良いことではないことがあれば、そこに「問題」が発見できたということなので、悪いことではない。悪いのは、その「問題」を放置することである。
問題が見つかれば、やるべき仕事は問題解決への道筋を審議することだ。
もちろん目標が定まっていなければ、解決方法は決定不能だ。目標を確認し、解決方法を決めても、実際には新たな問題が発生するだろう。発生すれば、また目標達成への道筋を探せばよいのである。「進歩」はこうして実現する。
一言で言えば、PDCA(Plan-Do-Check-Act)サイクルである。このくらいは、どの企業でも知っている、まさにマネジメントの本質だ。
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国会議員が議員歳費だけでは、十分な(あるいは)自分が志している政治活動ができない、と。そう思うなら、自分の志に共感してくれる支持者から資金を集めるという行為は、民主主義社会を運営するならば、どうしても必要なことである。
君主専制社会であれば、政治活動のために資金を得ること自体が反逆罪になるであろう。多数から資金を得て自分の政治活動を支える行為は「罪」ではない。社会として容認しなければならない。
総務省から支給される政党交付金のみが「正しい政治資金」であるという見方は正しくない。政党や政治家は公権力から独立して政治資金を集めることができる。これを認めておかなければならない。どうしても、小生、そう思うのだね。これが基本だと。
しかし、資金の経理は公正なものでなければ、誰のために政治を行っているか分からない。これは犯罪の温床になる。不透明な経理を禁止しているのはそのためである。
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国会議員の政治資金経理に問題が多数潜在している。とすれば、どこかに問題があることは確実なのだから、監査制度を「カイゼン」すれば良いのである。
要は、政治資金のコンプライアンスとは何かを議論するべきなのである。ま、個人的印象としては「政治資金のコンプライアンス」ということ自体、矛盾とまでは言わないが、政治の活力を失わせる麻酔のような作用がある。こんな風に、小生、思うこともある。が、この話題は今日の本筋ではない。
政治資金の経理システムを改善するべきだと提案せずして、ただカネの問題を指摘し、政治への信頼性を毀損しようとする行為は困ったものだ。民主主義社会の政治に疑念を感じさせる行為であって極めて情けない、身勝手な戦術である。
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身勝手というより、カネの問題をとりあげて攻撃的姿勢をとればとるほど、全体としては既存の政治家を強化する結果になる。これから足場をつくっていく挑戦者には不利になる。そうしたものではないか。何事をするにも意図せざる結果が実現される。世の中、そんなものではないか。
たとえて言えば、正攻法では勝てないとみてラフに戦ったり、反則を繰り返す格闘戦術に相通じるところがある。その時は勝つこともあるだろうが、その攻め方が現・チャンピオンを守る結果につながる。まして自らを強くする結果にはなり得ない。そう思われて仕方がないのだ、な。
要するに、システムの活力を損ね、上下を固定し、結果として進歩をとめるのだ。
野党集団の低レベルにも呆れるのだが、がしかし、これだけ長期間放置されているのだから、政治資金の監査厳格化を避ける誘因がある。その誘因だけは超党派で共有されている。そんな構造もあるのだろう、と。そうも思われる。とすると、これ自体、民主主義社会の政治への疑念にもはやなっているではないか……。
実際はこうなんではないですか、と。なぜマスメディアは「政治資金の構造分析」を特集しないのだろう。小生にとっての「日本政治の七不思議」なのだ。