの唯一の誇りなのであって、これこそ一切の根源、すべての力、すべての幸福、それからすべての悲惨の根源なんだ。ぼくの知っていることなんか、誰にだって知ることのできるものなんだ ― ぼくの心、こいつはぼくだけが持っているものなのだ。(以上出所:新潮文庫版、125~126ページ)
幸福を得るのに知識は必要ではない。財産も必要ではない。しかし心があるべき姿になっていないと幸福になるのは無理だ。反対に、悲惨の根源になる。そういうことを書いている。

そうかあ、こんなことを書いていたんだなあ。小生自身が読んだときには、全く気が付かなかった。というより、初恋とか純愛とか、無縁だったからなあ、小生は。だからと自慢するわけじゃあないが『若きウェルテルの悩み』はピンと来なかった。

とはいえ、心が<悲惨の根源>であることは、大阪・心斎橋で通り魔殺人を犯した元暴走族の犯人の境遇を聞くにつけ、この点だけは真実をついているのじゃないかと感じるのだ。閉ざされた心の病を、知恵で治すことはできないのじゃないか?心の悲惨に目を向けず、豊かさを知恵働きで守ろうとする現代日本人の姿は、いよいよ瀬戸際じゃなあ、と。そんな風に思ってしまうのだが、言い過ぎだろうか?

2012年6月10日日曜日

日曜日の話し(6/10)

今日は6月10日。連想ゲームのように徒然に書いていきたい。

ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」は、1865年の今日、ドイツ・ミュンヘンで初演された。オペラというと舞台を見に行ってこそ醍醐味が伝わるが、一流のオペラとなるとチケットは▲▲万円する。CDが便利だ。小生が某官庁に入って仕事を始める直前の時期、まだ学生で暇だった最後の何ヶ月か、寒い毎日をコタツに入って寝転び、マタチッチ指揮の「神々の黄昏」ハイライトを聴きながら独りで過ごすことが多かった。その冬、ガンが再発した父はもう助からないだろうと、母は実家に帰った小生に語りかけ、小生はまた同じことを母に確かめるように話しかけながら、やがてくる父のいない生活を想像していた。下宿に戻って一人になると、ワーグナーを聴き続けていた。その後、ワーグナーの長大な楽劇を通して聴くことはあまりない。オペラならモーツアルトやベルディをとるのが常だが、その時期ばかりは憑かれたようにワーグナーを集中的に聴いていた。だから今でもワーグナーが聞こえると暗かった当時の暮らしを思い出す。

ワーグナーの肖像画は数多いが、彼の死の直前にルノワールが描いた下の逸品を私は好んでいる。

Pierre-Auguste Renoir, Portrait of Richard Wagner, 1882
Musée d'Orsay, Paris, France

ルノワールは、モネと並んで印象派の中心人物に数えられているが、その人生を通じて(ピカソほどではないが)大きく画風を変えた人であると言われるー  一生迷い続けたと言われている割には小生が見るとルノワールはどれもルノワールだが。

ルノワールは、フランス人にしては珍しくワーグナーを好んでいたようだ。ワーグナーといえば哲学者ニーチェが有名だー 後になって決別したが。
誇りを持って生きられないなら、誇りを以って死ぬべきだ。
母親は息子の友人が成功すると嫉む。
母親は息子よりも息子の中の自分を愛しているのである。
自分自身という存在と自分をとりまく世界という存在について西洋哲学はずっと考えてきたわけだが、ニーチェに至って「神」や「普遍」という超越的存在が完全に否定され、現実あるのみ、その現実は自分が心の中で再構成したものであるから、要するに自分自身あるのみ、となった。東洋の「天上天下唯我独尊」と言えば別に驚くほどのことでもないか。まあ素人だから言葉の表現は適切を欠くと思うが、実存主義の始まりである。

こういう話しは嫌いではない。とはいえ、<善>は誰が<善>と口にしても、同一の意味内容をもつのでなければ、議論はできない。その議論をする以上は、善とは何か、人間が忘れているだけであり、そういう真の価値があることは誰にとっても共通の知識なのだ。誰でもが合意するような真の結論がある。そういう考え方のほうが、小生の立場ではある、というか分かりやすい。

ワーグナー・ファンはナチス政権の上層部に多かったようだ。ナチスの根本思想はニーチェであったとも指摘されている。そのため第二次大戦後のしばらくの期間、ドイツ国内でワーグナーを演奏することは自粛されていて、バイロイト音楽祭が再開されたのは戦後6年目の1951年であった。そのナチス政権の文化広報担当大臣であったゲッベルスはドイツ表現派「ブリュッケ」に参加した画家エミール・ノルデの水彩画を好んでいたそうである。ノルデ本人も一時期ナチス党員であったという記述がある。

Emil Nolde, 1943年

上の事情にもかかわらず、ノルデはナチス政権から退廃芸術との烙印を公式にくだされ、戦争中はドイツ・デンマーク国境に近い寒村に妻とともに隠棲し、その間おびただしい数の水彩画を制作した。上の作品はそんな時代に描かれた一つである。

やがて病を得た妻とともにノルデは戦後まで生き続けた。その時の事情は次の一文からも窺われて、大変感動的である。
He survived the war, as did his invalid wife, who died in November 1946. As the grand old man of German art, Nolde now enjoyed a new lease of life. In 1947 there were exhibitions in Kiel and Lubeck to celebrate his eightieth birthday. In 1948 he married a twenty eight year old woman, the daughter of a friend. In 1952 he was awarded the German Order of Merit, his country's highest civilian decoration. He continued to work with tremendous energy, producing oils based on the watercolours he had created during the years of persecution. His last oil painting was done in 1951, and he was able to make watercolours late in 1955. Nolde died in April 1956, aged eighty eight.  
(Source: http://www.artchive.com/artchive//N/nolde.html)

2012年6月9日土曜日

「確実な議論をしましょうよ」症候群の再発ですな、これは

2030年時点の原発依存率をどう展望するか?これは新エネルギー基本計画の核心である。それを現状通りとすれば、与えられた需要見通しの下では、これまで通りの新規原発の建設計画を淡々と実行していくことになる。需要見通しが一定として、原発依存率を下げようとなれば、既存の建設計画の一部は不必要となる。その代わりに、火力とか、再エネとか、別の一次エネルギーを確保しないといけない。需要を落とすことはエネルギーを使わないということだから、我慢するか、人力・家畜に頼るか、技術進歩を実現するか。いずれかだ。これが理屈だから、原発依存率の展望で激論が交わされてきたのは、当然である。

8日に開催された関係閣僚による「エネルギー・環境会議」で新しいエネルギー・環境政策に向けた中間報告がまとめられた。これによれば2030年時点の原発依存率は、0%、15%、20〜25%の三案が採用された。経済産業省の総合エネルギー調査会の議論では、上の三案の他に「35%」と「市場の選択にゆだねる」も参考として明示されていたが、「エネルギー・環境会議」では、この二つを外すことにしたという。

どうやら政府部内では「15%」が有力な候補らしい。脱原子力路線はハッキリしてきたようだ。ま、脱原発自体は、ドイツも既に宣言しているので、驚くことでもないが。

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やれやれ。まあ、決めたいなら決めてもよろしいが、市場に選択をゆだねる案も削除したのは「やっぱり、確実な結論にしたいのですねえ」と改めて感じ入る次第だ。もし、再生エネルギー電力の立ち上がりが政府の財源不足で想定外に遅れ、一方で化石燃料価格が想定外に上昇したときは、日本経済に想定外のショックがはしり、労働市場は予想を超える激震に見舞われるだろう。リストラを苦にした自殺も当然増えよう。ギリシアのように焼身自殺すらTV画面に登場するかもしれぬ。そのとき、総発電量に対する原発比率を各年度▲▲%ずつ引き下げるなどと政府が決めていれば、それこそ自縄自縛となって、「○○原発を臨時緊急の措置として再稼働させる」と。またまた日本の行政は混乱し、経済産業大臣が責任をとって辞任するなどという事態になるかもしれぬ。こうなる確率は相当程度あるのではないか?そしてまた、こうした騒動は望ましくなく、不必要で、かつ避けうる混乱であると、今という時点でハッキリと言えるのだ。

当面の結論だけをハッキリさせたいが故に、近い将来でハッキリとしない点が増えるのだ。どうなるか分からない<仮定上の議論>を今やっても無意味ではないか?こういう意見は、要するに、そういうことなのだ。

こういう非科学的な発想が日本の公の場ではどれほど多いことか。こういう<仮定上の議論>を嫌がるスピリットこそ、東京電力が大津波襲来を甘く見た主因であり、リスク管理を怠り、十分な安全投資が手遅れになった根本原因なのである。「仮に想定通りにいかない場合にはどうするか?」という議論は、想定通りに行かないと考えていることとは違うが、日本国では「想定通りに行かないと考えているからこそ、そんな議論を仕掛けるのだろう」となる。「隠していることがあればオープンにするべきだ」という意見があふれるのだ。備えあれば憂いなしというが、日本国ではいつまでたっても憂いがなくならない所以であろう。

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<安全保障>なのだろうなあ、脱原発をはっきりといま言えと求めている理由は。それは分かるが、怖いから飛行機に乗らない。怖いから自動車の運転をしない。怖いから料理で包丁は持たない。怖いから冬の雪かきで屋根に登らない。怖いから原子力は使わない、・・・。別に悪い訳じゃないが、福島第一は人災なのではないですか?そう言う人が多いでしょう。不必要な技術不信、科学不信から結論を出すと、不必要な貧乏を招くよ、と。日本国全体の収入が減るよ、と。工場が流出するよ、と。チェルノブイリ事故に見舞われたウクライナの二の舞だよ、と。ウクライナは原発を再稼働したが、ずっと後のことだ。日本も、ずっと後、子供たちが原発を再稼働するのは許すってこと?その時は、もう我々は死んでいるかもしれないしね。「そんな風に考えているのか!」と言われても仕方がないのじゃないか。

何一つ、確実なことなんてないのである。政府がどんなに賢くとも、どんな決定を下すにしても、その決定が裏目に出るというリスクはあるのである。リスクがないかのような体裁にするのは不誠実である。失敗の可能性は日本人が共同で負担するしかないのだ。環境をきれいにし、環境に優しい産業しか持たないと決めるなら、これから産業構造の変化が進むだろう。経済的に苦しくなる家計も増えるだろう。社会が決めた以上、社会が支援するのは当たり前だ。教育コストも支援するべきだ。となると、年金はどうする。介護はどうする。賄えないじゃないか。政府の支出が増えるなら税金も増やさないといかん。しかし、こうなると決まった訳じゃないよね・・・

そう。もちろん<仮定上の話し>である。しかし、仮定上の話を嫌がる傾向が、(本当に)日本人のウィークポイントとしてあるなら、必ず再び、想定外の混乱に陥るだろう。次ぎにくる混乱は、地震ではない(それらは数百年、千年に一度くらいの頻度だ)、津波でもない(数十年に一度くらいだ)。もっと別の混乱であろう。これは、結局、行うべき議論を逃げたコストを、事後的に支払うということなのだ。

だから、今回の「原発依存率=▲▲%決定」のための議論は、「不確実は嫌い」という我々みんなが有している国民的・社会的・心理的なバイアスがもたらした議論だと思えるのだ、な。

2012年6月7日木曜日

ドイツ主導で金融規制がまとまるか?

和の精神というのが、小生、幼少の頃より苦手である。小学生の頃、終業式でもらう通知票に「協調性に欠ける」と何度か書かれていたものだ。しかし、亡くなった父から「お前は協調性をみがかんといかんなあ」と言われると、どうも反発の念を感じたものだ。父は、たくさんいる兄弟の長男として成長したせいか、指導するということに慣れていて、異論をいうと「そこがいかん」と言うのが常であった。それって、全然協調してないよね。小生、言いたかったのだが、怖くて言えない。哲学者ソクラテスは、冤罪で死刑となった。友人は逃亡するように懇願したが、泰然と死に赴いた。その時のやりとりが名著「パイドン」になって残されている。ソクラテスは、そこで「わしはみんなのために死ぬんじゃよ」などとは一言も語っていない。「法に従うことは、自分の魂の清浄を守るためなのじゃ」と。これ即ち「悪法もまた法なり」。自分で決めている。みんなは関係ない。格好いいじゃないか。自分が善しと思うように生きる。和なんてどうにでもなれ、と。一度でいいから父に言いたかったなあ。

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金融投資は自己責任の世界である。負ければ誰が悪いのでもない。まして世の中が悪い訳ではない。投機があたって大富豪になっても、誰に遠慮をしなければならないわけじゃない。大いばりだ。しかし、世界市場を暴走族のように暴れ回られると、大半の人にとっては迷惑だ。それに金融危機の後始末で税金が使われている。金融マンよ、この現実をどうする、と。規制しよう。それが今の世界の方向だ。

独紙Frankfurter Allgemeineに以下の報道がある。
Zwar stehen Einzelheiten nicht fest – außer dem Umstand, dass es sich nicht um eine umfassende Besteuerung aller Finanzgeschäfte (Finanztransaktionssteuer) handeln soll, weil diese weder in der gesamten Europäischen Union noch in der Eurozone durchsetzbar ist. Aber die Vorsitzenden der drei Koalitionsparteien, Angela Merkel (CDU), Horst Seehofer (CSU) und Philipp Rösler (FDP), haben Unterhändler beauftragt, ein Modell zu entwickeln, wie die Finanzmärkte an den Kosten der Finanzkrise beteiligt werden könnten. Am Dienstagabend beriet erstmals eine Arbeitsgruppe von Koalition und Opposition über die Einführung einer Finanzmarktsteuer. (Source: Frankfurter Allgemeine Zeitung, 05.06.2012)
金融危機発生から生じるコストに対して金融業界は応分の負担をするべきであるという発想だ、な。こういう政策方針が検討されていることは聞いていた。金融取引課税の導入で与野党協議も始まるようだ。なるほど、大分まとまってきているわけじゃな、と。
Zuletzt hatte Frau Merkel auf einer Konferenz mit CDU-Kreisvorsitzenden am Wochenende neue Möglichkeiten der Besteuerung angesprochen: „Wir schauen, ob wir vielleicht mit einigen ähnlich gestimmten Ländern etwas hinbekommen.“ Rösler deutete am Dienstag ein Einlenken an. Er ließ wissen, er habe „nichts gegen eine kluge Regulierung der Finanzmärkte“. Zu den möglichen Mitteln gehörten ein Verbot des „Hochfrequenzhandels“ und eine „Besteuerung von Derivaten“. (出所:上と同じ)
導入されるとすれば、(一定期間における)取引頻度規制、金融派生商品取引への課税。この二つが挙げられている。ただEU全域で導入するのか、ユーロ圏で導入するかなど、乗り越えるべき点は多いだろう。
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日本はデリバティブにはなじみが薄く、金融工学上の技術水準、商品開発力、販売力、顧客層ともども、まだまだ後進国である。それを規制するのは自分の首を絞めるようなものかもしれない。ただ日本も<金融暴走族>を取り締まった方がよいのは確かだ。さしづめ円ドル取引、外国為替市場はターゲットにするべきだ。これは前稿でも書いたことだ。 

2012年6月5日火曜日

グローバル投機マネーは世界経済に貢献しているのか?

日本の株式市場が歴史的安値に沈んでいる。日本だけではない。米市場、欧州市場、アジア市場も下げているから世界同時株安である。

しかし細かく見ると、為替相場安と株安が同時進行しているヨーロッパがある一方で、日本は為替相場高と株安が並行している。確かに円ベースでは株安だが、ドルベースでは、あるいはユーロベースではそれほどの株安ではない。円で安くなっているものが本当に安いのなら、金も円ベースで1オンス12万円台で安値水準である。しかしドルベースでは久しぶりに1600ドルを超えた。金は上がっているというのが、世界の実態だ。同じように日本株も円では下がっているが、国際通貨ドル・ユーロではそれほど下がっているわけではない。

東京市場の過半、相当部分は海外投資家による取引であり、日本株を買うか売るかの判断は、ドルベース・ユーロベースで投資先を管理している中で判断されている。円が上がれば日本株を売って益出しを図るのは合理的行動だ。

投機は経済活動を行うすべての参加者にプラスの利益をもたらすというのは、確かに経済学のロジックだ。ここまではよい。

しかし、日本で起業し、日本で成長してから海外に進出しようと考えている日本企業の立場に立てば、円ベースの株価が(業績とはほぼ無関係に)長期的に下落する現状は、明らかに資本調達の便宜を損なっている。グローバル投資家は、日本企業に投資しようと考えて円を選択しているわけではない。日本円でマネーを保有していれば損をしないと予想するから円を短期間保有するだけのことである。だから円高を招いている。それが株安を引きおこしている。因果関係はこう解釈するべきだ。それは確かに海外資本の利益にはかなっている。しかし日本企業の利益には反している。海外投資家のプラスと日本企業のマイナスを合計してグローバルに考える視点は重要だが、世界のプラスのために日本の産業がマイナスを耐え忍ぶ必要は、本来的には、ない。

海外資本の利益にかなう状態を放置することで、日本企業の成長機会を奪うべきではない。

政策当局は、現物・先物為替取引に為替取引税を課し、同時に国内株式の売却益・配当課税を引き下げるべきである。一過性の小手先介入をやるかやらないか、グダグダと議論する世界経済状況ではなかろう。本質的に国益にかなう政策方針をとるべきだ。

2012年6月4日月曜日

悪いやつほどよく眠るか?

昨日の野田首相対小沢元代表との再会談決裂がトップ記事かと思いきや、オウム真理教の元信者である菊地直子容疑者逮捕の報道である。同容疑者は昨年自首した平田信容疑者を永年の間匿ったことでも追跡されていた。聞けばサリン製造に加担していたともいうから、今後厳しい取り調べが始まるだろう。予断は許されない。

フランスの哲学者アランの著書に『プラトンに関する11章』があり森進一氏による邦訳も出版されている。プラトンといえば経験主義に対する理性主義、経験論に対する観念論で有名だ。死語と化している<プラトニック•ラブ>とは<純愛>のことであります。つまり見えている現実はイメージの影であり、実在するのはイメージの方である、と。こういう立場の人である。たとえばサイコロがある。サイコロは立方体だが、立方体をまるごと認識しているのは心であって、目に見ているのは常にサイコロの一面である。真の実在は心の中にある。だからラファエロの名画でもプラトンは天を指さし、師を裏切った弟子アリストテレスは地を指している。下の絵の中央部分に並び立つ二人だ。


ラファエロ、アテネの学堂、1510年

なるほどねえ。プラトンは2500年程も昔の人であるが、最初に知ったときは何だかムニャムニャ書いているようで、分からなかった。ところが愚息に話してやるので、読み返してみると、これは結構深いのではないかと、心うたれた。

アラン『プラトンに関する11章』の中に次の下りがある。
いったい誰が不正であろうと望むであろうか。 
かりに他のいっさいのことでは成功しているひとでも、正義を怠る機会を待ち望んだり、つかんだりするなら、そのひとは、真底では明らかに病んでおり、脆弱であり、心の奥の奴隷性にひどく罰せられているのだ。 
•••つまり悪人とはヘマな人間のことだ。悪を欲するのも、常に善をめがけてである。
悪いやつとはヘマな奴。そういう哲学だ、な。実は小生の田舎では人間を四分類する言い方がある ー いまでも使っているかなあ。それは<利口利口>、<利口バカ>、<バカ利口>、<バカバカ>である。頭がよく、本当に世の真実を洞察し、行動も間違わない人は利口利口である。 バカ利口は、鈍で知識もなく、テキパキと物事をこなすことはできないが、賢い人に聞くから実際には間違わない。そんな人のこと。これを「運のいい人」と語る御仁もいるが、運ではないのだ。このように始めの二文字が形容詞、後の二文字が実態を表している。

悪人はヘマな奴とすれば、バカバカか利口バカのどちらかだ。今日の表題になるほどの巨悪を実行するほどの人間なら頭はいい。だから、そいつは利口バカである。善かれと思って、やっちまった。間違ったあ!悪人なんて、そういうものだ。そんな社会観であります。どこが間違っていたか、頭がいいなら己の誤りがどこにあったか、それを悟れるはずだ。償いもテキパキとやるだろう。それが社会的利益にかなうのではないか?確かにそういう考え方もあるかもしれぬ。

2012年6月3日日曜日

日曜日の話し(6/3)

美術は千年さかのぼって見ても、名作はやはり名作である。稀な名作の裏には無数の凡作があったに違いない。それらの凡作は現在まで伝えられず、所有者の手を離れたあと、それほどの時間を必要とせず地上から消えていった。今はもうない、というのはそういうことだ。

千年前の日本は平安時代であったが、その時代の普通の人が所有していた身の回りの装飾のほうが、今日まで残っている仏教絵画などの美術作品よりも、よほど数多くあったはずだ。しかし、それらは廃棄されたり、焼亡したりして、全てなくなってしまった。どれほど見たいと思っても、現代の日本人は見ることはできないのだ。よほど世間に流布された「源氏物語絵巻」など、ごく少数の作品は模造品などが制作されたので、それが作品の長い寿命を保たせることになった。贋作には贋作の歴史的使命があるというものだ。著作権など小うるさく主張するものではないという指摘も一面の真理である。

先日、発注したiPadが届いてから数日間、手なずけるまで時間を要した。やっと落ち着いてきたところだ。


上はiPadのアプリ"Paper"で描いてみた。フ~~ム、これがタブレットで描けてしまうなんてねえ・・・。スケッチブックなんて、もういらねえじゃねえか。書き間違えたら、消しゴム・モードにして消せばよい。あっという間に、最初から。便利だ。

下はカンディンスキーとも交流があり、青騎士旗揚げ時にも参加し、年刊誌"Der Blaue Reiter"にも同人フランツ・マルクの友人として『仮面』を寄稿したアウグスト・マッケの作品"Vor der Regatta"である。制作年は不詳だ。



制作年は不詳だが、画家マッケは1887年に生まれ、1914年には第一次大戦に従軍しフランス・シャンパーニュ地方の村ペルト・レ・ユルリュで早すぎる死を遂げている。彼の瑞々しい画風は、1907年に最初にパリを訪れ、印象派による美の創造を観てから形成されたものである。20歳の時だ。上の作品からももその薫りがうかがえる。してみれば、上の作品が描かれたのは、1910年代の中のいつかであることは、ほぼ間違いがない。

マッケの作品が100年後の今日まで残ったのは彼が死んだあと、未亡人エリーザベットと再婚の相手ローター・エルトマンの努力の賜物である。ナチス政権による文化抑圧をかいくぐって美術作品を保護するのは大変だった。その事情はカンディンスキーがドイツに残した作品を守ったミュンターも同じだった。コピーはとれないし、収蔵のためのスペースも必要だし、湿気から守る必要もある。真作はたった一つしかないのだ。他方、iPadで描けばコピーはいつでも作れる。SDカードに何千枚も保存できるし、持ち運びは至極便利、隠せば発見もされにくい。

しかし電子芸術は、記憶媒体とともに再生装置やその再生装置を動作させるソフトウェアが全て毀損されることなく完全な形で残されなければ、SDカードだけがあっても役に立たない。小生思うのだが、今日のSDカードやUSBメモリーは平安時代の屏風や扇にも似て、一定時間がたった後は何一つ残らないのではないか。そんな気もする。ま、ファイルが残っていればいいわけか。だとすると、形のないファイルとして残りますかね。しかし、ファイルを相手に真作とか偽作とか騒ぐはずはない。

それはちょうど、神田の古本屋街で昭和40年前後の『週刊少年マガジン』が一冊1万円前後で売買され、その隣の店では岩波書店が発行した『漱石全集』全16冊が価格8千円程度で売られている。こんな事情ともどこかで似ているようである。

2012年6月1日金曜日

世界経済 ― 3か月前の予想と全く違った展開なのか?

昨年末には、そろそろ中国が経済再加速にギアチェンジをして、アメリカは大統領選挙の年、欧州はドイツの好調とイタリアの引き締めの綱引きになるだろうが大崩れはしないだろう、日本は(いくら何でも)大震災からの復興需要が本格化するだろう・・・・と、まあ、方向としては上向きを予測していた。OECDの景気先行指標の動きもそんな形を示していた。

ところが・・・

5月のIFOビジネスサーベイの結果はドイツ経済の急減速である。
The Ifo Business Climate Index for industry and trade in Germany fell significantly in May. Assessments of the current business situation deteriorated clearly. The business situation nevertheless remains above the long-term average. Companies also expressed greater pessimism about their business outlook. The recent surge in uncertainty in the Eurozone is impacting the German economy. (Source: IFO NEWS, May 2012)

さすがのドイツも、ドイツ国内ではギリシア放棄の観測が高まっているし、問題は既にギリシア離脱ではなくユーロ圏存続の可能性をどう見るかという点に移りつつある。ドイツは通貨統合によって損をせず、得をしてきた側であることを考慮すると、ユーロ圏の将来不安がドイツ経済に暗雲を投げかけるとしても、それは当然の理屈である。

一方、5月公表のOECD景気先行指標をみると、こう書いてある。
Composite leading indicators (CLIs), designed to anticipate turning points in economic activity relative to trend, point to regained momentum in the OECD area but with divergence between economies
Compared to last month’s assessment, the CLIs for Japan and the United States show stronger signs of improvements in economic activity, pointing towards an expansion. In the Euro area, the CLIs for France and Italy continue to point to sluggish economic activity below long term trend. The CLIs for Germany and most other Euro area economies show slightly more positive signals. The CLI for the United Kingdom and major emerging economies, in particular China, where the assessment points to above trend growth, are showing stronger positive signals compared to last month’s assessment.
 近年の世界経済はシンクロナイズすることが多いが、足元ではディ・シンクロナイズしている。日本の経済財政白書用語を使うと<跛行性を強める世界経済>というところだ。

ただ中国経済についてはOECDは強気にみている。実際、先行指標は下の図のようになっている。


どうみても底打ちは昨年末に終えており、今後は長期的トレンドを超えていこうという形である。ところが本日の日本経済新聞には以下の報道がある。
【ムンバイ=黒沼勇史】インドや中国など新興国経済が予想を上回るペースで減速している。インドの1~3月期の実質成長率は5.3%と、7年ぶりの低い伸びとなった。中国でも輸出や消費が振るわない。物価高を抑えるための昨年までの金融引き締めや欧州危機が響いた。各国は利下げなどで景気テコ入れを急ぐ。(出所:日本経済新聞、2012年6月1日付け朝刊)
自然体で政策運営をしても中国経済はこれから上向くはずの状況ではあるまいか?ところが足もとのレベルはまだ低い。そこでアクセルを思いっきり踏む。そういうことか。中国政府も政権交代期にある。経済状況の明暗が及ぼす影響は、派閥ごとに一様ではあるまい。とはいえ、アクセルの踏み方によってはインフレが再び問題化するかもしれない。国際商品市況、中でも原油価格市場にとって想定外のランダムファクターになるかもしれない。

新興国経済が円滑な成長を持続していくかどうか、ギリシアの再選挙にもまして、注意が必要だ。幸い、このところ原油価格は騰勢一服しているが、予断は許さないと思う。

それとユーロ圏そのものの未来であります、な。大きな鍵は。ギリシアの国政選挙で財政緊縮が頓挫しそうであることはある程度分かっていた。フランスの大統領選挙で左翼政権が生まれそうだということも、サルコジ前大統領の評価を見る限り、ある程度わかっていた。メルケル首相が次第に孤立するだろうということも、ある程度、分かっていた。ドイツ流の財政緊縮一点張りの政策は次第に難しくなるだろう。これも分かっていた。それなら、<ユーロ圏崩壊>もまた未来予想図の中に入れるべき時が来たのか?

それは違う。何故ならドイツが欧州全体の経済発展にどのように向き合うのか?その覚悟のほどに依存するからであり、そのドイツの覚悟はこれから形成されるものであり、どの程度まで形成されるかが不確実だからである。そこが予測できないので、欧州が良い方向に再建される見込みになるのか、このまま崩壊していくのか、分からないのだ。故に、今後一年間の世界経済の予測も甚だ難しい。いわゆる確率法則とは別の<不確実性(Uncertainty)>が増大している。