2013年4月20日土曜日

職業倫理の奴隷じゃあ情けないじゃござんせんか

某官庁で―いまは統廃合されてなくなってしまったが―昔、GDP推計の仕事に携わっていたことがある。その時の同僚が、今朝みた夢の中に登場した。消費を担当していたAさんと在庫担当のSさんだ。

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小生は、現実の自分とは違って、ながらく病気で休職していた役所に行こうと駅に向かい、ホームに来ていた電車に飛び乗ったのだが、それは途中の駅にとまらない快速だった。その電車は、世田谷の辺りをひた走りに走っていた。窓の外は起伏にとんだ丘陵地帯に裕福そうな住宅が立ち並び、小生は扉の前に立って、次はどこに止まるのかを確かめようとしていた。なぜか成城学園という駅名があったから、現実世界では小田急線ということになるのか。何にしても夢でみたことだから実際に存在する世界のことではない。すると向こうの方にAさんとSさんの姿が見えたのだ。定時に役所に行くにはもう絶望的な時間になっていた。今から行っても月曜日(なぜだか月曜に設定されていたのだな)のこととて部内会議がある。会議の途中で久方ぶりに出勤する、それも遅刻して入っていくのは恥ずかしい。いまから行っても11時になってしまうなあと思い迷っているうちに二人に気がついたのだ。二人はハイキングに行くような恰好をしている。変だ。近寄って行って話しかける。向こうも驚いて「▲▲さん!」という。「△△さんじゃないですよ。どこに行く途中なんです?仕事は今日はお休みですか?」と小生はきく。「高尾山の方に行こうと思って…」、どうも京王線と小田急線がごっちゃ混ぜになっている。この世界とは色々と違うのだろう。「次の成城で降りて世田谷城にいきませんか」と二人を誘う―そもそも世田谷城なんて在るのか。

成城で電車を降りてしばらく歩いていくと、いかにも城跡公園のような石垣や階段があって道の両側には露店が立ち並ぶようになった。小生たち三人は何か食べようと言うことになる。いつの間にか定食が来ていて、私は旨いなあといいながら箸を運んでいたのだが、AさんとSさんは手持無沙汰そうにしている。このままつき合わせるのも気の毒だ。もともと私はずっと役所を休んでいて、休職明けに出勤しようとしていたのを半ば断念してぶらぶらしている身、向こうは小生が欠勤している間にも働いて、今日は別の場所で遊んで気晴らしをしようと出かけてきたのだ。そう思って「私には気をつかわず、行ってください。私は午後からでも役所にいきますから」と、何度も二人に話しかける。すると二人は「▲▲さん、前にね住宅投資担当のNさんがね、もし▲▲さんが好きでなかったら、あんな風に言われてワタシャけつまくりますよ。それが出来ないんですよねえ。ぼやいてましたよ、なんで今またそんな風に言うんですか?」、「そんなことがあったんですか?すまないことをしてしまったんですね。僕は、どうにも人の心が分からないのかもしれません。一体なんのために仕事をしているんですかねえ。仕事がうまく行くように、行くようにと、そう考えると理屈が先に来て、人の心は二番目以降になってしまうのかもしれないですね。気に障ることを言ったり、やったりするのは、悪気じゃないんです。」

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宮仕えとは組織の中で働くことだ。仕事とは組織の利益を拡大することだ。一人一人の人間の心が幸福を求めていようが、何を求めていようが、組織を管理する立場の人間にとっては、どうでもいいことだ。

こんな姿勢は<望ましい>のだろうか?というか、<正しい>のだろうか?ま、ヒューマニズムの立場から判断すれば、それは望ましくはないわな。しかし、組織で働くということは、組織の利益に忠実であるべきだ。それが職業倫理であろう。その職業倫理が、人間一般が従うべきモラルと真っ向から対立するときは、どちらを尊重すればいいのか?父親が余命幾ばくもなく入院していて、母が看護をし、その母の話しを聞くために仕事を抜け出して病院で時間を過ごすのは、職業倫理に違背するに決まっている。職業倫理に反するならその職を辞めるべきだ。辞めれば生活ができない。どこに行っても状況は変わらない以上、どこにいても職業倫理には反するからだ。職業倫理は守れないから、税金で保護してくださいという言い分も倫理に反しているであろう。

北海道の大学に来てホッとしたのは事実だ。しかし、夢の中に出てくる自分は、ずっと病気で休職していて、出勤しようとしては気恥ずかしい劣等感に苛まれている、そんな自分が夢の中では生きている。現実の方がよほど幸福である。

その頃、円借款を担当している経済協力機関に出向したことがある。事情があって1年ほどで出身官庁に戻ってまたマクロ統計の実務を担当することになったが、その短い間、一緒に働いた旧同僚たちが先週末に小生が暮らしている町に来て泊まって行った。小生も一緒に宿泊して飲み明かした。25年ぶりのことである。その人たちとは、仕事を一緒にさぼったり、一緒に周囲に迷惑をかけたりした仲である。職業倫理を全く無視した毎日を一緒に送った間柄であるが故に、今もなお暖かい情感を感じる間柄でいられるのかもしれない。

<仕事と人生>の関係は、やっぱりよく分からない。分からないが、仕事なんて蹴っ飛ばしたほうが、たかが仕事と下に見るくらいのほうが人生の幸福には大事なような気がするのが、今日この頃である。職業倫理の奴隷じゃあ情けないじゃあござんせんか。武士道だって、いわば職業倫理だ。武士道をまもって昔の人は幸せでしたか。人間を幸せにしないモラルなんて、いるんですか?少なくとも西洋の哲学は、最高の善とは幸福にあると言ってますぜ。わたしゃあ、そっちのほうがホントだと思いますな。


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