東電・福島第一原発の過失責任を問うには「疑義が残る」として検察は告訴されていた40人全員を不起訴とした。
東京電力福島第1原発事故を巡り、東京地検は9日、業務上過失致死傷などの容疑で告訴・告発されていた東電の勝俣恒久前会長(73)や清水正孝元社長(69)、菅直人元首相(66)ら約40人全員を不起訴処分とした。大津波は具体的に予想できず、安全対策や事故後の対応に過失はなかったと判断した。告訴・告発した被災者らは処分を不服として、検察審査会に審査を申し立てる。この不起訴処分そのものに「疑義が残る」理由がある。
(出所)日本経済新聞、2013/9/9 20:25
- もし経営上の過失がないのだとすれば、事故そのものが予見不能な天災によるものであり、いかんとも回避することができなかったことになる―実際、検察はそう考えているようだ。この事実認識は、事故が「人災」であると結論づけた国会の事故調査委員会と矛盾する。「人災」と判断するからには、誰が責任を負うのかという審理が続かなければならない。とはいえ、人災説はあくまで国会事故調の結論だ。立法府、行政府、司法府が別々の判断、結論に至るとしても、それはありうることである。しかし、地検は法務省に属し、行政府の一組織である。行政府の内部においては、可能な限り、省庁割拠を避けて、全体整合性を保つことが求められているのではないか。
- 原子力損害については無過失・無限責任が原則だが、原子力損害賠償法(=原子力損害の賠償に関する法律)の第3条第1項には、次のように異常な天災地変の際には事業者(=東電)を免責することが規定されている。
- 民主党政権とはいえ、政府はこの免責規定を適用せず、東電の経営責任を求める姿勢を既にとってきている。だからこそ、東電は巨額の賠償負担に耐えきれず、国有化されているのだ。免責しないというのは、原発事故が「異常に巨大な天災地変」によるものではなく、従って東電、というか東電社内の誰かに事故責任があるということになる―その責任を引き受けて該当人物が刑罰の対象となるかどうかは、客観的証拠に基づく審理が必要とされるが。
- しかし検察は「過失はなかった」と判断した。ということは、東電は経営上は無過失であったことになる。無過失でも現に起こった事故の損害賠償義務を負う規定になっているから、「そういうことです」と言うなら法の理屈は通る。しかし、政府の従来の、というか官邸、経産省等の判断は「天災が原発事故の主因であったわけではない」。こうではないのか。天災でないというのは人災であるわけで、この点は国会・事故調と事実認識に変わりはない。しかし行政府の別の部局である検察は「経営者は無過失であって罪には問えない」と。
第三条 原子炉の運転等の際、当該原子炉の運転等により原子力損害を与えたときは、当該原子炉の運転等に係る原子力事業者がその損害を賠償する責めに任ずる。ただし、その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によつて生じたものであるときは、この限りでない。
ウ〜ム、こんな認識がありうるとは…、小生のような素人には思考回路が再現できない。普通の人には理解困難と思われる。
原発以外の事故でこのようなケースが生じることはないと思う。交通事故においても、運転者が到底避けられないような事故であるとしても、現に事故が起これば誰かの過失が幾分かずつ問われるし、問われねばならない。すべての人が無過失の交通事故は想像困難である。発電事業も人の営為だ。同じ理屈ではないか。唯一の例外が「巨大な天災」なのだが、この例外は福島第一には当てはまらないというのが、これまでの公式見解だと思ってきた。実際、事故を起こした原発施設は、被災地域内では福島第一だけである。運・不運100%でこの違いが出たとも考えにくい。
そもそも天災か人災かという議論は不毛である。すべての事故は"Human Factor + Bad Luck"、つまり人の要素と不運の要素の二つが重なって起こるものである。不運があるにせよ、過失要素がゼロ、つまり「為し得たし、為すべきであったにもかかわらず、為さなかった点は何もなかった」という判断は、これまでの政府見解と矛盾するばかりではなく、不誠実であると指摘されるだろう。
法律専門家が常用する「合理的に予見できたかどうか」という議論も、今回のテーマに適用するのは愚かである。巨大津波は、そもそも日本近海においては数十年に一度 ‐ 決して何万年に一度の頻度ではない ‐ しか発生しておらずデータが少なく、極値について確率的予測をするのは難しいはずだ。「予測困難」ということは、自社に都合の良い予想をしてもよいということではない。数メートル程度の、あるいは10メートル程度の、その他何メートルでもよいが、合理的なハザード予測などできるはずがないのだから、津波の高さの期待値を求めようとすれば∞(=無限大)になるかもしれないということだ。これは決して荒唐無稽な議論ではなく、要するに「はっきりとは分からない」ということだから、「想定外」という言葉を軽々しく使うべできではない。合理的な予想が困難であった事業を行っていた以上、守るべき安全マインドが自然とあったはずで、為すべきことも自然と決まっていたはずだ。そういう意味合いである。
本件、構いなし。立ちませい。これにて本日一件落着。裁判にもならずにこれじゃあ、国に対する不信の念は高まる一方、そのうち一揆でも起こりますぜと心配になる所だ。
江戸期、西洋ではナポレオン戦争の最中にあった1808年、長崎港内にイギリス軍艦フェートン号が侵入し、オランダ商館員複数を拉致、軟禁するなど騒動を引き起こした。いわゆる「フェートン号事件」である。結果的に日本側に実損はなく、オランダ商館員も無事解放されたので、単なる騒動で終わったのだが、時の長崎奉行・松平康英は国威を傷つけたとの自責から切腹をして謝罪した。泰平に慣れて緊急出兵の要請に応じられなかった鍋島藩の家老ほか数名も切腹し、鍋島藩主は閉門処分となった。明治維新で一翼を担った肥前・鍋島藩が以後近代化を急いだ動機は、この時の屈辱が深かったことにある。
現代日本ではまた慣習も倫理観も違うのは仕方がないが、いつの時代も自社の経営失敗から多数の人の人生を狂わせてしまえば、それ自体、文字通りの罪であろう。前の投稿でも話したが<ノーブレス・オブリジェ>がやはり問われているのだと小生には思われる。
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