2015年2月28日土曜日

政治反応式: 与党のカネ+野党の身勝手→システム障害

政権がかかえる金の問題をあぶり出すしか、どの野党も攻勢をとれないというのも困ったことだが、現にカネの問題があるというのも決して良いことではない。

良いことではないことがあれば、そこに「問題」が発見できたということなので、悪いことではない。悪いのは、その「問題」を放置することである。

問題が見つかれば、やるべき仕事は問題解決への道筋を審議することだ。

もちろん目標が定まっていなければ、解決方法は決定不能だ。目標を確認し、解決方法を決めても、実際には新たな問題が発生するだろう。発生すれば、また目標達成への道筋を探せばよいのである。「進歩」はこうして実現する。

一言で言えば、PDCA(Plan-Do-Check-Act)サイクルである。このくらいは、どの企業でも知っている、まさにマネジメントの本質だ。

× × ×

国会議員が議員歳費だけでは、十分な(あるいは)自分が志している政治活動ができない、と。そう思うなら、自分の志に共感してくれる支持者から資金を集めるという行為は、民主主義社会を運営するならば、どうしても必要なことである。

君主専制社会であれば、政治活動のために資金を得ること自体が反逆罪になるであろう。多数から資金を得て自分の政治活動を支える行為は「罪」ではない。社会として容認しなければならない。

総務省から支給される政党交付金のみが「正しい政治資金」であるという見方は正しくない。政党や政治家は公権力から独立して政治資金を集めることができる。これを認めておかなければならない。どうしても、小生、そう思うのだね。これが基本だと。

しかし、資金の経理は公正なものでなければ、誰のために政治を行っているか分からない。これは犯罪の温床になる。不透明な経理を禁止しているのはそのためである。

× × ×

国会議員の政治資金経理に問題が多数潜在している。とすれば、どこかに問題があることは確実なのだから、監査制度を「カイゼン」すれば良いのである。

要は、政治資金のコンプライアンスとは何かを議論するべきなのである。ま、個人的印象としては「政治資金のコンプライアンス」ということ自体、矛盾とまでは言わないが、政治の活力を失わせる麻酔のような作用がある。こんな風に、小生、思うこともある。が、この話題は今日の本筋ではない。

政治資金の経理システムを改善するべきだと提案せずして、ただカネの問題を指摘し、政治への信頼性を毀損しようとする行為は困ったものだ。民主主義社会の政治に疑念を感じさせる行為であって極めて情けない、身勝手な戦術である。

× × ×

身勝手というより、カネの問題をとりあげて攻撃的姿勢をとればとるほど、全体としては既存の政治家を強化する結果になる。これから足場をつくっていく挑戦者には不利になる。そうしたものではないか。何事をするにも意図せざる結果が実現される。世の中、そんなものではないか。

たとえて言えば、正攻法では勝てないとみてラフに戦ったり、反則を繰り返す格闘戦術に相通じるところがある。その時は勝つこともあるだろうが、その攻め方が現・チャンピオンを守る結果につながる。まして自らを強くする結果にはなり得ない。そう思われて仕方がないのだ、な。

要するに、システムの活力を損ね、上下を固定し、結果として進歩をとめるのだ。

野党集団の低レベルにも呆れるのだが、がしかし、これだけ長期間放置されているのだから、政治資金の監査厳格化を避ける誘因がある。その誘因だけは超党派で共有されている。そんな構造もあるのだろう、と。そうも思われる。とすると、これ自体、民主主義社会の政治への疑念にもはやなっているではないか……。

実際はこうなんではないですか、と。なぜマスメディアは「政治資金の構造分析」を特集しないのだろう。小生にとっての「日本政治の七不思議」なのだ。

2015年2月27日金曜日

白鵬と木鶏の話し

先日、白鵬がとり直し審判を批判したというので盛んに反批判された件について投稿した。

双葉山が70連勝を阻止されたときの名文句『いまだ木鶏たりえず』。なぜそれを白鵬に贈らなかったか、不審に思うという趣旨だった。

ところが、だ……白鵬関、この木鶏のことを知っていたのだねえ。昨日になって以下の記事を見つけたのだ。

強い闘鶏は、木彫りの鶏のように動かず泰然としている、との中国の故事に由来した言葉。横綱双葉山は、連勝が69で止まった時、「イマダモッケイ(木鶏)タリエズ」と友人に電報を打った。白鵬は昨年夏場所、自身の連勝が33で止まった際に支度部屋で「いまだ木鶏たりえず、だな」と話した。
(出所)コトバンク

引用元には「デジタル大辞泉の解説」と「朝日新聞掲載『キーワード』の解説」とがある。上に引用した一文は朝日新聞の方である。

どうも横綱白鵬は、いまだ「木鶏」の境地には至らない自らを知っていたが故に、足らぬ自分が取り直しの無念を言うのは自然である。そう思って、そう語った。そう憶測するのが事実かもしれない。

以上、先日の補足。

それにしても、国会審議の場で安倍総理自らが野次の応酬に参加した。それを注意されて、翌日『いまだ木鶏たりえず』といって謝ったというから、どうも木鶏という言葉も日常化してきたようだ。

元々は中国由来の「木鶏」だが、現代中国で「木鶏」が使われることはあるのだろうか。いや…、あるはずはないか……。そもそも『荘子』はまだ読み継がれているのだろうか。

2015年2月26日木曜日

こんな会話もある: 理想とリスク

こんど東京へ墓参にいく。カミさんも(珍しく)一緒に行く。これから、二人とも元気なうちは、こんなことが増えてくるだろう。

東京で愚息にあって食事をする予定だ。「食事」というと「空いてるよ」という、そうカミさんは言っていた。

こんな会話もあるかもしれない。
小生: 最初に自分に課した原理原則は「間違いのないようにやっていきたい」、そうだったな。これは正しいと俺も思うぞ。で、次だ。どんな風になっていきたいんだ?
愚息: 地位があがっていくのは結果なんだろうね。そうだなあ…
小生: ほしいのは名誉か、富か?普通はそう答える。
愚息: それは、どちらも違うと思う。
小生: 西郷隆盛は「カネもいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ、そんな人間は始末に困る」と語っていたらしいな。
カミさん: じゃあ何を求めていたの?
小生: その時点では「倒幕」なんだろうねえ・・・。なぜそれが目的だったのかは、本人に聞かないと分からんけどね。「なぜ」はともかく、カネもいらん、命もいらん、ただ目的を達成したいというのは、そりゃあ危険人物だろうよ。
カミさん: テロリストじゃないの?
小生: (愚息に向かって)なぜそんな人物が怖いのか?その本質的理由はなんだと思う。
愚息: どんな犠牲を払ってでも目的を達するという生き方なんじゃない。
小生: だいぶ分かってきたようだなあ。犠牲を考えないということは、損得計算をしない。目的を絶対の正義と見る。そういうことなんだよな。経済学ではナ、うまくいかないかもしれない、損になるかもしれないというリスクを避けようと言う人を「危険回避者(Risk Averter)」、リスクがあるからこそ楽しいという人を「危険愛好者(Risk Seeker)」と言ってるんだ。どちらでもなければ、その人は危険中立的(Risk Neutral)で、これはリスクの大小によって判断を変えない人たちだね。西郷隆盛は、危険のあるなしで自分の志を変えないわけだから、危険中立的である理屈になるのだけれど、そもそも命もいらないと言ってるから、その立場は「リスク無視者(Risk Negator)」。合理的な「経済人(Homo Economicus)」というより、吉田松陰のいう「ついに人間、狂に至る」の「狂人(Mad Activist)」であろうとする態度とも言えるわけだね。
カミさん: 危険な人物というなら、危険愛好者がもっと怖いんじゃないの?
小生: 『人生意気に感ず、功名誰かまた論ぜん』というのは、危険を伴う高邁な理想に共感したら、危険であれば危険であるほどヤル気が出てくる。そんな心境を言ったのだろうね。秦の始皇帝の暗殺を引き受けた燕の荊軻はそんな境地だったかもしれないな。ま、これこそテロリズムと言えば、そうなんだけどね。利益計算をする人は、必ずリスク評価をするものだし、となると危険の大小によっては目的を諦めて断念するからね。そんなキョロマには大事は託せん、と。昔はこんな議論が多かったのだろうな。
愚息: 出発点が正しくて、選ぶ目的が正しければ、どんな危険があっても危険を顧みるな。そういうこと?
小生: 『任重くして、道遠し』って前に言ったのはそれさ。お前のお祖父ちゃんが好きだった『敵百万人ありとても我行かん』も同じだな。西郷隆盛もそういう人間だったってことだよ。ま、維新、創業とか、革命というのは、そんな姿勢が大事かもしれんね。
まったく非合理的な会話である。学会であった時になされるような会話ではない。理詰めの会話ではない。しかしながら、話していて面白いだろうなあと思う、そんなやりとりでもあると思う。ロジックに魅力を感じるのでないとすれば、どこに魅力、というかプラスの要素を含んだ会話なのだろう?この答えは意外と明らかではないのではないか。そう思う。

いわゆる「論理」だけから社会にとって重要な結論が得られるわけではない。 科学が事実と論理から構成されるのだとすれば、社会科学のみから社会にとって重要な命題が得られるわけではない。そう言っても可であろう。


2015年2月25日水曜日

経営者感覚: 大和魂よりは平和で良いかもしれないが・・・

この国の政治や行政に「経営者感覚」が求められることは多い。

公務員の勤務姿勢、管理体制が甘すぎることを指摘する時、「民間企業ではありえない」としばしば語られる。民間企業には必ずあるはずの従業員の団体交渉権、争議権をも語るなら、そこで初めて傾聴に値する社会経営論になるのだが、小生の不勉強もあってか、経営者感覚を愛用する御仁にして、公平で客観的な議論をする人は一人もいない。

誰だったか、名前を目にすることの多い評論家だったが、消費税率を3%も引き上げたのは経営者感覚に欠ける、と。うまく行くはずがない、と。まあ、確かに経常赤字という問題を解決するなら、値上げは必ずしも有効ではない。その話と財政健全化とを同じ土俵で論じるかねエ……

目を疑いました。

★ ★ ★

いわゆる「公共政策大学院」ではなく「ビジネススクール」で勉強した人は特にありがちなのだが、会社経営が即ち組織経営の原理なのだと。そんな思い込みをする人が多いように感じている。

そもそも民間企業の−営利企業が大半を占めるので暗に想定しているのだが−目的は利益だ。まあ、最初から「当社の目的は利益です」といって、そのための戦略、そのための組織をどうするかと話をすれば、これはうまく行かない。スティーブ・ジョブスも、儲けようと思って仕事をしてきたわけではないと、語っている。しかし、企業の成長、ブランド価値向上など、民間企業の最終的成果は利益からもたらされる。これは当たり前の事実である。

損失ばかり出していますが、我が社の経営理念はしっかりと実現できています。そんな報告をして株主総会がすんなり収まるはずはないのだな。

★ ★ ★

民間企業なら事業戦略の前に企業戦略を練り直すことが可能だ。

経常赤字を解消するには、事業戦略の見直しが必要だが、もっと大事なのは事業全体の見直しである。そこに「経営者感覚」の精髄がある。

しかし、国家は赤字事業を切ることができない。切ることができるなら、医療保険、年金保険事業から即刻撤退するのが合理的である。それは分かっていることだ。

医療保険の赤字を解決するには、保険の多額申請者の保険料を引き上げることが即効的である。民間企業なら当然そうするだろう。なぜなら民間企業は利益を求め、そのため自由に撤退参入を行い、顧客とは自由に契約できるからだ。

逆説的ロジックだが、国営事業には赤字がつきものである。だからこそ、国家は対価性をもたない租税を徴収し、収支バランスをとるのである。

国家の徴税権は商品対価ではない。国会が議決する税法に基づいてただとられるのである。憲法上、国民には納税の義務がある。その納税額が歳出額の6割程度でしかないのは、行政を管理する政治の問題、即ち有権者の要求に問題がある、ひいては社会システムの設計に問題があるのであって、システムの一類型である会社経営の問題ではない。

故に、税制改革に経営者感覚を混ぜて議論するのは、文字どおり、「木に竹を接いだ」議論になりがちである。

2015年2月23日月曜日

維新の党の「身を切る改革」-戦術を目的にするのは韜晦か、それとも単なる低能か?

維新の党は相変わらず「身を切る改革」を主張している。

身を切る…、橋本代表の語るところを(メディアを通してだが)聴けば、具体的には『議員の給料を下げる、公務員の給料を下げる、そうやって身を切る。そうすれば、エアコンを買うくらいのカネは出てくるんですよ』。ま、こんなところである。

家計が赤字で貯金も底をついてきた。子供達の小遣いを減らしたい。それならそうで、まず大人たちが身を切ることから始めるのが筋だろう。「お父さんたちも我慢しているのだから、お前たちも我慢してくれ」、そんな論理であるな。故に、祖父や祖母の医療費は節約してもらう、お父さんの酒代、たばこ代、ゴルフ代は節約してもらう。お母さんのトールペイント代は節約してもらう。そうやって子供たちのお菓子代を節約して、未来につながる教育費を確保する。

これと同じだ、と。分かりやすく言えば、カネの使い道を考えろということだ。使い道がなければ減税しろと言ってもよい。要は、政府、というか公的部門は何を仕事にするべきか?いかに運営するべきか?ここにたどりつく話なのだな。

☓ ☓ ☓

議員の給料を減額するよりは、必要のない議員は削減するほうが効果的だ。
公務員の給料を減額するよりは、余っている公務員には退職勧奨を行うべきだ。

議会の審議は必要で、公務員の雇用も業務上必要なのであれば、給料の減額を埋め合わせる形で副業を容認しないと理屈に合わない。

というより、公務員の給料減額と引き換えに副業を認める方向をとるなら、むしろ本業をもった人材が安い給与で公務を担当可能とするほうが、維新の党の理念には一層沿うはずである。

実際、デモクラシーの源流である古代アテネでは、裁判を担当する判事は市民から選ばれていた。いわゆる職業裁判官はおらず、故に裁判に必要な人件費コストはゼロであった。軍事行動も自由市民が自らの支出で負担する武具を装備する重装歩兵密集部隊(=ファランクス)が中心だったので、職業軍人に支払う人件費もゼロであった。装備費もゼロであった。

すべての公務員の給料をゼロとすれば、これこそ究極の「身を切る改革」になるはずだ。その理念は、独立した自由市民を基盤とする共和社会の構築。立派な理念である。「小さい政府」を希求する一つの立派な政治的立場である ― この究極的状態でなお天皇制をしくのは、どう考えても矛盾した発想なので天皇制維持はこうした方向と(本来)矛盾している。

なぜ維新の党は、理念を希求するための戦術に過ぎない「身を切る改革」を目的であるかのように、提唱しているのであろうか?分からぬ。

理念を語らず、アクション・プログラムのみを説明しているために、維新の党は必要以上に危険視され、低能視されている。政党として大変損な行動パターンをとっている。そう思うのだ、な。

もちろん上のような全公務員の給料はゼロ。公務員は別に本業をもった有能な人材をもって充てる。こんなシステムにも落とし穴はある。が、これはまた別の機会で。

2015年2月22日日曜日

世界の軍事費―たしかにこれはアンバランスだ

Google+でThe Economistの最新記事を紹介してきた。掲載されていたグラフを以下に引用しておきたい ― 出所を表示しておけば適法か……ま、小生の周囲の常識から判断する限り、無断引用にはならず、問題はないのだが・・・。



サウジアラビアが急増しているように見えるが、その右の実額をみると大した額ではない。多額の軍事費を計上しているのは、やはり中国か。それからロシア。そのロシアよりサウジアラビアの軍事費は多い。それとインド、韓国…そして日本。この辺は軍事予算を増やしている。

他方、減額はドイツ、イギリス、フランス、アメリカ。う~ん、軍事バランスが変わりつつあるねえ、と。そう思って実額をみると、アメリカが断トツの巨額である。これでは少々の減額くらいでは、世界の軍事(アン)バランスは変わらない。

日本は武力を保有しないといいながら、兵役の義務を課している韓国より軍事予算が多い。これまた一つの逆説である。国民皆兵であるからこそ、兵備の近代化が遅れる傾向が出てくるのだな ― いや、逆かもしれない。

☓ ☓ ☓

本日の道新のトップは防衛省設置法12条の改正を政府が目指しているという記事だ。改正の目的は部隊運用に関して内局(=背広組)が大臣に助言する(=介入する?)権限を撤廃して、統合幕僚会議に権限を一元化するというものだそうだ。

この件は、大手マスコミは報じていない。北海道新聞のネット版にも現時点(11:49)で見当たらない。Googleで検索すると、かろうじて沖縄タイムス紙で確認できるくらいだ。同紙のネット版から記事を引用しておこう。
防衛省が、内部部局(内局)の背広組(文官)が制服組自衛官より優位を保つと解釈される同省設置法の条文は不適切として、改正する方針を固めたことが21日、分かった。設置法12条は大臣が制服組トップに指示する際、内局の官房長、局長が大臣を補佐するなどとし、文官優位の規定となっていた。制服組や制服OBの国会議員からの強い要求を受け入れた形だ。
 3月上旬、通常国会に防衛省設置法改正案を提出する。12条を改正するほか、分担してきた自衛隊の部隊運用(作戦)を制服組主体に改める「運用一元化」も盛り込む。(共同通信)
(出所)沖縄タイムス、2015年2月22日

共同通信の報道だから、どの新聞社も知っているはずだが、報道の価値なしと判断したのだろうか。分からぬ。

☓ ☓ ☓

ま、形式的な組織改変であると割り切ってもいい。そういう見方もある。部隊運用に内局の人間が色々と口を出すのは、確かにどこに責任があるのかわからない。そんな見方もある。

文官優位の原則は、要するに政治(=国会)の優位、予算上の拘束の二つがあれば十分である。戦前期・日本ですら、予算を握る陸軍省が最終的には作戦立案と部隊運用を握る参謀本部を抑えることができた。その陸軍省が大蔵省を引っ張ることができたのは軍、というか軍と同調する政治家が主導して国家総動員体制が法制化されたことによる。

財政均衡を憲法で定めておけば戦前期・日本の迷走は起こりえなかった — 日露戦争の実行も憲法の財政制約から不可能であったろう。これは今も同じだ。そもそも国民の納税義務を規定するなら、財政の均衡を少なくとも一定期間の中で定めておかないと、意味が無いではないか。

ここから考えると……、本当にこわいのは、偶発的な衝突(さらに意図的な暴走)によって進行する事態に事後的に予算手当を行うことを禁止する制度であろう。もちろん信賞必罰の徹底は言うまでもない。

防衛大綱と防衛基本計画を国会が事前承認しない限り、計画に基づく整備と運用はすべて不可能としておくのが鉄則だ。また、計画に基づかない臨時・緊急の行動は、その都度、閣議の事前承認がいる。ということは、予算措置の可否について全閣僚の賛成がいる。国会への報告もいる。これもまた鉄則であろう。

いたずらに「改革」に関する議論をタブー視するべきではない。タブー視することによって、検討能力、立案能力が衰退することのほうを真におそれるべきだろう。

2015年2月20日金曜日

春愁という言葉が当てはまっていた頃

ずっと春は嫌いである。特に桜の花は嫌いだ。

亡くなった母の誕生日は3月だった。手遅れの肺癌が見つかって、当時暮らしていた取手の団地から祖父、祖母がまだ健在だった郷里・松山で最後の療養をするために旅立つ前、家の庭前で咲き誇っていたのが満開の桜だった。なので、桜をみるとその日の心の底が抜けるような淋しさを思い出すのだ。

春を歌った楽曲は多い。シューベルトの清らかさにどことなく「生」の儚さが入り混じったような感覚が、小生大変好きなのだが、歌曲の中に「春に寄す」(Im Frühling)がある。
Still sitz' ich an des Hügels hang,
der Himmel ist so klar,
das Lüftchen spielt in grünen Tal,
wo ich beim ersten Frühlingsstrahl
einst, ach, so Glücklich war,
春の陽射しがさし始める頃、一人で丘に腰を下ろしているときも、僕は幸福だった…こんな風に始まる歌詞は、ああ僕が鳥であったなら彼女の歌を夏の終わりまで歌い続けるのに、と終わる。

シューベルトの『冬の旅』が気に入って毎日聴いていたころ、父の病気が発見された。方向も決めずに町を彷徨いながら耳に聞こえていたのは空を飛び巡る鴉の歌である。シューベルトには何度も空を飛ぶ鳥が出てくる。確か、あれは修士2年次の晩秋11月だったか…。

胃の手術をして患部を切除したものの2年後には癌が再発した。その前に会社を辞めた父は社宅を出て東京へ転居してきた。その前相談に上京した父は小生の下宿に泊まったが、本当に痩せていて病状の悪化が傍目にもわかった。小生が小役人の仕事を始める直前の春である。

まったく本当に、春はロクな思い出がない。ずっとそう思ってきた。そう思いながら、忘れたことはないか、意味が分からずじまいになっている記憶は残っていないかと、何度も反芻している。その度に昔の感情が蘇る。だから、春もシューベルトも鳥も嫌いなのだ。

春をキーワードに何か名画はあるだろうかと、犬も歩けば棒に当たる式に検索してみると、Casper David Friedrichの"Der Frühling"を見つけた。


Casper David Friedrich, Der Frühling, 1826
Source: KUNSTKOPIE.DE

今年の流氷は例年の半分程であるという。やはり気温が高めの暖冬なのだろう。今日、ストーブをつけて宅で仕事をしていると、友人との食事会から帰宅したカミさんが「どうしたのこの暑さ?あっ、31度になってる!」と大騒ぎをしていた。「こちらにいると気がつかなかったよ」、そう言ったのだが、マイナス数度まで冷える日はいくらストーブを燃やしても25度を超えることはない。やはり外は暖かいのだ。冬はもう終わりか……、そう期待した。

2015年2月16日月曜日

何度目の「天気予報論」だろう

今冬の天気について書くのはこれが何度目だろう。2011年の大震災後に日記からブログに毎日の記録媒体を変えたのだが、日記を書き続けてから25年余、天気を記録してはいたが天気予報のことを論じるなど覚えていない。このことだけでも、この冬は個人史的にも初めての冬である。

11月までは降るはずの初雪も降らず、気象庁からは以下のような長期予報が出ていた。
気象庁は25日、今冬(12月から来年2月)の3か月間の天候予想を発表した。
 東~西日本、沖縄・奄美では、北からの寒気の影響を受けにくい予想だ。このため気温は高めとなり、東・西日本日本海側の降雪量も平年並か少ない見込み。
 一方、北日本は平年と同程度に冬型気圧配置が現れて、気温や日本海側の降雪量は、ほぼ平年並の予想だ。
 なお、今回の3か月予報には、エルニーニョ現象が発生している可能性が考慮されている。
そうか「暖冬・小雪」の可能性が高いか、そう思いつつ迎えた12月。

12月については以下のような予報になっていた。
日本で冬型気圧配置の強まる日もあるが、東日本以西では寒気の影響が弱く高温傾向。東日本日本海側では、雪や雨の降る日が平年より少ない見込み。
 また、西日本は低気圧の影響を受けやすく、南から湿った空気が流れ込むため、太平洋側は平年に比べて晴れる日が少ない。 
(出所)ウェザーマップ、2014年11月25日

「冬型気圧配置の強まる日もある」というのが16日の記録的な「爆弾低気圧」であったのか……、警報がTV画面に終日表示されたのも初めてのことだ。おかげで地元の小中学校は二日連続で(結果的には不必要だった)臨時休校にしたのだが、それは既に本ブログに投稿した。

それでも北海道全域を平均すると、道南から太平洋岸にかけては小雪傾向だ。道東は周期的な暴風雪。更に、日本海沿岸では積雪記録を更新した地点もある。我が町も3年連続で除排雪費用が増加しているとのことだ。他方、首都圏は降雨・降雪日が多い。気温は確かに高めだ。北海道も明日からは再び5度前後まで気温が上がりそうだ。

結果としては「暖冬」は的中したものの、「降雪量」が平年並み、乃至平年を下回るという予報は外れたと見るべきだろう。低気圧の多発も長期予報ではなにも触れていない、というと言いすぎか。軽く扱っていると言うべきかもしれない。

気温の平均はともかく、そのばらつき(=標準偏差)は路面の凍結にもつながり、暮らしの中では大変重要な側面である。この点の目配りもほとんどなかったと言えるだろう。

★ ★ ★

これまで「暖冬小雪」の年はあった。「厳冬大雪」の年もあった。しかし、「暖冬大雪」という年はほとんど覚えておらず、まして「暖冬+大雪+多低気圧」というパターンは初めてだ。

昔、何度も繰り返してみた映画に"South Pacific"(=南太平洋)がある。24、5回は観たろうか。登場する数々の名曲—"One Enchanted Evening"、"Bali Hai"、"A Wonderful Guy"などなど—は今でも愛聴しては気分転換に役立てている。その中に、多分、日本軍のラバウル基地があったニューブリテン島に近い小島に進出した米軍という設定だが、そこの司令官が暴走した部下を叱責するシーンがある。"It's a black, black...black day!"だったかと思うが、あれは面白かった、・・・またDVDを観たくなった。

まったくこの冬は"It's a black, black,... black winter!"なのだな。雪がハラハラと舞い降るホワイト・クリスマスなどとはトンでもない。昨12月24日はロマンのひとかけらもないブラック・クリスマスだった。

一般的に言えることだが、評価される「情報」とは、情報収集にかけたコストや情報自体の精度で評価されるわけではない。その情報を利用することによってもたらされる利便性。つまり経済的価値の増加によって評価される。故に、情報の出し手が情報の価値を決めることはできない。情報の利用者がその情報の価値を決める。何のために情報を求めているのか、その目的が大事なのである、な。

気象学の科学的進歩とグローバルな気象データの蓄積が天気予報の質的向上に寄与しているのは事実である。しかし、そのために費やした費用が、天気予報というサービスの価値向上にそのままつながるわけではない。科学的に間違わないというのは悪いことではない。しかし、どんな情報が有り難いと思うかどうかは、地域・地域で違いがある。荒れ気味の冬は、真に必要な天気予報とは何か。この本筋を思い出させてくれる。

2015年2月13日金曜日

白鵬関の審判批判騒動で聞きたかったエピソード

初場所の取り組み白鵬・稀勢の里戦では物言いがついて取り直しになった。観客は大喜びだった。取り直しでは自力の差が出て横綱の完勝となったが、後で横綱が審判を批判したというので「奢ったか」、「品位にかける」などなど、様々な批判が噴出した。ある週刊誌などは「腹に一物を含んだ横綱」というような一寸ゲスな表現をしていた。当人は『いやまあ、散々でござる』と言いたいだろう。まったく……ただ怒るだけでは問題が解決されないことが多いものである。大体、それほど怒ることだったのか。そんな感じもする。

というので、誰が言うだろうかと観察していた所、相撲好きの誰も言い出さないのでガッカリしたのが、双葉山の言葉だ。

といっても、小生自身が聴いたわけではなく亡くなった親父がよく話していたので覚えていたのだ。

双関が安芸ノ海に敗れて連勝が69でストップしたとき、双関は『いまだ木鶏たりえず』。ただ一言そう言ったのだそうだ。

「木鶏」とは初耳だったので、親父にその意味をきいたのだが、それは小学生何年生だったろうか。

★ ★ ★

言葉の出典は中国の古典『荘子』である。Wikipediaから引用しておこう。
故事では紀悄子という鶏を育てる名人が登場し、王からの下問に答える形式で最強の鶏について説明する。
紀悄子に鶏を預けた王は、10日ほど経過した時点で仕上がり具合について下問する。すると紀悄子は、『まだ空威張りして闘争心があるからいけません』と答える。
更に10日ほど経過して再度王が下問すると『まだいけません。他の闘鶏の声や姿を見ただけでいきり立ってしまいます』と答える。
更に10日経過したが、『目を怒らせて己の強さを誇示しているから話になりません』と答える。
さらに10日経過して王が下問すると『もう良いでしょう。他の闘鶏が鳴いても、全く相手にしません。まるで木鶏のように泰然自若としています。その徳の前に、かなう闘鶏はいないでしょう』と答えた。
上記の故事で荘子は道に則した人物の隠喩として木鶏を描いており、真人(道を体得した人物)は他者に惑わされること無く、鎮座しているだけで衆人の範となるとしている。
確かに横綱白鵬は双葉山が口にした「木鶏」の境地にはなかったようである。が、けれども荘子はモンゴルの人が嫌う漢民族の人であるから、こんなエピソードは不適切かもしれない。だから、相撲に詳しい人も知ってはいたが、語らなかった。その可能性もあるやに感じられる。

ちなみに、事実の推移は親父が言ったようではなく、双葉山は東の支度部屋に戻るなり『ああっクソ!』とうめいたそうである。「木鶏」は一晩寝てから出た言葉であるそうだ。どちらが本当の話しなのか知らないが、うちのカミさんは「こちらのほうが分かる」と言っている。



2015年2月11日水曜日

21世紀の大問題はやはり「宗教」か

過激派集団「イスラム国」といえばいいのか、テロ集団「イスラム国組織」と書けばいいのか、ISILと記号化すればいいのか、どう書けばいいのか、世界のマスメディアも混迷している様子だが、米国籍人質がまたも殺害されていたと報道されている。かと思えば、アメリカではイスラム教徒3人が殺害されたというニュースもある。

何が有効かといって、イスラム教の最高権威が「ISILに加担する者はもはやイスラム教徒ではない。同組織並びにその支援者は全て破門する」と、もしも可能なら声明を出せば今後予想される悲惨なトラブルの半分は起こらずにすむであろう。

★ ★ ★

しかし、イスラム教の最高権威は存在しないのだ、と。そんな解説を先日TVで聴いたばかりだ。ローマ教皇もカンタベリー大僧正もイスラム教にはいない-ま、キリスト教でもすべての宗派に最高権威がいるわけではないと聞いている。

とはいえ、サウジアラビア、トルコ、エジプト、インドネシア等々、イスラム教徒が広く分布している国の政府が上と同趣旨の声明を出すとすれば、ISILは「イスラム教徒」を詐称する殺人者集団であるという形式的条件を曲がりなりにも成立させることはできるだろう。

そのうえでトルコ国境を封鎖し、経済取引を遮断したうえで、外延的包囲戦術を徹底すれば、一般住民までもが飢餓に陥ることが心配ではあるものの、それにも目をつぶって厳格に包囲を維持することで最終的にはISILという組織を壊滅に至らせることができる。この位のことは誰にでも思いつける。そして実際にもこれに近いことをやっていくのではないかと予想することもある。

ただ逃げ道はつくっておくのではないか。そうすれば周辺諸国はISILを駆逐したという結果を示すことができる。それが単に"Throw Out Gargage"戦術であって、粉々に砕けたテロリストが世界に散っていくとしてもだ。やはり国連軍が警察機能を果たし、責任をもった鎮圧が求められるのだが、そんな状態を組織化する力はいまの国連にも米英にもあるまい。

★ ★ ★

フランス人があれほどまでに表現の自由に執着するのは、いかなる宗教であれ、現代世界に生きる市民の生活を規律付ける権利は宗教には何もない。宗教的権威は飾りである。その宗教が、イスラム教であれ、キリスト教であれ、仏教であれ、何であれ、「神」の名において人々に何がしかを命令しようとする。そんな意図をもった人間は、誰であっても揶揄し、軽侮し、名誉を奪ってもよいのである、と。まあ、そんな確信をもっているのではないか。そうも思うようになったのだ、な。だとすれば、フランスの雑誌は記事の編集とデザインを間違えていた。

自分は人間でありながら「神」を名乗る。「神」でなくとも「預言者」を名乗る。そんな人物なり、組織があれば、必然的にその組織は堕落しているはずであり、単に収入を得て贅沢をしたいためにやっているだけである。そんな目線には小生も共感するのだな。「宗教的ペテン師」といえばマルクス的であるが、この種の怒りは16世紀に宗教革命の火ぶたをきり、以後100年間の宗教戦争をもたらすキーパーソンになった独人・ルーテルの怒りと同じでもある。

日本の宗教的権威・比叡山も武闘集団・一向一揆も織田政権で根絶やしにされ、欧州の宗教対立は17世紀のウェストファリア条約で峠をこした。中国は19世紀の太平天国の乱で混乱の極みに達したが、今は共産党政権の下で宗教勢力は逼塞している。

イスラム教世界の混乱は第一次世界大戦でオスマントルコ帝国が倒壊したことの副作用である。その副作用がイスラム世界の貧困化と欧米列国の利権によってますます激烈に進行している。イスラム世界はいま長期間の「乱世」にある。これが基本的な観点だろう。

★ ★ ★

イスラム世界が脱宗教化に成功するか。脱宗教化した先進文明圏がイスラム教という宗教に居場所を与えて、飼い馴らすことができるか。そのいずれかしか進む方向はない。もし先進文明圏に飼い馴らされることが堕落であり、宗教として許容できないなら、イスラム過激派は勢力がゼロになるまで武闘を続けるしか道はない。

実質的に絶滅するまで闘うことを選んだ集団はこれまでにもあった。古代都市カルタゴもそうであった。ビザンティン帝国が15世紀に滅亡する時にも、皇帝と市民はトルコとの市街戦でほとんどが死亡し、キリスト教の都であるコンスタンティノープルと運命をともにした。

前回の大戦である第二次大戦では一発の核爆弾で20数万人が死んでいる。ベトナム戦争では双方合わせて150万人弱の軍人が戦死し、200万人以上が行方不明、さらに500万人弱の民間人が死亡している(Wikipediaより)。

今回の紛争は、これらの戦争に比べれば人類史的な損害にはならないだろうが、それでもイスラム教という世界宗教の歴史においては、一つの分水嶺をなすほどの大事件になるかもしれない。 

確かに世界の問題であるが、それよりもっとイスラム文明圏そのものの問題としてより一層に深い問題である。


2015年2月7日土曜日

議員定数配分も自衛隊海外派遣も大事だが……もっと大事なこともある

昨日は朝から近くの温泉にいって骨休みをした。定山渓や登別ほど大きくはないが、日帰り料金が安いので地元の住民はよく利用している。

サウナと露天風呂を往復して最後はジャグジーで終わりにする。

昨日は晴れていながら気温は低く冷え込んでいたので露天風呂が快適だった。
湯けむりに 雪見のはなも おぼろかな
終わって二階に上がり休んでいると眠くなった。小一時間ウトウトして昼前には宅に帰った。

★ ★ ★

今朝、カミさんと朝食をとりながらワイドショーをみていると、医療のデバイスラグが話題になっていた。

最先端医療機器の国内承認が遅れているので、欧米で治療しない限り救えない命が多くある。その問題である。とり上げられていたのは、児童用人工心臓が未承認のため、アメリカで治療をうけて帰国した家族だった。ひょっとすると数百万円の費用がかかったかもしれず、それも全て自己負担であろう。

日本の医療分野の臨床試験が遅れがちな理由は色々あるようだが、番組の中でも解説されていたように、現場を知らない少数の権威(それから一部の国内勢力?)が問題点の指摘をおこない、その対応に時間をとられるからである。いわゆる「有識者」のご意見拝聴—ま、どこにでもある日本的情景が医療にもあるということだ。

そうでなくとも中央官庁は担当官庁の責任の下に政策を決めることは困難であり、常に四方八方から圧力や批判にさらされている。そして官庁を指揮する閣僚は世間の批判に対して極めて弱いのだ。『石橋を叩いても渡らない』ほどの不合理な慎重さがまかり通るのは、そのコストが(現行制度では)ゼロであり、待って状況の推移を観察することのオプション価値が(僅かであれ)プラスであるからだ。

行政府の手続きの遅滞によって、外国での治療を余儀なくされ、高額の医療費を自己負担せざるを得なくなった患者は、国を相手取った行政訴訟を起こし賠償を求めるのが本筋だと思うのだ、な。広く海外で採用されているにもかかわらず、少数の専門家の言い分を根拠に承認を遅延させている行為は、国民の権利を不当に制限している、と。そんな最高裁判決が出れば、行政府は司法判断に沿って方針を転換せざるをえない。

司法の判断に行政府が振り回されている韓国にも問題はあるかもしれないが、司法が果たすべき役割は確かにある。

議員定数配分の違憲判断もいいし、集団自衛権関連法案の違憲訴訟も予想される。しかし、議員定数は少々平等になったところで、国会審議の方向が目に見えて変わるだろうかというと、おそらく何も変わらないだろうと。そうも思うのだ。

医療をはじめ国民の幸福と深く関連する行政で納得のいかない問題があれば、司法の判断を仰ぐのが定石である。また、司法府は行政の偏りや不合理な遅滞を修正することが寧ろ日常的に期待されている役割なのだ。そう思うのだ、な。

2015年2月3日火曜日

勝手気ままな「解釈改憲」論争 ― これもありなのか?

憲法は国会が決めるものではない。国会は発議権を持つだけであり、是非を決めるのは国民である。そう規定されている。

国会が決めることが出来るのは法律である。法律は憲法と矛盾していてはならないし、もし違憲の可能性がある場合は、裁判所が違憲判決を下すことができる。

この位は三権分立を勉強した人なら誰でも知っている常識だろう。

行政府も法案を国会に提案することが多い。その法案が憲法ならびに法体系全体と矛盾していないかどうか。その審査は内閣法制局が行う。故に、法制局もまた憲法をどう解釈するか、あらかじめ統一しておく必要がある。解釈を変更すれば、昨日までは通らなかった法案が、今日は通るということになる。これが世情を賑わせている「解釈改憲」である。

あたかも憲法が改正されたかのような外観を見せるのだが、法制局は「内閣法制局」であり、内閣の一部局である。政権交代があれば、内閣の方針が変わる以上、法制局の基本見解も変更される可能性は理屈上ある。というより、そんな事態があらかじめ制度の中に織り込まれていると考えるほうが理に適っている。ともかく、法制局は内閣にあり、最高裁の一部局ではないのだ。

選挙を通じて、その時点、時点の国民の意志が反映されやすい内閣の一部局に憲法の解釈機能を与えてきたのは、憲法の文言は同じままで、変化する現実に対応するため最大の裁量範囲を行政府に与える。法案を裁判所が審査するより、法制局に審査権を与えているのは、そのほうが良いと制度設立時に考えたからであろう。

調べてないので本当のところは知らない。想像しているだけである。

★ ★ ★

だから「解釈改憲」は、表現としていいか悪いか言葉の問題はさておき、内閣がなしうる行為である。他方、一般国民は法に従う義務があり、その法律は既存の憲法に従うのであるから、国民投票で改憲が実施されない限り、勝手気ままに憲法を解釈する権利は存在しない。

本日の道新にこんな社説がある。
過激派「イスラム国」による邦人人質事件を受け、安倍晋三首相が自衛隊による邦人救出を含む安全保障法制に前のめりな姿勢を強めている。
 きのうの参院予算委員会で、集団的自衛権の行使を容認した昨年7月の閣議決定に基づく法整備にあらためて意欲を示した。
 だが政府が目指す安保法制は、いずれも海外での武力行使を禁じた憲法9条に抵触する恐れが極めて強く、到底認められない。
(出所)北海道新聞、2015年2月3日

「海外での武力行使を禁じた憲法9条」とあるが、憲法9条の文言は以下のようである。
  1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
  2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
主語と述語を反対にすれば、放棄されているのは国権に基づいて「戦争」、「武力による威嚇、行使」によって国際紛争を解決しようとする行為である。

そもそも「国際紛争」というのは、"Conflicts between nations"だから、自称"国家"でしかない犯罪者集団「イスラム国」と周辺治安部隊との衝突が「国際紛争」になるのかどうか怪しいものである。「国際紛争」でないとすれば別に9条で禁じられているわけでもあるまい。と、まあ山勘としては感じたりするのだが、今日の話題はそれとは違う。

上の文章は正しくない。海外での武力行使は禁ずるなどとは規定されていない……。もしそう規定されているなら、国内では行使しても良いことになる―それこそ自衛活動にもなる。であれば、北方4島は今もって日本の領土と認識しているし、尖閣諸島、竹島もまた日本領土のはずである。そこでなら、武力を行使しても良いという理屈になる。

危ないねえ・・・。そう思いました。

確かに安倍内閣は憲法解釈を変更した。その変更によって内閣法制局の審査方針は変わるはずだ。従来の内閣であれば提案されないはずの法案が提案されることにもなろう。しかし、それは内閣に与えられた権限だと小生は思うのだな―というより、事実そうなっているはずだ。

であるからと言って、「私だって思うんだけど、憲法の意味はこうなんだよね」と。これはあくまで私見である。マスメディアや有識者が自由気ままに発言する。まあ、表現や思想は自由ではあるが、私案が何か一定の信認までも獲得して社会で承認されたりするのは、法治国家である日本社会の液状化現象と見るべきだ。そう思っているのだな。

それより、小生が気になるのは第2項の方。「戦力」を保持することによって「交戦」することができる。これが論理である。ところが、現に「戦力」は持たないと言っておいて、自衛隊は存在するのだから、自衛隊は憲法のいう「戦力」ではないというロジックになる。だから自衛隊の活動は「交戦」ではない。日本防衛に必要ある場合、「交戦」をするのは同盟国・米国の軍隊である。これが論理ってものではないのかねえ・・・。
ひとり言: そもそも「交戦」とはどんな状態か?「鎮圧」とは「交戦」なのか?「鎮圧」と「戦闘」とは違うのじゃないか、等々。経済政策にも神学論争があるように、武器の使用を伴う公務一般にも神学論争があるだろう。

だから、上の道新の社説は二重の意味で極めてノー天気な文章だと。そう思うのだな。大体、海外で行使しうる-行使すれば違憲にもなるような-武力を日本が保持していると認識する以上、その武力は最初から憲法9条2項に違反していると認識するべきだ。なぜそう考えて、自衛隊という存在そのものを違憲と糾弾しないのか?

ひとり言: 自衛権のために保持する武力は9条2項でいう「戦力」には該当しないのだ、と。多分、そんな考え方が大方なのだろうと思うのだが、「戦力」ではないと認識する以上、「交戦」を考えるのは矛盾である。日本国籍の船舶を自衛隊が護衛するとしても、それは自衛権であって、「交戦」にはなりえない。こんな神学論争が、「パンドラの箱」にならないことを祈る。
良識派であると自己認識するなら、理路一貫して堂々と論陣を張ってほしいものである。グダグダはいかんと思う。

2015年2月2日月曜日

齢が仕事を決めるとき

日本企業は永年「年功序列」を基本に昇進システムを構築してきた。そして、そのシステムが日本企業の革新の欠如、変化への対応能力の欠如などなど、多くの欠点の根因として批判されてきた。

ただ最近つとに思うのである…、年齢が自分の仕事を決めるという因果関係は歴然として存在する、と。要するに、齢をとったら年相応の仕事に移るべきである。

大体、50をピークに視力が衰える。文字が読みにくくなる。あとは坂を下るように、立っていると痛くなる。何種類かの薬を毎日服用するようになる。それでも新規病状が増えてくる—当たり前である、そうして最終的には命が尽きると決まっているのだから。

* * *

理想は生涯現役でも生物学的に、心身の能力的にそれは不可能である。楽な仕事は会社なら取締役、役所なら指定職、軍なら司令官、その他様々の名誉職なら周囲の人々の意見をまとめるのが役割となるので何とかなるものだ。もちろん優秀な子飼の部下が要る。これ即ち「日本的トップ」の典型なのであるが、案外、日本的昇進システムの基礎には生物学的自然がある。最近そう思うことが増えた。

となると職階の高い人が高い報酬を受け取るのは不合理ではないか。そう言われれば、確かにそんな一面はある。管理職を変えても業績はさっぱり変わらないが、実動部隊を指揮する中堅に良い人材をあてると、見違えたように活性化される。そんなことは何度も見たことがある。

つまりは「トコロテン人事」はいかん。そういうことである。

しかし、業務効率性を基準に人事を決めるとなると、最終的には韓流システムに沿って30代後半から「名誉退職」という言葉の下でリストラを進める。このやり方が最も効率的であるに違いない。そして、最も効率的なシステムは働く人々に幸福を決してもたらさないものである。これまた言えるに違いない。

社会全体として「効率」と「幸福」の間には越えるに越えられない深い溝がある。これも最近つとに感じることである。

資本主義の未来はこんな点から定まってくるかもしれない。いつの時代も、何かの問題を解決しようとして、気がつけば別の社会になっている。そんなものである。

完全なシステムはない。日本地生えの「トコロテン人事方式」と、それを補完する「集団主義」も、自覚的に使うのであれば人類自然の老化現象に沿った良いやり方である可能性はある。こんなロジックもあるように思うのだ、な。


2015年2月1日日曜日

中東‐秩序と乱世を思う

地球上のある文明圏で国家が崩壊し乱世がやってきても、別の地域では新たな国家が生まれ、文明が栄え行くことは大いにありうるし、実際にそんな時代はいくつもあった。

17世紀には、中国で清帝国が生まれ、欧州でも30年戦争後にフランス・ブルボン王朝が興隆期を迎えた。しかしオスマントルコ帝国は16世紀100年の黄金時代が過ぎ去ろうとしていた。

14世紀に中国の明朝・永楽帝が武威を四方に奮っていた同時代、欧州ではペストが大流行し人口の3割が死亡した。

8世紀に東では唐の長安、西ではサラセン帝国のバグダッドが国際的文化都市として多くの人々をひきつけていたが、同じころヨーロッパはフランク王国のカール大帝が束の間の統一を成し遂げたものの、すぐに分裂し、やがて欧州はノルマン人による侵略の波に洗われ闇の時代に入っていった。

地上の世界を全体としてみると、平和は常に存在する一方で乱世も常に存在した、というのが現実である。

★ ★ ★

中東「イスラム国」の人質になっていた日本人二名は最も悲しむべき結末を迎えたようだと報道されている。

いま中東全体に強力な国家は存在しなくなった―というより、なくなりつつある。自生の秩序か、輸入された秩序のいずれかが信頼を失いつつあるようだ。秩序が崩壊した乱世である。乱世には武器がものをいう。武装した無数の集団が離合集散しながら、成長して軍閥となる。軍閥であっても、周辺住民は秩序をもたらす統治権力として認めるものである。殺戮が日常化した社会と、平和が日常である社会とで、人間社会に本質的な違いはない。人間は、やはり物を食べ、排泄をし、飲み、話をして、笑うものである。

かつて中国清朝が崩壊した後も中国全土で軍事政権が生まれ、中国は崩壊と内乱の20年に入った。その中で大日本帝国は自国の利益を追求しながら、中国内部の覇権闘争に介入し続けたのだが、全体としてみると戦前期・日本の失敗は中国の国内事情への干渉政策の失敗だった。そう言えるのではないか。

同じことがいま中東で進行しつつあるのかもしれない。中東地域の暴力的紛争の根源には、19世紀以来、欧州、及びアメリカが獲得してきた数々の「利権」を保持し続けようとする「旧・列国」の世界戦略がある。

日本の一次エネルギーの相当部分は中東の原油に依存している。日本と中東地域は距離的には離れているが、経済的には密接に結ばれている。中東の中でいわゆる「帝国主義的利権」を日本もまた持ち続けてきたわけではない。しかし、中東地域の安定に高い関心をもつ動機を日本は持っている。かつて戦前期に日本が中国本土に対し拡張的意欲をもったのは、その資源のためである。中国本土の資源を日本の支配下に置くことを日本は自存自衛のための行為と表現した。

イスラム国は国家ではない。それ故、対テロ治安活動は「国際紛争」ではなく、「戦争」には該当せず、「警察」に当てはまる。日本がそんな国際的警察活動に協力するにしても、それは憲法が禁じている「武力による威嚇」にも「武力の行使」にも当たらない。そんな論理から、気がついてみれば陸海空の自衛隊が中東地域に駐留し、活動している。これもまた「自衛」なのだから。そんな時代がやって来ても不思議ではなくなった。

そして、今回の悲劇は、もしも国際社会が日本に求めれば、テロ集団=国際的組織暴力団という単純な等値関係を意識することで、いささかの罪悪感もなく国民が「海外派兵」を、いや「海外派遣」を支持する。日本人にそうさせるだけの忘れがたい記憶になる。そんな可能性も一層高まってきた。そう思うのだな。

その行為が、国際社会における「名誉ある地位」を日本にもたらすのであれば、尚更である。そんな志向が今後の日本で高まってくるのではないか、と。そう予想する—いや、懸念するのは、小生だけではないだろう。

★ ★ ★

もしも幕末において会津藩が幕命によらずに上洛し、尊攘派志士達を抑圧していたらどうなったか。より一層に明らかな「朝敵」として討伐の対象になっていただろう。確かなことは、自らの意志で『火中の栗』を拾うことほど愚かな行為はないということだ。

とはいえ、愚かではあるが明治期の日本人が不平等条約改正にあれほどの情熱をかけたのであれば、今度は戦犯・日本の汚名を雪ぐことに日本人の血を捧げる、それに国家的情熱をかける。国際社会の義に殉じるという心意気。今の時点では想像すらできないが、こんな展開も、将来のいつか、ありえないことではない。

たとえ日本人のそんな活動が「旧・列国」の利権を保護する目的に沿うものであるとしても、行為自体は崇高であり、大方の国際社会には極めてウェルカムであるとして歓迎される。本来は限りなく愚かな選択であるとしても、である。『豚もおだてりゃ樹に登る』、そうなってしまうのじゃないかという懸念である。樹に登る動機が豚の方にあれば、なおさらである。