2013年3月17日日曜日

日曜日の話し(3/17)

本日は亡母の誕生日なのだが、腰、太ももの痛みがおさまらず、それに昨夕は食材を買ってくるのに頭が一杯で仏前の花が枯れてきていることを失念してしまった。起きた後、仏花はなしで合掌する。初めてだな、こんなのは。

近くの温泉に行って暖まろうと思うが、日曜のこととて入浴客で一杯である。幼児が走り回っていて甚だ危ない。短時間で早々に出る。気温が上がっているせいか、道は雪がとけてドブ池のようになっている。轍の尾根を走っていると、雪がやわらかくなっていて、峰が崩れバシャンとなる。「クソッタレのような道だなあ・・・」、身体の調子も悪いので、悪口雑言をはきながら、車を走らせる。

宅の厠には書棚をつくっていて、このところは『佐伯祐三のパリ』(朝日晃・野見山暁治)を手にとることが多い。巻末に年表がある。佐伯祐三が世を去ったのは1928(昭和3)年である。その同じ年、第1回普通選挙が実施される一方、共産党の全国的大検挙があった。前の年、27年は春3月に金融恐慌が勃発して銀行の取り付け騒動があり、7月には芥川龍之介が自殺した。画家の万鉄五郎が他界している。更に、その前の26年は大正天皇が崩御し時代が昭和になった。明治美術の大黒柱だった黒田清輝が他界したのは1924年、23年には白樺派の作家・有島武郎が自殺し、大正理想主義を主導した雑誌「白樺」が廃刊となった。関東大震災で江戸以来の東京が崩壊したのは同じ23年のことである。佐伯祐三が生きた最後の5年間は、文字で読むだけでも、世の中全体、誠に騒然としていたようだ。

(出所)http://www.city.osaka.lg.jp/yutoritomidori/page/0000021816.html

佐伯が渡仏してブラマンクを訪ね、「このアカデミズムが!」と酷評されたとき、それまで作り上げてきた画家としての自我は崩壊したという。この自己崩壊のあと再生を果たし、短いながらも「芸術家の生涯」を全うしていた時期、まさにシンクロナイズして明治国家もまた自己崩壊プロセスを歩んでいた。そう言ってもいいと思う。明治維新を経て明治・大正と富国強兵を達成した古い日本が根元から倒壊し、歩むべき方向を喪失していたわけだな。人的にも、物的にも、思想的にもこの先昭和20年の敗戦までの20年余の間、日本はずっと迷走を続けたと言ってもいい。

「人は務めている間は、迷うにきまっているものだからな」と、ゲーテは『ファウスト』(森鴎外訳)で書いている。天上の主は、このあとファウストを唆そうとするメフィストフェレスに「だがな、いつかはお前は恐れ入って、こう云うぞよ。『善い人間は、よしや暗黒な内の促に動かされていても、始終正しい道を忘れてはいないものだ』と云うぞよ。」、論理学でいう対偶をとればこうなる。迷いを知らないのは努力をしていないことの証しである。正しい道に戻ることなく、悪い道を歩き続ける者が、悪いのだ。善い人間と悪い人間は、どんな道に戻っていくかで分かる。

戻るべき原点が大事だ。大正デモクラシーが普通選挙に結実したあと、再確認するべき国家百年の初めが<尊王攘夷思想>であったとすれば、当時息をしていた人々の声音まで再現できるわけではないが、これはあまりにも無知蒙昧、いや情けなさに涙こぼるるというヤツだ。上の命題を参照するまでもなく、明治国家は、詰まる所、国家の設計ミスによるものと小生は思っている。明治国家が、最終的にとった道は最初から本質的に用意されていたと考えるのがよい。あの人がいたら、この人がいればという話しではない。

戦前期日本と戦後日本の間には、深い断絶がある、いや断絶をおいたうえで戦後をみるべきだ。戦後日本の建設は、どこからはじめたか?アメリカに言われたから、というのは屁理屈だろう。当のアメリカだって、自分たちのいうとおりに日本はやってきたなんて、思っちゃおるまい。すべて日本人がその時々の環境の下で自らが選んでやってきたことだ。戦後の初めに何を考えていたかをもう一度振り返ることが大切だ。根と幹を描けば、概ね樹全体をどう描くか、決まるものだ。100年後の日本は、戦後58年を経た現在の日本がどう成長するかという話しで、それ以外の話しにはなりえない。憲法で現実が決まる理屈はなく、むしろ現実にあった憲法にすることしか可能ではない。

国家百年の計は思うがままに立てられるわけではない。
既にあるいた何年もの時間のありように束縛されている。

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