小生はきいた。
「事情はわかったが、お前も知っている通り、お母さんは腰痛に加えて、今度は急性腎盂炎だ。幸い入院はせずに済みそうだがナ、お前、もし母さんが入院していたら、あるいはオレが交通事故かなにかで入院していたら、やっぱりこうしてオレにカネを出してくれと頼んだか?」
「う〜ん、それはできないよ。」
「そうか、でもその場合でも、法律事務所で仕事をするなら免許が絶対必要だという客観的事情は変わらん。それで頼んできたんだろう。もしオレに頼めないとしたら、どうするつもりだったのだ?松山の叔父さんはもういないし、いわきの叔父さんは大吾君の大学進学でまとまったカネが必要なんだぞ。」
「それは・・・う〜ん・・・」
「修習中はカネがないから、勤めてからになるだろう?上役にいって、夜2時間程抜け出して、なるべくはやくとるしかないじゃないか。」
「それしかないよね。」
「ないよね、じゃあない。いいかい。偶々オレや母さんが元気だから、頼んでみるかと考えたんだろうが、もし病気で頼めなかったら、その場合にはお前は自分の人生の事だから、最大限の努力をして必死に難局を乗り越えようと考えたはずだ。今日は元気でも、明日は事故で入院するかもしれない。思惑っていうのは、外れるかもしれないんだよ、というか外れることを前提にするべきだろう……モラル・ハザードって知っているか?」
「法律と自分の希望が矛盾する場合だった・・・」
「まあ、そうなんだが、一般的な定義はともかく、自動車保険がいい例だ。自動車が普及することは社会全体にとっては運送コストを減らして、進歩につながる。ところが保険がなかったらどうなる。どんなに安全運転注意義務を誠実に守っても事故は避けられないときがある。保険がなかったら身の破滅だ。いくら便利だからって、自動車を使う気になるかい?保険があって、それがセーフティ・ネットになることで、自動車が普及する法制的な基礎ができたんだよ。だけどな、意図は完全な形では実現されないんだ。保険なるものがあろうがなかろうが、最大限の注意義務があることは変わらないよな。しかし、トラブルに陥っても、保険が何とかしてくれると分かってしまえば、どうする?それでも十分に注意をして安全運転をしなけりゃならんのに、たかをくくって危険運転をする人間が出てくる。これがモラル・ハザードだ。互いに相手を信頼して助け合うことで一人ずつではできないことも出来るようになるんだが、そうなりゃそうなるで、自分が最小コストで手っ取り早く仕事をすませても、大丈夫だろうと考える。10点満点で8点とれば、まあいい成果だ。8を得るのに8の努力をしても意味がない。努力は4でいい。そう考えるのが、合理的に見えてしまうんだよ。しかしな、敢えて8の努力をする。そのときは10を超えて16の結果が得られるのが世の中ってものだ。自分が信頼されているって言うのは、結果であって、自分が利用できる資源と考えちゃあダメなんだよ。<助け合い>がいつの間にか<もたれ合い>になる。自分は親から信用されていると思うことで、自分にできる最大の努力をしないで、最初からオレに相談する。形としてはモラル・ハザードじゃないかと思わないか?」
「・・・・・」
「堕落といえるかもしれないぞ。修習開始前ならオレは保護者だし、お前は被扶養者だ。必要なコストはオレが出すのが責任とすら言えるがな、いまは違うんだ。自分のことなんだから、まずお前なりに最大の努力をしようと、こうしようと、一生懸命考える。オレや母さんが元気だろうが、病気だろうが、病気だと思って、自分は頑張る。常に頑張る。そうすることが一番大事なことじゃないのかい?」
× × ×
結論としては、30万円の経費の半分をローンで貸すことにした。仕事をはじめて、最初のボーナスで15万円を返済してもらう。あとの半分は小生の負担だ。補助率50%、こんな話しにしたのだった。
日本人は「頑張れ」という言葉を挨拶代わりにしてきた。しかし、時に「頑張れ」という言葉は使わないようにしようなどと語る人がいる。小生も、以前は「なんで頑張らなくちゃいけないのか」と、そんな反発的な感情をもつことがあった。
しかしねえ・・・他の人たちが心配をしてくれる、だから楽に行こうぜ、と。それは不誠実ってもんでしょう。自分が楽をする分、縁もゆかりもない他人が、自分の代わりに頑張らなければならないというのじゃあ、人様に顔向けできんだろう。互いに「頑張れよ」と声をかけあう日本人の習慣は、自分のことくらいは自分で乗り越えようぜ、と。そういう心意気を声にするものだ。そう思うようになった。それで愚息との今日の会話になったのだな。
ドイツ人は”Gesundheit”という単語を頻繁につかう。別れ際の挨拶にも使ったりする。「健康」という意味だ。「元気でな!」、「体に気をつけてな」、そんな意味である。日本人の頑張れよと、ほとんど同じ意味合いの挨拶である。そういえば、昔は「達者でな」というのが別れの挨拶だった。即ち、それは「元気に働けよ」という意味であり、いま流にいえば「頑張れよ」という表現だ。
頑張っていこう…、人間生きていくのに、当たり前の言葉、当たり前の挨拶である。この挨拶が相手にプレッシャを与えるのだとすれば、既にその精神が堕落している。そう言えはしまいか。
0 件のコメント:
コメントを投稿