とはいえ入門的な出典はある。ポール・ルメル「ビザンツ帝国史」(文庫クセジュ)にも概説されているように、ビザンティン帝国内においてシリア、エジプト、パレスチナなどアラブ人居住地域は、ローマ帝国以来、キリスト教が国教となっていたが、ただそれは「単性説」による宗派であり、コンスタンティノープルを含むギリシア地域とは異なるものだった。マホメットが予言者として登場したとき、シリア、パレスチナ一帯には帝国からの分離を願望する社会心理が蔓延していたという。それを放置したのはコンスタンティノープルの中央政府だ。こんなアウトラインである。
ビザンティン帝国の宿敵は、ずっとササン朝ペルシアであったのだが、イスラムの勃興のあと7世紀後半は、サラセン帝国との闘争が主になった。この世紀は東ローマ帝国の最も暗い100年となるが、この苦闘の中でむしろ帝国は異質な地域と民族を放棄し、それによって東ローマ帝国はギリシア人を中心とするビザンティン帝国として再生することができたというのだから、何が幸いするかわからないのが人間社会である。再生して、西暦千年前後には地中海世界で最も富裕な黄金の帝国を建設する。
イコンは買うには高額である。しかし、欲しいのだなあ。アンドレイ・ルブリョフはいいねえ。もっともルブリョフは帝国が滅亡する末期に生きた美術家である。ロシア人だが、ビザンティンの美はブルガリア、ロシアが継承した。
ルブリョフ、聖ミカエル、1420s
Source: Olga's Gallery
7世紀前半、東ローマ帝国のヘラクレイオス帝は有能な皇帝であり、ペルシアが侵略した地域の返還を実現したが、治世の末期、勃興したアラブ人にダマスカスを奪われ、その後パレスチナを失い、エルサレムが陥落する。アレクサンドリアもアラブ人の手に渡る。その後のイスラム国家の拡大は歴史に記されているとおりである。
キリスト教正統派とイスラムに靡いた宗派のどこが違うのか、そもそもイスラム教自体がキリスト教異端派と言えるのではないか、小生は専門家ではないので教理の細部は分からないが、現代につながるイスラム教の誕生は、時代と人に恵まれたかなりアクシデンタルなものであったと言えそうに思う。
偶然による歴史の進展は、プロには予想できないものだ。ま、想定範囲には入っているのかもしれないが、近い過去を振り返るまでもなく、現実の歴史は想定外の事件に満ちている。そして、その進展は元の軌道に復帰するものではなくて、不可逆的な変化になる。これが小生の<歴史観>といえば、そう言えそうである。
となると歴史法則はすべて後付けの理屈っていう主張になるかねえ。
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