2015年1月30日金曜日

予測・予報にもプロダクトアウト型が目立つ

この冬は天気予報を語ることが多い。こんな年は初めてだが、話題にせざるをえない不満を感じているからこそ、ブログにも書いてしまうのだと思う。

今冬は暖冬になるという長期予報が出ていたことは知っている。そして、暖地では既に桜が平年よりも早く開花するなど、やはり暖冬であったとも言われている。しかし、これを以て『長期予報のとおりだったね』という気持ちにはとてもならないのだ、な。

小生が居住している北海道道央地方も吹雪が過ぎればプラス気温の日が続いているので、「暖冬」と言えば「暖冬」だ。とはいうものの、先日も月参りに見えた寺のご隠居が『1月は4回も吹雪いた。それも単なる吹雪じゃない』と除雪の大変さをぼやいていた。いま現時点で積雪量がこれまでの最高値を更新している地点はこの付近にも多いのだ—小生が暮らしている町は一昨年の冬、その前にも毎日深々と静かに雪が降り続けた年もあったから積雪記録更新はないだろう。

「気温」が概ね正確に予測できたから良い予報であったとは言えないだろう。なぜなら雪国の住民にとって、平均気温が3度程度上下しても、それだけで大変なわけではない—もちろん産業活動では相応の対応措置を講じる必要はあるし、そのための経費もかかるだろうが。ドカ雪と暴風雪、急な気温上昇による雪崩の発生をこそ心配しているのだね。雪のあとに雨が降るような正月は20年余り前に当地に移住してから初めて経験する正月だった。

こんな冬は、ズバリ初めてである。確かに「平均気温」は高いのでーそれは実感できるー「暖冬」ではあるが、気温以外の次元については実に厳しい冬であり、まだ1月であるにもかかわらず、大量で滑りやすい除雪に疲弊している。そんな感覚なのだ。

天気予報は気温予報ではないと思うがどうだろう。予報の精度向上のためには大変な努力が費やされているとは思うが、情報の評価は、良いか悪いかを出し手が決めるプロダクトアウト型ではなく、聞き手が使えるかどうかを決めるマーケットイン型で為されるべきものである。

この点は、天気予報ばかりではなく、経済予測、防災情報などあらゆる予測情報サービスについて言えることである。

2015年1月29日木曜日

日本の保守と革新には越えられぬ溝がある?

産経がえらく怒りにかられたように書いていたので目を引いた。
今月13日付朝日新聞の夕刊コラム「素粒子」に「少女に爆発物を巻き付けて自爆を強いる過激派の卑劣。70年前、特攻という人間爆弾に称賛を送った国があった」という記述があった。
 わずか4行だが、この記事を読んで言葉を失った。というより強い怒りがこみ上げてきた。特攻隊とテロを同一視しているからだ。
(出所)産経ニュース、2014-01-29

産経が朝日に腹を立てるのは、昨日・今日始まったことじゃあないが、それほど憤慨するような文章だったのか…、そう思って元記事を調べてみた。
日中韓にそんな日が来るだろうか。独仏首脳が、イスラエルとパレスチナの指導者が隊列を組む姿に目を見張る。
    ☆
欧州の自由と連帯のプラカードの裏側は寛容と多様性のはず。嫌悪や排斥が忍び込む風潮は日本のいまとも似て。
    ☆
少女に爆発物を巻き付けて自爆を強いる過激派の卑劣。70年前、特攻という人間爆弾に称賛を送った国があった。
(出所)朝日新聞DIGITAL、2015-01-13-15-14

確かに独仏首脳が手を携える情景と日中韓の現況を話題にしつつ、最後は「特攻という人間爆弾に称賛を送った国」と言うのだから、言外に伝えたいのは「戦争と侵略の反省をしない日本」、というより「戦後の反省を無にしようと企てる安倍政権」。言いたいことはこんなところだろうと推察はつく。

「反省をしているドイツ・反省をしていない日本」という単純な図式にも大いに眉唾的な見落としはある。ギリシア債務問題とユーロ圏離脱をめぐりドイツの発言とギリシアの国民感情がもつれあっているが、ここにも「歴史問題」が未解決なまま放置されている。(参考)「ドイツを見習え」の虚構

しかしながら、だ…。本日はこれとは別の話題にしよう。

産経が憤っているように、やはり特攻とテロとは違うと。この点は小生も同感する。

そもそも特攻は日米が<戦争>をしている中で公式に採用された帝国陸海軍の作戦である。終戦の前、昭和19年の初め頃から研究されていたようだが、その作戦目的の一つは敵の戦意をそぐことにあったというから、この戦術は数量的エフィシェンシーというよりも、寧ろ米側に与える心理的効果を期待したコミットメントであったとも言える。

純軍事的な評価としては、日本側の損傷ばかりが大きく、表現は悪いが、島国で焦土作戦をとれない日本が已むなくとった「人的焦土戦術」であった、と。そう考えると、特攻作戦の直接的効果は僅少であったろうが、米側が最後にとるはずであった日本本土上陸作戦で予測される損害を上方修正させた。そういう効果、というか可能性は確かにあったのではないだろうか—それがひいては原爆投下を決意させた理由にもなったかもしれないのだが。

ま、そんな風に思っているのであって、現に宣戦布告をして互いに殺し合っている二国の一方が他方に対してとる戦術と、無差別テロ活動は国際法から考えても、倫理という点から考えても、決して同じではない。たとえは悪いが、仇討ち免許状もないのに私憤から主人の仇を殺せば、それは「仇討ち」ではなくて単なる「殺人」である。まして、狙う相手の友人まで憎くなったからといって、その友人まで刃にかければ「称賛」どころか「許し難い暴挙」となるのは当たり前である。武力紛争にもそれ相応の道があると。この位は言っておいてもよい。

それ故、朝日新聞の素粒子を書いた著者の感覚は「ミソもクソも一緒にして、故国の歴史を意図的に貶めている」、そう言われても仕方がない所はある。

とはいうものの、だ…。いくら特攻作戦がテロとは違う窮極の自己犠牲であると言っても、そのような作戦指導しか行い得なかった政府をいだき、その政府の指導に従った日本人は窮極的に不幸であったと言うべきだ。現時点のイスラム国も人間集団であり、過去の軍国主義日本も人間集団である。二つの人間集団がとっている行動形式と、そこで生きる人間の幸福と不幸という次元で考えると、イスラム国と特攻日本とで、一体どこに本質的な違いがあるだろうか?

理屈としてはムチャクチャな議論ではあるが、このような感覚を失わないでいる新聞があることは現代の日本人を幸福にしているヨスガではないか。小生は、そう思うのだ、な。いわゆる「保守主義者」は、ありのままの日本人を考えること自体に難しさを感じるのだろうが。

いずれにせよ、国家観や社会理念を共有できない保守と革新の対立は、単なる政争だけをもたらし、普通の人たちの幸福の増進にはならないものである。器が小さく、視野狭く、仲間には寛容で、敵には非寛容で情けを知らぬ点だけが唯一の共通点であろう。

2015年1月25日日曜日

歴史の表裏: 災い転じて福となるものか

昨日は卒年次生による最終発表会があり、小生も一部のセッションで司会をやったり、あとは最後部に座って採点員を勤めたりした。毎年の行事とはいえ、午前から夕刻までずっとやっていると、甚だ疲れる。帰途、カミさんに頼まれたので、サフのドライイースト赤ラベル、それから道内産100%の強力粉5Kgを買う。重い。イーストは3g×50で千円。安い。

* * *

何日か前、仕事の帰りに同僚と地下街でベルギー麦酒を飲んだ時に話したのだが、日本が犯した愚行の代表例「神風特別攻撃」も、70年後の今日では日本の資源になって働いている。もちろん客観的には、これ以上ない程の愚かな戦術であったのは確かだが、愚かであるのは戦術理論から言えばである。暴動も革命も起こさずに窮極の愚行を整然と実行できる国民であることを立証できたこと自体、世界が日本をみる見方を決める素材になっている。ある面、有意味な愚行だった。そういう議論もあるという話しだった。

ゲーム論でいう限定合理性の議論になるのだが、ま、要するに常に理性的かつ賢明な行動をとる人は創業者にはなれない。そんな話しである。

「特攻」が日本の資源になっているというなら、アメリカが日本に投下した二発の「原爆」も(ある意味で)アメリカの政治資源になっているだろう。また「戦後」になって日本の社会改造にコミットした事実もアメリカの資源であるだろう。もしもアメリカが、戦後になって連合国相互の合意を重視しながら対敵国政策を実行していれば、現在に生きる日本人の対米意識はまったく別であったに違いない。

もしも朝鮮戦争で米軍5万の血の犠牲がなければ、ベトナム戦争で韓国が数万の援軍を派遣し、その10%の損耗を甘受することはなかったはずである。

戦争は国家間の紛争を解決する政治手段としては、やはり愚かな選択であり、第一次世界大戦はそれを証明した。この認識はまだ現時点でも有効で、これ以外にほかのどんな事実が人類にとって大切な知識であるのだろうか。

とはいえ、戦争が愚かであるにしても、というか愚かであるが故に、武力の行使をためらわない人間集団は自分の主張を認めさせる力を持ちうる。いま抑圧されるにしても、やらないよりは、やる方が正しい。旧幕・日本の一揆の論理はこれなのだが、これまた真理であって、福沢諭吉が『学問のすすめ』でいうマルチルドムも同じである。『一粒の麦もし死なずば』の論理でもあって、これは洋の東西を問わない。
 このように世を憂えて身を苦しめ命を落とす者を、西洋の言葉で「マルチルドム(martyrdom:殉教者)」と言う。この第三策で失うのはただ一人の身であるのだけど、その効能は、千万人を殺し千万両を費やすような内乱の戦よりも、はるかに優れている。
(出所)「学問のすすめ」現代語訳

もちろん福沢は、こういう行動原理もまた窮極的には馬鹿な考えであると一刀両断している。
 古来から日本では、討ち死にする者も多く切腹する者も多い、それらの人は皆忠臣や義士であるとして評判は高いのであるけれども、その身を棄てた理由を尋ねてみると、多くは政権争いの戦に関係しているか、または主人のかたき討ちをすることで華々しく一命を投げ打つものである。その形は確かに美しいのであるけれども、実益が世の中にあるかと言えばそうではない。

 自分の主人のためと言い、自分の主人に申し訳ないとして、ただ一命を投げ捨てればそれで良いと思うのは、不文不明の世の常ではあるけど、今の文明の大義でこれを論ずるならば、これらの人はいまだに命の棄てどころを知らない者と言うべきである。
(出所)上と同じ

要するに、自分限り、仲間限りの永年の鬱憤は晴れるかもしれないが、ただそれだけのこと、世界の進歩、人類の幸福とは関係のない勝手な行動だ。論ずるに足りないことである。そう言っている。

まあ、福沢はモラル、モラルで世界がどうなるものではあるまい、と。そんな観点から議論をする傾向があるので、上のような意見は自然なのであるが、やはり人間はソーシャル・メカニズムの支配下にあるにしても、個々の場においてはモラルに従った美しい行動をしたい。そう願うのが普通の人間だろう。たとえ仲間限りの意地だとしても、武門の名誉にかけて立ち上がる人を、親しい人はそれなりに喝采するものである。ヒーローになりたい人、目立つことが好きな人間は、喝采は常に心地よいものである。

2015年1月23日金曜日

イスラム国―あまりに幼稚に過ぎる暴力と無分別

中東の「テロ組織」である『イスラム国』は、いま有志連合の軍事的圧迫から犠牲が急増しているせいか、余程カネに困っているのか。容易にそう憶測できるものの、それにしても日本人二人を人質にとって身代金を要求するやり方は下手な戦術だった。

どんな戦いも、味方を増やし、敵を懐柔するのが定石である。

これで日本人は『イスラム国』の理想や志などに目を向けることなく、はなから悪の集団と決めつけてしまうのは確実。このような正義の感覚は、現に『イスラム国』撲滅を目指して軍事力を行使しつつある国を支援することにモラル上の痛みを感じさせない働きをする。要求して取れるかどうか分からない身代金と引き換えに、確実に自国の敵を増やすのは、割に合わない。『俺のとは違うなあ……』、TVドラマじゃないがそう考えます。

今日開かれた記者会見の場で、人質になっているG氏の母親は息子はイスラム国の敵ではないと述べていた。もちろん、敵ではないからといって、味方でもあるまいが、事実はそんな所なのだろうと。そう小生も推測する。

だとすれば、『イスラム国』がとった今回の対日作戦は、敵ではないかもしれないにもかかわらず、敵であるようにも感じられるので攻撃したことになる。直接に自国を攻撃しない国は、たとえ現に攻撃している国の同盟国であっても、というよりそれ故にこそ、必要な場合の交渉ルートとして手札に持っておくのが合理的だ。

このように考えると、『イスラム国』は「国」と名乗り、内部組織も出来ているようであるが、「草創期」には不可欠である有能な戦略家がいるわけではない。いたとしても内部がバラバラで賢明な発言が影響力をもっていない。ジンギスカンは残虐であったが、幕下には多士済々、有能な人材が集まっていた。それとは全く違う。

ケリー米国務長官の発言によれば既に半数近くの中堅将校クラスは戦死した模様だという。どうやら規模は大きいが、所詮は唐末期の黄巣の乱、明朝末期の李自成の乱といった乱世特有の軍閥のような、または一揆に近い争乱として、近いうちに終息を迎えるのではないかと予想している。

2015年1月20日火曜日

外国の裁判ではあるが・・・面白い

ナッツの出し方が間違っていると激怒して離陸直前の飛行機を停めた大韓航空副社長が被告人となり第1回公判が開かれた。それが、面白おかしくという調子ではなく、寧ろ「国が違えば事情や慣習も違うねえ」という感覚で、日本のワイドショーでも話されている。

いろいろな罪で起訴されているが、基本的にすべて否認する戦略であるようだ。中でも鍵となるのは「航路変更罪」に該当するかどうかであるようだ。これも否認しているようだから、さすがに小生も驚いた。確かに、それぞれの国の事情はあるものだ。

「航路」とは空の道であり、離陸していない以上は飛行機は航路にはまだ入っていない。だから航路変更罪ではないという論理のようだ。何か、李朝朝鮮華やかなりし時代、喧々諤々、二大派閥に分かれて宇宙の原理について哲学的論争を繰り広げた情景を連想するのだな。

しかし、航空官制には素人の小生も「航路」とは飛行予定時刻、経度・緯度・高度で構成される地理上の位置、これらを含めた飛行計画として認められているのではないか。そう推量するのだが、間違っているのだろうか。だとすると、離陸してはいないが飛行予定時刻を遅延させた以上、航路変更罪に該当するのが理屈だと思われるのだが、違うのかな……ということは、あれか…にも関わらず「航路変更罪」に該当しないと主張しているのは、韓国政府が「航路」は時間とは無関係の概念だと、そう解釈されていることを前提に否認しているのか。

分からぬ。
それにしても、カミさんとも話したが、日本では絶対に起こりえぬ事件である、な。たとえ経営上層部であっても、現場であんなことを言い出せば『姫、ご乱心』ということで、閉鎖区域に軟禁されてしまっていたのではあるまいか。そう憶測するのだな。

まあ更に翻って、というか敷衍して言えば、日本の武家政権の誕生も皇室と朝廷がモノの道理さえついに理解できない状態となり果ててしまった。その自然な結果であった。こんな事まで思い出してしまったから、やはり、国が違えば事情も違うものである。

でも、面白い—不謹慎だが。


2015年1月18日日曜日

昨日の経験ー地域の防災情報提供で国は何かをするべきなのか

防災情報の提供はとても重要である。人の命に関わることである。適時適切に提供しなければ、人災と言われても仕方がない。しかし、あらゆる人災について言えると思うのだが、人災は組織や担当者の不注意や怠慢に起因するものばかりではない。寧ろ、所管する組織は誠実・懸命に業務にあたっており、それにも関わらず不可抗力ではない、ヒューマンファクターに起因する災害が起こってしまう。そんなケースも結構多いような気がするのだな。

★ ★ ★

昨日は入試センター試験の試験監督にあたっていた。勤務先に到着した朝方はそれほどでもなかったが、地理・公民の試験が終わって外に出てみると、そこは吹雪一色の世界になっていて驚いた。持っていた何もかも雪まみれである。次の国語が終わって外に出ると、降り積もる雪の余りの速さに職員達が雪かきをしながら獣道のような通路をつくっている。『これ、帰れるかなあ…』、一緒に監督をしていた人も心配そうだ。ただの吹雪ではない予感がする。やがて英語(筆記試験)の時間が来ると、いつの間にか除雪車が入っている。『呼んだんですね、何しろ国の行事だからねえ、センター試験は』。最後のリスニングが終わって、小生はいささか疲労を覚え、研究室に戻ることなく受験者達に混じって歩いて国道まで出ることにした。強風にあおられると降り積もった雪が舞い飛ぶ地吹雪である。歩いているうちに、最近クセのように時折襲ってくる右下腹部を刺すような痛みを感じる。そういえば、午後になってから試験室まで歩いていく時に何やら変調気味になってはいた。一過性なので、心配はないと思っていたが、冷えた雪道を歩き続けたのが悪かったのか、疝痛はだんだんと頻繁になり、痛みも酷くなってきた。仕方がないので、とあるドラッグストアに入り、カミさんに電話をする。『雪で車を出せないと思ってさあ、歩いてバス停まで行こうとしたんだけど、腹が痛くなっていま休んでるんだ』と伝えると、『無理してでも行くから』と言って迎えにきてもらうことになった…。家族がいなければ歩く人のない道の端で遭難していたかも。そう思ったりもした。

カミさん: 朝から吹雪がどんどん酷くなってきたから気になってたんだよ。
小生: 今日(17日)の夜から明日にかけてだったろ、猛吹雪は?
カミさん: 予定より早くなったみたいだね、でも今日は天気予報が放送されないのよ。
小生: なんで?
カミさん: あれよ…阪神大震災から20年というので、一日中ずっとそればっかりなの。吹雪どうなってるのかなあって、しょっちゅうTVを見たんだけど、やらないのよ。土曜日だしねえ。
小生: 20年も前の阪神大震災のことを北海道で流す必要あるのかねえ、まったく。大体、阪神大震災なんてニュースでもないのにな。
カミさん: 忘れないようにしましょうってことでしょ。
小生: 『忘れるな、阪神大震災の教訓、20年』って、特別番組をやれば十分だよ。
カミさん: 天皇陛下もいったみたいよ。
小生: 天皇陛下が行ったのがニュースだってことかな?
カミさん: それだけ皆に見てほしかったんじゃないの。
小生: 一番知りたい情報を流すのがTVだと思うがねえ、20年も前の大震災を思い出すより、いまこの時の吹雪と交通状況の方が大事だろが。
家の近くに来ると、軽自動車が雪山につっこんで放置されており、道が塞がっている。逆方向から一回りする必要がある。普通ではない。JRも止まっているだろう・・・。これが昨晩の夜7時頃である。

まこと、思い出も大切だろうが、吹雪の中で家族が大丈夫かというとき、まずは現在の情報を速やかに提供することがマスメディアの責務だと思う。これが<正論>ではないかなあ・・・と思うのだね。

帰ってきてからカミさんはS市内の星置近辺で非正規業務をしている長男が無事帰れたかどうか、携帯で電話をした。すると『僕のあとの電車から見合わせになったみたい』ということだった。昼前のJRは平常だったが、午後になってから1時間遅れ、2時間遅れと遅れが拡大し、このままでは運転見合わせになるだろうと想像していたというのだ。まあ、帰れてよかった、よかったというところだ。

先日に引き続き、また再びの教訓。
中央官庁が取り仕切っている天気情報は地元の住民の役には立たない。責任主体を変えるべきである。
突然の天候急変が増えている。地域には地域特有の自然環境がある。防災システム、避難システムの整備に全国統一化の視点、統一化された計画はマイナス面が大きい。国は復興支援に財政面からかかわるだけでよい。

平等と疎漏とは異なる。政策は形式より実質を重視しなければならない。

2015年1月15日木曜日

靖国: 単なる一神社が東アジアの火薬庫になってしまうとは…

また再び、というか再三再四でも収まるまいが、靖国神社問題に火が付きそうだ。

Record Chinaがこんな文章がある。
2015年1月12日、日本政府が首相の靖国神社参拝は宗教目的でなければ合憲とする答弁書を閣議決定したことについて、中国や韓国で反発が強まっている。中国版ツイッター・微博(ウェイボー)にはさまざまなコメントが寄せられた。
(出所)http://www.recordchina.co.jp/a100537.html

以下、『くそったれどもめ』等々、罵詈雑言もあれば、歴史への態度への批判などなど、色々な声が紹介されている。

政府がどんな動機から上のような答弁書を決定したのか不明確だが、事実そのものはNHKも報道している。
政府は9日の閣議で、総理大臣の靖国神社への公式参拝について、「宗教上の目的によるものでないことが外観上も明らかである場合には、憲法の禁じる国の宗教的活動に当たることはない」などとする答弁書を決定しました。
これは、維新の党の井坂信彦衆議院議員が提出した質問主意書に対し答えたものです。
それによりますと、総理大臣の靖国神社への公式参拝について、「もっぱら戦没者の追悼という宗教とは関係ない目的で行うものであり、宗教上の目的によるものでないことが外観上も明らかである場合には、憲法の禁じる国の宗教的活動に当たることはない」としています。
さらに「総理大臣の地位にある者についても、私人として憲法上信教の自由が保障されていることは言うまでもなく、私人の立場で靖国神社に参拝することは憲法との関係で問題を生じることはない」としています。

また、答弁書では、おととし12月の安倍総理大臣の靖国神社参拝について「私人としての立場で行われたものと承知している」としたうえで、今後、安倍総理大臣が靖国神社に参拝するかどうかは、「事柄の性質上、答えることは差し控えたい」としています。
(出所)NHK NewsWeb, 2015-1-15

理屈をこねるようだが、寧ろ「宗教上の目的」によるものであるなら、これほどまで一か所の神社が東アジアの火薬庫になる必然性はなかったのではあるまいか。

現に、戦前の皇国思想につながるかもしれない伊勢神宮に首相が詣でた際も、近隣のアジア諸国は靖国参拝ほどには反発してはいない。まして、政権にある公人が東京の増上寺や京都の南禅寺に参ったからと言って、首相・閣僚が宗教的活動をしていると、どこの誰が非難するだろうか。首相が函館のハリストス教会を訪れたから、キリスト教に不当な共感的態度を示したと抗議する団体があるだろうか。

靖国神社が極端なまでの火薬庫的存在になり下がっているのは、参拝の動機が非宗教的であると解釈されているからであり、参拝が極めて政治的であると判断されているからである。

その意味で上の閣議決定は、理屈は通っているが、間抜けな決定だ。

小生、靖国神社には特段の共感はもたず、行ったこともなく、敢えていえば郷里が旧・幕軍についた町だったので、長州藩士が天下をとってから自軍のために造った神社にはどちらかと言えばネガティブな感覚をもってきた。以前に石橋湛山の靖国廃止論を投稿したのはそれもあってのことだ。とはいえ、靖国神社には太平洋戦争で戦死した親族も祀られているので、できれば平穏かつ静謐な場所であってほしいと思っている。現在のような混迷と騒擾は、魂の安らぎの場としては極めて不適切であり、政治的失敗の象徴そのものだと思う。まして、参拝の動機が宗教的な願いではなく<靖国を利用しようとする>政治家の政治的な動機なのだとすれば、一口に言って許しがたい。ま、そんな風にみているところだ。

それにしても、宗教上、信仰上の動機から天満宮でも八幡宮でも稲荷神社でもない、そしてお寺でも教会でもない「靖国神社」にこそ参るという人はどの位いるのだろう?ちょっと、小生は、疑問なのである。


2015年1月12日月曜日

備忘録-こんな風にしたらいいのではないか、と思うこと

最近の世間の流れの中で『うまく行ってないよなあ』と感じることの一つは、言うまでもなく、結婚。というか「婚活」である。

小生の愚息も20台後半となり、いつ相手を紹介してくるか分からない状態であるのだが、そもそもどうやって素敵な相手と巡り合うのか。その仕掛けが現代日本では極端になくなってきた。そんな感覚もあるのだ、な。

小生はいわゆる<お見合い>であるが、色々と紛糾したので<お見合い:亜種L型>とでも形容されるパターンだ。当時としてはもう少数例になっていましたな。圧倒的多数は<職場結婚>である。職場結婚も大別して人事課による<職場:亜種A型>、先輩や友人が紹介する<職場:亜種B型>の二つがあった。そしてもう一つの大分類が<運命型>というか<恋愛型>。小生が出席した披露宴は、大体がこれらによって網羅されていた。ところが、これらのパターンを支えていた社会的・慣習的基盤が、この20年で致命的に突き崩されてきた。「失われた20年」は日本経済の話しであるばかりでなく、社会システムという意味でも「失われた20年」だったと思うのだ。

大学の卒業生組織の収益事業として「婚活支援」をする。これは一つの方法だと…、先日そんな話をした。親しい大学同士、縁を深めたい企業サークルとも共同できそうだ。当然、サービスは有料である。パーティや食事会、観楓会、観桜会等々、いろんなイベントを企画できそうである……、というか、もうどこかの同窓生組織はやっている。そう予想する。

今度、高校女子バレーで三冠王となった金蘭会高校は、その昔、大阪高等女学校(現・大手前高校)同窓会である「金蘭会」が設立した女学校が継承されてきたのだという。大学の同窓会にはその位の力があると思う。

★ ★ ★

もう一つ。「うまく行くのかなあ」という話は日本のサッカーだ。

一体、日本がサッカー強国になる日はやってくるのだろうか。長くやっていても、中々、強くなれない。もっと人気のあるスポーツ種目がその国にはある、そんな国は数多くあるのを忘れちゃあいけない。その国の国民は他の種目を好む。こういう論点はずっとあり続けると思うのだ。

メキシコ五輪で日本サッカーは銅メダルを獲得した。名選手・釜本や杉山がいたからでもあるのだろうが、組織・戦術も良かったのだと思う。戦術とチーム、選手がピタリとマッチした。そう言えるのじゃないか。

確かその時の指導者は、ドイツから来たクラマー氏、『日本サッカーの父』と敬称される人物だ。

元来、日本人とドイツ人は国民性や完璧を求める性癖、組織への忠誠など多くの点で共通性があると指摘されている。組織的攻撃、組織的防御を重んじるドイツサッカーが日本人に順応したのは、猛練習もあったのだろうが、分かりやすい、親しみやすい、感覚に合った。そんな側面もあったような気がする。

嫌いなものは、いくら合理的に説明されても、やっぱり嫌いなものだ。原・資本主義が今でも多くの日本人に好かれていないのは、儲けを楽天的に肯定するその感覚がどうにも嫌らしく感じられてしまうからだ。

小生、サッカーは全くの素人でおしゃべりするしか能がないのだが、それでもドイツのサッカーを見ているといかにも合理的でドイツ的だと感じるくらいはできる。そして、その戦術を成り立たせている要因の一つに、まず大きな体格がある。

日本人はその感性からいってドイツ的サッカーと親和性があるのだろうが、やっぱり体格面で実行には限界があるのだろう。それで、必ずしも体格が大きくなく、日本人とどちこちない南米で展開されているサッカーに目を向けるようになっているのだろう。

そんな話をしたのだな。

しかし、だとすると、体格的にはバランスがとれるものの日本人にはどうだろう。これが話のポイントだった。
チームと個人との関係 ➡ 個々人の感性 ➡ どう振る舞うのがよいとされるのか
会社組織でも致命的に勘所になる上の点である。その時、その選手にひらめいた直観にしたがって、予想外の飛び出しをする。それをみて瞬時に理解した選手がサポートして追随する。味方にも突然の行動は、相手にとってはもっと予想外だ。サッカーの攻撃力は、こんな要素がないといけないのじゃないか。こんな所がサッカーの面白さの本質じゃないか。南米やスペイン、ポルトガルといったチームはそんな感性が本当にマッチしているように思うのだがどうだろう。そして、そんな感性で振る舞うことは、日本的な美学とは少し違っているような気がするのだがどうだろう。

だとすると、W杯優勝を特に戦略的目標にせずともよいではないか。自分の感性にあったプレーをすればよい。感性に合ったプレーを磨く限り、個のレベルにおいて、日本サッカーは一流の人材を世界に輩出できる。そんな期待もあると思うのだね。

小生、意外と中国はサッカーという競技で求められる感性をすんなりと自分のものにして、あっという間に変幻自在の攻撃を得意とするサッカー強国に生まれ変わるような予感がしてならないのだ。何せ中国は杓子定規なA型人間ではなく、予想ができない行動を旨とする長嶋型B型人間の大集団であるのだから。決して悪口ではないが、キチっとしていない、そこがプラスに働く可能性は大いにある。そう思っているのだな。


2015年1月11日日曜日

備忘録-最近のトラブルで思うこと

パリで起きたイスラム過激派によるテロは一先ず犯人射殺で終わりを告げそうだ―なお一味の女性が逃走中とのことだが。

今回の事件の根本には「報道の自由」、「表現の自由」と、同じように自由であるはずの「信仰」がある。問題の本質はこの二つの兼ね合いなのだろう。信仰は自由だと言っておきながら、少数の人々、新参の人々が共有する信仰への敬意が欠ければ、ことは言論の領域内では収まらず、リアルな力の使用が誘発され、ついには現実の社会が揺らぐことになる。こう想定しておくのは当たり前ではないかと思う。

★ ★ ★

某氷上のアスリートが自分のSNSで愛児の写真を公開したところ、ネガティブなコメントが殺到し、これに対して正面から反論したというので、その行為に対する「賛否両論」で盛り上がっているという。

昔と違って、多数の人の意見をデータとして集めるのは本当に低コストで済むようになった。何にせよすぐに『世間の賛否を問う』というやり方はその副産物である。

異常気象を正常化するため世界の人口を今後50年で3割減にすることは正しい方向かどうか?ネットでアンケート調査を行って賛否を問うことにしよう。・・・・・・ありえるな。

100歳を超えれば十分な長寿だから、後期高齢者のうち100歳超の人を超高齢者と定義したうえで、医療費の自己負担率を引き上げることにしよう。全額自己負担とするか。これが駄目なら増税だ。これも判断が悩ましいのでアンケート調査をして世の賛否を問うことにしよう。・・・・・・、ないとは思うが、民主主義の危機そのものだね。

アメリカの「近代文明を考え直す会」は地動説を否定して天動説を唱えているらしい。宇宙の中心というのは、宇宙には涯てがないので、どこをとっても許されるのだ、と。なら地球が中心だ、と。そう言っているらしい。これにも賛否両論があるらしい……。

上のすべては事実になるかもしれないフィクションだ。

★ ★ ★

マクドナルドほか食品への異物混入事件が続いている。そういえば、小生の母親は決して弁当はおろか、惣菜も外で買ってきて家で食べようとはしなかった。「何が入ってるか分からないでしょ!」と話していた。何しろ「戦後闇市」の経験者だ。「何が入ってるか分からないでしょ」は実に自然である。そういえば、小生、祭りのときの綿菓子すら食わせてはもらえなかったなあ……。

この30年間、日本で最も拡大した産業として、IT業界は当然として、外食産業もある。もはや日本の典型的家庭は、一日三回の食事をすべて家で料理しているわけではない。朝食をつくらない家庭はとても多い。昼食はコンビニ頼み。夜は「ほっかほっか弁当」が頼り。料理するのは時間がかかる。異物混入は、起こるべきトラブルが起きてしまったとも思うのだ。

10億個も製造していれば、3個くらいは信じられない原因でまさかというモノが入ってしまうこともある。一つの逆説だと思うが、確率的に信じられないことも、意外に少ない試行で意外に高い確率で起こってしまうものである。

たとえば正規分布において±3シグマを超える結果は上下両側で0.3パーセントの確率しかない。だから、もしも大きさが3シグマを超える値が100個のサンプルに混じって出てくれば、これはおかしいと。そう感じるのが、「常識」だと思われる。

では100個のサンプルをとろう。サンプルの最大値はどんな値になるか。その可能性を確率分布で見よう。

上の図は、標準正規分布から100個のサンプルを抽出し、サンプルの最大値を記録する実験を1万回反復したときのヒストグラムである。実験全体のうち1290回、12.9パーセントは最大値がプラス3シグマを超えている。

3シグマを超える値の出現頻度は、本当は0.15パーセントしかないのだが、100個のサンプルをとるとすれば、確率13パーセントで3シグマを超える値が入ってきてしまうわけだ。これも常識が通じない結果ではないだろうか。

そんな値は1個でも入ったら駄目だというなら、そもそも最初からそんな値を無くさなければならない。しかし、これは技術の限界を超えるかもしれない。出来るとしても管理コストがはね上がるからハンバーガー1個の価格が500円になるかもしれない。ビッグマックが2000円になるかも。でもまあ、これも安全コストと考えれば、納得されるのだろうか……。

2015年1月9日金曜日

「報道の自由」は揶揄・からかい・侮蔑の自由とは違うはずだ

事件が起きてから時間が経過しているが、TVのワイドショーではイスラム過激派によるパリ"Charlie Hebdo"編集部銃撃事件が話題になっている。

実に無慈悲でおぞましい事件だ。そして犯行者達には「報道の自由」、「表現の自由」を踏みにじる暴力であるとの非難が集中している。

しかし、これを以て世界の十数億人のイスラム信徒への憎悪が高まるとすれば、とんでもない過ちだと思われる。

いわゆる「報道」をめぐるこの種の事件が起きるたびに感じることは、「報道」とは社会が必要としている情報を提供する行為なのか、結局はパチンコや雀荘のようなエンターテインメントを提供する行為なのか、どちらに近い行為なのかという疑問である。すべてを「報道」という単一の名詞にくくって良いのだろうか。個人的には、小生、「報道の自由」は自国であれ他国であれ国家権力に立ち向かう時にこそ口に出来る言葉であると思っている。

報道をつぶさに観察すると、要するに多数が何人かの人を話題にすることが多い。時には、面白く、また可笑しく、その時の話しのネタにする。そもそもそんな側面がなければ、ビジネスとしての報道は成立しないのじゃあないか。こんな感想を頻繁にもっている。だとすれば、多人数の人間が少数の人間を揶揄したり、からかったりする言動も、時に「表現の自由」という美名の下で何ら問題とされない。こんな状態もありうるわけである。

ま、今回のパリ銃撃事件がこんな例に該当すると言うつもりはないが、たとえば権力をバックにして仕事をする公務員には「公務員倫理規定」がある。同じようにジャーナリストにも「報道倫理」がある。たとえばボルドー宣言が具体例である。そこでは、論評の自由とともに中傷・名誉毀損の排除が挙げられている。社会的な力を有する者が絶対的な自由を得れば必ず堕落する。故に倫理規定が不可欠で、規定に反する者は懲戒することが求められるのである。その懲戒は確かに担保されているのだろうか。

「イワシの頭も信心から」という格言がある。原始宗教が現代医学の活用を妨げている社会があれば、遅れた社会を啓蒙する行為も必要であろう。人の生命を救うからである。命を救いたいという意志は結局はその遅れた社会にも理解されるだろう。しかし、そこで口にする言葉に侮蔑やからかいが混じれば、相手は憤激するであろうし、自分たちが攻撃されていると認識すれば反撃もするであろう。そう考えたりもするのだな。

『表現の自由』、『報道の自由』には、極めて高いモラルと博愛の精神が裏付けとしてなければ全ては偽善になる。そう思っているのだ。




2015年1月8日木曜日

「教育機会の平等」が最重要とは分かっているが

本日の地元紙の社説は「教育格差」の拡大への懸念である。

具体的には「小中一貫校」の制度化で、これ自体について反対することは難しいものの、財政が潤沢な大都市に偏って設立される、その結果、教育の機会均等が損なわれるのではないか。そんな心配である。これは実にもっともな指摘だと思う。義務教育は、機会均等の基盤であり、この理念と矛盾した教育政策はそれこそ「違憲状態」にあたると思うのだ、な。

ただ、こんなことも書かれてある。

制度化が、学習内容の前倒しや学習速度による子供の選別に拍車をかけないか、心配だ。
授業についていけない子を増やす結果を招かぬよう、文科省には細やかな対応を求めたい。
小生の本務である統計教育では、「ゼロから学ぶ」が基本原則なのだが、履修者の間には相当の知識格差がある。そもそも理系の頭脳は文系の頭脳よりも統計分析を速やかに理解するものだ。この点は、どんな方式で授業を展開しても同じだろう。ボトムに合わせて授業を進めると、理解の速い履修者は必ず不満をもつ。『お互いに教えあって、同じスピードで同じ知識を吸収していくように努力するべきだ」という理念は、授業の現場では中々実行困難なのだ。小中学校の初等教育と専門教育とは違うと反論されそうだが、多人数のクラスを相手に授業をするなら同じである。

それ故、「授業についていけない子」が増えている現実を心配するのなら、学習速度によって子供たちを区別しなければならない。これが当たり前のロジックだろうと思うのだ。

もちろん(当然のことだが)、クラスの全員がよく授業を理解して、みんなが一定の知識・技能を習得することの方を重要視するか、それとは別に授業に参加した履修者一人一人が高い満足をもって自己の知識能力の向上を自覚する、こちらのほうが重要だと考えるか。この二つのいずれが大切か。それは、その教育システムの中で何を目的にしているのか。教育の目的に依存する。

個人的には、初等教育の目的は子供一人一人が「自己表現」を知る。自分の「居場所」を知る。これ以外に他に何がある、と。そう思っている。ま、あくまで個人的な考えだ。

本日の道新の社説を読んでいて、違和感というか「どうも解せん」という感覚を覚えたのは、『何のために日本の初等教育をするべきだと言うつもりですか?』と、そこが分からなかったからだ。「いろいろな目的がありますよね」では、いかんと思うのだね。最も大事な目的が公教育にはあるはずだ。『あなた、それ、どう考えるねん?』、そういう問いかけである。

授業についていけないのは理解不十分な子を選別しないからである。選別するというのは、違ったことをやるということだ。同じように理解せよと求めておいて、その結果が悪いと差別するなら、非人間的である。等しく扱うという原則を守るあまり、理解不十分なまま放置され、その状態で進級していくという現状は、極めてアンフェア、というか偽善的・不誠実であり、現場の教員のモラルを甚だしく傷つけている。小生はそう思っている。

2015年1月7日水曜日

石油価格の低下ショックとは?

石油価格の急低下が下げ止まらず、米株価が低落し、日本株も急落している。不安定な欧州株は込み入っていて、石油価格の低下に加えて、ギリシア不安の再燃もマイナス要因の一つである。ドイツがギリシアのEU圏脱退を容認しそうだというので、いよいよ現実味を帯びてきたのだろう。それに足元の<逆石油ショック>が、ロシアの財政危機、ルーブル危機を招く。こちらのリスクが本当はもっと怖いのかもしれない。1997年から98年にかけての国際金融不安を思い出して怯えない人はいないはずだ。


Source: FRB St. Louis, FRED, WTI

つい先頃までは石油価格上昇に世界が冷や汗を流したものだが、下がってもまた肝を冷やすとはこれいかに、だ。『変わらないのが一番なんですよね』という巷の声が聞こえてくるようだが、日本にとってだけは今冬の石油低価格は「天佑」ではなかったのだろうか。株は下がっていますがね…、多くの人は安堵してハッピーのはずだ。


Source: Bloomberg, Thomson Reuters CRB Commodity Index

いずれにせよ、石油価格の低落は世界市場で商品市況全般の下落を誘い、いまはモノが安く、カネが高い状況になっている。モノからカネへ富をシフトさせつつあるので、債券価格は上昇し、金利は下がる。もし日本でデフレ脱却が成功するなら、期待インフレ率が上昇していなければならない。名目金利は上がっていなければならない。しかし、長期金利は下がっている。石油価格の低下によってデフレはなお持続するとの見通しが形成されつつあるからだ。この分では、今春の賃金上昇率もそれほどのプラスにはならないのではなかろうか。

今春の賃金上昇がそれほどのプラスにならなければ、延期された消費税率引き上げが再び政治リスクになってくるだろう。軽減税率対象品目の絞り込みが難しくなるのは確実だ。

× × ×

天気予報では、今日、明日と猛吹雪とのことだ。前回の爆弾低気圧は空振りであったが、今度は的中したようだ。昼前から国道は時にホワイトアウトの状態で極めて危険だ。いま現時点、小生は自宅の窓から外をみているが、海を眺められる高台にあるため風がまともに吹き付けてくる。なので外は真っ白である。今晩は同僚と共同開講しているエコノミクスの授業が隣町であるのだが、もしも夜になって交通が途絶すると帰れなくなる。今日は同僚が担当していることでもあり、小生は参加困難だと言いおいたところだ。

2015年1月5日月曜日

司法の政治性に関する雑談: 参院選違憲判決に対する批判と反批判

先日の参院選違憲判決について、小生が投稿した文章をネタにして帰省した下の愚息とおしゃべりをしてみた。そうしたところ、議論の論点は把握できたものの、有効な討論をすることは出来なかった。理解力はついてきているが、論理構成力はまだまだ未熟だねえ、と。ま、新米だから仕方がないか。

要点は次の文章だ。ここは愚息も焦点をあてることができていた。
それ故、最高裁が展開しているロジックは、一つの経済政策であり、極めて政治的である。
 ★ ★ ★

小生: お前が判事の立場に立って考えるんだぞ。上の指摘は論理的に正当か?

愚息: 確かに正当だね。人数に比例して定数配分をすると、農村地域は少なくならざるを得ないから、政治的には弱者になる。

小生: そこからどんな批判が予想される?

愚息: ええっと … …

小生: 経済政策を実行する権限はどこにある。

愚息: 裁判所にはないよね。

小生: 行政府。というより、政治の基本方針は国会が立法によって決めるものだ。憲法に明らかに違反していない限りね。だから、裁判所が(事実上)特定の政治的立場を支持するのは司法権を逸脱する。こんな批判はありうるな。じゃあな、いまのこの批判を反批判してみな。論理的にだよ。

愚息: そもそも国会議員は選挙区の代表ではないんじゃないかな…

小生: 相手の論理、相手が拠って立つ根本前提を使って、相手にとって都合の悪いもう一つの結論を導き出すんだよ。

愚息: ・・・・・・・

小生: 職業選択の自由は憲法で保障されている。そうだな?

愚息: うん。

小生: ところがBではなく、Aという職業を選ぶと、最初から政治的に発言力が弱い立場に置かれてしまう。これは不適切ではないか。それを裁判所が主張するのは問題じゃないか。それが判決批判の本質ではないかい?

愚息: そうだね。

小生: だとすると、反批判は簡単だぞ。「あなたの言うとおりだとすると、こんな結論も導かれますよ」とな、そういう議論をすればいいんだよ。

愚息: う~ん、思いつかない

小生: 現在は、農村地域に住んでいる100人は、大都市に住んでいる100人より、多くの国会議員を選ぶことができている。これは、農村地域に暮らしている人は政治的に強い発言力をもっている。そうなるよな。そもそも居住、移動は自由であるとされている。であるのに、大都市に移動すると政治的に不平等な立場に置かれてしまう・・・

愚息: 現在の定数配分に問題はない。そう判断するとしても、やっぱり特定の政治的立場を支持することになってしまう。こうかな・・・・・・

小生: そうだね。選ぶ職業によって政治的強弱が決まってしまうのが不適切だというなら、選ぶ住所によって政治的強弱が決まってしまう現在の状態も不適切と言えるでしょう、と。そうなる。

愚息: 確かに批判を封じることができるね。

小生: 相手の拠って立つ大前提から別のもう一つの結論をだしてきて矛盾に追い込む。それによって相手の大前提そのものを否定する。こんな論証の仕方を「背理法」とも言うね。

★ ★ ★

もちろん議論は、ここでは終わらない。

議員定数配分をどうするかは、どんな結論を出しても、必ず特定の一つの政治的立場に立たざるを得ない。これが要点なのだ。

だとすれば、議員定数配分について違憲訴訟に直面する裁判所は何に基づいて判断すればいいのか?それは、当然、憲法の文言しかない。

憲法の理念である「法の前の平等」というのは、具体的に「どのような時の、どのような平等」のことを言っているのか?この問いかけである。(いずれにせよ)一つの特定の政治的立場に裁判所が立つことを、憲法が要請しているのだとすれば、それはどんな立場に立てと言う要請なのか?その問いかけである。

中々に興味深い、ハイレベルの議論が展開できると思う。しかしながら、小生、個人的には喧々諤々の議論をするよりは、国政を基礎づける選挙の定数配分くらいは、憲法でその理念を書いておくべきだ。そう思っているのだ。


2015年1月4日日曜日

新・三無主義は協調性の裏返しか?

年末に帰省した下の愚息は正月二日に東京へと帰って行った。三日、四日と職場で仕事を片付けておきたいらしいのだ。

ここ北海道の実家に滞在中、シャンパンを飲みほし、昨今流行のウィスキーを試飲し、東京の地酒「金婚正宗」に舌鼓を打ったかと思うと、すき焼き、カニ鍋を楽しんだ。その合間に小生ともおしゃべりをしたのだが、どうも仕事を始めてから、中身の面であまり成長をうかがうことはできなかった。ただ、周囲の人物、上司の人たちと良い関係を形成する―これがいい仕事をするためには実は一番重要なのだが―この点にはいたく心をくだいて来たようであり、その努力はかなり功を奏していると思われた。

とはいえ、論理構成力や問題の本筋をどうとらえるかなど、実質的な話題で試したところ、たとえば先日投稿した参院選挙違憲判決あたり、ズバリ本質を指摘しあうような会話を愚息とすることは出来なかった。やはり、まだ毎日の仕事の中で課題を処理することに120%の力をつぎ込んで消耗し、本や新聞を読む時間もないように見受けられる。

愚息が帰って行って、カミさんとこんな話をした。

小生: それにしても外柔内剛が理想なんだろうけど、「あいつは使える」っていうパターンになるのは、あんまり良くはないねえ…。 
カミさん: 新人なんだから誰でもそうじゃないの? 
小生: 中々覚えられない、要領の悪い新人もいるって言ってたろ?ホントに地頭が悪くて仕事が身につかないのもいるもんだけどね、自分の考え方とその組織の手順がどうも相容れないっていうかな、だから反発して仕事の覚えが遅い。これは決して悪い事じゃないんだよな。何を教えても、スウッとね、素直に吸収してしまうというのは、ある面、無主義・無信念の証拠でもあるんだよ。 
小生: あの子、小難しいことは考えないのよ。あっそうそう、「東京バナナ」を買ってきたのが、まだ残っているよ。食べる? 
小生: 東京バナナ?うちは東京でずっと暮らしてたんだよ。東京バナナなんて、今更食べるはずないだろ!それを買ってきたのか? 
カミさん: あの子が好きなのよ。 
小生: センスないなあ…ほんとに。無主義・無信念・無感性って言い変えんといかんなあ。 
カミさん: だから上の人に評価されるんじゃないの? 
小生: 「使える奴だ」っていうことだよ。どうも気にいらんねえ。 
カミさん: そう言えばよかったじゃない。 
小生: う~~ん、それは悪いから改めろとも言えんだろ。素直すぎるから悪いとは言えんからな。
まっ、近年フレッシュマンが守るべき鉄則として推奨されている<ホウ・レン・ソウ(=報告+連絡+相談)>を実に巧みに実行しつつあるのが下の愚息の今日この頃であるらしいのだ。

しかし、どうなんだろう?

既存組織と最初から溶け合うように心がけ、何ごとも自己を滅して周囲と協調するというので、本当に組織は発展していくのだろうか?

本人の思想、戦略が明確であれば、ホウ・レン・ソウなど文字通りのマニュアル化、煩雑なルールでしかないだろう。柔軟な発想をもつ若手の創造力を抑えつけ、管理という美名のもとで企業の成長機会を奪っている諸悪の根源とすら言えるかもしれないではないか。というわけで、過剰な協調性は外柔内剛ではなく外柔内柔。単に「使える奴」。そんな風にはなってほしくないねえ……。今日はこんな風に思っているところだ。

そういう小生は、実に難しく、角(カド)があって、使いづらかった若手であった。もちろん自慢とは違う。その反対で、昔を思い出しては、冷や汗を流しつつ、亡くなった先輩に謝罪したかった。そんな後悔の念にさいなまれているのだが。

小生: それにしても、あの素直さは誰に似たのかな? 
カミさん: うちの方かもしれないね。 
小生: だけどあれだよ。僕のオヤジの方も現場派っていうかな、分担しながら徒党を組んでやっていく。そんなスタイルがすごく好きだったよ。 
カミさん: あの子も現場派なのよ。作戦だ、戦略だなんて仕事はつまらないんじゃない?
一年前にはこんな話はしなかった。それを今日はやっている。してみると、愚息はともかく、小生の方は見方の変化、考え方の進化というのがあった。その位は言えそうである。

× × ×

……とはいうものの…だ、まずは一兵卒として優秀であることを志す。それが、上の立場に立った時に人を活用し、組織の問題を解決できる。今日やっていることは、明日やるであろうことの土台になる。ま、そう見れば新・三無主義も過剰な協調性にもそれ相当の戦略性が隠れているのかもしれない。当分はそう思っておくか。

2015年1月1日木曜日

White Happy New Year 2015

よく1879年の観測開始以降最大の積雪云々という言いまわしをきく。しかし、気象庁の前身である函館気候測量所が開設されたのが1872年(明治5年)、その後内務省に移管され、東京気象台が設けられたのが1875年(明治8年)であることはWikipediaにも書いてあるが、1879年がどんな年であるのかよくは分からずにいる。

ただ1879年も東京には相当な大雪が降ったことは下の浮世絵からも推察がつく。


小林清親 「上野東照宮積雪之図」、1879年
(出所)浮世絵検索

朝日新聞にはこんな解説がある。
明治以降、東京で観測史上、最大の積雪は1883年(明治16年)の46cmだそうですが、いまから200年ほど前の1822年には、品川で2mの積雪があったとの記録もある、と伝えられています。
(出所)朝日新聞 DIGITAL, 2014-2-18

昨冬2月(本年2月)の積雪は確かに記録破りのものだった―ただ個人的には2012年から2013年にかけての冬の方がずっと荒々しい暴風雪が12月早々から吹き荒れていたような記憶がある。

ま、何にせよ雪はハラハラと降るのが風流で美しい。というより、雨も風もホドホドが最良である。上の図は、白一色に染まった上野東照宮を女が一人歩いているが、せいぜい10センチ位は積もっているだろうか。それなら俳句の一つでもひねり出したくなるような季節の添え物である。

上の図とは反対の当地は、極北とまではいかないが、昨日大晦日はまた雪がしきりと舞った。今日元旦は吹雪と思いきや、昼までは幸いに晴れていた。と、午後になって初詣に出かけている最中からまた降り出したりと、一喜一憂するような落ち着かない空模様だが、雪五尺より余程ましである。
これがまあ ついのすみかか 雪五尺 (一茶)
当地の積雪は日本気象協会のアメダス・データで90センチ。五尺に足らぬ三尺だ。三尺でもスキーから引退して以来、冬の積雪は楽しみではなく、苦痛になってきた。セカンドハウスを買うとすればどの町に買うかで、いろいろネット情報を調べているのだが、白老町はこの時期でもなお積雪1センチ。函館に近い大沼は17センチ。やっぱり住み易いだろうなあと早くいい出物がないかと焦りを覚えたりするのである。