2013年4月9日火曜日

84点の若者とサッチャー元首相

ドラマ「遺留捜査」は、主演の上川隆也が「あと三分いただけませんか」と言ってからが面白い。そこで事件の謎が解き明かされるからだ ー 実際は3分以上かかっているが、細かいことはいわない。

その伝でいうと『あと3点ほしいなあ、惜しいヤツだよ』、そんな人がいる。特に就活中の若者と面談して、切るには惜しい、あと3点あればいま決められるのになあ、そんな感想をもつ時は案外多いのである。小生、そんな人には評価84点を与えてきた。

完全無欠のときを100点満点として84点という評価はなるほど高い。しかし、隔絶して優れているとはいえない。とはいえ、評価としては<優>であり、りっぱなものである。が、惜しい。あと3点だけプラスに評価できる点があって87点となると話しは違ってくる。87点ならほとんど<秀>であり、鍛えれば一流になる、その見通しが立つ。84点だとなあ…。

実は小生の愚息が84点くらいじゃないか。そんな気がするのだ。だから、愚息と面談する人たちは、ほんと「始末に悪いなあ」、そんな感想をお持ちなのじゃああるまいか。すいません、中途半端なもので。

長生きはするものではない。徒然草にも書かれている。現代語訳で引用しておく。原文は下の出所で確認のこと。
この世に生きる生物を観察すると、人間みたくダラダラと生きているものも珍しい。かげろうは日が暮れるのを待って死に、夏を生きる蝉は春や秋を知らずに死んでしまう。そう考えると、暇をもてあまし一日中放心状態でいられることさえ、とてものんきなことに思えてくる。「人生に刺激がない」と思ったり、「死にたくない」と思っていたら、千年生きても人生など夢遊病と変わらないだろう。永遠に存在することのできない世の中で、ただ口を開けて何かを待っていても、ろくな事など何もない。長く生きた分だけ恥をかく回数が多くなる。長生きをしたとしても、四十歳手前で死ぬのが見た目にもよい
その年齢を過ぎてしまえば、無様な姿をさらしている自分を「恥ずかしい」とも思わず、人の集まる病院の待合室のような場所で「どうやって出しゃばろうか」と思い悩みむことに興味を持ちはじめる。没落する夕日の如く、すぐに死ぬ境遇だが、子供や孫を可愛がり「子供たちの晴れ姿を見届けるまで生きていたい」と思ったりして、現実世界に執着する。そんな、みみっちい精神が膨らむだけだ。そうなってしまったら「死ぬことの楽しさ」が理解できない、ただの肉の塊でしかない。
(出所)Tsurezuregusa、徒然草第7段
このように人生50年どころか、人生40年くらいが一番美しく、恥をかくことも少なく、醜くもないと書かれているのだ、な。愚息を案じるなど俗世の煩悩の極みであろう。

× × ×

ま、それはともかく、昨日亡くなったマーガレット・サッチャー英・元首相は、84点どころか人によっては100点満点、人によっては0点の人であろう。

そんな人が一国の首相の座についたのは、時代が求めたからであり、巡り合わせでもあり、その点では天運とも言えるし、天命でもあったろう。自分でもそれを自覚していたとしたら、妥協などは考えもせず、ただ只管に信念を貫き、戦術的後退を時にすることがあっても目的を変更することは絶無である。撤退を余儀なくされる時は職を辞する時である。そんな行動をとるはずである。

曰く「天才は為すべきことを為し、秀才は為しうることを為す」。サ元首相が天才とは思わないが、天運によって首相となり、本人が天命と信ずることを為そうとしたのであれば、そんな人は天才と同じように行動するのだろうという推測は成り立ちそうである。

そんな政治家は城山三郎なら「男子の本懐」という言葉で形容したろうが、一人の人間に宿るそんな本懐が、たんなる<思い込み>でもなく、<独善>とも言われず、<自己中心>とも思われずに広く受け入れられるには、やはり国が真の危機にあり、危機を乗り越えることが最優先の課題である時だけであろう。とすれば、サ元首相がまずフォークランド戦争に勝利したことは幸運であったし、最後の年に永年の盟友であったはずのハウ元外相からその独善を批判されたのは、これまた天運であったと言わなければならない。
 


0 件のコメント: