2013年4月7日日曜日

日曜日の話し(4/7)

国家が必要だと思う教育を国民全体に施したとしても、その効果はわずかであるという指摘は、はるかな昔、アダム・スミスが古代ギリシアの初等教育について既に語っている。

古代ギリシアでは、あらゆる自由民は国家の長官の指導の下で体育館での訓練と音楽教育を受けたという。ローマ帝国では体育館というより練兵場で訓練を行ったが、音楽は標準カリキュラムにはなかったらしい。訓練というのは、つまりは軍事教練で、戦前期日本で受けた人たちの幾人かはなお存命中であろう。古代ギリシアにおいて音楽は、いまでいう情操教育であって、他人への思いやりや優しさ、繊細な感受性を養うために国家自らが教育の必要性を認めたということだ。

ところが、スミスは言うのだな。ローマ人のモラルは、古代ギリシア人と同等、もしくは優れていたと憶測される。ギリシア世界を特徴づけた激しい党派対立と政争は、その果てに乱暴で血なまぐさい流血事件すら頻繁に引き起こした。それに対して、ローマでは国民が平静と節度を守り、党派対立の末に血が流されたのは改革を急進的に進めようとした護民官グラックス兄弟が殺害されたのが事実上初めてである。そのグラックス兄弟殺害は、共和国ローマの解体の始まりであり、ローマはその後「混乱の100年間」を経て、帝国へと生まれ変わり、ヨーロッパ世界に「ローマの平和」が到来したのだった。

アダム・スミスの結論は
ギリシア人の音楽教育がかれらの道徳を改善するうえで何一つ効果をあげなかったということは確からしいように思われる、というのはこういう教育がまったくなくても、ローマ人の道徳の方が全体としては優れていたからである。(出所)スミス『諸国民の富(4)』(大内兵衛・松川七郎訳)、岩波文庫
スミスはこの文章のあと、公的機関が関与する教育はほとんど失敗していること、公的に俸給を支給される教員より、支給をうけない私塾における教育のほうがずっと効果的であること、その私塾の経営を公教育は阻害するのであるから、国民により良い教育をほどこす上で、公共の学校教育は有害である。そんな言論を展開している。

国からカネを支給されている小生が上の見解に賛成するのは、まあ、あまりよろしくない。とはいえ、スミスの意見は200余年も昔の著述でありながらも、小生自身の経験に照らして、実に説得的であると思うのだ。少なくとも明治の学制によって日本の教育は始まり、それ以前には満足な教育はなかったという認識は、両者の成功・失敗の経緯からみて、さかさまであろうと思っている。

いやいや、今日は論じてしまった。そんなつもりはなかったが……


ゴーキー(Gorky), The Artist and His Mother, 1936
出所:Wikipedia

ゴーキーがアルメニア人虐殺から逃れて、アメリカにいる父を頼って放浪し、移住していったのは16歳のときである。そこで美術学校に通学して画家になったが、多事多端が続き、重い病を患い、事故で右腕も麻痺するなどして、44歳にして燃え尽きるように自殺してしまった。上の作品は32歳の作品で、母と並んだ絵になっているが、その母はアルメニアを出る前に失っていたはずである。つまり、想像上の絵である。

道徳教育の必要性が議論されているが、強くあれと教育していれば、ゴーキーは強くなっていて、死を選ぶことはなかったのかどうか。そもそも国による教育、学習指導要領による教育は、何のために必要なのか?小生は時に分からなくなる。

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