2015年5月31日日曜日

メモ-自衛官のリスク?

集団的自衛権で自衛官のリスクが高まるのではないか。命を失うケースもあるのではないか。自殺者が多いのはそれだけ任務が過大であり負担を背負いきれないからではないか、等々。自衛官の今後の業務においてリスクが高まるはずであるという議論がかまびすしい。

リスクねえ……

警察官の殉職や自殺はなぜ問題にしないのか、消防吏員のリスクはなぜ過大であると問題にしないのか?海上保安庁は危険でもいいのか?危険な現場で職務にあたっている人達に失礼ではないか。思わずそんな感想をもってしまいます。

そもそも武力行使や武器の使用についても議論が混乱している。神学論争になるのは最初から分かっていることだが、少しはまともな議論があってもいいだろうに。

☓ ☓ ☓

自衛隊が武器をもっているのは、使用せざるを得ないケースを想定しているからだ。絶対的に使用しないと決めている武器なら、最初から持たないほうがよい。非武装という形は、武力不行使を最も明瞭に相手に伝えられるからだ。武器を所持している以上、特定のケースでは武器を使うと考えているのは当たり前のロジックだ。その方がリスクが低くなるという論理的判断がここにまずある。これがスタート地点だ。ここでまず「非武装」を支持するか、「武装」を支持するかで分かれるはずだ。

しかし、そんな議論はもはや行われていない。

その「武力行使可能」、いや「派遣可能」と認定される範囲が拡大されるというので、「戦争法案」であるとか、「リスクが高まる」と野党は政府を非難しているわけである。

やれやれ、「戦争法案」というなら、真っ先に「違憲だ」と叫ぶべきでありましょう。それにリスクは本当に必ず高まるのか、その論理的根拠はなにか?リスクって何を指して「リスク」と言っているんですか、と。

大体、何を目的として日本国は「交戦可能な(=違憲の疑いすらある)武力」を持っているのだろう。それも高額の予算を費やしてまでも。

その国家戦略目的がアヤフヤで全く自覚がない。故に、自衛隊を派遣するにしても目的が定義できない。だから、自衛隊の行動を外的基準によって束縛しようと考える。これは税金の無駄遣いの中でも最たるものであるのだが、そんな自覚もないのではなかろうか。

☓ ☓ ☓

危険な職務に従事している中で、とにかく相手国のあることでもあり、万が一命を失えばそれは「殉職」と呼ばれる。それではいけないのか?「戦死」と呼ばないといけないのか?警察官や海上保安官が業務に殉じた場合は「殉職」であり、自衛官だけは「戦死」と呼ばないといけないのか?

そもそも日本は『国の交戦権はこれを認めない』と断言している。それ故、いかなる紛争も「交戦状態」とは認めるわけにはいかず、したがって「戦死」は発生しえない。

さて、現実に悲しむべき事態が、万々が一、生じてしまったとき、どう辻褄を合わせるかねえ・・・、そこで繰り広げられる議論は、まず必ず、法廷さながらの法学的神学論争であり、現実とは関係のない、言葉の上の論理構築になる。そう予想している。

小生の個人的印象だが、もし万々が一こうなるなら、これは民主政治の堕落だ。「堕落」とは一般的に知的な劣化、道徳的な劣化から発することである。ま、そこにはあらゆる劣化が含まれる。思いやりの劣化、信義の劣化、勇気の劣化、その他あらゆる側面が含まれる。そんな全面的劣化現象の主たる原因は、大方の場合、まず教育の退廃にあるものだ。潜在的可能性があるだけに、こんな最悪の状況に至らないことを望む。

2015年5月30日土曜日

ドローンの未来予想図

小生がその昔まだ小役人として某官庁で働いていた時分、コンピューターという用語はあまり使われず、もっぱら「電子計算機」と呼ばれていたことは前にも投稿したことがある。いまでいう「メインフレーム」だ。

仕事を始めたばかりの頃、職場で使われていたのは富士通のFACOM 230-75というマシンだった。その大きさたるや、現在のiPhoneやアンドロイド・タブレットからは想像もできないだろう。その巨体は、役所が入っていたビルの3階の一角を占める情報管理室なるセクションの奥の間に安座していて、運転中は大型の空調を常時回して冷却する必要があった。それでも室内には何となく暖気を含んだ微妙な気流が感じられたものだ。その計算機室は面積でいえば30メートル四方はあったろうか。余りに大容量の電気を食うので、365日連続運転のような稼働は難しく、毎日深夜にその日の利用が終わると一定の手順をへてシャットダウンを繰り返していた。サーバーではなく、あくまで計算機だったのだな。シャットダウン作業を始めてから、外部記憶装置から順に回転が止まり、最後に中央制御装置のランプが自ら消灯するまでに優に15分はかかったろうか・・・。いやまあ、遠い幻影のような風景となった。

細かいことは大分昔のことなので忘れてしまった。当時使われていた大型汎用電子計算機なるものは、コンピューター博物館というサイトに他の機種とともに解説されている。これをみると、演算速度は乗算で11メガフロップス(MFLOPS)、加算で22MFLOPSと書いている。メモリーは主記憶で1メガワード×36ビットと記している。現在は32ビット機も旧式になりつつあり64ビットの時代に入っているが、今流にいえばメモリーは4メガバイト(Mb)相当の水準だろう。

最近になって登場したCPUの動作速度を挙げると、一昔前のWintel機に使われていたペンティアム(Pentium)が300MFLOPSだった。FACOM 230-75の約30倍である。現在、広く使われているCore i7になると、もはやメガではなくてギガとなり、384GFLOPSである。つまり現在の東芝製ダイナブックは博物館で紹介されているかつての大型電子計算機に比べて、概ね3万5千倍の速さで動いている。そしてサイズはというと、30メートル×30メートルの専有面積から20センチ×20センチ程度にまで縮小したのだから、2万2千5百分の1になったと言えるのだな。

ザックリ言えば、サイズが2万分の1になりながら、能力は4万倍の高さに進化したわけだ。これが小生が仕事をしている間に起こったIT分野の技術進歩である。

☆ ☆ ☆

同じスピードの技術進歩がドローンなどの飛行物体製造技術で起こったらどうなるだろうか。現在のドローンは大体1メートル前後の大きさだ。それが2万分の1になれば、1ミリの20分の1、何と0.05ミリという微小物体となる。そして解像力は4万倍だ。飛行可能時間、飛行可能距離も想像を絶するに違いない。

小生は想像するのだが、30年程度の未来には、蜂や蚊よりも小さな人工飛行物体が群れをなして重要な建物の周囲を巡回して飛ぶようになるだろう。そして、不審な侵入者を発見すれば数体の飛行物体が人間の聴覚未満の微音を発しながら侵入者を追尾し、そのあらゆる挙動を警備本部に送信するだろう。話声も内部録音せずにただ転送するだけならデータを記憶する必要はなく設計がシンプルになる。

その情報を解釈し、必要な行動指示を発するのはもはや人間ではないかもしれない。現在急速に発展しつつある機械学習技術に支えられたエキスパートシステムが瞬時に状況を識別し指示を出すものと思われる。時間がもっとも大事だからだ。

商品を自動運送するのにドローンが使われ始めているが、あくまで1台のドローンが荷物を運んでいる。それがいいのか、微小飛行物体の集団が入れ替わりで支えながら運搬するのがいいのか、全く想像もできないが、いつかの時点で選択することになるのだろう。

★ ★ ★

アーサー・クラークの『白鹿亭綺譚』は小生の好きなSF短編集だが、そこに出てくるイメージは決して空想の世界とは言えなくなった。というか、マイケル・クライトンの「プレイ−獲物」により近い未来予想図かもしれない。

SF小説といえば、亡師の奥様が訳されたアシモフの『はだかの太陽』はロボット文明が世界に普及した時代を舞台にしている。イライジャ・ベイリとハリ・セルダンは若い頃に耽読した未来世界の二大ヒーローであったが、またこの齢になってから読みたくなるのは不思議なことだ。ま、こちらの世界はまだまだ遠い先には違いないだろうが。



2015年5月27日水曜日

覚え書―よくあるバグか、Rstudioとknitr

統計ソフト<R>は、統計分析ツールという域を超えて、レポート作成機能もまた飛躍的に強化されている。

小生もデータを変えながら、あるいはサンプルを取り直しながら、再分析・再レポーティングのループを繰り返すことが多い。

そんな場合は、Rstudioで ― 別にRstudioが不可欠ではないが ― Rmdファイル形式に沿って流行の「文芸的プログラミング」をやっている。エディターで編集しておき、出来たらKnit HTMLボタンを何度もクリックすることで共有可能なHTMLファイルが自動で作成できるのは大変便利である。レポート中の数字を修正する手間がなく、グラフのコピペ漏れがなくなる。

× × ×

これまでは読み込むファイルの絶対パスをRmdファイルに明記するのが面倒なため、file.choose関数でファイル選択画面を出していた。

とはいえ、同一ファイルで何度も作業する時にはかえって面倒である。それで、絶対パスを書き入れて、さらにmean関数の中に"na.rm=T"などを適当に挿入してからknitしようとすると、これが動かないのだな。

最初は、パスの中の"\"を"/"に修正したりした。ところが、ある段階でggplot2のグラフ描画で一歩も先に進まなくなった。どうやらrcpp.recorderだったかな、handlerがないと……、同じメッセージがずっと出る。

『ないわけないだろが!』と言っても聞く奴じゃあない

昨日までは文句を言わずにやってくれていたんだがなあ……、こういうことは久しぶりではあるが、多いものだ。こうなると、少々、Googleで調べてみてもらちが明かぬ。

・・・rcppやら、knitrやら、rmarkdownやら、パッケージをアップデートしてみたが、それでもあかん。

最後に、Rを3.1.3から3.2.0にアップデートして、パッケージの総入れ替えをした。そして、最初から同じ作業をやり直してみると、今度はスムーズに完了してHTML文書が出来た次第。コマンド画面、Rstudioいずれでやっても大丈夫だ。

一体、どこに原因があったのだろう。

分からないことは、この世の中に色々とあるものだが、今回の問題発生と解決への道筋が分からぬ。どこぞに不具合の原因があったことは間違いないが、何が解決されたかは分からぬ。案外、単なるバグだったかもしれない。

当面の結論: ある時点で、原因追及に時間を割くのをやめて、システムをそっくり入れ替えてしまうと、うまく行くこともある。

2015年5月24日日曜日

「伝統」とは常に守るべきものではない

和歌山県太地町で行われているイルカ追い込み漁が残酷であるという理由で、日本動物園水族館協会が世界動物園水族館協会(WAZA)から資格停止を告げられ、「追放」の崖っぷちにたって脱退か残存のどちらかを選ぶべく、投票で決をとったところ、やはり数の多い動物園サイドの意向が通り、結果として日本国内の水族館は太地町で捕獲された野性のイルカを今後は購入できない見通しになった。

これはニュースだ。これは日本の伝統的漁法を否定する乱暴な措置だ、と。そんな訳で結構な論議になっている。

★ ★ ★

イルカのショーは小生も数限りなく家族で観たので、なくてもいいだろうと決めつける資格はないのだろう。

でもまあ、率直にいえば、オルカ(=シャチ)のショーをみてしまえば、イルカはなあ・・・野性イルカを捕獲してまでもショーをすることはないだろう。そんな感覚だけどねえ。これが率直なところ。

そのオルカにしたところで、どうやって捕獲したものか、おそらく国内繁殖した個体ではないのだと思うが、詳しいことは知らないので書くことはない。

エンターテインメントの素材として、野生動物を捕獲して何かをさせる。もうそんな時代ではないでしょうとは思う。イルカだけではなく、象やゴリラ、ペンギンなど、今日では映像もあれば、インターネットで誰でも写真付きで調べることが出来る。

故に、イルカショーのために野性イルカを捕獲する必要はない。そんな感想だ。

★ ★ ★

それより引っ掛かりを覚えるのは、伝統的漁法だからこれからも守っていく。これは善い事、というか正しい方針なのだろうか?こんな問いかけもあるだろう。

「伝統」の中には「悪習」もあった。これが歴史だ。廃止された伝統は日本文化の中にも(もちろん)多い。ま、切腹などという作法は武士道の華ではあろうが、今日という時代にそれを守るべきだと支持する人はまずいないと思う。鎌倉武士は犬追物をスポーツとしてたしなみ、武技を鍛えたそうだが、いまやれば動物虐待になる。悪習というわけではないが、お中元やお歳暮、年賀状など、守るべき伝統だろうか。日本伝統の和服や和歌、能を日常的にたしなむ人がいまどの位いるだろう。能などは小生の父の世代までは確かに伝統的な男のたしなみであったようだが・・・。小生は鼓も打たないし、舞も知らない。

悪習であるか、伝統であるか、確かに時代の変化の中で是非は変わり、その意味ではいい加減な判断だが、「進歩」とはそういうものである。

2015年5月22日金曜日

ドローン…、大した問題ではないがなあ

警備当局のおそまつが原因で、首相官邸屋上でドローンが発見されて以来、突如としてドローン、ドローンと連呼される毎日になり、騒動が鎮まる気配がない。

これも幼稚化現象の一例でありましょう。

三社祭その他の地点でドローンを操作し「世を騒がせた」少年が逮捕されてしまい、TVのワイドショーに格好な話題を提供している。

当の少年が話している内容も伝えられている。『法に違反しているわけではない』とか、まあ、当然の反論をしているようだ。

石を投げる行為は法に違反しているわけではないが、投げれば人に当たるかもしれない場所で石を投げて遊べば、「するな」と注意をされるのは当たり前であるし、敢えてすれば拘束されるであろう。警察が動かなければ、周囲にいる多数の群衆から私刑を受けてしまう危険がある。なので、危険行為を反復する年少の児童を拘束する当局の行為は「保護」と呼ぶに値する・・・、とまあ要約すれば理には適っている。

とはいえ、当の少年が話している内容をTV経由で聞く限り、科学・研究に強い関心をもち、友人と遊ぶより自分の関心に集中して追求する性質があり、「実行力」もある人物のようにも憶測される。一般にこうした性向が評価される分野は存在する。

このような少年が潜在的可能性を伸ばしていけないのは、当人にとってと言うより、日本社会にとって、一層大きな不幸である。こんな種類の不幸を繰り返すようなら、愚かであるのは個々の児童ではなく、今の日本社会である。そう思うのだ、な。

ま、どちらにしても操縦免許制など法規制の網がかぶせられる方向に行くのだろう。せめて「原則自由・例外禁止」にしてほしいものだ。日本では一般に何事によらず「原則禁止・例外許可」で事を治める傾向があるので、せっかくのイノベーションの機会をつぶしてしまうのではないかと、そんな一抹の心配がある。

2015年5月19日火曜日

「若者が幼稚化している」という間違い

仕事部屋で書き物をしていると廊下を奇声を発しながら仲間数人とつばえながら(方言ではないと思うので使ったが)ドヤドヤと駈け去っていく。そうかと思うと、踵の高いサンダルをはいてカツカツという音を響かせながら、笑い合いながら通り過ぎていく女子学生たち・・・、こんな風景は少なくとも小生が学生時代にはありえませんでしたなあ、こう言うとすれば小生が齢をとったためだろう。

確かに喧嘩の仕方をしらないとか、一度仲違いをしたら仲直りの機会を見つけることも出来ない等々、若い世代特有に見られる人間関係形成の未熟さが指摘されることもある。う〜ん成る程ねえ、小生もどちらかと言えば「おしゃべりよりは観察、人間よりは自然が好きだがなあ」と。そう感じるが、これだけ頻繁に言われるのだから、一面の真実は含まれている。確かに最近の若年世代は幼稚化している。これは事実なのだろう。

しかし、幼稚化しているのは若年世代だけではない。これまた事実だと思う。大体、TVのワイドショーに出てくる各界の中高年。何と若いことよと画面を通していながらもわかる。オジサン、オバサン達が同世代の仲間達とはしゃぎ回る姿は、小生の亡くなった両親と同国人であるとはとても思われないのだな。自動車の運転ぶりを見てみたまえ。アッと驚くとんでもない暴走や追い越しをしかけているのは、しばしばシルバーグレーの往年の名ドライバーと思われる御仁である。やはり戦争を知らない世代は幼稚化するのかねと。そう思ったりもすることは多い。

しかし、世間では今のオジサン、オバサンが幼稚化しているとは言わない。それは「論評権」なるものを中高年の社内幹部が独占しているからだと思われる。

おそらく若者が起業した会社が成長するに伴って、今後は幼稚化しつつある中高年という批評が広まり、バランスがとれていくだろう。

若者達の幼稚化を心配するなら、日本社会全体の幼稚化がプラスなのか、マイナスなのかを考察するべきである、な。

いまも報道ステーションで第二次大戦末期に日本陸軍がおかした大失敗「インパール作戦」の話しをしていた。もちろん現政権の安保政策を批判しているわけだ。しかし、70年前の歴史的事実に目を向けるなら、同じ時代に源を発する日韓歴史問題も同じレベルの重みで受け取らないといけない。原爆投下についてその是非を考えないといけない。色々な問題が続々と出てくる。本気だろうか。覚悟はあるのだろうか。

ことの一面だけをみて自分の言いたいことをいうのは、ある意味「幼稚」かもねえ……。

と、ここまで書いてきたが、それでは「幼稚化」とは本質的にどんなことを指す言葉なのか。人間のどのような側面がどうであれば、その人は幼稚なのか?どうであれば幼稚ではなく、老成しているというのか。幼稚とは困った性癖なのか。なぜ困るのか。どう困るのか。

こちらの方が面白い問題だろう。

2015年5月18日月曜日

PC環境、最近の収穫の次の一歩

PCというのは小宇宙に似ている、というより人間社会のミニ縮図だと感じることがある。もちろん一つ一つのプログラムが一人の人間に対応している。

相性もあれば、力量の違い、世代ギャップもあるし、得意・不得意もある。つぶしがきいて広汎な利用価値がある、そんなプログラムもある。

そんなPCで最近の収穫について投稿したら、また次の問題が出てきた。

レポート作成に"ipython notebook"は実に便利だ。ただ作業が終わったら、やはり最終版としてPDFにしておきたい。編集を加えられにくいからだ。ところが"***.ipynb"ファイルを"ipython nbconvert"で変換しようとするとエラーメッセージがどうしても出る。デフォールトのHTMLにも変換できない。

とはいえ、出来ないなら出来ないで困らないのも事実だ。何故なら分析はまず全てRでやっており、そのレポートはRStudioからrmarkdown::renderすることでワード文書にできるからだ。図のサイズ、フォント、タイトルの見栄えなどはワードで仕上げるのが最も楽である。そして完成後にワード文書をPDFとして保存し、それを配布する。

それ故、"ipython nbconvert"が動作エラーになっても実際に困っている点はないのだ。ただ本来は出来るはずのことが出来ないのは、気持ちの悪いことである。それだけだ。

やらないと決めれば、本来は出来ることであっても「できない」のと同じだ。絶対しないのであれば、そもそも出来る・出来ないという議論は不必要である。出来ることを出来ないと思い込むのは、認識として間違っており真理には違反しているのだが、しないほうが良いことを出来ないと思い込んでも、不利益になったりすることはない。

それでも、本来は出来るなら出来るような環境整備をしておきたいではないか。環境整備をしても、ipython notebookからipython nbconvertへと作業を進めることは、まずそんな事態は小生の場合はないはずなのだが、でもね・・・。そういう話しである。

いつの間にか、集団安全保障法整備の話しになってしまったか・・・。ま、これはまた別の機会に。

2015年5月17日日曜日

PC環境の最近の収穫

明日は授業があるので今日は何かと忙しいが、virtualbox+ubuntsu+LibreOfficeで日本語入力が可能な状態にまでもっていった。

やはりフリーソフトだねえ。日本語入力がデフォールトではAnthyになるとは最初は知識としてないものだ。ま、ネットという巨大な情報源があるので、どんな新しいことをするにも一人で悩んだり、出来ないといって諦めたりする状況は、基本的には過去のものとなった。そこが最も有難いところだ。

実は、ホストOSをWindows、ゲストOSをLinuxとしたとき、Linuxの中で日本語入力をするなどという事態はあまり考えられない。そんな事態は理屈上まず考えられないというのは、いま世間を騒がせている「周辺事態」の「事態」と同じである。実際にはあるはずもないので、出来ないなら放置しておいても支障はないのだが、それでも出来るはずのことができないというのは気持ちが悪いものだ。ましてWindowsとLinux両方で開くだろう共有ファイルがあるなら尚更のことだ。

大体、WindowsとVirtualマシンで共有ディレクトリーを設定するとき、"sudo gpasswd -a *** vboxsf"の一文を最後に実行しておく、と。誰かに教わらないと普通は気がつかない。この辺りカネをかけずに時間をかける。正にフリーソフトだ―昔は多大な時間をつぎこんだものだ。半分以上のソフトは役に立たず、時間効率性の低下を招いてしまい、それも小生の業績にネガティブな影響を与えたのじゃあないかと、今にして思ったりもするのだが……。

話しを戻す。

これは思わぬ収穫だったと思うのは、WxMaximaが64ビットのWindows7マシン上でスムーズに動作するようになったことだ。どういうわけだか、4年ほど前に買ったLet's Noteで動いているWindows 7 ProfessionalにMaximaをインストールすると正常に動作してくれないので、不自由していたのである。これがubuntsuのバーチャルマシンの中では見事に動いてくれる。あとはPythonの個別のパッケージが、細かい点で予想通りの仕方で動作する。これも挙げておいてよいだろう。

いずれにせよ、Windowsだけではなく、いざとなればLinuxに切り替えて、作業できるというのはツールとして大幅にレベルアップした感がある。それも無料であり、経済的コストはゼロである。

マージナルにどれほどの価値を提供するかはまた別だろうが、疑いなくプラスだ。

『時は金なり」の格言を待つことなく、時間は貴重な資源である。まだこんなプラスの利益をもたらすような投資チャンスが残っていたのだねえ・・・。

2015年5月16日土曜日

アジアインフラ銀行(AIIB)不参加で尾を引く気配はないようだ

中国が主導するアジアインフラ銀行(AIIB)設立メンバーに参加しない決定を日本はしたわけだが、特に尾を引くほどの問題ではなかったようだ。

安保法案閣議決定でそれどころではないという向きもあるかもしれないが、真の政策的失敗が現に発生しているなら、失敗であることが時間の経過とともに露わになっているはずである。

しかし、AIIB不参加が判断ミスであるという批判は大きなうねりになって出てきてはいない。「うねり」どころか、「さざ波」ほどの批判も耳にしない。どうやら、一過性の外交トピックであった。それが話の本質であったのかもしれない。日本国内で中国シンパがプロパガンダを展開していたのかもしれない。ま、解釈は色々とあるだろう。

大前研一氏が以下のように指摘している。
 約50か国が参加表明している中国主導の「アジアインフラ投資銀行(AIIB)」に日本も参加すべきかどうかをめぐり賛否両論が入り乱れている。ドイツ首相からも参加を呼び掛けられ、政府に参加を促す意見が大きくなりつつある。中国は国内事情のためにAIIBを創設するのだと喝破する大前研一氏が、参加するのは愚の骨頂と断言する理由は何か。同氏が解説する。 
 * * *
 これまで中国は世界の歴史に例がないほど長大・膨大な高速道路や高速鉄道、港湾、空港などを建設し、大がかりな都市開発を推進してきた。たとえば、1990年代の初めには16しかなかった100万都市が今や200に上り、高さ200m以上の超高層ビルが345もあって世界一多い。高速鉄道網は2015年末に総延長が2万5000kmに達する計画だ。
 ところが、そういうインフラを建設してきた中国国内の鉄鋼・機械メーカー、鉄道車両メーカー、建設会社、セメントメーカー、デベロッパーなどの“巨大マシン”が、中国経済のスローダウンによって、いま突然止まりかかっている。このままでは巨大マシンが設備過剰で崩壊して国家そのものが破綻しかねない。
 だから、AIIBを創設してそれらの企業を労働者も含めた“人馬一体”で海外に持っていこうとしているのだ。決して一部マスコミが解説している「欧米先進国の金融覇権に対する中国の挑戦」とか「豊富な中国マネーで途上国を潤すため」ではないのである。
 それにヨーロッパ、アジア、中東などの国々が便乗しようとしているわけだが、甘い幻想と言うしかない。
 AIIBは海外で中国企業の仕事を創出することが主目的だから、プロジェクトのメインの部分は中国企業が持っていくので、あとの国の企業は“刺し身のつま”か“ピザ一切れ”になるだけだ。中国主導のプロジェクトの中で、そのおこぼれだけをもらっても、何の意味もないだろう。

(出所)Yahoo!ニュース、NEWS ポストセブン、4月23日

 上で指摘されている目的が100%、それ以外にはない。そんなことはないと思うが、国内で過剰になった土建業に仕事を作ってあげるのは、かつて日本も円借款でやってきたことだけに、容易に理解できることであり、また経済の理屈にかなってもいる。

しかし、産業覇権を握ったあとに金融覇権を狙うというのは、多くの国家が辿ってきた経済覇権の勝利の方程式であるわけで、大前氏の指摘はとっくに分かっていることを別の言葉で言い換えただけだ。ま、そんな風にも言えるかねえ・・・と。日本の円借款もうろん臭げにそんな風に見られていたかもしれないと思うと、ずっと昔に少し携わっていたこともあるだけに、後ろめたい・・・という程ではないが、落ち着かない気持ちになったりする。

2015年5月14日木曜日

雑感: ポスト「資本主義+株式会社」がそろそろ見えてくるのかも

前の投稿を読み返しながら、補足したくなったこと。

資本主義とか、株式会社とか、自由とか、私有財産権とか・・・そんなことよりも社会を構成する個々人のベースにおいて、幸福の提供を約束しえない社会状態は持続不能であろう。持続不能な社会は、長く見ても数十年か百年程度のうちには革命で消え去るものである。

その「幸福」だが、結局は「生きがい」という感情に行きつくのではないかねえ・・・そんな風に思うのだな。

先祖代々の土地を守る、田畑を守る、それでもいいし、暖簾を守る。それが何より大事だと思うなら、自分をころして生きるとしても、生まれて来た甲斐はあるだろう。

夢を実現する。これもいい。親の夢でもいいし、自分の夢でもいい。

何を生きがいにすることが大多数の個人にとって当てはまっているかは、その時代ごとのデモグラフィック(人口構造的)な条件、生産技術上の条件など、置かれた環境から相当程度は決まってくるものだ。

明治維新以来の人口増加を解決するためには、国外に活動の場を日本は求めざるを得なかったわけであり、具体的には移民政策や植民地獲得が国家的な<是>となり、政策を形成していったわけである。日本の近代史を人口構造という面からかなりの部分は説明できる。そう考えることも大変多いのだ。

人口構造が社会の在り方や国の運命を決めたという点は、18世紀の清朝・乾隆帝の黄金時代に豊かな社会を実現し、それが人口爆発を招いたことで19世紀の停滞へつながっていった中国と正に歴史的位相においては重なっているわけだ。一方は生活水準が低下して閉塞感が漂い、他方は国外へと爆発した。

いずれにせよ、今後の日本は、超・高齢化から人口減少社会へ移行する。国内市場は縮小する。そこで<是>とされることは、これまで<是>とされてきたことと全く違ったものになる可能性が高い。

生きがいや幸福の形が違ったものに変わっていくのであれば、それを摩擦なく、スムーズに変えていけるようにルールや制度を変えていく。できれば誘導していく。いま大事なことはそんなことであろう。

株式会社は資本主義を支える柱の一つである。その株式会社は、広く投資家から資金を調達して事業を行うのだが、その根底には富裕層の金銭欲が原動力として働いている。利益拡大には市場の拡大、競合企業を打倒して顧客を奪うことが必要である。

そんな組織行動原理がこれからも<是>とされていくであろうという根拠はなくなってきた・・・そう思うことが増えてきた。

強欲を原理としない組織行動は、国家が運営する組織か、そうでなければ利益拡大を否定した協同組合しか思いつかない。

若ければライフワークにしても面白かったろうなあ・・・海流の流れる方向を変えるなど誰にもできないし、時代の進展はただ視るよりほかに仕方がないのだけどね。

結論: 日本の多くの株式会社は社員に対して幸福な人生を提供できなくなりつつある。トレンドとしてそうだと思う。「顧客志向」の理念はせいぜいが闇夜を照らす懐中電灯くらいの役回りにとどまるのかもしれない。

2015年5月12日火曜日

顧客サービスに働き甲斐を感じるか

隣町にあるサテライトに配置されているPCにRとRコマンダーをインストールしておこうと思い、昨日、出かけてきた。ネット経由でやるのが当たり前だが、セキュリティ管理が厳重すぎるのだろうか、接続はできるのだが、ダウンロードが進行しないのだな。原因はよく分からない。だからR本体とパッケージ90個をUSBに入れて持参した。切った貼ったの原始的なインストールだ。

それにしても今年度の統計分析の授業は、コマンド画面ではなくメニュー式にしてRコマンダーを使うことにしたのだが、おかげで環境整備が面倒になって、簡単インストール一発ではすまなくなった。履修者が所有するPCにまで残らずRコマンダーのインストールを求める授業スタイルはあまりないのではないか。これ自体がギャンブルだ。

とはいえ、R本体は一発インストール。Rコマンダーだって、ネットに接続したうえでRを起動させて、あとはパッケージインストーラーを選ぶだけだ。何ということはない作業なのだけどねえ・・・。なぜ難しいのかわからぬ。

まあ、実習用PCの3台にでも入れておけば、あとは「駄目ならそれを使え」と。そういう方式にせざるを得まい。

作業でうっかり忘れたことが二つある。一つは、"C:\Program Files\R\R-3.1.3\etc"ディレクトリーのRconsoleを編集し忘れた。Rコマンダーの使用が前提なので、その中の"mdi"を"no"(=sdi)に変更しておくべきだった。それと、Rの起動アイコンのプロパティを編集して、"C:\Program Files\R\R-3.1.3\bin\x64\Rgui.exe" R_DEFAULT_PACKAGES="Rcmdr"にしておくと更によかったはずだ。Rコマンダーが自動で立ち上がるから。まあ、ここまでしなくともコマンド画面から "library(Rcmdr)"と打てばいいわけなのだが、これをキーボードから入力することも難しいと感じる履修者がいる可能性がある。これも教育産業における顧客サービスである。

本当は個々の履修者が成長していく潜在的可能性をお節介をやくことによって奪っているのが現実なのであるが、そのことを理解する学生は案外いないものである。

まずは『使いづらい箇所があったら、言ってください』、当面はこの位でお茶を濁しておくとするか。

× × ×

その帰り、バスで大学に戻る途中のことだ。

ある信号でバスが停まった時、ふと窓の外をみると年齢は20代後半だろうか、ちょうど小生の愚息と同じ年頃の一人の青年が立っている。と、信号が青に変わり歩き始めた。スーツは最近の流行に沿って上着の丈が非常に短めで、ウェストを相当絞ってあつらえている。その上着のボタンをとめ、右手には上等の鞄をさげているから、どこから見ても有望な若手営業マンである。ところが、歩いている姿は下向き加減で元気がない。疲れ果てているのか・・・、そうか3時を過ぎて一度社に戻っているのか。それにしても元気がないなあ。『会社、辞めんなよ。ところで、その服、きつかないか?』、そんな感覚で、その若者を目で追ったのだな。

帰宅してカミさんにその青年の話をする。

カミさん: 会社の中で事務をやっていれば楽なんだろうけどねえ。 
小生: だけど、外回りの営業はしんどいけど、大手柄をたてるチャンスでもあるんだよ。大きな獲物をとってくれば出世もできるんだからさ。ま、失敗すれば怒られるし、評価も下がるけどね。 
カミさん: 最近の若い人は裏方の仕事が好きみたいよ。 
小生: 安定してるからかなあ・・・だけど一定の仕事を安定してやるだけなら、評価もされないよ。評価されなきゃ、給料も上がらないだろ。 
カミさん: いいんじゃないの。 
小生: う~ん、おれのとは違うなあ。希望がもてん。

こんな話をしたのだが、最後まで残った思いは『会社に採用されて仕事をすれば給料はもらえるが、何を生きがいにして生きていけるのか、いまの時代に』、こんなことだ。亡くなった父の時代は働けば働くほど会社が成長した。小生の時代は解決するべき負の問題が山積みだった。生き残るために構造改革とリストラに手を付ける必要があった。

今後の日本。やりようによっては、会社は成長しない。勝負をかけるチャンスは少ない。大企業で取締役になるチャンスがどれほどあるか。命令に従い、指示を守り、会社につくすのは良いが、自分をころして組織に従うモチベーションはあるのだろうか。人生は一度きりなのだ。

ま、それでも目的を与え、士気を奮い立たせるのがトップの仕事だ。いくら嫌われても海外に進出すればいいのだ。それって経済的侵略主義になるのか?いや経済は相互利益になっていなければ持続不能だ。そこが軍事とは違う。軍事は相手から奪うが、ビジネスは新しいものを造る。ともかく、時代の風に乗って、みんなで成長できる見込みはもはやない。ライバルを食わないと成長しない。そんな時代のトップは相当のワルでないと務まらない。それは分かってはいるが、ついていくのも大変だ。これからビジネスマンになる若者は何を生きがいに仕事をしていくのだろう。



2015年5月10日日曜日

「専門職大学」…どこがどう新しいのだろうか

専門学校や短大を専門職大学に衣替えしようという構想が本日の道新で報道されている。

対象は高校新卒や社会人で、分野としてはIT技術や美容(理容もだろう、名は示されていないが)、観光、福祉などが候補とのこと。

問題は教員の確保や経営面だとの説明だ。

★ ★ ★

よく分からないのだが、手に技をつけるという時、学歴は関係するのだろうか。

短大や専門学校より「専門職大学卒」でありたいと。本当にこれが現在の日本社会で求められていることなのだろうか?職人の腕と学制上の学歴は関係ないと思うがなあ・・・。

分からぬ。なぜこんなことで人的・時間的エネルギーを割こうとするのか・・・。

★ ★ ★

職業教育の充実をやるなら高校を出るまで待つことなく、16歳から20歳までの期間に世界のどこでも食べていける技術を身につけられれば、その方が良いのではないか。というか、緊急の課題ではないのか。

級別職業資格を制度化して技量がどこででも認められるようにしておくことも必要だろう。「一級寿司調理師」とか、「二級美容師」などである。そしてTPPなど一定の自由経済圏(EPA)内では職業資格がそのまま通用するようにすれば、後は言葉だけである。もちろん、先方に職業市場を開放してほしいなら、当方も開放しないといけない。要するに、どこにでも行って生きていけることが大事だと思うのだ、な。技はそのためにつける。

更に、経営学・会計学・組織運営上の知識を広げようとする志願者には短期集中教育を随時利用できれば尚更よいに決まっている。

一体、専門学校や短大を専門職大学にすることのどこが新しいのか。ビジネスの基本である『誰のために、何を、どのように提供するのか』、そこが見えてきませぬ。

ひょっとして「助成金」か・・・。現実に合わせて法制を変えるのではなく、法制に合うように現実を変えるのか・・・いや、全く見当がつきませぬ。

2015年5月8日金曜日

韓国外交戦略の正義と失敗

韓国の外交が揺れているようだ。

特に、安倍総理が習近平・中国国家主席と本年4月22日に訪問先のインドネシアで会談をしたことは相当の衝撃であったらしく、その後、4月29日に(昭和天皇の誕生日という日程からも右翼政治家・安倍首相の情念をみてとれるが)米国議会で演説をしたところ、毀誉褒貶があるもののマアマアの反応を得て、韓国内で外交戦略失敗を批判する声が高まっていると伝えられている。

近年の韓国外交は全方位バランス外交を展開する中で、歴史問題で日本を批判し、日本の外堀を埋めることによって、日本が苦境に陥った時点で交渉上の優位を形成する。ここに目的があったものと憶測される。

首脳会談を一貫して拒否してきたが、今後ずっと拒否するのではなく、対日優位が確証された時点で会談を行うという戦略であったに違いない。

いわば対日間接アプローチ戦略であったと言える。それが功を奏しなかったのは何故かという疑問が出てきているわけである。

☆ ☆ ☆

やはり韓国一国で―中国の支援があったにせよ―日韓という二国間の紛糾事案を人権という次元で問題提起し、国際的理解を拡大させるのは高すぎるハードルであった。というのは、どこの国にも多数の人権を蹂躙してきたという過去は、当の韓国、そして中国も含めて、存在するからである。

だとすれば、現実には二国間の事案であるのだから、主張したいことは首脳レベルの議案にし、発言し、主張することが重要であったろう。

首脳会談が激しく紛糾し、劇場化すれば、韓国の基本戦略はあるいは成功していたかもしれないのである。
誠者、天之道也、思誠者、人之道也。 至誠而不動者、未之有也。 不誠、未有能動者也。
(出所)孟子「離婁上」

誠は天の道なり。至誠にして動かざる者はいまだこれあらざるなり。
韓国は吉田松陰という人間に唾棄したい感情を抱くだろうが、松陰が何度も口にしていた言葉は孟子である。

韓国は日本側から首脳会談を断らせる。日本がそうせざるをえない状況を作るべきであったし、韓国の経済的国力が日本に及ばないとしても、また対米影響力が日本に及ばないとしても、そんな状況をつくれる可能性は少なからずあったと思う。

従軍慰安婦という事案は、つつけばつつくほど不誠実や作為性が混じっていると思うが、基本は本筋をついた人権に沿った問題提起であるだけに、韓国のために少々残念、というか「あたら勝てる試合を負けにした」行為を惜しむ気持ちになってしまうのだ、な。

2015年5月6日水曜日

高齢層・低幸福度のパズル

日本経済新聞の『経済教室』欄はゼミの教材、講義の話題、入試問題作問の素材等々、大学にいる人間にとっては実に多用途に使える便利な存在だ。実は、その下で連載されている「やさしい経済学」も多くのファンがいるに違いない。最近のテーマは「幸福度」である。横浜市大の白石小百合氏が執筆している。

たとえば世帯の収入合計が増えると幸福度は傾向として上がる。この点には誰もが納得できる。結婚している人は独身の人よりも平均的には幸福度が上がる傾向にある。ふ〜む、そうですか、そうなんだろうね、と。中々面白い。

では年齢が上がるにつれて幸福度はどうなるか?

海外では、若い時分に幸福度は高く、その後はいったん低下した後、齢をとってからは再び幸福度が上がる。そんな「U字型」幸福度というパターンが当てはまっている。ところが、日本ではそうはならず、年齢とともに単調に幸福度が下がっている。これは何故か?
大阪大学の研究グループの調査によると、日本ではU字型ではなく、高齢になるほど幸福度が下がるという結果になっています。既婚者の幸福度は未婚者より高いということは各国共通の現象です。
(出所)日本経済新聞、2015年5月6日

高齢層は実は所得不平等度が最も高くなる年齢層である。資産不平等度も同じく最高にある。一般に不平等な境遇にあるとき人は不幸になる。そんな普遍的事実の反映であるかもしれない。しかし、高齢層で不平等度が上がるのは、生涯を通じた競争の結果である面があり、故に世界的に観察できる共通の事実である。それでも、海外の高齢者は満足して幸福度の高い人生をおくっている。これは何故か?

「団塊の世代」という世代固有の属性による。これが提案したい仮説だ。以前にも本ブログに「高齢化社会、その光と陰」というテーマで書いたことがある。大元は内閣府のDPである。
図をクリックして拡大してご覧頂きたいのだが、青い矢印はいわゆる<団塊世代>の満足感であって、上図全体としては各年齢層の満足感がどのようであったかという中で、団塊世代の数字がどのように推移してきたかを伝えている。そんなグラフなのである。 
これを見ると、時代を通して、団塊世代が生活満足感のボトムを一貫して形成している。他の世代は、団塊世代よりは高い満足を感じながら暮らしている。そんな事情が見て取れるだろう。面白くもあるが、やっぱりなあ、そんな感懐も覚えるのだ。
いま少子高齢化の中で高齢者の比率が非常に高くなりつつあるのだが、その高齢者の中で団塊世代の人たちが増えてきている。その人達が持っている低い満足感が社会全体の満足感を決定しつつある。そんな事情もあると思われる。
(出所)本ブログ、2011年7月12日

故に、現在の日本で観察される年齢別の幸福度は一過性の現象であり、時間の経過とともに海外で共通に認められるパターンに回帰していくものと予想する。

この予想はかなり確度が高いと思うが、それでもなお残るのは「団塊の世代で幸福度が下がるのは何故か」という疑問である。

2015年5月5日火曜日

ヤレヤレ今度は「世界遺産登録騒動」が起こるのか

八幡製鉄所や軍艦島など九州・山口に散在する「明治日本の産業革命遺産」を世界遺産として登録するべきとの勧告がユネスコ諮問機関から出された。名称も「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」に変更するよう言われているようだ。

キリスト教伝来を伝える長崎の教会群が対抗馬であったらしいが、日本ではあくまで産業革命遺産を優先したようだ。

それはやっぱり山口県も関係するからだろう・・・と、誰でも思うだろうねえ。しかし、八幡製鉄所や長崎造船所はともかく、山口県にどんな遺産施設があっただろう。勉強不足もあって、そんな疑問はあった。すると、ヤハリ見つかりました。吉田松陰の松下村塾。今年のNHK大河ドラマの舞台でもある。

最終的には7月にドイツで開催される世界遺産委員会で決定されるが、委員国に韓国も入っており、韓国は今回の勧告には絶対反対であると伝えられている。紛糾は必至だが、これまで本委員会で勧告が覆ったことはないという、イヤ稀だときく。が、あまりに激論になれば、国際機関の文化的活動には馴染まないので残念ながら決定見送りになる可能性はあるようだ。

★ ★ ★

率直なところ、小生の感覚とは違うなあ・・・。

まあ、明治維新論をブログという場で語っても仕方がないし、専門分野でもない。

しかし、松下村塾が・・・。絶句するねえ。こりゃあ韓国も反対するはずだ、この点だけは小生もどこか共感できるような気がする。

松蔭の思想の根幹は進んだ文明に帰服する王化思想にあると見ているが、同時に水戸学流の尊皇思想もあり、故に文明的に(=産業面で)先行する国が遅れた国を指導するのは当たり前であるという侵略正当化論というか、一つの思想につながりがちである。武力よりも文明を重視する姿勢はなるほど尊重できるが、それが日本固有の皇室崇敬と合体すると、極めて危ない。大陸からみると極めて危険な侵略政策につながりやすいのは、古代の神功皇后による『三韓征伐』以来、「倭冦」という言葉が使われていることからも窺われる。相手からみれば「倭冦」であっても、日本から見れば「征伐」となる。吉田松陰という人は、そんな思想を実践する明治期の政治家を「育てた」と言えばまだいいが、「煽動」したと言われても仕方のない意見を実際に書き残している。

そもそも、その時点の政府である幕府からみれば、吉田松陰という長州人は罪人である。にも関わらず、吉田松陰を礼賛するのは、一つの革命思想を是としているのであって、倒幕・戊辰戦争絶対正義論に立っているわけである。この点にも、最近は違う見方が歴史学界では出てきていると耳にしている — もちろん明治維新で成立した政府は1945年の敗戦で倒壊した。ついでに敷衍すれば、韓国で安重根を崇敬する思想と長州の流れを汲む人たちが吉田松陰を尊敬する立場とどこが異なるだろうか。

ま、どちらにしても、不毛の議論である。が、また一騒動おこりそうだ。

事情は政治的にも色々とあるのだろうが、より歴史のある長崎の教会群で良かったのではないのかねえ・・・。

★ ★ ★

今年の憲法記念日は例年になく盛り上がったようだ。というか、盛り上がるべきタイミングであった。

分からない点が一つある。自民党の憲法改正草案。天皇は国家元首であると規定されている。その点は前にもこのブログに書いたことがある。

国家元首ではあるが、天皇は国政に関する権能はもたず、自衛のための武力行使ももっぱら内閣が責任をもつ。「国防軍」も総理大臣の指揮に置かれる。

昔の征夷大将軍が今の総理大臣になったと思えばいいかもしれない。長期安定政権を維持する大首相が時に「幕府」だと批判されるのも理解できるというものだ

ま、ドイツ連邦軍も国家元首である大統領が指揮するわけではなく、戦時においては首相が最高司令官になる。

明治・日本はプロシアの法制に学んだ所が多かったようだが、今に至っても日独はどこか似た道を歩んでいる。歴史も思想もまったく違うのに不思議だ。



2015年5月4日月曜日

パターン認識技術の処理時間比較

機械学習といえばパターン認識を連想するくらいに密接な関係がある。

そしてパターン認識といえばビッグデータという言葉を連想する。さらに、ビッグデータを処理する技術は計算速度を重視するであろうという点も最初は思い込みの範囲にあるだろう。

簡単な実験をして当然の結果を再確認したのでメモに残しておこう。使ったデータファイルは尾崎隆『ビジネスに生かすデータマイニング』第8章でとり上げられているもので、自由にダウンロードできる。ソーシャルゲームサービスの継続利用を調べたデータ("ch8_train.txt")である。

本の中ではサポートベクトルマシンとランダムフォレストで継続利用を予測していたが、予測するためなら一般線形モデル(GLM)や樹形図分析(RPARTなど)も役に立つ。そこで処理時間を比較した。

require(rbenchmark)
jikan <- benchmark(
glm(label~.,data=d.train,family=binomial),
rpart(label~.,data=d.train,method="class"),
svm(label~.,data=d.train),
randomForest(label~.,data=d.train) 
)

結果は以下のようになった。

> jikan[order(jikan$elapsed),]
   test replications elapsed
1  glm          100    9.21
2  rpart        100    9.36
4  randomForest 100  236.56
3  svm          100  408.38
  relative user.self sys.self user.child sys.child
1    1.000      9.19     0.01         NA        NA
2    1.016      9.34     0.00         NA        NA
4   25.685    225.75    10.57         NA        NA
3   44.341    406.60     1.38         NA        NA

機械学習の定番ツールとされるSupport Vector MachineとRandom Forestは格段に遅い。


まあ、これもまた当然の結果であるわけで以下のようにまとめておいた。

  1. GLMの計算速度が最も速く、RPARTがわずかな差でそれに次ぐ。
  2. 機械学習の定番ツールであるSVM(Support Vector Machine)とRandomForestは格段に時間がかかる。RandomForestは単純な樹形図を多数回反復する手法だから時間がかかって当然だが、SVMが最も遅い結果は(やってみるまでは)意外に感じるだろう。
  3. RandomForestやSVMは計算に時間がかかるという欠点がある。にもかかわらず有用であるとされ、定番になっているのは、非線形識別を可能にしていること、それ故に予測力が格段に上がっていることが挙げられよう。即ち、学習能力のレベルが高いという点に要約される。
  4. ニューラルネットも比較の対象に含めるべきだった。
  5. 今回のデータの場合、どの程度まで予測力が上がっているか。これを検証したうえでいずれの予測技術を用いるかを選択するべきだろう。
  6. 上で用いたデータは1万件であるが、ビッグデータサイズになった時に、それぞれの方法がどの程度の頑健性を示すかについては未確認である。
  7. もちろん上の処理時間はRという特定の処理系によるもので、それぞれの分析手法に本来含まれる特性を反映するものではないと考える余地はある。

いずれにしても、以前の共同利用施設「大型計算機センター」ではCPU時間に応じて課金がされていたわけで、少なくとも対象となっている個々のデータについて余程の予測能力向上が確証されない限り、現在の機械学習ツールは実際には使われないのではないか。そんな気もしたのであった。

何でもそうだが、「パワーアップの代償」は常にあるものだ。

その代償を支払っても、機械学習から人工知能への道筋にあるのは伝統的なモデル推定ではあるまい。『モデルはまず間違っている。しかしあるものは役に立つ』、一昨年に亡くなったGeorge Boxが語ったように、学習して進化するプロセスを内生化した方法がやはり今後の統計分析の本流なのだろう。

とはいえ、CPU能力がもう一段高速化されないとねえ・・・、かつ求めやすい低価格であることも必要か。幼いレベルから人知をはるかに上回るレベルにまで成長できる本格的なロボットが市場に登場する日もすぐそこまで来ているかもしれない。

2015年5月2日土曜日

悪いデータを探せばいつでも見つかるものだ

病気を探せば、悪いところはいつでも見つかるものだ。

景気が悪くなるのじゃないかと、悪いデータを探せば、それなりに悪いデータが出てくるものだ。

本日の日経記事は
「変調」米景気 NY5番街を歩いて見えた実相
というもの。

個別企業で賃上げの動きは出てきたが、点が線につながるには時間がかかりそうだ。3月の勤め人一人あたりの平均時給は前年同月比2.1%増の24ドル余り。10年以降、伸び率は2%前後を行ったり来たりで、08年のように3%台に乗せる兆しは少ない。米連邦準備理事会(FRB)の地区連銀経済報告によると、賃上げを通じて人材獲得が過熱しているのは「IT(情報技術)など一部の専門職」で、賃金全体の底上げは「緩やか」にとどまる。主な景気指標でほぼ唯一安定していた雇用統計も、3月は非農業部門雇用者の増加数が12万人余りと1年3カ月ぶりの低水準となり市場関係者を慌てさせた。
(出所)日本経済新聞、NQNウィークエンドスペシャル、2015-05-02

まるでバブル崩壊後の日本経済と相似形である点を強調したいがようである―もちろんアメリカ経済と日本経済とでは同じバブル崩壊後であっても、データを見ればパフォーマンスが全く違うのは明らかだ。ま、リーマン危機が起こった2008年からまだ7年もたっていないわけだが。いずれにせよ、今のアメリカ経済に日本の「失われた20年」を投影する発想は的外れだろう。

それにしても3月の非農業雇用者数をみて市場関係者は慌てたと言っているが、どうなのかなあ・・・ちょっと眉唾ものだと感じる。裏には何か素人を誘導しようという玄人側の無意識の企てがあるようだ。そんな香りがする。

確かに雇用者数の前月差をみると3月は126千人増であったから増勢は鈍化したと。そう言うなら、それを否定はしない。




上がそのグラフだが、『だからどうなの?』。毎月の増減は、上がったり下がったりしている。凸凹は経済データにつきものだ。『今月はたまたまあまり増えなかったんですよね』と言われれば、素人は「そうみたいですねえ」と、そのまま納得する動きではないか。そうは言っていない点こそ鍵である。


上図は同じ非農業雇用者数を前年同月差でみたものだ。1年前と比べて本年3月の雇用状況は格段に改善されている。改善のテンポが非常に速いため、4月にはその反動が出るのではないか。そんな心配すらある。

どちらにしても、アメリカの雇用状況は全く心配はない。

☆ ☆ ☆

にもかかわらず、悪いニュースを探しているのは、株価は下がるかもしれないと伝えたいためだ。そう勘繰る余地はある。

株価が下がると分かっていれば、分かっている人は必ず儲けられる。

そもそも5月には株価は下がることが多いと多数の人は知っている。なので、少し下がるだけでは株を売らない。しかし、いまの低下には実体経済の裏付けがあるのだと思えば、やはり売るだろう。

最近の悪いデータはビジネス・ツールなのだ。そ~んな気がしますがなあ……

経済データ自体はウソではない。無機的な数字である。しかし、それを語るのは邪念に満ちた人間であると言うのは厳しすぎるか。

経済データを語る玄人たちは、自らも投資を行っている当事者であることが多い。いわゆる「市場関係者」と一般の素人投資家の間には利益相反の関係がある。これまた事実だろう。