2013年4月27日土曜日

全国学力テストに存在意義はあるのか?

今朝の道新の社説に『学力テスト−序列化の懸念拭えない』が掲載されている。一読すると、どうも地元びいきの引きたおしのように感じる箇所もある。が、最後の一文「教育は点数だけで評価できるものではない。その原点を見失うことがあってはならない」、この結論は非常に全う、かつ真実をつく見解だ。

とはいえ、
確かに北海道の平均正答率は、ほぼ全科目で全国平均を下回ってきた。道教委は14年度までに全国平均以上に高める目標を掲げている。
(中略)
結果が公表されれば、テスト対策にますます授業が割かれ、学校の序列化を招くことは避けられない。
何か出来の悪い子供をかばうような親のようでもある。実際、小生も書かれていることには同感だ。その通りだと思っているのだが、しかし、社説というのは理念を抽象的に論じる方が品格があると社内では受け取られているのだろうか。具体的な方法やプランを社説で提案すると、社内で<思いつき>を勝手に書くのじゃないと叱責されるのだろうか。もともと日本的組織では、サッカーもそうだが、独りが単独で攻撃をしかけていくという在り方を非常に嫌う傾向がある ― そこが隣国である韓国と行動パターンが最も違っているようでもある。抽象論は、論争を招くばかりであり、具体的結論に至るには実証的議論、具体的提案が不可欠だと思う。

★ ★ ★

まあ、いい。今日、上の社説を読んでいて「思いついた事」は、学力テストの得点と人材輩出率の間に相関があるかどうか?これは統計的に、簡単に検証できる問題だという点だ。小生が記憶しているのは、この種の学力テストはずっと昔にも実施されていたが、その頃に全国ベスト3を競っていたのは、たとえば香川県とか、愛媛県とか、福井県とか、大都市圏に比較的近い、人口が中規模の、歴史ある城下町に県庁が所在している。そんな地方ではなかったかと思う。

教育の目的は、ペーパーテストの得点を上げることではない。目的は、子供達がもって生まれた才能を開花させることにあり、才能を開花させた子供達が成長してから、一流の成果を仕事で達成することにある。社会全体としてそういう状態をつくる。国がとりくむ教育の目的はここにしかないはずだ。要するに、得点自体に価値はなく、真の目的の役に立って試験は初めて存在意義をもつ。

細部の議論を積み重ねる必要はない。

ずっと昔のデータでもいいが、学力テストで安定的に高い得点をとっていた地域から、その後の日本で活躍した人材がどの程度輩出したかを検証すればよい。

仮に無相関であれば、学力テストは得点ゲームの域を出ないのであり、何も税金を投入してまで行うことではないわけであるし、相関が認められれば、なぜ相関が出てくるかを掘り下げて分析すればよい ― 試験の高い得点が原因となって、仕事でも一流の成果を出すという認識が非現実的であるのは明白だから、原因分析が要るということだ。反対に、無相関であっても試験でとらえられる学力が仕事の結果に何も影響しないという論拠にはならない。そういう意見もあろうが、これは正確な認識としては正しいが、今の場合は<偏相関>ではなく、事後的な<単相関>の方がより意味のある指標であるはずだ。子供達は変化する世界で生きていくのであり、すべての影響がでつくした結果はどうなのかという相関の方が大事なのだから。

★ ★ ★

社会的に一流の仕事をしている人をランダムに選んで、その人の12歳時点、15歳時点、それから18歳時点における試験の得点を(事後的に)予想できるだろうか?いま成功しているのだから、多分幼少時においても学力テストで高い得点をあげていたのだろうなあ…と。そう思いますか?思う人はよっぽど甘い人だ。そんなに世の中、甘くありませんよ。この程度の思考実験ならすぐにできるだろう。ということは、学力試験で有為の人材を識別しようなど、ハナから無意味な徒労なのである。徒労を集計してもやはり徒労である。それを押し付けることが出来るのは国家が行っているからだ。それ故、不効率の温床になるのは間違いない。そう断言したいのだ、な。

人材の養成、人材の洞察は、ペーパー試験などではなく、もっと時間と労力をかけて丁寧に、真剣に取り組むべき大きな仕事である。

0 件のコメント: