今月13日付朝日新聞の夕刊コラム「素粒子」に「少女に爆発物を巻き付けて自爆を強いる過激派の卑劣。70年前、特攻という人間爆弾に称賛を送った国があった」という記述があった。(出所)産経ニュース、2014-01-29
わずか4行だが、この記事を読んで言葉を失った。というより強い怒りがこみ上げてきた。特攻隊とテロを同一視しているからだ。
産経が朝日に腹を立てるのは、昨日・今日始まったことじゃあないが、それほど憤慨するような文章だったのか…、そう思って元記事を調べてみた。
日中韓にそんな日が来るだろうか。独仏首脳が、イスラエルとパレスチナの指導者が隊列を組む姿に目を見張る。(出所)朝日新聞DIGITAL、2015-01-13-15-14
☆欧州の自由と連帯のプラカードの裏側は寛容と多様性のはず。嫌悪や排斥が忍び込む風潮は日本のいまとも似て。
☆少女に爆発物を巻き付けて自爆を強いる過激派の卑劣。70年前、特攻という人間爆弾に称賛を送った国があった。
確かに独仏首脳が手を携える情景と日中韓の現況を話題にしつつ、最後は「特攻という人間爆弾に称賛を送った国」と言うのだから、言外に伝えたいのは「戦争と侵略の反省をしない日本」、というより「戦後の反省を無にしようと企てる安倍政権」。言いたいことはこんなところだろうと推察はつく。
「反省をしているドイツ・反省をしていない日本」という単純な図式にも大いに眉唾的な見落としはある。ギリシア債務問題とユーロ圏離脱をめぐりドイツの発言とギリシアの国民感情がもつれあっているが、ここにも「歴史問題」が未解決なまま放置されている。(参考)「ドイツを見習え」の虚構
しかしながら、だ…。本日はこれとは別の話題にしよう。
産経が憤っているように、やはり特攻とテロとは違うと。この点は小生も同感する。
そもそも特攻は日米が<戦争>をしている中で公式に採用された帝国陸海軍の作戦である。終戦の前、昭和19年の初め頃から研究されていたようだが、その作戦目的の一つは敵の戦意をそぐことにあったというから、この戦術は数量的エフィシェンシーというよりも、寧ろ米側に与える心理的効果を期待したコミットメントであったとも言える。
純軍事的な評価としては、日本側の損傷ばかりが大きく、表現は悪いが、島国で焦土作戦をとれない日本が已むなくとった「人的焦土戦術」であった、と。そう考えると、特攻作戦の直接的効果は僅少であったろうが、米側が最後にとるはずであった日本本土上陸作戦で予測される損害を上方修正させた。そういう効果、というか可能性は確かにあったのではないだろうか—それがひいては原爆投下を決意させた理由にもなったかもしれないのだが。
ま、そんな風に思っているのであって、現に宣戦布告をして互いに殺し合っている二国の一方が他方に対してとる戦術と、無差別テロ活動は国際法から考えても、倫理という点から考えても、決して同じではない。たとえは悪いが、仇討ち免許状もないのに私憤から主人の仇を殺せば、それは「仇討ち」ではなくて単なる「殺人」である。まして、狙う相手の友人まで憎くなったからといって、その友人まで刃にかければ「称賛」どころか「許し難い暴挙」となるのは当たり前である。武力紛争にもそれ相応の道があると。この位は言っておいてもよい。
それ故、朝日新聞の素粒子を書いた著者の感覚は「ミソもクソも一緒にして、故国の歴史を意図的に貶めている」、そう言われても仕方がない所はある。
とはいうものの、だ…。いくら特攻作戦がテロとは違う窮極の自己犠牲であると言っても、そのような作戦指導しか行い得なかった政府をいだき、その政府の指導に従った日本人は窮極的に不幸であったと言うべきだ。現時点のイスラム国も人間集団であり、過去の軍国主義日本も人間集団である。二つの人間集団がとっている行動形式と、そこで生きる人間の幸福と不幸という次元で考えると、イスラム国と特攻日本とで、一体どこに本質的な違いがあるだろうか?
理屈としてはムチャクチャな議論ではあるが、このような感覚を失わないでいる新聞があることは現代の日本人を幸福にしているヨスガではないか。小生は、そう思うのだ、な。いわゆる「保守主義者」は、ありのままの日本人を考えること自体に難しさを感じるのだろうが。
いずれにせよ、国家観や社会理念を共有できない保守と革新の対立は、単なる政争だけをもたらし、普通の人たちの幸福の増進にはならないものである。器が小さく、視野狭く、仲間には寛容で、敵には非寛容で情けを知らぬ点だけが唯一の共通点であろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿